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  一 素敵な幕引きを迎えるまでに

 
 目が覚めても、ベッドの隣を見ても、キッチンのテーブルを挟んで向かい合う二つの椅子を見ても、私は暫くそれが現実のものだとは思えなかった。多分、これはきっと夢。嫌な夢に違いない。
 ベッドの向かいの壁掛けのコルクボードには、幾つもの写真がピンで留められている。友人達と撮ったかけがえの無い写真達だ。
 でも、ボードの何箇所かに空白がある。もう再び貼られる事の無いその写真を、私は今でも思い出せてしまう。出来ることなら早く忘れてしまいたいのに、私の記憶にはすっかり焼きついてしまっているのだ。
 窓の外は雨。淡青のカーテン越しに聞こえる雨粒が地面を打つ音が乱雑に敷かれ、その音は私の心を冷静にさせた。でも今は、正直混乱させてくれた方が良いのに。
 ベッドから這い出して一度伸びをして、キッチンの傍の小さな冷蔵庫から牛乳とベーコンと卵、そして買ってきたパックのサラダを取り出す。フライパンを火にかけて、油を垂らし、ベーコンを二切れ。香ばしい匂いを嗅ぎながら縁に卵を打ち付けてベーコンに被せるように投下して、蓋をする。適当な大きさの小皿と、トースターに食パンを一切れ入れる。
 ポットで沸かしたお湯で紅茶を作って、ハムエッグと小麦色にこんがり焼けたトースト、サラダをテーブルに並べて、私は椅子に座って一息ついた。
 ハムエッグの黄身をフォークで潰しながら、私は頬杖をつく。いつもなら二人分作っていた食事も、一人となると寂しい。潰した黄色が真っ白いキャンバスの上を滑り落ちていくのを眺めながら、今日は何をしようかしら、とぼんやりと考える。折角の休日なのだからと思ったけれど、生憎の雨で外に出る気がしない。
 一日中家から出ないで過ごしても、何も考えないでただ散歩するだけでも、今までは隣に彼がいるだけで気分が良かったし、彼の選択一挙手一投足を見ているだけで楽しかった。
 でも、唐突にそんな日々が過去に押し流されてしまった今、弾力を失った心を抱えたまま空虚な生活を続けることしか出来なくて、うまく心の整理をつけられずにいる。そんな自分が嫌で嫌で仕方がない。
 私はハムエッグにナイフを入れて口に運ぶ。香ばしいベーコンの香りとつるりとした白身の感触、そして最後にべったりとした濃厚な黄身の味がする。半熟は嫌いだ。べっとりと口の中にこびり付いてしまうから。私は口直しに紅茶を飲んで気持ちをスッキリさせた。彼が半熟を好きだったから、いつも気が付くと卵を半熟に作ってしまう。こびりついているのだ。何もかもが半熟の黄身みたいに。
 進まない朝食に辟易していると、玄関のベルが鳴った。
 間隔を置いてもう一度。合計で二度のベル。私はナイフを皿に置くと席を立って玄関に向かう。
「野崎さんですよね」
「――流石だね」
 チェーンとロックを外して開けると、笑みを浮かべて彼が立っていた。屋上に住んでいる青年、野崎。下の名前はどんなに聞いても答えてくれなかったし、私は野崎という姓自体虚実だろうと思っている。
「ベルを決まって二度鳴らす人は、貴方くらいだから」
「僕と、彼の二人だろう」彼の言葉に私は彼を睨みつける。
「本当、最低」
 彼は微笑むだけでそれ以上は何も言わなかった。嫌味な笑顔から肩に目を向けると、彼の黒いテーラードジャケットがじっとりと濡れていた。どうやら外出していたらしい。
「入ってもいいかな」
 そう言いながら彼は玄関に足を踏み入れる。私は分かりやすく肩を竦めて呆れてみせた後、彼を入れて扉を閉めた。拒否してもどうせ入ってくるから、もういちいち気にするのも面倒になって最近は何も言わないことにした。彼もそれを理解してか余計に図々しくなった気がする。
「タオルを出すわ。寒かったら、ヒーターを入れても構わないから」
「ありがとう」
 彼はそう言って部屋へ入っていった。私は玄関の側の洗面所に入り、タオルを一つ抱えてから部屋に戻る。キッチン前のテーブルの、空いている席に彼は座っていた。
「食事中に悪かったね」
「別に、全然食欲が湧かなくて難儀していたから。食べたかったら別にいいわよ」
「いや、遠慮しておく。半熟は嫌いなんだ」
「そう」
 彼はそう言ってタオルを受け取り、濡れた髪と服を拭う。私はポットにお湯が残っているのを確認してから、カップをもう一つ取り出し、彼に紅茶を用意すると再び席に座った。
「出かけていたの?」
「少し用事があってね。全く雨なのに勘弁して欲しいよ」
「仕事?」
「大したことじゃないよ」
 またはぐらかすんだ。私は彼の答えに対しそう思いながらも口には出さず、喉元まで出かけた言葉をトーストと一緒にかみ砕き、紅茶と一緒に呑み込んだ。
「それで、私にも何か用?」
「実は映画のチケットを貰ってね、君くらいしか誘える人がいないから、どうかな、と思ってさ」
 そう言って彼はジャケットの胸ポケットから封筒を取り出すと、中のチケットを二枚テーブルに並べる。最近テレビでもよく宣伝を行っている海外のラブストーリー物だ。
「映画は嫌いだったかな」
「そんなことないわ」
「じゃあ決まりだね」
「別に良いけど、今から?」
「他にいつがあるのさ」
 雨なのに勘弁してほしいと愚痴を零した癖に。
 でも、別に今日何かがあるわけでもないのも事実で。私は肩を竦めると行く、と答えた。
 実のところ、上映したら行こうと思って、楽しみにしていた映画だった。その時は恋人もいたし、一緒に行く約束をしていたのだけれど、今となっては守られることのない約束だ。
「――それで、彼はもう来ていないの?」
 部屋を見渡しながら彼はぽつりと言った。私が頷くと、だろうね、と彼は頷く。
「随分と綺麗になっているからね。君以外の存在を感じられる物がほとんどない」
「私が留守の間に入ってきて、自分の荷物は全部運びだしたみたい。粗方片付け終えたのか、ポストに鍵も入ってた。多分、もう来ないと思う」
「立つ鳥跡を濁さず」
「本当に、その通り。律儀に写真まで持って行ってくれたわ」
 徹底している、と彼は驚いた顔を作ってみせた。驚き顔の彼に頷きながら、本当に徹底的ね、と返した。
「彼、出て行く前までずっと新しい恋人の自慢ばかりしていたわ。どこまでも純粋で、何をしても笑って応えてくれるんだ、って。多分、これは運命なんだって」
「目の前の同棲相手に?」私は頷く。「目の前の同棲相手に」
 そして、別れ際こうも言った。

――君にしてしまった事は悪いと思っているよ。だから、君という罪も僕は背負って、これから先も生きていくつもりだ。本当にすまなかった。

「すごいなって思ったわ。私背負われちゃうんだなあって。全てを綺麗に拭い去って出て行けたつもりになっているから、なんか笑っちゃうわ」
 私の胸裏にはまだ彼はいることを彼は知らない。そう簡単に拭い去れるわけがないのだ。
 でも、どうしてかあんなことをされても、怒りも悲しみも湧かないのだ。
 ただただ、虚しかった。
「丁度、君と会ったのは、彼が出て行った日だったね」
 そう、それまで私は彼が屋上にいることすら知らなかった。あの日、野崎は突然私の前に現れたのだ。
 自分の部屋の前で、呆然と立ち尽くしている君がいてね、と彼は言った。
「その立ち居住い……っていうのかな、その時の君の姿がなんだか、とても興味深かったんだ。泣くわけでもなく、怒り狂うわけでもなく、ただただ恋人の出て行った方をじっと見ているだけの君が」
「そして、貴方は私に声をかけた」
「そうだよ。僕は興味の無い人間とは会話するつもりは無いから」
「じゃあ、興味があったら、貴方はいつもこんなものを人に渡すの?」
 私は席を立って、コルクボードの丁度下にある棚の、三つあるうちの一番上の引き出しを開けた。空っぽの引き出しー元々は彼の私物の入っていた場所だったーの中に、ぽつんと黒い拳銃が置かれている。私はその拳銃を持ち出すと、再びテーブルに戻って彼のカップの隣に前に置いた。彼は拳銃をちらりと見てから目を細め口角を上げた。
「場合によるね。僕は、その人がその時必要なものを渡しているに過ぎないから」
「私の場合は、拳銃?」彼は頷く。「君は今拳銃を必要していると思った」
「これを持って、私は引き金を誰かに向けて引かなくてはいけないのよね」
「そう、君は誰かに向けて引き金を引くんだ」
「貴方が夜光虫を見るまでに」私の言葉に彼は不敵に笑った。「そうだね、僕が夜光虫を見るまでが期限だ」
 彼はそこまで言うと、拳銃を手にして構えてみせた。様になるのは、きっと彼がそれだけ経験を積んでいるからだと思う。
 彼の拳銃に対する扱い方ひとつひとつから確かな経験が見える気がするのだ。彼は、きっとこれを何度も整備した事があるし、弾を込めたこともあれば引き金もきっと引いたことがあるに違いない。
 握りから構え方、照準の合わせ方。そして、どこを撃てば人を確実に破壊できるのか、まで、きっと彼は熟知している。
「さあ、この話よりも、出かけようじゃないか」
 彼は拳銃を棚に入れてしまうと、振り返って私にそう言って微笑む。閉じた棚をちらりと見てから、私は無言でベーコンエッグをナイフで縦に割った。


 昼下がり、雨模様の市街の人通りは少なくて、代わりに車道を通る車の数がとても多かった。混雑する車道を横目に私達は傘を片手に歩道を歩いて駅前の映画館の入ったビルへと向かう。
 傘を打つ雨の音がさわさわと耳元で囁くように聞こえる。濡れた足元も雲で満たされた空もみな灰色模様で、折角外に出てもこれでは全く気が晴れない。
 だが、そんな私とは裏腹に、隣を歩く野崎は鼻歌交じりで、彼のすぐ側の車道を通る車を眺めながら機嫌良さそうにしていた。
「雨は良いね、人は静かになるし、冷たいコンクリートまで全てが楽器になる」
「そんな風に考えたことは一度も無いわ」
「どんな楽器よりも美しい音だと思っているよ、僕はね」
「そうかしら、私はピアノの音の方が好きだわ」
 彼は肩を竦めた。
「今度雨の日に、アルミ缶を外に出してみるといい。雨は降るだけで、何気ないものを音楽に変えてくれる。アルミ缶は特によく響くし、心地いい音を出してくれるよ」
「憶えていたらね」
 私の薄い反応に彼がもう一度肩を竦めていた。
 大通りに出ると、傘の数は倍くらいに増えた。透明なビニール傘の私達と違って青、赤、黄と色鮮やかな布製の傘が幾つも見える。駅の側のビルに吸い込まれていく人々を見ながら、私達も今からあそこに入るのだと思うと少し気が滅入ってしまう。
 休日の、しかも雨の日の映画館だ。家族連れやカップルの多い日に何も来なくて良かったのではないだろうか。そう思うと、歩みが止まりそうになる。
「やっぱり、恋人と来たかった?」
 隣から聞こえてきた言葉に、私は蹴りで返答した。

   ○

 エンドロールが終わって、場内に照明が戻った。
 周囲が立ち上がり出て行く中、ふかふかの赤いシートに身体を預けたまま、私は身動きもせず真っ白くなったスクリーンをじっと見つめていた。
 とても良い映画を観ることが出来た時、私は暫く席を立てなくなる。そのまま明かりの付いた場内でスクリーンを見ていると、ついさっきまで見ていた映画の、魅力的な映像がそのまま浮かび上がる気がして、自分の中でその映画に対して感じた感情を整理できる気がするのだ。

――それに、今日は隣に誰もいないのだし。

 いや、違う。今日は普段とは別の同行者がいたことを思い出し、私はハッとして隣に目を向けた。
 突然の私の挙動に彼は不思議そうに首を傾げていた。
「どうしたの」
「え、いや、別になんでもないわ。ごめんなさい」
 慌てて首を振りながら私は再び前方に目を向ける。
「あのね、私、映画が終わった後も、暫く座っていたいの」
 だから、先に行っていて。
 そう言おうとしたのだが、彼は構わない、と答えて背もたれに深々と沈み込むと、ふふふ、と笑みを零した。
「好きなだけ浸るといいよ」
 彼の言葉に、戸惑っている自分がいた。
「そんなこと言われるのは、始めてかもしれない」
「流石に長居は出来ないけれど、人それぞれ余韻の楽しみ方はあるからね。君が他の人より長く味わいたいってだけさ。気にすることじゃないよ」
「……うん、ありがとう」
 そう言って私は再び、シートの中に深く沈み込んで、真っ白いスクリーンに目を向ける。
 起承転結のある、素敵なラブストーリーだった。誰も死なない、誰も悲しむことの無い、幸福な結末で、皆幸せそうにハグをして、夜景をバックにキスを交わす。
 ついこの間まで私も、あんな風にハグをして、キスを交わしていた。勿論ベッドで肌を重ねることもあったし、一日を彼で一杯にする日だってあった。
 そうやって全てを受け入れたつもりだったけれど、彼は物足りなかったらしい。
 何が足りなかったんだろう。何を欲しがっていたのだろう。
 今でもその答えは見つからないままだ。
 そして彼は、私よりもっと自分を受け入れてくれる素敵な女性を見つけてしまった。結果、彼は私のもとを去って行った。
 代わりにやってきたのは、拳銃が一丁と、屋上に済む奇妙な青年が一人だけ。
 もし、私があのスクリーンに映るような登場人物だったら、どんな物語を紡ぐことになるのだろう。今日見た映画みたいに、幸福な結末がいいな、と思うのだけれど、もう私が愛した彼は隣にいないから、多分あんな風にハグをしたり、キスをして終わる最後にはならない気がする。
 私は、スクリーン上に自分の部屋を思い浮かべる。
 壁掛けのコルクボードの真下の、小さな棚の、三つあるうちの一番上の引き出しの中にしまわれている、一丁の拳銃。
 あの銃口をどこに向けるかで、私の結末が決まるのだとしたら……。
 できることなら、幸福なエンドロールを迎えたいけれど、私に出来るだろうか。
「――ねえ、今日の映画、良かったよね」
 スクリーンを見つめたまま隣の彼に尋ねた。
 シートが軋む音が聞こえて、次にふふ、と笑い声がする。
「君も、きっと素敵な物語を紡げると思うよ」
「今日の映画みたいに?」私の言葉に彼は答える。「今日の映画みたいに、ね」
 彼の言葉を聞いて、今日、映画の誘いを受けたのは悪くなかったかもしれないな、と思った。
 憂鬱な雨が降っていたけれど、今の気持ちなら、観る前より少しだけ雨も愛せそうな気がした。
「――アルミ缶」
「ん?」
「アルミ缶、買っていこう。フルーツ缶くらいの大きさで大丈夫かな」
 彼はうん、と頷いた。
「十分さ。きっと、いい音が鳴るよ」
 私は目を閉じて、雨に打たれる空のアルミ缶の音を想像する。
 心の底にまで響きそうな、透明な音が、聴こえた気がした。


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