第九話 『切札は盲目に映る』
「あ、思い出した」
牌を引く前に、慶がぽつりと呟いた。
「お前、こないだポーカーしてたやつだ」
「……ああ?」
いきなり言われても、まさひろには思い出せない。バラストグールは常に勝負に駆られていて、いちいちどの種目で誰とぶつかったかなど、覚えていない。
「……あんたとぶつかったことは、ないと思うけど」
「いや、そうじゃなくってさ。お前、〈ポーカーゴーレム〉とやってたんだよ」
「ああ……」
まさひろは苦い顔になった。ポーカーテーブルのゴーレム。彼らは口を塞がれ目を覆われた白髪の泥人形だ。普段、バラストグール同士が多人数でポーカーを嗜む際にディーラー役になりカードを切る。だがテーブルに誰もいなければ、〈ポーカーゴーレム〉と一対一でバラストグールが勝負を挑むことも可能だ。〈脂貨〉も低額だが賭けられる。まさひろも、バラストグールを相手にするよりは、〈ポーカーゴーレム〉でちみちみと脂貨を張っているような側だった。いわば日銭稼ぎで、泥人形相手に勝てないようじゃ先はない。だが、まさひろはあまりポーカーが得意ではなかった。まさひろを見たことがあるということは、負けるところを見たことがあると言っているのと変わらない。
「あれはきつい負け方だったよな。覚えてるよ、お前確か、クイーンのワンペアだった。で、ありったけの脂貨をポットに突っ込んだ。ディーラーはキングペア。……有り金ほとんどスッたろ、あれで」
「……だったら、なんだよ? 俺がへたくそだって言いたいのかよ。そんなこと、あんたに言われなくったって……」
「いや」
慶は牌を引いた。それを確かめてから伏せ、
「お前、いい腕してる」
「は、はあ? なにを馬鹿なこと言って……俺はスッたんだぞ? いい腕も何もないだろうが」
「でも、お前の読みは、当たってただろ」
伏せた目の先に、過去の相手の背中が見えているかのように慶は語った。
「少なくとも、ディーラーはエースを持ってなかった。だいぶ迷ってたのは、相手がエースかどうか。そうだろ? キングにもクイーンは負けるとか、そういうことじゃない……お前は『エース以外には突っ込む』と決めてた。そして、相手はエースを持ってなかった」
当たっていた。
まさひろは、背後に誰が立っていたかも知らなかったのに。
賭博師は言った。
「お前は間違ってなかった。正しかった。だが、負けた」
「……それが、どうした?」
「いや、なんとなく思い出した。それだけ。――ええと、俺か」
牌を引き、手牌を小さなジオラマ模型のように俯瞰し始めた慶が、まさひろにはただただ不穏だった。いまの語りの意図はなんだ、揺さぶりか? 形勢不利と見て、まさひろの勇み足を止めにきたのか。
(それが賭博師のやり方ってやつなのかよ、真嶋慶……!)
ポーカーゴーレム相手に無様に負けた記憶を掘り返されて、自信に影が差さなかったといえば嘘になる。かき集めてきたありったけの力が、氷のように溶けていくのを感じる。あとに残ったびしゃびしゃの気持ちの中で、まさひろは慶が〈六眼の溝鼠〉の念牌を打ち、〈襲撃〉をせずに手を差し出してくるのを見た。どうぞ、というわけだ。やれるものならやってみろ、と。
勝負の最中だった。
まさひろは牌を引く。きゅっと牌を揉んでから見えたのは、〈単眼の溝鼠〉。
最弱の一枚。
戦力の足しにはならない。まさひろは、いまある手牌の中から、五枚目の牌を選ばなくてはならない。そしてもし、次順に決着をかけにいくなら、いま選ぶ牌が勝敗を分ける一枚になりかねない。
手牌は、この六枚。
まさひろ 手牌
〈三眼の黒豹〉3/3
〈四眼の溝鼠〉1/4
〈六眼の溝鼠〉1/6
〈五眼の黒豹〉3/5
〈単眼の黒豹〉3/1
〈単眼の溝鼠〉1/1
選択肢は依然として、二つ。壁を築くか、弾幕を得るか。
まさひろ 河
〈六眼の闘牛〉2/6
〈三眼の悪魔〉6/3
〈三眼の飛竜〉5/3
〈単眼の飛竜〉5/1
河を見れば、打点はすでに十八点。だが、手牌の中に強牌はもはや無い。ここから追撃するとなれば三点の〈黒豹〉、攻撃点二十一点で決着をしかけることになる。
(……足りない、か)
充分な打点とは言えない。まさひろの目には、まだ六点防御牌が二枚しか見えていない。残るは実質、〈六眼の悪魔〉を抜いた三枚。
その三枚が相手の場にごっそり眠っていれば、鉄板だ。どう足掻こうと突破力を準備できるような壁ではない。
まさひろの剣は鉄塊に撃ち砕かれて終わる。
代償は大きい。
伏せられていた駒はすべて開け放たれ、その中のどれか一枚を喪失。戦線崩壊といっていい。
この高すぎるリスクのために、〈シャットアイズ〉ではどちらもリーチをかけられず、いたずらに牌を並べるだけ並べて流局することが少なくない。
「…………」
まさひろにも、逃げる手段がないわけではない。
この順、〈六眼の溝鼠〉を置き、ひとまず慶に手番を返す。慶の河には〈六眼の溝鼠〉が念牌されているから、まさひろは真牌で打たない方がいいだろう。適当な煙幕を張りながら、一度だけ、慶の様子を見る。何事もなく手番が戻ってきたら、まさひろは選べる。〈六眼の溝鼠〉がある場合の五枚の攻撃打点は十九点。最低限とはいえ決着をかけにいける打点ではあるし、そこからさらに引いてきた新たな牌か、手持ちの〈五眼の黒豹〉で打点も防御もさらに磐石にしていくことも可能。
そう考えると、ここは防御が正着手でしかない。
なにがあろうと、〈襲撃〉がかかってこない限り、まさひろは先攻有利を守っていられる。
どうしても場が読み切れなければ、このまま流局して再戦――次戦に強壁牌を連続して叩きつけて圧勝、そんな展開もありうる。
逃げる、という選択肢はいつだって簡単だ。
誰でも取りやすいようにそこに置いてあり、なおかつそれに最善の値札がついていることさえある
。取ってみるまでは分からない、だが取ることを誰も止めない。
それが『逃げる』。
勝負を避ける。当然のこと。
相手は賭博師。まさひろは違う。
(……この四枚)
まさひろは、己の場を見た。慶の河ではなく。
並んだ四枚は、綺麗に真牌で揃っている。読みがあった、理由もあった。それでもまさひろがやったことは、おそらく〈シャットアイズ〉におけるもっとも愚劣な作戦のひとつだろう。
すべての牌を、真牌で打つ。
何一つ隠されていない、綺麗な四打。
(真嶋には、この四枚がオープンされているとは、分かってない)
それは確かに、確実な情報だった。
なぜなら、真嶋慶がまさひろのこの異常な盤面、〈オープンアイズ〉を容易く察知しているというのなら、慶は手牌の中からもっとも弱い牌を選んで、まさひろの〈単眼の飛竜〉を殺しに来ているはずだからだ。〈三眼〉あたりも、黒豹がまさひろの手に集まっているとはいえ、打点四の魔兎あたりで始末したいはず。なぜならこの三枚は、真嶋慶の首筋に突きつけられた、まさひろの剣だから。
折りたい刃だ。
(やつにはそれが、読めてない……あるいは)
何もかも読み切って、あえて、待っているのか――まさひろのリーチ失敗から必ず繋がる〈カウンターリーチ〉を狙って。
(……そこまでの、やつなのか、あんたは)
慶が〈カウンター〉を狙っているなら、まさひろに選択肢はない――防御あるのみ。それでも希望は繋がる、次順、〈六眼の悪魔〉をまさひろが引くかもしれない。
それが戦線に突入すれば、あとは暴風雨だ。
慶の河をズタズタにしたあと、まさひろはゆっくり牌を曲げて料理といけばいい。
だが、まさひろが引いていない牌は、慶も引く可能性がある。
暗闇の中で、どちらがナイフの柄を掴み相手の胸に突き立てるか――そんな喧嘩を取るか。
それとも、いまこの手に握り締めているものを、〈刃〉と信じて突っ込むか。
どちらか一つ、ほかにない。
まさひろは――決して、落ち着きのないやつなどではなかった。
嫌っていただけだ。
逃げることを。
死ね、と心の中でだけ呟いて、
手牌から一枚、指から念をこめて、放つ。
まさひろ 河
〈六眼の闘牛〉表
〈三眼の悪魔〉裏・真
〈三眼の飛竜〉裏・真
〈単眼の飛竜〉裏・真
打〈五眼の黒豹〉裏・真
打点…21
眼数…18
五度目の、真牌。
これで、泣いても笑っても、まさひろの戦線には五枚が並んだことになる。まさひろにとっても、そして、
真嶋慶にとっても、正念場が訪れた。