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【九】遥、彼方へ

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 あの日、教室でしたキスの味が忘れられない。
 今でもあの時の唇の感触を覚えている。優しくて、嬉しくて、でも悲しい、何かの欠けた切ないキスだった。

『続きは、貴方が「言葉」にしてくれるまでしてあげない』


 続くことのなかった続きを夢見ながら、僕は今もこうして日常の中を泳ぎ続けている。
 あの日言えなかった言葉を伝えたくて。
 あの日躊躇った言葉を、ちゃんと言いたくて……。
 
――ばしゃ、ばしゃ。

 水面を魚が跳ねる音を聞いて、僕は視線を足元に向ける。
 【ハルカ】はとても嬉しそうだった。それもそうだろう。ずっと待ち望んだご馳走に、ようやくありつけたのだから喜ぶのは当たり前だ。
 四肢をもぎ、舌を抜き、目玉を繰り抜き、はらわたを引きずり出し、骨の髄まで味わい尽くそうと、【ハルカ】は桃村の大切なねむりひめを貪り続ける。食事をしている時の恍惚とした彼女の顔は、とても美しくて、扇情的だ。
「やめてくれ……やめてくれ……」
 僕の足元で、桃村継彦は跪いたまま、うわ言のようにそう呻き、為す術なく食われていく己の悲劇の具象に手を伸ばしていた。
 ばしゃり、ばしゃり。
 彼の手が水面を叩く。嬉しそうに踊る【ハルカ】はそれに応えるように泳いで、水面を波打たせる。桃村の目の前で、ちゃんと見える距離で、彼女は乳房を食い千切る。
 もう半分も残っていない。解けた髪が【ハルカ】の泳ぎに合わせてひらりひらりと踊る。それはまるで遊女のように、儚く、淫らに見えた。
「それは、俺のだ、俺のなんだ」
「もう、あなたのじゃない」
 僕の言葉を聞いて桃村は顔を上げた。見開かれた目は濁り切っている。大事にしていた玩具を取り上げられた子供のように、純粋で、悲しい瞳を見て、僕はしゃがむと彼の肩に手を置いた。
「あなたはとても可愛そうな人だ。ずっと、奥さんを愛していたのに、娘を愛していたのに、大事に護ろうとしていたのに、誰もそれを理解してくれなかったのだから」
 微笑む僕の言葉に、桃村は俯く。
 ねむりひめは、悲劇を好む。そして、彼らはその悲劇が美味しそうであれば美味しそうであるほど、興奮し、腹を空かせ、そして“狂っていく”。
 事情は同情を、涙は同調を生む。悲劇は煮詰めれば煮詰めるだけ、旨味を増していく。
 僕らの役目は、相手を上手く調理すること。ねむりひめが食べ易くなるように、愛するものの幸福を、願うこと。
「でも大丈夫、貴方は救われた。だって、もうこれから先、貴方は苦しむ必要が無いのだから。さあ、“夢を見よう”。永遠に……」

 とぷん。

 しぶきが上がる。波紋が広がる。それは僕の足元を通り抜けて、やがて消えた。
 僕は立ち上がり、コートのポケットに手を突っ込むと、周囲を見渡す。
 引き伸ばされた女性の写真が、至る所に張り巡らされている。生まれた時から、失うまでに撮られ、選別された彼女だけの写真達は、皆笑顔だった。素敵な部屋だと、僕はくすくすと笑う。
 桃村の姿は、もうどこにもない。
 掬われてしまったのだ。ねむりひめに。


「ご馳走様」
「満足した?」
 うん、と嬉しそうに笑う【ハルカ】の頭を僕は優しく撫でる。心地良さそうに目を細めながら、彼女は僕に身を寄せる。高揚した頬が、彼女の肌を朱く染めている。
「ねえ、キスして?」
 上目遣いで求める彼女に、僕はいいよと答え、顎に指を添えて引き寄せると、キスをした。水の匂いのする彼女の唇は、悲しい味がした。
 口づけを終え、【ハルカ】は僕の胸に顔を埋める。
「眠いの?」腕の中で彼女は頷く。
「お腹いっぱいになって、眠くなったんだね。いいよ、傍にいてあげるから、ゆっくりおやすみ」
 ありがとう。彼女は胸に顔を埋めながら言って、それからやがてすうすうと小さな寝息を立て始める。とても満足気なその寝顔を見て、僕は思わず微笑んでしまう。
 【ハルカ】の頭を撫でながら、僕は目を閉じる。
 君は今、どこにいるのかな。
 どこで眠っているのかな。
 あの日君が感じた悲劇がなんだったのか。僕は未だに汲み取れずにいるんだ。
 最後まで僕が言わなかった事を悲しんでいたのか、もっと別の何かなのか。気になって、気になって、今でも胸が苦しいんだよ。
「早く君に会いたいよ、遥」
 眠る【ハルカ】の頬に触れながら、僕は囁く。
 もう二度と離れないように、繋がりが断ち切れないように。
 その為なら、僕はなんだってするよ。
 
 何も要らない。
 
 何も要らない。
 
 やがて僕にも睡魔がやってきた。今回は随分と手間が掛かったから、少し疲れたようだ。
 【ハルカ】を起こさないようにそっと横になると、僕は目を閉じた。この、眠る寸前の微睡む感覚が、水の中にいるようで僕は好きだ。
 水の中で揺られて、沈んで、水底まで。誰にも邪魔されないくらい深くまでいって、そして遥の夢をずっと見続けるんだ。

『ねえ、終わってしまうとしても、私はその言葉を聞きたいの』

 あの時言えなかった言葉を言うその為だけに、僕は今生きている。

――僕は、君を愛してる。

 愛する彼女の、ねむりしめがさめるまで。





   了
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