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第五十二話 いざ赴くは妖精の聖地

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「…う…ん…」
「守羽っ!」
 薄く開いた瞳に真っ先に映ったのは天井ではなく、
「……母さん」
「うん、大丈夫?痛いところは?具合は悪くない?」
 俺よりも年下に見える童顔小柄の少女みたいな母親が俺の顔を覗き込みながら質問攻めにしてくる。
 起き上がってみれば、ここは俺の家の、俺の部屋だった。当然ながら寝かされていたのも俺のベッド。
 全身の傷は治っていた。母さんの、妖精としての治癒能力だろう。あれだけの重傷を完治させるなんて、母さんはかなり強い力を持っているのかもしれない。
「痛いとこは、ない。ただ体が重たくて、すげえだるい…」
 風邪で寝込んでいる時に似た、全身の倦怠感があった。正直体を起こしていることすら辛いほどだ。
「相当無理したんだね。わたしの力は疲労まで抜けるものじゃないから、しばらくは横になっていた方がいいよ」
 俺の胸を押して寝かせようとする母さんの背後でドアが開き、一人の男が入って来る。焼け焦げ煤けたような赤茶色の髪をした褐色肌の男。
 …見覚えは、ある。だがどこで見たんだったか。
 男は俺が起きていることを確認するや少しだけ目を丸くする。
「おう、起きてやがる。数日は目を覚まさないと思ってたが、流石は『鬼殺し』ってとこか」
「アル」
 母さんが男の名を口にして、ピンときた。気を失う寸前に俺を助けてくれた男だ。確かあの妖精二人がこの男のことをアルと呼んでいた。
「起きたんなら降りて来い。話がある」
「待ってアル。まだ守羽は動けるような状態じゃないよ」
「姐さん、聞ける時に聞いた方がいいと思いやすぜ。旦那の…神門旭の息子であるコイツは、なおさら今の状況を知っていないといけねえ」
「でも…」
 二人の会話からなにやら不穏な空気を感じ取った俺は、母さんの手をどけてアルと視線を交差させる。
「父さんは…俺の父親がどうした」
「知りてえんならさっさと来い。お前のダチもいんぞ」
 それだけ言ってアルはさっさと部屋を出て行った。俺もベッドから両足を下ろして立ち上がる。一瞬足がもつれたが、どうにか歩く程度は問題なくやれそうだ。
「守羽…本当に大丈夫?」
「ああ、平気だよ母さん。それより、早く下に行こう」
 何か言いたげな母さんを引き連れて、俺は僅かに震える脚で階下の居間へ向かった。



      -----
 居間に入ると、なんだか剣呑な空気が広がっていた。その元凶を辿っていると、あまり見たことのない眼力で睨みを利かせている由音が壁に背を預けている。片方だけ伸ばした足の太腿には、身を丸めたシェリアが頭を乗せてすやすやと眠っていた。
 どういう状況だろうか、これは。
「どうしたお前」
「守羽!無事だったか!」
 俺の顔を見た途端にいつもの快活な表情に戻った由音が、再び視線を元に戻す。その先には、壁に寄り掛かる二人の妖精がいた。
 片方は胡坐をかいて一振りの日本刀を肩に立て掛けたアル。俺を助けに来た時はボロボロの状態だったが、今は傷の一つも無く包帯もギブスも外されていた。俺と同じく母さんに治してもらったか。
 その隣にいるのは初めて見る顔だ。抹茶のような深緑色の髪をスポーツ刈りにカットした青年。歳の頃はアルと同程度に見える。
「来たか」
 アルが顔を上げる。由音の視線にはどこ吹く風でまるで応じない。その隣の男も同じくで、マイペースに俺へ軽く会釈してきた。
「前に会った連中だ」
 由音が警戒心を隠さずに言う。前、というと副会長に絡んできた三人の人外のことか。あの時は正体も目的もわからないと要注意していた連中だが、今となってはその正体も明らかだ。
「父さんの仲間だったんだな」
「ああ。俺はアル、こっちはレン。あともう数人いるんだが、かつてお前の親父を長として同盟を組んだ昔馴染みだ」
 指で隣のレンを示したあと、その指でカーペットの敷かれた床を指した。座れという意味と汲んでその場に胡坐で腰を落とす。隣に母さんが座った。
 中央に置いてある四角いテーブルの前に座る俺と母さん。俺から見て左側の壁に由音が寄り掛かり、シェリアが眠りこけている。右側にはアルとレン。
「長々説明すんのもだりぃ。手早くちゃちゃっと行くぜ」
 軽く咳払いして、アルが切り出す。
「まず初めに、俺らの大将神門旭はこの街に集まってきた勢力に対応する為に俺達を招集した。陽向、四門、妖精連中。お前が倒した四門も、本来であれば旦那が処理するつもりだったらしい。大鬼のことも、万が一に備えて色々用意はしてあった。この刀とかな」
 言って肩に立て掛けた刀を示す。童子切安綱、アルが回収していたのか。
「旦那の最大の因縁である陽向日昏、コイツとの決着はお前の大鬼との決闘とほぼ同時に行われた。さらに同時に攻めてきたのが妖精連中の組織、名前が、あー…」
「『イルダーナ』」
「そうそう、それだ。ハッ、一丁前に太陽神の名前を付けるとかどんだけ図々しいんだっつのボケ共がよお」
 レンのフォローに頷きと罵倒を織り交ぜ、さらに説明は続く。
「『イルダーナ』は漁夫の利を狙い、それぞれ疲弊したお前と旦那を捕縛しようと動いた。ついでに姐さんもな」
「父さんは…捕まったのか」
 この場にいない父親の行方を察してまさかと思いながら口を開くと、アルは重々しく頷いた。
「旦那は陽向日昏との闘いに向かう前に俺ら同盟仲間に命令を下した。お前と姐さんを、自分の家族を守ってくれってな。俺達は旦那の意志を尊重した。だから『イルダーナ』からお前を守ってここまで連れて来た。戦力の都合上、旦那を助けるまでは手が回らなかったのが痛かったが…それは旦那も承知の上だった」
 『イルダーナ』…おそらくはレイスやシェリアが所属していた組織のことだろう。あのジャックフロストやレプラコーンも。妖精種にしてはやたらと実力派集団のようだ。たとえ俺や父さんが万全の状態だったとしても、一斉に掛かられたら厳しいかもしれない。
「で、連中は最大の目標である旦那を捕縛して撤退した。妖精界…つってもお前にゃなんのことだかわからんか?」
「“|具現《ぐげん》|界域《かいいき》”のことだろ。それくらいは知ってる」
 人間種が集団で願い望んだ共通の認識や現象を『人外』や『異能』として現出させる|機構《システム》を人外が利用して生み出した、世界を生み出す術式。それは人の世に居場所を失くした人外達が望む共通の|空間《せかい》を想像し創造する。
 父さんはその『妖精界』に連行されたのか。
 そこまで聞かされて、俺はふと気になったことを視線で訴える。その先にいるのは由音の太腿に頭を乗せて眠るシェリア。
「由音」
 事情を知っているであろう由音に説明を求める。撤退した『イルダーナ』の一員であるはずのシェリアが、今なお組織からはぐれてこの場にいる理由を訊く。
「シェリアは…守羽の親父さんが連れてかれるのを反対したんだ。でも連中は聞き入れなくて、それで『イルダーナ』ってのから離れた。この子はお前や親父さんを庇ってくれたんだ」
 もはや敵と認識しても問題ない組織の一員であるという事実から守ろうとするかのように、由音が早口で捲し立てる。
「守羽、シェリアは敵じゃねえ!今まで一緒だったレイスと離れてまで、コイツは|人間《こっち》に味方してくれたんだ!だからよ!」
「わかってる、別にシェリアをどうこうしようと思って訊いたわけじゃねえ。だが、そうなると…」
 そうなると、この子は自らの居場所を自ら手放したということになる。妖精としての、組織としての、仲間達がいた場所を放棄したのだ。
 その時、体を丸めて横になっていたシェリアが無言で起き上がった。
「…………ごめんね、シュウ」
 開口一番、シェリアは顔を上げてそんなことを言った。いつから起きていたのか、どこまで聞いていたのか。
 ただ弱々しく謝るシェリアの目は少し充血していた。もしかして、泣き疲れて眠っていたのか。
「ごめんね、アキラ、取り返せにゃかった。レイスも、ラナも、ファル爺も、聞いてくれにゃかった。…ごめん…」
 こんなに落ち込んでいるシェリアは初めて見る。仲間達に自分の意見が聞き入れられなかったことが悲しいのか、止められなかった自分が悔しいのか。
 予想でしかないが、おそらく妖精種は大半が神門旭を大罪人として憎み恨んでいる。それはもはや妖精達の中では当然のことなのだろう、一切の疑問を抱える余地がないほどの。
 妖精種の中ではシェリアが異端なのだ。人間と多く関わり、人の世を知ったシェリアだからこそ抱いた疑問。組織仲間とは決して共有できない認識。
 だからこそ組織の思惑に反発を覚え、離反した。シェリアにとっては辛い決断だっただろう。
 けれど、俺や父さんのことを想ってしてくれたその決断は、俺にとってはとても嬉しいものだ。俺が責めることも無ければ、シェリアが謝ることもない。
 俺はアルに顔を向ける。
「『イルダーナ』は間違いなく妖精界に戻ったんだな?」
「ああ、レンが確実に行方を追ったからな。だろ?」
 確認を取ると、レンは浅く頷いた。
「街中の監視カメラをジャックして拾い集めた情報だからな。連中は気配を隠せて人目を避けられても、人の世の機械ってやつには疎い部分がある。しっかり映ってたよ」
 監視カメラ、ジャック。
 まるでハッカーのような発言だが、別にパソコンをカタカタ操作して違法に入手した情報ではないんだろう。じっとレンの姿を凝視して、その正体を暴く。
「……なるほど、グレムリンかお前」
「そ、|アル《・ ・》ヴだからアル。グ|レ《・》ムリ|ン《・》だからレン。安直でわかりやすい名前だろ?」
 真名がバレてもあまり気にしていないようで、自分とアルを指差して軽く肩を竦めてみせるだけだった。
 ともかく、父さんは確実に妖精界に連れて行かれた。ならばやることは一つしかない。
 まだ力の入らない両足を震わせながらどうにか立ち上がる。まず最初にしゅんと猫耳を垂らしたシェリアに視線を合わせる。
「お前は事が収まるまで静音さんの家で厄介になれ。たぶん歓迎してくれるはずだから。由音、シェリアを頼むわ、家まで連れてってやれ」
「おう!」
 元気よく返事して、由音が立ち上がる。由音の手を借りながらシェリアも立ち、玄関まで向かう途中で一度止まり俺を見た。膝を折って目線を合わせる。
「シュウ…」
「ありがとな、父さんの為に。しばらくは人間の世界で我慢してくれ。俺がどうにかしてみせるから」
 ポンと頭に軽く手を置いて、由音が連れて行くのを玄関まで見送る。
「由音、明日また家に来い。大事な話がある」
「…合点!!」
 玄関扉が閉まる直前に伝えた言葉に、全て分かり切ったような表情で最後に由音は応じた。
「さて」
 居間に戻り、残ったアルとレンからの何か言いたげな視線を受ける。
「大将がいなくなったわけだが、お前ら同盟とやらはどうする?」
「その前に聞かせろよ旦那の|倅《せがれ》。お前は何をする?」
「決まってんだろ」
 愉しそうに目を細めるアルへ、吐き捨てるように返した。
「|妖精側《む こ う》にとっちゃ大罪人だろうが、こっちからすりゃ一家の大黒柱が拉致されていい迷惑だ。ふざけやがって」
 苛立ち紛れに頭をがりがりと掻くと、アルは俺の様子を愉快げに眺めて結論を促す。ギシッと握る刀の鞘が握力で軋む音が聞こえた。
「と、いうことは?」
「ああ」
 言わなくてもわかっているであろう答えを、あえて言葉にして決意を固める。

「殴り込みだ、くそったれ」

「そう…辛かったね、シェリア」
 由音に連れられて静音の家に再び戻ってきたシェリアは、事情を受けてただ静かにシェリアを両手で抱き留めた。
「……シズ」
「うん、大丈夫。好きなだけ、ここに居てくれていいから」
 垂れた猫耳ごと頭を擦り付けるように静音の胸へ押し当て、シェリアは小さく頷いた。
「…んじゃ、あとは頼みます。センパイ」
「任せて。ありがとうね、由音君。連れて来てくれて」
 無言で頷いて、由音は背を向ける。
「あ…っ」
 歩き去るその背中に声を掛けようとしたシェリアは、その鋭敏な聴覚で由音の小さな呟きを拾い、開きかけた口を閉じた。
『元気出せ。お前のそんな顔、見たくねえ』
 苦痛の滲み出すような呟きは、いつまでもシェリアの耳に強く残っていた。



      -----
 とあるマンションの地下で、アルは胡坐で冷たい地面に座り込んでいた。
 綺麗に整地され、等間隔に地下を支える柱が立ち並ぶ広い空間の中央。そこには厚い片刃の剣が突き刺さっていた。時折、その刀身が鼓動を打つようにドッドッと震える。剣の鼓動は地下全体を揺らしていた。
「それ、使うのか」
 背後で様子を見ていたレンが、剣に嫌悪の視線を向けながら言うと、アルは閉じていた瞳を開いた。
「ああ。コイツだけでも百人力だが、念には念をな」
 答えて、傍らに置いてあった大業物童子切安綱をコツンと指先で小突く。
 ここは彼らの住む一室があるマンションの真下であるわけだが、実の所このマンションには地下など存在しない。
 ただアルが無断でこじ開け出入り口を偽装し、普通の人間にはバレないように生み出した専用の工房だった。
 それは地面の下にある鉄、金属、鉱物、それら『金行』に連なる属性物をこの一点に集約させ、強力な武器を生成する為の鍛冶場。数々の贋作はこの場にて創られたものがほとんどだ。
 その中でも、長年に渡り研磨と錬成を繰り返した至高の一振りが此処にある。
 “|不耗魔剣《ティルヴィング》”。
 名の如く決して摩耗せず、消耗せず、減耗せず、損耗せず。刃は欠けることなく毀れることなく、唯一無二の鋭さを誇り続ける|呪い《・ ・》の剣。
 北欧神話において使い手に|須《すべから》く破滅を|齎《もたら》すと伝えられている、片刃にして諸刃である最悪の魔剣。
 しかしてアルの生み出してきた贋作の中では最上にして至上の出来映え。当然だ。この剣は数年かけて綿密に創り上げて来た最高傑作なのだから。
「同盟からは音々を連れてく。機械弄りしか能がねえお前は妖精界では足手纏いだ。白埜と姐さんを頼む」
 剣の柄に手を掛けて、ゆったりと立ち上がるアルの背中を眺めながら、レンは問い掛ける。
「それはいい。けどお前、何の為に行く?」
「理由なんざ挙げ出したらキリがねえ」
 ガギ、ギギン……と、突き刺さる剣先から鉄が競り上がり、魔剣の刀身を薄く覆っていく。それは次第に形を整え、鞘と成った。
「旦那を取り返しに行くのが第二、|倅《せがれ》のガキを守るのが第一。あとはまあ、|氷々爺《ひょうひょうや》のクソジジイも残り少ない余命を消し飛ばしてやろ。レイスも苛々すっからぶっ飛ばす。現妖精王は武力が高いって噂だから野郎とも一戦。邪魔する妖精連中は全員薙ぎ倒す」
「やっぱお前、|戦闘《そっち》が本命じゃんか」
 魔剣ティルヴィングと大業物童子切安綱をそれぞれ手に持ち、二刀流で虚空へ向けて振り回すアルを呆れたようにレンは横目で見る。
 長年の旧友には、その真意が知れていた。
「アルお前さ、実は旦那さんの奪還とか倅さんの護衛とか、どうでもいいと思ってるだろ」
「…………ハッ」
 我流の型を描きながら二刀を振るうアルが、数秒の沈黙の後に息を吐き出す。
 命懸けの死合いにこそ生き甲斐を見出す戦闘狂は、そんな本質を押し隠して二刀の演舞をピタリと止める。
「レン、言い方が悪いんだよテメエは。旦那のしぶとさはよく知ってるし、その倅も同じだ。なんせ俺がボコボコにされた鬼神を倒したヤツだぞ。神門守羽は背中に庇う弱者でなく、肩を並べて戦う強者だ。…なら、俺は俺で多少は勝手をさせてもらう」
 別に倅は俺らの大将じゃねえしな、と付け足してから、アルは型を解いて振り返る。それを見届けて、レンはよくわからなそうに首を傾げた。
「勝手って、勝手に暴れ回るってことか?」
「それ以外ねえだろ」
「まあ、お前らしいけどさ。でもアル、それだけじゃないよな」
 地下から地上へ出る秘密の階段の一段目に足を掛けたところでアルの動きがまたしても止まる。
 …真意の底、さらに読まれている。
「次の戦いは妖精界の侵攻、俺ら同盟にとっては二度目だ。確かに前回よりも厳しい戦闘になることは確実。お前にとって死地は望む所だろうけど、それだけじゃないよな?」
「…まあな」
「何がある」
 元々同盟仲間に隠し立てをするつもりは無かった。だから訊かれれば答える気ではいた。
 だが、それでもアルは言葉を濁す。明確に何かを示すことが出来なかったからだ。
 言ってしまえばこれは勘。
「わからん。だが何か引っかかる。小骨が喉に刺さるような、視界の端で蚊が飛び回るような、そんなどうでもいいことのようで、妙に気になる何かがある。…気がする」
「……そうか」
 曖昧で適当な発言のようだが、レンは表情を固くして足を階段へ向けた。共に階段を上りながら、背後で気の張った声音でレンが告げる。
「なら最大限注意しとけ。お前の勘は本当に馬鹿に出来ない時があるから」
「ああ、んなこと俺が一番よく知ってら」



      -----
「駄目だ、母さんはここに残ってくれ」
 夜。由音達や父さんの同盟連中を帰してから俺と母さんは長らく話し合った。内容は父さん奪還のこと。
 妖精界へ殴り込むことは既に俺の中で決定事項だった為、これは断固として譲らなかった。ここまで頑なに親へ意見を押し通したのは随分久しぶりだ。
 最終的に折れた母さんが自分も付いて行くと言ったが、これも俺が止めた。
「母さんも狙われてる身だ。捕まったら妖精界で父さん共々出してはくれない」
 父さんと違い、母さんは元々妖精界の住人ということで連れ戻そうとしているのが主目的のようだから酷い目に遭わされることはないとは思うが、俺としてはやはりここに残っていてくれた方がありがたい。
「でも、危険なんだよ!?言ったら戻ってこられるかどうかだってわからない、それに向こうは一つの世界で、一つの国。守羽は見たことないから知らないだろうけど、妖精界全てが侵入者に牙を剥けば、そんなのはもう戦争だよ!」
 …そうか。戦争か。
 言われてみればそうだ。
 敵は父さんを捕らえている妖精界。世界が相手となれば、確かにそれは戦争と呼ぶに値する騒乱だ。
 そして、
「父さんは、そんな戦争を突破して母さんと添い遂げたんだろ?」
「―――っ」
 俺の父親は戦いを勝ち抜いて、大切なものを手に入れた。立場と立ち位置は違うけど、これは『その時』と同じ状況だ。
 なら、『その時』父さんがやったことを、俺がそのままなぞればいい。
「俺がふがいない父親を引っ張って戻ってくるから、母さんはそれを待っててよ。大丈夫、たぶん俺は、一人じゃないから」
 仁徳がある、などと己惚れるつもりはない。父さんほど多くの仲間に信頼され組織を率いれるとも思っちゃいない。
 だけど俺には、どれだけ突っ撥ねようが追い払おうが構うことなく俺に手を貸し続けてくれる確かな人間がいる。
 巻き込みたくなくて何度も辛く当たってきたのに、あいつはやっぱりお構いなしに俺を助けてくれた。
 きっと、今回も。
 そのことがとても嬉しく、これほど頼もしいと思ったことはない。



      -----
 共に同じベッドで眠っていた静音を起こさないように、シェリアはゆっくりと外に出て、屋根に上がっていた。
 夏の夜がむわっとする温い風を吹かせて来る。肩に触れる程度のウェーブがかった黒髪を湿った風に流して、猫耳少女は夜空を見上げる。雲間からは三日月の光が見え隠れしていた。
 光っては消える月をぼんやり眺め、尻尾を揺らし少女は思案に暮れる。
 どうすればいい。どうすれば全て丸く収められる?
 そもそも、何から始めれば、自分は何をすればいい。最善は?最短は?
 わからない。
「……」
 神門守羽が覚悟していた通り、これは戦争に限りなく近いレベルの騒乱だ。それだけ事態は重く、因縁は深い。
 まだ幼い少女に、この大事をつつがなく終結を至らせる活路など見出せるはずもなかった。
 考えて考えて、何も浮かばずシェリアは屋根に腰を落とし両膝を抱える。
 自らの無力さを前にして様々な感情が渦巻き、思いがけず機嫌の悪い猫のような呻き声が漏れる。じわりと水分が瞳の表面を覆う。
 それが玉となり屋根に落ちるより前に、

「だーから、やめろってその顔!」

 ぽすんと頭に手の平が乗せられ、奈落の底まで落ち切りそうだったシェリアの心を掬い上げた。
 この挙動、この声音、この口調。
 顔を上げずとも誰だかわかる。
「…どしたの?」
 その少年の一言と一挙動のみで、シェリアはいくらか平静を取り戻せた。頭を撫でつける手の平の温もりが惜しくて、あえて頭は上げずに口だけ開く。
 隣にどっかりと座って、由音はいつもの調子で話す。
「いや、なんとなく。…気になってな!」
 気の利いた言い回しも出来ず、結局そのまま答えてしまったことに気恥ずかしさを覚えたのか、頭を撫でるのとは逆側の手で頬を掻く。
「……守羽は、きっと行く。その妖精界?ってのに。んで、守羽が行くならもちろんオレも行く。静音センパイも付いて行くだろうな!」
「シュウと、シノと、シズ?」
「おう!あと親父さんの仲間もきっと行くはずだ!」
 神門旭の仲間と聞いて思い浮かぶのは、妖精界で共に暮らしていたアルヴとグレムリン。それと、あの魔獣種の女性は音々と言ったか。
 これらが全て結集するとなれば、かなりの大戦力となる。数ではなく、質の方面で。
 あるいは妖精の束ねる一世界とも渡り合えるやもしれぬ。
 それがシェリアにとっては少し不安であった。
「オレ達の目的は親父さんを取り返すことだ、だから必要以上に暴れたりはしねえ!妖精界ってのは、お前の故郷だもんな。平気さ、守羽だってなにも妖精を皆殺しにして親父さんを取り戻そうとはしねえよ」
 ぽんぽん、わしわし。
 綿毛のように軽い髪を梳いたり弾いたり。いいように弄ばれてもシェリアは何も言わない。怒っているのかなとちょっと思ったが、そうでもなかったらしい。
「うん」
 抱えていた両膝から顔を上げたシェリアは、一つ頷いて正面を向いた。
「ね、シノ?」
「なんだ」
「あたし、何ができるかにゃ?」
 しばし黙考して、由音はニヤッと不敵に笑った。
「わからん!」
 だが出て来た言葉はだいぶいい加減だった。
「わからんけど、お前にはお前にしか出来ないことがあるだろ!オレもそうだ!だからオレはオレに出来る精一杯をやる!そんだけだ」
「うん、うんっ」
 そんなおざなりな台詞を前に、シェリアは深く大きく頷いた。跳び上がるように立ち上がり、
「そうだよね!うん!あたしも、あたしができること、やるよっ」
 全てを丸く収める方法なんて知らない。思いつきもしない。
 でも、それで何もかも投げ出す理由にはならない。出来ること全てをやって、それでも駄目ならまた考えるだけだ。
 先を見るのはやめた。やるべきことは眼前に山ほど転がっている。
 今は心が痛くても、今は妖精仲間に裏切者と謗られても、信じて進む。
 何を?
 自分の考えを、選択を、決断を。
 隣で笑う人間の少年を。
 今は対立する立場となってしまった、『イルダーナ』の面々を。
 そしてなにより、この快活な少年が絶対の信頼を置いている、彼。
 |我らが大将《み か ど し ゅ う》を。
155, 154

  

「次の戦い。戦場は完全な|敵地《アウェー》、敵の総力は未知数。わかることは圧倒的な数と力をもって迎撃に挑んでくるであろうことだけ」
 胡坐で腕を組み、淡々と説明する。
「対してこっちは圧倒的戦力差を覆すだけの切り札も策も無い。…正直真っ向からぶつかって勝てるとは思わない」
 言ってて自分で心折れそうになるほどの絶望的な状況説明を受けて、相手はしかし無言でただ傾聴していた。
「だが俺は行く。行かなくちゃいけない。一家の大黒柱を失うわけにはいかないからな」
 目的へ最短距離で手を伸ばさなければ指先を掠らせることすら叶わない。そんな死地へと俺は身を投じる。
 そこへなんの関係も因縁の無い者を巻き込んででも、だ。
「少しでも戦力が欲しい。いや違うか、俺だけじゃどう考えても不可能なんだ。だから、無茶を承知でお前に言う」
 俺の家族に関係も無く、向かう世界への因縁も無い。
 四角いテーブルを挟んだ対面に座る東雲由音が、次に俺が放つ言葉を予想した上で一言も口を開くことをしない。
「由音、お前が必要だ。死線を潜る羽目になるかもしれない。その命、俺の為に懸けてくれ」
 図々しい申し出なのは分かっている。でも俺はなんとしても父さんを助けなければならない。その為には少しでも多くの力を手元に置きたい。
 ドンとテーブルの縁へ叩かれた右の拳が、麦茶を半分ほど残したコップを揺らす。その拳は僅かに震えていた。
「やっとか」
 何を言われても文句を返せる立場ではない俺は、口を開いた由音と入れ替わりに閉口して次の発言を待つ。
「オレはさ、守羽。お前に命を救われた。…命だけじゃねえ、心もだ。二年前、オレは異能と悪霊にいいように暴れ回られて死を覚悟してた。それをお前に助けられた。それからずっと待ってた。ずっと、ずっとだ」
 テーブルから離した拳に目を落として、由音は目を吊り上げ口の端を歪める。言葉通り、待ち焦がれた何かを歓待するように右拳を左の掌へ打ち付けて、
「待ってたぜ、その|言葉《セリフ》ッ!!」
 尖った犬歯を剥き出しにして、由音はその身から熱気を迸らせながら叫ぶ。
「好きなだけ使え!この命、この力、二年間お前への大恩に報いる為だけに磨き続けた!妖精界だろうがなんだろうが関係ねえ、お前が行くならそこが地獄の底だって付き合う理由としちゃ充分過ぎんだよ」
「ああ、頼む」
 そんな口上に、俺も強く頷いて軽く頭を下げる。
 もう関わるなとは言わない、付き纏うなとも言わない。
 かつて自分自身のことすらも認められなかった当時の俺はなるべく親しい関係を作らないようにと、あえて人から遠ざかるように振る舞って来た。由音にも相応の態度で接してきた。
 それでもずっと俺を助けてきてくれた友人に、今度こそ俺は面と向かって接していければと思う。これから共に妖精界へ向かう戦友として。
 由音と今一度無言で視線を交わしてから、俺は廊下へ続く戸の方へ顔を向ける。
「で、お前はどうした?シェリア」
「あれ、ばれてたっ」
 薄い戸を挟んだ向こう側からそんな声が聞こえて、スパァンと勢いよく戸を開け放った少女が居間に乗り込んできた。その後ろによく知った先輩も引き連れて。
「静音さん…」
「お邪魔します。ごめんね?一応、守羽のお母さんに上げてもらってたんだけど」
 静音先輩と、先輩の家で居候させてもらっているシェリア。事情を知らなければただの黒髪美少女姉妹にしか見えない二人がいそいそと居間へ足を踏み入れる。
 二人は入って来るなりシェリアは由音の隣へ、静音さんはそんなシェリアのさらに隣へ並んで腰を下ろした。
「おうシェリア!どうだ、元気になったか!?」
「うんっ、もうだいじょぶ!全部、決めたから!」
 喧しく由音と会話するシェリアの様子がだいぶ俺の知る普段の猫耳少女に戻っているように見えて、俺は内心でいくらか安心する。昨日家を出て行ってから何かあったか。
「ね、シュウ!あたしも行くよ!」
 座ったかと思いきや、途端に両手をテーブルについて身を乗り出したシェリアがそう切り出すのを、俺は眉を顰めながら聞いていた。
 どこに行くかなんて聞くまでもない。
「お前…俺達が何しにどこ行くか知ってて言ってんのか」
「もちろん!妖精界でしょ?」
 あっけらかんと答えてみせたシェリアに、俺はどうしたもんかと息を吐く。
「……あのな。自分でこんなこと言いたくねえけど、俺らは穏やかな話し合いで事が片付くなんざ期待しちゃいねえ。初手から全開で攻め込む。いわば俺達はお前の故郷を侵略しに行くってことだ。お前の言ってることは、それに加担するってこと。いわば自分の故郷を裏切る行為ってことなんだぞ?」
「ちがうよ」
「……ん?」
 一瞬意味がわからなくなった。何が違うのか。
 戸惑いに暮れる一瞬の間に、シェリアはさらにこう続けた。
「あたしは、妖精界も、『イルダーナ』も、裏切れにゃい。だってずぅっと一緒にいたところだもん。でも、こんにゃのが正しいっていうのは、ぜったい思わにゃい。だから、あたしはあたしができることをすることにしたの」
 きっぱりと断言して、しっかりと俺の眼を見て少女は自らの決意を語る。
「だからあたしは止めるよ。レイスとファル爺、それにティトやラバーやラナ。妖精界の人たち。ちゃんとお話しして、わかってもらうの。アキラやシュウは、『ミカド』は悪い人じゃにゃいよって。あたしはそのために行く」
 あくまでも目的は侵攻ではなく和睦。だから裏切りではなく一時的な離脱。つまりはそういう介錯でいいんだろうか。
 ともあれシェリアの決意はとても強固なようで、その瞳は意識的に鋭くしている俺の眼とかち合ったところでちっとも逸らそうとしない。
 そうして、結局折れたのは俺の方。
「…わかった。ただ用心だけはしとけよ、お前はそのつもりじゃなくとも、向こうにとっちゃ現状お前は妖精界を裏切ってこっち側についたって認識が強い。お前は、」
 里帰りを邪魔する筋合いは俺には無いだろうが、今はその故郷自体が帰るべき場所として機能していないかもしれない。それを理解した上での言動なのだと承知してはいるが、やはりこれは事前に確認しておいた方がいい。
「お前は…俺達に加担して妖精界に乗り込むっていう認識で、いいのか?」
 これは、別に断っても構わない。元々から無理に引き入れようとは思っていなかったから。
 だが否定した場合、シェリアは俺達侵攻側と妖精側の両陣営にも所属しないどっちつかずの中立者となった状態で里帰りをする羽目になる。妖精連中が組織を離れたシェリアへ一体どんな沙汰を下したのか不明な以上、そんな身一つの状態で戻るのは危険な気がする。
 だからせめてこちら側につく気がなくとも、もしシェリアが良ければ同行して妖精界入りしようとは考えていた。なんなら人質という体で汚れ役を買って出てもいいくらいだ。俺達が妖精の人質を取って乗り込めば、必然連中の敵意は全てこちらへ向くだろうし、シェリアは脅されていた等と口を合わせてくれればすんなり妖精界へ帰還できるだろう。
 そういう方針を脳内で固めかけていたところを、
「うんっ。そうする!」
 呑気な一声と共に猫耳少女が俺の方針を思考ごと見事に一蹴してくれた。しばし蹴り飛ばされた思考力を頭の中で掻き集めていると、その間に一切合切迷いを取り払った明朗闊達な笑顔を見せてシェリアは言う。
「妖精界のみんにゃはとっても頭がかたいから、ちょっとくらいペチーンって叩いてあげたほうがいいんだよ。お話は、きっとそれからだと思うから!」
 …うーんこの。
 前々から感じていたことではあるが、この小事も大事も気にすることない奔放な言動と行動力。
 誰かさんによく似てるなと思う一方で、その誰かさんにより近くなっていってる気がしてならない。
「ん?」
 俺の向けたじとっとした視線に気付いているのかいないのか、薄い笑みを浮かべて俺を見返す由音は放っておく。
「了解了解、勝手にしてくれ。まったく人の気遣いをなんだと思ってんだか」
 誰にでもなくひとりごちて、俺は最後の難関へ取り掛かる。
「…………あのー、静音さん」
「私も行くよ、もちろん」
「…いや……えっと」
「私の“復元”は有用だと思うよ。守羽や由音君の好きなゲームで言うところの『僧侶』って役職に近いんじゃないかな」
「それは…うんー…」
「足手纏いにはならないから。もし邪魔だと感じたら捨ててもらって構わない」
「んなことしませんけど……いやだから危険でしてね…」
「守羽、お願い」
「うんはい一緒に行きましょっか」
 駄目だった。勝てるわけなかった。もうやめてその涙目上目遣い。俺が死ぬ。
 こうして|戦士《お れ》、|武闘家《ゆ い ん》、|僧侶《しずねさん》、|遊び人《シェリア》のパーティーが出来上がった。何気にちょっとバランス良いのが余計に悩ましい。
「んで!?すぐ出んのか?今すぐ!」
 話が纏まった途端に活き活きとした様子で立ち上がった由音が叫ぶが、それには首を振って片手のジェスチャーで座らせた。
「そんなわけねえだろ。こっちだって準備だのなんだのある。俺はいいけど、お前や静音さんだってしばらく家を留守にする言い訳や用意が必要だろ」
 一日二日で済む話とも限らない。俺達が乗り込むのはこことは違う一つの世界。一刻を争う状況だというのは承知しているが、万全を期することなくして成功はありえない。
 どの道、都合よく俺達学生にとってはある一つのイベントが差し迫っている。
「明後日には終業式、夏休みが始まる。動き始めはそれからだ。二日の内に準備を整えておいて、妖精界に乗り込むのはそれからにする」
 おそらく後にも先にも、これほど濃厚で慌ただしい夏休みなんて来ることはないだろう。
 父親が連れ去られたにしてはわりと悠長かなと自負しつつも、俺はふと窓から差し込む強い日差しに目を細めながらこれからのことを薄ぼんやりと考えた。
 厳しい戦いになる。これまでよりもずっと厳しい戦いに。
 そしておそらくこの一件。今現在手中にある情報とこれから展開されるであろう状況への予想、そして異能と人外に関わってきて培われた長年の勘を合わせて導き出される一つの予感がある。
 単純には始まらず、単調には終わらない。
 イレギュラーなんてのは、どこにでも転がっている石ころ一つからでも発生する、どこにでもあるものでしかないことを、俺はよく知っていたから。



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「―――やはり、奴等は何処かへ向かうようです。戦力を集め、何やら話しておりました」
「クカッ」
 偵察に出ていた配下、牛頭の報告を受けて大鬼・酒呑童子は短い笑いを漏らした。
 粉砕し倒壊し、既に数えるほどしか残っていない廃ビルの内の一つを再び根城として、鬼達は簡易的な寝床として錆びれた部屋を陣取っていた。
 紺の袴のみを着用し、何も衣類を羽織ることすらしていない晒された上半身は薄い白煙を上げ続けていた。消失した右腕の切断面からはさらに濃い白煙と肉の焼ける悪臭。
 神門守羽との決闘で身動き一つ困難になっていた大鬼は、今や体こそ壁に預けているもののしっかり一人で身体を支え、片膝を立てて起き上がっていた。左手にはほとんど中身の残っていない酒瓶を握っている。
「思ってたよりずっと早かったな。もうちょいゆっくり出来ると踏んでたんだが、まァ野郎にもなんか急ぎの用があるってこった」
 言いつつ、左手に持つ酒瓶を傾けて右腕の切断面に残る酒を全てかける。熱された鉄板に水を落としたようなジュバッという音を上げて酒が白煙に紛れ瞬間蒸発する。
「さァて、次はなんだ?どこへ行き何をする?何と対峙する?あるいは怪物、あるいは化物。あるいは…オレを越える『何か』か?クッ、カカカッ」
 空瓶を床に置くと、すぐさま傍で控えていた馬頭が空の瓶を回収して代わりに溢れる手前まで酒で満たされた一升瓶を手渡す。親指で蓋を押し飛ばし、ゴッゴッと酒とは思えぬ速度で飲み干していく。
「ぷはっ。…クック、神門守羽に吹き飛ばされた腕を生やすまでに、あと二日程度は欲しいところだが、はてさてどうなるもんか」
「と、頭目…まさかとは思いやすが…」
 おそるおそる、新たな酒を渡す馬頭が訊ねる。
 次の酒も水を煽るように飲んで、酒呑童子は当たり前のように答える。
「人間に手出しするな、危害を加えるな、騒ぎを起こすな。オレに勝ったあの野郎がオレへ命じた内容だ。つまりこりゃ、余所で起きた騒ぎに首を突っ込むことは別に構わねェってこったろ?日本語ってのは難しいなァ馬頭?」
「しかし頭領、そんなお体で一体何を…」
 動物の顔で冷や汗を垂らす牛頭が問うと、今度こそ酒呑童子は訊かれたことの意味すら図りかねると言わんばかりの表情になって、
「テメェ何言ってんだ?このオレ様をして、酒を飲む以外に興味を向ける事柄なんざいつだって一つしかねェだろが」
 逆立つ赤髪がザワリと風もなく揺れ、一本角の周囲からパチパチと静電気のようなものが弾ける。
 大鬼の強力な回復能力をもってしても一日ではまるで完治に至らなかった全身から立ち昇る白煙を呑み込んで、その内側から闘気がオーラとなって噴き上がる。
「神門守羽は必ずデケェ戦乱を引っ提げて動く。アルやそれ以上に面白ェ連中とぶつかれる機会もあるはずだ。そう考えたら…なァ?……クッ、クク。クカカッカカカカカカ!!」
 少年のようにワクワクとした表情で高笑いを続ける鬼の圧力で壁面や床面、天井に亀裂が走っていくのを見た牛頭馬頭が、慌てて首領たる酒呑童子へと酒器と酒瓶を手に酌を始める。
 瀕死の鬼神が万全の状態へ戻るまでに、そう長い時間は掛からない。



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 まず最初に目を覚ましたこと、つまり生きていることに驚いた。
 あの世など微塵も信じていない彼にとっては、今ある世界が現世のそれであることは疑いようがなく、だからこそ自分が適切な手当てを受けベッドに寝かされていることに疑問を抱いた。
「やっと目ぇ覚ましやがったか、陽向日昏」
 声に反応して体を起こそうとした青年、日昏は直後に全身を襲った激痛に顔を歪めて硬直した。
「起きんじゃねーよ、せっかくあたしがしてやった手当てを無意味にしやがったらくたばる前にあたしがその首掻っ捌いてやっからな」
 ベッドから離れた位置で、パイプ椅子にどっかり腰を降ろして足を組んだ女性、四門操謳の姿がある。
 ざっと周囲を見回してみれば、ここはどこかのプレハブ小屋であることがわかる。人の管理から離れて長く放置されたことが窺える茶色の錆に覆われた壁や天井に反し、自分の寝ているベッドや四門の座るパイプ椅子などが比較的真新しく見える。どこかから奪って来たのだろうか。
 ひとまずは手当てをしてくれたと言う四門へ礼を述べようと口を開きかけて、それを予想していたのか四門がそれより早く言葉を割り込ませる。
「これで前に受けた手当ての件はチャラだ。本当なら公園で黒焦げになってたてめーを担いで運んでここまで連れてきてわざわざ小奇麗なベッドまで用意してやった分も支払いを要求してーとこだが、まあそれはツケといてやる」
 少し前の神門守羽との戦闘でかなりの深手を負わされ倒れた四門を、日昏が甲斐甲斐しく看護したことを言っているらしい。意外と義理堅い奴なんだなと、日昏は無言のままに僅か微笑む。
 未だ神門守羽との怪我が完治していないらしく所々に包帯を巻いた四門が、日昏の状態を軽く一瞥して椅子から立ち上がる。
「起きたんならもういーだろ、いつまでもお優しく面倒見てくれるだなんて愉快な勘違いすんじゃねーぞ。あとのことは適当に、呼び寄せた『四門』の家の従者に任せてある。負け犬はおとなしく療養してな」
「……まて、四門」
 全身火傷ばかりか、喉まで焼けたらしい濁った声を吐き出すようにして、日昏は背中を向けた四門を呼び止める。
「お前、は……また、守、羽を……狙う、のか」
「たりめーだろ。連中を殺すまで死ねねーんだよあたしは。何度言わせりゃ気が済むんだてめー。『神門』亡き今、あたしには家系のお役目の一つすら残されちゃいねえ。…言っちまえば、復讐に駆られる空っぽのてめーと大差ねー」
 『四門』とは『神門』の為に在る。その神門を殺した旭や、その息子へ殺意を向け続けているのは日昏も知っている。
 つまり四門操謳の憎しみは、役目を果たすべき『神門』の継承者が存在しないことで発生している。
 そこまで考えが行き着けば、あとの誘導は容易い。
 決着の後に旭から頼まれた内容を思い出しながら、多少の罪悪感を覚えつつも日昏は背中からでも分かるほどのおぞましい負の感情を渦巻かせる四門を焚き付ける言葉を投げる。

「……いや、からっぽとは、…限らない。お前の望、む……『神門』を、継ぐ者は…ちゃんと…いたぞ?」
「………………―――あ?」




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 世界は盤上ではなく、人は駒ではない。
 故に誰がどこでいつ動くのかは誰にも読めず。故にイレギュラーなど当然のように発生する。
 だからこれも、予想こそ出来なくとも、起こること自体に不自然は無い。
 読める範囲にいるものが予想外の行動を展開し、読めない範囲のものがさらにその展開を掻き回していく。
 世界の事象は単純には始まらず、幕引きも単調には終わらない。
 それは、何も人の世界のみに適用される法則では、決してない。
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