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三章「ほとんどの悪を吐き終えたら」

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 まったく人間は無用心な生き物だ。
 たとえば人間はいつも、たった一枚の薄い板に簡単な鍵をかけただけでそれを完全に信頼する。こんな叩いてしまえば簡単に割れたり壊れたりしてしまいそうなものに全幅の信頼を置くなんて、俺たちの界隈では甚だ愚かな行為だ。本当に賢い人間は大事なものは常に携帯しているか、恐らくは金に換えて預けている。
 まあ、その愚かな人間のおかげで、俺の生活は成り立っているわけなのだが。
 俺が生業としているのは俗に言う空き巣行為であり、今日もこうして、朝から旅行に出かけている家族の住む一軒家に闖入を試みた。事前の調査で今日から二泊三日の旅行に行くことは判明済みなので、他人の妨害を受けることなく、金目のものを悠々と漁る。車もないので、郵便なんかが来ても居留守を使えばいいだけだ。
 多くの人は旅行には財布など持っていくので、旅行中の家は盗るものが少ないと思うだろう。だが多くの空き巣、少なくとも俺は一度にそこまで金を求めてはいないから、貴金属みたいな盗られたと分かりやすい高級品よりも、ゲームソフトなどの大量に売っても疑われにくく、かつ無くなっても「ソファの裏に落とした」「親に隠された」などすぐに空き巣の所為だと思わないものに手をつける。金銀プラチナを盗ったところで、安い革ジャンに穴あきジーンズの男が売ろうとしても、疑いの目をかけられるだけ。ならば最初からそこまで値段の高くないものを盗めばいい。
 今日は高価買取のゲームソフトとオーディオプレイヤーをリュックに詰め込み、勝手口を閉めて家を後にする。少し造りが古い家は勝手口に必ず網戸がついていて、完全にシャットアウトすることはできない。空き巣はこういったポイントを好む。
 最寄の喫煙スペースを探し出し、俺はポケットから煙草を取り出した。
 平日の住宅街は閑静だ。田舎なら多少の近所付き合いがあるだろうが、郊外ともなれば見知らぬ男がふらついていたところで誰も怪しまない。怪しまれるようになったところで、場所を変えてまた空き巣を繰り返せばいい。場所変われば人も変わる。隣町の空き巣被害など、結局誰も気に留めていない。空き巣としては好都合だが。
 まだ吸い足りない煙草を灰皿に押し潰し、足早に歩き始める。
 今日はまだ、獲物を盗り足りない。俺は場所を変えた。

 前々から目をつけていた一軒家は、今日も静まり返っていた。
 商店街の裏通りには小さな新興住宅地があるのだが、その端っこに位置づけられる赤い瓦葺きの家は、車が止まっていない。さらに郵便受けに郵便物が大量に溜まっているので、その二点から誰も住んでいないことは何となしに予想出来た。出不精なだけかもしれないが、そんな人間が新興住宅地の一軒家に住むとは思えない。
 下した結論。この家に人はいない。
 だから、今日の最後の獲物はこの家だ。
 住宅地は平日昼間と言えどそれなりに人通りがあるので、今回は以前バイトをしていた宅配業者の制服を来て、侵入を試みることにした。
 空の段ボールを脇に抱え、門扉を開ける。庭はそこまで広くなく、数歩歩けば玄関にたどり着く。庭は雑草が荒れ放題なので、ここからも放置状態が続いていることがわかる。
 念のため、玄関のチャイムを押して確認する。が、数回押してしばらく経っても足音の一つ聞こえない。やはり、誰もいないようだ。俺は心中でガッツポーズする。
 この後俺はいつも、流れ作業として玄関のドアを開けようとする。
 普通の民家ならば鍵は閉まっているので、これはあくまでも確認だ。もし閉まっているのなら、行為を終えた後も鍵を閉めたままにしなければ、すぐに空き巣被害に遭ったと分かってしまう。実は人がいる可能性だってある。
 盗みに入った時と同じ状態のまま出て行く。空き巣の鉄則だ。
 今回も俺は何の気なしにドアノブに手をかけた。
 どうせ開くはずがない。確か裏に網戸付きの勝手口があったから、そこから侵入しようかなと俺は考え始めていた。
 ところが、どうだ。
 俺はこの家の玄関戸を少し引いてみたところで、硬直した。
 予想とは裏腹に、がちゃ、と音を立てて、扉がわずかに開いたのだ。
 鍵がかかっていない。内側からチェーンをかけているわけでもなく、もう少し力を入れると、完全に扉が開いてしまった。
 額に、冷や汗が流れるのを感じた。
「……おいおい、どういうことだよ」
 周りに人がいないことを確認して、小声でつぶやく。
 ほとんどの時間帯、この家に人が出入りしていないのはリサーチ済みだ。そういう家は大体鍵が閉められたままになっている。家の持ち主が、もしくは家主以外の業者なりが、空き巣に勝手に物品を盗られては困ると考えるからだ。
 しかしこの家の玄関に鍵はかかっていない。
 考えられる理由はいくつかある。鍵をかけ忘れた。実は中に人が住んでいる。近日取り壊しを行うので、業者が鍵を開けたまま放置している。先客が潜んでいる。どれも可能性としては十分あり得る。
 俺は足音を立てずに玄関の中に入り、扉を閉める。
 大理石の玄関に靴はない。横にある靴箱も静かにあけて確認してみるが、雑巾やら何やらが放置されているだけで、靴は見当たらない。誰かが住んでいるという可能性は薄そうだが、先客がいる可能性は十分ある。まあ、同業者であれば協力すればいいだけのことなので、俺は侵入しても問題なし、と結論付けた。
 玄関から見た構造は奥に細長い。
 左手は二階への階段、右手は廊下があり、奥にはリビングへ続くと思しき扉が開いたまま放置されている。全体の構造としては、普通の家と同じ二階が家族それぞれの部屋で、一階はリビングや水回りだろう。個人の部屋を回って物色するのもいいが、まずはリビングに金目のものが落ちてないが探すために、廊下に向かうのが良いだろう。
 そう思い、段ボールを置いて靴を脱ごうとした、その時。

「おじさん、だあれ?」

 か細い声が、鼓膜を劈いた。
 全身に緊張が走り、全身から汗が噴き出す。
 すぐさま頭をもたげると、声の主がリビングの扉のそばに立っていた。チェックのパジャマを着た、幼い女の子だ。寝起きなのか、それとも俺を訝っているのか、半分だけ開いた両目でこちらを見ている。
 一瞬頭が真っ白になりかけたが、俺は一拍置いて質問に答える。
「……宅配便ですよ。お父さんに、お荷物を届けに来たんです」
 そして、慣れた感じの営業スマイル。
 何も問題はない。こういう時の常套句なら何通りも揃えてある。どんな問いかけをされても、即座に答えられる自信がある。
 もしも空き巣に入った家に人がいた場合、工事業者や親の友人など、あらゆる手段を用いて空き巣だと思われないようにすることが必要なのだ。今回はまだ玄関口に入っただけなので、服装の通り宅配業者を装えば疑われることはない。
「お父さんは、まだ帰ってきていないですか?」
 答えることなく、女の子はぺたぺたと玄関近くまで歩いてくる。
「帰ってきていないのでしたら、また配達に伺いますよー」
 俺は疑問を抱かれないよう、言葉を並べ続けた。
 恐らく親は出かけていていないだろうから、適当な理由をつけて再配達に来ると言って退散すればいい。何も問題はない。それにしても、まさか人がいるとは思っていなかったものだから、少し驚いた。
 深呼吸し、鼓動が遅くなるのを感じながら、俺は段ボールを再び持ち上げる。
 だが、ふるふると首を振る女の子の答えは、またもや俺の予想を裏切った。
「ううん、お父さんはいないよ。ずっと前から」
 
 少女は、名前を優子と言った。
 優子の着ている水色のワンピースはしわだらけで、ケチャップらしき染みがところどころに付いている。まともに食事も取れていないんだろう。コンビニで買ったパンとジュースを与えたら、迷うことなく食べ始めた。顔色はひどく不健康だ。年齢で言えば小学校三年生くらいになるのかもしれないが、上背は低く、今こうして寝息を立てながら俺に預けている身体も、魂が抜けてしまったかのように軽い。
 優子が出てきた部屋、リビングを見渡してみる。
 部屋の広さは八畳ほどだろうか。外からの見た目以上に家の中は新しい造りで、老朽化しているような節はない。
 それにつけてもあまりに埃っぽかったので、俺は優子の身体を埃を払ったソファの上に移し、適当に掃除を始めることにした。どうも、こういう状況を見ると捨て置けない。隅々まで目を走らせてみると、テーブルの上とか、隣に見える台所の冷蔵庫付近とか、そういう小さい子どもでも日常的に使うような場所は大して汚れていなかったが、本棚の上とかその辺りは埃が堆く積もっていた。
 やっぱり、この子は一人でここに住んでいるんだと、確信が持てた。
 俺は顔が割れないようにする時のマスクを着けながら、黙々とはたきを振り続ける。
 優子は、見知らぬ俺が部屋にいるにもかかわらず、パンを食べ終わった後すぐに眠り込んだ。人の猜疑心なんかは、欲求には勝てないんだろうと思った。優子が名前も知らない、さっきまで配達員を名乗っていた俺をどう思っているかは知らないが、俺は優子に対して、少しだけ胸が苦しくなるような気分になっていた。
 無意識に煙草を取り出そうとして、やめる。
 俺は小さい頃、親をなくした。
 捨てられたのか、死んだのかは、結局明らかにならなかった。
 報道なんてされなかった。俺はただ自分以外誰もいない空き家に帰り着いて、その事実を体感した。警察に連絡するなんて知恵もなく、胃の抗議にも意を介さず、じっと親が帰ってくるのを待った。
 日付を跨いだ頃になっても、家には誰も帰ってこなかった。
 そうやって誰かが帰ってくるのを待って、夜を噛み潰す日々が続いた。
 夜が更けて暗くなった家の中で蛍光灯を点け、一人で器に持ったごはんを食べていると、恐怖とかそんな感情よりも、寂しさとか愛情への飢えが勝って、耐え切れず毎日泣き腫らしていたのを鮮明に覚えている。その時の光景を脳裏に描いただけで、涙腺が刺激されて少しだけ視界が潤んだ。
 それが一ヶ月ほど続いて、親に捨てられたらしいことが近所に広まりだした頃、昔からの付き合いだった幼なじみのマサチカの家に居候として住む形になった。
 マサチカとその家族は、孤独になった俺を喜んで迎え入れてくれた。俺は自分に祖父母がいるのを知っていたが、俺が一人になっても家に来るどころか連絡さえも寄越さない辺り、もう面倒を見てはくれないんだと幼心で察して、数年間住んだ家に別れを告げた。名残惜しさのかけらもなかった。
 中学校くらいまでは何事もなく、人並みに勉強して、人並みに遊んで、人並みに暮らしていた。そして、いつしか血の繋がっていない家族とも別け隔てなく接することができるようになって、将来はいい仕事に就いて、ここまで育ててくれた家族に恩返しがしたいと決意した。
 中学三年生、卒業を間近に見据えた時のことだろうか。
 学校から帰ろうとした時、マサチカは俺を河原に連れて行って、こう言った。
「俺には夢がある、博人」
 博人、というのは俺の名前だ。
 マサチカは中学生とは思えないほど大人びた奴だ。学校では風紀委員長を務め、周囲からの信頼も厚かった。そんなマサチカは、なにか相談事がある度にこうして俺を呼び出し、俺にだけ悩みを打ち明けていた。あれだけみんなに頼られているマサチカが俺に相談してくれるというのは嬉しい事ではあった。
 この日も俺は道すがら買ったコーラを飲みながら、生返事混じりでマサチカの話を聞いていた。
 ところが、この時のマサチカは何かが違った。
 ふとマサチカを見やった時に見えた、いつも以上に真剣な眼差しで、俺はようやくそれに気がついた。
「俺は将来警察官になって、博人を捨てて夜逃げした奴のような……いや、そうなのかはよく知らないが――ともかく、誰かを悲しませたりするような奴を徹底的に捕まえて、この国を平和にする。俺の夢だ」
「マサチカ」俺はコーラを飲む手を止めた。マサチカはなおも続ける。
「お前は画家になりたいって言ってたな、博人。なら、ここからは別々の道だ。高校も別のところになった。俺は高校で猛勉強して、警察学校に行く。お前は高校で絵の勉強をして、美大に行く。やりたいことが決まっているなら、その気持ちが変わらないうちに挑戦した方がいい」
 マサチカは座り込んでいる俺に、ぐっと拳を突き出した。
「約束だ。お互いが夢を叶えた時、またこうして二人で会おう」
 マサチカは目を細めて笑った。
 彼の笑みには不思議な説得力があった。こうしてマサチカが画家を志すのを応援してくれるだけで、未来が明るく書き換えられていくような気分になった。
 俺はしばらく呆然とその拳を眺めていたが、一つ深呼吸をした後に笑い返して、拳を突き出した。
「……ああ、約束だ。頑張れよ、マサチカ」
「おう、お前もな、博人」
 夕陽の沈んでいく街の片隅で、一五歳の俺達は誓い合ったのだ。
 そんなことを、シンクに溜まった皿を洗いながら、思い返す。
「……柄にもねえこと、思い出しちまったな」
 もう、それから十年とそこらが経ったんだと知って、俺はなんだか恥ずかしい思いになった。
 あの後俺は、推薦で入った美術専門高校に通い始めた。高校に入ってからはバイトと同時に一人暮らしを始め、数年間住んだもう一つの実家に別れを告げた。
 マサチカも生まれ育った街を離れて高校に通うと決めたのだから、俺も同じ条件でなければ約束にならないと考えたからだ。高校に入ってからは死に物狂いで勉強に励み、なんとか現役で美大に入学することに成功した。今思えば、俺はこの時点である程度満足していたのかもしれない。マサチカが警察学校に入学したと聞いたのもこの時だった。
 ところが、美大に入って俺の生き方は一変する。
 端的に言えば、想像していた世界とはまるで違っていた。
 俺は昔から、どんな作業もそつなくこなすことに定評があって、苦難と呼ばれる美大の講義も日々の積み重ねでなんとかやりきれていた。画家になるにもこうした日々の鍛錬が大事だと考えて、講師の教えを的確に汲み取って、自分の中の理想の画家像を築き上げていった。講師陣の期待にも答えられると自身が付き始めていた。
 しかし周囲の人間は、俺のような生き物ではなかった。
 むしろ俺とは反対ともいうべき存在で、講義には必要最低限しか参加せず、来ても寝てばかりで聞き入れる様子もない。暇な時間に絵を描いているような素振りも見せず、口を開けば酒や女の話ばかり。犯罪行為に手を染める輩なんかもいた。俺はどっちらけになって、孤独も厭わずひたすら絵だけを描き続けた。
 ある日、美大学生の中から画家が一人誕生した。
 展覧会に出した作品が評価され、雑誌や新聞にまで掲載される運びになったのだ。
 天才的な絵だ百年に一人の逸材だとマスコミは持て囃し、若き画家は華々しいデビューを飾った。
 俺は、そのニュースを自分の部屋で見つめながら、泣いていた。
 画家としてデビューしたのは、ろくに講義にも参加していなかった学生だった。
 かくいう俺は、展覧会に出品することさえも出来なかった。
 その時コメンテーターとして出演していた有名な作家が言ったことは、今でも反芻できるほど身に沁みている。
『小説もそうですけど、芸術っていうのはやっぱり才能ありきなんですよね。素人が一朝一夕で出来るようなことじゃない。確かに努力もある程度は必要だけど、努力だけで報われる世界ってのはやっぱり限界があるから、結局最後は才能の勝負になっちゃうんですよ。芸術に勝ち負けもあったもんかとよく大口で批判されますけど、勝って生き残れなければ干されてしまう世界ですからね、我々の業界は』 

 俺は掃除を終えた後、玄関で帰り支度をしていた。
 物を盗る気になんて、全くなれなかった。第一、この家の物を盗ってしまえば、困るのは優子だ。
「おじちゃん、もう、帰っちゃうの?」
 その優子が玄関までやって来て、不安げな声で言った。
 俺は呆けた顔のまま振り返り、優子のちいさい肩に優しく両手を置いた。
「そうだな。今日はもう、帰る。大丈夫だ。また明日も来るから」
「本当に、本当?」
「ああ、本当だ。……約束する」
 優子の頭をなでてから、俺は外に出た。
 後ろを振り向きたい気持ちになりながら、煙草に火をつけて夜空に吹かす。
 なんとまあ、皮肉なもんだ。結局約束を守れなかった俺が、こうして約束だなんて言葉を自ずと発するだなんて。
 俺はくっくっと笑いながら、愛すべきボロアパートへの帰路に着いた。
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     ○

 それから俺は、定期的に優子の元を訪れるようになった。さすがに毎日だと怪しまれるかもしれないので、人目を盗んでこっそりと。理由としてはやはり食事代を渡したりだとか、それが出来なければ自分で買ってきた弁当や、他の場所から盗んできたゲームなどの娯楽品を置いて行くためだった。
 優子は少しも疑う素振りを見せなかった。
 普通、突然現れた大人の男が食べ物を置いて行っても、喜んで食べはしないだろう。見知らぬ人からもらったものは食べないと言った、人としての危機本能が働くはずだ。俺もはじめは「もしかしたら空き巣を捕まえるための罠かもしれない」と若干いぶかしんでいたが、楽しそうにゲームで遊んでいる優子を見ていると、そんなことを考えることさえも煩わしくなった。
 俺は優子と一緒にご飯を食べたり、ゲームで遊んだりしながら、優子がこんな状況に陥った経緯を聞きだした。
 結論を言えば、優子は昔の俺に似ている。
 数ヶ月前に両親は旅行に出かけたきり、戻ってきていないそうだ。違う点と言えば捨てられたのではなく、その両親は旅行先(と優子は言っているが、恐らくただの外出だろう)で、帰らぬ人となった可能性が高い。両親の名前を聞いて、俺はその名をニュースで聞いたような気がしてならなかった。思い出せそうな気もするが、最近物覚えが悪くなったのか、まるで浮かんでこない。
 金池町の屋台通りを歩きながら、一人でうんうん唸り続ける。ソースのこげる香りとイカ焼きのにおいと綿あめのにおいとりんごあめの匂いが混ざって、決していい空気ではなかった。夜の金池町は不思議とお祭りのように出店を出しているところが多い。ここが屋台通りと呼ばれる所以だ。名前が先か、屋台自体が先かは分からない。大体の店はお好み焼きだとか焼きそばを売っているが、博多とかそこらへんの屋台よろしく、ラーメンだったりおでんだったり居酒屋風の店だって当然ある。俺は行き慣れた屋台の暖簾をくぐり、席が空いてるのを確認して座った。
「おやじ、熱燗と鶏皮ね」
 俺がそう言った刹那、おやじは熱燗をカウンターに差し出した。まさか、俺が来るのを分かっていたのか。まあ、同じ曜日の同じ時間に何度も通っていれば、そうなるか。俺はくっくっと笑い、酒を嚥下する。
 その時、少し離れて座っていたスーツ姿の男が、こちらを振り向いた。
「その笑い声は……まさか、博人か?」
「ん?」名前を呼ばれ、俺は男のほうを見やる。短く切り揃えられた髪に、まつげの長い切れ長な目。一瞬、誰だ俺の名前なんかを知っているのは……と思ったが、つい最近思い返した記憶の中に、その姿を見つけた。
「まさかお前、マサチカ?」
「ああ! そうだ、マサチカだ覚えてるか!」 
「うおう、なんて偶然だよ」
 俺達はおやじが驚いているのを横目に、隣同士に座って肩を組み合った。
「驚いたぜ。マサチカがこの街に戻ってきてるなんてな」
「最近異動になったばっかりなんだよ。まあ、とりあえず飲もうぜ」
 マサチカと俺は生ビールを注文した。

「……ってわけで、四月から金池署で勤務してんだ」
 注がれた生ビールを一気飲みした後、マサチカは赤ら顔で話し始めた。話をまとめると警察学校は無事に卒業できて、その街の警察署でキャリアを積んだ後、生まれ育った街で勤務したいと志願して戻ってきたということだった。俺は心からすごいことだと思った。マサチカは昔から有言実行する奴だったが、夢を本当に叶えてしまうとは。
「まったく、警察官ってのも楽じゃないぜ。おやじ、ビールおかわり」
「おいおい、あまり飲み過ぎるなよ」
 俺は生ビールをちびちび飲みながら笑った。楽じゃない、と話すマサチカはとても楽しそうだった。
「そういや博人は、画家にはなれたのか?」
 笑顔混じりにマサチカは言う。彼からすれば、お互いの現況を確認するためのさりげない一言だったんだろう。
 だが俺はその言葉に少しだけ胸が詰まる重いがして、少しだけ逡巡した。
「……いや、まだ見習いだ。バイトしながら、絵を描き続けている」
「そうかそうか。お前なら大丈夫だ、博人! 俺が見込んだ絵描きだからな、ハハハ」
「そりゃどうも」俺は耐え切れずにビールを一気に飲み干す。「おやじ、俺もビールおかわりだ」
 俺とマサチカは程よく酔いながら、卒業してからこれまでの話と、これからの話に花を咲かせた。
「博人、お前あれだ、彼女とかはいないのか」
「いるわけないだろ。中学時代の俺を知ってるお前が何を言ってるんだ」
「まあいてもいなくてもよ……大事にしろよ彼女はよ」
「……? まあ、できたらの話だけどな」
 時間を忘れて、二人で話し続けた。ビールを三倍ほど飲んだ辺りからは酔いが回ってきて、屋台のおやじも話に参加させた記憶がある。おやじはずっと俺たちの話を聞きながら、にこにこ笑っていた。いや、もしかしたら不機嫌そうな顔をしていたかもしれないが、その時は酔いすぎてよく覚えていない。
 ひとしきり飲んだ後、俺達は屋台を後にして夜の金池を歩き始めた。
 昔はビルなんて殆どない小さな街だった金池だが、昨今では都市計画が順調に進み、金池の駅も出来て、いつの間にか高層ビルの立ち並ぶ地域になってしまった。今俺とマサチカが歩いているのは、中学の頃小石を蹴りながら帰った道だったが、その記憶も今ではアスファルトに閉じ込められている。
「いやー、博人に会えただけでもここに帰ってきた意味があるってもんだ」
「ずいぶんと大袈裟に言うな、マサチカ」
 俺は、ぐでんぐでんになりながらも言葉ははっきりとしているマサチカの肩を担ぎながら歩いた。
「俺にあったところで、なにか特別なことが起こるでもあるまい」
「んなことねえよ! 俺はお前には不思議な力があると思ってる、博人」
 酔っているはずなのに、あの真摯な眼光を俺に向ける、マサチカ。
「お前には人を動かす力があるんだ。お前との約束があったから、俺は警察官になって世の治安を守るという夢を叶えられた。だから今度は、お前自身にその力を使うべきだ。お前の夢だった画家になるためにもな」
 ひっく、としゃっくり混じりにマサチカは言う。
「夢を諦めんじゃねえぞ! 人はなあ、今日頑張れば明日には今日を超えた自分になれんだ! だから不断の努力を続けりゃあ、いつか報われる日がくるさあ!」
「……分かった。分かったから今日はもう帰ろう」
 なんだあ調子狂うなあー、とマサチカは笑いながら言う。
 俺も笑いながら少しだけ俯いて歩き、病院の近くにあるというアパートまで、マサチカを送り届けた。
「じゃあな博人! いい夢見ろよ!」
「ああ、お前もな。おやすみ」
 扉を閉め、自分のアパートへの帰路に着きながら、煙草に火をつける。
 風のない夜空に煙がゆっくりと立ち上っていくのを、俺は馬鹿みたいに眺めていた。
「……悪いな、マサチカ」
 明日は、何を優子に持って行こう。
 考えながら、夜は更けていく。

     ○

 明くる日、優子のもとにコンビニで買った弁当を持って行こうとしていた時の事だった。
「ん……?」俺はいつもと違う家の前の雰囲気を見て、少し離れて足を止めた。
 家の前で見慣れない人間が数人集まって話している。見たところ、近所のおばさんの井戸端会議だろうか。参ったな、人がいるんじゃどうにも入れない。こっそり勝手口だけは開けておくように言っていたから、そっちから入って弁当だけでも置いていって今日は帰ることにするか。
 俺は気付かれないように家へ近づいた。
 すると、ひそひそと話し声が聞こえてくる。別に聞かなくてもいいかとは思ったが、少し気になって耳を澄ます。
「優子ちゃん、いつから一人ぼっちになっていたのかしらねえ」
「さあ……。でも、もうすぐ叔父さんが迎えに来てくれるらしいじゃない?」
「みたいねえ。でも、大丈夫かしら」
 どうやら優子が家に一人だということは、周囲に知れているらしい。
 俺はほっとため息を吐いた。近所の人が心配をしてくれているというのもあったが、一番安堵したのは、優子にはまだ引き取ってくれる身内がいるということだった。せめて優子には、俺のように誰も血のつながった人間が誰もいないなんてことは避けて欲しかったのだ。心が温まる思いになった。
 同時に、少しだけ寂しくも思った。
「俺の役目も、ここまでってことか」
 俺は勝手口へ向かおうとしていたが、踵を返し、家から離れる。優子を引き取ってくれるという人が名乗り出た以上、赤の他人である俺が関わる必要はもうない。あとはその人に任せて、俺は元の生活に戻ればいい。もともと、空き巣である俺が優子の面倒を見ていた事自体がおかしなことだったのだ。俺はふふっと笑いを漏らした。
 その時、黒服姿の男と方がぶつかりそうになって、とっさに避けた。
「おっと、すまんね」
「いえ、こちらこそ……」
 俺は軽く会釈しながら、歩き去って行く男を見た。
 恰幅のいい、腹の出た男だ。スーツの下のワイシャツは第一ボタンが開けられている。
 周囲を見渡すに、音は近くに停めてある黒塗りの外車から降りてきたようだ。
 その足は、のっしのっしと、優子の居る家の方へと向かっていた。
「……あれが、叔父さんって人か?」
 なんだか、ヤクザみたいな奴だな。
 俺は怪訝に首を傾げながら、逃げるようにその場を去った。

 正確に言えば、去ろうとしていた。
 後ろから、その声が聞こえてくるまでは。
「いやあ、良い世の中になったものだ」
 声の主は、愉快そうに笑っている。さっきすれ違った男の声のようだった。
「まさか身内に親をなくしたガキがいるなんてな。叔父だってことを知ればとんと擦り寄ってくるだろう。ガキを欲しがる輩なんてそこら中にいるから、こいつあ高く売れるぞ」
 俺は、自分の頭に、ふつふつと血が上るのを感じていた。
「そうでなければ、ストレス溜まった連中の捌け口にでもしてやろうか。確かメスガキなんだったな。うちの底辺の野郎どもの世話役にでもなれれば大出世だな、捨て子風情にしては。ハッハッハ!」

 俺は考える前に、走りだしていた。
 その瞬間のことは、今になってはよく覚えていない。
 鮮明に覚えているのは。
「優子、俺と一緒に来い!」
 返事を待たずに勝手口から優子を連れ出して、走り抜けていったこと。
 その後から、近所の人の叫ぶ声と、男の怒号が聞こえてきたこと。
 優子を背負い、無我夢中で走ったこと。
 俺の決意は揺らがなかった。だから足取りもしっかりしていたし、後ろを振り向くこともなかった。
 空き巣稼業で、幸い人に見つからないように逃げるのには慣れていたが、急に走りだしたせいで足が棒になりそうだ。ろくに運動もしてこなかったのが祟ったのか。声が聞こえなくなるのを確認しながら、俺は走るのをやめた。
「優子、大丈夫だ。大丈夫だからな」
 街に、陽が落ちる。
 俺は優子の身体を背負ったまま、ビルの隙間で立ち尽くした。
 
 
「ねえねえ、これからどこへ行くの? 楽しいところ?」
 コンビニで金をおろしていた俺の横で、優子が不思議そうに聞いてきた。
 俺は口元に人差し指を当てた。それを見ると優子も同じ動作を繰り返して、にっこりと笑った。好きなお菓子とアイスを買ってやると、優子は両手を振って喜んだ。
 コンビニのイートインに入る。
 平日の昼間とあって、コンビニはサラリーマンやオフィスレディで混雑している。席はないかと探していたところ、一人で二人分取っていたらしい会社員風貌の男性が席を譲ってくれたので、俺達は会釈しながら腰を下ろした。
 俺は買った新聞をめくる。
 三面記事に、「親に捨てられた少女、何者かに誘拐される」と報道されていた。どうやら俺の顔は割れていないようで、容疑者は一七〇センチ程度の男性としか書かれていなかった。まあ、黒ずくめにマスク着用で闖入したからバレなくて当然だな。俺は警察の頼りなさに小さく笑った。優子の写真もどこにもない。そのうち見つけられて掲載されるだろうから、この街にも長居はできないだろう。
 街の隅のコンビニで、俺はまたひとつ決意を固めた。

     【六月十日】

「優子、旅に出よう」
「旅?」優子は首を傾げた。「おとうさんとおかあさんみたいに、旅行するってこと?」
「ああ、そうだ」俺はコーヒーを飲みながら答える。「これまで経験したこともない、楽しいところに行こう。デパートでも、遊園地でも、どこでもいい」
 できるだけ長く、優子には夢を見せてやりたい。
 もしも見つかったら、優子はあの叔父かどうかもわからない輩に引き取られるのだろうから。
「楽しいところって、人がいっぱいいるんだよね」
「いるだろうな。みんな楽しいところに行きたいから、たくさん人が集まる」
「それじゃ、あそこも楽しいところってことなの?」
 優子が、窓の外を指さした。俺はその先を見やる。コンビニの外、高層ビルの下に人だかりができている。誰か有名人でも来ているのだろうか。警察に見つかる心配はあるが、優子が気になるのなら仕方ない。
「何があるんだろうな。行ってみるか」
「うん!」
 俺は立ち上がり、優子の手を引きながらコンビニを出た。
 そして俺は――――その人だかりがどこか異常であることと、それらが“見上げているもの”に気付いた。
「おい……嘘だろ?」
 ビルの屋上、柵を越えた狭いスペースに、スーツ姿の女性が立っていた。
 見上げる野次馬は、悲鳴混じりに何と言っているか分からない声をかけ続けていた。
 まさかそんなことを、と俺は述懐した。心臓が早鐘を打つ。気付けば俺は、優子の手を離して駆け出していた。
 そのまさかは、不意に訪れた。

 女性の足が――――ビルから離れる。



 三章「ほとんどの悪を吐き終えたら」
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