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空を闊歩せよ

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夜の屋上は、流石に寒い。おまけに高いから風も強い。おススメしないぞ。
ここから見渡せる街の景色は夜だというのに明るいものだ。
こんな時間ともなると流石に鳥も飛んでいないだろう、この明るさならもしかして、昼と勘違いするようなこともあるのだろうか。
寒いところではあったか~い缶コーヒーを用意する人もいるだろうがそれは罠だ、すぐに冷めてしまうから気を付けろ。
その点俺は別に缶コーヒーなんざ用意していない、持ってきたのはただ一つ。この身と、寒さに耐える覚悟だけだ。これじゃ二つか。

悩みが解消され集中して業務に挑む俺はまさに怒涛の勢いで並み居る業務をバッタバッタとなぎ倒しては次なる業務を迎えていた。
その勢いたるやあの部長をも目を見開くほどであったが、しかし途中で膝に矢を受けてしまってな。
もっと言えば張りきった分すぐに集中力が切れてしまったのだ。

そうしてゆるゆると仕事をしている内に時は過ぎ、周りが皆帰宅していく中不思議なことに俺は残業する羽目になっていた。誰のせいか。見当もつかん。
うちの同僚はどうやら優秀な人間が多いらしく、残業しているのは俺が一人。
あんなに窮屈だなんて言っていたくせに部屋に一人ともなると物寂しく、こうして屋上に逃げ込んでいた。

昼休みに屋上に来た時は一人になりたいなんて思っていたが、今屋上に来た理由は一人が寂しかったから。
そう思えるようになったのも彼女のおかげだと思うとこの寒さもどこか悪くない気がした。

空を見上げればそこに星はなく、ただ薄くかかった雲と欠けた月が浮かんでいた。
街の明かりが星の光を打ち消して、月よりも明るく街を照らす。
少しばかり都会が憎らしく思えた。ロマンのわからんやつめ。

都会の空はきっと昼夜問わず味気ないのだ、地平線に視線を向ければ視界の半分がビルに埋められる。
あの月は一人で空を照らしている、星の光が見えていないから。
傍にいるものの光が見えていないから広すぎる空を照らさなければならない。
近くの星灯りが見えていればあいつも気軽だったろう、肩の荷を下ろせば身軽になる。
身軽になったその体で、尊大な態度で街を照らしてやるといい。
皆に浴びせるように、雄大に。

隣のビルを横目見る。うちの会社より少し背が低い。胸の鼓動が早くなる。

鳥は重力からは逃げられない。風には吹かれて流される。
月は孤独に夜を照らす。共に照らす者はいない。

俺はそうはなりたくないと思った、そうはならないと思った。
昼に見た空も今見る空も変わらない。あいつらとは違うから、あの道なき空を、誰にも委ねることなく歩けるんだ。

隣のビルを横目見る。胸の鼓動が鳴り止まない。
暗くて距離感が測りづらいが、そう遠くはないだろう。
どうやら柵もないようだし、何の問題もなさそうだ。痛いほどに心臓が脈動している。

我ながら馬鹿なことを考えたとは思う、けれど出来ると思ってしまったんだ。だったら、仕方のないことだ。
俺は鳥とは違うから、風なんかに身を任せずに、自分の道を選べるんだ。
俺は月とは違うから、傍にいてくれる人達の暖かさをだけを抱えて身軽に宙だって浮けるはず。
それを証明したかった、今ならできると思っている。
母のおかげで心に暖かさが残っている、彼女のおかげで大切な距離を覚えた。
それらが俺を身軽にしてくれたんだ。だから、出来る。

そう思うと決心がついた、それと同時に走り出していた。
踏切地点は決めてある、ちょっと遠いのは俺が念には念を入れるタイプだからだ。慎重派と言って欲しい。
向こうまでの距離はいまいちわからないけれど、せめてうちのビルの端っこくらいはなんとか見えた。踏み外すなんてダサい真似はしたくないしな。
気付くと酷く大股で走っていた、こうなるとスーツが邪魔くさい。
靴すら邪魔になってきた、いっそ裸足になれば良かったか。

余計なことを考えていても、その足は決して止まらない。
心臓は尋常じゃない早さで脈打っている、ビルの端はすぐそこだ。
距離は相変わらずわからないけれど、とりあえず問題ないんじゃないかと思う。
根拠はないけれど、今ならば。そう思って俺は、足を踏み切っていた。


宙へ飛び出した俺は、奇妙な感覚に捕らわれていた。
なんと言っても地面がない。何も踏みしめるものはなかったが、絶えず足を前に踏み出す。
空の定義なんて知ったことではないが、山より高く、地面のないこの空間は空と言ってもいいだろう。
俺は今、この空を歩いている。

か細い月灯りに照らされながら、風を切るように空を行く。
そこに道などなかったが、俺が選んだなら道となる。
だから、堂々と歩いていく。
俺を見ていない誰しもに、この姿を見せつけるように。
大声を上げるよりも、いっそう人の目を惹きつけるように、尊大な態度で歩いていく。

窮屈な世界から飛び出したくて、鬱屈な気分を捨て去りたくて、だからこの空に跳び出したんだ。
俺の傍には大切な人がいるから、心に残った暖かさだけを抱えて足を踏み出す。
今日は何の日だっけか。今日は俺の誕生日。特別な一日の、特別な瞬間が今だ。
身軽になった俺は、まさに今、空を闊歩しているんだ。


恐怖を紛らわせるほどのアドレナリンに頭を浮かされながら、不恰好に足をばたつかせていると、下からうねる様な風が吹き上げて来る。
その風があまりにも強いもんで、踏ん張ろうとしたけれどそこに地面はなかった。
どうすることも出来ず風に足を取られる。
そんな状態に陥りながら、あぁ、この風もビル風と呼ぶんだろうか、なんて悠長に考えていた。
幅跳びでは尻餅をついたり手をついてしまうと、一番距離の短いところで測るという意地悪なルールがある。
今の俺はそのルールを恨む高校生の様な気分だった。

空中で風に足を取られたために態勢が崩れ、着地の時には綺麗に尻餅をつかされた。
用意の悪い隣のビルはマットを敷いていなかったものだからこれが酷く痛い。減給ものだ。
なにより破れていないかが心配だ、もしオケツの部分が破れていたら減点どころでは済まされない。即逮捕だ。
その後職業訓練校とは名ばかりの牢獄に入れられ一生フリーター生活を強いられるだろう。
慌てて確認するが特に破れていることもなく、どうやら俺は無事にこちらに着いたらしい。

元いたビルを見上げてみる。やはり向こうの方が少し高い。
距離は思ったよりも短かったみたいだ、幅跳びとしてはかなりの記録が出ただろう。
しかしこうして見上げてみると、まるでジャングルジムから飛び降りる子供の様だ。
ジャングルジムからコンクリートジャングルになるとは俺も成長したものである。

俺は空を闊歩した、誰に何と言われようと俺がそう言うのだから間違いない。
あの窮屈な会社を飛び出して、彼女のことを胸に抱いて、自分の選んだ道を歩いたのだ。

それだけで十分だった。他人から不恰好に見られていてもそれでいいと思った。
実際不恰好な着地だった。風に煽られる鳥はあんな気分だったのだろうか。
それでも道を曲げなかった俺の勝ちだと言ってやる。

満足感に満たされていた俺もここで一つ気付いたことがある。
元来たビルを見上げてみる。明らかにこちらのビルより高い。
自分の所属を確認してみる。俺は向こうの社員であり、このビルの社員ではない。

俺にまた空を歩く手段はなく、このまま警備員にでも見つかれば俺は不審者として捕まってしまうだろう。
というかこれ、もしかして不法侵入ではなかろうか。
いや、そんなはずはない。空を歩いて侵入してはならないなんて法律があるはずがない。
そんなはずは、そんなはずは。そう繰り返す思考をなんとか途中で押しとどめ、とりあえず帰ることにした。

「非常階段を借りるしか、ないよなぁ」
トホホ、なんて後に続きそうな気分でそうつぶやく。
先程までの満足感はどこへやら、一転して落ち込んだ気分で階段を目指す。
しかしまぁ、こんな夜も悪くはない。



オフィスに戻ると当然のように誰もいない。
静まり返ったその部屋で、空気の読める俺は静かに自分のデスクへと向かう。
あぁ、そういえば部長のプレゼントが冷蔵庫にあるって言ってたっけ。
絶対に持って帰れと言われてしまえば持って帰らないわけにはいかない。
そう思って冷蔵庫の中を確認してみると、ケーキの箱が一つと、でかでかとスペースをとる栄養ドリンクのケースが残っていた。
信じたくはないが、この栄養ドリンクが部長からのプレゼントだろう。
今日も残業することを見越していたんだろうな。本当によく見ている人だ。
それにケースでくれるってことはこれからは仕事を持ち帰るなよっていう釘刺しでもあるんだろう。本当に抜け目ない人である。
その企みは少しヒヤッとさせられるが、それでも素直にありがたい。

ケーキの箱の方に目をやると、メモが一枚張り付けてあった。丁寧な字で

「誕生日おめでとう。あなたは今日残業だから先に帰ります。お祝いは明後日に一日かけることにしましょう。それじゃ、頑張ってね」

なんて書いてある。
二人ともに残業が見抜かれていたらしい、恥ずかしい様な嬉しい様な気分だった。
これでオフィス貸切誕生日パーティが出来る。しかし俺はモンブランが好きなんだ。今度教えてやるとしよう。

彼女たちが俺を見ていてくれる。
心配して、お祝いとして、こうしてプレゼントまで用意してくれている。
これなら頑張らなきゃいけないなと、思わされたのだった。


何の変哲もない平日。俺の誕生日。
俺と、俺を見ていてくれる人の特別な一日
7, 6

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