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赤るい日々にて

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 枝豆を鼻に詰まらせ窒息死する夢から目をさまし、時計を見ると何時でもなかった。寝過ぎで鈍く痛む頭を押さえながら窓の外に目を向けると、赤い。空も山も家も道路も車も赤い。遠くを眺めてもどこが地平線なんだか全く分からないほど、何もかもが赤かった。部屋の中には異常は見られないが、外からの夕焼けとも言えない赤に照らされて赤みを帯びている。宇宙からペンキでも降ってきて、すべてを赤一色に染めてしまったかのような外の風景をぼぉうと眺める。寝ぼけてるのかしらと目をこすると、今までの記憶のすべてが夢だったのではないかと思える程、現実すぎた。窓にうっすら映る自分には異常が見られなかった事にとりあえず安堵した。


 赤い会社の屋上で歪な世界を見渡した。空の色から垂れ流れたかのような鳥たちは、赤い体を羽ばたかせ奇怪な声をあげている。今更になってだが本当に気味が悪い。通勤中の道程で、化け物に襲われたり病原体に犯されるといった事はなかったものの、危険は多い。赤い自動車が十割を占めるこの赤い世界の信号機は赤信号しか存在せず、渡ろうとしたら轢かれかけた。当然だ。段差は背景と重なり、階段では三回つまずいた。陰影があるのが唯一の救いだ。一応光のようなものが空に見えるので、今は昼間だろう。夜にはどうなるのだろうか。自分の事のように空を仰いだ。


 誰もいない喫煙所で一人、くしゃみをする。赤アレルギーでも持っていたかな、と思い返してみるも記憶は真っ赤に染まるだけで。きっといつも使わない口や耳から赤が入り込んできたんだろうな と考えて、むしろ正気が漏れ出しているのだと気づき、頭を振った。自分まで異常に合わせる気は無い。
 不意に扉が開き、
「おう珍しいな。煙草吸わないお前がこんな所にいるなんて」
 話しかけてくる者がいた。多分同僚だ。他と変わらずやはり赤い。服は勿論、肌まで真っ赤だ。しかし目鼻口などは底のない穴になっていて、異次元にでも繋がっていそうなほど黒い。人というより黒い点が浮いているように見えた。
「吸わないからこそ喫煙所に来たくなるのさ。ほら、自分に無いからこそ欲しくなるみたいなさ」
「なんだそりゃ。変な奴だな」
 同僚は言って、少し気まずそうな顔をしながら煙草に火をつけ、赤い副流煙が立ち上がる。煙も赤いのか、と思いっきり咽せた。
「そういえばさっき食堂で煙草吸ってたら煙草嫌いの上司に見つかっちゃってさぁ、あとで話がある なんて言われちゃって。もう青ざめちゃったよ」
「いいジョークだね。酔っぱらってるんじゃない?」
 赤い煙が充満した部屋では、同僚の姿はもう見えなかった。


 夜でも赤るいな なんて思いながら自室にあった賞味期限切れの弁当を食べる。帰りによった店の売り物は皆赤い。何かを買う気にもなれず、安い団地に帰ってきた。テレビをつけると、真っ赤な画面から芸能人の笑い声が聞こえてくる。明日になれば、世界は元通りになるのだろうか。それともずっとこのままなのだろうか。不安で押しつぶされそうな中、ただ一つ変わりないこの部屋だけが自分の居場所だった。唯一正しいこの部屋に身体を委ね、眠った。


                *



 イルカに捕食される夢から目を覚まし、伸びをした。窓の先に広がるのはいつも通りの赤い風景だ。昨日降った雨が血溜まりのように外を濡らしていた。ふと窓に自分の姿が映り、欠伸が止まる。そこにはいつもと変わらない姿があった。窓から目をそらし部屋の中を見ると、前に塗りたくった赤が剥げて、地色が出てきていた。またペンキを買わないとなぁ と独りでに思う。 
 時計はとうに捨てた。


 日々は続いて。
 昼食にコンビニで買った弁当を食べる。3つ買った弁当は全て真っ赤だが中身は全て違う。今では形を見るだけで何か分かるようになっていた。弁当3つを平らげて立ち上がると、少し気分が悪くなった。どうも近頃、調子が良くない気がする。元気を出そうとたくさん食べても、便と吐瀉物が赤くなるだけで。最近太り気味だ。


「お前最近太ってきたな!」
 後ろから聞こえるこの調子こいた喋り方は同僚だろうと振り向くと、同僚の他にもう一人立っていた。
「こら、そういう事はもっとオブラートに包みなさい」
 上司が呆れた顔で同僚を窘めている。ある意味肯定している事には気づいてなさそうだ。二人共の全身は真っ赤だが、見分けは簡単についた。顔立ち、背丈、声やらよく見れば差異はたくさんあり、慣れれば仕草や後ろ姿でも分かるようになる。慣れるまで半年はかかった。
「今日新入社員の歓迎会をするんだけど、君も来れるかな?」
 柔らかな物腰で上司が尋ねてきた。この上司は気配りが上手くて仕事もでき、上司からも部下からも慕われている36歳バツイチ子持ちの女部長だ。美人だが、絶対に怒らせてはいけない人物でもある。煙草を忌み嫌っていて、喫煙所以外で吸っている人への鉄拳制裁は有名な話だ。
「歓迎会ですか? えぇ、行けますよ」
「そう、よかった。今日はじゃんじゃん飲むわよ!」
 笑う彼女はやはり美しいな、なんて思う。
「おいおいさらに太るぞ」
 おどけた調子で同僚が茶化す。この同僚と部長が出来上がっているのも有名な話で、男社員たちから美人独占の罪で糾弾されている。ヘビースモーカーで能天気なこの同僚の何処に美人上司の琴線が触れたのか、この社の七不思議のひとつだ。
「へぇ、ご忠告ありがとう。じゃああんたは欠席ね」
「いや部長の事じゃ無いですって! ただでさえ部長は無いんですから、もっと食べて出さないと!!」
「どこチラ見しながら言ってんだ!」
 チラ見も何も眼球無いだろ。
「それにしても、仲がいいな」
 未だコントを続ける二人を見て、ふと呟いた。そして胸が熱くなるのを感じた。
 自分には生涯来ないことかもしれない。


 多分、夕暮れ頃。仕事が一段落つき、伸びをしていた所。
「ママー!」
 女の子が一人、事務所を訪れた。赤抜けない顔が可愛らしい。果たして抜けるかは疑問であるが。社員一同に困惑が広がる中、ひとつ声があがった。
「ちょっと、りえ! ここには来ちゃ駄目だって言ったじゃない!」
 どうやら部長の娘らしい。そういえば以前部長が、子供を事業所内保育所に預けていると聞いた覚えがあるので、きっとそこから抜け出したのだろう。
「早く保育所に戻りなさい!」
「まぁまぁ、仕事も一通り終わったし、いいじゃないですか」
 同僚がわって入り、おかんむりの部長を宥める。さすが扱いが慣れている。
「りえちゃんこんばんはぁ。ひさしぶりだねぇ」
「おっす、おっさん」
「おっさんじゃないよぁ、ぼくまだ二十代だよぉ」
 どうやら同僚はすでにりえちゃんと会った事があるようだ。もう家族ぐるみで仲がいいなんて聞いた覚えがなく、そういえば最近は飲みにいってもない。
「りえ、そんなおっさん放っといて皆にあいさつしなさい」
「部長ひどい……。だが、そこがいい」
 Mだろおっさん。

「みなさんこんばんわ。ママがいつもおせわになってます」
 ぺこりとお辞儀をしながら大人らしい挨拶をしてくれたりえちゃん。
「ちょっと、私がお世話してるのよ」
 なんて大人げない母から生まれたとは到底思えなかった。ふと、りえちゃんを見ると、じぃとこちらを見つめている。どうしたのだろうと思い、近くにいって挨拶してみた。
「こんばんは、りえちゃん」
 するとりえちゃんは不思議そうな顔して聞いてきた。
「どうしてそんな、変な色しているの?」


 赤い廃ビルに寄りかかりながら、這うように歩く。気分が悪い。胸が歪んでいくような。頭がとろけてゆくような。視界が回り、足取りは不安定で地面を踏む感覚がない。

 あの後、事務所で盛大に反吐をぶちまけた。頭の中が真っ白になり、ただ皆のざわめきとりえちゃんの泣き声が朧げに聞こえてきた。同僚は心配してきて部長は気まずそうに謝ってきて。今日は帰って休むように言われた。

 どこかで期待していたのだ。もしかしたら、皆には自分が赤く見えているのではないか、普通に見えているのではないかと。あまりにも皆が普通に接してくれていたから。それが気遣いだなんて気づきもせずに。
 ……そうじゃない。気づいていたからこそ自分が赤く無いことが、気に入らなくて怖かったのだ。
 どうして世界が赤くなったのか、いつか元に戻るのかなんて事は、いつの頃からかどうでもよくなっていた。
 何故自分は赤くならない。
 何故自分は取り残されてしまったのか。
 何故自分はこれほど異常なのだ。

 廃ビルの硝子に自分の姿が映る。思い切り殴りつけ、派手な音と共に硝子が砕け散った。鋭い痛みが走り、見つめる。手は真っ赤に染まっていて。フッと笑う。
 何故こんな簡単な事に気づかなかったのだろう。


 普通になろう、と廃ビルの階段を登っていくその姿は異常に満ちあふれていた。

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