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速くなりたかった。誰よりも、速く。
音すら、光すら追いつけなくなる程。
ぼくは、速くなりたかった。





大空誠の目の前には、暗く濁った闇が広がっていた。一欠けらの光もないそこは、誠がよく夢で見た地獄に良く似ていた。
全身に重苦しく、思わず首を掻き毟りたくなるような重圧が圧し掛かる。体のどこかを動かそうとしても全く動かない、だが、今の誠にとってそれは幸運だった。
何かが動けば、この暗闇はそれを絡みとって、奥底に引き摺りこんでしまう、という事を分かっていたからだ。
ゆっくりと死んでいく自分が、足掻こうともしない自分に腹が立ったが、今さら、生きていたってどうしようもなかった。
だってぼくは負けたんだから。
負けた飛行機乗りに、生きている価値はない。なんて言ってたのは誰だ?


ぼくだ。


重圧はいつの間にか闇に溶け、その代わりに泥のような安寧が誠を包み込んだ。
暖かく、心地よい感覚が誠の体を覆い尽くし、戦争が始まった直後からきつく締まっていた精神が、少しずつ、少しずつ、しかし確実に解けてゆく。
硬直していた体は弛緩し、数分前まで指先すら動かなかった体は嘘のように動いた。一瞬、動いてしまっていいのかと誠は考えたが、最早手遅れと判断しゆっくりと体を胎児のように丸める。
もう、眠ってしまおうか。誠は半分寝惚けた頭でそう考える。ぼくは十分戦った。何機も落とした、何十人と殺した。だから休ませてくれ。ぼくを、死なせてくれ。
そうした考えが頭を過ぎった瞬間、唐突に、自分の手足が段々と闇に消えていくのを感じた。
けれども、誠は抵抗しなかった。己の命と言っても過言ではないと断言していた手足が、自分から離れていくのに何の感情も湧かなかった。
残っているのは、ようやく眠れるということだけ。
それで満足の筈だった。誰よりも休みたいと思っていた自分が、欲しかった物を手に入れた筈だった。


それが、誠にはどうしようもなく憎たらしいものに思えた。


分厚い雲の隙間から、月の眩い黄金の光がかすかに漏れ出ている。
その光は闇に染められた海面の一部分だけを照らし出していた。その様はスポットライトに当てられた舞台の様で、ぼくは車のハンドルにも似た操縦桿をぎゅっと握り締める。
夢の中に迷い込んだ気分だった。いや、もしかすれば本当に迷い込んでいるのかもしれない。ぼくは、今本当に飛んでいるのか。
手汗に塗れたのか、もう一度握り締めた操縦桿はぬるりとして気持ち悪くて、握っている気がしない。
ふわふわと何処か夢心地な気分で、ぼくは窓に映る雲を見上げる。
空は数時間前と同じ様子だった。さっき見えた光の柱も、雲に塞がれてもう見えない。ぼくは、舞台から解放されたのか。
途端、どっと全身から力が抜けかけるのを、舌を強く噛んで抑えた。どうやら自分は想像以上に疲労しているらしい。
無理もなかった。
ぼくが飛び始めて、はや数時間が経とうとしている。あくまでぼくの体感時間だから本当に合っているかどうかは分からないのだが。何処から敵に狙われるか分からない恐怖心と、いつ終わるやもしれないこの永遠とも呼べる時間に対する苛立ちが、ぼくの神経をじわりじわりと蝕んでいる。
ずきん、とこめかみに鈍い痛みが走り抜けていく。こんな風になったのは初めてだった。傭兵になるからには、こういう辛い任務が付き纏うのは当たり前で、ぼくもそれを分かっていたはずだった。
なのになんで、ぼくはこんなにも怯えているんだろう。
さっき舌を強く噛み過ぎたのか、だらりと唇の端から零れ落ちた血を拭う。鉄臭い味が口内に充満し、嚥下した血が体を侵食してゆく。
自分の血が自分を侵食する、なんておかしな表現だが、ぼくの気分はまさにそんな感じだった。
自分が今の自分じゃなくなって、新しい自分になるような、そんな感覚。
ぼくがぼくであって、ぼくではない。


なら、このぼくは一体どうなってしまうんだろう。




_______





「起きた?」
白色。それが誠の視界を支配した全てだった。
鳥肌が立つほどの冷気が誠の体に纏わりついてくる。それを払うべく体を動かそうとしたが、微かに揺らいだだけで誠の姿勢は依然、変わる事はなかった。次に手を、その次に足を動かそうとする。が、動かず。
結局、払う事も出来ず、とうとう全身を覆った冷気によって、ぼやけていた誠の意識は無理やり叩き起こされた。
無理やりだったせいか、がんがんと、頭蓋を殴られている様な頭痛が怒涛の勢いで襲ってくる。酒は飲んだ事ないが、きっと二日酔いはこんな感じなんだろう、と誠は思った。
「起きた?」
がんがん、と際限なく響く音の中に、その声は邪魔するでも、割り込む様でもなく、驚くほど素直に入り込んできた。鈴が鳴いた様な声、綺麗な声だった。その声をずっと聞いていれば、この頭痛など何処かへ消え去ってしまうと思い込むほど。
誠は声がした右に目をやる。ぼやけた視界に艶やかな銀が散らばって写る。続いて陶器の様に滑らかな白い頬、血で塗りたくした様な紅く大きな目。まるで冬景色でも見ているようだった。
「ねぇ、起きたんなら返事してよ」
ああ、うう、と誠が不明瞭な返事を返すと、銀髪の少女はにっこりと微笑んで、誠が寝込んでいるベッドの上に置いてある果物かごに手を伸ばす。
「いやぁ、起きなかったらゴミと一緒にぽいしなきゃなんないから良かった!あそこのおばさん、面倒なんだから」
自分がゴミと同じ扱いを受けているにも関わらず、誠の目は少女の胸元に注視されていた。その視線に気付いたのか、手に持ったリンゴをほいと投げ捨て、胸元を隠しながら誠を睨みつける。
「やだ」
明らかな軽蔑の視線だった。視線で否定の意を伝えようとするも、少女は全く意に返さない。手が動けば必死で弁解する事が出来るのだが、裏切る様に相棒は動かなかった。
「はぁ、まさかこんなど助平だったとは……。拾う奴間違えたかなぁ」
溜め息を吐きたいのはこっちだ。なんでぼくはこんな所に。
誠の殺気に気付いたのか、馬を宥める様にどうどうと少女は両手のひらを向ける。
「まぁ落ち着きなって―――――、焦ったっていい事ないよ」
焦らせてるのはあんただろ。と、誠は毒づく。
「確かにそうなんだけど。とにかく落ち着きなって」
―――――ち漬けるわけないだろ!……って、あれ」
「視線が余りにも卑しいからね」
「卑しくない!ぼくが見てたのは―――――!」
「これでしょ?」
そう言って、少女は胸を差し出した。
もちろん揉んでくれと言っているわけではなく、その胸に着けてある物を見せているのだ。
それは、日州帝国の勲章。盾型の背景には、白と赤が混ざった渦巻き。その上に――――特注品だろうか?――――描かれた、二対の金の翼。恐らくは、エースパイロットの証。
その証は、誠の復讐の証でもあった。
「敵兵士に拾われた事がそんなに珍しいかね?大空誠クン」
こいつ。
ぶっ殺してやる。
2, 1

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