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アムネシアガール追記(ななみ先生は、ブライアン・デ・パルマだ。)

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さて、今回は、アムネシアガール ななみ先生の漫画の追記である。
アムネシアガールは、内容が濃すぎて、一言でまとめるのが難しい漫画である。
なので、今回は、かなり強引な仮説を立てて、この漫画を検証してみた。

1 ななみ先生はブライアン・デ・パルマである。

アムネシアガールは、露骨にあまりにも、いろいろな映画のイメージを、パクリ・・・いや、参照しまくった映画・・いや、漫画である。

ぱっと見るだけでも、キャリー、もしかしたら、ファントム・オブ・パラダイス、シャイニング、丑三つの村、八墓村、たぶん、AKIRA、じぶり映画、映画ではないが、童夢、それに黒田硫黄の影響が見て取れる。

ある一つのクライマックスに向けて、自分がリスペクトし影響を受けた、これらの作品の手法を参照元を隠す気もなく、一気に導入する手法ってどっかで、見た気がしていたのだが、これは、あれだ。

ブライアン・デ・パルマ監督の手法によく似てる。

確かに、アムネシアガールをデ・パルマの映画として、脳内変換すると、ものすごくデ・パルマそのものだと感じる。

なので、本人は、同意しないかもしれないが、ぼくの中では、ななみ先生は、デ・パルマななみと変名させていただいた。


2 ななみ先生は、デ・パルマ監督だから、この漫画はスタイリッシュなのだ。

大友克洋や、黒田硫黄と比較するとななみ先生の漫画は、はるかにスタイリッシュだと思う。かっこいいのである。これは、ストーリーからくる必然性ではなく、ただ単に構図がかっこいいとか、登場人物の表情がかっこいいとか言う表層的なかっこよさである。

この表層的なカッコよさも、ななみ先生がデ・パルマ監督であると解釈するとすんなりと理解できる。

この表層的と言う言葉を、ぼくは、否定的な意味では使っていない。娯楽を娯楽として成立させる要件としては、重要なものだと思っている。

表層的なものの反対にあるものに、ヘーゲルなどのドイツ観念論みたいなものを想定していただきたい。

誰も、デ・パルマに哲学なんか求めてないのだ。

3 ななみ先生が、デ・パルマ監督だとすると脚本は穴だらけだ。

デ・パルマ監督は、その映像が出現した瞬間の驚きだけを、求めているので、脚本に多少問題があっても、気にしない。いや、設定上、無理があったとしても、その映像のためだったら、脚本上の矛盾などには、目をつむる男だ。

ななみ先生もたぶん、映像先行で、ストーリーを組み立てているのだと思う。なので、非常にインパクトのある画面が、次から次へと出てくるのだが、肝心のストーリーがわかりづらく、何回か読み返した。

これは、欠点と言うより、それだけ映像のインパクトが大きいということである。


4 もし ななみ先生が、デ・パルマ監督だとするとこの作品のラストは必ずしもハッピーエンドではない。

デ・パルマ監督の映画は、ほとんど全部がエンターティメント映画なのだが、何故か不思議と、純粋なハッピーエンドを嫌う。デ・パルマ監督のファンの方もハッピーエンドじゃないから好きなようである。

デ・パルマの映画は、カタルシスのポイントが、一般の映画と若干ずれているだけで、(例えばキャリーだと、あの有名な、学生たちを焼き殺してしまうシーンですね。)、よくよく見るとちゃんとエンターテイメントとして成立しているのがわかる。

この辺、たぶん、ななみ先生の漫画も同じだと思う。
童夢のクライマックスにぼくは、あまり、カタルシスを感じなかったのだが、アムネシアガールは、圧倒的に、カタルシスがある。

漫画としての娯楽性が強いのだ。

そして、ななみ先生に哲学なんてないのだ。

4 結論

とっちらかった評論で申し訳ないが、アムネシアガールには、ぼくは衝撃を受けた。それと意外と映画的な漫画って少ないのだなあと実感した。










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