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レギュレスの都

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 猫、と呼ばれる存在がある。
 もちろん動物ではない。いや、この世界にも猫はいるが、この物語にそっちの猫は出て来ない。出て来るのは先天的な劣悪遺伝を患って生まれてきた魔法使いたちだ。
 魔法が編み出されてから二百年。
 人々は繁栄の頂点を極めていた。
 都市は魔法によって制御され、魔法を取り扱うものたちは専用の学園でみっちりしごかれ、立派な魔法使いとしてこの世界を運営していく。もちろん、魔法の才能がないと判断されたものは、奴隷階級として一生を終える。ああ、見てみるといい。いままた行き倒れがアスファルトの端っこに転がり、魔力を注がれた清掃人形がいそいそと死体を片付けていく。古き良きとんがり帽子をかぶらずバッヂにした魔法使いたちはそれを横目にも見ないで過ぎ去っていく。
 この世界のことは、これでいくらかお分かりになって頂けたと思う。
 しかし、この世界が平和と安寧に浸りきったものでないことは、きっと猫が教えてくれるだろう。
 猫。
 膝を曲げて子供に教える時のそれを流用すれば、『凄い魔法使い』である。彼らは生まれながら魔導の天才であり、普通の魔法使い――鼠と呼ばれることもある――が、五十年もかかって習得する大魔法を、ほんの2、3ヵ月で扱いこなせる者もいる。この説明を聞いた子供は目を輝かせ、大人に言う。
「それって最強?」
 と。
 大人は頷き、子供はますます元気になる。僕もいつか猫になれるかな。大人は曖昧に笑って、その場を立ち去る。
 その子供が猫になれることは永遠にない。
 なぜなら猫は生まれた時から猫であり、猫以外の何者でもなく、そして鼠は決して猫にはなれないからだ。どんなに肥え太ろうと、爪を研ごうと、鼠は鼠。
 これは、鼠が猫になろうとする物語だ。
 そして、悲しい終わり方で幕を閉じる。
 それでもよければ、語り始めよう。
 とある一匹の悲しい猫の物語を。

 双我臨路はびっしょりになった自分の制服を見た。
 それは赤と黒を基調にしたもので、ところどころに金属の装飾がある。飾りの鎖がチャラチャラ鳴るたびに、まるで鈴をつけられた獣のような気持ちがするなあ、などと考えていた矢先のことだった。廊下のど真ん中で、双我はピカピカの制服が汚水でびしょびしょになるのを味わった。周囲からの気の毒そうな視線と、そしてどこか好奇心に満ちた熱い呼吸を感じた。
「おっと、悪い悪い。手が滑っちゃってよ」
 双我は顔を上げる。見ると、自分と同じ制服を着た三人の少年が、目の前に立っていた。空のバケツを手にしてニヤニヤ笑いをしているのが一人、その後ろで興味無さそうに突っ立っているのが一人、もう一人は薄笑いを浮かべつつもチラチラと教師の影をあちこちに探している。そんな必要はないのに。彼らは金色の腕章をつけていた。特権階級、魔法使いの中の魔法使い、魔導貴族出身者の証だ。たとえ教師であろうと、彼らには逆らえない。
 もちろん双我は、そんな腕章を持っていない。
 つまり、差別される側の存在というわけだ。
 双我はシャツをつまんだ。かなりきついにおいがする。くんくんと嗅いでみると、そばで女子生徒が気味悪がって悲鳴を上げた。わかってないなあ、と思う。ここで押されたら負けなのだ。
「えーと、先輩」と双我は言葉を選びながら言ってみた。相手は二年、自分は一年。確かそういう設定だったはずだ。
「いまのは魔法ですか?」
「はあ? バカかお前。剣も使わずに魔法が使えるかよ」
 そう言うニヤニヤ笑いの腰には、魔法を扱う時に必ず用いる剣が提げられている。校内で魔法剣の自由帯剣が許されるのも特権階級だけの権利だ。自衛のため、とは言うが、その実は弱いものいじめに使われる。
「なんだ!」
 双我はことさら明るく言った。
「びっくりしましたよ。てっきり剣も使わずに魔法が使える天才なんじゃないかと。凄いですね! って思ったんだけど、残念です、ああいやもちろん、先輩を煽ってるわけじゃないですよ?」
「……なんだこいつ。きめぇな」
 ニヤニヤ笑いは、その笑みを引っ込めた。
「赤宮。それぐらいにしておけ」
 我関せずを貫いていた、クールな少年が元・ニヤニヤ笑いに言った。
「ジンくん、でもさ」赤宮は同級生にくんづけを使った。
「なんかこいつ生意気じゃねーか。高潔種(グリーン・ブラッド)としてやっぱり調教が必要なんじゃねーかと……」そこで一睨みされ、「あ、いや、ジンくんがいいならいいんだ。いや、ほんとの話」
 ふん、とジン君と呼ばれた少年は鼻を鳴らした。何かにつけてどうでもよさそうな態度を取るのが、貴族ってやつのおたしなみなのかもしれない、と双我は思った。そして改めてクール少年を見やった。
 神沼塵。
 この魔法学園『レギュレスの都』の生徒会長であり、魔法庁の高級官吏のご令息。実技堪能、魔術卓抜、つまり本物の貴公子。写真で見るよりずいぶん鼻が高い。
 気がする。
「もうすぐホームルームが始まる。生徒会役員ともあろうものが、遅刻しては格好がつかない。一年への『挨拶』も済んだ。もうこんな」
 そこで、ひくひくと不愉快そうに鼻を動かし、
「――こんなところにいる意味もない。いくぞ」
「あ、ま、待ってよジンくん。……おい一年ども、わかったな? いまので。この学校の支配者が誰か。身の程を弁えるんだな」
 双我は笑いを堪えるのを少し頑張った。しかし、目ざとく赤宮に見られた。
「おい、お前――!!」
「赤宮!」
「あ、ごめんよジンくん、今行くから……」
 ご挨拶、とやらを終えた二年生がいってしまうと、周囲にいた同級生たちがそろそろと近寄って来た。大変だったね、とか、ひどいよね、とか、言ってくれる彼らに双我は笑ってそれぞれ頷いた。そうとも。こいつはひどい。入学式を終えて、希望に胸を膨らませた一年に魔法動物の飼育小屋あたりからかっぱらってきた汚水をぶっかけるなんて。ひどい、ひどすぎる。
 だが、少しだけ溜飲が下がることもある。
 それは、双我が今日から神沼家にホームステイする、ということ。

「神沼邸にホームステイ?」
 教室までなんとか退却を済ませた双我に、話しかけてきた女子生徒がある。赤茶色のショートカットが少しカールした、小柄な少女だ。ブラウスが少ししわくちゃになっているのは、慌てて起きて登校してきたからか。
 入学初日だって眠いものは眠い。
 そのクラスメイトは新田蜜柑という名前らしい。机にテープが貼ってあった。
「え、それって……双我くん、優秀ってこと? あの神沼家に御厄介になれるなんて……」
「いや? そうでもない」
 双我は貸してもらったハンカチで制服を拭いながら答えた。
「俺の家は金がなかったからな。それを貸してもらって、衣食住の世話をしてもらう代わりに、奴隷のようにこき使われる。奉公ってやつだな。まァ、喰わせてもらえるだけマシだけど」
「そうなんだ……」
 蜜柑はどこか茫然としていた。
「あたし、田舎から出てきて、都会のことってよくわからなくて……入学初日からあんなことする先輩がいたのもビックリだし……」
「蜜柑はどこ出身?」
「みっ、蜜柑!?」
 よく日に焼けた蜜柑の狐色の肌が、ぽっと赤くなった。
「い、いきなり名前呼びとは……これがばーちゃんの言ってたジゴロってやつ……?」
「落ち着いて? 冷静になろう」
「う、うん」
「俺のことはいいよ」
 喋れないこともあるし、とは言わない。
「当ててみようか。蜜柑って南の方から来ただろ」
「あ、やっぱりわかる?」
 蜜柑は腰かけた机に沈み込むようにしょぼくれた。
「田舎くさいのかなあ、やっぱり」
「いや、俺の知り合いにも南から来た人がいてさ、その人に君が似てるだけ」
「へぇーっ。そうなんだ。どんな人? 優しい?」
「俺の上司」
 言ってから、
「……バイト先のね? もちろん」
「双我くんってバイトしてるんだ。偉いなあ」
 蜜柑はゆさゆさ足を振っている。
「あたしもどこかで見つけなきゃ……魔法道具店とかだと、学校の勉強の先取りもできるし、いいかなって思うんだけど、どこも人気なんだよね。お金出すから働かせてください、みたいな人までいるって言うし……」
「そりゃ現場に出向く以上の勉強はないからなァ」
「双我くんはどこでバイトしてるの?」
「やばいこと」
 双我は適当にごまかした。蜜柑がじろじろ双我を見て来る。
「何?」
「え、あ、いや、双我くんって色々なことを知ってるなあ、って……」
「アッハッハ。暇なだけだよ」
「あのね、双我くん」
 蜜柑はもじもじしている。
「あの、あたし、上京してきたばっかりで、まだ知り合いとかいないのね、だから……友達になってくれる?」
 双我は笑った。
「当たり前だろ?」
 自分の制服の胸元から、汚水の臭いが立ち昇っているのを感じる。
 俺ならこんな汚い臭いのする奴と友達にはなりたくねえな、と双我は思った。

 魔浄ドーム越しに見える夕陽が描くプリズムが、砕けては散っている。
 放課後。
 双我は教科書やら魔道具やらがギッシリ詰め込まれたカバンを左手に提げて、アナログなメモを片手に、神沼邸を探し回っていた。説明は受けてから来たのだが、どうもその日は朝から体調不良で、誰の言葉も耳に入って来なかった。かかりつけの魔女に頼んで精神活性剤をドッサリ処方してもらったのだが、時すでに遅し。やっぱり今度からもうちょっと真面目に生きよう、生活態度も改めよう、などと双我は思ったりもする。
 入学初日で、クラスメイトとの新しい関係作りとか、いろいろあったので早く休みたかった。蜜柑と仲良くなった代わりに、男子生徒のやっかみを買ってしまったらしく、イマイチ男友達はできにくい雰囲気になってしまった。女なんてめんどくせぇだけなのに、とは言っても、十五、六の思春期のガキなんて、やっかみぐらいしかすることがないんだろう。
 駄目だ。
 思考が安定しない。双我は頭をブンブン振る。どうも緊張しているらしい、らしくもなく。この俺が。
 チッ、と舌打ちすると、背後から声をかけられた。
「――街中で舌打ちなんて、関心しませんね」
 少し殺意を覚えながら、双我は振り返った。そして目を見張った。
 風を感じた。
 白く透き通った柔肌、赤と黒を基調にした制服、黒い生糸のように滑らかな髪、はっきりとした眼差しは秘められた意思を感じさせ、引き結ばれた口元は見知らぬ男を警戒し、責め立てながらも、誘っているようにしか見えない。完璧な少女。ふうん、と思った。
 かわいいな。
「ああ、ちょうどよかった」
 双我はにっこり笑った。
「道に迷っちゃって。でも、これで安心だ。おうちの人に会えたんだから」
「双我臨路さん、ですね?」
 少女はふう、とため息をついてから言った。
「初めまして。神沼水葉です。以後、お見知り置きを」
「どーもどーも。今日から御厄介になります。双我臨路、ガンバってベンキョーしますんで、よろしく」
 水葉はとても疑わしそうだ。
「……私、お兄様以外の男性の方とは、あまりお付き合いしたことがないのですけれど……みんなあなたのように軽薄なのでしょうか?」
「そんなことはないんじゃない?」
「……まあ、いいです。これから我が家へ案内しますが……いいですか? 双我さん」
 びしっと水葉は、意外にもかわいらしく小さな手を双我に突きつけた。よく見れば、綺麗ではあるが、まだまだ童顔。子供っぽい。
「あなたは我が神沼家が投資するに値する、と判断して、家へ招くのです。私から言うのも妙なことではありますれど、くれぐれも、粗相などなきように」
「はいはい」
「はいは一回。私は神沼の女です。逆らうことは許しません」
 冷たい目で水葉が宣言する。
「お分かりですか?」
「……はーい」
「よろしい」
 水葉は満足そうだ。
「では、参りましょう」
 歩き出し、それからちょっと立ち止まり、振り返る。
 どこか悲しそうな顔で。
「……双我さん、奉公制度について色々お聞き及びかと思います。中には確かに、奉公書生を奴隷のように扱う家もあるそうです。ですが、我が神沼ではそんなことは決してありません。お兄様も、お父様も、どちらも立派な紳士です。この私も、立派な淑女たろうと努めております。どうか、ご安心ください」
 そう言って、水葉は歩き出した。

 神沼の家は、もはや城だった。
 ほへぇー、と双我は高くそびえる巨城を見上げた。さすが名門、何度か攻城戦にもつれ込んだ形跡がある。建造されて百五十年以上は経っているだろう。
「どうかなさいましたか? エントランスはこちらです」
「まるで会社に住んでるみたいだな」
「…………。そうですね」
 水葉は少し気分を害したらしい。軽く髪を振ってから、颯爽と城の中へ入っていく。双我もそれに従う。
 夢の国のように明るく火を灯されたエントランスに、パタパタとメイドがやってきた。
「お帰りなさいませ! お嬢様! ……と? そちらの方は?」
「今日から神沼で身を預かることになった、双我臨路さんです。双我さん、ご挨拶を」
 ガキか俺は、と思いつつ、双我はへらへら笑いながら挨拶した。
「どーもよろしく。双我です。メイドさん大好き」
「この人、頭がヘンなんですか?」
「どうやらそのようです」
 女子二人にひそひそ内緒話をされ、双我は割とマジで落ち込んだ。
「まァいいでしょう。では、双我さん、お荷物をこちらへ」
「サンキュー」
 ずしり、と重いカバンをメイドは肩に俵のように軽々と持ち上げた。いいのか乙女、それで。
「お部屋へ案内する前に、神沼の旦那様へお目通ししましょう。お嬢様もそれでいいですね?」
「構いません、それが道理です。双我さん、いきますよ」
 答えも聞かずに歩き出す水葉。まるで弟が出来たばかりの姉のような暴君ぶりだな、と双我は思った。
 真っ赤な絨毯が敷き詰められた階段を上り、血筋が輩出した名魔導師の肖像画の迷路を通り抜けた先に、神沼家当主の執務室があった。
「レトロだな。転移装置ぐらいつけておいてもいいのに」
「お父様は魔法を使えない民のことを想っておられる、本当の紳士なのです」
 と、水葉が反論してきた。
「お父様は私が幼い頃から言っていました。出来ない人たちのことを忘れてはいけない、と。私もそうだと思います。双我さん、くれぐれも失礼なきよう。娘の私ですら、身が引き締まる思いを忘れられぬ方です」
「あっ、お嬢様」メイドが低い声で囁いた。
「塵お兄様がお帰りになったようで……お迎えに参りましょう」
 メイドと水葉が階下へおりていった。双我はそれをぼんやりと見送った。
 双我はちょっと肩を回してから、執務室の扉を開いた。
 光が溢れる。
 中は、映画などでよく見かける、まさにお金持ちの居室、といった雰囲気だった。高価な絨毯、飾りのつけられた照明灯、オークのデスク。そして革張りの椅子に収まった初老の男。細く鋭い目は、まるで顔面の奥の奥へ埋め込まれているかのようだ。
 双我が何か言う前に、初老の紳士――神沼氏は手を振った。適当に座れ、ということだろう。双我はさして動揺もせずにそれに従ったが、心の奥でやはり相手を憎悪した。
 誰であろうと憎まずにはいられない。
 たとえ理由なんてあってないようなものでも。
「君が双我くんか」
 どうでもよさそうに神沼氏が言った。
「そうです。この度は我が身をお受けしていただき、感謝の念を禁じえません」
 定型文を吐いて、頭を下げる。つむじがチリチリ痺れた。
 神沼氏はパイプを吹かした。
「礼などいい。わかっているな? 結果を出してくれ。それだけだ」
「もちろんです」
「言葉など無意味だ。なんの価値がある」
「同感です」
 神沼氏はちょっと目を上げた。少しとぼけたような顔で、剣呑な台詞を吐いた目の前の小僧を焼こうか煮ようか考えているようでもあった。
「我が神沼は名門だ」
 氏は立ち上がり、壁にかけられた絵を順繰りにステッキで叩いていった。
 おそらく仕込み杖になっている、魔法剣。
「歴史は古い。家が起こったのは五百年も前だ。それから魔法革命があり、その先陣を切って活躍していたのはいつも神沼の家のものだった。教科書を読んでみろ。我が家の讃美歌だ」
「その通りですね」
「ああ。神沼は愛国者の家だ。国家もまた神沼を愛してくれている。高い地位、充分な人材、豊富な資料。それもすべて、神沼に任せておけば安心だ、と国家が思ってくれているからだ。五百年の信頼が礎になっているのだ。君のような若者にはわかるまい」
「わかります」
「わかるものか。絶対にわからん。何がわかるというのだ、お前のような子供に」
 神沼氏は少しだけむせた。病気かな、と双我はどうでもいい気持ちで考えた。
「私には家を守る義務がある。それが男というものだ。息子と娘を『レギュレスの都』へ出しているのも、優秀な魔法戦士として育成するためだ。君を孤児院から引き取ったのも、そうだ。塵や水葉と同格には扱えないが、この家で寝食を共にする以上、君にも有能な魔法戦士になってもらわなければならない。立て」
 双我は立ち上がった。
 おもむろに、神沼氏は手に持ったステッキで双我の背中を打った。
「ぐっ……!」
「跪け」
 双我は言う通りにした。その頬にステッキが突き立てられた。
「君に恨みがあるから、こうするのではない。我が子らと同格には決して扱わない、ということを躾けるために、こうしている」
「…………」
「返事」
「……はい」
「いいだろう」
 ステッキを離す、フリをしてもう一撃を加えてから、氏は双我から離れた。
 タン、タン、とステッキを自らの掌に打ち付けている。
「優秀な魔法戦士というものは、決して諦めないものだ」
 映画かよ、と双我は思った。
「君は猫が好きか?」
「猫?」
「動物の方じゃない。魔法戦士として、天然素材として持て囃される猫のことだ」
 双我は立ち上がって、椅子に座り直した。
「好きか嫌いかと言えば、好きですかね」
「そうか。私は嫌いだ」
 格子窓から、神沼氏は外を見ている。
「彼らは不当な存在だ。神から極端に愛されすぎている。万能な素質、高飛車な精神、どちらも甘ったれを作り上げる原因だ。彼らは社会規範を無視し、自分勝手なエゴを振り回し、これまで何度も魔法戦争を引き起こしてきた。まさに害悪。しかし、彼らに手を貸してもらわねば、この魔法都市国家を維持できないのも事実……」
 神沼氏は振り返る。
「私はね、いつか猫に頼らずに自立できる魔法都市国家を夢見ている。そしていつか猫狩りをするのだ。私が育てた、私が作り上げた魔法戦士たちが、彼らの傲慢な才能を打ち砕く日……それを想像するだけで、年甲斐もなく、胸が躍る。君にもいつか、その尖兵になってほしいのだ」
「ご期待に添えるように努力しますよ」
 双我は蜜柑から借りっぱなしのハンカチで、なんとか余白を探して口を拭った。
「神沼さん、あなたはその夢のために『レギュレスの都』の運営を?」
「運営? ああ、寄付のことか。そうだよ。当然だ。子供たちが未来を作る。もっとも投資するに値する品だ」
「なかなか面白いこと言いますね」
「何?」
「いえ、なんでも」
「……まァいい」
 神沼氏はジロジロと双我を見た。
「話は終わりだ。部屋へいきたまえ。それと」
 声が低くなり、
「これから一緒に暮らすことになるわけだが、貴様、水葉に手を出してみたりしてみろ。後悔することになるぞ」
 ハハハ、と双我は笑った。
「残念ながら、俺の好みの女の子は、もうちょっと猫っぽくてね」
 双我は執務室から出て行った。

 新しい自分の部屋。
 そのベッドの上で、双我は寝転んでいた。荷物はすべて床にぶちまけてある。
 魔力光の明りを見上げながら、うとうととする。
 魔法剣が手元にないとイラつく。柄のあの感じがないと不安だ。しかし、学生になったからには、魔法剣は貸し出し式。帯剣が許されるのは特権階級のグリーン・ブラッドだけ。緑鳳王と十七人の魔将。子供でも知ってるくだらない昔話。その系譜を自称する貴族ども。
 にゃおう。
 どこかで猫が鳴いた。双我は起き上がる。窓を開けると、外にニレの木が植えられていた。その枝に猫が乗っている。窓枠に頬杖を突いて、双我は猫に喋りかけた。

「コード638。作戦名『ファット・デーモン』。
 担当官、第一級白兵魔導師リンジー・ソーガ。
 ――潜入成功、作戦続行中」

 毛づくろいを終えた猫が一度あくびをしてから、なんと声を出した。それは本物の猫ではなかった。
「本部了解。魔導師ソーガは引き続き神沼邸で奉公書生として活動されたし。――調子はどう? 双我。元気ないじゃん?」
「入学初日から、先輩に汚水をぶっかけられてね。おかげでクラスメイトとフラグが立ったが、ツバつけてもいいかな?」
「容疑者以外との接触は極力控えるように、ってダーナが言ってる。代わろうか?」
「いいよ。そっちも捜査で忙しいだろ。……援軍はなしか?」
「残念ながらね」猫は肩をすくめるフリをした。
「実戦級の魔法戦士候補生がいる学園に、あなたを単独で送りたくはなかったのだけれど……生憎と手駒が、ね」
「もう何度も聞いたさ。構わない。どうせ死ぬならいつでも一緒だ」
「またそんなこと言って。でも、本当に気を付けてね」
 そこで猫は一拍置き。
「情報は確かだよ。君の通うことになる『レギュレスの都』には、――独立蜂起を考えている魔法貴族がいる。容疑者は神沼、朝霧、赤宮の三家。君には反逆者を発見し、捕縛、ないし虐殺してもらう必要がある。この魔法都市国家の存続のためにね」
「ミランダ警告みたいだな。いちいち定時連絡のたびに言わなきゃダメかそれ」
「そうじゃないけど、やっぱりお役所仕事だから」
「ま、なんでもいいさ。じゃ、気をつけて戻れよミーシャ。敵地だぜ、ここ」
 窓を閉めて、猫がいなくなるのを見届けてから、双我はベッドに再び腰かけた。じっとカーペットの一点を見つめていると、トントン、とノックが鳴った。どうぞ、と言ってから、自分の声が学生に聞こえないくらい低くなっていたことに気付く。咳払い。
 ドアが開くと、カーディガンを羽織った、寝間着の水葉が入って来た。双我は目を丸くした。
「あの」と水葉は、喉を使ったことがない人のように途絶えがちに言った。
「今日はいろいろあってお疲れでしょうから、反省会も兼ねて、紅茶でもどうかと」
「反省会って、まるで俺が入学失敗したみたいだな」
 笑ってから、ああ、と気づく。
 今朝の汚水騒ぎを、水葉も見ていたのか。
 サイドテーブルにトレイを乗せて、小さな椅子に腰かけると、目を合わせずに水葉が言う。
「兄は、本当はあんな人じゃないんです。ただ、長男でもありますし、レギュレスを率いる生徒会長という重責もあり、その……」
「いいって。気にするな」双我は笑って手を振った。
「とはいえ、妹の君から、少し手厳しく言ってやって欲しいけどな」
 水葉はうっすらと笑った。疲れた顔をしていた。
「双我さん……どうか、兄と仲良くしてあげてください」
 それだけ言うと、紅茶だけを残して、神沼の娘は去って行った。
 双我は紅茶のカップを手に取ると、猫舌をなんとか駆使して、少しずつ紅茶を啜る。水葉の背中が消えていったドアの方を見やる。
(兄と仲良くしてあげてください――)
 双我はベッドに横たわった。真っ暗な天井を見上げながら、思う。
 それは出来ない。

「水葉、その態度はなんだ」
「お兄様……」
「ナイフとフォークの置き方がなってない。名門の士族はそういうところも見逃さないぞ。お前ももうすぐ十六だ。上流の社交界に出た時、付け入られないようにしなさい」
「……はい、わかりました、お兄様」
 これが兄と妹の会話か、などと双我は思うが、口を出すわけにもいかないので、黙っている。
 朝食。
 神沼氏はいない。すでに魔法庁に登庁している。家族三人には大きすぎるテーブルに、兄と妹が向かい合って座っている。双我の椅子はなかったので、適当に空き部屋から一脚かっぱらい、勝手に座っている。足を組み、トーストに手慣れた調子でバターを塗りたくっている様だけを見れば、まるで双我が当主のように見える。
 ただ偉そうなだけだとも言う。
 そんな双我を、神沼家のご令息、神沼塵は徹底的に無視している。
 昨日の挨拶のことはもう忘れているらしい。
 双我は口元をナプキンでぬぐいながら、塵の冷ややかな目元を眺めた。
 ――魔法能力指数480オーバーの麒麟児にしては、物覚えの悪いことで。
 塵は、居候の反逆心など気づいていても関係ないとばかりに、ひたすら妹に喋りかけ続ける。
「昨夜、生徒会室に赤宮氏が訪れてな。ああ、父上殿だ。二ヶ月前の校外魔法試験教練の結果をわざわざ届けに来てくれたよ。やはり紳士というものは、器が違う。こんな学生の俺にまであのような態度を……」
「お兄様も、直に名流の仲間入りですわ。大学を出ればすぐにでも……」
「いや、それでは遅い。大学へ進んでからすぐに、インターンで魔法庁に登らせてもらうつもりだ」
「それは……!」水葉はおもちゃを見た子供のように目を輝かせる。
「素晴らしいですわ、お兄様、いよいよお父様の跡目をお継ぎになられるのですね……!」
 塵は愛想笑いを家族に向けて浮かべた。
「そうだな。いずれな」
「双我さん、あなたもお兄様を見習ってくださいね」
 水葉はニコニコと言ってきたが、そのセリフが塵に与えた不快感は相当なものだったらしい。
 ガタン
 塵は何も言わずに立ち上がると、物音にびっくりした水葉を一瞥もせずに食堂を出て行った。扉が派手に閉まった。水葉は凍り付いている。双我は笑った。
「まるで子供だな。気に入らなくなったらすぐ逃げる」
「双我臨路っ!!」
 今度は水葉が音を立てて椅子から身を乗り出す番だった。被造物くさい白みのある肌が、赤く染まっている。
「撤回しなさい。お兄様への侮辱は許しません」
「撤回しよう」双我は水を注いでゴクゴク勝手に飲んだ。
「が、俺だって不愉快だぜ。居候とはいえ、これでも寝食を共にしてるわけだ。俺は礼儀を尽くしてるぜ。今日だっておはようって言ったし、それを返さないのは向こうの勝手だ。まさかボコボコにして挨拶させるわけにもいくまい」
「その野蛮な口調も直した方がいいですね。当世風ではありません」
「いや、それを君に言われるとなんかモヤモヤするんだけど……わかったよ、改める」
「それに、あなたのような凡人がお兄様をボコボコになどできるわけがありません」
 むふーっ、とどこか少女っぽい鼻息を立てて、水葉が椅子に座り直した。そういうところは、やっぱりまだまだあどけない。
「お兄様はエリート中のエリート。あなたなどとは違うのです。あなたが見習う点はあれど、お兄様が改めなければならない点などあるわけがない」
「ふーん」
「……なんです?」
「ちょっといいか」
「えっ?」
 双我はおもむろに手を出して、水葉の額に手をやった。水葉はいきなり世界が終わったような顔をした。
「なんだ、熱でもあるのかと思ったよ」
「ひっ……」
「ひ?」
「ひ、氷室っ、氷室ーっ!! 狼藉者です!! ろうぜき、ろっ」
 食堂のドアがバターン! と勢いよく開いた。
 昨日のメイドが息を切らして立っていた。
「どうなさいました、お嬢様!!」
「氷室っ、氷室っ」
 メイドに取り付いて「みー」と泣き始める水葉。
 ひとりぼっちの双我は、ただただ茫然とするしかない。
 メイドこと氷室は、胸の中の少女の頭をぽんぽんと叩いた。
「おお、よしよし。大丈夫ですよお嬢様」
「ううっ」
「あの不届き者は今、この氷室が今ブチ殺しますからね」
「えっ、ちょっと待っ」
 つかつかつか、と歩み寄って来た氷室の鉄拳が、バタートーストを入れたばかりの双我のストマックにいい角度をつけてブチこまれた。
 もちろん双我は、もんどり打って遅刻した。

「ひどい目に遭ったよ」
「大丈夫? 双我くん」
 遅刻ついでに速攻で洗濯して返したハンカチを、蜜柑はそのまま双我の頬に当てた。氷室にボディブローを喰った後、さらに二、三度サッカーボールキックを喰らったので、顔面が腫れている。
「メイドって大変なんだな」
「これはメイドさんの所業なの?」
 休み時間、蜜柑は隣の席の双我を心配そうにのぞき込んでいる。午前の陽光が、蜜柑の赤茶色の髪を輝かせていた。
「きっと双我くんが何か悪いことをしたんだね……」
「聞き間違いかと思うほど君から俺へのディスがひどい」
「あはは、うそうそ。でも、やっぱり、大変? ホームステイ」
「知らない人間と一緒に暮らすんだから、そりゃあ多少な。おーいて」
 双我は黒板に書き残された魔法式をぼんやり眺める。現代では魔法剣にそのまま内蔵されている魔走回路の既製品が販売されているため、それこそ専門職にでもならない限りは不必要な知識だが、いちおう学ばされる。悪いことではないと思うが、理論を教えるなら、それを発散させるフィールドを作ってあげなければ教育なんて完遂できないだろう、などと双我は難しいことを考える。
 濡れたハンカチを四角く畳みながら、蜜柑は言った。
「何か手伝えることがあったら言ってね。あたし、応援するよ、双我くんのこと!」
「ありがとう。俺の味方は蜜柑だけだな」
「あはは」
 蜜柑は嬉しそうに笑う。釣られて双我も笑う。しかし、危険だな、とも思う。
 彼女の家のことはすでに調べてある。
 新田家は、地方の豪族崩れとはいえ、まっとうな家柄だ。反逆者を輩出した過去はなし。ただ、蜜柑の兄が魔法事故で三年前に死亡している。事故原因は不明。人為的なもの、偶発的なもの、結果は未解決のまま、事件は迷宮入りした。
 仕事柄、誰かを信用することができない。
 双我の頭は回転する。もし、その事故が反逆者の危険な実験だったとしたら? 捜査が思うように進まなかったのはなぜ? 圧力がかからなかったと誰に言える? 兄の死を切っ掛けに『愚かな鼠ども』が妹を黒魔法の世界に勧誘しなかった確率は何パーセント? 双我ならこんな風に声をかける、葬式で泣いている少女の耳元に囁く。お兄さんの夢を引き継ぎたいとは思わないかい? 少女は涙で濡れた顔をぱっと上げる。選択肢は一つだけ。
 やります。
 双我は黙っている。
「……大丈夫? 双我くん」
「ん?」
「なんだか、疲れてるけど」
 双我は確かに、疲れている。
 乾いた笑いしか出て来ない。
「朝は苦手なんだ」
 テンプレなセリフでお茶を濁して逃げを打つ。左手がありもしないコップを探して机の上を彷徨った。何か飲むフリで空気を整えたい。
 タイミングよくチャイムが鳴った。
「わ、休み時間、終わっちゃった」蜜柑がブラウスから喉を見せて、時計を見上げた。
 赤と黒を織り合わせた制服を着たクラスメイトたちが、ガヤガヤと段差式の机に収まっていく。
 双我はぼんやりと、その後ろ姿を眺めた。
 この中に、この学校の中に、裏切者がいる。
 双我はチラリと隣で鼻歌まじりに教科書を整えている蜜柑を見やる。
 俺は、裏切者を殺さなくてはならない。
 たとえそれが誰であろうとも。

 魔法。
 といっても、発祥はそれほど古くない。
 本格的な魔走回路が開発されたのは魔法革命直後の黎明期であり、それ以前の魔法使いは、ほぼ猫しかいなかった。
 鼠の器で魔導に辿り着いたのは、せいぜい爆死したゲオルグ・ファウストか、中世フランスに跋扈した女毒殺魔たちの何人かくらいであろう。
 体系化され簡易化したのは、ここ二百年程度のこと。
 仕組みはそれほど複雑ではない。
 ある一定の魔法式(パターン)が、その形成者の恣意的な情動に反応し、超自然現象を巻き起こす。言ってしまえばそれだけのことだ。
 真理はいまだ解明されておらず、樹立されてきた基本原則もほとんどが「たぶんこんな感じだろう」と暫定的に置かれているだけのこと。
 破綻がいつ訪れてもおかしくないが、誰もが魔法を支配したような顔をして今日を歩いている。
 魔法式は脳のシナプス回路に似ている。
 つまり、人間の心が全て解明されない限りは、魔法の完成もないだろう、と大魔法使いたちは言う。双我もそう思う。
 少なくともすべてが明らかになるか、あるいは闇に葬られるのは、自分が死んだ後のことになるだろう。
 それでも、いま使える魔法ぐらいのことは、覚えておいても損はない。
 大別して二種。
 攻性魔法と防性魔法。それに特異魔法がイレギュラーでいくつか。しかし、ほとんど使われないか、あるいはせいぜい戦術の味付けになるか程度。
 攻性魔法と防性魔法は、それぞれ最初に魔法式に組み込む時に分量を決めなければならない。
 攻性魔法7、防性魔法3の魔法式で組めば、攻撃型の魔法使い。
 防性魔法8、攻性魔法2の魔法式を編めば、バックアップ型。
 特異魔法は、使いたければ、その隙間に入れる。
 作成した魔法式はカートリッジと呼ばれる装置に記録し、出力装置である魔法剣に挿入する。
 それを振り回せば、それだけで立派な魔法使いだ。魔法剣のグリップが、持ち主の魔法素質を認証して、それに相応しい火力と安全を提供する。
 カートリッジはかさばるので、剣のようにリーチにあるものに挿入するのが適正であると言われている。また、実際の剣技が白兵戦で役に立つのは誰もがお望み通りの知る通り。
 双我はシャーペンの先でノートを叩きながらあくびをした。
 やっぱりやるなら実戦だな、と思う。
 双我は教室の窓から外を見やった。
 結界が緑色の蜘蛛糸のように張り巡らされた中で、三年生が魔法実技の実習中だった。
 魔導装甲を身に着けたハイブリッドな現代の騎士たちが、魔法剣を振り回しては爆炎や槍氷を放ち合っている。
 救護官がイライラした様子で、グラウンドの端から足踏みしていた。かなり危険な動きが多いクラスだった。
 ネットで止められた爆炎の名残が、窓をすり抜けて双我の髪を揺らした気がした。
「…………」
 腰から外された魔法剣の違和感が、抜けない。
 双我は頬杖を突いて、教室の黒板を見直した。
 空いた左手が、自然とノートに一人の名前を記し出す。
 朝霧空也。
 容疑者の一人、朝霧家の令息。家門の位は神沼のそれと同格。
 魔法庁ではなく、代々が魔衛軍の陸軍高官の一族。
 行政の神沼、戦争の朝霧、と言ったところか。
 資料は穴が開くほど見た。
 潜入前、双我はほぼ確実にこの朝霧空也が反逆者だろうと目星をつけていた。
 だが、追い詰めて諮問することは今は出来ない。
 朝霧空也は行方不明になっていた。
 原因不明。目下捜査継続中。しかし芳しい証拠も足取りも掴めていないのが実情。
 つまり、蒸発。
 双我は、暗記している朝霧の情報をノートに書き出した。目は虚空を見ている。
 十七歳、『レギュレスの都』在学。三年生。成績優秀、しかし品行不正。
 血筋の割に粗野な言動が多く、他者の憎しみをよく買っていたという。
 魔法暴発に見せかけた私刑行為が二度、摘発され、停学処分にされかかったが、いずれも親が多額の寄付を学院に施し、不問。
 成績上、極めて優秀な攻性魔導師。しかし、防御面に難有り。
 もしなんらかの事件に巻き込まれて失踪したなら、おそらく白兵魔導師級のウィザードに襲撃されたものと思われる。
 もちろん、朝霧も自由帯剣を許されている高潔種。
 朝霧は、神沼塵とは、入学当初からイザコザを起こしている。
 塵が、ある程度の人望を維持しているのは、わかりやすい悪党の朝霧と敵対していたからだ、とクラスメイトの誰かが噂しているのを昨日、双我は聞いた。
 二人は決闘まがいのことまでしたことがあるらしい。その時の勝者は、神沼塵。それから朝霧は並々ならぬ憎しみを塵に抱くことになった。
 その憎しみが反逆者への道を、わかりやすい強さを、『猫へと至る階(きざはし)』を望む切っ掛けになったのか……
 朝霧空也。
 生きていれば、反逆者。
 そうでなければ、おそらく。
「……ってところか」
 コロン、とシャーペンを転がした双我を、不思議そうに蜜柑が見やる。
「どうしたの? 双我くん」
 蜜柑は不思議そうな顔をしていた。

 双我はホコリをかぶった書籍の背表紙をすっと指で撫でた。
 灰色の汚れを指先で確かめつつ、ズラリと並んだ書架を見渡す。
 ポケットの中には受付の図書委員の目を盗んでギッてきた図書カードの束。
 それをぺちぺち捲りながら、余所者を見るような視線をあちこちに飛ばしている。
 学立図書館B12F。
 禁書区画だが、冒険好きな高潔種がたまに出入りしているらしく、安全機構はザルだ。
 魔法機関室の方に忍び込んで、ちょっといくつか回線に眠ってもらえばラクに鍵は開いた。
 さて。
 猫になろうとしている鼠がいるということは、それは禁則指定されている黒魔法を扱っているということ。
 魔法都市国家への反逆、つまり独立蜂起にはどうしても『猫』の力が要る。
 しかし、猫狩りに猫が参加するわけはないし、そもそも猫を少数の鼠が支配下に置けた試しなどない。
 ゆえに、必ず、反逆者がいるなら、彼らは独自に黒魔法の研究をしているはずなのである。
 学校では決して教えてくれない闇の裏技を。
「…………」
 手持ちの図書カードの名前を素早く目で繰っていく。
 神沼塵。朝霧空也。赤宮猛。桜井隼人。新田真司。ほか若干名。
 赤宮、桜井はくだんの『挨拶』で塵のそばにいた取り巻き二人。朝霧と塵は第一容疑者なので当然調査必須。新田真司は、蜜柑の兄。
 彼は三年前まで、この『レギュレスの都』に在籍していた。当然のように、成績優秀。生きていれば魔法庁への入庁は確実と言われていた。専攻は時空魔法。主だった友人はなし。
 蜜柑本人は、入学したてで貸出記録はまだないため、カードは盗んで来なかった。
 が、入学が決まって蜜柑が上京してきたのは一ヶ月前。
 それから足繁く、『見学』という名目で学園を訪れているのを、何人かに目撃されている。
「…………」
 双我は、黒魔法に関する本を指の腹で叩きながら、地下書架を歩いた。
 図書カードに禁書貸出の記録がないのは当然。閲覧さえ、高潔種ならば、という理由で黙認されているだけであり、公になれば罰金では済まない。逮捕拘禁まである。双我が図書カードを盗んできたのは、それでも黒魔法への記述がある一般書籍は少数ながら存在しており、そういったタイトルが並んでいないかと軽く期待していただけのことだ。
 記録が存在していないのは構わない。
 問題は、ここにある禁書がこの数年、誰にも触れられた形跡がない、ということ。
 双我はぽりぽりと頬をかきながら、眉根を寄せた。
 おかしい。
 反逆者がいるなら、必ずここにあるような禁書を手本に魔法実験を行う必要がある。
 独学で黒魔法を編み出すというのは、枯れ木を組み合わせてスーパーコンピュータを作ろうとするようなものだ。
 無限の時間と手順を駆使しても足りない。ましてや鼠には。
(どういうことだ……)
 神沼塵、もしくは朝霧空也はそこまでの天才だったということか? 黒魔法といっても、既存の魔法の延長線上ではある。双我が思っているよりも、軽い奇跡の可能性はなくはない。
 あるいは、と双我は思う。
 反逆者は確かにいる。
 が、その実験は独学による勝手気ままなお粗末そのもので、子供の児戯も同然。結果は得られないが、一応、反逆意思アリということで、粛正だけはしておこうという上の方針だったのかもしれない。双我には、反逆者アリという情報しか落ちてきていない。もしこの推理が当たっていれば、双我は何も心配しなくていい。反逆者はほったらかしておいても、双我を殺すこともできなければ、独立蜂起も出来ないだろう。
 いずれにせよ、ここからこれ以上の情報は抜き取れそうにない。
 双我はいくつかの黒魔法に関する古書をパラパラとめくってから、それを棚に戻した。そこには鼠が猫へと至るいくつもの道筋が記載されていた。
 もちろん鼠は猫にはなれない。
 ただ、猫より大きく肥え太ることは鼠にも出来る。
 双我は子供の頃、豚のように大きな鼠を見たことがある。魔法によって巨大化された品種だったが、凶暴で、人間の手足くらいなら平気で噛み千切れる。よくそういった巨大鼠を相手に魔法剣を振り回したものだ。弾ける肉片、舞い散る血潮。
 思い出しても眠くなる。
 自分を殺すことができない敵を吹き飛ばすなんて、目覚まし時計を止めるよりも億劫だ。
 少しだけ物思いに耽った。
 普段の双我なら、こんなところでグズグズと立ちっ放しにはなっていなかっただろう。情報が取れなければ禁書区域など危険地帯でしかない。すぐに撤退し、なんの意見も表情も持たない学生の姿に戻ればよかった。だが、双我は単独潜入に慣れすぎていた。緊張はあった。だからこそ、緩んだ。
 ……いっそ接敵した方が目が覚める、くらいに思っていたのは否定できない。
 その暗い望みはすぐに叶った。
「……何をしている!」
 女性の声が暗い書架に響き渡った。司書か、と思い、双我はゆっくりと顔を上げたが、その目に映ったのは濃紺の警備甲冑に身を包み、腰には魔法剣を提げた女性衛士の姿だった。凛とした表情を張りつめさせて、衛士は双我に近づいてきた。
「生徒だな? ここで何をしている。学籍番号と名前を言え」
「学籍番号45D6822。氏名、中岡拓真」
 嘘はつくに限る。
「すいません、ああ、しくじった。いや、ほんの好奇心だったんですよ。参ったな。友達と賭けをしましてね。肝試しですよ。貴女も学生の頃は、ちょっと危ない橋を渡ってみたかったものでしょう? ああ、わかってますよ、この本はすぐに戻します……」双我は手の書籍を棚に戻し、笑った。
「ね? なんでもない。僕は本を棚に戻した。ここにある四半本を隠し持てるようなバッグも持ってない。ここでは何も起こらなかった。それで許してもらえませんか」
「腕章はどうした」
 衛士の手は魔法剣の柄にかかっていた。双我の目がそれを掴んで離さない。
 しめた。
 この女、俺を高潔種かどうか考えている。学園と話のついているグリーンを捕縛したとあれば、職を失う可能性もある。それを恐れているわけだ。
 双我はため息をついてから喋ってみた。
「すいません、信じてもらえないとは思いますが、腕章はいま持ってないんです。もちろん僕はグリーンなんですが。困ったなあ、こういうことってあるんですね。本当に、僕、腕章をちょっと汚してしまって、さっき洗濯に出したところなんですよ」
「高潔種は腕章を決して汚さない」
 冷たく切り返してきた衛士から、殺気が立ち昇った。チッと双我は内心で舌打ちをする。確かにそうだ。貴族のお坊ちゃん方が、『自分』が『自分』である証をおいそれと汚したり、外したりするもんか。俺だってそう思う。参ったな。
 これは戦闘になりそうだ。
「僕は中岡家の人間ですよ。上と連絡を取らなくていいんですか? 脅すようで申し訳ないが、庶民であるあなたが、僕のような貴種の顔に泥を塗ることは許されていない」
「お前が本当に貴種なら、魔法剣を帯剣していないのはなぜだ?」
「あっはっは」
 交渉終了。
 女性衛士が一歩、猛禽のような勢いで踏み込んできた。居合抜きするつもりだろう。身を獣のようにたわませている。一瞬が何分割もされた時間の中で、双我はぼんやりそれを見ていた。魔法剣は持っていない。手加減はできない。幸い、書架の中は暗く、顔はハッキリ見えていないはずだ。わざわざ魔力灯を一つこのためだけに予め壊しておいて正解だった。それにしても、
 この狭い書架の通路で居合斬とは、呆れたもんだ。
 双我は一瞬で勝った。手順は簡単。左手で、書架の庇を掴み、それを思い切り引っ張った。書架は一体型ではなくある程度でそれぞれ分割されており、本がぎっしり詰まっているとはいえ、思い切り引けば動かすことはできた。
 抜刀にはある程度の空間が必要だ。
 書架を引いてその空間を小さくしてやれば、衛士の右肘は急に接近してきた書架に激突し、
「!」
 剣は抜刀しきれず、半ばで止まる。
 そして魔法剣は、抜刀しなければ使えない。
 双我は動いた。まず衛士の懐に忍び込み、
 ぽふん
 胸を揉んだ。
「!?」
 衛士の顔が赤くなる。双我はニコニコしている。確かに弁解はしない。揉みたくて揉んだ。しかし、望んだ効果はそれだけではない。衛士は動揺しているが、そこにはこんな期待が少しだけ混じっている。
『この戦闘はひょっとして、ただの冗談だったりするのだろうか?』
 そんなわけない。
 双我が欲しかったのは、衛士が膝蹴りをしてこない保証。一瞬の停滞。それは得た。だからのんびりと、優雅な手つきで、
 抜き取られかかった衛士の魔法剣を、空いた右手で鞘ぐるみ掴んだ。
「あっ」
 そのまま双我は、剣を右から左に振り抜く。
 笑いながら。
 鈍い音。
「ぐあっ……あっ……」
 鞘に収まったままとはいえ、鋼鉄製の魔法剣の殴打を肋骨に受けた衛士は、そのまま床に崩れ落ちた。双我は悠々と鞘から剣を抜き放った。剣の刃紋が鞘の中に仕込まれた認証コードを通り抜けて、魔法の使用に許可が下りる。攻性魔法2、防性魔法8のガードマン・スタイル。全然問題ない。全然使える。
 衛士は痛みに悶え、白い泡の欠片を口の端から零しながら、涙目で見知らぬ学生を見上げた。
 他人の剣を振り上げる。峰打ちなどはしなかった。
 振り抜いた双我の剣から、裂帛の殺意と共に紅蓮の炎が迸った。
 破壊だけが、そこに残った。

 双我は剣を鞘に納めると、気絶している衛士の側へ放り投げた。盗んだところで隠し場所がない。
 学生服のポケットに手を差し込み、1ダースにパックされた錠剤を取り出した。その一粒をパチンと割り落とし、気絶した衛士の唇の奥に押し込んだ。軽めの記憶浄化剤だった。ここ二、三日の記憶が飛ぶ。何かいい思い出でもあれば可哀想だが、仕方ない。
 生きてさえいれば、思い出なんてまた作れる。
 たぶん。
 双我は立ち上がり、警報装置の音を聞きながら、書庫を後にした。走り去る時に、燃やし尽くした黒魔法に関する古書の破片が、その靴を汚した。

 カートリッジが抜かれていたらしい。
 もちろん双我は、やっていない。
 衛士の魔法剣は禁書区画に置き去りにしたままだ。
 べつにカートリッジに充填された蓄積魔力が欲しかったわけでもない。
 発動機だけあってもフレームがなければ、刀身を鞘でリコードさせなければ、魔法は使えないからだ。
 双我にはカートリッジは必要なかった。
 だが、抜かれていたらしい。
 教室の中央で女の子のクラスメイトたちがひそひそと囁き合っている。蜜柑もその輪の中にいて、おずおずといった感じで、話題に入ろうというそぶりだけ見せている。時々チラチラと双我の方を心細げに見やってくるので、微笑んでやると安心したように頷いていた。それを横目で眺めながら思う。
 学院は、生徒の所持品検査をするつもりだ。
 それ以外には考えられない。レギュレスの運営委員は禁書区画での事件を極めて重大なトラブルと認識しているらしい。当たり前の話ではある。自宅の物置が夜の間に誰かにブッ壊されていたら誰でも国家権力に通報するだろう。見て見ぬフリなど本人がしたらそれこそ怪しい。
 問題は、レギュレスが『黒』かどうかだ。
 学院そのものが魔法貴族の反逆行為に加担している可能性はある。少しある。通常は、学院はその手の黒魔法には関与しない。儲からないし、危険だし、さほどメリットもない。学院はセンスがあろうとなかろうと、貴族のお坊ちゃまお嬢様を教育して金を稼ぐための組織だ。何もわざわざ手を差し出したら小切手の代わりにお縄を頂戴する必要などない。そんなことしなくても金は音を立てて落ちてくる。雲の上という名の貴族社会から。
 が、レギュレスの金主である神沼家の当主は、極めて猫嫌いのお殿様だから、鼠をチマチマ育てるどころか手っ取り早い『猫殺し』の手段である黒魔法を支援してもおかしくはない。もしそうならこの学院は真っ黒だ。双我は竜の胃袋の中にいるのも同然になる。思わず笑う。この推理が当たっていたらたぶん俺は死ぬ。
 だが、双我が派遣されたのは『学院内での黒魔法使用の形跡』が探知されたからであって、『神沼当主に反逆の疑いがあるから』ではない。だいたい、反逆なんていう青臭いことをやるのは喰うに困らぬ学生と相場が決まっている。老人連中は今の魔法社会に文句があろうとなかろうと、それなりの自分のポスト、地位や給料、そういうものを抱え込んでいるから野望なんていちいち追わない。そんなものを追っかける奴は双我と同い年ぐらいの頃からかたっぱしから死んでいくだけだろう。双我もそういう鼠や、あるいは猫を何人も見てきた。勇者は死ぬ。それが真理。
 反逆者はこの学院の中にいる生徒の誰か。
 その基本方針を双我は変えないでおくことにした。
 いずれにせよ、学院が近々所持品検査を打ってくるのは間違いない。レギュレスが黒なら鼠狩りにやってきた潜入捜査官を、レギュレスが白なら禁書区画に好んで入るような黒魔法愛好者を、それぞれ炙り出して消そうとするはずだろう。どっちだろうと『所持品検査』は絶対に行われる。黒魔法に関する道具か、さもなければ隠して持ち込まれた魔法剣が発見されると読んでくるはず。
 もちろん双我は魔法剣を所持していない。
 いつもより軽くなった腰に左手を当てながら、双我は考え続ける。
 所持品検査をされても双我は痛くはない。が、反逆者はどうだろう。この事件をどう捉えているのだろう。もちろん反逆者は黒魔法に手を染めてしまったわけだから、追手が訪れたことを悟っただろう。仮に禁書区画での白刃騒動が反逆者となんの関係もなくても、恐れないわけにはいかない。
 双我の目が教室を舐めるように渡った。
 一見すれば、いつもの教室。
「…………」
 やはり朝霧かな、と思う。
 姿をくらませた優等生。
 奴が反逆者ならこの学院にはもう残っていないだろう。とはいえ、お坊ちゃまが野に潜り山を抜けて僻地で黒魔法の研究に打ち込んでいるというのも考えにくい。レギュレスは魔法技術の最先端だ。大型の機材を必要とする黒魔法研究の場としてこれほど相応しいところもそうはない。朝霧が反逆者なら、潜伏し続けていて欲しいところだ。
 見つければブッ殺すだけで済む。
 朝霧が生きていて『白』ということはないだろう。
 双我は組み合わせた手を伸ばして、指と指を突き合わせた。まるでそれが深遠な数式に繋がっているかのように、じっとその繋ぎ目を見る。そばで女子が「なんか双我くんの目ぇ怖くない?」などと失礼なことを言っているが無視する。
 双我は決めた。
 まずは朝霧を洗う。
 昼の鐘が鳴るとすぐに、双我は席を蹴って立ち上がった。

 そして、二週間後。
「この間は、どうも」
 双我は、別に上背がある方ではない。
 痩せ気味の中背、目立たない人間だ。が、それでも少女と見間違うように小柄な桜井隼人――神沼塵の取り巻きを校舎裏の壁に追いやって、その身体で太陽光を遮ったりなんかすると、ちょっと強面のお兄さんに見えなくもない。
 桜井は、いきなり誘拐されるように無人の空間に連れ込まれて、怯えたウサギのような顔をしている。
「畜舎から汚水をわざわざバケツで汲んできてくれたのは、桜井先輩ですよね」
 双我がニヤニヤ笑って言うと、桜井は失神しかけたのか、膝がかくんと落ちかけた。
「な、何を言ってるの。ええと……双我くん? 僕は……そんな。あれは……誰かが」
「目が良くてね」双我は自分の両眼を指で示した。
「先輩の袖が茶色く汚れてるの、あのとき見ちゃったんだよなァ。もちろん俺の方が汚れてましたけどね」
 桜井は息も出来ない様子。
 が、双我のこの目撃証言は根も葉もない嘘だ。そんな汚れなど見ていない。が、塵、赤宮、桜井のいつも一緒のなかよしトリオの中で、誰が一番下っ端かといえばこの桜井だろう。あんな汚水を貴族のお坊ちゃん二人がわざわざ運んだりはしない。桜井は確か父親が鼠から成り上がった二代限りの高潔種で、魔法庁専属の公営ドライバーギルドの人間だったはず。双我は頭痛を覚えながら、ジャンクフードのように詰め込んだ容疑者たちの情報を洗い直した。いつの時代も、成り上がり者は相当やり手でない限りは好かれない。
「せっかく入学してきた新一年生にあんなことするなんてひどいじゃないですかァ」
 クスクス笑いながら双我は桜井の胸元を指でなぞった。桜井は青ざめて今にも吐きそうだが、双我も自分の行為に吐き気がしている。だが、自分で自分を嫌いになれるくらいじゃないと、脅迫なんて出来たものじゃない。
「傷ついたなァ。学校やめよーかなーなんて思っちゃいましたよ。ねえ、俺なんかそんなに悪いことしましたかね。顔が気に入らないとか? よく見てみます? 目の中におでこ突っ込んだらちょっとは見やすくなるかなァ」
「や、やめて……」
 双我は相手の制服の胸倉を掴んで、壁に叩きつけた。
「ぎゃっ……」
「まだるっこしいことはなしにしましょう。俺の母親は朝霧空也の遠縁なんです」
 桜井は咳き込みながらも、双我の話に興味を持ったようだった。
「朝霧先輩の……?」
「ええ。宗家の令息が行方不明となっては、分家としても放っておくわけにはいかない。だから俺が派遣されてきたんです。朝霧姓じゃ何かと不便なんで、神沼家の当主殿に内密に家に入れてもらう形になりましたが」
「それは……いや、ちょっと待って、それが僕にどんな関係が?」
「神沼塵と空也様が揉めていたことは聞いています」
 制服を整える桜井から一歩引き、双我は腕を組んでニレの木にもたれた。
「ハッキリ言います。その一件がなんらかのトラブルを引き起こしたものと、朝霧家では考えています。ですが、神沼塵が空也様に何かしたのなら、当主方がこの俺を居候させるわけがない。同時に神沼へのスパイ行為はしますからね、もちろん。ですから、いいですか桜井先輩、ついてきてますか? ……朝霧家では、空也様ご自身が『自滅』に近い何かをしたと考えている」
「自滅……」
「ええ。ですから俺は、行方不明の空也様を発見し、宗家へ連れ戻さなければならない。醜聞があるなら、それを揉み消してからね」
 だから、と双我は嘘を吐き続ける。
「俺は空也様と面識はなかった。だから、神沼塵と近いところにいて、例の『決闘騒ぎ』もそばで見ていたあなたに、空也様の人となりをお聞きしたい。空也様は幼い頃から学問探求のために家から離れてお育ちになられた。家族であろうと、彼の心の深いところは誰も知らないまま今日に至っているんです。どうでしょう。情報を提供してくれませんか」
「…………」
 桜井は何度か何か言いかけたが、結局は黙った。双我は焦れた。
「どんな人だったかだけでいいんです。それだけでも……」
「強い人だった」
 ぽつん、と桜井は零した。双我はそれを見ていた。
「強くて気高くて……粗野なところもあったけど、僕には優しいところもあって」
 双我は何も言わない。桜井は続ける。
「ただ、ジンさんのことは嫌いらしくて……二人ともプライドが高いから、合わないところがあったんだと思う。何かことあるごとに衝突して……」
「それで?」
「……べつに。それだけ。ある日、突然朝霧先輩はいなくなった。ジンさんはそれについて何も言わなかった。それ以上のことを僕は何も知らない。ただ、君が本当に朝霧家の人間なら……」
 そこで桜井の言葉が止まった。双我が顔を上げると、桜井の視線は双我を向いてはいなかった。
「そこで何をしている」
 振り返る。
 神沼塵が立っていた。
 双我のこめかみから汗が伝った。
「朝霧先輩のことを桜井先輩にお伺いしていたんですよ、塵さん」
 塵は、その端正な顔に醜悪な嫌悪感の影をほんの少し見せた。
「貴様が俺の名を呼ぶな。汚らわしい」
「それは失敬」双我は素直に謝った。
「弁解を続けてもいいですか? 神沼家のご令息殿閣下、ハイル・カミヌマー」
 ぶっ殺されるかと思ったが許された。
「俺はちょっと個人的に朝霧先輩を崇拝していまして」
 双我はここぞというタイミングで、一瞬だけ、桜井に視線を送った。
 さっきの話は黙ってろ、と。
 ここで桜井が「この人、朝霧先輩の遠縁で、調査に来てるんですって」などと言おうものなら塵は親父にすぐチクって嘘はバレ、双我は一巻の終わりだ。が、桜井は本物の上流階級ではない。こういった場では庶民は黙っておくのが得策だと身に染みていれば、余計なことは言わないはず。
 それが奴隷というものだ。
 幸か不幸か、桜井はやはり、沈黙を選んだ。双我は吐き気を覚えながら続けた。
「どんな人だったのかなァ、と思って、桜井先輩にお聞きしてたんですよ。課外授業ってやつですかね。真面目でしょう、俺ってやつもなかなかどうして」
 塵は鼻で笑ってきた。
「よく喋るゴミだな、お前」
 双我は言葉に詰まった、
 フリをした。
 いいタイミングで罵倒してくれるものだと思う。ここで詰まっておけば双我が『この程度でカンの虫を起こしかける程度の男』と塵は侮ってくるだろう。それでいい。ここは学校、使えないからといきなり切り捨てられたりはしない。弱者には弱者の位置があり、役目があり、帝王学を鼻から吸って生きてきたこのお坊ちゃんは、屑箱には一定のゴミが溜まっている方がどの箱が屑箱なのかわかりやすくていい、そんな思想をお持ちのはずだ。
 舐めてくれて構わない。
 この場を切り抜けられるなら。
 顔をひきつらせながら、双我は演技を続ける。
「……どういう意味ですかねぇ。俺はこれでも、アンタと一緒に暮らしてる身なんだが」
「だから?」
 塵の鉄面皮は震えもしない。
「神沼に奉仕したいというのなら、今すぐこの場から消えろ。死んでくれてもいい。最近、食堂の空気が濁っていて困るんだ。水葉の身体にも障るかもしれない」
 多弁だな、と双我は塵を評価する。胸の内だけで眉根を寄せる。スマートな貴公子様にしては、罵倒がちょっとストレートになってきた。
 朝霧のことを調べていたのが、そんなに気にかかったか?
 双我は細く息を吸ってから、吐いて、笑った。
「面白いことを言いますね。魔法貴族はジョークも名手というわけだ」
「本音なんだがな」気取って肩をすくめる塵。
「なるほどなるほど」双我はウンウンと頷く。
 ここでカードを切る。
「朝霧空也のことを調べられたのが、そんなに業腹ですか。彼とはライバルだったわけですもんね。意外とアンタ、俺のこと好きなんじゃないですか? 嫉妬でしょ、それ」
「桜井、ひょっとしてこの男は頭がおかしいのか」
 塵が不思議そうな顔をして、珍しい虫でも示すように双我を指した。桜井は曖昧に笑っている。
「少しだけ腹が立ってきたな。ここで捻り潰してやろうか」
 それはこっちのセリフだった。
 双我は塵の魔法剣を見る。
 本気で抜いてきたら、殺すしかなくなる。
 塵を殺せば、本命は逃げるだろう。赤宮あたりが反逆者の可能性もまだ残っている。あのニヤニヤ笑いのいけ好かないクズ野郎は、仲間がやられたとなれば尻尾を巻いて逃げだすだろう。それぐらい潔い鼠は、なかなか捕まえにくいのだ。
「やりますか?」
 半ば本気で双我は聞き返した。やるなら仕方ない。塵が反逆者なら殺せば終わりだ。悩む必要などない。
 いっそ殺っちまうか。
 だらりと下げた双我の右手がわずかに動きかけた時、桜井がいきなり喋り始めた。
「こっ、こういうのはどうでしょう」
 塵が、少し目を丸くして桜井を見た。
「桜井? どうした」
「双我くんは朝霧先輩のことを知りたいそうです。朝霧先輩のことを一番よく知っているのは、ジンさんでしょ。だったら、双我くんは、ただ教えてくれじゃなくて、ジンさんと『模擬戦』でもなんでもして、自分の行為を現実化するべきだ」
「難しい言葉を並べたてられて僕はすっかり困惑なう」
 双我は生真面目な顔で言った。
「が、要するにそれは、俺とカミヌマーに決闘をしろ、ということかな? 桜井先輩」
「そ、そうだよ」
 桜井は双我を、消えていなくなってほしいけど殺すまではしたくない……といった程度の虫を見るような目で見た。
 桜井としては、自分に関わって来た貴種、朝霧(偽だが)と神沼、どっちに組しても相手からの恨みを買いそうなので、折衷案を提示してこの場から撤収したいのだろう。いいぞ、と双我は思った。神沼はどうする気か知らんが、俺はそれで構わない。
「いいだろう」
 塵は、柄にかけていた手を離した。
「桜井、学院に決闘申請して来い。すぐにやる」
「え、す、すぐにですか? もうちょっと時間を置いてからとか」
「すぐだ」
 塵は氷のような目で双我を見た。
「お前が勝てば、朝霧のことを教えてやろう。もっとも何も知らんがな、あんな愚物のことは」
「あんたが勝ったら?」
「べつになにも」塵は澄ました顔で言った。
「お前から欲しいものなど何もない。力でも、知でも。ああ、晩飯抜きなんてのはどうだ? お前のような穀潰しには辛いだろう?」
「あっはっは」
 双我は笑った。
「勝ちますよ、俺は」
「やれやれ」
 塵は肩をすくめて、去っていった。決闘場に向かったのだろう。格技棟の奥にある。そこで朝霧と塵は去年、雌雄を決したらしい。
 双我は一人、取り残されて、意味もなく地面を蹴っていた。
 決闘か。
 悪くない。

 四月の終わりにしては日差しが強かった。
 双我は擂鉢型の決闘場にいた。観客に混じって、当たり前のような顔で頬をかいている。貸し出された魔法剣はガラクタのように地面に置かれていて、それを周囲の生徒が「大丈夫か、こいつ」みたいな目で見ている。そんな双我に跪くようにして、蜜柑が魔導装甲を着せてやっていた。これ無しで破壊魔法のやり取りでもした暁には大魔法使いでもド素人に殺されてしまう。黒銀の鎧を着た双我は、騎士に見えそうで、しかしどうも変装した盗賊にしか見えない。
 あくびをひとつ漏らした。
「眠くなってくるな、こんなにポカポカしてると」
「双我くん、そんな呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ」
 蜜柑はちょっとプンスカしている。
「神沼先輩と決闘だなんて……正気じゃないよ。何考えてるの?」
「何も考えてないよ」
 思いっきりぶったたかれた。
「怒るよ?」
「すんません」背中がひりひりする。
「もう……」
 はあ、とため息をつく蜜柑。
「防性呪護付の魔導装甲着てたって、本物の魔法剣を使って斬り合いするんだよ? ダジャレやジョーダンでするようなことじゃないよ、決闘なんて」
「いやダジャレではねーだろ」
「四の五の言わないっ!」
 ビシッ、と指を突きつけられてしまった。双我は苦笑する。
 なんかいつの間にか仲良しになっているなあ、なんて思う。
「怪我なんてしたら許さないからね」
「許さないって……いったいナニモンだオマエは」
「保健委員」
 マジかよ、とそばにいた男子に聞くとまじめな顔で頷かれた。
 双我は深々とため息をついて、諦めたように蜜柑を見る。
「あのな、男には色々あるんだよ、蜜柑」
「そんなの知らないもん」
 擂鉢の底を見下した誰かが、歓声を上げた。
 手すりにもたれて見下ろすと、白銀の魔導装甲を身に着け、顔面をすでにヘルメットで隠した神沼塵が入場門から出てきたところだった。双我はチッと舌打ちする。
「女子供が好きそうだな、ああいうの」
「でもカッコイイよね。双我くんも見習った方がいいよ」
 木陰から虎が通り過ぎるのを見送る小リスのように、蜜柑が塵を見下ろしながら言った。
「なんだかみんな、やたらと俺にあの人を見習えって言うよね」
「それが正しいことですから」
 振り返ると、黒髪白貌の神沼水葉が、絶対零度の眼差しを湛えて、階段の半ばに立っていた。双我はニヤっと笑って片手を挙げたが、水葉は氷槍のように刺々しい。
「やあ、お嬢さん。兄貴のお世話はいいのかよ」
「兄には専属の従者がいますので」
「それはよかった」
 水葉がチラっと蜜柑を見る。
「あなたは?」
「えっ?」
 蜜柑はなぜか真っ赤になってへどもどしている。
「え、えっとあたしはその……」
「……双我さんの恋人ですか?」
「なっ!?」
 いやー実はそうなんだよ、とへらへら相槌を打った双我の鳩尾に蜜柑のショートエルボーがブチこまれた。双我、悶絶。
「違うの神沼さん! 誤解しないで! だっ、誰がこんな悪者っぽい人と」
「出会った頃に戻りてえ。初対面の頃はこんな子じゃなかった」
 愚痴る双我の頬をぎりぎりぎりとつねり上げながら「あはははは何を言ってるんだろうねえこの人は」と蜜柑は狂人のように笑う。
「っていうか、えっと、初めましてだよね? 神沼さん」
「……そうでしたか? 失礼しました、私、神沼水葉と申します。あなたは?」
「新田蜜柑です。あの、隣のクラス。えへへ」
 蜜柑は自分を指しながらヘラヘラしている。
「えっと……お近づきになれて嬉しいです。神沼家なんてものすごいお金持ちだし……」
「お金持ち?」
 水葉の眉がぴくんと動いた。カンの虫と連動しているらしい。
「神沼は名門です。成金上がりのような呼び方は控えてもらえますか」
「えっ、あっ、す、すみません……」
 しょんぼりする蜜柑。どうも水葉と仲良くなりたかったらしい。が、呆れたようなため息をついて首を振る水葉を見るに、秘密作戦は失敗に終わったようだ。
「類は友を呼ぶですね。双我さん、あなたの失礼な態度がこのような仲間を作るのです」
「それひどくねえ? 全部俺が悪いの?」
「そうだよひどいよ神沼さん! あたしは失礼な仲間なんかじゃないです!」
「まったく……騒々しい。これが庶民というものですか」
 水葉は事あるごとに庶民庶民と言うので、周りが少しざわつく。
「お兄様のことを時々、苛烈かと思う私でしたが、どうやら私の見識不足だったようです」
「どうやらそうらしいな。ま、気にするなよ」
 双我はむき出しの素手をぐっぐっと揉み解しながら言った。
「今から本物の庶民の戦いってのを見せてやるからよ」
 水葉の顔に緊張が走る。
「……それは楽しみです。お兄様に歯向かったことを精々後悔するといい」
 子供が聞いたら泣き出しそうな冷たい声でそう言い放つと、水葉は黒髪を翻して去っていった。双我はその後ろ姿を蜜柑と共に見送った。
「おいおい、『精々後悔するといい』って、女子高生が使う言葉じゃなくね?」
「カッコイイ……」
 蜜柑はぽーっとしている。
「お姉さま……」
 双我は聞かなかったことにした。なんか目が怖いから。
 その時、会場にアナウンスが流れ、双我の名前が呼ばれた。よし、と立ち上がる。
 パシン、と素手の拳を打ちつけた。
「いくか」
「気を付けてね」
「任せとけ」
 そしてかねてから頭の中でリハーサルしていた通りに、手すりを飛び越えて、擂鉢の底へ一気に飛び降りた。おお、と歓声が(主に男子から)上がった。鎧の色といい、味方の層といい、つくづく神沼塵とは正反対の男が決闘の舞台に現れたことになる。
 双我はゴキゴキ首を鳴らしてから、目の前に立つ白銀の騎士に言った。
「どーぞ、お手柔らかに」
 白銀の騎士はそっぽを向いている。妹の姿でも探しているのか、あるいは自分の信奉者でも数えているのか。どちらにせよ、すぐにその態度は改められることになる。双我は小脇に抱えていた虫籠型のヘルメットをかぶろうとした。
 その手を掴まれた。
「双我選手」
 制服を着た、三年生の男子がひそひそと囁いてきた。
「グローブを着用してください」
 双我は素手である。
 あはは、と笑った。
「いいんです、俺、素手の方がやりやすいから」
「グローブの着用は義務なので」
「魔導装甲の防性呪護は別にグローブなくたってカバーしてくれてるでしょ。かすり傷は増えそうだけど」
「そういう問題じゃない。規則なんだ。つけてくれ」
 双我と審判が何か揉めているようなので、観客席がどよめいていた。
 双我は心の中で舌打ちした。
(……グローブ?)
「持ってないです」
「一式貸し出されたはずだ」
「いや、どっかいっちゃってさ。困ったなァ、もう時間ないし……始めちゃいませんか。大丈夫、俺なんてすぐ負けるって!」
「それならなおさら防具は必要だろ?」
 双我もそう思う。
 だが、ここでゴネ切らないとまずい。
「いらないって。いいんだ。これは男と男の決闘。防具は少ないに越したことはない」
「何言ってんだお前」
 なおも双我が言い募ろうとした時、
「双我くん、これを受け取ってぇーっ!!」
 観客席から蜜柑が黒二双の魔導手甲をブン投げてきた。一個七万円はする高級素材で出来たグローブが地面に当たってびっくりしたウサギのように跳ねたのを見て、双我はいよいよ笑い出した。審判が心配そうな顔で双我を見ている。気にせず、双我は落ちてきたグローブを両手に嵌めた。着心地はいい。腰に提げた魔法剣の柄頭をわずかに直して、言った。
「お待たせ。じゃ、始めましょうか、先輩」
 鎧の中の神沼塵が、ようやく双我を見たようだった。双我は柄頭をトントンと指で叩きながら、試合開始までを数えるカウントダウンを聞く。
 やべぇ。
 死ぬかも。

 白銀の騎士が、抜き放った魔法剣の切っ先を、地面スレスレまで下げた。鶺鴒のように、ゆらゆらと剣先が揺れている。
 双我は黒銀の鉄仮面を左手でぐらぐらと揺さぶった。まだ、抜刀はしていない。
 試合開始の鐘は鳴らされたが、まだもう少し、様子見をし合おうぜ、というサイン。
 塵はそんな双我を知ってか知らずか、動かない。
 作戦の第一段階がすでに失敗している双我にとっては、本物の決闘になってしまった今、かなり形勢が悪かった。
 左手で鞘を掴み、剣を抜く。双我の構えは酷い。右腕をぐっと張って、嫌がる子供を引きずってきた父親のように、乱暴に剣を水平に構えている。観客席から笑い声が上がった。構わない。元々、魔法戦で実際の剣術がどれだけ役に立つか。火弾や氷礫が乱舞する中で間合いもくそったれもない。
 それよりは、自分の得意な攻撃方法に合致したスタイルでやった方がいい。
 現に塵も、最初から剣をアンダーに構えている。
 剣先を翻すだけで火弾の三つや四つは撃ち返せるのだから、重たい魔法剣をわざわざ上段に構えて疲労することはないのだ。
 双我の構えも、カートリッジ込みで1.7kgはする剣を筋肉に負担なく支えられる姿勢を自分なりに探し出したまでのこと。
 さて、そろそろか。
 先手を打った。双我は右手に持った剣を、そのまま踏み込んで地面に突き刺した。
 地面、圧壊。
 無数の岩礫が塵へ散弾のように飛んだ。加速魔法を剣にこめて地面を抉ったため、ちょっとした小爆発程度の威力はある。砂塵が舞った。双我は身を伏せて走った。
 白銀の騎士が黒塗りの剣を翻す。
 その姿は数多の兵を指揮する神々の戦士のよう。
 漆黒の刀身の呪紋が熱せられたように赤銅色に輝き、その隙間から炎の鳥が滑り落ちてきた。一羽、二羽、三羽、四羽――
 それがことごとく主へ向かう岩塊を自爆することによって撃墜した。塵が、剣を背後に振るう。鍔迫り合いになる。硬質な音が鳴り響き、双我の剣と塵の剣がチリチリと噛み合った。兜の暗い格子越しに塵の冷たい氷のような目が見える気がした。双我は驚いた。
(腕力じゃ勝てねぇな――)
 塵の剣は、たとえるなら『豪』の剣だった。細身な外見とは裏腹に、何もかも押し潰すような暴力の塊。魔走回路搭載の頑丈な刀身がいまにもへし折れそうだ。双我のブーツの踵が地面を深々と抉っていく。歯の隙間から自分の呻きが漏れるのが聞こえた。
(まずい――)
 剣圧を、流した。
 踊るように身を翻した双我は空中へ後転し、返す刀で二振り、返しの火鳥を七羽放った。塵の放った紅蓮鴉と比べれば弾丸とビー玉ほどの差があった。双我の魔法剣は防御特化で構成してある。それにしても、この差は酷い。
 塵は迫りくる火鳥をかわさなかった。
 その場で、地面に黒剣を深々と突き刺した。まるで大地が痛みと交換するかのように、あるいは魔王に強請られでもしたかのように、氷の魔法を吐き出した。
 雄牛の形をしている。
 その雄牛の脇腹に塵は身を隠した。降り注ぐ雨のように七羽の火鳥が氷牛の側面に突き刺さり小爆発を起こしたが、凍てついた彫像を半分ほど吹っ飛ばしただけだった。
 双我は地面に着地するところだった。そこを塵は、見逃さなかった。
 回し蹴り。
 その場で旋回し、それこそ刃物のような切れ味で放たれた足が、氷像の残り半分を今度こそ粉々にした。その破片が小型のナイフとなって、ようやく爪先が地面に触れた双我に襲い掛かる。魔導装甲の表面で、氷のナイフは全て砕け散った。双我はよろける。
 直接的なダメージはないが、魔法が身辺で弾けた時の魔放射で、精神のスタミナを少し持っていかれた。
 双我はぐっと奥歯を噛み締めた。思ったよりも、神沼塵は強い。
 というか、普通に強い。さすが名門、魔法戦も子供の頃から英才教育を施されているらしい。お手本のような防御と攻撃のスライドだった。
 魔法剣は構造上、攻撃と防御のどちらかに重視を置くか、器用貧乏を覚悟で完全にイーブンにするかの二択になる。だが、もちろん、『防御を攻撃として使う』ことが悪いわけではない。
 攻撃から防御へ。防御からの攻撃を。
 そんな風にオールマイティに戦える魔法戦士は、文句なしに一級品だ。
 双我はバックステップを取り、必死に距離を稼ぎながら心の中の自分に言った。
(基礎性能だけなら、この坊ちゃん、俺より上だ)
 双我は剣を地面に突き刺して飛翔にブレーキをかけ、剣先を引き抜きながら魔法を唱えた。
 単純な衝撃魔法だ。斬った軌跡が空間をそのまま走り抜け、相手を両断する技。
 双我にしては、かなり本気の一撃だった。
 それを神沼塵は、魔法を使うことなく、素の剣の兜割りで弾き飛ばした。
 苦も、労も、無く。
「う……」
 思わず声が漏れる。白銀の騎士のそばに、衝撃の残滓が煙のように靡いていた。
「畜っ生……」
 逆手切りしたとはいえ、渾身の一撃だった。それを、あっけなく弾く、とは。
 双我は兜の奥でぺろりと舌を舐める。
(真っ向勝負は無理だ)
(ここは距離を取り続け、遠距離戦で主導権を握る――)
 だが、それを易々と許す神沼塵ではなかった。
 双我は動こうとした。動けなかった。
 視線を肩に送る。違和感があった。
 そこには、透明な誰かの手があった。
 緑色の――
 風迅魔法。
 振りほどこうと身を捻ったが、そのまま隆々とした緑腕に担ぎ上げられる。
 無数の風の手にまとわりつかれたまま、双我は絶叫した。
「――――――――――――――――ッ!!」
 神沼塵は、ゆったりと剣をミドルに構えて獲物を待っている。その間、およそ一秒。
 双我は当然の回避方法を取った。握った剣を地面に突き立て、やはりブレーキ。
 だが、風迅魔法の威力を相殺し切れない。むしろ刀身が歪みそうだった。
 これはまずい。逆らうべきじゃない。
 だが、このまま突っ込めば待っているのは兜割りだ。
 ヤツは殺す気で剣を振り抜くだろう。
(――ふざけやがって!)
 双我は剣を地面に突き立てるのをやめた。風の手が狂喜して獲物をご主人へと送り届けようと乱舞した。
 それでいい。
 双我は、手槍のように魔法剣を敵へ向かって投げた。これはかなり塵の予想を上回ったらしい。わざわざ虎の子の武器を放り投げてくるとは思わなかったのだろう。
 受け止められたり、弾かれたりすれば、双我は空手だ。
 剣を取り戻せなければ魔法を使えない。
 だから塵は剣を弾くか、最低でも受け止めてしまうべきだった。が、そうしなかった。
 当たり障りなく、身をよじってかわしたのだ。
 風迅魔法によって投擲の威力が上がっていたのも、安直な危険回避に塵を動かした原因だっただろう。飛んでいくのは何も剣だけではなかった。
 双我は両手を広げて、一度だけ地面を蹴り、バランスを崩した塵に肩から強烈なタックルをぶちかました。
 さすがに、塵が魔法剣を手放した。
 空中をゆっくりと回転しながら、塵の魔法剣が真上に跳ね上がる。
 双我と塵はもんどり打って地面に倒れこんだ。
 どちらが上でどちらが下か、答えがしばらく砂塵の中に隠れた。
 観客席から何人か立ち上がる気配がして、
「!!」
 グローブに包まれた塵の拳が、双我の顎を打つ。
 脳天まで貫く衝撃。
 双我は塵を振り払うように逃げた。砂塵から逃れ出て、真っ先に己の剣に飛びついた。
 振り返ると、塵はまだ片膝をついているところだった。
 剣を再三、地面へと突き立てる。勝負の瞬間だった。
 決闘場が、眩い白閃光に包まれた。攻撃ではない。雷撃魔法を低出力かつ、高輝度で放っただけ。……つまり、ただの目くらまし。
 カートリッジに充填された魔法には使用限界がある。
 まだ残弾が尽きるほどではないが、刀身にダメージも残っており、出来れば雷撃魔法は安く使いたかった。
 双我は兜の格子を覆っていた左腕を空けた。残量は充分。
 やられたらやり返す。
 風迅魔法、限界撃ち。
 剣を腰だめに構え、無数の小さな風の手に後押しされ、双我は一直線に駆けていく。
 目標は神沼塵、魔導装甲、その胸部鋼板。
 予定は狂ったが、ここで二度と逆らえないほど打ち負かしてやるのも悪くない。病室で震えるお坊ちゃま相手に尋問すれば、黒の一つや二つは吐くだろう。この調子では、本人は黒魔法の使い手というわけでもなさそうだが――とにかく。
自分の勝ちだ。
 そう、確信した瞬間、片膝を突いた塵の真上に、まるで天啓のように降りてくるものがあった。そんなものは一つしかない。
 それは、黒塗りの魔法剣――
 塵が、それに気づいていなかったのは間違いない。
 地面に突きたった剣を見て、一瞬、止まった。状況を理解できていなかったはずだ。
 つまり、偶然。幸運。あるいは神様の悪戯。
 なんでもいい、とにかく神沼塵はただ一手を次の瞬間には取っていた。
 掴んだ剣を渾身の力で前方へと突き抜いた。
 時間が止まる。吐息が漏れる。
 リーチは塵の方が、長かった。
 双我の魔導装甲、その黒い胸部鋼板に、まるで吸い込まれるように、
 神沼塵の黒剣が亀裂を残して突き立っていた。
 双我の身体がゆっくりと後方に流れる。空振りした剣が手から離れる。
「――双我くん!!」
 客席から誰かが身を乗り出して、双我の名前を呼んでいる。そっちへ双我は手を伸ばした。が、何も掴めなかった。砂塵を巻き上げて、双我はどうっと倒れこんだ。墓標のように、その胸に剣が突き刺さっていた。
 太陽が双我を見下ろしている。目を閉じた。双我は、負けた。
 七十二秒の戦いだった。

 吐き気がする。
 無理やり起き上がろうとした双我を、ふんわりした何かが押さえつけた。
「寝てて」
 あっちこっちに空転する視線をようやく集めると、驚くほど近くに蜜柑の顔があった。
「双我くん、魔法に『アテ』られてるから。動いちゃ駄目。いま救護官が来るよ」)
 双我はぼんやりとしたまま、再び横たわった。黄ばんだ天井が見えて、そこが選手用の控室だと気付く。
 何も思い出せない。
「負けたのか……俺」
「そうだよ」
 蜜柑が素っ気なく言う。見下ろしてくるその目が少しだけ赤かった。
「やっぱり無茶だったんだよ。あんな人と決闘するなんて……」
 ぐすっと蜜柑は鼻を啜った。
「なんであんな意味のないことをしたの? 謝ってでもなんででも、断ればよかったんだよ。こんなくだらないことで怪我して、双我くん……双我くん、バカだよ!」
「ひでぇ言い草……」
 だが、真実かもしれない。
「勝てると思ったんだけどなあ……」
「そんなわけ、ないよ」
 蜜柑はぎゅっと唇を噛み締めている。
「ねえ、知ってるでしょ。私たちは、結局、凡人なんだよ。持ってる人たちとは、造りが違う。闘ってて痛いほどわかったでしょ? ……あんなの、反則だよ。やっぱり高潔種は、神様に愛されてるんだ……」
 双我は浅く呼吸しながら、蜜柑の言葉を咀嚼してみた。
(神様か)
「なんでも持ってる人生か……神様に愛されて。確かにな。魔法のセンスと、完璧な家柄と、それに可愛い妹? 確かにそうだな……俺が勝てないのも当たり前かもな」
「…………双我くん」
「お前の言うことはわかるよ……そうかもしれない……」
 双我は無理やり起き上がった。
「双我くん!」
「いいんだ。背中が痛くて寝てらんねえ。畜生、あの野郎、本気で突きやがって……最後の突きは、決まると思ったんだがな……」
「もういい、もういいんだよ双我くん……終わったから、もう」
「……終わった……?」
 けほっ、と双我は咳き込んだ。手の甲で口を塞いだ。口から手を離すと、鮮血の斑模様が出来ていた。それを双我はぼんやりと眺めていた。
「蜜柑……俺の剣は?」
「そこにあるよ」
 粉々に砕け散ったアーマーの側に、ぽつねんと剣は立てかけられていた。まだ白煙をかすかに靡かせている。双我はそれをぼんやりと見ていた。
「握りは悪くなかった。使い手の問題だ。俺が弱かった。だから負けた。それだけのことだな」
 蜜柑は何も言わなかった。
「おい、蜜柑。俺を見て勝手に落ち込むのはよせよ。こんなのなんでもねえ」
 蜜柑はおずおず、と言った感じで、双我を見つめた。
「……みんなの前で、大負けするのが?」
「ああ」双我はぶるるっと犬のように頭を振った。寒気がした。
「本当の負けってのはな、こんなもんじゃ済まねぇよ」
 双我は立ち上がった。ふらつく。蜜柑がさっと動いてその腕を支えようとしたが、双我は振り払った。
「やめろ」
「でも……」
「うるせえ、もう帰れ」
 双我は控室の扉を、倒れこむようにして開けて外へ出た。

「氷室さん、マキロン頂戴」
「駄目です」
 ついにこの時が来たか、と双我は観念した。とうとう神沼家の専属メイドに見限られる時が訪れたのだ。くっ、と双我は涙を呑む。
「畜生、本当に怪我してるのに」
「だからに決まってるでしょ?」
 メイド・氷室は、水葉に抱えられるようにして帰宅した双我に呆れた声をぶつけた。
「ちゃんと魔法薬をお渡しします。市販の一般医薬品なんか役に立つわけがないでしょーが」
 双我は自分に肩を貸している、そしてなぜかちょっと憮然としている水葉に言った。
「ねぇ、あの人なんか俺に冷たくない? あたり強くない?」
「知りません。あなたがバカなだけでしょう」
「ねぇ、この人なんか俺に冷たくない? お嬢様怖くない?」
 返事の代わりに、メイドから手元に小さなガラス瓶を押し付けられた。
 薄紫色の軟膏がぎっしりと詰まっている。
 氷室は、掃除の途中だったらしくハンドモップを持ったまま、腕を組んで双我を睨んだ。
「お嬢様は冷たくなんてありません。あなたはちゃんとお嬢様の好意を受け取って、早くその怪我を治しなさい」
「好意って……」
 水葉は幼い頃の失態を思い出したような、複雑な表情を浮かべた。
「……まァ、なんでもいいです。双我さん、魔法戦のダメージは後に残りやすいのは本当です。今日はゆっくりと休んでください」
「はーい」
「氷室」
 水葉は、双我を引っ張りながら振り返ってメイドに言った。
「お兄様は?」
「まだお帰りではないようで。学院から連絡がありましたが、かすり傷があった程度で、お身体にお変わりはないそうです」
 そう言って、ニコッと笑う、少し水葉たちより年上のメイド。
「よかったですね。お嬢様」
「……ええ」
 水葉も静かに微笑む。
「お兄様に何かあったら、私は生きていけませんから」
 そう言う少女の横顔には、陶酔と、そして微かな不安がよぎっていた。
「ああ、双我さんは気にしなくていいですから。元々、双我さんが兄に手傷を負わせるだなんて、奇跡のようなものですし」
「やったね。じゃあ俺は塵くんに何をしたって許されるんだ! わーい」
 双我は素直に喜んだ。
「ええ、許してあげてもいいですよ」
 やれやれ、と水葉は首を振る。
「これで少しは懲りたでしょう? 今後、兄に余計な茶々を入れるのはやめてください。兄は繊細な人なんです」
「そうか? あいつの剣筋は、それほど細くはなかったけどな」
「繊細で、強い人なんです」
 水葉は頑として譲らない。おまえそれ以上お兄様をコケにしたら暗くて狭い水の底にぶちこむぞ、とその怜悧な美貌が訴えてきていたので、双我はさっさと降参した。
「わかったわかった。確かに認めるよ。君のお兄さんは強かった。ちょっと想像以上だった」
「……なぜ負けたあなたが上から目線で兄を語るのか解せませんが、いいでしょう。許します」
「これでようやっと、俺は部屋で休めるわけね」
「あ、あなたがいつまでもベラベラ喋っているんでしょう!」
 ギャアギャアやり始めた二人を、ちょっと微笑ましそうに眺めていた氷室だったが、最後に少しだけ付け足した。
「あ、お嬢様。これを……」
「……?」
 氷室は水葉に、ビーズで出来たブレスレットを手渡した。
 薄紫色の小珠を連ねた、手製のものだ。
「これは……何かの呪具ですか?」
「さあ、どうなんでしょう」氷室は困ったように首を傾げた。
「以前、赤宮様が訪問なされた時に、落とされていったようなのです。もっと早くにお渡ししたかったのですけれど、なかなか機会もなくって」
「兄に渡せばよかったのでは?」
「坊ちゃんにもお尋ねしたんですけれど、『知らない』と……」
「そうですか……」
 水葉はちょっとの間、その手の中で数多色に煌く西洋数珠を眺めた。
「わかりました。私から赤宮先輩へ渡しておきます」
「そうしてくださいますか? ありがとうございます、お嬢様。それでは」
 氷室はパタパタと去っていった。おそらく、やってもやっても終わらない仕事が彼女を待っているのだろう。
 家を守る、という大事な仕事が。
 双我は彼女の背中を、ちょっと名残惜しそうに見ていた。
「……どうかしたんですか?」
 スカートのポケットにブレスレットを仕舞いながら、水葉が聞いた。
「え? いやべつに」
「……? ひょっとして、あなた、氷室を慕っているのですか?」
 無垢な表情で問いかけてきた水葉に、双我は真面目腐って言い返した。
「もちろん、お慕い申し上げているとも!」
「そうですか」
「……あのー、冗談なんですけど」
 少し焦った双我に、水葉はくすりと笑う。
「わかっていますよ」
「……ひでえなあ」
「ふふっ」
 楽しげに笑う水葉。双我はそれを見て、久々に緩むような、本当の笑顔を浮かべた。
 そんな風にも笑えるのか、と、この貴族社会の末端に席を置く少女を改めて見やる。
 こんな家に生まれていなければ、どこか、なんでもない家で、なんでもない兄と一緒に生きていけたのかもしれないのに。
 彼女の未来は、おそらくは政治と権力の舞踏会で回り続けることだろう。
 びっくりするくらいあっという間に、彼女は学生時代を終えて、女として生きていかなければならなくなる。
 それでも、笑っておけるうちに、笑っておけばいいと思う。皮肉ではなく。
 そして、笑っておけるうちに笑っておかなかった男は、神沼水葉のポケットから、なんの震えも起こさずに、薄紫色のブレスレットを抜き取って、制服の袖に隠した。

 双我はシングルベッドに横たわって、ぼんやりと手の中のブレスレットを眺めた。
 光に当てて見ると、時々、玉虫色に見えるのが面白い。
 気まぐれな猫の瞳のようだ。
 それを見ていると、何か、思い出せそうな気がした。
 双我は首を振った。任務中は余計なことは考えたくなかった。
 苦しい時は、一振りの剣になればいい。
 鋼鉄で出来た、無骨で寡黙なただの機械。
 どうせやることは一つなのだ。他にはない。そこへ至る過程で寄り道するかしないか。最終目的が変動しないなら、どう足掻こうが無駄なこと。
 そう、どうせ双我は戦う。なんの思い出も持たない機械のように。
 双我は起き上がって、窓を開いた。そこには、木の枝を仮の居城と定めたらしき、黒猫が金色の眼を瞬かせながら、丸まっている。
 猫は喋った。
「お疲れ様、双我」
「よお。情報は行ってるか」
「届いてるよー。神沼塵と戦闘したんだってね」
「戦闘? あれがか。ただのお遊びだろ」
「死にかけたくせに」
「言ってろ。手ぇ抜いてやっただけだよ」
 双我は窓際の椅子に腰かけた。
「立ってるの辛い?」
「ああ」
 双我は改めて、塵との決闘と自分の思惑についてザッと語った。
「………………ってわけで、胸を一突きされてノックアウト。どうだ? 諜報用のエンジェルノイズよりは鮮やかに、自分の負けっぷりを語ってやれたと思うがな」
 猫がぴくく、と耳を動かした。
「ねえ、双我」
 猫は双我のアイロニーに付き合うつもりはないらしい。
「どう思った? 戦ってみて。神沼塵は、黒だと思う? つまり――反逆者だと」
「……まあ、黒魔法に溺れてるにしては、戦い方が素直すぎたかな」
 双我は頬杖を突いて、門の向こうで輝く街の夜景を眺めた。
「もし、本当に黒魔法にかぶれているなら、試してみたくなったはずだ」
「そうかな?」
 猫はわざと双我に懐疑を向ける。
「あんな決闘場じゃ使えないような、大型の黒魔法の使い手なのかもよ」
「それはどうだろうな。魔法と言ったって、絵に描いた城じゃない。本物の黒魔法は、そこへ辿り着くまでに様々な組み立てをする。その過程で得た知識は十個や二十個じゃきかない。その中には、あの場面で撃てる小技なんか数えきれないほどあるだろうよ」
 トン、トン、トン。双我は窓枠を指で叩く。自分を励ますように。
「黒魔導士は必ず、自分の力を試したがる。ましてや衆人環視とはいえ公認決闘。そこでバレずに黒が撃てれば、それは自分の努力と研鑽への充分な『見返り』になる。……俺はね、一緒に暮らしてるから少しだけわかるけど、あの塵っていうのは、その手の賞賛や充足に餓えてるよ」
「どうしてそう思うの?」
「何もかも親から当然のように継承した人間なんて、本当はどこにも自信なんかないのさ。俺やお前とは違う。叩き上げの本物とはな」
「お褒めに預かり光栄かな、リンジー・ソーガ」
 猫がぺろぺろと前足を舐めた。
「でも、論拠としては薄いかなあ。結局、双我は神沼塵を反逆者候補から外したいの? 外したくないの?」
「カンで言えば、外したいね」
「双我のカンは外れるからなあ」
「うるせー」
「ま、それはいいけど……とにかく、今後も調査を続けて。それから、この案件における粛正限界が変更されたよ」
 双我は少し黙った。
「……粛正限界? 五人まで殺していいんじゃないのか? 俺は最初にそう聞いてたぞ」
「二人になった」
 猫は、双我から目を逸らさない。
「この案件で容疑をかけて殺せるのは、二人まで。それ以上の殺しは、こっちはバックアップしない」
「……、なぜ?」
 ここで感情的になっても仕方ない。
 理由を聞くくらいしか、双我にはやることがなかった。
「なぜだ、ミーシャ? 説明してくれ。でなきゃ納得がいかねぇ」
「もちろん教えてあげる。……別ルートで潜行してたグレイバスから連絡があったの。神沼塵はともかく、神沼彰、現神沼家当主は限りなく『白』だってさ」
 ……白? 神沼塵の父親が?
「つまり、神沼家が表立って黒魔法を支援している可能性は消えた。『レギュレスの都』も、神沼彰が白なら金銭的援助を受けていない可能性が高いし、そもそも扇動者候補がいない。……やったね双我! どうやらそこは、まっとうで健全な学校らしいよ?」
「いきなり廊下でブスリ、はないってことか」
「そゆこと」
 双我は深々と椅子の背もたれに体重を預け直した。
「粛正限界が引き下げられた理由は分かった。が、正直キツイ。神沼塵を白にしても、あと疑わしいのは子分の赤宮と桜井、それと塵と敵対してた朝霧か。朝霧にしては行方も知れねえ。そもそも全然関係ない、俺とはまだ会ったこともない生徒が反逆者の可能性だってある。……こんなの、俺にどうしろってんだ?」
「黒魔法使用の物的・霊的証拠をゲットして、持ってたヤツをブッ殺して欲しい」
「わかりやすい説明をありがとう。くそったれ、ダーナに言っとけ。お前の押しが弱いから上が甘ったれて来るんだってな」
「それもうあたしが言った」
 双我はゲラゲラ笑った。
「まァいいよ。要は黒魔法を使わざるを得ないまで追い込んで殺せばいいんだ。簡単な話だな」
「そうそう。いままでだって、ずっとそうやってきたでしょ? 同じことをすればいいんだよ、ソーガ」
「ああ、わかってる。ところで――」
 双我は、制服のポケットから薄紫色のブレスレットを取り出して、猫の鼻先に突き出した。
「これ、拾ったんだけどよ。赤宮のらしい。何かの呪具か? どうもレトロな道具は鑑定がきかなくて……」

「誰が持ってたって?」

 猫の声が、鋭く尖った氷のようになった。
 双我は、少しだけ怯んだ。
「……赤宮らしい。メイドから聞いた。が、ひょっとしたらメイド自身の持ち物かもな。ないとは思うが。これがどうしたんだ、ミーシャ?」
「覚えてないの?」
「え?」
「リリスのブレスレットだよ」
 リリス。
 それは双我が昔、組んでいた相棒の名前だった。
 記憶が一気に洪水を起こす。
 サーベル使いの、『皆殺し』のリリス。
 黄金色のボブカットと、蝋のように白い身体。
 そして、瞳孔の開きかかった、銀色の瞳。
「リリス……あいつか。そうか、あいつのか」
 双我はブレスレットに視線を落とした。
「なんで、あいつの私物を赤宮なんかが持ってんだ。あいつは、精神失調で自宅療養中だったはずだろ」
「死んだよ」
 双我は二の句が継げなかった。
「死……死んだ? リリスが?」
「うん」
「……お前、なんで、なんで俺にそれを言わねぇんだ!!」
 猫はすぐに答えた。
「潜入中の魔導師に動揺を与えてどうするのさ。君が潜ってすぐ、リリスは死んだよ、ソーガ」
「その口調やめろ。捻り殺すぞ」
「ごめんね」猫はそっぽを向いた。
「詳しいことは不明のままだよ。リリスは、君も知っての通り、任務遂行不能状態になるまで精神を病んで、自宅で専属のセラピストに守られて、休養してた」
「そのセラピストは何をしてた。ヤツも魔法戦士の端くれだろうが!」
「わかるでしょ? ……そのセラピストがリリスを売ったんだよ」
「――――」
「現場には、致死量の血痕と、粉々にされたリリスの魔法剣が取り残されてた。……心が壊れたままでも、闘おうとしたんだね。魔法剣のカートリッジには、ほとんど魔力が残ってなかった。屋敷は半分以上が吹き飛んでいて、周囲2kmには目撃者らしき人たちの死骸が点々と転がってた。リリスの死体はまだ見つかってない。でも死亡したものとして扱われてる」
「……誰がやったんだよ」
「それを、君に調べて欲しい。いま、たぶん、惨殺者の手がかりが君の手の中にある」
 双我は、それをぐっと握り締めた。
 紫色の数珠。
「死んだ?」
 茫然と呟く。
「リリスが? ……あるわけない、あいつは最強の猫だぞ。皆殺しのリリスだ。どんなにブッ壊れても、あいつが黒魔導士ごときに……そんなバカなことが……そんな……そんな……」
「双我」
「嘘だろ……なあ、ミーシャ……」
「人は誰でも死ぬ」
 猫は静かに、姿勢を正した。紳士のように。
 双我はしばらく、うなだれたまま、動かなかった。

 猫は生まれるとすぐ、周囲の誰かに魔法の素質を調べられる。こう言うと、大昔のSF映画みたいだが、猫なんてそのぐらいしか役には立たないのだから、当たり前の話でもあるのだ。
 双我も、それほど珍しい猫ではない。猫の中では弱い方かもしれない。
 西方で生まれた。
 ――京都が魔境となって二十七年。
 かつての王都は治外法権のスラムと化し、周囲200kmを分厚いコンクリートで囲われている。その中では、猫やその子孫、あるいは猫を首領と仰ぐ太った鼠などが、それぞれの魔導の探求に耽っている。大真面目に世界征服なんかを考えている奴もいるだろう。というよりも、猫は縄張り意識が強いものだから、誰しも最後には自分がこの世の王になれるくらいには思っている。そういうところが、集団的動物である鼠――いわゆる普通の人間たち――と根本的に合わないところなのだ。
 猫は誰もが、自分を一番だと思っている。
 問題は、それが往々にして真実であること。
 魔都・京都で、鼠から迫害された猫たちは、少し荒れ果てた魔法の国を作った。
 出ようと思えば、いつでもコンクリートなどぶち破って外へ出れるが、面倒くさがって出ない奴が多い。
 元々、京都は魔法実験施設や魔法大学が乱立している魔法特区だったので、その残骸でも漁れば魔法剣の一本や二本は掘り出せるし、サンプルさえあれば舗道に散在しているジャンク品からレプリカくらいは易々と作ってしまうのが猫だ。双我は木製の魔法剣を作った猫と会ったことがある。七歳の少女で、顔に大きな傷があった。魔走回路なんかは比率さえそれほど間違わなければクレヨンでも描ける、とそいつは言ったものだ。「一本ほしい?」と聞かれて、双我は笑って首を振った。十二、三の頃だったが、その時にはもう鋼鉄の愛剣を持っていた。もう折れてしまったが。
 双我は、どこにでもいる、ありふれたアウトローだった。
 親が誰かも分からない。受け継いだのは卓抜した魔法の素質と高速の神経系統だけ。それと知らずに肉親とスラムのどこかで斬り合ったこともあるかもしれない。お互いに、身体に流れる血よりも、刀身に染み入る血でしか、相手が誰なのかわかりはしない。
 それも強いか弱いかだけ。
 弱肉強食と言えば聞こえはいいが、誰もが全てに餓えてただけだ。
 もちろん、京都に農場や牧場などロクにない。あってもすぐに、襲われた。
 喰うものにはいつも困っていたが、伝説や決闘には事欠かなかった。
 思い返してみても、血が滾る、熱い冒険の日々だった。何もなければ、双我は今でも京都で剣を振り回すだけの猫だったろう。いつか負けて死ぬだけの。けれど、そうはならなかった。
 コンクリートの壁を、ぶち抜くなり、すり抜けるなり、いろいろやって外へ出た猫にはいろんな種類がいるが、もちろんその中には、いるのだ。
 鼠に従うという、最低の道を選んだ猫が。
 そういう猫が、時々、京都を訪れる。
 彼らが訪れた後には酸鼻を極める地獄しか残らない。
 いわゆる猫狩りというやつだ。
 双我は、それに出くわした。
 十四歳の時だった。

 ストリートを歩きながら、双我はリンゴを齧っていた。
 野生の果樹は、京都にはよく生えている。
 甘党の猫がコンクリートをぶち破って種をばら撒き、生命活性魔法を有機肥料のごとくにぶち撒けて、手荒く育てたものだ。
 あまり徒党を組まない猫だが、弱小チームなんかは決して珍しくもなく、時々そういう連中が果樹を引っこ抜いてどこかへ持っていってしまう。
 双我がいま喰っているのは、連中が落っことしていった戦利品の一つだった。
 ぺっ、と双我はリンゴの種を砕けたアスファルトの亀裂に吐き捨てた。
 連中が逃げるのも無理はない。
 猫狩りが来るという噂が流れれば、その周囲10kmは無人の廃墟と化す。それほどに、猫を狩れる猫、というのは恐れられている。最近では『外』で繁殖させられて増えた猫が、鼠に英才教育を施され、とんでもない強さになっているという。
 望むところだと双我は思う。全然構わない。敵は強いに限る。
 どうせいつか死ぬ。
 ぶつかるなら、とんでもなく強い奴がいい。
(殺られても、後悔しねぇような奴を)
(殺られる前に、殺るしかねぇ)
 だから、双我は周囲7kmに突如として発生したゴーストタウンのど真ん中で、逃げも隠れもしなかった。
 遥か遠く、雲と空の切れ目のあたりにうっすらと、コンクリートの外壁が見える。
 白煙を上げて、軍用車がこっちへ向かって来ていた。何をトチ狂ったのかスタッドレスタイヤをつけていた。ガリガリガリ、とタイヤが舗道を削るたびに、双我の足元まで揺れが届いた。双我はぶすっとしたまま、左手で剣の柄頭を軽く持ち上げて、待った。
 やがて、敵が現れた。
 車から、軍属仕立ての戦闘服を着た一人の少女が降り立つ。着地した時に、少しよろめいた。
 金色の髪が太陽光をチラチラと反射している。少女は口元に手を当てて、車から伸びている誰かの手に背中をさすられていた。
 どうやら車に酔ったらしい。双我はため息をついた。
(大丈夫かよ?)
 と、敵のことながら心配になった。
「おい」と声をかける。
「酔い止めやろうか」
「だずがる」
 少女は田舎のおばあちゃんのように腰をかがめて、半べそで顔を上げた。いまにもその場にへたり込みそうだ。双我はバリバリと頭をかいて、「なんだかなあ」と思いつつ、たまたま本当に持っていた酔い止めをポンと放った。少女はそれを「ありがたや」とばかりに両手でキャッチし、カラカラと錠剤を手に出して自殺者のように一気に煽った。車から差し出されたのは、今度は水。それを受け取り、ペットボトルを空にして、ようやく少女は「ぷはあ」と生気を取り戻した。
 ニコッと笑って、双我を見る。
「ありがとう! 君は私の恩人だよ」
「そいつはよかった」
 なんでそんなに速く効いてんだ、と思いつつ、
 双我は、左足を引いた。
 右手をゆっくりと魔法剣の柄に添えていく。
「できれば、そのまま恩に着て帰ってくれたりしねえかな」
「ふうん? なんで?」
 少女は小首を傾げた。
「このあたりは俺の縄張りなんでね。余所者は歓迎してないんだ。ウェルカムってアーチがかかってないだろ? お呼びじゃねえってことだよ」
「へー。君がこのあたりのヘッドなんだ?」
「ああ」
 嘘はつくに限る。少女はケラケラ笑った。
「光栄だなァ。いきなり猫の王子様をハントできるなんて。私、やる気を出してきて正解だったよ」
「やる気出して車酔いか」
「言ってくれるじゃん。君より車酔いが強かった、なんてことにならなければいいけどね?」
 少女が右足を引く。
 左利きではない。左腰に、サーベル型の魔法剣が下がっていた。
 構えがおかしい。
 抜くはずの剣が、半身になった身体の前にある。右手で抜くには不恰好だし、左手では抜きようがない。
 コイツ馬鹿か。
が、双我はそこで油断せず、先の太刀を放つべきだった。
 逆に先手を打たれた。
 金髪の少女は、ニィッと笑うと、左手で剣の柄を握った。そのままでは抜きようがない。が、少女は身体を捻ると、その反動と驚くほどしなやかな肘関節のさばきで、
 魔法剣を投げた。
「!!」
 双我は一瞬、慌てた。一朝一夕で覚えられる動きではなく、少女のそれは鍛錬を積み重ねたものだった。なぜそんな無駄な動き、無意味な一刀を練磨したのか、かなり謎だったが、とにかくかわしてしまうのが先決だった。サイドステップを乗用車一台分ほど取り、双我は抜刀のタイミングを窺った。その時にすでにもう、抜くべきだったと気づかずに。
 双我の目が何かを捕らえた。
 空気中に何かが輝いている。
 何かが……
(――鎖!)
 銀色の細いチェーンが、サーベルの鞘と柄を繋いでいた。
 空中で、ピィィィン……と、サーベルが停止した。少女がさらに身を捻る。
 鎖に伝導した力が、剣を鞭のように振るった。風切音が轟、と唸り、刀身が双我の右腕を直撃した。双我はそのまま吹っ飛んだ。
 ゴロゴロと転がり、受身を取り、起き直りざまに抜刀。一振りして小さな火の粉で出来た蜂を十八匹ほど放った。爆炎を確認してから、さらに距離を取る。
 黒煙が晴れると、少女がチェーンをぶんぶん振って、剣を回していた。鎖の意図が分かった。
 剣と、鞘の、双節棍――
「ふーん、ヨロイつけてたんだ」
 少女の目が、興味深そうに、双我の右腕に注がれた。服が破れたそこには、銀色の装甲が見えていた。
「心配いらないのに」
 くすくす笑って、
「――切断しても、すぐに魔法でくっつけてあげるからさ」
 少女がサーベルを振り上げる。太陽が逆光になって、その顔が真っ黒に見えた。
 ただ、眼だけがギラギラと輝いている。
 双我は破れかぶれで、斬撃魔法をぶっ放した。
 後先考えなかった。
 最大出力で撃ち抜き、しかし、それは少女が返してきた全く同種の魔法に相殺されて空と散った。
 それでいい。すでに策は撃ってある。
 地面に剣先を二振り、そこからアスファルトを氷の波が弧を描いて二つ、走っていく。
 透明で、午後の日差しも見えにくいそれが、少女の足元に喰らいつく。
「!!」
 少女が気づいた時にはもう、両足首から下は凍結完了。そして双我はそれをわざわざゆっくり眺めてなどいなかった。
 すでに、風迅魔法を最大加速でブラストしていた。
 魔法剣、その切っ先を、少女の胸元へめがけて狙いを定める。脇を締め、身体を絞り、一発の弾丸になったかのように、双我は歯を食い縛って突撃した。
 今まで、この必殺の一撃を外したことはなかった。
 だが、その記録はこの瞬間に終わりを告げた。
 のちにさらに一度、失敗することになるが、それをこの時の双我はまだ知らない。
 少女は一瞬、驚いたように見えたが、すぐに笑みを浮かべ、サーベルを構えた。そのまま剣の鍔迫り合いになれば加速がついている双我が膂力に任せて少女の肉体を頭部から背骨の終わりまで両断していたことだろう。が、少女は真っ向勝負になど来なかった。
 地面に剣を突きたて、爆炎魔法を放った。
「!!」
 視界が紅蓮に染まり、熱風が産毛を焼いた。双我はもんどりうって地面に落ちた。
 地面がなかった。
 落盤を起こした舗道が、地下街へと落ちていく。双我は視界をいまだ光に盗まれっぱなしだったが、魔法剣からカートリッジをなんとか抜き出し、身を捻ってレザーウェアの裏ポケットから予備のそれを取り出し、柄尻に叩き込んだ。使える魔法の残量はまだ三割ほどあったが、そんな資金で仕上げられる勝負じゃなかった。
 ガン、と脳天にまで響く着地をして、双我は立ち上がった。剣を構える。
 そこは、ショッピングモール跡地だった。
 大穴が空いた天井から、微かに陽光が零れてくる。年季の入った塵芥が光の中で渦を巻き、アパレルショップの砕けたショーウィンドウから素っ裸のマネキンがこっちを見ていた。双我はそれを無視して、少女を見た。
 少女は指の先に炎を点して、自分の足を焼いていた。残った氷がジュクジュクと溶けて泡になっていく。
「君、強いねぇ」
 世間話のように少女が言う。
「いい突きだったよ。私のサーベルじゃ、どう足掻いても受け止め切れなかった。諦めてよかったって心の底から思う。じゃなきゃ、死んでたから」
「死にたくないなら逃げてもいいぜ。俺は追わない」
 双我は、インナーに包まれた背中がびっしょりと冷や汗で濡れているのを感じていた。
「お前も運が悪かったな。生憎と俺は準備万端でね。カートリッジの予備はまだ沢山ある。お前に俺の弾切れは狙えない。――さ、どうする?」
「やさしいねえ、君」
 少女は指を振って、その火を消した。
「丁寧に色々とアドバイスしてくれてありがとう。とっても参考になったよ」
 皮肉には聞こえない。
「でも、ごめんね。私は君を逃がせないんだ」
 双我は笑った。
「へっ、外の連中はいつもそれだな。猫、猫、猫。猫が全部悪いんだってか。ガキじゃあるまいし、いい加減になんでもかんでも他人のせいにするのやめろよ」
「うーん、言いたいことはわかる」
 ウンウンと少女はうなずく。このアマ……と、双我はカッとしかけた。少女はサーベルを持ったまま、腕など組んでいた。
 余裕綽々ということだ。
「でもさ、べつに私は、君を殺しに来たわけじゃないよ。なんか勘違いしてない?」
「いきなり襲い掛かってきて、何を言いやがる!」
「それはそうだけど――まァいっか」
 誰かを抱き締める前準備のように、腕を広げた少女が、花束でも掴むように剣を構え直した。
「どうせ、叩き潰さないと言うこと聞いてくれなさそう」
「トーゼンだろうが――!!」
 双我は勢い立って斬りかかる、
 フリをした。
 剣を振り抜かず、そのまま剣の柄を背後の構造柱に叩きつけた。脆くなっていた建材が粉々に砕け散り、雪崩のような塵芥を嘔吐した。その人工の吐瀉物の中を、双我は泳ぐようにして駆け抜ける。一振り、二振り、三振り。今度は足止め用の氷蔦などではなく、地雷を張った。踏めば爆発するが、機械ではなく、本物の稲妻を。
 このためだけにわざわざ、カートリッジを交換したと言ってもいい。
 ステップして踏み込んで、すぐに下がった。一瞬前まで双我がいた空間を、斬撃が迸り抜けた。そのままさらにサイドステップ。案の定、少女が暗闇でもよく映える金髪をたなびかせながら、地雷のそばへ躍り込んで来た。あと一歩、右足でも左足でも、出せば感電必至。双我は頬を緩めた。
 が、
 少女は足を踏み出さなかった。
 そのままその場で、剣を
 ――ひらり、
 と、軽く振った。それだけだった。
 それで充分だった。
 配置されていた地点から、双我の地雷が、親を探す迷子のように、パチパチと遡り始めていた。双我は悟った。
 共鳴魔法。
 失敗すれば相手の魔力を増大させてしまう代わりに、成功すれば相手の魔法をそっくりそのまま奪える、猫にだけ使える特異魔法。それも成功率は著しく低く、実戦で使う奴はまずいない。訓練で、親友か恋人のように絆を結んだ間柄でのみ、稀に成功することがあるという――
 それを、
 この、土壇場で。
(使ったっていうのか――!!)
 少女は、微笑んでいる。
 その剣身に、黄金色の稲妻の鎖がまとわりついている。
 あとはそれを、振り抜くだけ。
「終わりだね」
 少女は言って、雷撃の剣を振り下ろした。
 空気が焼き切れる、ゴッ、という音がどこか遠くで聞こえたと思った瞬間には、剣身から放たれた魔法の電光が双我の身体を直撃していた。意識が吹っ飛び、視界が白く淡く弾けた。
 どうっ、と自分が倒れ込むのを最後に感じて――
 後から考えても、殺す気だったとしか思えない。
 それが、無法魔導師リンジー・ソーガと、
『皆殺し』のリリス・アージェリアの出会いだった。

 双我は二ヶ月ほど、病院にぶち込まれる羽目になった。
 入院している間のことはほとんど覚えていない。ただ目が覚めるたびに知らない誰かがそばにいる気がした。うわ言で何か言った気もする。だが、ようやく回復した頃には、誰かが置いていった花と、なぜか途中まで読まれている文庫本と、そして開け放たれた窓から忍び込んでくる爽快な風があるだけだった。双我は身体のあちこちに触ってみたが、特に何も異常は感じなかった。魔法医師から簡単な説明を受けて、退院した。
 知らない街は、やけに日差しが眩しかった。
(……魔法都市か)
 横浜か、武蔵野か、あるいは三鷹のあたりかもしれない。お行儀よくローブをまとっていたり、箒のバッヂを着けた魔法使いがすっすっと地面を擦るように歩いていた。野戦用のライト・レザーウェアを着けた双我は、どこからどう見てもイナカモノだった。チッと舌打ちして、街中を突っ切っていく。
 約束の場所は、テラス付きのハンバーガーショップだった。双我はハンバーガーも、都会の生活と同じように、噂でしか聞いたことがない。双我は心に決めた。
(舐められちゃ終わりだ、ここはひとつ、何があっても知ったかぶろう)
 双我はテラスの一席に座った。そこにはもう先客がいた。双我を病院送りにした金髪の魔女と、藍色の髪をほんの一房だけ鎖のように編み込んだ少女の二人。二人とも、まるでデートのように着飾っている。
「やっほー、双我! 元気だった?」
 金髪の少女が、もぐもぐと小さく固めたパンのような何かを食べていた。双我はぷいっと顔を背ける。
「てめぇのおかげで、二ヶ月も白ビル生活だ。くたばりやがれ」
「まァまァそう言わずに。ハンバーガー食べる?」
 手に持った可愛らしい食べ物を突き出してきた金髪を鼻で笑うと、双我は手を挙げた。
「店員さん、俺にもこのハンバーガーをくれ」
 なぜか注文を受けたウェイトレスは、くすくす笑いながらいってしまった。
 怪訝そうな顔をする双我に、金髪の少女が憐れみのこもった視線を向ける。
「双我、やってしまったね。これミートパイだよ」
 双我は唇を噛んでぷるぷるした。
「なんでこんなひどいことをする。なんでだ」
「こらこらリリス、田舎者をいじめちゃ駄目だよ」
 藍髪の少女が、リリスと呼ばれた金髪の方を窘める。
「やるならもっとひどいことをしなくちゃ」
「帰っていい?」
 タイミング悪く運ばれてきたミートパイを見ていよいよ逃げ出そうとした双我を、二人の少女が羽交い絞めにして席に叩き戻した。双我は顔を覆っている。
「俺の地元にゃハンバーガー屋なんかねえんだよ……」
「わかってる、わかってる」リリスは聞き分けのいい刑事のように頷いた。
「カツ丼喰え、な?」
「くそったれ、いいもんばっか喰いやがって。都会の猫は飼い慣らされてみっともねーな!」
「……ほほう。そういうこと言いますか」
 ビリビリ、と火花をぶつけあう双我とリリス。
 はあ、と藍髪の少女がため息をついた。
「とりあえず、自己紹介していい? 初めまして、あたし、ミーシャ・グライセル。猫が集まってるギルド――『ルミルカのたてがみ』の、まァ今日は、スカウトってところかな」
「手紙は、もう受け取った」
 双我はウェアのポケットから、開封された書簡を一通取り出して、樹脂テーブルの上に放り投げた。ひらひらとそれが着地するのを、子供のようにリリスの視線が追っている。
 双我は言った。
「……俺に、お前らのギルドに入れと?」
「猫だからね」ミーシャは言った。
「京都で暴れっ放しもいいけど、都会でお仕事するのもいいんじゃない?」
「飼われるのは御免だね」
「そうは言っても、生活は安定するよ」
「欲しくねえ」
「どうしても嫌? 人殺しが嫌とか?」
「べつに。生きてく上で必要なら殺る。そうでなきゃ無視する」
「いま、この状況は……」
 ミーシャがカラン、と足で何かを押した。
 テーブルに立てかけられた、細身の魔法剣が、午後の陽光をギラギラと反射している。
「……君にとって、生きていく上で必要になりそうな状況じゃない?」
「かもな」
 双我は頬杖を突いた。
「闘るなら闘ってもいいぜ。そこの金髪女にも恨みがあるしな」
「リリス・アージェリア」
「あん?」
「よろしく!」
 リリスは笑顔で手を差し出した。
 双我はその手にマスタードを塗りたくった。
「あああああああああっ!?」
「くたばれ」
 双我は空っぽになったマスタードの容器を放り捨てて、背後から肩を掴もうとしたボーイに硬貨を一枚、親指で振り返りもせず弾んでやった。ボーイは無言で去った。
 テーブルに突っ伏して呻いているリリスを無視して、双我はミーシャに言った。
「……お前らのギルドは、こんなアホばっかなのか?」
 ミーシャは肩をすくめた。
「ま、猫だからねぇ。曲者揃いの種粒揃い。わかってるでしょ?」
「ふん……ま、そこの金髪が少しはやるってのは認めてやるよ」
「ねえ双我、これ落ちない、落ちないよぅ。あああああ」
 双我は喉を唸らせて、いつまでもグジグジ泣いているリリスの手をナプキンで拭いてやった。
「てめぇ、本当にこないだの猫か!? こんな奴に負けたなんざ、俺ぁ認めねえぞ!!」
「そんなこと言われても」
 困りましたな、みたいな顔でミーシャを見るリリス。その視線を自然な感じで受け取るミーシャ。そうしていると、髪の色こそ違えど、姉妹に見えなくもない。
「ねえ双我ぁ」
 リリスが甘えたような声を出す。
「双我がルミルカに入ってくれないと、私が双我を殺さなきゃいけないんだけど」
「……そうかよ。闘るか?」
 目をギラつかせる双我に、ちょっと不満そうな顔をリリスは浮かべた。
「もう双我とはやりたくない。だいたいわかったし」
「……死にてぇらしいな」
「でも、双我とは組んでみたい」
 リリスはチラッと、親の機嫌を窺うように、見慣れぬ異邦人を見た。
「ルミルカに入ったら、双我は私と組むんだって。私、パートナーって作ったことないんだよね。だから……」
 語尾がぼそぼそと消えていく。
「……双我がルミルカに入ってくれたら、嬉しい」
「…………」
「考えといて。それだけ」
 リリスは、愛剣を携えて立ち上がると、去っていった。ミーシャと双我は、それを十二秒ほど見送った。
 リリスは、当たり前のような顔で、対面のクレープ屋に入っていった。
 それを神妙な面持ちで眺めながら、双我は言った。
「喰いたかったのか……」
「そうみたいだね」
 くすくすとミーシャが笑う。
 そして、二人は数分間、黙ってジュースを飲んだ。
 やがて、双我が言った。
「……あの手紙の内容は、本当なのか?」
 うん、とミーシャは、曖昧な笑顔で頷いた。
「君が『ルミルカのたてがみ』のメンバーになったら、あの子と組むことになる」
「それじゃねえよ。あいつが……その」

「――本当に再起不能なのか、ってこと?」

 静かな風が吹いた。
 そばに座っていた魔法学校の生徒らしき集団が、談笑しながら立ち上がって、テラスから降りていった。双我とミーシャは、それを違う世界の光景のように眺めていた。
「本当だよ」
 と、ミーシャ・グライセルは言った。
「リリス・アージェリアは、魔法戦士として再起不能なんだ」
「……とてもそうは見えなかったぜ。実際に、俺とも戦闘したじゃねーか」
「こっちも驚いたよ。リリスを半分、死なせるつもりで京都へ送ったんだから」
 双我は沈黙した。
「……あれ、怒ってる? そうだよね、他人事でも、気分のいい話じゃないよね」
 ミーシャは、ううん、と背伸びをした。
「結構、話すと長いんだ。あの子の生い立ちとかにも触れなきゃいけなくなるし――」
 そう前置きして、ミーシャは語り始めた。

 猫にはほとんど、名前がない。
 親がつけないからだ。
 だから、猫は物心がつくと勝手に自分の名前を決める。最初は名前、それから名字を。
 自分の名前を思いつく、それが猫が『大人』になった証だと、猫専門の学者などは言う。
 猫たちは自分の存在を他者とは異なるものとして置いた時、その才能を爆発的に飛躍させる。小さな子供が振るった紛い物の魔法剣が、通常の魔法使いたちで構成された部隊を半滅させることさえ、ざらにある。
 リリスも、そんな猫だったという。
 ただし、京都生まれではなく、雪国出身らしい。肌が白いのはそのせいかもしれない、とミーシャは言った。
 経歴は穴ぼこだらけで、正確なことは誰も知らない。ある時は、大きな猫のチーム同士の戦争に飛び入りで参加し、敵を壊滅させた流れ者。また少し時間が経てば、魔法研究機関に白衣だけ借り倒して研究員として厄介になっていたこともある。かと思えば、普通の女の子のようにレストランでウェイトレスをやったり、貴族付きのメイドになったこともある。その都度、背景も、職業も、生き方さえもリリスは変えてきた。
 本物の根無し草。縄張りを持たない猫。
 『ルミルカのたてがみ』に拾われたのは双我と出会う三年前。十三歳の時。
「おなかすいた」
 任務遂行中だったルミルカの猫に、出会い頭にいきなりそう言って、おもむろにサーベルを抜くと、
「手伝うから、勝ったらなんか奢って」
 そう言った。
 そしてその言葉通り、500以上の反逆者が潜んでいた黒魔法研究施設を全滅させ、毛玉一つ残らないほどに周囲一帯を吹き飛ばした。廃墟の瓦礫の上に座って、あくびをする若き猫に、ルミルカの工作員はぞっとするような恐怖と興奮を覚えた。そして、「美味いものを腹が抜けるまで喰わせてやる」と言って、ルミルカ本部にリリスを引っ張って来た。リリスが歓待を受けて、フルコール料理に舌鼓を打っている間に、精鋭で完全に包囲した。
「こまったなあ。ねえ、出してくんない?」
 十三歳のリリスは、本当にただ面倒事になって弱ってしまった、というように頭をぽりぽり掻きながら、
「じゃー、ちょっと手伝うから、それ終わっても出てっていい?」
 そう言って、ルミルカのギルドメンバーになったのだった。
 もちろん、最初はすぐに抜けるつもりだったのだろう。
 が、そうはならなかった。

「居心地、よかったんだと思う」
 コーヒーカップに、銀の匙を突き入れて、水面に緩く対流を作りながら、ミーシャは言った。
「あの子も、君と同じ殺伐とした世界で暮らしてきたから。だから、すぐに自分を襲ったりしない、そして、自分の魔法や剣技と恐れずに付き合ってくれる、そんな仲間が、最初は珍しくて、そして……だんだん、本当に気に入ってきちゃったんだと思う」
「……俺はあんたのいう『仲間』ってのを、まだ作ったことがねーからわからんが」
 双我は、憮然として言った。
「それは、あれじゃないのか。『美談』ってやつじゃねーのか。なんでそれが……」
「美談ね、あたしもそう思ってた。でも、違った。猫ってさ、やっぱり勝手なんだよ」
「……勝手?」
「あの子は、仲間なんか作るべきじゃなかった」
 そして、ミーシャは続きを語った。
「入団してからしばらく、リリスは単独任務に出てた。ま、猫なんて誰でも自分勝手だから、ほとんどチームなんか組めないんだけどね。でも、どうしても多人数が必要な時もあって、リリスはあんな感じで飄々としてるから、他の猫より早く連帯任務に就いたの」
 双我は、ニコニコしながらミートパイをかじっていたリリスの顔を思い出した。
「……それで? その任務で、何かあったのか」
「うん」
「負けたのか?」
「まさか」ミーシャは肩をすくめた。
「800人くらいいたかな。反猫主義者の巣窟の一つだったんだけど。……90分で、ルミルカの猫たちは敵を殲滅したよ。何人か人質とか実験体とかいたんだけど、ほとんど救出できたし。ミッションコンプリートってヤツだったと思うよ」
「それで、なぜ、あいつが気に病むようなことがあったってんだよ」
「顔馴染みが敵にいたんだって」
「…………」
 ミーシャは透明な眼差しで、空に浮かぶ彼女だけの過去を見ていた。
「リリスが殺したわけじゃない。まだ、あの子が自分で手を下していたら、違ったのかもね。でも、彼女の知り合いを殺ったのは、同じギルドのメンバーだった。ダンゼルってヤツだけどね。今もルミルカにいる」
「……そいつは、リリスとは仲が良かったのか」
「気が合ったみたいだね。ダンゼルは好戦的だったし、よくリリスは売り言葉に買い言葉で彼と喧嘩してたけど、心の底じゃお互い認め合ってた。だから、友達を殺したのが友達っていう、どうにもならないケースだった」
 ……あの子はね、とミーシャは言葉を継いだ。
「わかってなかったんだよ。独りだった時は、『気が乗らないから殺さない』ってことを選べたけど、ギルドに入団したら、『嫌でも殺さなきゃいけない』相手が出てくる。どんなに仲がよかった友達でも、殲滅指令が下りたら斬殺しなくちゃならない。気に入らない奴、強い奴、そういう連中にぶつかってるだけなら、天職だったんだろうけど」
「……耳が痛いね」
「君もそうかな?」ミーシャがからかうように上目遣いになった。
「あの子が気に入るくらいだから、双我くんも同じタイプなのかもね。
 ……ねえ、双我くん。
 あの子のこと、お願いできる?」

 空を見上げれば。
 どこか紫がかった蒼穹のどこかで、魔法光がパチパチと爆ぜていた。
 ここは魔法都市、
 双我は魔法戦士。
 出来ることは一つしかなく、誘いは目の前に座っている。
 双我は何も言わずに、席を立った。
 出来たばかりの相棒が、向かいのテラスでのんきにクレープを喰っていた。
2, 1

  


 一ヶ月後、双我は少し驚いた。
 二ヶ月後、双我はちょっと嫌になった。
 三ヶ月後、双我はバーで愚痴った。
 四ヶ月後、双我は公園で寝た。
 五ヶ月後、双我は自分が泣いているのに気づいた。
 六ヶ月後、双我は疲れた。
 七ヶ月後、双我は誰かに頼るのをやめた。

 八ヶ月後、双我は新聞を読んでいた。
「は~い、お待たせ♪」
「やっと出来たのかよ」新聞を四つに折って放り投げ、
「どんだけ待たせるつもりだてめーは」
「だって、お腹ぺこぺこの方がおいしいでしょ?」
 食卓に座る双我の前に、フリル付きのエプロンを着けたリリスがシチューの椀をことりと置いた。とろっとろのクリームシチューだ。一口大に刻まれたニンジンやブロッコリーがぷかぷかと浮いている。双我は木のスプーンを持って、神妙な顔つきでコンコンと椀を叩いた。
「ま、お前にしちゃ上出来だな」
「ひどいなあ。まるで人を料理音痴みたいに」
 ぷうっと膨れるリリス。腰に当てた手が持つお玉がくいくい揺れている。
「ふざけんな、最初はシチューに血が混じってたじゃねーか。お前は食中毒で俺を殺す気かよ」
「だからあ、それはもう何度も謝ったじゃん?」
「謝って済むことじゃねー。あ、調子乗ってスンマセンでした! 頂きまーす!」
 シチューをキッチンに持っていかれそうになって双我は全面降伏した。リリスはくすくす笑って、エプロンを外し、テーブルの反対側にニコニコ笑顔で座った。十八部屋ある屋敷のダイニングにしては、そこにあるテーブルは小さかったが、「双我の顔がよく見えた方がご飯が美味しい」とリリスが言って最初の頃に買い換えたものだ。
 ちょっと抑え目の照明の下で、顔を付き合わせるようにして、金髪の少女と一緒にジャガイモを突いていると、まるで何もかもが夢なんじゃないか、とたまに双我は思う。
 双我がリリスの家に転がり込んで、あっという間に八ヶ月が経っていた。
 同時に、『ルミルカのたてがみ』の一員になってからも。
「ん~! おいし。やっぱり私は天才だ」
「そうだな」
 自画自賛する相棒に、双我は肩をすくめて見せる。
(……再起不能、ね)
 ミーシャは言った。リリス・アージェリアはほとんど再起不能で、戦闘能力を欠損していると。
 最初は、双我は信じなかった。
 二ヶ月も入院する大怪我をさせられたのだ。戦闘能力がないどころの話ではない。が、最初の任務に就いて、それから疑問を抱え続け、そして四度目の任務で確信した。
 リリスは本当に、再起不能だと。
「…………」
 双我は、シチューに千切ったパンを嬉しそうに浸している少女を見た。
 普通にしていれば何も問題もない。が、戦闘中、リリスは時折、意識を喪失することがあった。気絶する、というのではない。ただ、目が虚ろになり、それまで轟然と振るっていた剣をぱったりと下ろして、ぼうっとする。ぺたんとその場に座り込んでしまうこともある。
 戦場でだ。
 最初の双我の驚きようと言ったらなかった。剣を構えて突っ込んできた敵の魔法戦士が目前にいるのに、リリスはなんの抵抗もしようとしなかった。双我は捨て身でリリスを突き飛ばし、彼女を庇った。
 近頃ようやく、その時の勲章が古傷になった。
「――何してる!! 戦え!!」
 双我は血まみれになって怒鳴ったが、リリスはなんの反応も示さなかった。魂が抜けたよう、とはまさにあの状態のリリスを指す言葉だ。確かに呼吸しているのに、双我にはリリスが、藁とおが屑で出来た人形のように見えた。
 双我は呆然とした。
 任務遂行を積み重ねた結果、深いトラウマを負ったとは、聞かされていても、実際に目の当たりにすると迫力が違った。人間は壊れるとこんな顔をするのか、と思った。そんなことを考えながら、この八ヶ月間、双我はリリスを庇って戦い続けた。皆殺しのリリスの代行者として。
 双我が敵を殲滅し終わると、ようやく、リリスは、
「――あ」
 と言って、目に光を取り戻し、あたりを見回す。
「双我……」
「いい」血を拭って、
「もう終わった」
「…………ごめん」
 リリスはいつも、俯いて、苦しそうに双我に謝る。
 他の誰とも組まされなかったのも無理はない。
 とてもじゃないが、自分の命を預けるたった一人の相棒が、戦闘中に突然、生きる気力を失うとあっては、優しいとか思いやりがあるとか、そういう程度の気配りではどうにもできない。どんなに上手く庇っても、組んでいる自分が死にかねないし、実際に双我は何度も死にかけた。ルミルカから『リリス・アージェリアの専属パートナー』として入団させられた経緯がなければ、双我も――
(……いや、俺はそれでも)
(コイツとコンビを組んでいたかもしれない)
 リリスが顔を上げた。
「ん? どったの?」
「いや?」双我は笑顔を浮かべた。
「ただ、そろそろ家具をまた新調しなくちゃな、と思ってさ」
「ああ」
 リリスがダイニングを見回した。
「そうだね」
 そこに刻まれているのは、破壊の痕跡。
 壁紙は全て引き剥がされて建材が剥き出しになっている。どこもかしこも刃渡りの薄いナイフか何かで切り刻まれた傷があり、ところどころには放火しかけて思い直したような焦げ目がいくつもあった。家具はささくれ立つほどの蹴られ、殴られ、物を叩きつけられており、嵌め込まれていたガラスなどは全て粉々に打ち砕かれて、床に散らばっていた。カーテンは引き裂かれたどころか噛み付いた跡もある。部屋の片隅にある小さなテレビにはハンドサイズのミニハンマーが首を突っ込んだまま死んでいた。
「また随分、派手にやりやがって……」
 リリスは、てへへ、と笑った。
「いやー、ちょっとエキサイトしちゃいまして……」
「俺のカネじゃないからいいが、もうちょっと物を大事にしろよ」
「だって、……だって」
 リリスの顔が叱られた子供のようにしょげ返る。
「……我慢できないんだもん」
「……まァ、いいけどよ、俺のじゃねえし」
 双我は背もたれに深く腰かけなおして、「大したことねーよ? 確かに」みたいな顔をした。安心させるために。
 こんな光景が、大したことじゃないわけがなかった。
 最初に双我がリリスの破壊行動を目撃したのは、二度目の任務が終了して、二人で帰宅した後のことだった。正確には、真夜中に凄まじい破壊音がして、飛び起き、ダイニングに顔を出したら、すでに破壊は終わっていた。
 剣を握ったリリスが、汗びっしょりのパジャマ姿で、双我を見つめ返していた。
 白状すると、双我は本気で『殺される』と思った。蛇に睨まれたようにその場から動けなかった。
 が、リリスは双我に弁解せず、何も言わず、静かに自室へ戻っていった。
 そして次の朝、バラバラになった家具の残骸の上に立って、「おはよう」と挨拶したのだった。
 それが、七ヶ月前のこと。
「…………」
 双我は、手に持ったスプーンを見つめている。クリームシチューがついていた。
 リリスは鼻歌交じりに空中に見えるらしい何かを視線で追っていたが、ツ……と双我を見て言った。
「ねえ双我」
「ん?」
「私のこと好き?」
「仲間としてはな」
 嘘ではなかった。
 双我は時計を見て、口をナプキンで拭いて立ち上がった。
「ご馳走さん。……いけるか?」
 リリスも、壁にかかっている、ガラス盤は割れているがまだ生きている時計を見上げて言った。
「うん」
 心が壊れた戦士を求める、任務は尽きることがなかった。

 いまにも雨が降り出しそうな、真っ白な空だった。
 双我はそれを見上げながら、舌打ちを一つして、隣に座ってカクンと首を垂らしているリリスの肩を揺さぶった。
「着いたぞ」
「んん……?」
 霞んだ目を擦っているリリスを引っ張るようにして、双我は車を降りた。
「ご苦労さん」
「いえ……」
 ルミルカが雇っている国営自動車会社のドライバーは、帽子に軽く手をやってから、リムジンを静かに出発させた。
 ビル群の乱立する一帯の前に、戦闘服を着た二匹の猫が立ち尽くす。
「ここは……?」
「墓地だよ」
 この頃にはもう、人間の墓というものは、それぞれの家の持ち物ではなくなっていた。家族を共同墓地に埋葬することは常識であり習慣であり、そして参る者もほとんどいないのだから、それは形式だけのものになってしまっていて、敬虔でもなければ哀悼の思慕さえない、そこは現代の墓地だった。
 無表情な灰色建材で築かれた、共同墓地の塔が、どこまでも地平線の向こうまで続いている。双我はレザーウェアの金具を指で摘まんで弄りながら、周囲を見渡した。
 誰も墓参りに来ないなら、かくれんぼには打ってつけ。
 悪い魔法使いだっているかもしれない。
 なら殺さないと……
「共同墓地は、黒魔法研究に使う資材を隠匿しておくのに持って来いの場所だ。それはわかるか?」
 リリスは頷いた。双我は続ける。
「俺たちの目的は敵の殲滅。研究資材の完全破壊。他にない」
「……知り合いはいる?」
「誰の?」
「私の……」
「いない。敵の写真、見るか?」
 リリスは吐き気を堪えたような顔で、首を振った。
「いらない」
「わかった」
 双我は手元の資料をビリビリに破いて風に散らせた。どうせ殺せば顔など意味ない。
「今日はたぶん『ヨロイ』とやることになる……大丈夫か? 無理すんな」
 双我が言うと、リリスはうっすらと笑った。
「へいきへいき」
 サーベルを鞘から引き抜く。進軍を指揮する女将軍のように。
「殺せばいいんでしょ? どいつもこいつも……」
 そう言って歩き出す。
 双我はリリスの後を追った。

 魔導装機。
 通称、『ヨロイ』。
 元々は、鼠が猫へと立ち向かうために建造した戦闘兵器である。防御用に身に着ける魔導装甲とは違って、着るというより乗り込むに近い。大きさは小型の重機程度。右腕が小銃となっていて、本体に内蔵されたカートリッジから接続された魔走回路が流れ込む仕掛けになっている。剣の柄よりも大型のカートリッジを搭載されているために、使用できる魔法の出力は桁違いに高い。
 が、致命的な構造上の欠陥が一つある。
 大きすぎるカートリッジは、走っている魔力が強循環するために、細かい魔法の使い分けが出来ない。スピードがありすぎて曲がれないレーシング・カーのように。小回りならバイクの方が利く。
 ゆえに、魔導装機は使用できる魔法がたったの一種類。それもほとんどが爆炎魔法。
 器用貧乏ならぬ単純馬鹿のでくのぼう。それが魔導装機の現実的な評価の落ち所だ。
 とはいえ、火力は本物。
 まともにやりあえばこちらのアーマーなど容易く粉砕され、肉体は木っ端微塵に破壊されるだろう。
 それが、ミーシャの報告によれば、270機ほどこの共同墓地に埋蔵されているらしい。
 これから双我とリリスは、それらを全て破壊することになる。
 二人は、墓ビルの間を歩いていく。
「リリス」
「ん?」
「帰ったら何が喰いたい?」
「そうだなあ……」
 リリスが答えを探すように、足元の草を見下ろした時、
 接敵した。

 おそらく巡回中だったのだろう、墓ビルの角を曲がって、紺色の魔導装機が金属の軋む音と内蔵カートリッジの魔力が走る蜂のような気配をさせながら、その姿を現した。
 敵は、迷わなかった。
 挨拶でもするように腕と同化した魔法銃を構えた。
 しかし、その時にはもう、リリスはサーベルを振り抜き終わっている。
 ず、ず、と魔導装機が滑稽劇のように膝を滑らせ、地面に沈んだ。
 しかし、その装甲には傷一つない。ただ血の煙が、あたりに少しだけ漂った。双我はごくりと生唾を飲み込む。
 共振斬り。
 魔導装機の外殻に走っている魔走回路を逆転利用し、魔力を流したこちらの魔法剣を相手の装甲と共振させて、『透過』させる技だ。これなら相手の装甲がどれだけ硬かろうと、わざわざ破壊することもなく、カートリッジを爆裂させることもなく、中にいる本体だけを殺害できる。血の煙が出たのは、共振させた時に発生した剣と鎧の空隙からわずかに『中身』が漏れたからだ。
 リリスは、双我を見た。
「――なんの話だっけ?」
「いや、もういい」
 双我も剣を振り抜き終わっていた。背後から魔法銃を構えていた赤茶色の魔導装機に自分からもたれかかるように接近し、鞘から抜いた魔法剣を胴体のド真ん中に突き立てていた。
 双我の殺しは派手に終わる。
 バチバチと紫電を放ち始めた魔導装機から、双我がステップジャンプで距離を取ると、それを追いかけるように爆炎が迸った。
 警報は鳴らなかった。
 雨が降り出す。
 双我は言った。
「来るぞ」
 細い傷のような雨の中から、濃紺と赤茶に塗り分けられた魔導装機共が、ウジャウジャと湧いて二人に突進した。強固な装甲をアテにした同士討ちを恐れない魔法弾の多重射撃の嵐に二人は巻き込まれた。
 が、一発も命中しない。
 持ち前の運動性能を惜しげもなく披露した二匹の猫が、空中へと飛び上がった。魔導装機は重量のせいで空中へなどジャンプできない。だが、一機として慌てた素振りなど見せなかった。頭部に搭載されたレッド・アイが上向く。どう考えても、銃を持っている相手に対して空中へ飛ぶなど自殺行為に他ならなかった。
 問題は、飛び上がった二人が墓ビルの壁を蹴ったことだ。
 交差するように壁蹴りを繰り返した二人は魔法弾の一斉射撃をことごとく回避した。弾道が読めていたとしか思えない。手品師に翻弄される幼児のように、その場に集結した十八機の魔導装機はことごとく手持ちの弾丸を無駄にした。備え付けの魔法短剣を左手で抜く奴もいるにはいたが、上空から急降下してきた二匹が狙うのは決まってそういう『やる気』を見せた機体だった。白兵戦に持ち込まれた方が、弾道の読める射撃を喰うよりも怪我をする確率が高い。
 流星のように猫が降り注ぎ、地面に着地したと同時に、左腿部のケースから短剣を抜こうとしていた三機が爆裂した。
 二機殺りは、リリス。
 この段階で魔導装機の中にいた黒魔導士たちは一時撤退を決意した。すでに墓ビルの中に隠されている270全機体に出撃命令が出てはいたが、乗り手が不足していて190機しか出撃していなかった。それでも黒魔導士たちは思った。数さえ揃えばなんとかなる、と。
 おそらく、270全機体が一斉に襲い掛かっていたとしても、そこにいた一匹の猫も狩り獲ることは出来なかったろう。
 リリスの攻撃は素晴らしく速かった。
 それは、五機を一気に切り裂き、七機を地雷魔法で粉砕し、応援にかけつけようとしていた二十二機の内の三機を氷結させて足止めしてみせたばかりの双我でさえも、目で追い切れない速度だった。一度、巻き込まれかけさえした。
 双我は改めて確信した。
(……強い)
 ここ最近では、一番、目覚めている動きだ。
 リリスはいつも戦闘不能というわけではなかった。時々、こんな風に、かつての切れ味を完全に取り戻すことがあった。いや、ひょっとしたら、双我と闘り合った時よりも、こういう時のリリスの方が強いかもしれない。
 眼が違う。
 銀色の双瞳が、焦点を噛み合わせ、視界に映る全てを把握している。めまぐるしく回転しながらサーベルを振り抜き、鞘とそれを繋ぐ鎖を魔法銃で撃ち抜かれても分離した鞘を即座に敵機の赤眼にぶち込んだ。一瞬として停滞することがない。
 剣舞とはよく言ったものだ。
 まさにそれは、荒れ狂う剣霊の舞だった。双我とて、一騎当千の魔導装機を玩具のように翻弄しながらも、リリスの剣技に追いつけない。それどころか、リリスは自分に敵機を集めて、双我の負担を減らそうとしているようにも見える。すでに墓ビルは七柱倒壊し、空っぽの墓石の残骸が曇天から降り注ぎ、平原と化した戦場に動かなくなった魔導装機の亡骸だけが跪いていた。リリスがサーベルを一振りすれば、一機の黒魔導士が生命と操縦を失った。二振りすれば、二機の魔導装機が抵抗と銃撃を止めた。さらに一突きすれば、まるで木の葉のように重なった五機が串刺しにされて爆発した。
 雨が強くなる。
 双我も、背後から襲い掛かってきた短剣を見もせずに己の魔法剣の刃で受け止め、流し、振り向きざまに首を狙って切り裂いた。双我の顔面に魔法鎧の首筋から噴出した血液がべっとりとかかった。左目が血で開かない。が、見えないなら突撃すればいい。濃霧の中を双我は突っ込み、手当たり次第に切り裂き、盲滅法に火鳥を解き放った。爆炎で濃霧に視界が開ける。黒魔導士共が悪寒を感じたのは正しい。四分の一秒後には全員死んでいた。

 雨が上がった。
 双我は息切れしたまま、しばらく平原に剣を突いて、動けなかった。雨とは違うもので濡れた顔が冷え切っている。視線は凝り固まったように動かない。戦闘が終わるといつもこれだ。全身全霊で戦うものだから、終わった後に何も残らない。しばらくの間は食事も満足に取れないだろう。
 それでも、身体を引きずるようにして、死体の山を前に立ち尽くすリリスのそばへ行った。
「……おい」
 リリスは、チラリと双我を見ると、まだ地面に視線を縫い付けた。
「大丈夫かよ」
「弱いくせに」
 双我は黙った。自分のことかと思った。
 違った。
 リリスは、唇を噛んで、自分に歯向かってきた愚者たちの、その亡骸の河を睨みつけていた。
「弱いくせに……」
「おい……リリス」
 リリスは首を振って、水気を髪から払うと、空を見上げた。
 彼女の頬から、水滴が伝う。
「任務、完了。帰投、する……」
「……そうだな。任務完了だ。確認してねえが、200機近くは殺っただろ。あとはルミルカの掃除屋に任せようぜ」
「…………」
「リリス?」
 もう意識はなかった。
 リリスは、誰かにもたれかかるようにゆっくりと、その場に倒れ込んだ。だが、誰もその身体を支えるものはなく、満身創痍の双我も動けず、彼女は草の間に倒れ、そして静かに寝息を立て始めた。
 双我はそれを黙って見下ろしていた。
 その場に座り込んで、しばらくリリスの寝顔を見つめてから、決めた。
 ミーシャに話を通すことにした。

 共同墓地での殲滅作戦は成功に終わったが、リリスの衰弱は激しかった。あの後、双我は魔法病院へ昏睡したリリスを抱えて運び込んだが、そのままリリスは緊急入院になった。魔力を過剰に使用すれば、必ず反動が来る。リリスのように一刀に全霊を懸けてしまうような戦い方を続けていれば、なおさらだ。
 双我も、エーテル点滴を一本打ってもらってから、自宅へ戻った。火の消えたリリスの屋敷の真ん中で、暗闇を見つめながら、しばらく双我は悩んでいたが、やがて自分の部屋にある鳥籠を持って、ロビーへ降りてきた。鳥籠の中には、おもちゃのハトが入っていた。扉を開けて、それを開けた窓のそばへ近寄せると、カラクリ仕掛けのハトが目を覚まし、夜空へと飛び立っていった。
 行き先は、『ルミルカのたてがみ』本部にいる、ミーシャ・グライセル。
 双我は、ロビーに置いてある飾りの安楽椅子に腰かけて、動かなくなった。
 ミーシャは、二週間後にやってきた。
「……久しぶり」
「そうだな」
 玄関から入ってきて、視線を合わせずに挨拶してきた猫に、双我は気のない声で答えた。
「リリスが入院したぜ」
「……知らないわけないでしょ。いま、お見舞いにいってきたとこ」
「二週間経って、ようやくか」
 苦い笑みが双我の顔に広がる。
 ミーシャは頬をつねられたような顔をした。
「……行ってあげたかったよ。ずっと。でも、いま、同時に任務に入ってる魔導師が十三人もいる。あたしはその半分以上も付きっ切りでサポートしてあげなくちゃいけないから……」
「人増やせば?」
 双我は笑った。ミーシャは黙った。
 どうせ返事が来ないことなど分かっている。
 安楽椅子を蹴飛ばすように、双我は立ち上がり、ミーシャとの距離を詰めた。
 ミーシャは背が少し低い。まだ十代半ばの双我と並んでも、首を上げるように見てくる。
 キスを求める恋人のように、ミーシャの目が潤んでいた。
 そんなものじゃ、騙されない。
「来いよ」
 双我は顎で食堂の方をしゃくってみせた。
「見せたいものがある」
「……何?」
「いいから。きっと面白いぜ」
 食堂の惨状を見たミーシャの表情は見物だった。金槌で後頭部を強打されたように、表情筋から手足の先まで、電流が走ったように動かなくなった。双我はコツコツと食堂を歩きながら、粉々に砕かれた置物や、引き千切られた花弁の欠片などを持ち上げては、空中に放っていった。
「俺が組み始めてすぐ、この状態になってたよ」
「……どうして」
「どうして? 俺は初日にお前に連絡を入れたはずだぜ。伝書鳩が来なかったか?」
 ミーシャは、自分の腕をきつくきつく握り締めた。
「……連絡は受けてた。でも、こんな……」
「言葉だけじゃ伝わらなかったろ。画像を送っても信じたかな? この部屋は不思議なもんでさ、実際に入ってみないと、怖さがちっとも伝わらないんだ」
 双我はまるで、自慢でもするように喋り続けた。
 唇の端に、噛み千切った跡がある。
「この八ヶ月間、任務に就くと、リリスはいつもこうだったよ。止めても無駄だし、止められるわけがない。猫が剣を振り回してたんだからな。俺に出来ることは、リリスが正気のうちに、あいつの剣からカートリッジを抜いて隠しておくことだけだった。好きにさせたら、あいつはこの街一帯を荒地にしちまうからな」
 座れよ、と双我はミーシャに椅子を勧めた。ミーシャは、脚に亀裂の入ったその椅子を、見ただけで座ろうとはしなかった。双我は頷く。
「ところで、ミーシャ。一つ聞きたい」
「その前に、こっちから一つだけいい?」
 双我は一拍置いてから、答えた。
「いいよ。なんだ?」
「次の任務の命令が降りた」
「…………あ?」
「メンバーはいつもと同じ。君とリリス」
「ちょっと待てよ」
「目標は黒魔導士の裏ギルドに人質にされた、魔法庁の高官の令息の救出。すでに誘拐されてから七時間が経過している。場所は太平洋上の敵戦艦内部」
「待て」
「リリスには、さっき命令書を渡してきた」
 ミーシャの目が、氷のように冷えている。
 その白い指先が、切り傷だらけのテーブルクロスの上に、一通の書状を舞い落とした。
 ミーシャは言った。
「これが君の」
 双我は、魔法剣を抜かずに置くのに苦労した。
(……落ち着け。冷静になれ)
 乱れかかった呼吸を、細く静かに、整える。
 双我は、笑顔さえ作り直してみせた。
「全然わかってねえみてえだな。リリスは病院だ。この二週間、俺はずっと様子を見てきた。とても闘えるような状態じゃない」
「敵は雷撃魔導師を抱えてる。戦艦全体にセキュリティ・エンブレムが張り巡らされていて、それを突破して切り込めるのは同質の雷撃魔導師以外にはいない。つまり、リリスしか」
 まるでマニュアルを読み上げているようだった。
 事実、そうだったのかもしれない。
 双我は吐き捨てるように、反論した。
「……レーゼンとかロッカスとか、いくらでもいるだろう。雷撃使いくらい」
「二名とも別任務に就任済み。三週間は戻ってこない」
「俺がやる」
 ミーシャは、息を吸い込んだ。
「……君は、雷撃魔法に特化した魔導師じゃない。君は白兵戦闘の天才で、高等戦略の専門家じゃない」
「舐めんじゃねーぞ。俺だって……」
「セキュリティ・エンブレムの突破は天才にしか出来ない。まだ体系化されていない技術を、不安定な雷撃魔法で無理やりに突破する。感性だけで生きてるような本物の猫にしか出来ないことだし、これは君の得意分野でもない」
 そこまでまくし立てたミーシャの足が、少し震えているのを、双我の目が捉えた。
「…………」
「双我……」
 双我は、もう理解していた。
 ミーシャが正しいことを。
 双我がミーシャの立場でも、リリス以外には渡せない任務だ。雷撃魔導師は数が少ない。ルミルカに公然と反逆してきたということは、二流でもない。『黒熱のバルキリアス』か、『春炎のザーゼル』か、それとも『六つ目のダン』か。いずれにせよ、双我よりも強い誰かが反逆者になっている。ルミルカの中でも歯が立つのはリリスを含めて五人もいないだろう。
 その中に、雷撃魔法の専門家はリリスしかいない。
 だが、
 それでも、
「……なあ」
 双我は言った。
 握った拳から、何かが染み出していた。
 鮮血だった。
「一つだけ、さっきしかけた質問をさせてくれ」
「……何?」
 双我は、ミーシャに言った。
「これが闘える奴の部屋だと思うか? これが何も感じず平気な顔で剣を握れる奴の場所だと思うか?」
「…………」
 ミーシャは目を伏せて、何も言おうとはしなかった。
 双我はテーブルに、血まみれの拳を打ちつけた。
 態度と違って、声は震えていた。
「あいつは機械じゃねえよ、ミーシャ」
「……誰だってそうだよ」
「じゃあその『誰か』を連れて来い。あいつの代わりになる奴を」
「いないから、あの子なんだよ」
「じゃあ滅べ。それだけの話だ。構うもんかよ。俺はリリスと京都へ逃げる」
「……本気?」
「ああ」
 ミーシャは、諦めたようにため息をついた。
「そっか。それじゃ、誰が討手になるのかな。あたしかな」
「……」
「ねえ、双我」
 ミーシャは、ズタズタにされたテーブルクロスや、割れた皿の破片を撫でている。
「ルミルカはね、いつか猫の国を作ろうって考えてる。京都みたいな特区じゃなくて、本物の猫の楽園を……いつか、鼠と握手はできなくても、お互いに関わらずに世界の反対側で生きていけるように。そのために、今は……」
「あいつに死ねと?」
「どう答えて欲しい?」
 ミーシャは、今にも泣き出しそうだった。
 それが本音かどうかは、ともかく。
「そうだよって言ってもいい。本当はリリスに闘ってなんか欲しくないって泣いてみせてもいい。君が選んでいいよ。あたしはそれに従う」
「お前……!」
「この任務はリリス・アージェリアにしか出来ない。君のフォローも欠かせない。変更はない。代役はいない。君たちに出撃してもらうしかない。今にも人質が実験材料にされているかもしれない。すべてが無駄足になるかもしれない。でもね、双我。君が決めて。いまあたしを殺してリリスと逃げるか、それともリリスの意見を聞きにいくか」
「…………」
「リリスは、やるよ。あの子は、ルミルカが好きだから。こんなあたしのことも、仲間だと思ってくれてるから。……双我」
 ミーシャは双我を見た。
「あの子を守ってあげて」
 双我は、吐き捨てた。
「……勝手すぎんだろ」
 テーブルの上の書状を握り締め、
 そして、それを破り捨てることが、双我には出来なかった。

 そんなに嫌か、とたまに双我はリリスに聞く。人を殺すのが嫌なのか、と聞くと、そうかもしれない、という。だから双我は少しだけ心を鬼神に近づけて、言ってみる。それでもお前が殺した人間は戻って来ない。お前がせめて幸せに生きていくことが、負けて死んでいった奴らへの弔いってやつになるんじゃないのか、と。
 欺瞞もいいところだ。双我が殺された側なら黙っちゃおかない。が、もちろん死者に口なしで、そんなことは構いやしない。死んでいった奴らのことなど双我はどうでもいい。雑魚がいくら死のうと関係ない。リリスが苦しまずに済むなら、そんな奴らの死なんかは生贄だとさえ思っていい。
 だが、リリスは困ったように笑う。
「そういうことじゃないんだけどなあ……」
 その微笑みは寂しそうで、
 どこまで語っても、理解してもらえないことを分かっている人間の顔だった。そんなリリスを見るたびに、双我は血が出るほどに拳を握る。
 じゃあ何が苦しいんだ。
 いったい何がそこまでお前を苦しめる。
 人を殺すことに良心の呵責があるわけでもない。『ルミルカのたてがみ』から離れないのは、リリスの強さを考えれば自分の意志だと言っていい。リリスがその気になりさえすれば、双我はいくらでも手を貸す。どこへだって付いていく。
 お前が行くと言ってくれさえすれば。
 それでもリリスはルミルカのたてがみから離れない。
 病室のベッドに横たわって、リリスは窓の外を気持ちよさそうに見上げている。
「仲間がいるからね」
 その声には、諦めたような寂しさがあった。
「捨てちまえ」
 双我は床を睨みつけながら言った。リリスが不思議そうにこちらを向く。
「そんなもん、全部捨てちまえ。自分が死んでちゃ話にならねぇ。仲間だか友達だか知らんが、自分がくたばるよりそいつらが死ぬ方がマシだろ」
「双我……」
「なんでだ? なんでそこまでして義理立てする? 『ルミルカのたてがみ』が、お前に何をしてくれた? 居場所なんて、お前なら自分の力だけで作れるだろ。仲間だと? そんなもの……こんな時にお前を助けに来ない奴らが、仲間なもんかよ!!」
 子供のように怒鳴り散らした。
 双我が子供じみていた、わけではないだろう。どちらかといえば現実的に考えていたのは双我の方だった。
 ただ自分だけが生きていく、ということをもっとも現実に即した生き方だと定義すれば、だが。
 リリスは眩しそうに、目を細めた。
「……ミーシャのこと?」
「…………」
「いろいろ言われた? でも、悪く思わないであげてよ。あの子も好きで私を動かしてるわけじゃ……」
「本当に奴がお前の仲間なら、なぜ助けに来ない?」
「私は助けて欲しくなんかない」
「嘘だ」
 双我は頑として譲らなかった。
 燃えるような目つきで、弱ったリリスを睨みつけた。
 喉が獣のように鳴った。
「それは、嘘だ。リリス」
「……嘘じゃないよ。助けてなんて、私は言ったことがない」
「戦場でいきなりぶっ倒れる奴がか」
「…………ま、そういうこともあるよね」
「そういうこともある、じゃねーよ。死んだらどうすんだ」
「うーん、その時はね……」
 リリスは半笑いで、自分の前髪をいじくった。
「死ぬだけじゃない?」
 ずっと我慢していた。
 やっと怒れた。
 双我は椅子を蹴って立ち上がり、リリスの胸倉を掴んだ。パジャマのボタンが音を立てて弾け飛び、病室の清潔な床を転がっていった。
 二人はしばらく、辛い姿勢で、無言のまま見つめ合った。
「死ぬだけ? ふざけんなよ、こっちがどんな思いでお前を助けてると思ってる」
「……それは……」
「それも、『自分は助けてなんて言ってない』か? それも『双我が勝手にやってるだけ』か?」
「違う! 私はそんな……」
「お前はそう言ってるんだよ、この俺に」
 ぐっとリリスは言葉に詰まった。
 その目に涙が滲んだ。
「だって……だって私は……」
 ひぐっ、とリリスの喉が鳴った。
「私にも……どうしていいか分からないよ……」
「じゃあ教えてやる。リリス、お前はもう闘うな。お前は再起不能なんだよ。とても戦闘できるような状態じゃない。二度と剣を……」
 ――剣を振るわない猫に、生きてる意味があるか?
 そんな自分の心の声に唾を吐く。
「二度と剣を持つな。お前にその資格はない」
「……それで?」
 双我はリリスの服から手を放した。
 びろんびろんになったブラウスから、リリスの胸元が見えた。
「それで私は、どう生きていけばいい?」
「どうも生きるな。一生、屋敷で暮らしてろ。
 なあ。
 それのどこが不幸なんだ? 金なら俺が送ってやるよ。心配いらない。
 それのどこが不満だ? 闘うことがそんなに好きなら、なんで闘って傷つく? あのな、お前はきっと闘うことなんて……」
 好きじゃないんだ、とは言い切れなかった。
 リリスが何か言ったから。
「……だよ」
「あ?」
「私が闘わなきゃ、双我が死ぬからだよ」
 双我は黙った。
 それから、ゲラゲラ笑った。
「俺が死ぬ? 冗談言うな、俺は死なない。任務のこと気にしてるのか? ハッ、誰が相手だろうと知ったことかよ。俺は負けない。必ず勝つ。だからお前は……」
「双我が死んだら、私は悲しい。ルミルカの誰が死んでも、私は嫌だ」
 リリスは、窓際の花瓶に目をやった。
 もう枯れていた。
「ルミルカの首輪に繋がれて戦い続けるのは、双我、認めるよ。はっきり言って苦しい。嫌で嫌で仕方ない。でも、私がやらなきゃ、誰かが死ぬ。死ぬかもしれない。そう思うと、死にたくなる。ミーシャも、ダーナも、ダンゼルも、双我も、私にとっては……」
 眠るように目を閉じて、
「昔は、こんなこと、考えなかった……」
 目を開き、その銀色のまなざしを過去に据えて。
「独りだった時は、闘っていればよかった。誰が相手でも後腐れのない決闘だった。逃げたい奴は逃がしてあげたし、刃向かって来る奴には生まれ変わっても忘れられないくらい深く深く、剣を突き立てた。それでよかった。他には何も考えずにいられた……」
「……じゃ、今からでもそうしろよ」
「できない。……ねえ双我。独りじゃないって苦しいね」
 リリスがパジャマを脱いだ。
 下着姿になって、恥ずかしげもなく、ハンガーに吊るされていた戦闘服を身に着けていく。
 やめろ、と。
 そんな些細なたった一言が、双我には最後まで言えなかった。
 いつもの姿になったリリスが、ベッドの縁に座っている。
 そのそばには、愛剣が立てかけられていた。
「いこっか、双我」
「……これで最後だぞ。いいな。どうせお前は俺の足手まといになるんだからな。それがわかったら、引退しろ」
「わかってるって」
 リリスは笑った。
 そして、それが本当に最後の任務になった。
 リリスの髪は、その頃にはもう雪のように真っ白だった。

 リリスはいつも自分で自身の髪をカットしている。そのために専用ハサミも持っているくらいで、その手捌きはちょっとした見世物に出来るくらいだ。チャキチャキチャキ、とほとんど指に力をかけていないはずなのに、サラサラとその白髪が――かつては太陽のように輝いていた金髪が――床にサラリと落ちていくのを見るのが、双我は好きだった。時々こっちを見て、「ん?」などとはにかんでくるリリスを見ていると、絶対に守ってやろう、なんてガキくさいことも考えていた。本当に双我はガキだった。
 けどな、と双我は思う。
 そんなことも容易く思えなくなったなら、そんな自分はくたばる以外に能がない。
 今。
 リリスと双我は、かつてヘリコプターと呼ばれていた機械に乗っていた。いまではすべて魔力から電源を取っていて、呼び名も『蜂』が一般的だ。ヘリなんて言う奴がいたら、まず映画の見過ぎだとからかわれるだろう。パイロットはいない。最近はなんでもオートでやる。
 オートで出来ない仕事が、双我たちに回ってくる。
「…………」
 向かいの座席に、腰を下ろして。
 双我とリリスは何も言わずに、黙っている。双我は手に着けたグローブのリストをいじっていて、リリスはやはり、髪を切っている。もうかなり整って来た。雨が降るかと空を見上げる子供のように、前髪を確かめてから、リリスはくるっと手の中でハサミを回して、ポケットに仕舞い込んだ。
「どう?」
 自信満々、といった態度で、リリスがニヤニヤしながら双我に聞いた。双我はぷいっと顔を背けた。
「いーんじゃねーか」
「双我の頭もヤッたげよっか?」
 ギラリン、と八重歯を見せてくるリリスを見て、双我はいやいやと首を振った。
「やめとく。お前、他人のはスゲェ適当にやりそう」
「なんでわかるの?」
「アホンダラ、俺とお前がどれだけ一緒にいたと思ってんだ。お前のことならなんでもわか……」
 言ってしまったら、お約束。
 二人は顔を赤らめて、視線を合わせようとしなかった。
「いやあ……」
 リリスがぽりぽりと頬をかきながら、チラチラと双我を窺い見る。
「……不意打ちは、どーかと思いますよ?」
「……スマン」
「ま、いいけど。……嬉しいし」
「……スマン」
 平謝りしかない。
 珍しく素直な双我を、リリスはくすくす笑った。
「双我って猫っぽくないよね」
「……ああ? 唐突に何をディスってんだよ」
「いや、だって、こんなヘラヘラしてられるのって、私には双我しかいないし」
「……そうか?」
「他のメンバーのことも、好きだけど、でも双我はなんか、特別な感じする」
「……そうか」
 それ以上、なんと答えていいかわからなかった。
 防音壁の向こうから、ヘリのローターの音が遠く聞こえる。
 心地のいい、安らかな騒音。
 二人はしばらく、目を閉じていた。
「ねえ、双我。いつかさ……世界って平和になったりするのかな?」
「なんだ突然。そういうのは日記に書いてろ」
 ため息をつき、
「……ま、お前がババァになる頃には、なってるかもな」
「ほんと?」
「ああ、俺は嘘はつかねえ」
「どの口が言ってるの?」
 ぷーくすくす、とリリスは口に手を当てて笑う。
「まァでも、信じてあげてもいーよ。そう、うん、きっとね。私たちがヨボヨボになる頃には、もう世界はそれはそれは広くて深くて穏やかで、闘ったりしないでいいところになるよ。うんうん。双我の言うとーり」
「……なんか言い方むかつくな」
「あはは、ごめんごめん。……でも、ほんとにそうなるといいよね」
 あのね、とリリスは言った。
「おばーちゃんになってもお嫁にいけてなかったら、双我が貰ってくれてもいいよ」
「ふざけんな。願い下げだ」
「うん」
 リリスは微笑んで、愛剣の柄を握った。蜂の羽音が少しずつ静かになっていく。双我は立ち上がった。
 ハッチが開いていく。風が機内に流れ込み、わずかに身体が引っ張られる感じ。
 紺碧の大海原が、眼下に広がっている。その一点に、汚れのように、真っ黒な戦艦が波を切り裂いて航行しているのが見えた。
 名前もない、敵の戦艦。
「双我」
「なんだ」
「……『新型』、使う?」
「当たり前だろ。ここ最近は調子悪かったが、もう直ったはずだし、無理してでも今日は……」
 そう言って、双我は左手で握った鍵束を、自分のグローブに差し込もうとした。
 それを、ひょい、っとリリスがかすめ取った。
 双我は唖然とする。
「……おい、返せよ」
「やだ」
 ニッコリ笑って、リリスはその鍵を口で啄むと、
 トン……
 サーベルを抱いたまま、蜂の体内から飛び降りた。
「バッ……」
 もう遅い。鍵はない。双我は風に巻かれて誰にも届かぬ毒を吐きながら、魔法剣を手に取って、空中へ飛んだ。
(あの馬鹿……!)
 戦艦が少しずつ、視界の中で大きくなっていく……
 リリスが吐き捨てた鍵が、海に飲み込まれて消えた。

 敵戦艦の甲板に激突着地した瞬間、リリスは愛剣をまっすぐに突き立て、雷撃魔法を絶妙な分量でスプレッドさせて、戦艦に絡みついていたはずのセキュリティ・エンブレムを完膚なきまでに破壊した。双我がわずかに遅れて甲板に着艦した時には、リリスは誤作動を起こして開き始めたハッチから滑るように戦艦内部へと潜り込んでいくところだった。
 元々、セキュリティ・エンブレムはそんなに容易く突き破れるものじゃない。
 双我は冷えた汗を流しながら、微かな黄色い磁場の名残が漂う甲板を見渡した。
 リリスがやったことは、数字も読めない人間が高度なコンピュータにかけられたパスワードを『直感』だけで解き明かしたようなもの。敵からしたらやってられない神業だろう。鼠が猫を羨み憧れ諦めきれないのもわかる。ここまで分かりやすく才能を見せつけられる機会が一度でもあれば、己の生まれの卑しさを親父やお袋に恨んで当たり前だ。
 モノが違う。
 どう足掻いても、掃いて捨てられるほどいるカスには生涯かかっても辿り着けない。なにせリリス自身が自分の能力を説明できない。「見ればわかる」とか「なんとなくフィーリング」とか適当なことばかり言ってるくせに、やるとなればその全てが的確で、本質を見抜き、必ず戦果を挙げてくる。セキュリティ・エンブレム? 冗談じゃない。双我には永遠に、この船に単騎で着艦することは出来ないだろう。いままでも、これからも。
 双我はリリスの後を追った。追いかけがてら、斬りかかってきた敵戦士を二人、魔導装甲ごと斬り殺した。浴びた血のぬるさを感じながら、疾駆する。
 パイプや配線が剥き出しになった、来客様お断り仕様の複雑な敵戦艦内を、リリスは剣を腰だめに構えて走っていた。全身を『耳』にしているのが背中を見ればわかる。扉を跳ね開けて踊りかかってきた敵戦士の首が一瞬で飛んだ。兜に包まれた生首が双我の足元で跳ねた。双我はそれを蹴り飛ばして、通路の陰から斬りかかろうとしてきた戦士の顔面にそれを当てた。ずいぶん嫌なキスを味わったことだろう、もんどりうって倒れ込んだ戦士の胸に剣を突き立て、燃やし、復讐に駆られて飛びかかってこようとした戦士七人をその場で足留めした。全滅させる必要はべつにない。貴族の坊ちゃんを救出できればそれでいい。
 双我は死体と流血をかき分けるようにして奥へ進んだ。
 リリスがちょっと殺し過ぎている。
 いや、べつに殺して困ることはない。これだけの騒ぎを起こして人質が死ぬなら死んだ時だし、もう安否なんて考えている場合じゃない。殺せるだけ殺して置くに限る。が、それにしても、惨殺が多かった。わざと苦しむようにリリスは斬りまくっている気がした。
「あはっ」
 敵戦士の魔法剣から繰り出された氷の蔦が槍へと転じ、リリスの頭部が一瞬前まであった空間を貫いた。リリス自身は軽く膝を曲げただけで――よく見れば、その動きが、一瞬わざと自分を気絶でもさせない限りは出来ない反応速度であることがわかる――氷の槍をかわし、身を捻り、その回転の中で魔法剣を鞘走りさせて敵戦士が撃ってきた数の七倍の氷の槍を十四倍の厚さで結晶化させ、贈り返した。
 悲鳴と許しを乞う声が辺りに満ちた。
「だめだめ」
 リリスは酔っ払ったように、夢見る顔で微笑む。
「許してあげない」
 ハイになっている。
 双我はそれをチラと見つつ、眼前の自分の獲物を綺麗に三等分に斬り分けた。剣を空振りして血を払う。リリスがキリング・ハイにかかっているのはべつにいい。猫としては普通の反応。最近は殺しを嫌がっていたが、敵戦士が魔導装機ではなくただの魔導装甲を身に着けた白兵であったのが幸いしたのかもしれない。相手が同じ白兵魔導師なら、リリスはそれを『決闘』じみた『勝負』と扱って、殺すことを躊躇わない時がたまにある。都合がいい、だが、それこそが猫が猫たる由縁だ。
 鼠には永遠に猫の気まぐれがわからない。
 だから負けてすぐに死ぬ。
 リリスに八人の戦士が斬りかかる。同士討ち覚悟の八点特攻。だが、リリスは一人の剣に抱き着くようにまとわりつくと、そのままそいつの腕をバターでもスライスするように切断し鮮血のシャワーの栓を開ける。そのまま少し体重を落とした哀れなその戦士の軽くなった二の腕を背負い投げして、自分が直前までいた空間に投擲、七兵は綺麗にその戦士を串刺しにして、四人が同士討ちで死んだ。
「いけいけ、羽ばたけ。噛みつけ。呪え、殺せ」
 歌うようにリリスが囁き、魔法剣が兵隊蜂のように唸り、そして周囲に飛び散った赤い鮮血に小さな口が出来る。魔法がかけられたまやかしの赤ヒルたちが戦士たちの頸動脈に喜び勇んで噛みついて、その生命と戦闘能力を喰い尽くす。リリスは笑う、笑う、笑う。
「たのしいね」
「そうだな」
 双我は同意する。本気だったし、そのまま最後までリリスが戦い抜けてくれれば、単純な話、双我の殺しが減って有難かった。双我ではここまで速く敵を殺せない。もう少し手間取る。
 リリスは速い。
 圧倒的なまでに速かった。
 殺戮の風と化して扉という扉を蹴破り、ロックというロックを解錠し、敵という敵を惨死させ、突き進んでいく。追いかけていくだけでやっとだ。気を抜けば振り切られそうになる。瞬きする間に安っぽいコメディノベルみたいに死体が増えた。笑い出しそうになるのをなんとか堪えた。あまりに簡単に死ぬから忘れがちになるが、この敵戦艦の乗員戦士たちは、ほぼ誰も彼もが双我と同程度には強い。下手すりゃ殺られる、というヤツだ。鼠の精鋭級を揃えていたのだろう。
 太った鼠は、猫と同じサイズになることがある。
 リリスが操舵室の扉を72分割した後で蹴破った。即興のジグソーパズルとなった鉄扉が吹っ飛ぶ。リリスと双我は操舵室へ駆け込んだ。
 そこが本丸だった。
 戦艦内に突入して、初めてリリスと双我の足が止まった。その瞬間、思い出したように、二人の身体から蒸気が立ち昇った。珍しくリリスが息を切らしている。
 操舵室は、一面ガラス張りになっていて、そこから甲板とその先にある海が見えた。その景色が死ぬ寸前でも気になって仕方ないのか、椅子に座った黒ずくめの少女は、頬杖を突いて、優雅に座りながら、視線を彼方へ飛ばしていた。双我は嫌になった。
「やっぱりお前か。バルキリアス」
 バルキリアスと呼ばれた、黒ずくめの少女は、つい、と二人の方を見た。その顔立ちは幼い。双我と同い年ぐらいだろう。目元がやや狐のようにきついが、いずれ成熟すれば完璧を想起させる白皙の美貌だ。あどけない唇に、妖艶な紫色のルージュがさっと引かれているのが、不気味だ。
「あら、双我にリリスじゃない。久しぶり、元気してた?」
「お前に遭わなきゃもっと元気だったんだがな、バル」
「あらら、それは残念。でも、私は会えて嬉しいわ。なんてったって、同じ猫の仲間ですもの」
「どの口が言いやがる。てめえ、いつから黒魔導士どもの飼い猫になった?」
「べつに飼われた覚えはないけれど。可愛いじゃない? 醜い鼠どもが、ヨタヨタヨタヨタ、私たちの真似事するのって……惨めで無様で、最高のショーだわ。それを特等席で観覧していたいだけよ、私は」
「いい趣味してるぜ……」
「でしょ?」
 バルキリアスは、足を組み替えながら、リリスに同意を求めるようなまなざしを向けた。
「あなたもそう思わない? 『皆殺し』のリリス。……というか、なにその白髪? イメチェン?」
「興味ない。どうでもいい」
 リリスは剣を構えたまま、苛立たしげに答えた。
「あら、つれないわね。私のこと嫌い?」
「ちょっと嫌い」
「あらら、それも残念。でもいいわ、私はあなたのこと気に入ってるから……」
 言って、バルキリアスが、椅子の背後から大剣を両手で抱えるようにして、持ち上げた。竜が首をかしげるような仕草で、墓石のように分厚い大剣の切先が落ちた。
 『黒熱』のバルキリアス。
 その愛剣は、決して自身では振れない大型魔法剣・バスタードソード。
 決して、座った椅子から腰を上げずに戦う様から与えられた二つ名は、かつて猛威を奮った疫病の古銘・ブラックフィーヴァー。
 その実態は、対戦相手を必ず電撃死させる、災厄の雌猫。
 双我には決して破れなかったセキュリティ・エンブレムを結界させたのは、この少女に間違いはない。
 鍔鳴りが二つ、鳴った。
 双我とリリスはそれぞれのスタイルで、剣を構えた。
 双我は納刀、
 リリスは抜剣。
 バルキリアスは値踏みでもするように二人を交互に見比べている。
「ふうん。ねえリリス、半再起不能って聞いてたけど、本当みたいね」
「何が?」
「以前、出会った時と違って、構えに重さが無い。それじゃ猫は狩れないわ」
「剣を振るわない剣士に講釈されてもね」
「あなたは誰に何を言われても拒絶するだけでしょうに」
「…………」
「それにね、そもそも向いてないのよ、あなたには」
 ニヤニヤ笑って、バルキリアスは舌でぺろりと唇を舐める。
「……足手まといを守りながら戦うなんて」
 抜いたのは、双我。
 一瞬の踏み込みで、風の援助を受けながら、バルキリアスの胴体を切断できる一撃を見舞った。
 仕留めた。
 確実に届く距離で、バルキリアスの胴を薙いだ、
 ……はずだった。
「…………何?」
 双我は剣を振り切った姿勢のまま、
 バルキリアスは椅子に座った姿勢のまま、
 死体一個分の距離を置いて、対峙していた。
 漆黒の少女はくすくす笑う。
「あらあらあら。のぼせちゃって」
「てめえ……何した?」
「あんまり舐めないでよね」自慢の足を高く上げて、
「この私がただ接近してくる馬鹿に対してなんの対応策も持ってないわけないじゃない。ま、それを逆手に取って不意を突いたつもりだったんだろうけど。でも、土壇場で切り返せないようじゃ本物の技とは言えない……」
「俺の脳だな」
 双我は左手で顔を覆った。
「……俺の脳神経の電流を、魔法で操り、距離感覚を狂わせた。そうだろ?」
「ご明察。それで? 降参して許しを乞う以外にあなたに出来ることは?」
「お前に俺は殺せない、ってことを宣言することくらいだな」
「……なんですって?」
「脳に直接影響を及ぼす魔法だ。殺傷能力があるなら今、俺を殺してたはず。そうしてないってことは、まだそこまで完熟してない技だってことだ。もう読めた。二、三度攻撃をしかけりゃ、狂った距離感は逆算してなんとかする」
「……これだから単純馬鹿は嫌なのよ。リリス、このオス猫どーにかしてよ。この私に『二、三度の攻撃』を仕掛けるチャンスがまだあるって思ってるみたいよ。止めなきゃ殺しちゃうよ」
「バルキリアスの言う通りだよ、双我」
 リリスが吐き捨てるように言った。
「やめておきなよ。あいつは嫌な奴だけど、馬鹿じゃない」
「…………」
「どうせ、バルキリアスと闘る限り、接近戦は望めない」
「その通り。あなたは察しがよくて助かるわ、リリス。でもね」
 紫色に塗られた爪と爪の間から、狂気に彩られた双眼が垣間見えた。
「それでもやっぱり、あなたは死ぬのよ」

 バルキリアスの魔法剣が軋んだ。
「…………っ!?」
「ねえリリス」
 バルキリアスは歌うように言う。
「覚えてる? 私とあなたが最初に遭った時のこと……まだお互いに野良だったわよね。貴方にとっては、ただの下らない喧嘩だったかもしれない。でも、私にとっては違う。あの時、私は、初めて負けた……それまで誰にも負けなかった私が、貴方に勝てなかった。まったく同じタイプの戦士であるあなたにね」
 バルキリアスの白貌が、脂に塗れて濡れていた。
「屈辱だったわ。殺してやろうと思った。こんなことは間違ってると思った。あれから、私は、貴方を超えるために生きてきた……
 でも、それはもうやめるわ。
 認めようと思うの。私は貴方の上を行けないって。
 そして、それこそが、私が貴方に勝つたった一つの最後の手段」
 バルキリアスが何か囁く。呪文のようなものを、
 そして、
「ぐっ……!!」
 双我とリリスが同時に膝を突く。全身が鉛になったように重く、怠かった。とても動けそうにない。双我は黒装の美少女を見上げて、吼えた。
「お前……これ……!!」
「察しがいいみたいね」
 バルキリアスの唇から、ヨダレが垂れている。だがそれは、獲物を前にした狼の空腹からのものではなく、疾走の最期に訪れる過労から来るもの。
 バルキリアスは衰弱していた。
 それも、かなり酷く。
 彼女ほどの猫が一瞬で衰弱するほどの魔法など、一種しかない。
 黒魔法。
 それは、鼠が猫の真似事をした挙句に辿り着く、穢れた邪法――
(それを……猫のお前が……使うのか!)
(誇りも尊厳もかなぐり捨てて……)
「『封鎖結界・無黒の間』……これが私の、切り札」
「バル……キリ……アス……!!」
「私は本気」
 魔法剣の柄を握る、バルキリアスの手は、震え、痺れ、濡れている。
 その顔に、ベッタリと狂笑が貼りついていた。
「こうでもしなければ、リリスには勝てない。これなら、この黒魔法なら、貴方たち二人の動きを同時に殺せる……もう動けないでしょ? 私もそうだけど、元から動く気がないから、これはデメリットじゃない。そして、歪み捻れ曲げられたこの私の結界の中で、貴方たちは、正確に魔法を使うことができな……」
 話を聞かずに、リリスが撃った。
 雷撃の槍が、バルキリアスの髪をかすめて、その背後、大海原を映したガラスを撃ち砕いて、蒼穹に消えた。双我の目が見開かれる。
 外した。
 あの『皆殺し』のリリスが……
「……バルキリアス」
「この魔法は私の生命を魔力として消費する……その代り、リリス、貴方とお付きのオス猫の寿命は、私の十八倍の速度で減少していく……どう? ゆっくりと、高速の死に飲み込まれていく気分は?」
 リリスは、脂塗れに微笑む。
「悪くないかな……」
「言うと思った」
 ぎりり、とバルキリアスの歯が軋んだ。
「それでいいわ。それでこそ人生を台無しにしてまであなたを死なせる価値がある。……さ、どうする? その震え、痺れ、衰えた腕で剣を振るい、最後の接近戦を挑んでみる? それとも……壊れた照準にわずかな望みを託して、撃ってくる? ご自慢の雷撃を」
「リリ……」
「動くな弱者。お前なんかに用はない」
「ぐあっ……!」
 双我にかかる過負荷が、格段に増した。もはや剣を持つことすらままならない。釘づけにされた標本のように、双我は這い蹲った。立ち上がることは、出来そうにない。
「畜生が……!!」
「これは私とリリスの勝負。誰だろうと、邪魔立ては許さない……」
「いいよ、双我」
 リリスは、ぎりぎりと、ゼンマイ仕掛けのような緩慢な動きで、双我をチラリを見やった。
「動かなくていい」
「リリ……ス……!」
「バルキリアスは、私が倒す」
「へえ? だから、どうやって? 接近戦か、それとも……」
 バルキリアスの肩口を、雷撃の槍が掠めて突き抜けていった。
 空気が焦げる臭いが立ち込めて、黒装の少女の黒髪が、わずかになびいた。
 その笑みが、深くなる。
「魔法戦ね。この私に、魔法戦を挑むというのね」
 返答は、再び雷撃。
 今度の誤射はひどかった。操舵輪の下にあるコンソールパネルに緩やかな弧を描いた黄金の一撃が突き刺さり、電気系統を破壊したらしく、照明が落ちた。予備電源は入らない。
 薄暗がりの中で、バルキリアスが、胸を上下させている。
「アドバイスしてあげようか、リリス。この黒魔法は、世界そのものの位相をわずかにズラし、歪曲させている。あなたはその位相がどのぐらいズレているのか、直感と経験で読み切って、正しい位置に雷撃を撃ち込めば私を殺せる……でもね、それは、ズレとも言えないわずかな差異。『無い』と言ってもいいくらいの違い」
 バルキリアスの足元が弾け飛んだ。抉れた鉄塊の縁を、バルキリアスはドレスシューズの爪先で慈しむように撫でた。
 リリスの口元から、ヨダレが滴っている。
「…………っ! …………っ!!」
「そんなに頑張ると後遺症が残るかもよ? 貴方、いま、湯水のように生命を零しまくっているところなんだから」
「うる……さい……な……!」
 リリスは床に突き立てた剣の柄を、憎むように強くきつく握り締め直した。
 こぷっ
 突然に。
 バルキリアスが血を吐いた。
 自らの手についたそれを、どうでもよさそうに、彼女は見ている。
「あらららら。これはちょっと困っちゃった。嫌になるわね、虚弱体質って。計算じゃ貴方たちの方が先に死ぬはずだったんだけど。これじゃ仕方ない……」
 剣の柄に、両手を重ねて、

「…………死亡覚悟で、私からも貴方に雷撃を撃ち込むしかなくなったみたい」

 跪き。
 片手で剣を支え。
 俯き。
 なけなしの魔力を練り上げていたリリスが、やはり、笑う。
「待ってた……」
 そして、雷撃使い二人の剣身から、同時に稲妻の種子が零れ始めた。
 どちらも、本気の一撃。
 蜘蛛の巣のように放射状に拡がる電撃が、バチバチと弾けては泡のように消え、そしてまた現れるのを繰り返す。薄闇の中で二人の周囲だけが激しく炎のように明滅する。リリスの眼光が鋭くなり、バルキリアスの血がとめどなく滴る。
 雷撃魔法の奥義は精神の過集中以外にない、と言われる。
 神経電流とまったく同質の現象を司るその魔法は、心の謎と同じ奥深さを持っている。解明することは誰にもできず、把握したと嘯く奴は詐欺師に過ぎない。それでも撃てる奴がいるのは、人間の精神が神の摂理の末端に触れる程度のことだけは出来るという証明。
 リリスとバルキリアス。
 二匹の猫が、神の領域へとどれだけ踏み込めるか。
 これは、そういう勝負だ。
 そして、
 先手で魔力を練り上げ切ったのは、
 バルキリアス。
 バスタードソードから、プラズマボールが放射され、それが一瞬間だけ、シャボン玉のように煌めいたかと思うと、粒子を撒き散らしながら一点に収束し、極大の電撃種子と化す。下手すれば自身の歪曲魔法の影響で弾け飛びそうなそれを――迷わなかった。
 撃った。
 双我の目が、その雷撃の眩さにくらむ。
 白熱する一瞬。
 双我は見た。
「数撃ちゃ当たる――」
 リリスのサーベルの剣身、その先端から魔法光がサークル状にリリスの周囲に拡がった。その全てが小さな電撃を帯びていたことを双我は後々思い出して戦慄することになる。
 しゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……
 リリスの周囲から、六つの電撃種子が現れた。
 燐光が明滅する。
 バルキリアスの目が見開かれる。
 リリスは、ニィッと笑った。
 六点瞬撃、
 リボルバー・ボルト。
 それがリリスの解答だった。

 ドッ、と空気を引き裂く音がして、
 バルキリアスの雷撃がリリスの電撃種子の一つに直撃し、相殺され、金色の粒子だけを残して弾け飛んだ、そして、
 もはや、バルキリアスに盾と成り得るモノはない。
 五槍紫電のうち、バルキリアスの心臓を直撃したのはたった一槍だった。黒装の少女は座っていた椅子ごと背後に倒れ込み、その手からバスタードソードが滑り落ちた。鈍い音を立てて剣が転がり、
 それっきり、もう、バルキリアスは立ち上がらなかった。
 双我は、目を閉じる。
(強ぇ――)
 喜びさえ感じる。
 圧倒的なまでの強さ。この死地に置いて揺るがぬ鋼鉄の精神。たとえ錆に犯されていても、その本質は変わらない。六点瞬撃。この歪曲結界の封鎖から解放されたとしても、双我には決して撃てない一手だ。一撃だろうと、この結界の中で双我が撃てば、おそらく逆走させて自分の心臓を撃ち抜くのが落ちだ。初手からリリスはバルキリアスの方角へだけは攻撃を集めていた。左手一本で油絵を描き切るような、その精神力。
 真似できないと思った。
 生涯、追いつけない。
 どんなにもがき足掻こうと……
 乾いた笑みが思わず浮かぶ。
 再起不能?
 どこがだ。
 心配いらない。これだけ強ければお釣りが来る。たとえ敵地のど真ん中で戦意喪失しても、リリスが死ぬなんてありえない。全ては双我やミーシャの杞憂に過ぎなかった。今わかった。皆殺しのリリスが、殺される側に回ることなんてありえない。これからも、たとえどんなに苦しもうと、リリスは勝ち続けるだろう。そういう星の巡り会わせになっている。それがわかった。それだけで、満足だ。
「なあ、リリ――」
 双我が声をかけようとした瞬間、リリスの殺気が電流を帯びた。
 視界は後方、双我の背後。剣を床から引き抜き放ち、慣性の手助けを受けて、力任せに振り抜く一刀、その剣軌から燐光が出現し収束し、まだバルキリアスの呪縛を帯びているにも関わらず――最高の一撃となって撃ち放たれた。空気を焼き裂く稲妻の果てに、電撃に齧られた肉の気配がした。人が死ぬ気配だ。追跡者が来ていたのか、と双我は今更ながらに背筋を凍らせ、背後を振り向く。
 転がっている死体は、まだ幼いモノだった。
 パジャマのような服を着ている。下は裸足。雷撃を正面から受けた胸元は焼き焦げて地獄の底へ通じていそうな真っ黒な穴が開いている。その穴と、顔面の穴という穴から白煙と異臭が溢れ出していた。子供――双我は思った。
 子供?
(子供って……)
 ミーシャの声が蘇った。
 わんわんと。
 わんわんと。
 割れ鐘のように。
(目標は黒魔導士の裏ギルドに人質にされた、魔法庁の高官の令息の救出。すでに誘拐されてから七時間が経過している。場所は太平洋上の敵戦艦内部……)
(魔法庁の高官の令息の救出……)
(令息の救出……)
 リリスが、ふらり、と双我の横を通り過ぎていた。ようやく、ようやっと、バルキリアスの呪縛が消失していることに、双我は気づいた。
「リリス……」
 リリスは、少年の死骸のそばに跪いた。
 サーベルが、玩具のように打ち捨てられて転がった。
 今まで剣を握っていた手で、少年の死体を抱きかかえた。
 だらり、と少年の手が落ちる。
 爪の先が血で汚れていた。
 きっと、
 きっと、とても勇敢な冒険をしてきたはずだった。
 双我は思う。あのリリスの、船のコンソールパネルをぶち抜いた一撃。あれで照明が落ちた。その時に、人質が監禁されていた部屋か何かの、ロックが外れたのではないか? もしくは、セキュリティ・エンブレムを展開されていたぐらいの船だ、電気系統の細かな部位を、自分流にバルキリアスが調整を施して制御していた可能性もある。バルキリアスが自らを圧殺する危険性を押してまで使ったあの黒魔法、あれは、船の制御系統なんて些事の片手間に撃てるような魔法か? 双我にはそうは思えない。どちらかだ。どちらかで、ロックが外れ、少年は脱出したのだ。扉か何かがなかなか開かなかったのか、それともどこかのダクトか何かをよじ登ったのか、いずれにせよ、どこかで爪が剥がれるような怪我をしてまで、ここへ逃げてきたのだ。
 生きるために。
 助かるために。
 家に帰る、ために。
 だが、もう少年は動かない。立ち上がることもない。喋ることもない。恨み言を放つことも、許しを呟くこともない。
 もう死んでいるから。
「ねえ」
 リリスが言った。双我は、自分に呼びかけてきているのかと思った。違った。
 リリスは、抱きかかえた少年の死骸を、ゆさゆさと、揺さぶっていた。
「ねえ」
 少年は動かない。その口蓋からドロリと真っ黒な血が流れ落ちた。やけに粘つく、感電死者特有の黒血。
 見慣れた死者の置き土産。
 助かっていたはずの、命だった。
「起きて」
 ゆさゆさ。
 ゆさゆさ。
「起きて」
 ゆさゆさ。
 ゆさゆさ。
 少年は動かない。
「どうして、起きて、くれないの……?」
 リリスの疑問に、誰も答えを返さない。
 返せない。
「どうして……?」
 リリスは虚ろな眼差しで、少年を揺さぶり続けた。
 ポタポタと、流れ落ちた涙が、汚れた少年の死骸に落ちた。
 連絡が途絶え、航路を彷徨わせ始めた戦艦の様子から内部で異変ありと見たルミルカが、追撃メンバーを投入してきたのは、それから四時間後。
 援軍が見たのは、いつまでも、いつまでも、少年を抱きかかえ続け、泣き喚きながら、それを離すことを断固として拒絶するリリスの醜態。それから、
 それを見ていることしか出来なかった、項垂れ、跪いたまま、何も言わない一人の白兵魔導師の姿。

 リリスは、今度こそ再起不能になった。
 言語、記憶、精神、感情。その全てを喪失し、車椅子に乗ったまま、俯き、項垂れ、何も言わなくなったリリスが、双我の見た最後の彼女の姿だ。それきり彼女は絶対安静、専属のセラピストの下で、余生を送ることになった。全て、ルミルカが手配した。
 それから双我は、リリスには一度も会っていない。
 それでも、生きていてくれれば。
 いつか、平穏な暮らしが、傷ついたあの心を癒してくれれば。
 そう思って、双我はこの三年間、闘い続けてきた。
 何度も。
 何度も。
 パートナーを変え、愛剣を折り、古傷ばかりを増やしながら。
 リリスの代わりに、自分が苦しめばいいと思った。
 終わらない『今日』を生き続ける羽目になったリリスが、いつか、
 いつか……
(そんな)
(そんなリリスを)
「よくも殺してくれやがったなァ……!!」
 双我は、うずくまった赤宮猛の首筋に剣先を突きつけた。
 場所は、深夜の展望台である。

 双我は、だらりと手に持った魔法剣を下げて、相手の様子を窺った。場所は深夜の展望台。円形のタワー最上階の天井はガラス張りのドームになっており、そこから満天の星々と誰かが使った魔法の残り香が見える。照明はすでに双我が破壊した後。だから室内の光源と言えば、お互いの眼光くらいしかない。
 赤宮は、双我に斬りつけられた腕を抱えて、喘息の発作を起こしたように激しく息を荒らげている。腕を滴った血が握った魔法剣の剣身をぬらぬらと赤く染めている。ブレードには亀裂が入り、白煙を噴いていた。
 それを、赤宮の『三つの』目が、潤みながら見下ろしていた。
 しゅう しゅう
 赤宮は、獲物を見つけた蛇のような呼気を繰り返す。
 それだけだ。何も言わない。ただ敵である双我を焼き殺せそうな視線で睨みつけている。
「…………」
 双我は剣を構え直した。
 もはや赤宮にしてやれることは、何もない。

 偽の手紙で赤宮を呼び出し、『追跡者』としての素性を明かした双我を、赤宮は笑った。それが五分前のこと。
 赤宮は言った。
「へえ、お前が猫? あの弱さで? ジン君に手も足も出なかったお前が猫か、なら俺は虎か狼か?」
「試してみようぜ、ゴチャゴチャ言わずに」
 双我は、桜井隼人を脅して借り倒してきた魔法剣を鞘から抜き放ち、星灯に剣身を晒した。
「だが、お前が全てを暴露して、俺に降伏するっていうなら許してやっても――」
 ハッ、と赤宮は軽蔑したように笑った。
「ぬかせよ、バーカ」
 ポケットに手を突っ込み、赤宮は何か小さなものを取り出す。
 それは、真っ赤なカプセル剤だった。
「お前に見せてやるよ」
 カプセルを口に含んで、奥歯で噛み砕き、
 赤宮の目が金色に輝いた。
「本物の黒魔法を」
 そう。
 赤宮は確かに、双我にそれを見せてくれた。止める間もなかった。おそらく詳細は聞かされていなかったのだろうし、自分で調査してみる気もなかったのだろう。もし、赤宮が自分で予め、そのカプセル剤の中身を、0.1mgでも取り出して魔法試験紙にでも浸せばすぐに分かったはずだ。
 それが最悪の劇薬だということに。
 よせ、という双我の声が虚しく響き渡り。
 赤宮の身体に異変が起こった。
「え?」
 まず肌の色が変わった。青白かった肌はドス黒く染まり、神経や血管と思しきものが銀色に輝き始め、蜘蛛の巣のように浮き上がった。赤宮の手から剣が滑り落ち、甲高い音が鳴り響く。膝をついて両手を見下ろす奴の顔は呆然としていた。自分の身体だ、危険な異常が起こったことは本能的に察したろう。「なぜ俺が?」と言いたげな表情だけを浮かべたまま、その背中がボコボコと蠢いた。内臓が肉体から産まれようと暴れているようだったが、痛みはないらしく、赤宮はのたうつ肉体を放置して、双我を見た。その目が言っていた。
(助けてくれ)
 それは無理なことだった。
 その目が三つになったからだ。双我は顔をしかめる。
 多眼。
 それは黒魔法に飲み込まれた者の刻印とも呼ばれる。魔法を制御しきれなくなった黒魔導士を、魔法そのものが支配した証。赤宮の第三の目は、奴の頬のあたりに現れた。それは宿主の視線を無視して、自分勝手なところにギョロギョロ動いた。そして腹を空かせた猟犬が兎を見つけた時のように、双我をぬらぬらした視線で捉えた。
「ああ。あああ。あああああああああ……」
 赤宮が両手を伸ばした。
「たすっ、たすけっ、たすっ」
「無理」
「あっ」
 斬撃。
 やったのは、赤宮。
 肘関節がへし折れる音がして、凄まじい角度から赤宮は床に落ちた剣の柄を握り込んだ。かと思うと次の瞬間、展望台そのものに激震が走った踏み込みで、双我との距離を一瞬で殺した。蛇の模造品のように柔軟になった右腕から振り抜かれた常識破りの一刀が双我の影を切り裂いた。
 すでに双我は、ハイ・ジャンプで逃げている。
 その顔は、不愉快そうに歪んでいた。
 追撃してきた赤宮の爆炎魔法を、繊細な跳躍でかわした。双我が割らないように気をつかった天井ガラスは赤宮の魔法で粉々に爆砕された。レギュレス関係者が展望台に駆けつけて来るまで180秒。それ以内に決着をつける。
 双我は剣を振り抜いた。
 微弱な電流、それが空中に機雷のように帯電し、突っ込んできた赤宮だったものが面白いように感電した。
「!」
 黒魔法薬を服用した直後で、赤宮の体内の神経経路はまだ揺らいでいる。常人用の感電魔法でも充分に麻痺の効果が得られた。
 死神よりも速く、双我は動いた。
 剣を動けなくなった赤宮の首筋に近づけ、
「よくもリリスを殺してくれやがったな……!!」
 容赦なく斬った。
 ぶしゅうっ
 勢いよく赤宮の頚動脈から鮮血が迸る。天井近くまで跳ね上がった血が、重力に引きずられて赤い雨と化した。双我はバックジャンプでそれをかわした。黒魔導士の血は穢れている。何か呪いに巻き込まれないとも限らない。
 首筋を切開された赤宮は、二重に捩れた左腕で傷口を押さえて、目を見開いていた。滑稽でさえある。思わぬところでメスを見つけた猿のように両目と口蓋を開けっぴろげにして、夜空を見上げながらドサッと倒れ込んだ。ぴゅぴゅっと血が決着の合図のように噴いた。
 そして赤宮は立ち上がった。
 何事もなかったかのように。
 双我の視線の先で、首の傷が見る見るまに塞がっていく。
 剣の柄が、冷や汗で濡れていくのが分かる。
「もう人間じゃねえな、赤宮」
 しゅう
 しゅう
 赤宮はこちらに近づいてくる。
「教えてやるよ。お前が口にしたものの正体を。たぶんお前は、魔力や肉体を強化してくれる、そんな薬だと言われてそれを渡されたんだろう。それの中身を知ってたら飲むわけねえからな。
 それな。
 飲めば確かにちょっと不死身に近くなるが、その代わりに全人格と全記憶を喪失する、失敗作の黒魔法なんだよ。
 大抵は、ドジを踏んで俺みたいな狩人に見つかった下っ端にあらかじめ、お守り代わりに持たせておくものなんだ。
 本当にやばくなったらこれを使え……ってな」
 双我は剣を構え直した。
「分かるか? もう分かんねぇか。お前は足切りされたんだよ。そうなっちまったらもう助からない。たとえ俺がいま、神様ぶった善意でも持ち出して、お前を制圧してどこかへ護送したとしても、お前はずっと檻の中だ。よくて実験動物ってところだな。
 聞こえるか?
 まだ意識が残ってるか?」
 赤宮は何も言わない。ただ血まみれの魔法剣をぶら下げて、ヨタヨタと敵へと近づいていく。頬にある目は鮮血の歓喜に濡れ、そして、
 元からある両眼は、わずかに涙で濡れているように見えた。
 双我はぎりっと奥歯を噛んだ。
「参ったな。これじゃリリスのことも聞けねーな。ま、黒魔法研究にゃ猫の肉体が必要になることが多いから、そんな薬を持ってるってことは、やっぱ死んでんだろーな。
 嫌な気分だよ。
 スゲェ嫌な気分がする。昔馴染みの仲間がお前みたいな馬鹿どもに殺されたことも、そして、
 お前みたいな馬鹿が、どこかの誰かに騙されて破滅したこともな」
 すれ違いざまに、双我は三撃した。
 背後で、赤宮がくずれ落ちる気配。アキレス腱を切ってやったが、すぐに立ち上がったらしい。
 首の裏に奴の呼吸が当たっている。
 さらに振り向く。
 七撃。
 両手両足、それから首まで切断してやった。首は三撃も打ち込まねば落とせなかった。ドサリ、と床にバラバラになった赤宮たちが転がる。
 そして双我は、血管がひとりでに動くのを初めて見た。
 しゅるしゅると体内繊維が絡みつき合い、復元していくのを、双我は虚ろな目で眺めていた。
「本当に死なねぇんだな」
 笑えてきた。
「プライド傷つくぜ。これでも『皆殺し』のパートナーだったんだけどな。まァいい。安心しろ。
 殺してやるよ。キチンとな」
 ゴロリ、と転がった赤宮の生首が、悲しげに双我を見上げている。
 その視線に、双我はうなずいてやった。
「やり方は残ってる」
 言って、結合しようともがいている赤宮のボディの上に拳をかざした。
 そのまま、
 ぶちっ
 握り締めた。爪が掌に食い込み、鮮血が流れ出した。それがポタ、ポタ、と赤宮の肉片に滴る。

 きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ………………

 展望台下にいるであろう、レギュレスの警備隊は度肝を抜かれたことだろう。
 死刑囚の断末魔でさえここまで恐ろしい声はそうそう出まい。
(精製されていない猫の血は、お前ら鼠には決して馴染まない……)
 双我の血を受けた赤宮のボディが、硫酸を浴びせられたように煙を上げて融解し始めた。逃げ惑う肉片たちに双我は的確に自分の血を浴びせていった。バーナーで焼かれたように肉片が焦げて溶けてなくなっていく。
 最後に残った、赤宮の『第三の眼』を、双我は靴の底で踏み潰した。
 ぱちゅりっ
 それで終わりだった。
「…………」
 双我は勝った。
 もう展望台には、ほかに誰もいない。
 ただ、嫌な気分だけが残っていた。
「……! ……っ!」
(来たか)
 警備隊が扉の外に集結している気配がする。人数を集めて、この展望台の出入り口を固めて、間も無く突入するつもりだろう。双我は剣身を払って穢れた血を落とした。
 相手をする義理はない。
 展望台の扉が開き、警備隊全員が突入するのと、双我が剣身を床に突き立てて爆炎魔法をブッ放したのがほぼ同時。
 爆炎と砂塵にまぎれて、双我は再び逃げ果せた。

「お兄様」
「…………」
「お兄様?」

 神沼塵は全てを与えられて産まれてきた。
 家柄、容姿、頭脳、体格、剣技、魔法。どれを取っても塵に勝てる者など、そうはいないだろう。せいぜい足りないのは経験ぐらいだが、それももはや不要、父親の跡目さえ継げば、白兵戦闘などは手持ちの駒がやる。塵はせいぜい、自分を守るくらいでいい。戦争で死ぬのは現場の人間だけで充分だ。死ぬのは王の職務ではない。
 塵は、全てを持っている。
 優秀な血統の予備、妹の水葉も、塵ほどではないにせよ優秀だ。神沼の血は今後もこの魔法都市国家の隅々まで、その勢力を伸ばし広げ続けるだろう。
 それなのに。
 塵は満たされない。
 眠っても眠っても、爽やかな朝を迎えられない。
 まだ足りない。
 まだ力が。
 もっとパワーが、要る。
 なぜならこの世界には、塵の思い通りにならないモノがいる。王よ神よと尊ばれてきた自分が、恣意に出来ないモノたちがいる。
 猫。
 先天性の天才魔導師衆。一騎当千、その言葉に偽りはなく、彼ら一人を飼うためなら、一般の魔導師など脇に捨て置く。それが当然、自然な帰結。そして、それが通ってしまう。なぜならば、彼らは本物だから。
 塵はよく子供の頃、乳母に、「僕はいつか猫よりも凄い魔導師になる」と言ってみせていた。そのたびに、乳母は、それまで塵を「坊ちゃんほどの天才は、私、この目で見たことがありません」と言って誉めそやしていた女は、決まって顔を逸らした。曖昧な笑みと共に。
「坊ちゃま、それは、ええ、そうなると、ようございます」
 それは塵の望んでいた答え方ではなかった。子供騙しのおべんちゃらになど用はなく、塵はそういって塵に嘘をついた乳母を片っ端から解雇した。路頭に迷わせ、まだその実態も分からぬうちから彼女たちを娼館へとぶち込むよう手配した。塵は嘘を望んでいなかった。本当に、心の底から、自分を賞賛し、信じ抜き、神と崇める。そういう手駒以外は欲しくなかった。
 猫?
 塵は猫を見たことがなかった。貴族の男は、普通は自分の息子を猫の前になど出さない。どんな場面、どんな式典でもだ。猛獣の前に赤子を差し出す馬鹿がどこにいる? 猫になど、弱みを見せたら、それまで――奴らは嬉々として、いつでも殺せる、という余裕と嗜虐の笑みを浮かべる。
 それが塵には気に喰わなかった。
 出会えば勝つ。そう信じた。十歳の頃、貴族同士の少年剣闘会で優勝した。十三歳の頃、魔法大学主催の魔法理論コンテストで客員教授をごぼう抜きにして最優秀理論提唱者に選ばれた。塵は誰もが羨むトロフィーを箒で枯葉を集めるようにかき集めた。そのどれもが、塵を正しいと賞賛していた。殺せないわけがない。勝てないわけがない。
 俺は強い。
 俺は正しい。
 誰にも負けるわけがない――
 だから、それをより強く証明するために、塵は己の手を差し出したのだ。
 黒魔法の誘う手に。

「……水葉」
 塵は我に返った。あまりにも、朝の食堂に似つかわしくない光景を見たせいで、意識が少し逃避していた。
 燦々と降り注ぐ陽光を浴びながら、水葉が双我にヘッドロックをかましていた。
「…………」
「…………」
「……何をしている?」
「助けてくれおにーたま」
 双我が息も絶え絶えに助けを求めてくる。
「この妹はちょっとおかしい」
「なっ、何を馬鹿なことっ!」
 べきぃっ
「ああああああああ」
「違うんです、お兄様! これは、この不届き者が、私のコーヒーを勝手に飲んでっ、それでっ、こ、こともあろうに、か、か、『間接キスだね』などと! だからっ!」
「わるがっだ、でっがいずるがら、かんせつぎめるのやめで」
「お黙りなさい!」
 ぐしゃあっ
「ああああああああああああ」
「お兄様! 信じてくださいっ、わ、私はこのようなものと間接キスなどしたくてしたわけでは……」
「水葉」
 塵はゆっくりと、優雅な足取りで、テーブルの橋のそばを渡り切り、妹へと近寄った。その肩に手を乗せた。水葉の頬がぽっと赤く染まり、
「お、お兄様?」
「大丈夫か?」
「い、いえ、べつにそんな、大丈夫ですけれど……こんな、間接キスぐらい……」
「違う」
 塵は静かに言った。
「お前の頭が大丈夫か、と聞いている」
 水葉は、双我へのヘッドロックを解いた。どさり、と双我が倒れ込む。
「……お兄様、あの」
「下賎な者と長くいすぎたな、水葉。毒されている。お前は淑女だ。たとえ家族の前であろうと、自分の城の中にいようと、保つべき態度、維持すべき秩序がある。……わかっているな? 前にも言ったな?」
「……はい、申し訳ありませんでした」
「……お、俺に、謝ってくんない、かなっ、ゲホ」
 水葉は「キッ!」と双我を一瞬見たが、また兄の視線が鋭く冷たくなっていることに気づいて、子供のように萎縮してしまった。
「少し、悪ふざけが過ぎたようです。双我さんの方にも、私から言っておきます……」
「その必要はない」
 言って、塵は倒れ込んでいる双我の脇腹を思い切り蹴り上げた。
「がっ……!!」
「次に妹に触れてみろ。今度こそ去勢してやるぞ、弱者」
「お、お兄様!!」
「……なんだ? 水葉。何か俺に文句があるのか」
「……、いえ……ありま、せん。お兄様は、正しいですから……」
「いつもか?」
「いつも、です」
「なら、お前はよく分かっている。賢い子だ」
 水葉の、吸い込まれるように艶やかに輝く黒髪を軽く指で触れてやってから、塵は食堂を出た。食事をする気分ではなかったし、後片付けは、使用人が全てやってくれるだろう。

 赤宮猛が死んだ。
 そのことについて、塵は何も思わない。専属のドライバーにリムジンを運転させ、その車中で、塵は通り過ぎていく街の光景――人っ子一人いない――を横目に、昨夜の『騒動』の資料に目を通していた。運転手に指先だけで指示を出し、室内温度を下げさせる。
 赤宮の死体は、展望台で発見された。なぜそこにいたのかは不明。最後に赤宮と会ったのは、塵本人。特に変わった様子はなく、いつも通りに別れ、そして赤宮は展望台で死んだ。血液以外の遺体は、小さな肉片しか残っていなかった。室内は、最後に殺戮者が床を爆砕したために荒れていたが、それ以外にも壁やドームガラスに欠損などがあり、赤宮と殺戮者の間で戦闘行為があったのは探偵いらずで明らかだ。
 レギュレスの都は、当然といえば当然だが、生徒の怪死によって、学校封鎖を行った。授業は全て休講。学院への一般生徒の立入は禁止。しかし、これには反論も父兄から出たようで、『誰が死のうと授業だけは受けさせろ』という意見も多々あった。が、殺戮者の行方が知れずに危険であること、死亡したのが帯剣していた高潔種の赤宮家嫡男であることなどから、やはり授業実施は不可能と判断された。実は、塵が父親を通して、学院側にその方針を通した。
 殺戮者に関して、個人的に調べる時間と猶予が欲しかったからだ。まァ、神沼家の嫡男ともなれば、授業など全て出なくてもテストで満点は取れるし、仮にしくじっても、卒業などは容易くさせてくれるのだが。
 学院に着いた。
 燃え尽きた火山のように、静かだ。塵は手を振ってリムジンを帰し、帯剣している魔法剣の柄を握り直しながら、展望台へ向かった。そこではまだ、煙の名残がたなびいていた。
「おい」
 塵は、そばにいた教員に声をかけた。教員は吸っていた煙草を慌てて靴裏でもみ消して、「これはこれは、神沼のお坊ちゃん」と恭しく、そして卑しい笑いを浮かべた。その胸元で、スーツの上に羽織ったローブを留める箒のブローチが、昆虫の背中のように輝いている。
「どうされました。危険ですよ、まだここは」
「殺戮者がまだこんなところに残っているものか」
「ですが、犯人は現場に戻ってくる、といいますし」
「それはない。展望台に、殺戮者を特定できるようなモノはなかったんだろう?」
「ええ。ついでに、赤宮くんの魔法剣も、無くなっていました。もっともこれは、瓦礫の下にまだ埋もれているのかもしれませんが」
「どうだかな……」
 塵はしばらく、教員から根掘り葉掘りと昨夜の状況を聞きだしてから、崩れた展望台ギリギリまで近寄った。
 瓦礫の撤去作業は、現在、休憩中らしい。誰もいない。
「…………」
 おそらく、というか確実に、赤宮は『追跡者』に殺されたのだ。どうやって赤宮を深夜の展望台に呼び出したのかは知らないが、どうせくだらん手を打ったのだろう、と塵は推測している。赤宮は小心者のくせに考えなしで行動するところが多かった。血筋が透き通っていなければ、とても塵のそばには置いてはおけないような悪臭漂う精神だった。つまり雑魚だ。
 赤宮は、塵が渡した『薬』を飲んだのだろう。
 渡しておいてよかった。赤宮が捕まり、尋問でもされようものなら、塵は終わりだ。赤宮は死んだが、ちゃんと正しく死んでくれた。それだけでも認めてやろうと塵は思う。
 外殻だけをわずかに残した、展望台を見上げる。
 展望台には『戦闘の痕跡』があったという。追跡者は猫のはずだ。
 暴走した赤宮の戦闘力がどれほどのモノか、薬を渡した塵は把握している。戦闘の痕跡が残るほどの時間をかけて、『アレ』を殺して逃げ果せたのだとしたら――大したことはない。
 塵なら殺せるレベルの戦士。
 じわり、とその顔に笑みが広がる。
 いよいよ殺す時が来たのだ。
 忌まわしき、猫を――堂々と真正面から。
「……か、神沼、せんぱい?」
 塵はゆっくりと、声がしたほうに顔を向けた。そこには私服姿の女子生徒が立っていた。亜麻色の髪、くりくりとした幼い目つき、高校一年生にしては豊かな胸――確か、水葉が屋敷に何度か呼んでいたな、と塵は思った。そう、確か名前は、
「……新田蜜柑?」
「あ、はい。そうです……あの、ここで何をしているんですか?」
「それは俺のセリフだ。お前こそ何をしている? ここは立入禁止のはずだ」
 蜜柑は怯えている。
「え、それは、あの……でも、神沼先輩だって」
「俺は高潔種だ」
「あ、……そうです、よね。すみません」
「質問に答えろ。白痴か、貴様?」
「えと、あの、その」
 へどもどして、ハッキリしない蜜柑に、塵はじんわりと滲むような殺意を覚えた。そして考える。
 追跡者は新入生のはずだ。
 この一連の騒動は、入学式を境に始まっている。
 塵は、じっ……と蜜柑を冷たく見る。
(殺しておくか)
(手を出してみれば、案外あっさり、化け猫が尻尾を出すかもしれない)
(猫だろうとなんだろうと、俺の魔法で……)
 腰に帯びた魔法剣の柄に、手を伸ばし――
「何やってんの?」
 森間の暗がりから、双我臨路が現れた。
 訝しそうにしている。
「こりゃまた妙な組み合わせだな。蜜柑に、おにーたまか」
「双我……」塵は音もなく柄から手を離した。
「お前、よく動けるな。きついのをお見舞いしてやったはずなんだが」
「ふん、男の子をなめるんじゃないよ」
「そ、双我くん!?」蜜柑はワタワタしている。
「な、なんでここに!?」
「なんでって……気になるだろ? 昨夜、ここで赤宮先輩が殺されたんだぜ。それも断片程度しか死体が残らなかったって言うじゃねーか。『殺戮者』は猫かもしれないって噂もあるし……娯楽の少ない学徒人生、蜜柑だって何があったのか気になって仕方ないから来たんだろ? 俺ら以外にも、そのへんに結構いるぜ」
 双我は腕を振って、木陰や建物の裏などを示した。コソコソと何かが動く気配がする。
 双我はケラケラ笑った。
「みんな、ちょっと怒られるぐらいじゃ言うこと聞かねーんだな」
「お前らは、ちょっと怒られる程度じゃ済まないがな」
 塵は言った。
「この件は、レギュレスの運営委員会に報告させてもらう。お前たち二人はよくて停学、悪くて退学、さらに悪くて……」
「ちょっと待てよ」双我がパーを突き出した。
「そういうアンタだって規則違反だろ?」
「俺は高潔種だ」
「……ソーデスカ。何かっていうとすぐそれだもんな。やんなっちゃう」
 やれやれ、と首を振る双我。
 その姿は、とても塵に二度も打ちのめされた男には見えない。
 というより、むしろ……
「……お前か?」
 双我はキョトンとしている。
「え? 何が?」
「お前が『殺戮者』か?」
 双我は何も言わない。
 ただ、笑っている。
 塵は、首を振った。
「……お前のわけがないな。手合わせした時にハッキリ分かっている。お前は猫じゃない」
「――いや、俺だよ」
 展望台の跡地に、静かな風が吹いた。
 蜜柑が、息を呑む気配がして。
 塵は言った。
「……なんだと?」
 双我はニヤニヤ笑っている。
「赤宮を殺したのは俺だ。俺が殺戮者、狩人の猫だよ」
 流石の塵も思考が停止した。
(双我が、猫……?)
(それなら、なんでそれを打ち明ける?)
(何か考えがあるのか? それとも……)
 塵が口を開き、何でもいいから言おうとした瞬間、蜜柑が双我にいきなり、
「どりゃあああああああああああ!!!!」
 腰の入った素晴らしいタックルをぶちかました。
「あう!」
 倒れ込む双我。そんな双我に馬乗りになって、蜜柑は胸倉を掴み、双我に叫んだ。
「双我くん!! 何言ってんの!?」
「いたいんですけど」
「自分が猫だなんて……そんな冗談、不謹慎だよ!! 神沼先輩は、友達を亡くしてるんだよ!?」
 友達、と聞いて、むしろ塵の方がすぐに理解できなかった。
(ああ、赤宮のことか)
 どうやら蜜柑は、双我の発言を冗談と受け取り(彼女の立場からしたら、それ以外にないとは思うが)、双我を張り倒しているところらしい。
「双我くん、見損なったよ!! 神沼先輩、怖いところもあるけど、きっと、赤宮先輩の死を悼んで、ここに来たんだよ!! そうですよね、先輩!?」
「え? ああ、そうだ」
「ほら!! 双我くん謝って!! 謝ってぇーっ!!」
 がっくんがっくん双我の首を揺さぶりまくる蜜柑。もう双我は半分以上酔っているらしく顔面蒼白になって「たすけてください」と許しを乞うている。ふむ、と塵は思う。
 何か妙だ。
(……新田は、話題を逸らそうとしているのか?)
(この二人は、グルなのか?)
(いや、まさか)
(猫がチームを組むなんて、とても稀だと聞く……追跡者は、単騎のはずだ)
(俺の考えすぎか……)
 双我を揺さぶり過ぎて、逆にバレ、ぜいぜい息を切らしながら蜜柑が芝生にドサリと座り込んだ。
「双我くん……神沼先輩……に……」
 そのまま、くたっ、と倒れこみ、動かなくなる蜜柑。双我は口元のヨダレを拭いながら、そんな蜜柑を驚愕の真実を見るような目で見た。
「こ、この状況で寝やがった……ナニモノなんだ、この女は……」
「同感だな」塵は頷いた。
「まったく、くだらん。お前らの品位を俺は疑う」
 双我はぺっと唾を吐いて、立ち上がった。まだ足にちょっとキている。
「ふっふっふ。ま、許してくれよ、おにーたま。俺ァ冗談を言ってねえと死ぬんだ」
「下等な生き物だな」
「かもな」
 二人の間に、冷たい電気が流れた。
「双我」
「なんだ」
「俺は、お前を躾けることにした」
「……ナンデスッテ?」
「躾けだ。お前の俺への不敬は極めて甚だしい。あれだけ痛めつけてやって、まだ懲りないとは、お前も正真正銘の馬鹿だな」
「よく言われる」
「結構、それでなお、反省の色がないということは、粛清決定だ。今夜十二時、『封鎖書庫』にて待つ」
 封鎖書庫。そこには、レギュレス創成期に初代学院長が教師として集結させた魔導師たちの研究成果が、保存されているという。禁書区画とは違って閲覧絶対不可能の聖域だった。
「俺のパスじゃ開かねーよ、そんなとこ」
「開けておく、俺は高潔種だ。それぐらい悟れ」
「いちいち言い方ムカツクな……で、何するわけ?」
「躾けだ」
「それじゃわかんねーよ」
「怖いのか?」
 ぐっ、と双我が言葉に詰まった。
「……怖い? 俺が? ま、まさか」
「安心していいぞ。仲間を集めてお前を袋叩きになどしない」
「べっ、べつに俺はそーしてもらってもいいけど?」
 腕を組み顎を突き出す双我。その足がわずかに震えているのは、まだ蜜柑からダメージが残っているのか、それとも……。
「お前ごときに応援を呼ぶ俺だと思うか? 心配するな、モノは試しと思ってくればいい。ただの稽古だよ」
「……本当か?」
「ああ、本当さ。……じゃあな。ここにはもう、用は無くなった」
 塵は背中を見せて、双我からの射抜くような視線を後にしながら、展望台跡地を後にした。坂をゆっくりと歩いて降りながら、考える。
 どっちでもいい、と。
 仮に、双我の猫カミングアウトが真実であろうとなかろうと、関係ない。偽なら偽、くだらぬ冗談ならそれでいい。問題は真実だった場合。双我はどこかの猫ギルドから送られてきた刺客ということになる。赤宮を殺した以上、『追跡者』は次に神沼塵を『本命』として殺そうとするだろう。つまり、今夜の『密会』は、双我が追跡者ならば、塵を殺す絶好の機会。
 同時に、それは塵が追跡者を排除できるチャンスでもある。
 赤宮殺しの手際の悪さ、そして先の『決闘』で見た双我の戦闘力、その二つを組み合わせた結果、塵は、双我が本物の猫だった場合、今夜なにが起こるか予測した。
 塵の勝利で終わるだろう。
 こちらには、黒魔法がある。対する双我は、手ぶら。おそらく赤宮の魔法剣はどこかに隠し持っているのだろうが、カートリッジの補充など出来るはずもないし、それに本当に赤宮とやったなら心身ともにダメージが蓄積しているはず。仮にあの決闘で見せたレベルの低さが騙りだったとしても、充分に、塵に勝算はある。いや、充分すぎるくらいだ。
 塵は双我を罠にかけたのだ。
(白でも黒でも、どっちにしろ殺してやる)
(俺に刃向かった朝霧のように、そして、あの雌猫のように……)
 権力者の家系に生まれて、一番よかったと思うこと。
 それは、殺しをやっても、死体の始末に困らないことだ。

 神沼水葉にとって、兄、という存在は特別だった。子供の頃、水葉は塵の背中にくっついたきりで、なかなか離れようとしなかった。母はいなかったし、父は多忙だった。屋敷で暮らすメイドたちは家族のようで家族ではなかったし、引っ込み思案の水葉には、兄しか頼れるものがなかった。
 兄はいつも、輝いているように見えた。人形のように整った顔で、宝石のような目を細めて、いつも遠くを眺めていた。水葉は、そんな兄の横顔を見るのが好きだった。
 月日は経って……
 兄は強くなった。体つきも大人になって、声も変わって、今では立派な魔法戦士の卵だ。兄を否定できる人間はどこにもいない。だって兄はいつも正しく、颯爽としていて、人が羨むような結果をいくつも挙げてきたのだから。憧れこそされ、哀れまれることなどあるわけがない。
 そう思っていた。
 双我臨路が、この屋敷に来るまでは。
 最初に双我と会った時、水葉は彼に嫌悪感を抱いたことを認めないわけにはいかない。パッと見た時、入学初日にも関わらず赤と黒の制服は着崩れていたし、髪はボサボサ、顔は筋弛緩剤でも打ったのかと思うほどいつもヘラヘラしていて、口を開けば軽口ばかり。突き飛ばしてやろうかと思ったことなど、この二ヶ月で数え切れないくらいあった。こともあろうに、双我はそんな態度を水葉だけにではなく、塵にまで取った。決闘まがいのことまでし始めた。
 今までも、塵に刃向かった人間は、いなかったわけではない。それでも最後には、誰もが兄に屈服し、その強さ、その偉大さを認めないわけにはいかなかった。
 双我だけが、違った。
 塵に負け、打ちひしがれ、周囲からは冷笑と罵倒を浴びせかけられ、水葉だったら泣いてしまいそうな立場に落ちても、双我は変わらなかった。制服を着崩し、髪に櫛は入れず、ヘラヘラしてニヤニヤして、そして憎まれ口を叩くのをやめない。
 あんなに酷い負け方をしても、双我は変わらなかった。
 誰になんと言われようとも、双我は変わらなかった。
 どんなに悲しい言葉をぶつけられても、双我は黙って頷いて、にわか雨にでも打たれた程度の、少しだけ寂しそうな顔をする。
 それだけ。
 ――こんな男の人がいるなんて。
 水葉はいつも、双我を奇妙な人だと思う。
 双我を見ていると、今まで自分が無条件に信じてきたものが、足元から崩れていくような気がする。それは、不快で、不安で、それでいてどこかワクワクする――変な気持ちだ。
 だから、もし、何か頼みごとでも彼にされたら、水葉はきっと、断れないだろう。
「…………」
 いま。
 双我は、自分の部屋の窓際で、テーブルに座った水葉などいないかのように、ぼうっと外を頬杖を突いて眺めている。とてもわずか五分前に、信じられないような『お願い』を相手にした男には見えない。もしかすると、男という生き物は、みんなこういうモノなのかもしれない、などと水葉はちょっと知りもしないことに思いを馳せてみる。紅茶を一飲み。
「先ほどの件ですが……双我さん、やはり、それは、私にはお受けできません」
 双我はこっちも見ずに、そうか、と言ったきりだった。『レギュレス』の展望台跡地を見に行くといって、出かけて戻ってきてから、双我の様子はどうもおかしい。どんな時も、たとえ塵に足蹴にされても揺るがなかったお調子者の態度が、姿を潜めていて、窓から吹き込む緩い風を頬に受けるその姿は、別人のようにも見えた。
 何かあったのだろうか。
 嫌な気分にでもなっているのだろうか。
 もし、双我が『嫌だ』と思うことがあるとすれば、それはどんなことなのだろう。
 水葉はそれが、とても気になった。
「あの、双我さん。いったいなぜ……?」
「ん、いやべつに、気にしなくていい。もしオーケーなら、と思って頼んだだけだ。無理なら無理で、それでいい」
「そう、ですか」
 口調は柔らかいのに、どこか、とりつくシマがない。なんとなく拒絶されている気分を覚える。
「理由を言ったら、考える、と私が言ったらどうです?」
「理由を言わない。そこまでじゃない」
「……私にも言えない、事情がある、と?」
「男ってのはそういうもんだ。淑女なら覚悟しとけ。世の中に、なんでも思い通りにしてくれる王子様なんていやしねぇ。みんな狼少年だ」
「そんなこと……塵お兄様のような殿方だって、きっと世界にはいるはずです」
「ああ、一杯いるだろうな」
 双我は矛盾している。水葉は馬鹿ではない。そのあっさりとした同意の裏にある皮肉に、言い返そうとして、双我がそれを遮った。
「なあ、お嬢」
「なんです?」
「お前、兄貴のこと好きか?」
 言葉に詰まった。
「……いきなり何を言うんですか? 今日のあなたは、いえ、いつもですが、メチャクチャです。私をからかってるんですか?」
「そんなことない。……兄貴のこと、好きか」
 水葉は、おそるおそる、ゆっくりとそれを言葉にした。
「……好きです、もちろん。当然でしょう。私は妹なのですから」
「妹だからって、兄貴が好きとは限らない。……俺にも妹がいてな」
 それを聞いて、なぜか水葉は、胸が締め付けられるような気がした。
 双我が、自分の身の上話をするなんて、初めてだった。
「……妹さんが? 家族がいらっしゃっるんですか?」
「もう死んだ」
 窓枠の木目の上を、小さな羽虫がうろつき回っていた。その無心の軌道を気の抜けた視線で追いかけながら、双我は続ける。
「子供の頃だったから、ほとんど覚えてない。正直言ってな、ビックリするだろ、名前も覚えてねえんだ。実の妹なのにな」
「……すみません、辛いことを、思い出させて」
「謝るなよ。俺が勝手に喋ってるんだ。なあ、聞いておいてもらってこう言っちゃなんだが、ただ謝ってこの話を誤魔化そうって方が、俺に失礼だし、不愉快だ」
 水葉は何も言えなくなった。
 頬を打たれたような気持ちがした。
 身体がぎゅっと引き締まり、目に涙が浮かぶ。
 兄に注意はされたことは、数え切れないほどあるけれど、
 誰かに怒られたことは、水葉には今まで一度も無かった。
「ごめん、なさい……」
「いや、いいんだ。……キツく当たってゴメンな。俺はただ、お前は、俺の話を聞いてくれるだけでいいって言いたかったんだ。そういう時が、俺にはあるんだ」
 双我は、コツコツと窓枠を指で叩いた。
「……俺は孤児でね。つっても、兄妹揃っての孤児ってのは珍しいのか、それとも本来の意味に反するのかな。とにかく、兄妹二人で、スラム街みたいなとこに住んでてね。五歳ぐらいの頃にはもう刃物を懐に隠し持ってたな。デカすぎてさ、誰が使い込んだんだか知らねぇがグリップは油まみれで滑って使いにくいし、俺向きのナイフはないもんかとよくゴミ箱を妹と漁ってた。五歳向きのナイフなんてどこにも無いってデカくなってから気づいたよ」
「…………」
「俺は人間として間違ってるのかもしれねぇが、それでも妹を守ろうっていう気持ちはクズなりにあったんだろうな。弱そうな奴を見かけたらナイフ持って突っ込んでって、有り金と食い物と着る物を奪って妹に分けた。ガキでもガキなりにやり方はあってね。大人が入り込めないような路地に潜んで襲ったり、怪我人ぶって油断を誘ったり、贋金の詰まったバッグのファスナーをほんのちょっとだけ開けて道端に置いて罠を仕掛けたり。色々やったよ」
「…………それは、苛烈、ですね」
「苛烈だな。でも、当然って気もするな。生きていくってのは、本来、これくらい苛烈なことなんだよ。できねぇ奴は死んでった。俺の昔の仲間で、生きてる奴はほとんどいねぇな。妹も含めて……」
 双我の爪が、かり、と窓枠をかく。
「俺は妹をあの地獄から守り切れなかった。俺は、兄貴として不具だった。戦士としてどうだったかは知らない。それでも俺は妹を死なせ、自分だけ生き延びた。最低の兄貴だ。だから、きっと妹はあの世で俺を恨んでいると思う。それでいいとも思う。もう昔の話だけど……とにかく、俺が言いたいのは、兄貴の方からしたら、本当にそうしたいなら恨んでくれてもいいってことだ。少なくとも、俺はそう思って、これまで生きてきた。これからも、それを動かすことはない」
 双我は、ふう、と息をついた。自分の心の底にあることを誰かに打ち明けるというのは、凄く疲れることなのだ。
「お嬢、もう一度だけ聞く。兄貴のこと、好きか」
 水葉は、答えられなかった。
 それからしばらくして、双我は出て行った。
 そしてもう二度と、水葉の元へ帰ってくることは、無かった。

『レギュレスの都』の創始者は、非常に人望のある魔導師だったと言う。彼は後の未来のために、魔法学校を設立することにした。200年ほど前まで魔法学校というものは、あってもギルドの変種であったり、ただの秘密結社の隠れ蓑だったり、真にお互いを切磋琢磨し学究の徒たらんとする者たちの理想郷ではありえなかった。
 レギュレスの都の創始者は、『本物』が欲しかった。
 そこで彼は友人である猫と共に、魔導の最奥を目指す若者たちに声をかけ、次第に人数が集まっていった。レギュレスというのは、創始者を援助した猫の名だという。詳細は不明で、本当に存在したかも眉唾な話ではあったが、なんとなく語り草になっている。
 いずれにせよ、その設立には多大な努力と膨大な説得が必要だっただろう。なにせ魔走回路がカートリッジに組み込まれるまで、魔導師たちの研究成果は全て手書きの書物で残されていた。活版印刷のプリントアウトでは展開する魔法の精度が著しく低下してしまったからだ。だから魔導師たちは、腕の骨が削れて無くなるまで、白い紙に己の人生と奇跡を刻み込んだ。
 学校には教科書が必要だ。彼はそれを集めた。
 預けられた魔導書を保管してあるのが、レギュレスの都の図書館最下層、禁書区画のさらに地下にある『封鎖書庫』だ。そこには今でも、いにしえの魔導師たちが書き残した魔導書がズラリと並んでいる。入室許可は高潔種(グリーン・ブラッド)の中でも、名家中の名家に限られている。
 そこにある魔導書には、危険な物が多く、黒魔法に関する書物もあるという。が、魔導書はほとんどが古代文字や創作文字によって記されていて、いくら高潔種とはいっても、ただの学生に読めるようなものではない。神沼塵でも、古代文字で記されているものならともかく、子を残さなかった魔導師が一代限りで残した創作文字などはお手上げだ。
 塵は、その封鎖書庫にいた。
 決して本を傷めない特殊な魔法をかけられた松明が、壁にかかり、仄かな灯りになっている。古い時間の匂いがする。塵は、一脚だけポツンと置いてある読書用の椅子に腰かけて、足を組み、魔法剣を膝に置いて瞑目していた。
 敵が来た。
 空耳かと思うほど小さな足音が、大きくなり、やがて螺旋階段へと続く石造の通路から、赤と黒を基調にした制服をだらしなく着込んだ、双我が現れた。あくびしている。
 塵はそれを見るだけで不愉快だった。
(……なんなんだ、この男は?)
(俺の前に立っているということを、分かっているのか?)
 塵は純粋な忠告心から、どうせ殺す相手の態度を改めさせようと口を開きかけたが、やめた。
 双我が、魔法剣を携えていることに気づいたからだ。
 赤宮の魔法剣だった。
「……そうか。やはり、お前が猫か」
 双我は剣の柄をトントンと指で叩いてみせた。微笑んでいる。
「正解。お前んとこの親父は、自ら進んで自分の子を殺す虎を呼び込んじまったわけだ。お人好しにも程があるな」
「同感だ。父は愚物だ。お前のようなものを、体裁だけで家へ招いた。そのせいで、俺が後始末をする羽目になった」
「遅かれ早かれ、誰かがお前の元へは来たさ。わかってんだろ。なあ、どんな気持ちだ?」
 双我は手持ちの魔法剣の柄を振ってガシャガシャと鳴らした。
「友達を死なせた気分は」
 塵は双我が何を言っているのか、分からなかった。
「お前が殺したんだ。俺じゃない」
「黒魔法薬をただの強化剤と偽って渡してか?」
「……赤宮がそう言ったのか?」
「お前がそうでも言わなきゃ誰があんなものを飲んだりするんだ。俺はトドメを刺したが、殺ったのはお前だ。責任逃れはやめろというなら、共犯ってことにしとこうぜ」
「共犯か」塵は少し愉快になった。
「面白いことを言う男だ。俺とお前が共犯か」
「ああ、似たようなもんだな。そして、同盟関係はいつも仲違いで終わるんだ」
 双我は一歩、踏み出した。
「来いよ、人非人(グリーン・ブラッド)。根性見せろ」

 愚かな男だ、と塵は双我を見て思う。まだ『勝負』なんてことがこれから起こると思っている。そんなことはありえない。なぜなら塵は黒魔導士であり、もはや『最強の存在』へとシフトした。たかが魔法剣を振り回す猫ごときと、勝負など、片腹が痛くなる。
 塵は立ち上がった。魔法剣を、鞘から引き抜き、灯火にかざす。
 その剣には、刀身が無かった。
 双我が疑問を顔に浮かべているのが見える。もう遅い。塵は魔法を使った。
「来い、そして従え、無心のままに、骸のように」
 塵の詠唱、素直な心に従って、従者が動いた。
 それは本だった。
 壁際に遥か高い天井まで積み重ねられた本棚に詰まった蔵書が、水が零れるようにバサバサと落下し始めた。死体の山のように本が積み重なる。そして、その下から、何か重油のように黒く重く粘ついた何かが染み出していた。飛び降り自殺者の身体から溢れる血液のように、それはゆっくりと広がっていった。双我の目がその一部に目を留める。
 それは文字の欠片に見えた。どろどろに溶けては、いたが。
「偉大なる老賢者たちの遺産だよ」と塵が言った。
「判読困難な魔法文字で書かれた魔導書など、記念品以上の価値は無いと思っていたが……やり方はいくらでもあるものだな。黒魔法を使ってその『内容』だけを引きずり出した」
 白紙になった本がガラガラと崩れ落ちていく中、そこから溢れ出した文字だったもの、汚泥のような重油にしか見えないそれが、波濤のように激烈な勢いで塵の魔法剣の柄に流れ込んだ。塵はぞくぞくするような気分でそれを見ていた。やがて、柄は埋まり、鞭のような柔軟性を帯びた重油が、だらりとやる気を無くした蛇のように首を垂れた。
「お待たせしてしまったかな? 紹介しよう、これが我が愛剣、黒魔法の叡智によって建造された『簒奪剣リレイシス』。この剣は、吸収した魔導書に秘められた魔力と魔法の二つを我が物と……」
「よせ」
 双我は、塵を遮り、その場にしゃがみ込んだ。そこには中身を奪われ白紙になった本の死骸が散らばっている。題名さえ奪われた、それらの一つを手にとって、汚れを手の甲で払うと、それを空っぽになった本棚の一隅に納め直した。
 塵には理解できない行動だった。
「……何をしている? 貴様。俺の話を聞け」
「返してやれ」双我は、轢き殺された子犬を見るような目をしていた。
「それは、お前の物じゃない」
「……愚かだな。そんな善悪論で、俺がこのアドバンテージを手放すとでも? いいか、俺にはもう魔力切れという現象が無……」
「かつての魔導師たちは、お前なんかのために生涯を奇跡に賭けたんじゃない。勘違いもいい加減にしろ」
「このレギュレスは魔法戦士の育成のために作られた」塵は両手を広げた。その動きで、魔法剣の柄から、新しい汚泥が吐き出され、絨毯を汚した。
「俺だって魔法戦士の卵だ。その俺が、己が未来のために、これを使って何が悪い? それが嫌なら、最初からレギュレスへ己の叡智を寄贈などしなければよかったではないか?」
「お前には、それが美しく見えるのか?」
 双我に言われて、塵は手中の剣を見た。ごぽっ、ごぽっ、と絶え間なく、魔力と共に重油を吐き出す、剣の柄。塵はそれを一振りしてみた。すると重油が硬質化し、無数の槍となり、白紙の蔵書の山を串刺しにして、それをいよいよ本物の紙屑にしてみせた。
 舞い散る白紙を見上げて、塵はうっとりした。
「美しい。お前は馬鹿だな、双我。この魅力が分からないなんて。それに俺の質問に答えてすらいない。典型的猫――非合理的な考え方をする、愚物」
「愚物でいいさ」
 双我が走った。
 駿足、一瞬間で距離を消し去り、完全なタイミングで抜剣し、斬りかかってきた。狙いはおそらく塵の首筋、頚動脈。塵はそれを避けさえしなかった。簒奪剣から伸びた汚泥の先端が、八本指の手になって、双我の剣を受け止めた。二人の視線が至近距離で交錯する。
「……決闘の時と同じだな。闇雲な突撃。無謀を勇気と置き換える都合のいい神経。貴様ら猫にはウンザリだ」
「その割りに、腕が震えてるぜ」
「そうか?」
 言って、塵の泥腕が、双我の魔法剣をいとも容易くへし折った。
「!」
 双我は緊急回避のバックジャンプ。追いすがるいくつもの泥腕に空中で回転蹴りを見舞い、さらにそれを足場代わりにハイジャンプ。二階か三階に位置するあたりの本棚に足をかけて、息をついた。そして、折れた魔法剣を一瞬だけ見て、それを捨てた。
「おい、その剣の名前をマッチョ剣に変えよう」
「絶対に嫌だ」
「なんでだ」
「悟れ」
「冷てぇ奴」
 双我は笑って、別の本棚に飛び移った。そして壁際に備え付けてある松明に飛びつくと、それを抜き取り、中に内臓されている小型のカートリッジに魔力をありったけぶち込んで強制ショートさせた。一回限りの爆炎魔法を眼下に向かって撃ち放つ!
 塵に殺到する紅蓮の小鳥たち、そして、
 爆発。
「…………」
 炎と煙が晴れると、そこには汚泥のドームが残されていた。それがジュクジュクと溶け、塵の姿が露になる。
「小細工だけは限りがないな。褒めてやる」
「それももうタネ切れでね。アイディアがあったら分けてくれ」
「じゃあ死ね」
 汚泥の指先から、弾丸が放たれた。斬撃魔法の圧縮版・純粋な破壊の一撃。それが連打され、双我の周囲を掃射する。双我は壊れたシャンデリアまで飛び上がり、四天八空に逃げ惑った。ほとんど獣の動き。
 途端、塵が魔法射撃をやめた。戻ってくる静寂。双我は顔を脂塗れにしながら、棚に手をかけて、足をぶらぶらさせた。
「あれ、終わりか。もうちょっと遊びたかったんだけどな」
「ああ、遊びは終わりだ。もう飽きた……わざわざお前で、いつまでも簒奪剣の試し斬りをする意味もない」
 塵は、簒奪剣を指揮棒のように振った。すると今度は、その泥腕の先端から、ポウッと何かが湧いた。
 黒いシャボン玉だった。
 それを見た双我の顔が、火事を見つけた男のようなものになる。
「お前、それ……」
「ご存知かな?」塵は絶対優位の快感に浸った。
「黒魔法・『無限泡』……この黒いシャボンは、動きはとても遅いが、触れたもの全てを喰らい飲み込み消滅させる。そして、絶対に『斬れない』。魔法で吹き飛ばすことも出来ない。全部喰らい尽くすのだからな、この愛すべき大食漢は……」
 黒いシャボンが、ふわふわと、シャンデリアのそばにいる双我に向かって浮かび始めた。塵は一脚しかない椅子に座って、あくびをする。
「あとは勝手にしてくれ。逃げるのは得意なんだろう? せいぜい頑張ってくれ。お前の体力がいつ尽きるのか知らないが、タイムぐらいは計っておいてやる」
「それで自分は高みの見物か」
「高いところにいるのはお前だ」
「うるせぇ」
 双我はペロリと舌で唇を湿らせ、しばらく自分に向かって浮上してくる死を眺めていたが、やがて三角飛びで黒シャボンをやり過ごし、一階へと降りてきた。塵はため息をつく。
「玉砕覚悟で本体を狙うか。ま、それもいい。俺の黒魔法のストックはまだまだある。そして、魔力切れなどもはや無い……何を見ている?」
 双我は、簒奪剣を食い入るように見つめて、言った。
「随分便利なオモチャだな、それ」
 塵はピクリ、と顔の筋肉を震わせた。
「オモチャじゃない。武器だ」
「いや、オモチャだよ。……武器ってのは、手に馴染んで初めて武器になるんだ。心の中の手にな」
「講釈好きな男だな、貴様は。……いいのか? 俺はどうでもいいが、黒シャボンがもう降下して来ているぞ」
「よくねーな」双我は頭上を見上げて、薄く笑い、
「だから、俺もオモチャを使うことにするよ」
「……何?」
 双我は、塵の足元に何か放り投げた。
 紫色の数珠だった。
「リリス・アージェリアって猫がいてな。そいつの持ち物だった」
 塵の脳裏に、白髪の少女の記憶が蘇る。車椅子に乗ったその少女の、怯えた目も、金切り声も、そして最後の抵抗も。
 血を落とすのに、苦労した。
 塵は、双我を睨みつける。
「……それがどうした?」
「黒魔法には猫の肉体が媒介になっていることが多い。……ハッキリ聞く」
 双我は言った。
「その剣、リリスか?」
 塵は、微笑んだ。
「だったら、どうする?」
「べつに。確かめたかっただけだ。お前の反応で全部分かった。もういい。そう、リリスだ。その剣にされた女が、お前は知らないだろうが、スゲェ馬鹿でさ」
 友達に話しかけるように、双我は気楽そうだった。
「普通は、殺す気が無かったら、死ぬかもしれねぇ魔法を撃ったりしねぇだろ。でも、あいつは馬鹿だからヤるとなったら一点突破でよ、巻き込まれた方はたまったもんじゃねえ。見境ねえからな」
「何が言いたい?」
「俺はあいつに雷撃を喰らわされたことがある。その時、ちょっと『焼』かれた臓器があってね。駄目になっちまった。で、人工臓器にしちゃってもよかったんだが……お前ならどうする? どうせなら、もっといいのが欲しくないか?」
 双我は、ドン、と己の左胸に親指を突き立てた。その後方に、死神のように黒シャボンが、いまにも触れそうな距離にまで寄っていることに、気づいているのか、いないのか――こう言った。
「俺の心臓はカートリッジになっていてね」
 瞬撃。
 黒シャボンが、切り裂かれ真っ二つになって、吹き飛び散った。
 塵が思わず立ち上がった。
「な――!?」
 馬鹿な、と思った。自分の黒魔法が破られるわけなどない。ましてや相手は空手、武器破壊済みだったはず。なのに――
 塵の目が、双我の手元に吸い寄せられる。
「……虹?」
 双我の手の甲から、覆うように、虹色の光が煌いていた。燐光が周囲に溢れ、薄暗い封鎖書庫に大きな篝火が焚かれたようだった。
 わずかに、唸っている。
「なんだそれは……そんな魔法、俺は知らない……」
「そりゃそうだろうな。厳密に言えば、これは魔法じゃない……『純粋魔力』なんだから」
 純粋魔力。
 通常、魔法は魔力を消費して使用される。ここまではべつに魔導師でなくても知っている一般常識だ。が、魔力そのものを撃ち出す魔法があるか、という問題は、魔法学校の入学試験での定番設問にされているくらいの引っ掛け問題だった。
 答えは、『無い』だ。
 魔力は、魔法へと変換され、消滅する。魔力そのものを扱う魔法は、魔法ではない。矛盾している。
「なら、ならそれは何だ!? 双我臨路!!」
「純粋魔力をカートリッジから直接引きずり出してる、らしいぜ。……仕組みか? 俺も聞いたよ、でもコレ作ってくれた奴は猫でね。聞いても要領を得ねぇ。鼠が猫にイラつく気持ちも分からんでもねーな」
 双我が一歩、進んだ。
 塵は一歩、下がった。
(なんだあれは。こんなことがあっていいのか? 純粋魔力だと? そんなもの……そんなもの……)
 魔法は、魔力を消費する。逆に言えば、魔法に変換されない魔力は、それそのものがすでに強大な『力』を持っている。源泉とも、純粋魔力とも呼ばれるそれを、顕現できた魔導師は今までいなかった。いや、歴史を紐解けば、探せば猫に何人かはいるだろう。けれど、どうせ真似できない。
 だから、鼠の歴史には残っていないだろう。
 残しても、無駄な記憶だからだ。
 塵は、簒奪剣を構え直した。一振り、二振り、三振り、狂ったように振り回す。笛を鳴らされた猟犬のように枝分かれした泥腕が双我に殺到するが、その虹の爪牙は、いとも容易く黒魔法を切断してみせる。絨毯に真っ黒な染みが増え続けた。
「はあっ……はあっ……」
「息切れしてるが、大丈夫か? 先生呼んどく?」
「ふざけるなっ……この屑が……お前なんかに……お前ごときにこの俺が……!!」
「あんまり悪口ばっか言ってると殺しちゃうぞ」
「殺す……? は、はははは!!」塵は笑い出した。
 そうだ。
 双我に塵は殺せない。
 塵は、泥腕の一つを解き放った。
 自分の心臓へめがけて。
「!!」
 双我が手を伸ばしたが、遅かった。
「が、ふ……」
「……自殺か」
「ふ……ふふふ」
 塵の胸から、泥腕がぬるりと抜け落ちる。だが、その胸には、傷一つなかった。ただ制服が破れているだけ。
「はっはっはっは!! どうだ、これが黒魔法……絶対の再生能力と完全なる痛覚の遮断!! 純粋魔力? いや、それでも俺は殺せない……無限の魔力が俺にはある!! 俺を斬ることは出来ても、双我、お前に俺は殺せない!!」
「お前馬鹿か」双我は、どこか悲しそうに見えた。
「再生魔法なんか撃ってるってことは、身体に黒魔法が走ってるだろ。『猫の血』に関しては知ってるよな、お兄様? 赤宮もそれで殺した。……まさか、予想してなかったのか?」
 塵の笑い声が止んだ。
 その表情は、絶望に染まっている。
「う……」
「それと、どうもおかしいと思ったら、痛覚遮断なんかしてたのか。やめとけ。これは純粋に忠告だ。痛いのが怖いのは分かるが、戦士として、その感覚がないってのは落伍者と同じだ。今からでも戻した方がいい。お前、さっきから俺の動きを目で追えてないだろう。以前はそんなこと無かったはずだ」
「……黙れ」
「神沼……」
「黙れぇっ!!」
 塵は双我を指差した。その目から涙が溢れている。
「なんっ……なんなんだ!? なんなんだお前は!? 偉そうなことばかり言いやがって、そう、そういう、そういうお前はどうなんだ!? 心臓がカートリッジだと、馬鹿にしやがって、この、この、……卑怯者がァッ!!!!」
 地下奥深い秘密図書館に、塵の絶叫が虚しく響き渡った。
 双我は、初めてそれを見るような顔で、虹の爪牙を持ち上げた。
 決闘の時は、グローブに覆われていて、使えなかったそれ。
 あの時、本当は、塵が黒魔法を撃ってきたら、それを防御するために一瞬だけ使おうと思っていたのだった。その機会は訪れなかったが。
「そうだよ」
 双我は否定しなかった。
「俺は卑怯者だ。こんなオモチャに頼って、リリスの相棒をやってた。あいつは純粋に自分のセンスだけで闘ってたのにな。俺は違ったよ……だから、いまでもみんな、俺を呼ぶんだ。『面汚し』の双我ってな。……でも、俺はそれで構わなかった。リリスをそれで守れりゃな」
「お前なんか……お前なんか……」
「なあ、神沼。お前なんかはきっと、闘えなくなった猫になんの価値があるのかって言うんだろう。そういう気持ちで、リリスを殺したんだろう。
 わかるよ。
 俺だって、闘えない猫になんの価値があるのか、生きていて意味があるのか、分からない。そんなの無いのかもしれない。
 けどな、
 俺はそれでも、リリスに生きていて欲しかった。
 たとえなんにも出来なくなっても、俺はリリスにいて欲しかった。
 リリスに……」
 双我は、足元に転がった紫色の数珠を見下ろした。
 そうだ。なぜ忘れていたんだろう。双我が買ってやったのだ。街のお祭りで、なんでもない小さな屋台で、リリスはくだらないガラス玉を欲しがった。子供のように欲しがって、愚図って、動こうとしなかった。あんまり甘やかしてもどうかと双我は思ったから、最初は無視していたが、いよいよ本泣きされて浴衣姿でしゃがみ込むリリスを見て、双我は折れた。ついでにリンゴ飴まで買わされた。そうだ。どうして忘れていたんだろう。
 紫色が好きなんだ、とリリスは言った。紫は、狭間の色。赤でも青でもない、真実に一番近い色。このままならない世界、その奥に置き去りにされている、真実の紫――
「うわあああああああああああああああ!!!!!!」
 塵が破れかぶれで特攻してきた。顔がべちゃべちゃになっている。偉そうなことを言っていてもまだ子供、十八歳のガキだった。双我は塵が哀れに思えた。誰かが教えてやればよかったのだ。お前は間違っている、それではどこへも辿り着けないと。だが、誰もそれをしなかった。塵は間違ったまま大きくなった。もう元には戻れない。子供の頃には帰れない。
 なぜだろう。
 べちょべちょになった塵の泣き顔が、その妹、神沼水葉のそれと重なって。
 リリスがもう、どこにもいないことを思い出して。
 双我は、
 攻撃をかわす気に、どうしてもなれなかった。

 塵は、自分の手を汚している赤の正体に、しばらく気づかなかった。
 血だ。
 柄から伸びた泥の豪腕、それを伝って、自分の手を真っ赤に染めているその血は、双我の胸から溢れ出していた。
 左胸だった。
「が……はっ」
 笑い出したような、双我の苦悶。
 泥の腕を虹の爪牙で切断し、塵を突き飛ばし、双我はよろよろと後ずさった。その場に跪き、盛大に吐血する。絨毯が泥の代わりに血を浴びて、喜ぶようにそれを吸い込んだ。
「は……ははは……」
 簒奪剣を持ったまま、立ち尽くしていた塵が、笑い出す。
「はははははははっ!! なんだ!? 理解し難いが、そうか、なるほど、双我、お前死にたいんだな? そうだろ? もう生きていくのが嫌になったわけだ? ははははは、……いいぞ! それでいい、そのまま死ね。俺のために!」
「…………逃げろ」
「何?」
 双我の手から、虹の爪牙が消えた。メインカートリッジの心臓をぶち抜かれたのだから、当然、純粋魔力の出力機関としての機能も喪失したわけだ。これでもう双我は黒魔法へ対抗できる武器を失い、そして治癒魔法をかけなければ、存命することも出来ない。
 誰が見ても、敗北だった。
「今なら逃がしてやってもいい。そんな気がしてきた。だから逃げろ」
「……お前、何言ってんだ?」塵がニヤニヤ笑って、双我の頬を泥腕でぺちぺち叩いた。双我の顔が左右に揺れ、血の雫がゆるく飛ぶ。
「助けて欲しいのか? 治癒魔法、かけてやろうか? いいぜ、魔力はたっぷりある。神沼家の財産くらいにはな……が、駄目! 駄目駄目駄目、ありえない! ……俺はお前を助けない。ここには魔法剣はこれ一本しかない。残念だったな? 双我。いや、喜べよ、双我。お前は死ぬんだ」
「俺が死ぬまで三十秒」双我は言った。
「それまでに俺の視界から消えろ。二度とこの世界のどこにも顔を出すな。それで許してやる。逃げろ」
 死に際にしては、明瞭な声音だった。静かで、暗く、穏やかだった。
 塵にはそんなことは分からない。
「リリスとか言ったか? あの猫」
 塵は嗤った。
「最後、ションベン漏らして死んでったぞ。無様だったぜ」
 それが最後だった。
 双我は右手でそばにあった千切れた本を空中に放り投げた。即席の煙幕、紙吹雪。塵はバックステップで距離を取った。どうせ死ぬ男の悪あがきに付き合わない、それは正しい。ゆえに、無理やり攻め込めば殺せた双我を逃した。双我は最後の力で、跳躍した。
「どこへ逃げるつもりだ、双我臨路!! お前はもう負けたんだ!!」
 距離があるなら安心だと、簒奪剣を振り回し、泥腕から極彩色の魔法を次々と撃ち放つ塵。書庫が自壊してはいけないから制限をかけてはいても、どれもがA級魔導師の必殺技と同格の連続魔法。氷の一角獣が双我の脇腹を抉って砕け散り、炎の不死鳥が双我を火達磨にし、稲妻の蛇が盲目の野獣のように双我の周囲を悪戯に爆散させた。双我はそれを跳んでかわし続けた。高みへ、高みへ、逃げていく。そして辿り着いた。
 シャンデリアの真上、天井に両足を着ける形でジャンプしたのが、双我の逃避行のラストだった。もうそこから上には逃げ場がない。後は落ちていくだけ。膝に力をこめる。心臓はもう無い。鼻から鮮血が溢れ出していくのを感じる。視線がクリスタルで出来た、もう脂を注がれることはないだろう、忘れ去られたシャンデリアに注がれる。
 そこに、一振りの刀剣が、そっと置かれていた。
 それほど尺は長くない、せいぜい小振りのサーベル。過剰な儀礼用の装飾が施された、丸みのある鞘、柄の拵えは古式で優美なハンドガードタイプ。わずかに鯉口が切られ、剣身の刃紋、魔走回路がうっすら見えた。
 使え、と剣が囁いて来る。
 そんな気がした。
 天井を蹴る。紅蓮の不死鳥が、一瞬前まで双我がいた空間に突っ込み天井で爆発、抉り取った。その衝撃でクリスタルシャンデリアは夢のように粉々に砕け散り、サーベルも落ちていく。その柄を、双我は空中で掴んだ。身体を捻って鞘を捨て去る、落ちていく。抜き身の刃を輝かせ、
「リリス――」
 詠唱は感情。それだけでいい。
 風迅魔法、リミットエンプティ。空になるまで……
 風の掌に背中を押され、小さな氷の結晶のようなシャンデリアの残骸の螺旋を駆け下りていく。塵が発狂したように顔を歪ませ、簒奪剣を振りかぶるのが見えた。遅い。この土壇場で下界にいる塵が突くのではなく斬るのは絶対に間違っている。
 双我は目を閉じる。角度は調整済み。後は振り抜くだけ。
 最後の手段、『共振斬り』なら、相手が黒魔導士だろうと、猫だろうと、必ず殺せる。どんなまやかしも撃ち砕く、必殺の一刀。もし双我が、たとえ『面汚し』でも本物の猫なら――
 リリスは、もういないけれど――
 目を開ける。塵の顔を見る。剣の握りに気迫を注ぐ。
 呟く、

「これはお前の妹の愛剣だ、神沼塵」

 塵が最後に、双我と言ったのか、糞がと言ったのか、どちらだったのか。
 双我には分からなかった。
 一撃。
 切り裂かれた塵の手から跳ねた簒奪剣が、柄から泥を吐き出しながら、ゆるゆると回転し――落ちた。
 泣いているように見えた。


「お兄様あああああああああああああ!」
 共同墓地、午睡にうってつけの、昼下がり。
 喪服を着込んだ大人たちに囲まれて、一人の少女が、赤と黒を基調とした『レギュレスの都』の制服を着込んだ少女が、泣き喚きながら棺に取りすがって泣いていた。
「嫌あっ! お兄様っ、お兄様ぁ!」
「水葉お嬢様、おやめください、お嬢様、どうか……」
 メイドの氷室が、自分が刺されてでもいるかのように顔を歪めながら、それでも満身の力で水葉を棺から引き剥がした。水葉は靴が脱げ、顔は涙で汚れ、それでも手足をばたつかせて、棺に取りすがった。
「嫌です、そんな、お兄様、どうしてっ! どうしてっ!」
「お嬢様……!」
「嫌ああああああああああああああああ……」
 今ではもう、遺体を埋葬する習慣も、火葬する風俗もこの世界には無い。魔導師の死体は残っていれば残っているだけ、研究機関へ送られて素材にされる。それは誰もが避けられぬ運命。そのおかげでこの200年間、魔法文明は発展を繰り返してきた。そして、その正しさが一人の少女から、兄の死体に取りすがって泣く権利を奪った。棺は形だけ、霊柩車から墓ビルの中へと葬列者たちの手によって運ばれ、そこからは葬儀会社の手によって、塵の場合は高潔種用の高層階へとエレベーターで運搬される。そこで棺は一度解体され、その中にあるネームプレートだけが、この世界で『墓』と呼ばれる引き出しに仕舞われる。それでお終い。
「お兄様っ、お兄様っ!」
「わっ、やめるんだ、ちょ……」
 水葉が葬列者の一人に飛びつき、彼がバランスを崩した。棺は空とは言え重い。支えきれなくなった棺が階段に落ち、ガコガコと下まで落ちていってしまった。なんとなく滑稽。それを見た誰かが、
「ぷっ……」
 と笑った。しかし、すぐに静粛な場を思い出してその笑みを消す。
 水葉が呆然とした顔で、笑い声のした方を見た。
「誰ですか……?」
 誰も答えない。
「誰が、兄の死を笑ったんですか……!!」
 誰も答えない。水葉は、階段を下りて、その誰かを探そうとして、そしてふわっとまたその顔が歪み、その場にへたりこんで、童女のように泣き出した。
「わあああああああああああああ…………!!!!!!!!!」
 誰も、何も言わなかった。
 少女の泣き声が止むことはなく、葬儀だけが、慎ましく執り行われた。
 そして、それを戦闘服姿で眺めている男がいた。
 双我臨路だった。
 隣に、藍色の髪を一房だけ鎖状に編み込んでいる少女も連れ添っている。双我は手ぶらだが、少女は帯剣している。
「……満足した? 双我」
「ああ、もういい。行こうぜ」
 二人は、駐車してあった黒塗りのリムジンに乗り込んだ。ドライバーが熟練の手さばきで、車を死者の眠りに相応しい静かさで、発進させた。
 しばらく、後部座席で二人は、何も言わなかった。
 共同墓地をぐるりとめぐるように、車はゆっくりと走っていく。まだ、双我の位置から、水葉が泣いている姿が小さく小さく、見えた。
「見ろよ、ミーシャ」
 双我は窓の外を指差した。
「へっ、まだ泣いてら」
「……そうだね」
「俺が泣かしたんだぜ、あの子を」
 双我の指先が、かすかに震えていた。
「そんなに悪い子じゃなかった。考え方がちょっと固いとこあったけど、兄貴を奪われて、あんな風に泣かされていい子じゃなかった。結構ノリがいいところもあったしな」
「双我……」
「俺があの子から兄貴を奪ったんだ。な、そうだろ、ミーシャ」
 かわせなかった。
 ミーシャの平手打ちが、双我の頬を打った。
「いい加減にしな」
 ミーシャは無表情だった。けれど、その目からは大粒の涙が滴り落ちていた。双我は不思議な気分でそれを眺めた。
「君は悪くない。命令したのはルミルカだし、黒魔法に手を出したのは神沼塵本人だった。その代償を彼が払うのは、当然だった」
「……だとしても、だよ」
「だとしても? だったら何? ねえ双我、あたし、感傷に浸るのをやめろなんて言ってないよ。『調子に乗るのをやめろ』って言ってるの……」
 ミーシャは、ぐっと、小さな手を握り締めた。毅然な表情で、双我を睨む。
「同情するなんて、何様のつもり? 自分を強いと思ってるから、そういう心の贅肉が顔を出す。ねえ、双我。認めてあげるよ。君は強い。みんな間違ってる。君は面汚しなんかじゃない。たぶん、リリスの世界についていけてたのは、ルミルカでも君だけだった」
「……買いかぶりすぎだ」
「買いかぶりなんかじゃない。ねえ、双我。考えてみて。他の猫だったら、こんな時、どうする? 君みたいに泣き言を吐き散らす? 違うよね。グレイバスやバルキリアスだったら、こんな時、何も感じない。何も思わない。だって、猫には絶対、次の闘いが待ってるから。どんな時でも、何があっても、後ろを振り向いてなんて、いられないから」
「…………」
「生きるために闘うんだ、双我。負けた奴は死んでいく。猫は、闘うためだけに生きている」
「リリスもか?」
「そう思う?」
「…………」
「……止めて」
 リムジンがゆっくりと停車した。バタン、とミーシャはドアを開けて、半身を出した。振り返りざまに、言う。
「リリスは、闘って死んだ。あの壊れた魔法剣から、あたしはそう受け取った。……それだけ。じゃあね、双我」
 ミーシャは降りていった。しばらく、双我は開いたドアを眺めていた。
「……どうします?」運転手が話しかけてきた。双我は手を軽く振った。
「出してくれ。どこでもいい。静かなところがいいな」
「わかりました」
 ドアが閉まって、リムジンが走り出す。
 双我はぼんやりと、窓の外を眺めていたが、ふいに車中に、ミーシャの魔法剣が置き去りにされているのに気づいた。刃紋が、少し見えている。
「…………なあ」
 双我は、運転手に話しかけた。
「不思議に思わないか」
「……何がです?」
「神沼塵の屋敷から、黒魔法の研究資材が見つからなかったことさ」
 運転手は、チラ、とバックミラーを見やった。
「生憎と……私はあなた方の職務までは存じ上げておりませんゆえ」
「じゃ、聞き流してくれ。……無かったんだよ。黒魔法の研究ってのは結構、いろいろとデカイ機材が必要になることが多いんだ。大型の実験用カートリッジとかも使うしな。で、だ……神沼塵が黒魔法研究者だとしたら、自宅に設備がないことが、そもそもおかしいんだよな。だって、そこ以上に安全な場所なんてなくねーか?」
「……そうですかね」
「無いんだよ。俺はてっきり、隠し部屋でもあるのかと思って調査してた。親父もグルなら自宅にそういう設備が堂々とあってもおかしくねーし、ひょっとして俺が潜入魔導師なのはバレてて、あっさり殺されるのかと思った。が、グレイバスの奴から、神沼の親父は潔白だと追加報告が上がって来た。てことは、塵は単独で黒魔法研究をしてたことになる」
「そうだったんじゃ、ないんですか」
 双我は運転手の質問には直接答えず、続けた。
「あの盤面で疑わしかった奴らはいくらかいるが、結論から言えば、赤宮がリリス殺しに関わってたところから、あの周辺が黒ってのは俺が調べるまでもなく確定した。行方不明になっていた神沼塵の好敵手・朝霧空也はおそらく黒魔法の実験台にされて殺されたか何かしたんだろうってアタリもついた」
 双我は指を三本立てる。
「塵は人を信用できない男だった。取り巻きは必要以上には増やしてない。赤宮猛と、桜井隼人の二人。その二人のうち、赤宮が黒魔法研究を率先して行い、塵に流していたってのは考えられない。赤宮は騙されていたからだ」
「……それで? 桜井という子の方は?」
「桜井は俺が早々にパチこいて脅しといた。黒魔法研究者なら、俺が追跡者だということは一発で気がついたはずだ。だが、桜井は怯えはしていても、俺を探ってくるようなことはしなかった。あくまでも、自分は塵に従っているだけ……あとは関係ない、ほっといてくれ。終始このスタンスだった」
「……なるほど」
「で、肝心の塵だが、黒魔法の研究資材を隠し持っている気配が無いこと、そして『俺に使用してきた黒魔法が、大味で使い古されたもの』ばかりだったことから、黒魔法研究者ではない、と推測できる」
「……たまたま、そういう魔法しか使って来なかったのでは?」
「無い。黒魔法研究者にしてはバリエーションが無さ過ぎる。まるで……まるで、あの攻撃手段のレパートリーは『誰かに黒魔法のセットを一箱いくらで買い取った』みたいに、整い過ぎていた。小技も無かった」
「…………」
「もし、塵が黒魔法の研究者ではなく『購入者』だったのなら……」
 運転手が、ゴクリと生唾を飲み込んだことに、双我は気づかなかった。
「神沼塵は極めて交友関係の少ない男だった。あの性格じゃ友達なんかロクに出来ねぇのは一緒に暮らしてた俺が一番よく分かってる。だから、奴が黒魔法の『売人』と繋がっていたとしたら……赤宮猛か、桜井隼人か、そのどちらかだ。赤宮は無い。死んでる。となると桜井隼人? いや、奴はそんな自主的に行動できるクチじゃない……あるとすれば」
 双我の冷たい眼差しが、運転席へと注がれる。顔写真つきのネームプレートが、ダッシュボードのところに添えられていた。
 桜井護、とある。
「逆らえない存在に利用されていたか、だ。たとえば、家族、それも……『父親』とか」
「…………」
「なあ、桜井さん」
「…………」
「俺の推理は、当たっているかな」
「……何が悪い?」
 運転手は、ふふっと笑った。
「たかが金持ちのガキに、邪法を流したくらいで……猫も気に入らないが、ああいう太った鼠も、俺たち下っ端からすれば、同じくらいムカツクんだよ。畜生。だが、これでも商売は綺麗な気持ちでやってたんだぜ。使い方だって嘘偽りなく伝えたんだ。もっとも材料は向こうで用意してくれって頼んだがね。俺たちはレシピを売っただけ……自分で猫狩りなんて恐れ多くて出来やしねぇ」
「だろうな」
 双我は、運転席の上部にある隙間に、仕込み杖が隠されているのを見た。
「運転中だぜ、止めてからにしてくれるか、猫の兄さん」
「わかった」双我は頷いた。
 その瞬間、手馴れた動きで左手一本、仕込み杖を抜いた運転手が、後部座席の双我めがけて一撃を見舞った。双我はまだ、ミーシャの置いていった剣に触れてさえいなかった。が、そんなロスは無いも同じだった。
 切り返しの一撃で、仕込み杖ごと、その向こうにいる運転手の悪相を粉々に双我の剣が割り砕いた。鮮血が車内を胸焼けするような真紅に染めた。
 双我は速かった。
 圧倒的なまでに、速かった。
 そのまま、溢れる感情に任せた八連撃を見舞い、リムジンから飛び出した。斬壊されたリムジンは爆発すらしなかった。静かに静かに、砂の城が崩れるように自壊していって、中の細切れの死体と共に、ただの残骸と化した。双我はそれを振り返って、虚しそうに目を細めると、空を見上げた。手に下げた魔法剣から、新鮮な血が滴っている。
 蒼穹が、唐突に泣き出した。
 柔らかな雨粒が双我の頬を打った。双我は、そんなこと、全然分からないとばかりに、無垢な表情で空を見上げていた。誰もいない空を。
 そして、言った。
「任務完了、帰投する」
 不機嫌そうに、誰にともなく背中を向け、双我は歩き出し、街の中に消えていった。あとはただ、雨脚が強くなっていくのを、誰が聞くともなく聞いているだけだった。双我がいなくなったのも無理はない。
 猫はいつも、雨を嫌うものだ。

 コンコン、とドアがノックされた。誰が来るのかは分かっている。
 どうぞ、と水葉が言うと、ドアが開いて新田蜜柑が入ってきた。なぜか念入りにおめかししている。
「おはよー、水葉ちゃん」
「おはよう、蜜柑」
 二人はすっかり名前で呼び合う関係になっていた。
 あれから二週間。
 水葉は、心身ともに健康を少し害し、学校を休学していた。息子を失い傷心していた父も、娘まで失いたくないと思ったのか、すんなりと認めてくれた。
 蜜柑は、よくお見舞いに来てくれる。メイドの氷室はなぜか嫌がったが、水葉は、気が紛れて嬉しかった。
「体調はどう? 水葉ちゃん」
「ええ、もう、だいぶ落ち着きました。もう少ししたら、復学してみようかと思っています」
「そうなんだ。よかったあ。あたし、さりげなくクラスに溶け込むの失敗したから、水葉ちゃん来てくれないとぼっちなんだよね……」
 どよーん、と椅子の上でしょんぼりする蜜柑。水葉はベッドの上から、身を乗り出して心配した。
「だ、大丈夫ですか蜜柑。悩み事があるなら聞きますよ」
「うう、ありがとう水葉ちゃん。あたしの味方は君だけだあ」
 鼻をすする蜜柑を見て、水葉はちょっと申し訳なかったが、笑ってしまった。けれど、すぐに涙が出てきてしまった。
「あれ……?」
 蜜柑は静かに、泣いている水葉を見ている。
「水葉ちゃん……」
「ご、ごめんなさい蜜柑。最近は落ち着いてたのに発作が……」
「いいよ。いいんだよ。いいから、泣きなよ。あたし、ここにいるから」
「……すみません。あり、がとう……」
 それからしばらくして。
 ハンカチで目元を拭う水葉に、蜜柑はぽつり、と言った。
「あたしね、魔法使いになんてなるつもりなかったんだ」
「……そうなんですか? では、なぜ、レギュレスへ?」
「死んじゃったお兄ちゃんのことを、調べたくって」
 お兄ちゃん、という言葉が、またチクンと水葉の胸を刺したが、今度は耐えた。
「そう、だったんですか」
「うん。結局、あんまり手がかり無かったけど……だから、水葉ちゃんの気持ち、少しだけ分かるんだ。いて当たり前だった人がいなくなる気持ち」
 でもね、と蜜柑は、自分の指をくにくにしながら、続けた。
「いなくなった人は、戻って来ないけど。でも……いまいる人を、蔑ろにしていいってことじゃないと思うんだ。だから……元気出して」
「そう、ですね……」
「……双我くんのこと、憎んでる?」
 蜜柑からすれば、と水葉は思った。
 双我への憎しみから、水葉が心と身体のバランスを崩したと、見えているのかもしれない。
 自分でも、そうなのかもしれないと思う。
 違うのかもしれないとも思う。
「蜜柑、……私はどうしたらいいのでしょう。最初は、双我さんのことを憎もうと思いました。でも、憎めませんでした。私は、兄のことを、本当に慕ってはいなかったのかもしれません。心のどこかで、兄は、死に値する罪を犯しかねない人間だと、思っていたのかもしれません。悲しいけれど、苦しいけれど、でも、……どこかでホッとしている自分がいます」
 水葉は、悲しみを笑顔にしてみせた。
「ねえ蜜柑、私は最低な人間ですよね?」
「そんなことないよ。……あのね、たぶんね、あたしがどう言おうと、どう思ってようと、正しいことってそんなに簡単に決められるものじゃないよ。あたしなんかには、とても決められない。ごめんね。逃げるみたいで、ずるいかもなんだけど。でも、水葉ちゃん。たぶん、水葉ちゃんが決めて欲しいことは、水葉ちゃんが決めるしか、ないと思うよ」
「……そう、ですね」
 窓から優しい風が吹き込んで、二人の間に流れていった。
「蜜柑。あなたは、強いですね」
 蜜柑は、ちょっとだけはにかんだ。
4, 3

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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