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   三 夜を照らすまで

 自動改札を出ると、それまでの駅構内の雑然とした騒がしさが消え去って、途端に放り出されたような、落ちてしまったような孤独感が胸の内に広がった。
 都市開発に失敗して、駅だけが成長したのだという。沢山の住居が安く放出され、夢見た盛況も、若者の姿も、人口密度が多いゆえの贅沢な悩みも生まれず、静かで穏やかな住宅街に成り果てたその姿は、少し、不貞腐れているようにも見えた。
 私は周囲を見回して、正面の横断歩道を渡って住宅街の細道を歩く。道は覚えている。忘れるはずがなかった。だって何度も私はこの道を歩いているのだから。
 ストーカーじみた行為だとは思う。けれど、あれだけで納得できるわけなんて無かった。私は肩提げ鞄を右にかけて、ぎゅっと握りしめた。いつもより重たい鞄。中には化粧品と一緒に、一丁の拳銃。
 今、警察に声を掛けられたら、私は捕まるのだろうか、なんて。
 引き金を引くかもしれない。なのに私はもっと日常的で、どうしようもないくらい平凡な恐怖を頭に描いていた。もしかしたら人を一人殺さなくてはいけないのに、どうして、こんなにも落ち着いていられるのだろう。
 鞄の中の硬く冷たい感触を確かめる度に、私の心が冷めていく。
 彼は、二つ返事で私の絞り出すような言葉を了承した。
 僕も丁度、君に会うべきだと思っていたんだ、と彼は言った。勝手なことだと思う。けれど、その言葉に心が揺らいでいる自分がいて、それがまた腹が立った。
 振られたのに。
 浮気をされた上に、振られたのに。
 卸したてのヒールで踵を強く鳴らしながら、私はコンクリートで舗装された一方通行の道を逆らうように歩いて行く。途中、小さな公園を見つけた。撤収された遊具の跡が生々しかった。その公園を見ることなく走り去っていく子供たちを見て、居た堪れない気持ちになった。
 魅力がなくなれば、気移りするのは当たり前なのかもしれない。
 必要とされることのなくなった物は、劣化も早いという。手入れをする人もいなくなり、使われることもない。そうやって気が付くと、取り返しのつかない状態にまで朽ちてしまう。
 私は遊具の無い寂れた公園を後にして、再び歩き出す。平日の昼間で人通りは特に少ない。時々ベランダに洗濯物を干す主婦の姿や、世間話に花を咲かせる人々の姿を見かけはしたが、それでも閑寂とした空気は拭えない。
 もしかしたら、この町はゆるやかに死に向かっているのかもしれない、と私は空を見上げて思う。静寂が横たわる町の片隅から見た空は、一転の曇りも無い青が広がっていた。
 雲が欲しいと思った。なにもないことが、とても怖かった。


 約束の時間になっても、彼は現れない。
 高層マンションを見上げ、ぼんやりとベンチに座ってお茶を飲む。
 彼の住むマンションの下の公園には、それなりに人がいた。多分、ここが他と比べて遊具もあって、それも親の安心できる手入れのされた遊具で、且つベランダから姿を確認できるからだと思う。子供達もそれなりに仕立ての良い服を着ているし、育ちも良さそうに見えた。
 今度の相手は、お嬢様ですか。
 私なんかとは一つも二つも位の違う、マンションの上の方に一人暮らしの清楚な大学生。よくもまあ捕まえたものだと思う。同棲している私もまるで気がつかないくらい手際も良かった。せめて、最後まで綺麗に終わらせてくれたら良かったのに。
 手にしたお茶の温かさが身体にしみる。じわりじわりと体内の輪郭を顕していく。私は深く吐息を落とし、項垂れる。
「お姉ちゃん、お姉ちゃん」
 声を掛けられて、私は顔を上げる。
「何してるの?」
 瓜二つの女の子が二人、しゃがみ込んで私の俯く顔を覗き込んでいた。前髪の分け目が少し違うだけで、服装も、仕草も、ほとんど同じ双子だった。
「何もしてないよ、人を待っているだけ」
「そうなの、でも、悲しそうだよ」
 鋭いなあ、と私は苦笑して、それから少しだけ悲しいかな、と続けた。
「ちょっと、嫌なことが続いててね、私って本当に駄目だなあって思っちゃって」
「それは大変」右の子が言った。
「悲しいね」左の子が言った。
 二人は当たり前のように私の両隣に座ると、小さな手で私の手をそれぞれ握った。幼い、暖かい手の感触に、ささくれだつ心が少しだけ溶解していくのを感じた。
「ねえ、じゃあ歌おうか」
「歌う?」
 私が戸惑っていると、左の子が突然歌い出した。幼くて、音程もちぐはぐな拙い歌声だった。右の子も合わせて歌いだしたけれど、同じように、別段上手くはない、幼い歌声。
 しばらく二人のことを見ていると、彼女たちはこちらをちらちらと見ている。一体何の歌かも分からないのに、入れ、とその目は言っていた。
 周りの視線も気になった。何より、彼がいつ来るかも分からないのに。しばらく悩んだが、二人の手に少しづつ力が入るのを感じて、私はようやく観念すると、息を大きく吸った。
 この歌は、何の歌だろう。
 歌詞もないラ、ラ、ラだけで歌われるその歌を一緒に口ずさむ。左右の双子たちは嬉しそうに目を閉じている。それを見て、私も目を閉じようと思った。
 冷たい鉄の感触が消えて、代わりに二人の手の温もりが心に染み込んでいく。
 目蓋の裏の赤白い光の先に、野崎の姿が見えた。彼は不敵に笑っているが、その目はどこか優しく、柔らかなものに見えた。君は誰かに向けて引き金を引くんだと目蓋の裏の彼は言っていた。
「ごめん、遅くなった」
 目を開けると、そこに彼の姿があった。左右にいた双子の姿はいつの間にかいなくなっていて、手の感触も消えていた。どこへ行ったのだろう。
 彼は、相変わらず黒縁の眼鏡と、細いストライプ柄のくたびれたシャツと黒いスキニーを着ていた。いつも言っているのに、シャツはだらしなくズボンからはみ出ているのが見える。身なりを綺麗に整えた野崎とは真逆だ。
「誰かいたの?」
「双子の女の子」
「ああ、たまにここで遊んでる子たちか」
「ちゃんといるの?」
 私の問いかけに、彼は首を傾げた。幻では、ないらしい。
「それで、どうしよう。どこか行こうか」
「別に、ここでもいいよ」
 私の言葉を聞いて、彼は一瞬動揺の目を見せた。分ってる。ここは貴方が住んでいる場所で、自分は元恋人。会話の内容によっては、近隣との関係に噂が立ちかねない。
 保身を考えているくせに、どこか脇の甘い人。そういうところが、私は嫌いではなかった。
「貴方の都合の良いところで構わない」
 そう言うと、彼の顔が露骨に明るくなったのが見えた。きっと、都合の良い場所に目星をつけてあったのだろう。
「じゃあ、行こうか」
 先導する彼の右手に目を落とす。薬指に嵌められたシンプルな指輪が、光を浴びて冷たく光っていた。


 マンションから大分離れた先の、小さな喫茶店に私たちは入った。いかにも暇そうな高齢の女性が煙草を飲みながら新聞を読んでいて、扉の鈴が鳴ると興味なさそうに一瞥を投げて、それから再び新聞に目を落とした。
 コーヒーを二つ頼むと、ついでのようにクッキーが出てきた。老女は特に表情を変えることなく、焼きすぎた、とだけ言ってそれから再びカウンターにどっかり座って煙草の煙を燻らせていた。
「それで、何の用?」
「会うべきだと思ったって、どういうこと?」
 質問に質問で返すと、若干彼が不機嫌そうになるのが見えた。彼は機嫌を悪くするとすぐに眼鏡の縁に触れる。そういうところで大体彼の考えていることが分かる。多分、イニシアチブを取りたかったのだろう。
「君に酷いことをしたとは思ってるんだ。でも、あまりにも唐突で、きっとまだ納得しきれてないと思ったから、ちゃんと終わりにしなくちゃいけないって思ってた」
「貴方が勝手に終わらせたいだけじゃないの?」
 彼の目が細くなる。
「君は、いつもそうだよね」
 コーヒーを飲み、彼は震えるような声でそう呟いた。
「僕のことを何もかも分かっているみたいに、いつだって先を行って、リードしてた。たまに僕の抜けているところを指摘したり、駄目なところを笑ったり……。僕が何かしようとしても、君はすぐその先を行くんだ」
 蛇口を一気に開いたみたいに、彼は吐き出していく。私に対して思っていたことを。全て。目の端で女性を見たが、彼女は興味なさそうに相変わらず新聞を見ていた。
「多分僕らは、続いていたとしても、必ずどこかで終わっていたよ」
「そうなの?」
「少なくとも、僕は我慢の限界だった」
 彼の言葉を聞くたびに、お腹の底のほうがすっと冷たく、軽くなっていくのを感じた。私はクッキーを食べて、コーヒーを飲む。淡い甘さと、真っ黒な苦味が丁度良く合わさる。
「そっか」
「今の子はいいよ。互いに尊重し合える。弱さを補える。一緒にして、苦にならない。二人で、同じ歩調で、歩けているって実感がある。充実してるんだ」
「そっか」
「君は、どうしてまた連絡をしてきたんだ?」
 その言葉で、あの受話器越しの言葉が繕ったものだとすぐに分かってしまった。私は小さくため息を吐くと、さて、どうしようと考える。今日は野崎と一緒に夕飯にでもしようか。どうせまた、キザったらしい食材でも用意してるだろうし、何より、彼は愉快そうな顔で聞いてくるに違いない。
――引き金は引けたか。
 頬杖をついて、私は窓の外を眺める。まだ二時にも満たない。通り過ぎるのは乗用車と、高齢者と子供だけ。平穏を切り取るってこういうことなんだろうな、と思う。
「もう一度顔を合わせようと思ってさ」
「顔を?」
「よく考えると、別れ話の時、私ずっと下向いてた気がするから。貴方の顔をよく見ないで終わった気がしたの」
「そんなことで……」
「うん、そんなことで私は電話をしたの」
 なんで私は、冷めていってるのだろう。もっと熱くなると思っていた。涙の一つでも出ると思っていた。あの別れ話の時見れなかった顔を見たら、きっとこの燻った思いに決着がつくと。
 そうか、彼の顔は、こんなだったのか。
 私はおもむろに、鞄に入った拳銃を取り出す。目の前の彼の顔が引きつる。カウンターの女性の顔は相変わらず興味のカケラもない。
「モデルガン、だよね?」
「私ね、この引き金を貴方に引くべきか悩んでたの」
 銃口を彼に向ける。カチャリ、と金属の冷たい音がした。流石に片手だと手が震える。構えた右手に、左手を添えて、ようやく銃口の先が定まった。
「私ね、好きだったの。きっと、この先も貴方と一緒にと勝手に思ってた。他愛のない話も好きだったし、貴方のちょっと抜けてるところとかも、私がいっぱいいっぱいになった時に励ましてくれるのも……その優しさが、すごく幸せだった」
 でも、違ったのか。
「あれは優しさじゃなくて、安心してただけだったんだね。私を励ますことで、自分を慰めてただけなんだね」
 私も、そうだったのだろうか。彼と一緒にいることで、自分自身を慰めていただけ、なのだろうか。
「ねえ、ちゃんと弾が入ってるか、確認してから来たんだ」
 彼の顔が青ざめるのが分かる。私は冷静に、彼の眼鏡の辺りに狙いを定める。どうせブレてしまうに違いないし、ちょっとブレて上手く眉間辺りに当ってくれたら、儲けものだ。

 彼は固まっている。

 私は構えている。

 女性は、煙草の煙を天井に向かって吐き出した。

「ばん」




 俯く私の前に、女性は入れ直したコーヒーを置いた。顔を上げると、彼女は煙草を咥えたまま、私を見下ろしていた。いや、多分見ていた。
「おかわり、ありがとうございます」
「アタシはアンタに興味がない。アンタが出てったらもう忘れて、煙草と新聞に戻るさ」
 女性の言葉がよく分からなくてしばらく見上げていると、彼女はテーブルに置かれた拳銃を手にとって、私の鞄に戻した。
「つまり、今ここにはアンタしかいないってことさ」
 彼女の言葉を聞いた瞬間、それまで冷たかった胸の内側がゆっくり熱くなっていった。こんな熱をどこに隠し持っていたんだろう、と動揺していると、目元から涙が数滴、テーブルに落ちる。息がうまく出来なくなる。
 目の前で湯気を立てるコーヒーを手に取ると、彼女は冷めてしまったコーヒーを下げた。飲もうとするけど、さっきまでグリップを握っていた手が震えてうまく口に運べない。コーヒーが揺れる度波打つそれは、店内の照明の光で赤く、黒く見えた。
 寄り添い合えているつもりだった。
 互いの心なんて、分かりきってると思っていた。でもそんなのはまやかしだった。
 下げたコーヒーカップを洗いながら、女性が何気なく歌い出す。
 その歌は、双子が口ずさんでいた歌にどこか似ていた。


 自宅の扉に鍵を挿したところで、野崎の姿が見えた。抱えている紙袋には、ワインや食材が見えた。一体どこで買ってくるんだろう。
「どうだった?」
 今日の彼は、どこか穏やかで、カッコつける様子がなかった。撃った、と思っているのだろうか。この生活の終焉を感じているのだろうか。
 私は鞄から銃を取り出す。それだけで彼には結果が分かったらしい。
「そうか、じゃあまた探さないとね、引き金を引く先を」
「ばんって言っただけなのに、すごい勢いで逃げて行っちゃった。もうちょっと根性ある人だと思ってたんだけどなあ」
 ため息をついて鞄に銃を戻す。安全装置すら外していなかったのに、彼には私が本気で撃つと思ったらしい。そういう風に、見えていたらしい。
「元カレの家の近くにね、良い喫茶店を見つけたの。今度野崎さんもどう?」
「悪くない提案だね」
「あと、また会いたい子もいるんだ。双子でね、とっても可愛いの。緊張してる私に素敵な歌をプレゼントしてくれたから、今度お礼をしないとって思ってて。野崎さんそういうの得意でしょ?」
「僕が?」
「カッコつけるの上手いじゃない」
「よく分からないな。僕は僕のまま生きてるだけだから」
「そういう言い回しが、キザったらしいのよ」
 不思議そうに首を傾げる彼を見て笑いながら、私は扉を開けて彼を招く。
「お腹空いちゃった。野崎さんのどこぞで仕込まれた料理振る舞ってよ」
「喜んで」
 野崎を招いた後、私はマンション越しに外を眺める。沈んでいく夕景に照らされた町並みに、私は指で作った銃を向けてみた。
「ねえ」
 扉を閉めながら、私は野崎に尋ねる。
「もし抱いてって言ったら、私のこと抱いてくれる?」
 野崎は別段驚く様子もなく、キッチンに紙袋を置くと勿論、と答えた。
「君が心から抱かれたいと思ったらね」
「ふうん」
 野崎の隣に並んで食材出しを手伝う。今日教えてもらった歌を口ずさんでいると、彼もその歌に乗ってきた。互いに顔を見合わせて笑った後、料理の下ごしらえを始めた。
 手にはまだ拳銃の重さが残っていたけど、やがて彼と並んで調理をしているうちにその感触も消えていった。
「ところで、これはなんの歌?」
「知らない」
 私がそう言うと、彼は機嫌よく頷いた。
「良い歌だね」


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