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第三話「ローファイボーイ・ファイターガール」

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「お前、男と会っていたそうだな」
 夕食時に唐突に父惣治の口から出た言葉に、律花は正直戸惑った。それから直ぐに向かいに座る兄の仕業だと考え、ちらりと彼の方を一瞥する。兄、奏汰はにやにやと薄ら笑いを浮かべながら無言でスープを啜っている。
「私の不注意を救ってくれた人です。別に何か関係があるわけではありません」
 さらりと言って律花は再び食事に戻る。
 夕食時に時々ある事だった。私立の女子校に通い、且つ優秀な成績をキープし続けている律花に変な虫がついてはいけないと彼は時折律花の情報を共有しようと図る。優秀で、清潔な白部律花を作りたい父にとってそれは重要な事なのだろう。
 初めの頃は戸惑っていた律花も、高校生ともなると慣れ始め、簡単にあしらう事が出来るようになっていた。モッシュピット以外で問題を起こさなければいいのだから簡単なものだ。
「何をした?」
 感情を感じさせない冷たく低い声で惣治は尋ねる。
「事故に遭いそうになったところを助けて頂きました」
「事故?」
「階段を踏み外しかけたんです。私が」
「怪我は無いのか?」
 律花は頷く。
「相手方に怪我は無かったのか?」
「怪我はありませんでしたが」
「なかったが?」
「その人、楽器を持っていたのですが、それが酷く損傷してしまったみたいで……」
 ああ、と律花は言葉を漏らすと更に言葉を続ける。
「出来ればその楽器を弁償したいと思っているのです。ただ私はそんなにお金を持っていません。お父様には申し訳無いのですが、いずれしっかりとお返ししますので、お金を貸していただく事はできませんでしょうか?」
――無言。律花が一番緊張するのは、父が何も言わなくなった時だった。喋っていればそれとなく返答の手段を探しだして無難な返答を返せるが、無言だとどう対応していいのか分からない。ちらりと母、花江を見るが、彼女も律花と同じようにどう言葉を掛けたものかと困っているらしい。
 惣治は食事を終えると、花江に珈琲を注文した。
「別に返すことを考えなくてもいい。お前なりに相手に筋を通したいという考えなのだろう。それに楽器となればそれなりの金額はするだろうし、相手も困るだろう。弁償に行って来なさい」
 律花は安堵に胸をなでおろす。珈琲のカップを持ってきた花江と一瞬目が合って、その安堵を二人で共有した。
「本当にそんな理由で男と会っていたのかな」
 その空気に水を指した声があった。奏汰は笑みを浮かべながらそう口にすると、出された珈琲を口にする。
「兄さんは黙ってて。私の問題なんだから」
「俺はお前が心配なんだよ。受験だって控えてるのに男と会ってなんていたら……」
「奏汰」父の言葉がすとん、と二人の音を切り落とした。「お前が心配する事じゃない」
 奏汰は席を立つと、小さく舌打ちをしてからリビングを出て行ってしまう。追うべきか花江は悩んでいたようだが、邪険に扱われるのは目に見えているからか、結局俯きながら彼が一口だけ飲んだ珈琲を下げ始める。
「律花、もう一度聞くが、その男性とは何もないんだな?」
「恩人なだけです」
「ならいい。問題を起こされて推薦に響いたらそれこそ厄介だからな」
 それだけ口にすると惣治は席を立って行ってしまった。また書斎に篭って仕事に耽るのだろう。律花は出て行くその背中を見ながら、少しだけ表情を歪めた。
「その人にはちゃんとお礼、言わないといけないわね」
 律花の前に紅茶を置くと、花江は向かいに座ってそっと微笑んだ。律花も笑みを返すと、うん、と柔らかな声と共に頷く。
「それで、どんな人なの?」
「別に、普通の大学生で、バンドやってる人って事くらいしか知らない」
「会ってどんなお話したの?」
「大した事は話してないよ。普通にお礼しただけ」
 相手に大分興味を持っているのか、それとも律花の緊張をほぐそうとしているのか、花江は娘に幾つも質問をしながら、他愛無い会話を続けた。
 惣治の前では力になれない自分を心苦しく思っている部分も、恐らくあったのだろう。


 部屋に戻って、律花は勉強机に座ると、周囲を見て回る。ポスター一つ張られていない部屋は簡素で、どうしても律花にはつまらなく見えた。ベッドと、本棚には学習本とクラシックの音源。両開きのクローゼットの扉にはいつも着ている制服。律花はそれらを見ながら頬杖をつくと、小さな溜息を一つ吐き出した。
 それから鞄を取り出すとキャップ帽を取り出して、後ろについた缶バッジを一つ撫でてみる。犬っぽいキャラクターの描かれたオレンジ色の缶バッジが光を受けて輝いている。
 彼の前で戦ってみせた後に貰ったものだった。彼は酷く興奮した様子で、ずっと探してた景色がどうたらとか、君みたいな人が見たかったとかマシンガンみたいに言葉を乱射すると最後にこのバッジを律花の手に握らせて、微笑んでみせたのだった。

『カッコ良かったよ、律花』

 キャップ帽をしまうと、律花は大きく背伸びをして参考書を開いた。疲れは無い。来週の金曜日まで時間もある。その間に出来る限りの予習を終えて、出来る限りモッシュピットに充てられる時間を増やしたい。
 カッコ良いと言われると、なんだか嬉しかった。
 誰かの期待に応え続ける自分ではなく、ムーンマーガレットとして思いのままにモッシュピットを駆け巡る白部律花を肯定してもらえたのは、初めてだったから。
 でも、彼とはあの一回きりで終わりだ。
 現実に干渉してくる可能性のある人と付き合うのは、あまりにもリスクが大きい。
 せめて、同じ女性であったならまだ話は別だったかもしれないが、男性の知り合いは、「期待されている白部律花」には要らない要素でしかない……。

   ・

 携帯が鳴る。幼い頃からずっと変わらない大好きだったアニメのテーマソング。ディスプレイには「沙原壮平」という字と、バンドメンバーで撮った写真が表示されている。鳴海は暫く取るべきか悩んでいたが、いつになっても途切れないコールに負けた。
『よう、元気か?』
 随分と久しぶりに聞いた声だった。それもそうだ。少なくともあの金曜日から一週間近く顔を合わせていなかったのだから。学部は違うが昼食も一緒に取っていたし、放課後だってよく考えたら一緒だった親友だ。
「久しぶり」
『なんだよ、一週間会わなかったくらいで久しぶりか?』
 スピーカー越しにカラカラと笑う声が聞こえる。間近でいつも聞いていた筈の声は、どうしてか今は遠く感じる。
「今は何してる?」
『講義だよ。流石に留年は逃れたいし、学生としてやることはやっておかないとな』
「学問も音楽もきっちり熟してるわけか。律儀だな」
『なあ、それでお前は決めたのか?』
 気楽な会話へ続く道を、沙原は切り落とす。鳴海は押し黙ると、目を閉じて俯いた。
 分かっていた。きっと次に彼と話す時は、自分の道を一つ選択する時になるということくらい。
 ただ、心のどこかにあったのだ。気楽に馬鹿話に洒落こんでそのまま互いに有耶無耶のまま終わってくれるんじゃ無いかってことを。
「……もう少しで、答えがつきそうなんだ」
『そんなに待てない』
「多分、来週の金曜日、そこで自分の中の答えが出ると思うんだ」
『金曜日?』
「そう、週末。それが終わったら、ハッキリと答えを出す」
 頼む、と言った声は震えていた。なんだ、俺は心の何処かで今の居場所を逃したくないと思っているのか。いや、そんなのはこうして答えを先延ばしにしている時点で分かりきったことだ。きっと、沙原だって同じように思っているはずだ。
 鳴海にとって、沙原は親友なのだから。それくらい分かっているに決まっている。
 暫く、沙原は何も言わなかった。このまま鳴海を切り捨ててしまっても、仕方のないことだった。
『土曜の昼に、会おう』
 それだけ言って、沙原は電話を切った。
 通話の切れた携帯を眺め、それから鳴海は空を仰いだ。ありがとう、と呟いた声は空に溶けて消えていく。失った弦の音が再生される。太くて伸びの良い低音が。


 自宅に到着した鳴海は、鍵を開けて部屋に入ると、背負っていた肩提げのポーチをベッドに投げて、中央に置かれたテーブルの前にどっかりと胡座をかく。アクリル製の透明なテーブルの上にはノートパソコンが置かれている。その奥にはテレビとスピーカー、オーディオ機器が並び、窓際には中央で不自然に折れ曲がった中身の入ったギグバッグが置かれている。
 パソコンを開くと、鳴海はここ数日で調べた情報のスクラップを呼び起こす。
 律花に助けられてから、律花の戦闘を見て、先程の電話がかかってくるまでに鳴海が調べていた情報がそこにまとまっている。ポーチから幾つかの切り抜きを取り出すとベッドの下からクリアファイルを取り出して、そこに挟んだ。
 数日の間の自殺に関する事件や、暴力行為、殺人等の事件を探しまわってみていた。特に近隣住民の情報で「人が変わったように」という言葉を見かける事件ほど、鳴海は重要と考えて動いていた。鳴海自身が遭遇したモッシュピットの周辺に限定して調べてみたところ、ここ一年だけでも二十件程ヒットした。住民の意見なんてたかが知れているが、この場所を通った可能性のある人物が突然人が変わったようになっているところを考えれば、少なくはない件数だった。先日律花の言っていた「襲われると人が変わる」というのは、事実なのだろう。
 そして、更に一年程遡ってみたところ、それまで月に一つか二つだった件数が跳ね上がって二桁台に突入している箇所があった。これも律花の言っていたプレイヤーが減少した際に起こった事件なのだろう。
 プレイヤーがいることで、本来起こりえなかった事件を幾つも防げていると考えれば、確かにあの行為は悪い事でもないのだろう。
 ただ、同時に気になることがあった。鳴海は腕組みをして唸る。
 モッシュピットに関連する情報がまるで存在しないことだ。事件との関連性を探っていく間にこのモッシュピットにぶつかる事があっても良いと思うのだが、どうにもぶつからない。プレイヤーと名乗る人物が逮捕されることも無ければ、被害者があの場所に関して述べることも無いのだ。
 あれだけ超常的な現象が起きているのにも関わらず、何もしないということは、ありえないのでは無いだろうか。
 鳴海は暫く唸った後、携帯を取り出して一人の人物に連絡を取る事にする。
『もしもし』
「どうも池田さん、古都原です」
 通話先の相手は暫く黙りこみ、それからああ、君かと愉快そうに口にした。
「先日は突然連絡先を教えて欲しいなんて言って、すみませんでした」
『いや、いいよ。今日は身体がだるくてね、どうにも外出は出来そうにないから』
 池田孝之。律花とブッキングした黒いSGを使っている男性だ。
 鳴海は戦闘後に彼に連絡先を貰っていた。出来るだけ身分を隠したがる律花と違って、池田は特に隠すつもりは無いらしく、モッシュピットには来たばかりで、色々教えて欲しいと告げると簡単に応じてくれた。
「やっぱり、負けた時のデメリットが効いてるんですか?」
『こればっかりはどうしても慣れないね』
 そう言う彼の口調も気怠げで、あの夜のような覇気は感じられない。
「また掛け直した方がいいですか?」
『いや、何も出来ないから暇してたところなんだ。むしろ掛けて来てくれて有難いよ』
「そうですか……」
『それで、何が聞きたいのかな』
「あの、池田さんは、いつからモッシュピットに?」
『そうだなあ、もう一年経つのかな。君がどこまで知ってるか分からないから、簡単に言うと、僕はモッシュピットが多発した時期に巻き込まれた一人でね』
「プレイヤーが減少した結果起きたっていう……」
『知ってるなら話が早い。丁度僕も仕事に悩んでいた時期でね、そこを嗅ぎつけられたらしい。気がついたらモッシュピットにいて、オーディエンス達に囲まれていたんだ』
「それで、どうしたんですか?」
『無我夢中で逃げた。けど逃げられなくなった時、ギターの音が聞こえてね』
 あの音か。鳴海は頭の中で響いたあのベースの音を思い浮かべる。
『人によって聞こえる音は違うらしいし、その後に顕現する楽器もその音に準じたものらしいよ。そこら辺は知ってるのかな?』
 肯定すると、ムーンマーガレットも口調の割に世話は出来るらしいと笑いながら言った。
『気づいた時には楽器を持っていたよ。で、直感的にこれで殴ればいいというのも理解した。地面を踏み込んだら、ものすごい勢いで飛べるし、走れるんだ。戸惑ったけど、爽快だったなぁ』
「音が鳴ったら、楽器が出てくると……」
『僕の時はね。人によって差はあるけど、あの空間で音を聞いている人はほとんどその後プレイヤーになっているよ。まあ、抱いた感情の差によって力は変わるみたいだけれども』
「差があるんですか?」
『数値化なんて出来る事じゃないけど、マイナスの感情を抱いている人程強いよ。ここではね。皆モッシュピットでは明るそうにしているけど、大抵現実では不満を強く抱いてる奴ばっかりだから』
「つまり、上手くいっている人はここには来ないって事ですか?」
『その例えは上手いかどうか分からないけどね』
「……モッシュピットが広まっていないのは、何故なんです?」
『成程、特にそこが聞きたかったんだね』
 図星を突かれて戸惑ったが、別にそれを知られて困ることは無い。気を取り直して鳴海ははい、と答える。
『どうかな、僕も詳しくは分からないけど、相当ローカルな出来事だからね。影響だって人を鬱か躁状態にさせるだけで直接的に人が死ぬわけではない。それに上手くいっている人間はこの現象に迷いこむことなんて無いわけだから、介入しようにも介入できないんじゃないかな』
「できない、ですか」
『勿論そういうプレイヤーを雇ってる奴もいるかもしれないけど、少なくとも現状大きな被害を出すことは無いという結論を出してるってことだと思うよ。様子見さ。この結論がひっくり返るような事が無ければ、現状維持で良いと考えられている』
「じゃあ、周囲にモッシュピットが広まっていない理由は?」
『君、楽器やってるよね』
「はい、やってますが……?」
『インディーズで応援してるバンド、ある?』
「一応は……」
 所属しているバンドのことを、そして沙原の事を思い出して鳴海は渋い顔を浮かべる。
『そいつらがメジャー行くときって、どんな感情?』
「え、それは……嬉しいですけど」
『それだけ?』
「あとは……。まあちょっとさびしい気持ちもありますね。行ってほしくないなーとか、大衆に知られたくない気持ちとか……」
『よく分からないけど、プレイヤーになった人物はその感情が強くなるらしい。知られて増えたら自分の狩場が少なくなる。にわかには知られたくないっていう気持ちがね』
「気持ち、ですか」
『君も一度モッシュピットに関する情報をネットに広まるよう打ち込んでみようとするといい。絶対に出来ないから』
「絶対に……?」
『僕もやってみた事がある。送信ボタンが押せなかった。周囲に知らせようとしても、次の言葉が出てこなくなる。何のためかは分からないけど、他に口外する事に関して強い拒否の暗示が掛かっているみたいなんだ』
 だから、モッシュピットに関する情報が何処にも無い、と。
『この空間が何のために出来たのか、理由は分からないし、口外させない暗示の理由も分からない。ただ、少なくともこうやって何年も何年も続いてる。世代を変えながら、延々と同じことをね。多分、地球上からマイナスの感情が消えない限り、この空間は現れ続けるだろうね』
「消化しきれない不満の後始末のために、生まれた空間ってことでしょうか?」
『現状、それがプレイヤーの見解だよ』
 ありがとうございました、と言って鳴海は切ろうとする。そこで池田は彼を引き止めた。
『始めたてなら、オーディエンスとやって基礎を学ぶと良い。向上した身体能力に慣れるのと、楽器の使い方を覚えておくべきだからね』
「基礎を学べって事ですか」
『そう、あと、君がそこで何をしたいかにもよるけど、会っておくと良い人物がいる』
「会っておくといい、ですか……名前は?」
 池田は少し押し黙り、それから口を開くと、その名前を口にした。

『ジョニー・ストロボ』

   ・

 連絡があったのはモッシュピット発生の前日。つまりは木曜日だった。
 基本的にこちらからは掛けないことを約束されていただけに、これだけ早く彼女に出会う事が出来る事が嬉しかった。また彼女の戦う姿が見られるかもしれない。赤いSGで周囲を蹴散らす彼女の雄姿が。
 ただ、それはそんな理由では無いことに、彼女と出会うまで鳴海は予想すら出来なかった。いや、出来ないほうが当たり前だ。なぜなら鳴海は、まだ白部律花の事を何一つ知らないのだから。
 あの日、二人きりで話したファミレスに再び辿り着いた時、鳴海は彼女の手に持つそれに正直なところ、驚きを隠すことが出来なかった。
 緑色の制服に身を包み、赤い眼鏡を掛けた彼女は、その肩に黒いギグバッグを提げていた。彼女の背丈に少し届かないくらいのそれは、紛れも無くエレキベースのサイズだ。
「それ、どうしたの?」
「買いました」
 坦々とした口調で彼女はそう答えた。
「元々私の不注意が原因でしたから、弁償するのは当たり前でしょう?」
「弁償……って、俺のベースを?」
「どういうメーカーかは一応見ておいたから、多分合っている筈です。」
 そう言って彼女は彼に押し付けるような形でギグバッグを渡す。
 鳴海は戸惑いながらも、慎重な手つきでそのジッパーを下げて、中を確認する。確かに、同じメーカーの、同じジャズベースだった。ピックアップも、サンバーストのカラーも変わらない。鳴海が愛用しているベースに間違いなかった。
「でも、そんなお金どこに」
「父から借りました。事情を話したので安心してください」
「事情って……」
「貴方は私の不注意の被害者であり、それ以上でも以下でも無い」
 その言葉に、鳴海はただ呆然とする。それ以上でも、以下でもない?
「貴方だってベースを弁償して欲しいと言っていたじゃないですか。私もそれに責任を感じていたからこそ、ちゃんと貴方に付き合っていただけです。これで貴方と関係を持つ理由も無くなりました」
 冷たい口調だった。ベースを抱えたまま固まる鳴海に対して、律花は深くお辞儀をする。
「ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」
 そうして彼女は踵を返すと、駅へと向かっていく。
 その後姿を、鳴海は引き止めることが出来なかった。彼女の言葉には、二人の関係を消し去ろうという確かな決意が感じられたからだ。白部律花にとって要らない存在だと、ハッキリと言われたようなものだった。
 鳴海はベースを抱えたまま、途方に暮れた。
 始まったと思った世界が急速に閉ざされていくのを感じた。

 鳴海の非日常は、ひと月経たずに終わったのだった。

8, 7

  


 部屋の隅で新しいベースの感触を確かめていた。張りたての弦の指に引っかかる感触が心地よくて、アンプを通して響く低音が、腹の底に響いて安心する。でもそれだけだった。
 何年も一緒にやってきた相棒とは違う。メーカーが同じでも、機材として同じでも、時間が経つことでその音は変化していく。この楽器はまだ、人を知らない楽器だった。
 やがて弾くことに飽きてベースをベッドに転がすと、テーブルに突っ伏する。傍のパソコンにはモッシュピットについて自分なりに理解しようとした形跡が未だに残っている。新しい世界に一歩踏み込むことにドキドキしていた昨日までの自分はもう居ない。拒否され、日常に戻されてしまった後に残ったのは、空虚さだけだった。
 コツさえ掴めば、宇宙にまで行けるんじゃなかったのかよ。
 振り切れば場外まで飛んでくんじゃ無かったのかよ。
 そんなもの、やっぱりあるわけ無かったのだ。
 不貞腐れながら、鳴海は時計を眺める。金曜日の午後四時半。もうすぐアレが始まる。
 白部律花の顔を思い出す。気持ち悪いくらいの静寂の中でノイズと共に飛び跳ねていた彼女の姿を。幕のような音の壁を削り、笑顔で砕きながら突き進んでいく横顔を。勝利を手にして掲げた二本の指を。
 あの光景を見ることが出来ない。それで、この先は何が待っているというのか。また逆戻りか? ブルーのリッケンで殴られることも、黄色いヴェスパで駆け抜けることも無く……。
 自分の眉を撫でる。
 夢を夢と認識して、現実に向かわなくてはならないのだろうか。バンドで大成することも、あの世界で必要とされることもなく、大学に真面目に通って、就職をして、仕事先で良い相手を見つけて結婚して、子供を育てて……。
 結局、自分にはそれしか無いのかもしれない。
 時計を見る。十五分前。そろそろ律花はブッキングの準備をしているだろうか。また今日も元気一杯にSGを振り回すのだろう。
 なら俺はどうする。鳴海は自分の掌を眺めながら思う。そして、あの時聞いた四弦の音を、感触を思い出して、壁際の折れ曲がったギグバッグを見つめる。

「――――」

 気がついたら走り出していた。何も持たず、何も思考せず、ただただ沈みかけの日に向かって真っ直ぐに。五時まで五分前を切っている。
 どこでもいいから入れてくれ。鳴海は両拳を強く握り締めて地面を強く蹴る。

Q【諦めきれる?】

A【出来るわけねぇだろ!】

 あんなめちゃくちゃ強引な方法で繋がりを絶たれて、納得できるわけがない。
 腕時計の時刻が一分前を示す。肺が痛い。息が詰まる。足が痛い。
 それでも走るのを辞めない。街の何処にそれが発生するかなんて分からない、だが、もし近くでモッシュピットが発生するのなら、そこに俺を入れろと強く願う。オーディエンスだらけでも構わない。めちゃくちゃ強い奴とブッキングになっても構わない。

――俺に力をくれ。

――戦う為の力をくれ。

 鳴海の中で渦巻いていた諦めを塗り潰すようにして感情が噴き出す。
 折角見つけた世界から離れられるワケがない。小さい頃に願った世界とは少し違うけれど、確かに望んだ世界だ。リッケンバッカーに殴ってもらえる世界に自分はやってきたのだ。

――背中を追えないなら、相手役だっていい。

――殴ってもらえないなら、殴る方でもいい。

――ヴェスパが無いなら、俺自身で走ってやる。

 あの日見た帽子の下の顔を忘れて、日常に戻ることなんて出来るわけがないんだ。あの顔を何度も見たいから、純粋な喜びに満ちた瞳を、もう一度――

「だから……連れてけよっ!」

 そして鳴海は思い切り跳んだ。

 住居傍の丘の下にある公園目掛けて。二十段近くある階段の頂点から、思い切り鳴海は足を踏み出した。
 奥の公園に立つ時計が、かたん、と音を立てた。長針が十二を示す。短針が五を指し示す。

 瞬間、鳴海の脳裏でベースの音がした。
 腹の底に響くような、低音だった。

   ・

 キャップ帽を深く被り、デニムのホットパンツから伸びる黒い足を大きく開きながら、ムーンマーガレットこと律花は標的をじっと見つめていた。手にした赤いSGは街灯に照らされて血のように光る。月が出るまでは、まだ少し時間があるようだった。
「今日は月から登場しないんだね」
「いつもはそうするんだけどね、今日は気分じゃないんだ。すぐにでもこの空間に飛び込みたくて仕方が無かったから」
 目の前のサングラスの女性は煙草を咥えたままにやりと笑みを浮かべた。
 肩から提げられた真っ白いショルダーキーボードを見ながら、律花は初めて見る楽器に強い警戒心を覚える。今まで幾つもの楽器とやってきたが、鍵盤の類は自分と酷く相性が悪いのを理解しているからだ。
 律花は音を開放する事が極端に苦手だ。
 どう鳴らしても不協和音しか出ないから音の壁も張れないし、音を射出することも出来ない。その反動か物理での攻撃が極端に強く、本来なら打ち破ることが難儀な音の壁を物理的に破壊する事を可能にしている。
「最近活躍しているムーンマーガレットさんだけど、随分と音を使った攻撃は苦手らしいから、いけるかもなーって思ったのよねぇ」
 吸い殻を地面に落とし、彼女はハイヒールの爪先で捻り潰す。
「動きにくいモン履いてるのね」
「アタシの獲物が獲物だからねぇ……。動く必要ないのよ」
 鍵盤に手を置く。三つほど抑えると、鋭いシンセサウンドが放たれる。
 その音と同時に、律花は駆けた。
 一直線に彼女の目の前まで距離を詰めるとSGを振り落とす。先手必勝、一撃必殺。苦手な相手だからこそ手の内を見せられる前に自分のペースに引き込んでしまわないと。
 だが振り上げられたギターを見て、彼女は不敵に微笑んだ。
「アタシさぁ、早い音楽はあんま好きじゃないのよねぇ」
 右手を鍵盤の上に滑らせると、いくつかの鍵盤を思い切り押してみせる。
 気が付くと、律花は空中にいた。弾き飛ばされたと理解するまでに若干掛かった。思考が回復すると空中ですぐに反転、バランスを整えて地面に着地し、すぐさま彼女の方に目を向ける。

――眼前に音の弾丸。

 既の所でそれをギターで弾き飛ばすと、後方に飛び跳ね、距離を取って身を屈めて遠くに立ち臨む標的を見据える。
 音符の形をした弾丸が彼女の周りをぐるりと回っている。一、ニ、三……恐らく二桁くらいある。恐らく彼女は遠距離型。ショルキーで作った和音を使って戦うタイプ。
 モッシュピットの中で和音は武器になる。綺麗な音色であればあるほどそれは鋭く力強い弾丸と化し、標的に与えるダメージも大きくなる。
 音の壁も同様だ。より強い精神状態と響きの良い和音を使えば、より頑強なバリアとなる。
 ただ律花の攻撃はそれすらも破壊することが出来る。和音が使えない故に攻撃特化した彼女の攻撃は、一撃必殺に値する。
 だからこそ初手は決めておきたかったのだ。
「音を弾き返せるのは分かるけど、数に対応できるのかしら?」
 彼女は笑う。煙草をもう一本出して吸い始めると、再び和音を鳴らした。
 衛星のように周囲を回っていた音符が動きを止めると、律花目掛けて真っ直ぐに跳んでいく。音の軌跡を残しながら。
 律花は飛び交う音符目掛けて飛び込んだ。
 眼前に迫る音符を弾き飛ばすと、右足を地面に接触させて自身のスピードを若干ずらし、次にやって来る音符を当たらないギリギリの距離で躱した。そして上体を仰向けに倒して地面を滑っていく。赤いハイカットスニーカーの底が悲鳴を上げるが、構わない。降り注ぐ弾丸の下を切り込むようにして進むと上体を捻り、右手に持ったギターで地面を強く殴りつける。
 弾丸を全て避けられて唖然とする女性の目の前に律花が迫る。身体を回転させながら飛び込んでくる彼女を見て咄嗟に鍵盤を叩き、音の壁を作ると共に彼女は二つ音符を生み出した。
 構わない、何もかもぶっ壊して進む。
 律花は回転の勢いをそのままにギターを壁に突き立てる。ぶち壊した後にその二つが飛んでくるのだろう? ならそれも強引にねじ伏せてやるさと歯を見せて笑ってみせた。
 ただ、その先の予測を、律花は誤っていた。
 破片となって砕け散る音の壁の中で先に待っていた音符が射出される。
 だが律花に向けてではない。
 射出した本人に向かってだ。
 彼女の両肩に打ち込まれると、女性は後方に大きく跳んでいく。壁を破ったばかりの律花は勝手に吹き飛んでいく彼女を見て目を丸くする。
 彼女は吹き飛ばされながら鍵盤を押し込む。鋭いシンセサウンドが鳴り響いて、背後に音の壁が生まれると強引に女性を受け止める。ミシリと痛々しい音が聞こえたが、彼女は構わず二本足で立ち、余裕そうに煙草を吸ってみせた。
「ほんと、怪我しないって良いわよね。こういうことしても平気なんだから」
 そう言って微笑む彼女を見て、律花もまた、獰猛な笑みを浮かべた。
「貴方名前はなんていうのよ」
「名乗らない子に名乗るのもねぇ……ムーンマーガレットさん?」
「知ってんのに自己紹介なんて面倒よ。さっさと教えて」
 吸い殻を再び捨てると、ショルキーの女性はハイヒールの先でそれを踏み潰し、サングラスを直す。
「アートライン」
「何よ、いい名前じゃない」
 そう言うと律花は深く腰を落とした。
「……なんかカッコよくてムカツク」

   ・

 かっこ良く着地したはいいが、着地した先に待ち受けていたのは、オーディエンス達で、鳴海は危険に丸腰で飛び込んだような形になっていた。周囲を黒い人型に囲まれ、逃げ場も無い。おまけにあの音が聞こえているにも関わらず自分には戦う為の楽器が無い。池田の言っていた通りなら持っていて良いはずなのに。
 じりじりと近寄るオーディエンスに対して身構えながら、鳴海はどうにか逃げ出す方法を考えていた。あの階段の頂点から着地出来るということは、恐らく身体能力はそれなりに上がっている。ただ楽器を用いない攻撃がオーディエンスに聞くのかという不安があった。触れられれば精神が崩壊すると言われたのに生身で触れる勇気は、正直な所無い。試すにはリスクが大きすぎる。
 折角再びモッシュピットに入ったというのにここでゲームオーバーになるのだろうか。全くこの世界は古都原鳴海という存在にどうしてもピリオドを打ちたいらしい。絶望的な状況に放り込んで現実を思い知らせたいらしい。
 ただ、そんな事で諦めるつもりは鳴海には毛頭なかった。
 ピリオドを打ちたいならやってみせろ。だが今までみたいに中途半端にではなく、確実にだ。この鳴海という人間が全てを諦め、立ち上がる術すらなくなるくらいに圧倒的にやってみせろ。
 でなきゃ、俺は何度でも立ち上がってやる。
 どんな立場になってもいい。白部律花を追ってやるさ。
 鳴海はオーディエンスを強く睨みつける。
「来るなら来いよ!」
 叫んでみるが、黒い人型は未だに動く気配が無い。
 訝しげに眺めているうちに、ふと鳴海は思う。石膏で取ったみたいに堅い人型の顔を眺めながら、前に突出された手を見ながら、ふと感じたのだ。
「……寂しい、のか?」
 直感的なものだった。だが鳴海の言葉にオーディエンスはどよめいた。そして一歩、二歩と後退していく。鳴海はしかし立ち止まったまま周囲を囲む黒を眺め続ける。
 あの時もそうだった。ベースを守るようにしていた時も、彼らは鳴海に向かって羨むような手を伸ばしていた。その後に現れた律花にも同様にだ。
――人のネガティブな感情に惹かれるらしいです。
 鳴海は構えを解くと、周囲を見渡してから、両手を広げた。
「悪い、あんたらを消してやれる力を俺は持ってないんだ」
 彼らは消されたがっている。力を持っている人間に、同時に迷い込んでくるマイナスの感情に惹かれて、共感を覚え、近寄ってくる。鳴海はなんとなく彼らの行動理念を把握した気がした。
 だから楽器を持った自分に羨むような手を伸ばしたのだとしたら、プレイヤーと勘違いして消してもらえると思ったのだとすれば……。律花の言った「大漁」という言葉も理解出来た気がした。あれは鳴海に助けを求めて集まったのだ。
 理解して、同時に悔しくなった。きっと彼らには鳴海自身の中の音に反応しているのだろう。だがその本人が楽器の顕現の仕方に悩んでいる。どうすれば現れるのかも分からない。
「ごめん、出来れば俺が、消してやれたらいんだけどさ」
 俯く鳴海に対して、オーディエンスは揺れる。対象の動向に理解が出来ないのだ。何故消してくれないのか、何故オーディエンスに音を披露してくれないのか。
――それだけでオーディエンスは沸くのに。

「今日はなんだい、随分と大所帯じゃないか」

 どこかで見た光景だった。
 でも少しだけ違う。聞こえてきた声は男性の低く掠れたハスキーボイスで、登場も月からではなく、遥か先の路上からだった。ファーの付いたモスグリーンのモッズコートに白いシャツとジーンズ、ブーツを履いた金髪の男。片手にはスティックを二本持っていて、空いた手はコートのポケットに突っ込んで不敵に笑みを浮かべている。
 オーディエンス達は一斉にそちらを向いた。うち半数は変わらず鳴海の方を向いていたが、彼らもやがて彼に敵意が無いことを知るとモッズコートの男の方を向いた。
 男はブーツの踵を鳴らしながら歩み寄ると、手の中でスティックを回し、うちの一本を頭上高く放り投げる。
 同時に右足を上げると、思い切り地面目掛けて踏み込んだ。

――ズドン、と深く響くような衝撃音がオーディエンスと鳴海の群衆を駆け抜け、次の瞬間にオーディエンスの大半が吹き飛んだ。

 宙に高く舞い上がったオーディエンスに目を向けると、頭上に投げたスティックをポケットに突っ込んでいた手で取って振り下ろす。硝子が割れたみたいな音と共に宙に浮いたオーディエンスが次々と切り裂かれて消えていく。
「いつもならこれくらいでほぼ消せるんだが、今日は本腰を入れるべきか」
 金色に染め抜かれた髪を掻きながら彼はそう呟き、両手を大きく広げた。
 広げると同時に、数々の機材が現れていく。スネア、バスドラム、シンバル、ハイハット、フロアタム……。
「ドラム……?」
 黄色く染め抜かれたドラムセットに、鳴海は戸惑った。確かにギターだけでは無いと聞いたが、ドラムまでもがここでは武器になるのか……。だが他の楽器に比べたら圧倒的に行動が制限されてしまうのでは無いか。
――圧倒的に不利だ。
 そんな鳴海の思いも、次の瞬間には消え去った。
 フィルからエイトビートが始まる。バスドラムを叩く毎に衝撃がオーディエンスを吹き飛ばし、シンバルを叩く度に音の刃がオーディエンスを切り裂き、スネアの音でオーディエンスが殴られるようにのけぞり、タムを叩くとオーディエンスが重力に負けるように押しつぶされていく。
 圧倒的な光景だった。リズムパターンを叩き込むだけで大勢いた筈のオーディエンスが次々に消し飛ばされていく。その光景を圧倒されながら見ていると、不意にドラムセットの向こうからモッズコートの彼がこちらに向かってウインクするのが見えた。
 その意図を理解して、鳴海は小さく頷いた。大丈夫、という返答を込めて。
 それは良かった。とでも言うかのように彼はフィルを入れ、シンバルを強く叩いた。

   ・

 アートラインは攻めあぐねていた。鍵盤から幾つもの旋律を奏でた。音の弾丸で攻撃し、壁で防ぎ、危なければ弾丸を自分に当てて回避する。
 物理での攻撃しか手段の無いムーンマーガレットに対して自分は有利に立っている。
 立っている筈なのに、未だに彼女に一撃を入れることができない。最初に音の壁で弾き返して以来、一撃も与えられていないのだ。
 何本も射出された音の弾丸を直撃ギリギリの距離で避けながら彼女は向かってきて、それをアートラインは自分を攻撃することで回避する。その繰り返し。怪我は無いと言ってもダメージは疲労として確実に彼女の中に蓄積されていく。それは自分の攻撃であっても変わりはない。
 まるで針の穴を通り抜けるようにくぐり抜けては諦めずに攻撃を繰り返す。こちらだって一撃も喰らってはいないのに、何故こちらが劣勢のような状況になっているのだろうか。
「いい加減に……しろ……!」
 鍵盤をところ構わず叩きまくる。強引な和音を幾つも打ち鳴らし、敵意にまみれた旋律を鳴らす。音符が歪む。音が曇る。苛立ちによって音が濁っていく。
 律花は目を光らせると、地面を強く蹴った。ここを逃すべきではない。直感的にそう感じ取った。今までだってそうだ。相手の音がこうなった時は攻めるべきなのだ。ムーンマーガレットとしてやってきた経験からはじき出された決断を律花は迷わず選んだ。
 歪んだ音は一振りで容易く崩れ落ちていく。熱したナイフでバターを切り落とすみたいに柔らかで、手応えすらなかった。
 アートラインはこのまま耐えるべきだった。堅実さを選ぶべきだった。自分がまるで疲労感を蓄積して、劣勢を強いられているように感じてしまっているが、ダメージで言えば律花の方が圧倒的にあった。怪我をしない代わりに疲労が蓄積されているとすれば、これまでの律花の際どい回避や無茶な姿勢は、アートラインの「音による自傷行為」と同じように自分を傷つけているのと同じようなものだった。
 律花は身体全体を駆け巡る疲労感に苦しみながら、しかし笑みを絶やさない。我慢比べなら負けない。いつだって自分は表情を作って、外見を取り繕うことで過ごしてきたのだから、辛い時に辛いと思わせないことに関しては自信があった。
 最後の一つを切り崩すと、律花はネックを両手で握り締め、彼女の顔面目掛けて振り切った。
 会心の一撃が入って、アートラインは吹き飛んでいく。肩から提げていたショルキーが掠れていく。戦意喪失。その一撃が彼女の心を折ったのだ。
 着地すると同時に律花はギターで身体を支えながら、倒れたままのアートラインを見据えた。
「私の、勝ち」
 彼女は聞いていただろうか。いや、それはどうだって良い。大事なのは勝った事なのだから。これだけの力量を持った彼女なら、ムーンマーガレットの名前を広める良い材料になってくれるはずだ。
 動かない彼女を横目に、律花は振り返る。
 振り返って、首を振り、額に手を当てた。疲労でどうかしている。
 つい一週間前にいた青年の姿を、律花は思い浮かべてしまっていた。
 かっこいいと言って、バッジを帽子に付けてくれたあの古都原鳴海の事を。
 彼はもう居ない。他でもない律花自身が排除したのだ。
「ばかじゃないの……」
 自分に向けて吐き捨てるように漏らすと、ギターを消して大きく伸びをした。久しぶりに苦しい戦いだった。自分の有利を疑わない奴だったら負けていたかもしれない。

――ぱち、ぱち、ぱち……。

 頼りない拍手が聞こえて、律花はそちらに目を向けた。
 青いジャケットにベージュのチノパンを履いた青年が、にこにこと笑みを浮かべて立っている。律花はうんざりした顔をしてみせる。
「お疲れ様、ムーンマーガレットちゃん」
「ちゃん付けはやめて」
「そんなぶすっとした顔しないでよ、かわいい顔が台無しだよ」
 青年は律花を覗きこむようにして見る。たった一歩でここまでやってきたことに一瞬驚いたが、律花は気を取り直してその顔を両手で拒否する。
「また観戦? アンタだって暇じゃないんでしょ?」
「まあね、でも君を見たかったから、即効で終わらせてきた」
 さらりととんでもないことを言ってくる彼に、律花は苛立ちを覚える。さりげなく自分の強さをアピールしているつもりなのかもしれないが、律花からすれば「ムーンマーガレットより圧倒的な早さで決着を付けられる」という単なる自慢、挑発にしか聞こえなかった。
「アンタ本当に性格悪いわね」
「そう? これでも顔も人も良いって事で通ってるんだけどなぁ」
「自分で言ってるだけでしょ? くたばれよ」
「おお、怖い怖い」
 キャップ帽の端から見える鋭い目つきを見て、青年は戯けてみせる。
「何度言っても入らないからね。【レーベル】になんて」
「俺としては是非入って欲しいんだけどなあ……。何が嫌なのさ」
 不思議そうに青年は首を傾げる。分かっているくせに、本当に性格が悪い。律花は再びギターを出現させると彼の目の前に突きつけた。
「アンタを倒して、最強になる為に決まってるでしょう?」
 突き付けられたギターを見て、青年は嬉そうに微笑んだ。
「そういう強気な所、本当に好きだよ」

 一年前の抗争。プレイヤーが減少した最悪の週末で、伝説になった男がいた。

 全ての強力なプレイヤーを打ち倒し、打ち倒し、打ち倒し、唯一楽器を顕現したままその場に立っていた男。

 【ラストホリディ】

   ・

 スティックを弄びながら男は鳴海を観察していた。
「楽器が、出ないねぇ……」
「観察して分かるものなんですか?」
 鳴海から離れると、彼は微笑む。
「いいや、分かるわけないでしょ」
「じゃあなんで見てたんですか!」
「いや、立ち向かう術も無く飛び込んでくるとか面白いなって思ってさ」
「まさか出せないとは思わなかったんですよ……」
 そういって鳴海は頭を掻いた。音だって聴こえている。なのに出せない。何が出るのかも分かっているし、想像だってできている。なのに一向にその楽器が自分の前に現れない。
「なんとも不思議な状況だ」
 腕組みをして考える彼を鳴海は見る。飄々とした彼の姿を見ていると、先程ドラムを武器にオーディエンスを蹴散らしていた人物にはどうしても思えなかった。
「それにしても、すごいですね」
「何が?」彼は首を傾げる。
「ドラムを武器にする人もいるんですね」
 そう言うとああ、と彼は笑みを浮かべた。
「でも動いたりできないから、ブッキングは大変なんじゃないですか?」
 いや、と彼は言った。
「俺はオーディエンス専門のプレイヤーなんだ」
「オーディエンス、専門……?」
 彼は頷くと、スティックを軽快に回してみせた。

「ジョニー・ストロボって名前でオーディエンスだけと戦ってるプレイヤーなんだ、俺」

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