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52話 雷帝アンゼリカ

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   清風の年代三八年

 ほとんど三十七年の後半は音楽活動をしないまま、マリアは大学の三年生に進級した。カレンも無事に同じ大学へ入り、しかし学内で顔を合わせるのはどうも嫌だ、とマリアは思っていた。時折カレンは激発的行動に出て手がつけられなくなるし――瞬間的にはシャーロットなどより厄介になる――そうでなくても予期せぬ知り合いと会うのは挨拶などをしなくてはいけないので面倒だと常々マリアは考えていて、街なかで知り合いを発見した場合、相手の視界を計算してそこには入らないよう注意深く歩いた。
 この年、以前にシグノが予想していたように革命までは至らなかったが、帝都で不況や政治家の汚職やサッカーの負けや芸能人のスキャンダルが四月に相次いだのでデモ行進や街頭演説、そして〈ハッピー・スプラッシング〉と呼ばれる、水や泥、ジュースや果物の汁、肉汁、米のとぎ汁、酢、トマトケチャップなどを路上や人の家などにぶちまける行為が蔓延した。首謀者の一人がテレビのインタビューに答えて「可燃物は撒きません。そこだけは徹底しています。だから安全です」というカレン並みの発言をした。政治家の一人が「爆弾を爆発させるよりましだし、元気でいいんじゃないですか」と言って、PTAや農家の人に怒られた。あるとき駅でこれが発生して電車が止まり、サラリーマンの人が、出勤できないというのでスプラッシングをした犯人グループを私刑にして、五人の死者を出し、それからはあまり行われなくなった。
 四月ごろ、マリアが自宅のドアを開けるとアパートの廊下に穴が開いていて、そこから空が覗いていた。びっくりして穴の中を覗き込むと、遥か下に地面が見える。どうしたらいいか分からず、市民安全センターに電話をかけた。現在起こっている怪物の発生や怪奇現象に対して適切な団体を紹介してくれる機関だ。オペレーターはものすごくやる気がなさそうな若い女性で、声が〈コリムのマリア〉に似ていたので少し焦ったが、別人だった。紹介されたのは顕現師ギルドで、すぐに擁立者の男性が来た。彼はグラハムと名乗った。
「アーミティッジさんですね、異界湧きに合ったそうで」
「いや、何もよく分かってないんですが、この穴はなんですか?」
「これはもろに異世界ですね」グラハムは断定的にそれを見ながら言った。「別の世界に通じちゃってますね」
「そんなこと起こるんですか」
「起こりますね、だから我々が飯を食えている。これまでに顕現師に仕事を依頼したことはありますか?」
「ないですけど、知り合いに擁立者の人がいますね、ちょっと変な感じの人なのでグラハムさんもそうじゃないかって不安だったんですが、そうじゃなくてよかったです」
「ああ、もしかして、話が異様に遠回りしたり、いきなり話題が変わったり、起こってもないことをさも起こったかのように喋る人ですか?」
「そうです」マリアはシャーロットのことを思い浮かべて答える。「その人が連れてる顕現師も同じような感じです」
「あー。なるほど。でもそれは、逆にすごい人ですよ」
「すごい人って?」
「優秀ってことです、適正値が高い擁立者ほど異界に融和してるんで、つまり、起こらなかった出来事が存在している世界を認識してしまうんですね。それで記憶が混乱したりすることがあって、そういう喋り方になってるんだと思います。顕現師のほうもそうだっていうことは、シンクロ率もかなり高いはずですよ。有名な方かもしれないので、よければその方のお名前を伺ってもいいですか」
「シャーロット・デンジャーフィールドっていう、帝都の擁立者ですね。顕現師のほうはダイアナっていう、〈陽炎〉の魔女とかっていう人です」
 グラハムは若干考えてから、「うーん、そのデンジャーフィールドって方は存じませんがダイアナという魔女は確か、エング開拓時代の冒険者ですね。同行者の裏切りで重症を負った後、悪魔に憑かれたと聞いています。そのあとは銀行強盗、列車強盗、辻強盗などに手を染めて、最後は正統魔女会の〈落日の魔女〉ことフロリアーナ大姉に、大砂漠に追い詰められて全ての光を遮断され、暗闇の中で処刑されたはずです」
「ずいぶんお詳しいですね」
「開拓時代をテーマにした映画が数多くあって、わたしはそれのファンでしてね。多少なりその時代には明るいと自負しています。無論、実在したダイアナとその顕現師の方はまったく異なる存在ですが。さてこの穴は危険極まりないので、早く仕事を終わらせたいのですがわたしの顕現師がなかなか来なくて。現地で合流の予定だったんですが迷っているようで……」
「ああ、じゃあお茶でも出しますよ、中へどうぞ」
「ではお言葉に甘えて」
 しかしあると思っていた来客用の茶葉をすでに自分で使用していたので、グラハムへは水道水を出した。
 十分ほどしてから一人の女性が入ってきた。歴史に疎いマリアでも、その外見には見覚えがあった。どことなく高貴な印象の華奢な人物で、確か有名な観光地に像があった気がする。正体は女性の自己紹介ですぐに分かった。
「遅れて申し訳ない。顕現師のアンゼリカ・ウインター三世、別名〈雷帝〉でございます」
「えっ、グラハムさん、すみません、この方は皇帝じゃ? 確か竜殺しとかで有名な方じゃないんですか」さすがにマリアも動揺して聞くと、相手はあっさりと肯定する。
「そうです。融和の年代に女帝であらせられたアンゼリカ三世が彼女のオリジナルで、雷の魔術が得意で、帝都を襲った竜を自ら討伐した武勇伝などで有名ですね」
「これがその竜の肉ですが」雷帝は宝刀をかざして見せた。焼け焦げた肉が刺さったままになっている。「食べますか」
「いや、朝食を食べたばかりなので。しかしこんな汚いアパートにお越しだなんて」
「ああ、気にしなくていいですよ。今のわたくしはあくまで顕現師ギルドのエージェント。気さくにアンジーとお呼びください」
「分かりました、じゃあアンジー、あとグラハムさん、とっとと片付けてもらっていいですか」
「ええ、やります。アーミティッジさんはここで待っていてください。ではグラハム氏、いきますか」
 二人は表に出て行って、何か激しい爆発音が聞こえてきて、再び入ってきたグラハムはドロドロした緑色の液体に塗れていた。
「少し失敗はありましたが、終わりましたよ。これで失礼します」
「いや、その格好はどうしたんですか? アンジーは?」
「ちょっと破裂してしまいましたね」
「破裂?」
「ええ、破裂ですね」
「大丈夫なんですか?」
「ああ、ご心配なく、帰ったらすぐ彼女を復元しますので。こういうこともあります。それから穴は消えましたが、少し別なものが発生していて、一週間くらいで元に戻るとは思います。あと、ちょっと窓から出させてもらっていいですか?」
「窓から? それは構いませんが」
 嫌な予感がして入り口のドアを開けると、そこは大きな劇場の客席で、観客全員がマリアを見た。近くの何人かはグラハムと同じ緑色のドロドロに塗れていた。ドアを閉めて、しばらくしてからもう一度開けても結果は同じだった。今度は数分待ってみたが、観客一同はマリアのほうをずっと見たままだった。一番近くの、最も多くのドロドロを浴びた偉そうな髭の小父さんにマリアが、「演目はなんですか?」と聞くと、「いや、知り合いが急に行けなくなったというのでチケットを譲ってもらっただけで、何が始まるかよく分からんのだ」という答え。「そうですか」と言ってマリアは部屋に戻った。
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