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第十二話 誰が為に老犬は語る

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「仲良きことは美しきかな」
「あ?」
何事もなく家に帰り着くと、家にはまだ誰もいなかった。父さんはいなくても不思議ではないが、珍しく母さんもまだ帰っていないらしい。
口裂け女が徘徊しているかもしれないことを考えると少し不安だが、一応ヤツの動きは人面犬・カナが臭いである程度把握しているらしいからそこまで心配することもないとは思う。
ひとまず中庭にて、俺は冷蔵庫に入れてあった麦茶をコップに注ぎ、カナにも牛乳を入れた小皿を置いてやる。
気に入らなくても、人外が相手でも、恩義は恩義だ。コイツには一度、口裂け女からの攻撃を庇ってもらった恩はある。種を蒔いたのもコイツだが。
それを差し引いても、牛乳くらいはくれてやろうと思った。
「君と久遠のことさ。君は人外相手には不器用そうだが、人間を相手にすると思いの|外《ほか》真正直に優しさを表に出すようだな」
牛乳を舌で舐めながら、カナは老齢の声音で言う。
それに対し、俺は肩を竦めて、
「俺は人間だ。|お前ら《じんがい》ならともかく、同じ人間を相手に冷たく当たる理由はねえだろ。…」
少し間を挟んでから、それに、と続けて付け足す。
「あの人は俺にとっての『特別』な人だ。俺にとっては大切な人だ。嫌われたくないし、迷惑を掛けたくもない」
俺だって万人に平等に接しているわけじゃない。そんな器用な真似は出来ないし、やろうとも思わない。
俺は俺の好きな人の為だけに動く。力になりたい人の為に動く。
「…実に人間らしい言い分だ。本当に、君は人間らしい」
「何が言いたい」
含みのあるような言い方に、俺は若干の苛立ちを覚える。
カナは小皿から顔を上げて、中庭に立つ俺を見上げる。
「君が|人外《わたしたち》を嫌厭する理由はわかっているつもりだ。『鬼殺し』の評判は、愚かしくも自らの実力を過信し君を喰らいに向かった者達の死体の数だけ広まっている。さぞ、七面倒な日々だったことだろう」
思い出したくもない昔の記憶を想起させ掛けて、俺はカナから視線を逸らし手に持つコップに満たされた麦茶を一口飲むことで気を紛らわせる。
「私達を煙たがる理由としては充分に過ぎる。だが、君は、おそらくそれだけではない」
「何が言いてえんだ、っつってんだクソ犬。ジジイの話は大体要領を得ないってのは人間も人外も変わらないのか?」
俺が黙っているのをいいことに話し続ける人面犬の話を聞き続けるのも、流石に限界だ。
「……そうさな。それは私の役目ではないか。所詮は一介の人外。君に説く立場には到底至らない。老婆心ながらにと思うたが、要らぬ世話だったな」
「いい加減にしろよテメエ。馬鹿にしてんのか」
「いや済まない、そういったつもりは毛頭無い。ただ段階を踏んだ方が君にとっての負担も少なそうだという話だ。思った以上に、君は自身の自覚に頑固なようなのでな」
意味のわからないことをつらつらと並べ立てるカナにイラついたまま、今度は俺が思ったことをそのまま口に出す。
「警告だの老婆心だの、人外の犬畜生のクセになんのつもりだ。人間のことを喰らうか襲うかくらいにしか考えてねえテメエが、何を説こうってんだ」
心当たりだの自覚だの。コイツは何かを知った風な口を利く。まるで俺が知らない俺のことをわかりやすく教えようとしているかのように。
だがそれがわからない。俺は俺のことを誰よりも知ってるし、俺が知らない俺のことをこの人面犬が知っているはずがない。知っていていいはずがない。
コイツの考えてることが、俺にはまったく読めない。
「いや…説くつもりは、もう無い。やはり私がやるべきではなかった」
誤魔化すように、人面犬はズズと牛乳をすすり、思い出したようにこう続けた。
「それと君は誤解している。私は人間をそんな風に見てはいない」
「どうせお前だって、人間を害するような本能に突き動かされて生きてるんだろうが」
それは、例えば人を転ばせ斬り付ける妖怪のように。
嫌々でも、好きでやっていることでなくとも。
ヤツらの本能は、人を問答無用で傷つける。
「確かに。私は走る車を追い越して驚かせ、その車に事故を引き起こさせるという『都市の噂』の本能がある。まあ、今は道行く人間に声を掛けて|吃驚《びっくり》させるという|本能《ノルマ》を達することである程度存在意義を定着させているが」
人外の本能たる存在理由は一つに限らない。複数の噂や伝承があれば、その数だけ本能は分離する。
カナは人を傷つけない方向で本能を達成しているらしい。
「人外の本能は、人を害するものだけではない。例えそうだとしても、回避する方法や抜け穴はどこかしらにある。私も、無意味に人間を傷つけるような真似はしたくない。君らは|尊《たっと》ぶべき存在だと、私は考えている」
「…何でだ」
人が人ならざる者を信仰し、崇め奉るのはまだわかる。
自らの存在が届かない領域にある存在を、人は恐れ、あるいは敬うものだから。
だが逆は違う。自らの領域に届かない|存在《にんげん》のことを見下すのは人外達の基本思想だ。
人面犬は、一体何を思ってその思想を抱くのか、俺にはわからなかった。
「なんでお前は、そこまで人間を想う」
自然と、俺は疑問に対する答えを求めて口を開いた。
「なに、簡単な話だ」
小皿の牛乳を全て舐め取ったカナは、顔を小皿に向けたまま言葉を紡ぐ。
「私自身が人間に救われたからだ。同時に、人間に襲われ、また助けられた。その過程で知ったのだよ。人間が自分の為に行動するのは当然として、違う誰かの為にも命を張れるものだということを」
「……」
「私達の大半には無いものだ。本能という枷と衝動に突き動かされて自らの為だけに動く私達の殆どは、他者の為に動くということを知らない」
「それは、お前もか」
「ああ、私もその例に漏れなかった。そして今は人間に教えられて、こうしている。だからこそ今、私はこうして君の前に在る」
「だから、なんの話だよそれは」
一向に要領を得ない、何かを含んだ言い方に俺は怒りも苛立ちも通り越して呆れながらも再度その話の真意を問う。
「答えは君が自分で見つけなさい。私には方程式と解法を伝えるのまでが限度だ」
柴犬の|面《つら》が、日の落ちた薄闇の中で一瞬だけ白髪の老人の表情に見えた。
「君には話しておこう。私の長い人生のほんの一欠片にして、記憶の価値の大半を占める僅かな数年間の出来事を」
俺の返事を聞くより先に、いや聞くつもりもなく、人面犬は一方的に喋る。
無駄な時間を省いているような、急いているような雰囲気を漂わせた、この人面犬らしからぬ話し方だった。
「耳に入れるだけでいい、断片的に覚えておくだけでいい。これは君に聞かせることに意味があり、君が耳を傾けることに意義がある。そんな話だ。年老いた爺の話を、少しだけ聞いてくれ」
もう随分と前の話になる。
私は人面犬として、それらしい行動に励んでいた。
主に高速道路を縄張りとして、深夜に通る車を狙い脅かした。殆ど走行している車両がないのをいいことに速度を出して走っていた車に並走し、この犬の身と人の顔の混合した身を見せて驚かせた。それによりドライバーはハンドルを誤り、事故を起こして高確率で死んでいく。
そういったことを繰り返していた。
そんな折、一人の人間が私の前に現れた。

「人面犬、か。知名度補正はだいぶ高そうだが、まぁ、勝てない相手じゃねえな」
「…その臭い、ただの人間ではない。何者か名乗り、私を訪ねた目的を話しなさい」
「ヒナタ。ただの退魔師だよ、目的はーーーテメェの抹殺だ、害悪」
「なるほど。では死因は事故死ではなく|噛殺《ごうさつ》となるな」

激闘、と言えた。
結果として私は敗北し、致命的な傷を負ってその場から這う這うの体で逃げ出した。
ヒナタとはおそらく退魔の家系の者の名だったのだろう。奴は不可思議な術を使い私の力の半分ほどを削ぎ落とした。
だがそのおかげかもしれない。人外の気配を掴むらしい奴から力を半分失くした私はどうにか逃げ切れた。
しかし傷は深く、それ以上は一歩たりとも動けなかった。倒れ、薄れゆく意識の中でも、私が思うことは何もなかった。ただ、人を脅かすだけの化物としての人生だったと、他人事のように笑った。
目を覚ました時、私はどこかの建物の中にいた。

「あ。目、さめた?おとーさーん、わんちゃん起きたよー!」

幼い人間の少女が私を間近で見て、誰か(おそらく父親だろう)を呼びに行ったのを寝起きの頭でどうにか理解した。
少しして、ここが動物病院であることがわかった。同時に、あの少女の父親が獣医であることも。

「よかったねーわんちゃんっ。おとーさんはもうだめだってゆってだけど、やっぱりだいじょーぶなんだって!げんきになるまでここにいていいからね」

獣医の父親はとりあえずの治療はしたものの、あまりの傷の深さに半ば匙を投げていたらしい。が、予想を上回る治癒速度を前に掌を返した。
ただの人間の獣医ならば、最初の判断で正しかっただろう。だが私は人間の常識を超えた身。かろうじて命は繋がった。

「わんちゃーん、ごはんだよー!だいじょーぶ?いたくない?あーんしてあげよっか?あたしいっつもおかーさんにしてもらってるの!」

幼い少女は毎日毎日甲斐甲斐しく私の面倒を見た。
倒れた私を運んできたのもこの子であるらしい。服を私の血で汚しながら、必死で家まで引っ張ってきたという話をこの子の父親と母親がしているのを聞いた。
力が削ぎ落とされたせいで私の象徴でもある人間の面という部分も失せてしまい、普通の柴犬のような外見になっていたのが幸いだったと見える。人間の顔を持つ犬であれば少女も助けようなどとは思わなかったはずだ。
両親共に、ひとまずは傷が治るまではここに置いておくことを許可してくれたようだ。
少女は両親から|奏《かなで》と呼ばれていた。
奏は朝起きるとずっと私の隣で背中を撫でたり毛をいじったりしていた。学校から帰ってくると今日あったことを楽し気に話し、頭を撫で、そして私にじゃれた。
どちらが犬かわからなかった。
やがて私の傷は着々と癒え、完治に近づいた。
しかし私は少女から離れようとは思わなかった。
興味が湧いたのだ。人間というものに。
これまでは自らの存在を刻み付け存在を維持させる為の手段の一環、その道具としてしか見ていなかった人間に、興味が湧いた。
血に濡れ死にかけていた犬を必至に引き摺ってまで助けようとした少女に興味が湧いた。
この時から、私はもう人間をきちんと『人間』として見初めていたのだろう。
傷が完治したその日、私は奏の必死の嘆願もあり、両親にも認められ晴れて奏のペットとなった。
|従者《ペット》、という呼ばれ方には少し思うところもあったが、私の方がこの子よりよっぽど長生きなのだ、その程度の些事には目を瞑ろう。この危なっかしい少女は、すぐ私の前で転んで泣いてしまうのだから傍にいなければなるまい。
私が利口な犬だと判断した両親が、奏のお目付け役として私をペットにすることを認めたのかもしれないと勘ぐるほど、奏は良く動きよく転ぶ子だった。

「わんちゃんはなまえがないもんねー…。うんっ、あたしのなまえをわけてあげるね!」

奏が、私にカナという名を与えてくれた日でもあった。
それからの数年は満たされた日々だった。
毎日学校から帰るとすぐさま奏は私を散歩に連れ出し、私は先導して道の安全を確かめながら首のリードを引っ張って歩く。
本人は私がはしゃいで先を歩いていると思っていたようだが、それは違う。君の為だ。小さな石ころ一つでも、君は器用に躓いてしまうから。そうなったらすぐに私が地面と奏の間に割り込みクッションとなる。
その都度、奏はえへへーと笑って私に抱き着いてきた。ふわりと香るその匂いが、私は好きだった。
最初こそ、数年ほど経てばそのまま姿を消すつもりだった。そもそも人と人外とでは寿命が違う。既に私は奏の十倍以上は生きているのだ。まだまだ奏が大人になっても私は天寿を全うするには余りあるだろう。
明らかに犬の寿命を超えていることは、いずれ必ず疑問に挙がる。その前に姿をくらませようと考えていた。
だが、この時にはもうそんなこともどうでもよくなっていた。
あまりにも心地良過ぎた。この少女との日々は、心安らぐ安穏の日常は。
この子が望んでくれるなら、私のことを必要としてくれるのなら。
私はこの先誰かに気味悪がられようと、この姿で何年何十年でも君の為に生きよう。
そう、本気で思った。
奴等が来るまでは。

「夜な夜な口を利く犬が出没するって噂を辿って来てみれば、ドンピシャか。元気そうで忌々しいぜ、害悪」
「……全く、かつての悪事が巡り巡ってここに来たか。私には相応の罰かもしれないな」

ヒナタとの再会。しかも見知らぬ顔がもう一人。
接近は臭いで知っていた。あの子を巻き込むわけにはいかない。負け戦を覚悟して、私は退魔師と対峙した。
本来の半分の力しか出せない私には、初めから勝ち目など微塵もなかった。

「…止めだ。これ以上は意味がない」
「あ?なにをほざいてんだテメェは」
「……?」

手負いの私の前に、見知らぬもう一人が割り込んできた。
おそらくは同じヒナタの血族であろうその者は、仲間となにやら諍いを起こし始めた。

「死者は出てない、たいして大きな騒ぎにもなっていない。これじゃ退治する条件には合わない。彼は人間に対して無害だ。殺す意味がない」
「今は、だろ。前は殺してた、騒ぎにもなってた。だからオレが出張ったんだろが。殺しそびれてたから、今こうして殺し直してんだ。意味はあんだろ」
「…相変わらず、お前とは話が噛み合わないな」

軽く溜息を吐いたヒナタの一人は、私を見て視線で逃走を促した。見逃してくれるらしい。
無言で私は逃げ出した。ヒナタを前にしての二度目の逃走は、何故か同じヒナタが手助けをしてくれた。
しかしそんなことはどうでもいい。
帰ろう。あの家に。あの子の元に。
怪我をしてしまった。また奏が泣いてしまう。どうしたらいいだろう。またあの父親に手間を掛けさせてしまう。また怪我が治るまで奏が面倒を見てくれるのだろうか。ああ、それも悪くはない。今度はもっと甘えよう。あの時には出来なかったことを沢山しよう。私の方が長生きだが、私の飼い主はあの子だ。たまには私が犬らしくべったりしても文句は言われまい。きっとあの子は笑って私に構ってくれる。学校に行く時間になっても私を撫でて、きっと母親に怒られて慌てて出て行くのだろう。帰ってくる時も大急ぎで。私に抱き着きながらただいまと言うんだ。そうしてまた夕飯までの間、私を抱き枕のように扱ったり毛を梳いて遊んだりするのだ。
そんなことばかり考えていたから、私は気付かなかった。
いつの間にか私は夜の道路の真ん中を歩いていて。
その夜中の道路を一台の車がかなりの速度を出して走行していて。
それはちょうどあの子のことを考えていた私の前まで迫っていて。
そしてあの子が、車のライトに照らされて私を抱えていて。

「……ぅ。カナ、ぁ……」

返事をしたかった。言葉を出したかった。
喉が干上がっていた。何も言えなかった。いつもあの子の前で出す犬としての鳴き声すら、口から出なかった。
なんで、ここに。
夜中にいなくなった私を、探しに来たのか?事故に遭いそうな私を見つけて、飛び込んできたのか?
わからない、解らない、判らない。
わかることはといえば、一つの命が消え掛けているということだけだった。
車が追突してきたくらいじゃ、私は死なない。いくら傷を負っていたって、その程度じゃ私は死ななかったのに。
それを知らなかった奏は、私を庇った。その命を懸けて。
そうだった。今更ながらに思い出した。
人間はこうなのだ。自分の為のみならず、他者の為にも平然と命を賭す。
昔の私であれば絶対に出来なかったことで、今の私であればきっと出来たであろうこと。
君の為であれば、きっと出来たはずだ。君の為なら、私は自分の命など投げ捨てて尽くせたはずなのに。
なのに、どうして君が私の為に命を落とす?

「カナ……だい、じょうぶ?…いたく、ない?」

消え掛けている自らの命のことなど構いもせず、奏は私へ手を伸ばす。血塗れの手で、私の頭に手を乗せる。
あの時とは逆だな。血塗れなのは君で、見ているのは私。
あの時、君はこんな気持ちだったのか。こんな、心臓が締め上げられるような気持ちだったのか。
何がなんでも助けたいと、そう思っていたのか。
私は、私が死に掛けていた場面を目撃した奏がその時どんな気分で何を思っていたのかを、同じ立場になって初めて知った。
知らなければよかったのに、知ってしまった。

「えへへ…よかっ、…た…」

最期に、奏は満面の笑みを浮かべて、私の頭を力なく撫で、その手を地面に落とした。
自分が死ぬことの恐ろしさより、奏は私が無事だったことの喜びを優先させた。
そんなこと、ありえるのか。
自らの死を受け入れて、他者の生を喜べるのか。
ああ、ありえるんだろう。
今の私になら、それがわかる。私が奏の立場だったら、やはり私も同様の反応を示すだろうから。
失われていく奏の体温がこれ以上逃げていかないように、私は奏の体に寄り添って温めた。
全く意味がないことだと知っていながら、いつまでもそうして奏の体に密着して肌に触れ続けていた。
そうして、私は初めて失いたくないと思えたものを、初めて失くした。
35, 34

  

「そして私はあの家を去り、各地を浮浪していた。そこへ口裂け女の襲撃、負傷。ここから先は君も当事者だ、説明は必要なかろう」
「…ああ」
なんともいえない過去話を聞いて、俺の口は無難な返事しか出せなかった。
「私の言葉を全て鵜呑みにすることはない。ただ、私が人間を軽んじていないことだけは理解してほしいものだ」
「なんで、この話を俺に?」
人間を尊んでいるということを説明する為だけに、こんな話を俺にしたとは到底思えなかった。それくらい、カナの話は容易に他人に話していいような内容ではなかった。
俺の当然とも思える疑問に対し、カナはしばし顔を俯けてから、
「…君にこの話を、この事柄を聞かせておくことが、私にとっての義務だったからだ。『鬼殺し』と呼ばれている君のことは、前から気になっていた。おそらく君は『そういう』人間だと思ったから。だから私は君に干渉した」
「……そうか」
相変わらず主語の抜けた、意味の図りかねるものだったが、とりあえずこの人面犬は俺に会うべくしてこうして会いにきたらしい。
その目的も、語った意図も曖昧なままにして。
まあでも、今はそれでもいいかと思えた。
目下、俺は成すべきことを成すだけだ。
「俺に話すことは、それで全部か」
「ああ。聞かせるものはこれで全てだ」
犬の面で器用に神妙な表情を作るカナに、俺も一つ頷く。
「臭いは」
「まだ遠い。見つけるのに苦労しているようだ」
麦茶が半分ほど残っているコップを一気に煽り、縁側にトンと置く。
「じゃあ行くぞ。ヤツの矛先があらぬ方向に行く前に先手で誘き寄せる」
いつまでもこうしていてはいずれ静音さんに害が向きかねない。そんなことはさせない。
「そうだな、後手に回っては……む?」
一歩踏み出した俺に続こうとしたカナが立ち止まる。
「どうした」
「…神門、単刀直入に言うが」
カナは振り返った俺ではなく、家の中庭と道路とを区切る塀の上を見ていた。
その視線を追い掛け、俺は“倍加”を巡らせた。
「先手を打たれた。アレは尖兵だ」
「今度はなんの都市伝説だよ…!」
そこには猫が一匹いた。それは猫のシルエットをしていたからこそ、猫と判別できた。
逆に、猫としての形以外は全て失われていた。
全身を隙間なく埋め尽くす真っ白の布。
ミイラ男のように、その猫らしき生物は目も鼻も口も胴体も足も尻尾も全て、包帯でグルグル巻きにされていた。
ハァァ、と呼気を吐き出す口の部分の包帯を突き破って、鋭く長い牙が突き出る。
四本足全てから、本来の猫の爪の数倍はある長さのそれが伸びる。
自分で呟いた言葉を反芻し、そして目の前の猫らしき生物のわかりやすい特徴から考察する。
真白の包帯。あれはある種の象徴だ。あの口裂け女も右手全てを包帯で覆い象徴を獲得していた。そしてあれは、同時にあの大太刀の本来の所有者に通ずる共通項でもある。
全身に包帯を巻き、刀で人を斬り殺す都市伝説。
「トンカラトンだったか。こんな能力まで持ってやがったのかよ!」
「アレは斬り殺した相手を自らの同類にするとも伝えられている。口裂け女め、野良猫を斬殺して配下にしたな」
さらにそれだけではなかった。
強化された五感の内、まず聴覚がそれを捉えた。おかしな鳴き声とも悲鳴ともとれる音が空から聞こえ、次に視覚がその正体を見抜いた。
白い鳥、と最初は認識した。そしてすぐにそれが間違いだったと気付く。
正しくは白い包帯を隙間なく巻かれた鳥。
数は十ほど。
「白い|鴉《からす》か。亡きカール・ヘンペルがこの場にいたら手を叩いて喜ぶのではないか?」
「何言ってんだお前」
「カラスのパラドックスは知らないか。余暇があれば調べてみればいい」
「暇があればな」
無駄口を叩くのはここまで。
コイツらに見つかった以上、口裂け女にもここの居場所はバレたと見ていい。早いとこ人気のない場所まで移動しなければ。
「蹴散らしながら逃げるぞ。遅れんなよジジイ!」
「まったく近頃の若者は。老体を労わることを知らんな」



「ーーー」
邪魔になることはわかっている。
足手纏いになることは当たり前だ。
しかしだからといって、今現在身を削りながら戦っている彼を、ただ家に引き籠ったまま想うだけなのは嫌だった。
「…守羽」
自分にも、少なからず利用価値はある、と思う。
この身に宿る異能は、あるべきものをあるべき形に戻す。
あるべきものが割れたのなら、割れた前の状態に。
あるべきものが砕けたのなら、砕ける前の状態に。
傷ついたのなら傷つく前に、怪我をしたのならしていなかった状態に。
それは彼女の認識の内にあるものなら、あらゆるものをあるべき形へ戻す力。
“復元”の能力。
それは無機物、有機物を問わず。それは生物、非生物を問わない。
こと荒事には向かない能力だが、これでも彼の役に立ったことはある。
多少くらいは、力になれるのではないか。
彼が傷ついていることを思いながら部屋でただじっとしているだけなのは、彼女にはとても堪えられなかったのだ。
「ごめんね」
この場にはいない彼へ向けて、先に謝っておく。
彼には悪いと思っていながら、やはり彼女は彼のもとへ赴く。
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