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糖蜜と哀歌

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 彼女の細い指先が、唇に触れた。
 輪郭をなぞるように、愛おしいものに触れるようなくすぐったくて、やわらかな感触だった。
 指先はやがて顎を伝い、首筋まで滑り落ちていった。彼女は目を細めて微笑むと、長い黒髪を一度掻き上げた。白くて細い首筋と、掻きあげた手からこぼれ落ちていく黒髪を見て、私の胸が一度、とくんと鳴った。とても苦しくて、けれど甘い音だった。
「ねえ、やっぱり……。」
 やめよう、という言葉には続かなかった。彼女の目を見て、思わず言葉を呑み込んでしまったのだ。
 声が震えているのが、自分でも分かった。私の掠れた拒絶を聞いて、彼女は嬉しそうに口角を上げると、私の首筋に顔を埋め、身体を密着させる。
 かたい下着の先の、ゆるやかで湿った熱の感触。更にその奥の脈動に私もまた高揚感を覚えてしまう。こんなこと気持ち悪いと思うかたわら、もっと感触を求めている自分がいた。相反する二つの感情が、私の思考をびりびりと痺れさせていく。
 きっと彼女は、私が今感じていることを全て知っているに違いない。だからあんな笑みを浮かべることができるのだ。それが恥ずかしくて、悔しい。
「抱いて。」
 首筋に彼女の吐息が当たる。そのくすぐったさに身を捩らせながら、うん、と私は子供みたいな返事をして、彼女のその小さな身体を腕の中に収める。
 小柄な私でも包み込めるほど、彼女は華奢だ。
 ふわり、と甘い匂いがした。きっと、大事に手入れしているのだろう。整髪料と彼女の汗の匂いの混ざったそれが鼻先を掠めるたびに、全身の緊張が揺らいで、体中が溶けたバターみたいに甘くゆるく濡れていく。
 視線を上げると、開け放たれた窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らしている。薄いグリーンのカーテンはたおやかになびいている。窓の外から聞こえてくる音は、生気と純粋さで満ちている。私達も、彼らも、きっと生を感じていることに違いはない。けれど、その感じ方が少しだけ違う。
 不意に、亮君のからだが頭をよぎった。短髪で堀の深い顔に、ほどよく筋肉のついた体と汗のにおい。今彼女を抱いている時のように、彼は私を抱いて華奢だと思ったのだろうか。今の私のように、壊れてしまうのではないかと恐れを抱いたのだろうか。
 恋人に抱かれる想像をしながら、別の、それも同じ女性と甘い時間に耽っていることが、不思議だった。これは浮気になるのだろうか。いや、まずこんなことが、許されていいのだろうか。
「……よそ見しないの。」
 耳元で彼女が囁いた。その吐息に思わず私の口から甘い声が漏れた。羞恥に塗れた吐息が私の意識を白く溶かす。
 途端に、自分が見せている表情が、怖くなった。出すつもりのない声が恥ずかしくて堪らなかった。回していた手を解いて顔を隠そうとするのだけれど、彼女はそれを許さずに私の手を掴むと床に押し付け、爛爛とした目で私を見下ろす。ほんの少しだけ上気した頬が白い彼女の肌に朱を差していた。瞳には怯えた顔の私がくっきりと映し出されていて、時々亮君の顔が瞳の中にちらりと浮かんでは消える。
「だめ、隠すのは、だめよ。」
 視線を逸らしても、私と彼女の関係は覆らない。抵抗を見せても、どこにそんな力があるのか、手首を掴む彼女の手はびくともしない。
「恥ずかしいのね。顔がとても朱くて……すてき。」
 吐息混じりの甘い声が私の耳を擽る。声が漏れそうになるのを必死に口を閉じて堪えるのだけれど、ちらりと横目に彼女の顔を盗み見て、全く抵抗になっていないことを知った。
「恥ずかしいから、やめ……はぅ……んぅ……。」
 首筋を伝う感触に身体がびくりと跳ねた。生温い這うような舌先の感触に思わず吐息が漏れた。彼女はそれを見逃さす、私の頬に両手を添えて、キスをした。ねじ込むように舌を入れられ、奥で縮こまる私の舌を絡めとり、唾液の跳ねる音をわざと響かせながら丁寧に愛撫する。その甘い感触に頭の中がぴりぴりと麻痺して、思うように動かなくなってしまう。
 ぴちゃり、ぴちゃり。淫猥な音が口内を侵すたびに淡く切ない快楽が波紋のように広がっていく。彼女の舌は私の全てを貪っていく。気が付くと頬に添えられていた手が私の胸に触れている。ブラウス越しに当てられた手に擦られるたびに、身体を捩らせてしまう自分がいた。切なくて、求めるように、もっと触れて欲しくて身体が浮いてしまう。
 彼女はそれを分かった上で、あくまで優しく私の身体に触れ続けていた。ブラウス越しに胸に触れ、脇腹を撫で、スカートから内股まで、羽で撫でられているような微弱な刺激が、とてももどかしくて堪らない。
 息苦しくて、頭がぽうっとしてきた。淫蕩に沈んでいく意識の中で、彼女の深いキスと、切ない指先の感触だけがハッキリと感じられる。でも、それでは足りない。もっと欲しい。もっと深く、淫奔の中に潜りたかった。胸に微かに残る罪悪感すらも、今の私には心地が良かった。
 彼女の手を取って、私は指を絡めると、自ら舌先を彼女の口内に突き出した。甘い吐息の中で彼女が笑うのが見えた。水滴の跳ねるような音を繰り返しながら、私たちは貪るようにキスを続けた。密着した肌が熱い。身体が擦れるたびに走る小さな刺激が、吐息で漏れていく。
 少し彼女が身体を浮かせて、私のブラウスに触れる。一つづつボタンが外されていくのを感じて、私の胸がまた跳ねた。
「きれいよ。」
 離れていく彼女と私の唇の間を、糸が伝う。濡れそぼった唇に雫が落ちる。私は惜しむように離れていく彼女の唇を見つめて、深くて熱い吐息を吐いた。
 ブラウスの正面がはだけて、私の身体が露わになる。彼女は私に跨ったままそれを濡れた瞳で見下ろしていた。鎖骨に指を這わせ、丘陵の輪郭を撫でて、お腹から臍までをじっくりと撫で回していく。彼女の冷たい手の感触に、思わず甘い声が出てしまう。もう、耐えることは出来なかった。

――チャイムの音がした。

 スピーカーの横に設置された時計は、午後十六時を指し示している。私と彼女は二人でその時計を見て、それから互いに顔を見合わせた。彼女はとても残念そうに私の頬を撫でると、時間だわ、と言った。うん、と私は頷いた。
 それまでの熱がすっかり冷めて、私達は黙ったまま身なりを整える。会話は一つも無かった。語るべきことは何もなかったし、今互いの間で求めている言葉は一つしかなくて、けれどそれを口にするには超えるべき問題があまりにも多すぎた。
「亮君とは、仲良くいっているの?」
 教室の重たい沈黙を取り払ったのは、彼女のほうだった。
「多分、問題なく。」
「そう、それは良かった。」
 彼女は、いつもそうだ。
 私と触れ合った後に必ず恋人の話を聞く。どんなところに行ったのかとか、何をして遊んでいるのかとか、家族とは会ったのかとか、いつもどんな風に寝るのかとか、どういう時に愛を囁くのか、なんてプライベートな部分まで全てを尋ねてくる。
 その度に私はさっきまで彼女に気を許しかけていた自分がとても愚かしく思えてしまうのだ。大事な恋人が、それもちゃんと異性と恋をしているのに、どうして今彼女と触れ合っているのだろう、と。
「別れちゃだめよ。」
 自分に嫌悪している私を見て、彼女は言った。
「わたしが好きなのは、恋人のいるあなたなんだから。」
「……センパイにとって、この行為になんの意味があるんですか。」
「わたしはね、愛している人を愛するのが好きなのよ。」
 机に腰掛けて、彼女は両足を揺らす。スカート越しに覗く太腿は白く滑らかで、黒いニーソックスとの境目にわずかに乗った肉さえも甘く感じられる。
「揺らぐ姿を見ていると、とても落ち着くの。ああ、この子はとても愛されて、愛しているんだなって。そんな子が、揺らぎながらも必死に私を拒絶しようとする姿が、たまらく好き。とても愛しい。」
「センパイはやっぱり、変です……。」
 彼女は机から降りて私に歩み寄ると、ついばむような軽いキスを私にした。血色の良い紅色の唇の上を舌が滑るのが見えた。
「恋なんてそんなものよ。堕ちて、狂って、悶えるように甘く苦しむだけ。あなたも私も、愛の対象が違うだけで、求めているものはほとんど変わらない。」
 彼女の手が私の乳房に触れる。ブラウスと下着を通しても、彼女のその掌の冷たさがはっきりと分かった。私は、両手でその手を包み込む。
 この凍えるような掌を、溶かせる人は、はたしてこの世にいるのだろうか。彼女に触れられるたび私はそんな想いを抱いてしまう。

 あとどれだけの人に触れたら。
 あとどれだけの恋に揺れる姿を見たら。
 あとどれだけの拒絶を識れば。
 彼女は、彼女の求める愛に辿り着くのだろう……。

 教室を出た後、彼女は私を見て、にっこりと笑った。他人行儀の、愛想の良い顔だった。昔憧れだったこの表情の裏に、沢山の感情が詰まっていることを知った今、私はこの笑みに恐怖しか抱けなかった。
「また、来週ね。」
 けれども私はまた行ってしまうのだろう。罪悪感に傾きながら、背徳の囁きに身を捩りながら、誰もいない一室の情事を、求めてしまう。
 結局私も変わらない。
 どこまで堕ちてしまうのだろう。そんな疑問に怯え、しかし興味を抱いてしまっている。彼女といることで、私はどこまで行けるのだろう、と……。

 私もきっと、変なのだ。

 触れられた胸が、まだ冷たい。これが彼女の手のものなのか、元々冷たかったことに今になってやっと気づいたのかは分からない。けれど、ともかく私もまた熱を求めていた。

 携帯を取り出して、私は亮君に電話を掛けた。
 ツーコールして、彼はすぐに出た。低くて、お腹の底に響く声に私は安堵を覚えた。
「もしもし、亮君、あのさ、会えない、かな……。」
 彼の二の腕に抱かれて眠りたい。
 この寒さを、すぐにでも忘れ去ってしまいたかった。
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