第二話 『わたしはあなたが嫌いです』
ザルザロスは痛みに耐えるように、しばらく目を瞑っていた。それからゆっくりと、瞳を開ける。
「勝負の挑戦なら、誰からだろうと、受けてきた。だが、人形相手には、……俺の腕がもったいねえな」
「逃げるんですか?」
「ああ、逃げるね」せせら笑い、
「真嶋と決着をつけることからすら逃げたこの俺だ、いまさらお前ごときから逃げてもへっちゃらだぜ。――さあ、エンプティ、どうする? 俺にこういうふうに逃げられたら、お前はどうするんだ? ん?」
「……それは」
「自分の言葉が何を意味してるのか、よく考えてから使えよ」
「……それでも、わたしは、あなたと闘います」
「へぇ。なんで」
ザルザロス様、とシャムレイが氷色の瞳で主を制する。
「このような者の言うことなど、わざわざ聞くまでもないかと。……私が、排除いたします」
「黙ってろ、シャムレイ。俺はいま、あいつと話してる」
「……わかりました」
ザルザロスが軽くため息をつく。
「言えよ。なんで、俺と闘いたいんだ? お前にどんな『得』がある?」
エンプティはそれに答えず、手をかざし、ザルザロスが蹴倒したテーブルを触れることなく起こした。その上に、鷲づかみにしていた紙袋を逆さに振って、脂貨をぶちまける。
「これを、賭けます。わたしと闘ってください」
「それ、真嶋のだよな。お前には、脂貨を所有することはできないはずだ。……勝手に持ち出したのか?」
「はい」
「真嶋の差し金か?」
「違います。わたしは、自分でここに来ました」
視線を逸らし、
「……慶様を、欺いて」
「欺く、ね。ただのモノであるお前がか?」
ザルザロスはせせら笑った。
「いずれにせよ、お前で遊ぶ趣味はない。……失せろ。真嶋に言っとけ、お前にゃ人形芝居の才能はないってな」
「嫌です」
「しつこいなあ。壊されたいのか?」
ザルザロスは立ち上がり、エンプティの顎を掴んで自分の方へ向けさせた。抵抗されたが放しはしない。――本当に、このまま壊してもいい。
蹄の指に力を注ぎ込みかけたとき、エンプティがぼそりと呟いた。
「……です」
「あ?」
「わたしは、あなたが嫌いです」
なぜかそれは、
――ザルザロスの胸に、よく響いた。
「……へえ?」
「初めてお会いした時から、あなたを嫌悪していました」
エンプティはザルザロスの爪先から、指先、肩、胸、首筋、頬、そして瞳へと蝶が舞うように視線を動かし、細い枝先のような眉の下の眼光全てで己の意思を伝えていた。
「あなたを見ていると、なんていうか、なにか……なにか、とても尊いものが失われていくのを見ているような……そんな気がするんです。そして、それを目の当たりにしながら、なにもできずにいる、無力な我が身のことも、……思い出さずには、いられません」
「そりゃ、悪かったな。だが、お前にそんなことが分かるのか?」
「分かりません」
エンプティは言った。
「わたしは、それが知りたい……
あなたに勝てば、この気持ちがなんなのか、分かる気がします。だから……」
「俺と勝負する、か」
ザルザロスは、エンプティの顎から手を離した。
「お前も都合のいいやつだな」
「えへへ」
「褒めてない。
……ルールは?」
それを聞いたシャムレイが、掴みかかろうとしているかのように、ザルザロスに詰め寄った。
「……ザルザロス様、まさか、お受けになるのですか?」
「ああ」
「なぜですか? あなたにはもう、脂貨など必要ないのに……」
「そうだ。だから、こんなものはいらないな」
ザルザロスが右腕を即席のカーテンにして、テーブルから脂貨を全て床へとぶちまけた。
堕落したばかりの神鶴彰だったものが、鼻をひくつかせながら黄金の硬貨に口を押しつけている。
ザルザロスの赤い瞳が、
熱に潤んでいく。
「シャットアイズ、一ラウンド。ポットは〈敗者の消滅〉。それがお望みなんだろ?」
「……いいんですか?」
「お前が言い出したことだろうが」
牌箱を取り出し、それを赤いラシャ張りのテーブルにぶちまけて、洗牌しながらザルザロスは己の行動に疑問を抱かずにはいられなかった。
どう考えても、無駄な勝負だ。
だが――奴隷人形と真剣勝負をするのは初めてだ。
主人に刃向かう奴隷人形が生まれるのは、数十万機に一機くらいだろう。
いまを逃せば、もう二度と挑戦されることはないかもしれない。
フーファイターは、常に記憶を失い続けている。
もう、ザルザロスには、〈思い出〉と呼べるものがほとんどない。
これからもそれは続いていくだろう、最後に全てを忘れる瞬間まで。
金を奪ってきた、
生命を奪ってきた、
身体を奪ってきた、
信念を奪ってきた。
――だが、相手を〈記憶〉に残すために勝負したことなど一度もない。
爪先のそばで、落ちた脂貨が輝いている。
(……|REMEMBER《思い出せ》)
牌山が積まれる。
ダイスが振られる。
固く身を強張らせた奴隷人形と、|幽霊賭博師《フーファイター》が向かい合う。
視線は敵から逸らさない――
ほかのバラストグールからは奪えないものを、ザルザロスはいま、奪おうとしていた。
――|勝負師《かれ》らしいやり方で。