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■一『女王蜂』

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 ■一『女王蜂』

 総魔の名は、とてつもなく重い意味を持つ。
 魔法使いの始祖である一族、才能に溢れたその末裔に半ば勝利を納めた、魔法が使えない男、『荒城幸太郎』
 森厳坂学園において、彼の名もまた、大きな意味を持つ事となった。

「……なんで昨日の今日で、こんな広まってんだよ」
 総魔告葉との戦い、その翌日である。
 幸太郎は、登校して早々周囲から感じる無数の視線に辟易としながら、自分の席に腰を下ろす。
「どうも、生まれついてのおしゃべり。スピーカーの擬人化、口から生まれた男こと、風島季作です」
「殺すぞ」
「怖い」
 季作は、幸太郎の前に腰を下ろし、「あんな面白そう――もとい、衝撃的なニュースを俺が喋らないとでも思ったか?」
「お前と出会ってまだ二日目なんだから知るかよ」
「やっぱ総魔の名前は食いつきがいいよなぁ。もう全校生徒が知ってるぜー」
「お前、総魔サンに殺されないといいな」
 幸太郎は、組んだ腕に人差し指を立て、明後日の方向を指差す。そこでは、告葉がナイフみたいな視線で幸太郎と季作を睨んでいた。
「あ、あれはお前を睨んでるんだろ?」
「可能性が高いのは、俺達二人共、だろうな」
 今更になって、喋った事を後悔し始めたのか、季作は頭を抱えて、ため息を吐いた。一発くらいぶん殴ってやろうかと思っていた幸太郎だったが、その表情を見て溜飲が下がったので、人知れず拳を解いた。
「まっ、話しちまったもんはしょうがねえよな。総魔さんも、まさか後ろから殴りかかってきたりはしないだろうし」
「……試合申し込まれたらどうするつもりだ?」
「受けない」
「情けねえなぁ」
「だって『|銀の名を与えられし水《プラスシルバー》』と俺の風魔法じゃ相性悪いんだもん。勝てない勝負はしないのが、俺のモットーなの」
「まあ、別にお前がぶっ殺されようがなんだろうが、俺は構いやしねえが……。話すんなら、俺が勝ってからにしろよな」
「わかったよ。ま、次にまた引き分けか、あるいはお前が負けた話しても、話のインパクトとしては薄いからな。――でも、実際さ、俺はお前の為と思って、この話広めたんだぜ?」
「あん?」どこがだよ、と幸太郎は思い、態度にその言葉を示す。
「まず、お前が師匠殺しの犯人を追ってるってみんなが知ってるってことは、犯人がお前に接触してくる事もあり得るだろ? それに、情報も集まりやすい。こういう人情に訴える話ってのは、結構受けがいいし、総魔さんを倒しかけた男ともなれば、強いやつが突っかかってくる事もある。強いやつってのは、情報を持ってる事も多いだろ?」
 少し言い訳がましい理由付けではあったが、幸太郎はその言葉を信じる事にした。実際、ある程度は納得できるし、黒い魔法使いについて、どんなに小さな情報でも欲しい。釣り餌は撒けるだけ撒くに限る。
「……いやぁ、しかし、楽しみだなぁ」
 何故か、楽しそうに笑う季作。なぜこの話の流れでそんな表情をして、そんな言葉を発するのか、幸太郎にはわからない。
「何がだよ」
「お前、話聞いてたか? 総魔さんを倒した――倒しかけた? お前を狙って、多分今後、いろんな魔法使いが戦いを挑んで来ると思う」
「……それの何が楽しみなんだよ。俺を戦闘狂か何かと勘違いしてんのか?」
「違う違う。俺はあんまり魔法強くないからさ、強い魔法使いの戦い見るの好きなんだよ。お前の戦いは面白かったから、もっと見たいしさ。――見せてくれるギブアンドテイクってわけじゃないが、俺も情報はしっかり集めるぜ」
「普段なら、余計なお世話って言う所なんだが、事が事だしな。しょうがねえから、お前を頼ってやるよ」
「おうっ、そうこなくっちゃな!」
 と、季作は手を差し出してくる。
 幸太郎は、その古臭いとも思える交流の儀式に苦笑して、その手を握った。

  ■

 人類に魔法という概念を持ち込んだのは、総魔家である。
 つまり、電気を生活に利用しようとした人間が歴史に名を残したように、総魔紫が歴史に名を残すのは当然。そして、その末裔である告葉が学園で注目されるのも当然。
 そして、彼女が注目される以前に、学園で最も輝いていたと言われる人間がいるのも、また当然の話。

「……情報が集まんのはいいが、この居心地の悪さはどうにかなんねえのかなぁ」
 幸太郎は、授業が始まる前に教室を脱出し、屋上に忍び込んでいた。
 学校が始まってまだ数日なのにサボりだすというのは、あまり真面目な方でもない幸太郎でも少しだけ罪悪感があったけれど、その罪悪感は修行で埋める。
 咄嗟に動く為には、普段から何度も何度も積み重ねておく必要がある。幸太郎は、ブレザーとYシャツを脱いで、タンクトップだけになり、構えを取る。
 拳足を振るい、何回も熟してきた動きを、もう一度体に染みこませる。最初はゆっくり、軌道を確認するように、どんどん動きを速め、実戦で使えるレベルにしていく。
「はぁッ!!」
 ハイキックの流動的な動きを、しっかりと確認しながら、虚空を蹴る。少し、魔力バーストと打撃のタイミングが甘いかもしれない、と微調整していると、背後に誰かの気配を感じ、幸太郎はハイキックを戻す勢いで、後ろ回し蹴りを叩き込んだ。
「うひゃぁ!」
 背後の人物は、そのキックをしゃがみ込むことで躱した。
「――誰だ、テメエは」
 幸太郎は、足元の人物を睨みながら、打ち出した足を戻す。
「ちょっ、アンタね! 私の顔面潰しかけといて、それしかないわけ!?」
 立ち上がった妙に小柄な少女は、怒鳴って幸太郎を睨んだ。
 金髪に黒い髪留め、毛先がカールした、猫みたいな丸い瞳の、あどけない少女だった。
「潰れてねえんだから、いいだろうが」
「そんなの結果論じゃない!」
「修行中に後ろから話しかけてきたお前が悪い」
「はぁ!? それが先輩に対する態度なわけ!?」
「……同い年じゃなかったのか?」
「見たらわかんでしょーが!!」
 見てもわかんねえよ、と言いそうになったが、幸太郎は言わずにおいた。このタイプは口喧嘩すると声量で押してくるタイプだ、と悟ったから。
「わかったわかった。ギャーギャー喚くな。もうスピーカーに用はねえ」
「……無礼なヤローね。ま、いいわ。あなた、荒城幸太郎で間違いないわね。魔法学院でそんな野蛮な事してるのなんて、魔法が使えない荒城幸太郎くらいなもんだろうし」
 一人、うんうん頷いて納得する少女を見ながら不快に思い、幸太郎は「で、テメエは誰だよ?」と、人知れず臨戦体勢を取った。まさか早速戦闘になるのか、と警戒したのだ。
 さっきまで修行をしていたし、体は暖まっている。最初からトップギアでいける。
「あたし? あたしの名前は|蜂須賀結衣《はちすかゆい》。この学園の女王蜂といったら有名なんだけど、知らないかしら?」
「知らん」思い返すまでもなく、即答する幸太郎。そもそも入ったばかりの一年生たる幸太郎が、彼女の事を知るわけがないのだが、何をどう勘違いしたのか、結衣は頬を膨らませて幸太郎を睨む。
「アンタも、総魔告葉の噂ばっかりで、私の噂なんて聞いてないのね。昔は他学年まで、私の噂が轟いたもんだけど――」
 深いため息を吐く結衣。
「去年まではね、この学園一の美少女、蜂須賀結衣ちゃんが注目の的だったのよ? わかる?」
「いや、知らねえけど」
「ちょっとそこ座りなさいよ、後輩」
「えぇー……」
 めんどくせえなあ、と思いながら、実際立ちっぱなしでいるのは嫌だったし、幸太郎は大人しく地面に腰を下ろした。何故か結衣は、立ったまま話を続ける。
「あたし、美少女でしょ」
 いきなり何言ってんだこいつ。
 幸太郎はその一言から、彼女のめんどくささを理解して、すぐにでもこの場から逃げ出したいと思ったが、結衣は幸太郎を逃がさない気で満々らしく、隙が見当たらなかった。
「そうなんじゃないすかね」
「でしょ!? 話のわかる男ねえ。――小さい頃から蝶よ花よと育てられてきた私、学校では人気者だし、群がってくる男も多かったわ」
「よかったっすね」
「まるでお姫様みたいで気分もいいし、なんだか配下の男がコレクションみたいに見えて面白かったのよ。あたしの夢はね、いつか自分の配下で騎士団を作る事なの」
「壮大っすね」
「でしょう。アンタ、夢はある?」
「……ま、当面は復讐ですかね」
「ふぅん。やられたらやりかえさなくちゃ嘘だものね。それでね、あたしがアンタに会いに来たのは、他でもない大事な用があるからよ」
 正直、その用事というのを幸太郎はもう推測できていた。そして、それを断るという決心もしていたので、彼女がその用事を口にする前に先手を打った。
「配下になれって話ならお断りっすよ」
 幸太郎は、結衣に背中を向けて、再びシャドーボクシングを始める。
「なんでよ!? 今なら、あたしの右腕にしてやってもいいとまで言うつもりだったのよ!?」
「あんたの右腕になって、俺になんの得があんだよ。おっぱいでも揉ましてくれんのか?」
「そんなわけないでしょーが!」
「言ってみただけだよ。それに、揉めるほどなさそうだしな」
 肩越しに、結衣の胸元を見て、また視線を逸らす。
 こいつとは戦うかもしれないと思ったので、とりあえず煽っておこうと思ったのだ。
「ガ――ッ! ……その失礼な発言、今配下になるって返事をするなら、不問にするわよ」
「返事して胸が膨らむんなら、そうしますよ」
「……総魔告葉を倒したっていうから、見どころがあるかと思えば、とんだ跳ね馬だわ」
 その言葉で、幸太郎は結衣が諦めたのかと思ったが、一瞬の殺意を感じ取り、勢いよく振り返った。
 目前に何かが迫ってきていて、幸太郎は首を傾け、顔面を貫こうとしていたその槍を躱す。
「や、槍だと!?」 
 幸太郎は、結衣の振るった武器を見て、思わず叫んでいた。彼女の小柄な体躯には合わないほど大きいからではなく、魔法使いだと言うのに、近接用の武器を使ってきたからだ。
「もう一度言うわ。配下になりなさい。可愛がってあげるわよ」
「生憎、俺は可愛がられるより、可愛がる方が好きなんすよ」
 しばらくの間、二人は睨み合う。
 そして、結衣は槍を魔法でどこかへ収納して、幸太郎から離れていく。
「覚悟しなさい。そして後悔すればいいわ。真剣に謝ったら許してあげなくもないから」
 それだけ言って、結衣は屋上から出て行った。
 幸太郎は無意識の内に、あるいは、常にしてきた習慣からか、彼女との戦いをシュミレートした。
 近接戦闘と魔法を組み合わせて戦う魔法使いというのは、珍しい。
 魔法を躱しても、今度は槍の攻撃を掻い潜らなくてはならない。不思議と、それを想像すれば笑いが込み上げてくる。どうやって勝とうか考えるのは楽しい。
 戦闘狂とまでは言わないが、やはり俺は戦うのが好きなのかもしれない。
 幸太郎はもう一度、虚空に向かって拳を放った。
 修行をしながら、幸太郎は思い描いた。
 目の前に立つ、小柄で槍を持つ少女の姿。
 魔法使いは、自らを一般人達とは違う事を、端的にこう表す。
『我々は、生まれながらにして銃を持つ物だ』と。
 それは、あらゆる意味で正しい。銃を持った人間に、素人が勝つ事は難しい。あらゆる要素がある事は間違いないが、最もわかりやすいのは『間合い』である。戦闘に置いて間合いとは、勝利と敗北の線引きと言ってもいい。
 一般人が非武装で魔法使いと戦った場合、開始した状況に間合いの差異はあるだろうが、大抵拳が届かない距離から開始されるはずだ。たとえボクシングヘビー級チャンピオンであろうとも、その拳が届かない距離から攻撃されては、相手に傷を負わせることすらできないだろう。
 これは、剣道三倍段という言葉が存在する事からも、明らかである。
 空手(つまりは徒手空拳の武道)が剣道に勝つには、三倍の段位が必要――。
 槍と魔法を使う、遠中距離のエキスパートに、幸太郎はどう立ち向かうべきか。
 イメージを高め、頭の中で、実際に体を動かしながら、蜂須賀結衣と戦う。光弾を躱し、間合いを詰める。だが、その先に待っている槍に腹を抉られてしまう。
 今度は攻め方を変え、光弾を躱した後、一瞬フェイントを混ぜ込み、大振りした隙を突いて拳を叩きこもうとする。だが、今度は防御魔法。
 魔力バーストで砕くが、それこそが隙であるとばかりに槍がニュートラルの状態に戻っていた。
 今度は先ほどよりも状況が悪い。悠々と狙いを定められ、幸太郎の心臓が槍に貫かれた。
「チッ……」
 舌打ち。そして、屋上の隅に置いていた学ランのポケットに入れていたスポーツドリンクを一気に飲み干し、座り込む。
「はぁ……魔法使える奴はズルいぜ……」
 空になったペットボトルを放り投げ、不規則な軌道で跳ね返ってくるそれを、拳足で壁に再び叩きつける。思い描いた場所へ、寸分の誤差なく攻撃を叩き込む。
 単純に思える事ではあるが、コレができるのは日頃の鍛錬を怠らなかった者だけだ。
 ぽん、ぽん、ぽん、とマヌケな音を鳴らすペットボトル。
 弾き返しながら、どんどん壁に近づいていき、最後に、壁と自らの回し蹴りで、ペットボトルを挟んだ。ぺしゃんこになって地面に落ちたそれを見つめ、幸太郎は下腹に力を込めて、大きく息を吐いた。

  ■

「ラーメンとカツ丼、それからとんかつに野菜炒め。あったらでいいんだけど、お新香が欲しいな。後、生姜炒めにきつねうどん。デザートにアイスクリームよろしく」
 昼休み。
 幸太郎は、カウンターに立つ学食のおばちゃんに対し、笑顔でその注文を言った。まるで聞き取れなかったように、おばちゃんは「え?」と幸太郎に耳を向けた。もう一度その注文を繰り返すことで、やっと通り、「できたら持っていくから席で待っていなさい」と言われたので、そのまま季作の待つ席へ向かった。
「あれ? なんも持ってないじゃん」
 先にラーメンを啜っていた季作が、口についたスープを拭って、幸太郎が手ぶらな事を、体中チェックするみたいに見つめる。
「できたら持ってくって言われてよ。ま、ちょい待っててくれ」
 季作の向かいに座って、彼が啜るラーメンを見つめる。他人が美味しそうに食べている様を見ると、まるで自分がそれをしなくてはならないという義務感に駆られる様に、焦り気味で腹が鳴り始める。
「あぁーっ。ここのラーメン美味いよなぁ。学食のラーメンにしちゃあ、味のラインナップが味噌と醤油っていう二つもあるしさ」
 うめえ、うめえと言いながらズルズルと音を立てる。音楽を奏でようとするみたいに、幸太郎の腹が鳴る。先程までずっと、蜂須賀結衣の対策でシャドーをしていた彼が空腹を感じる事は、相当のストレスになっていた。
「くっそ。ぶん殴ってでもそれが欲しい」
「すぐ来るからやめて。俺の傷を増やすだけになっちゃう」
 幸太郎は目を閉じて、できるだけ季作の食事シーンを見ない様にしながら、自分の食事を待つ。
 禁欲中に、ドラマの濡れ場を見ないようにする中学生かよ、俺は、と内心自虐しながら。
 そうしてしばらく待っていたら、先ほどのおばちゃんが何回かに分けて注文の品を持ってきてくれたので、二人は互いに向い合って、食事を始めた。
「……ついこの間、総魔さんと食事した時は、そこまで食べてなかったよな?」
「ん、あぁ。さっきまで動いてたからな。――なんか、戦闘とか訓練とか、とにかく激しく体動かすと、異常に腹が減ってさ。それだけ動いてる自信はあるけど。んで? 黒い魔法使いについて、なんかわかったか」
「はえーっつの。まだ仕込み段階だぜ」季作はそう言いながら、ラーメンを啜る。
「……仕込み段階?」
「そっ。情報ってのは、水道管みたいなもんなのよ。今は水――情報を通すラインを作ってるとこ」
「情報源の確保中、ってことか」
「そそっ。こういうのは、慎重に行かないと。特に、悪魔憑きかもしれないやつの情報だからな。ガセも多いし、危険も多い。――これは、お前だけじゃなくて、あらゆる人間に対して価値のある情報と見たぜ。そんな情報を集めるんだ。仕込みはいくらやっておいてもいい」
「ほぉ……。妙に説得力あんな」
「誰が味方で誰が敵か。そういうのを風で判断するのが、俺の得意技でね」
 チャーシューを口に放り込み、咬みながら笑う季作。
「ハローハロー? かっこつけながら喋ってる最中悪いわねお二人サン」
 と、そこへやってきたのは、生クリームとはちみつがたっぷりかかったパンケーキを抱えた、蜂須賀結衣だった。
 彼女は幸太郎の隣に腰を下ろし、はちみつをしつこいほど塗りたくって、ぐちゃぐちゃになったパンケーキを口に放り込む。
「きっしょく悪いモン食ってやがんな……」
 甘い物が嫌いというわけではない幸太郎ではあったが、口の中が甘味一色になりそうなそれを見て、口の中が甘く染まってしまい、食欲が少し失せた。だが、それでも残すわけにはいかない。幸太郎は野菜炒めをチャーハンに乗せて、無理矢理かきこんだ。
「アンタこそ、とんでもない量食べてるわね……」
 互いに互いの昼食を引いた目で見つめる二人。
「おぉ! 蜂須賀先輩じゃん! なに、幸太郎知り合いなの!?」
 ラーメンの中に箸を落としてまで喜びを露わにする季作。そういう手合の相手は慣れているのか、結衣は一瞬で営業用スマイルを作って、季作の手を取った。
「やだぁー、あたしの事知っててくれたのぉ? ありがとぉー!」
「気色悪ぃ……」
 眉が片方だけ引きつりながらも、笑顔をキープし、「あらひどい」と、幸太郎をこっそりと睨みつける。
「うぉ……」だが、その睨みに反応したのは、季作の方だった。「蜂須賀先輩、結構冷たい空気出すんすね……」
「あら、気づいたの?」隠すような事はせず、あっさりと認め、前髪を掻き上げる結衣。
「風属性やってると、そういうのには敏感になるんですよね……」
 深いため息を吐いて、肩を落とす季作。蜂須賀という偶像に対し、夢を見ていたらしい。
「お前な、こういう如何にも男好きしそうな女なんか信用すんなって。俺らがモテようとしてかっこつけるみたいに、女だってモテようとしてカワイコぶるんだって、師匠が言ってたぞ」
「そういう低俗なところにあたしを落とさないでくれる? あたしはね、敬われるべくしてそうなっている女よ」
 ふふん、と鼻を鳴らす結衣。なんてプライドの強い女だ、と幸太郎は彼女の印象を『アホ』から『プライドの強い女』へとシフトさせる。
 一挙手一投足、結衣が行うすべての立ち振舞を、幸太郎は見逃さない。
 利き腕を知っていれば、咄嗟の時にどちらから攻撃が飛んでくるかがわかる。
 心を形作る芯さえ知っていれば、その芯を擽り、どんな方向にでも動かす事ができる。
「悪いが俺は、アンタの見た目だけで敬う事はしない。事人生に置いて、俺が何かを譲る時、これが関わってきた」
 そうして、幸太郎は拳を握って、それを結衣に見せつける。
 まるで砂漠に堂々と鎮座する岩石のようにゴツゴツとしたそれは、一般人、引いては魔法使いが見れば多少なり驚く物だったが、結衣のリアクションは違った。
 その拳を見つめ、微笑む様に目を細めて、舌舐めずりをした。
 語りこそしないけれど、その戦いを喜ぶ表情は、幸太郎の心にグッと来る物があった。
「……ふふ、生憎、あたしはそっちの方もイケてるわ」
「……みたいだな。んで? このラーメン、弁償してくれんのか?」
 幸太郎は、そう言って自らの前に置かれたラーメンを指差して、笑う。
「……どういう事?」
 幸太郎は、腕を組み、背もたれに体重を預ける。
「わかりやすすぎんだよ。さっき、季作の手を握った時、俺のラーメンになんかしたろ。握手したのとは反対の手で、ラーメンに向かって水滴みたいなのを飛ばしてたのが見えたんだよ。魔法で作った毒か?」
 一挙手一投足を見逃さない。
 それは、こういう対峙する前に行われる不可視の攻撃に対しても効果を発揮する。この女は、戦いを知っている。
 常在戦場。自らが存在する場所、それはすべて戦場になる。
 不意打ちや毒を盛る事など、勝つ為ならして当たり前の行為。
「……やるわね」
「やけにあっさり認めるな」
「まあね。これが失敗しようが、成功しようが、あたしにとってはどうでもいい事。毒を持つ生物のいやらしさ、たっぷりと味あわせてあげる」
 そう言って、先ほどから食べ進めていたパンケーキ、その最後の一口を頬張り、結衣は席を立ち、二人の元を去って行った。
「……何、幸太郎、もう蜂須賀先輩に喧嘩売ったの?」
 ぽそりと、周囲に聞こえないよう呟く季作。幸太郎は、どれだけ心が今の一言で歪んだか表す様に、眉間にシワを寄せる。
「お前な。俺がそんな、誰彼構わず喧嘩売る様な人間に見えるか?」
「見える」
「人を見る目があるって褒めたいところだが、理由がないとやらないからな? 俺だって」
 幸太郎は、辟易としながら、ラーメンを避ける。結衣の毒が入ってしまった以上、食べたらどうなるかわからない。そんなものを食べるほど、幸太郎のチャレンジ精神は強くない。
「……もったいねえなぁ。それ、食べていい?」
「……解毒魔法とか、覚えてんのか?」
「いいや。ただ、ラーメン道を極める物として、たとえ毒が入っていようと、ただ伸びていくラーメンを見過ごすわけにはいかない」
「まあ、俺ぁ別にいいけど……」
 死ぬ事はさすがに無いだろう、と高をくくり、幸太郎はラーメンを差し出した。自らの分はすでに食べ終わっていた季作は、それを受け取って、スープを飲んで、麺を啜る。
「美味いっ!」そう叫んだ次の瞬間、丼に顔面を突っ込んだ。
「おわーッ!? 何してんだお前は!」
 季作の頭を掴み、丼から掬いあげると、季作はラーメンに溺れる事が出来て幸せだと言わんばかりの表情で、眠りこけていた。
「……気づかなかったら、俺がこうなってたってわけか」
 毒を持つ生物のいやらしさ。
 幸太郎は、その言葉を頭の中で何度も反芻する。学校に来て二戦目にしては、少しヘヴィな相手。
「……くっそ恥ずかしい」
 今は蜂須賀先輩のことより、こいつをどうするかだな。
 幸太郎は、今日何度目かのため息を吐いた。
5, 4

  

 自分たちが散らかした皿をきちんと片付けた幸太郎は、気絶したのか眠ったのか、いまいち判断のつきにくい季作を背負って、保健室へやってきた。
 保険医である初老の男に季作を預け(なんで女じゃねえんだ、内心毒づく幸太郎)、五時間目の授業に出ようか迷ったが、季作のいない針の筵みたいな教室に行ってもロクな事にならないだろうと、幸太郎は学園をぶらつくことにした。
「あれ、幸太郎くんじゃないか」
 ぶらつこうと決め、廊下を歩き出した時、幸太郎の担任である南雲秀弥が、頭を押さえて青い顔色をぶら下げ、幸太郎の反対からやってきた。
「うっす」
「教室はあっちでしょ。――サボりかな?」
「まあ」
「一応僕も教師なんだけどなぁ……。サボりを堂々と言わないでよ。成績落としちゃうぞ」
「俺ぁ別に、ここ卒業できなくても全然いいんで、構わないっすよ」
「ちぇー。教師になって、生徒を成績の事で脅すのが楽しみだったのにな」
「性格悪いっすね……。んで? 先生は、給料泥棒すか?」
「んー、だといいんだけどねえ。僕は持病の偏頭痛で、ちょっと休ませてもらおうと」
「そっすか。俺はとりあえず、学校の見学行くんで……」
 踵を返し、その場を立ち去ろうとするが、その肩を南雲に掴まれ、幸太郎は表情を厳しくして振り返る。
「……なんすか」
「やだなぁ。どうせ暇なんでしょ? 僕、ベットにただ寝るだけって、暇で嫌いでね。お話しようよ。いろいろ気になるんだよね、キミはさ。ホープ・ボウ、僕は彼に憧れててねえ……。『実録、悪魔と戦うには!』バイブルなんだよー」
 幸太郎は、父親が過去に調子に乗って書いたラブレターを恥ずかしげもなく見せつけられた気持ちになって、顔が赤くなった。
 ホープは、自分で経験した事を自伝にし、出版社に持ち込んだりしていたらしく、幸太郎はその印税で育てられた。
「懐かしいなぁ。俺もそのくっそ恥ずかしい、おっさんを褒め称える本を、修行の際の教科書にさせられたっけな……」
 実際、書かれている内容はホープでなければ実戦不可能な事ばかりだったので、自伝や教則本というよりも、伝奇小説めいた人気だった。幸太郎も、まるで漫画の技を再現せよと言わんばかりの無茶な修行で、いつも半べそだった。
「ねえ、本当にホープさんは、全属性ミックス弾なんて、撃てたのかい?」
 興味津々、と言わんばかりに目を輝かせ、幸太郎を逃がさないよう、両手で肩を掴む。その熱意にちょっと引きながら頷く幸太郎。
「ほ、ほんとかい!? いやあ、すごいなぁ。あの描写はホープ・ファンでさえ半信半疑だったんだけどねえ。弟子が言うならホントだなぁ」
 全属性同時を全部混ぜた魔力弾を撃つ。
 火と水が相反するように、相性が悪い属性という物があるのは当然。全属性を混ぜて撃つという事は、その相性が悪い属性でさえ混ぜるという事。
「うーん……どうやってあれを再現しようか、魔法大学時代は友達と腐心したもんだぁ……」
 懐かしいなぁ、と恍惚の表情を浮かべ、保健室に入っていく。
 今しかない。幸太郎は、ダッシュでその場を逃げ出した。
「あっ、幸太郎くん! ――まったく、ちょっとくらい先生の話に付き合ってくれてもいいのになぁ」

  ■

「あー、かったる……」
 なんで俺が逃げ出さなきゃならんのだ、と幸太郎は肩を落とし、裏庭へとやってきた。森厳坂学園は、山の奥にある。切り開かれた敷地内と山の境界線は、自然豊かな広場の様になっており、まだ来て日が浅い幸太郎が見つけた数少ない安息の地である。
 中心にある、一番大きな木。その股の下に寝転がって昼寝する。
 絶対に気持ちいいだろうな、と幸太郎は昼寝のタイミングを伺っていたのだが、今日がその時。
「……んあ?」
「……なっ」
 その、幸太郎の寝床となるはずだった場所に、総魔告葉が腰を下ろし、文庫本を開いていた。木漏れ日というスポットライトを浴びた彼女は絵になっていた。
 普通なら、彼女こそこの場にふさわしいと、遠慮して他の場所へ移動しようとするのだろうが、幸太郎がそんな空気を読むような事をするわけもなく。
「なんでテメーがここにいんだよ。どけ」
「……相変わらず無礼な男ですね。ここはアナタの場所ではないはずですが」
「俺が予約してたんだよ。せっかくリラックスしに来たのに、不愉快なツラ見ちまったぜ……」
「こっちのセリフです。とっとと立ち去ってください」
 睨み合い、互いにいつ牙を剥くのか警戒しながら、幸太郎は樹を挟んで、背中を合わせた。
「……蜂須賀結衣」告葉は、本から目を離さないまま、そう呟く。
 昼寝しようとして寝転がっていた幸太郎は、「あん?」と空を見上げる。
「あなた。蜂須賀結衣……先輩と戦うそうですね」
「なんで知ってやがんだよ」
 と、ちょうどその時。
 幸太郎のケータイが鳴った。それを取り出し、画面を確認すると、季作からのメールだった。

『さっきはサンキュー。んで、俺の友達で、蜂須賀先輩シンパがいるんだけど、そいつが蜂須賀先輩から送られてきたってメール見てから様子がおかしいんだよ。俺もそのメール見せてもらったんだけど、自分の配下(ファンクラブ)に協力要請のメール送ってるらしい。当然、お前を倒す為だろうな。んで? どうすんの』

「なるほどね。噂にもならぁーな」
 幸太郎は、『さんきゅ』と簡素なメールを返して、ケータイをポケットに戻す。そうして、告葉はすらすらと、まるで本に書いてある事を読むみたいに言った。
「蜂須賀先輩は、入学時からこの森厳坂のトップランカーだった女ですが、勝てるんですか?」
 私でも苦労すると思いますが、と言って、告葉は本を閉じて、立ち上がる。
 幸太郎も、それと同時に立ち上がった。
「――お前程度なら楽勝だな」
 二人は、同時に同じ方向を向いた。互いではなく、明後日の方向だ。 その視線の先――茂みの中から、一人の男子生徒が出てきた。制服をきっちり着こなした、眼鏡の男子生徒だった。
 彼は頭を下げ、ちらりと告葉を一瞥してから、幸太郎へ視線を固定する。
「テメーか。蜂須賀のシンパってのは」
 彼は、幸太郎を指さし、魔法陣を描く。
(魔法――ッ!? 陣がある――精神感応系じゃない。攻撃――にしては陣を描くスピードが遅い――思考直結魔法か――)
 それらを一瞬で判断し、幸太郎は抵抗せず、その魔法を受けることにした。
 精神感応魔法――要するに、催眠術に似たような効力を持つ魔法が、わかりやすく陣を持っている事はそう無い。なぜなら、実用性に欠けるので、最初から陣の代わりが用意されている事が多いからだ。
 幸太郎の頭に、声が響く。

『ハローハロー? 荒城幸太郎。あたし、蜂須賀結衣よ』
「……んだよ、蜂須賀センパイ。用があんならそっちから出向けよ。さっきみたいによぉ」
『さっきのあれは特別。本来、女王から出向くなんてことはありえない。――ゲームをしない? 幸太郎』
「ゲームだと? ったく。子供染みた外見で、言動も思考もガキとなっちゃ救いようがねえな。ガキなのはおっぱいだけにしとけよ」
 聞こえるはずはないのだが、向こうから結衣の堪忍袋の緒が切れるような音がした。
『……もういいわ。ほんと、もうアンタなんかいらない』遊びつくした人形にかけるようなため息を吐く結衣。『あたしを倒したいなら、この学園の屋上にいるから、今すぐそこへいらっしゃい。ただし、あたしの配下には、アンタの姿を発見次第襲えと通達を出してあるわ。無事辿りつけたら戦ってあげる』
「……上等」
 パチン、と、結衣は指を弾いて鳴らす。
 そしてその瞬間、目の前に立っていた男子生徒が手を幸太郎に向けてかざす。
 光弾――ッ!
 幸太郎は、踵で靴を脱いで、その手に向かって靴を飛ばした。腕がズレて、幸太郎から軌道が逸れた光弾は、告葉へ向かって飛んだが、告葉は周囲に|銀の名を与えられし水《プラスシルバー》を張り巡らせ、光弾をガード。
 それを我関せずという表情で、まっすぐ目の前の敵だけを見据えたまま、裸足になった足を勢いよく戻して地面を蹴り、足先から魔力バーストを噴出。
 威力を上乗せした一足飛びで、急速に距離を詰める。
「――ッ!?」
 空中で体勢を整え、飛び蹴りを鳩尾に叩き込んだ。
「こ、ッ――あ」
 肺の中の空気が強制的に吐き出され、男の意識は魂が抜け出る様に断ち切られた。
「おい」
 幸太郎は、靴を履き直しながら口を開く。
「こいつに回復魔法かけてやってくれねえか。結構いいの入っちまったしよ」
「……まあ、いいでしょう。あなたの頼みだからではなく、人の道として」
「ありがとよ」
 大きく息を吐いて、手首と足首をほぐしながら、にやりと笑う。
 命というグラスを、ボールの上に置くようなスリル。グラグラと揺れる自分の命を見て笑うほどの乾き。幸太郎は一歩踏み出し、舌舐めずりをした。
 わりぃな、|師匠《おっさん》。
 戦う時だけは、復讐のこと忘れちまうわ。

 ■

 味方は居ない。
 誰が敵かはわからない。そんな状況だと言うのに、幸太郎は堂々と校舎へ向かって歩いた。
『いいか|小僧《コウ》』
 幸太郎の脳裏に、ホープの声が響く。
 得意げな顔で、煙草を吹かす彼の姿も見えた。
『男は一度外に出れば、七人の敵がいると思え、なんて言葉がある。――まあ、俺様の場合は七億人くらい居るが。そしてそいつら全員が一斉にかかってきても平気だが――。んまあ、お前みたいなモンは、そうもいかんだろう。敵が誰だかわからん状況で、それを判断する簡単なコツを教えてやる』
 幸太郎は、まっすぐ歩く。
 まだ昼休みだからか、周囲には運動に勤しむ生徒達がいたり、魔法の練習を行う生徒達がいたりする。今の幸太郎にとっては、誰も彼もが敵に見える。
 ベンチで話し合う女生徒二人の前を通ろうとした瞬間、幸太郎は、片方の女生徒と同時に、拳を突き出した。
 だが、女生徒の方は当然魔法である。突き出した掌、魔力が練られ、外気に触れ、現象になるまで、拳を突き出すワンアクションと比べれば、新幹線とSLほどの差がある。
 散手で、幸太郎は彼女の顔面を軽く叩いた。
「キャァ!」
 突然の不意打ちに、女生徒は目を押さえて転がり、ベンチから落ちる。仰向けになった瞬間、幸太郎は彼女の腹を踏みつけて、気絶させておいた。もう一人の女生徒も、幸太郎へ攻撃を仕掛けようとしたが、仕掛ける距離を誤った。手が届く距離は、幸太郎の領域。
 彼女の首へ手を伸ばし、軽く片手で握ってやる。
 気道が圧迫されて、呼吸がままならない。そこで幸太郎に手を伸ばし、魔法を放つ事ができれば、彼女にも正気はある。
 だが、人間は首を締められると本能的にその締め付ける物を外そうとして、首へと手をやってしまう。
 さらに、呼吸が乱れて集中出来ず、魔力を練る事もできない。
「なっ、げ……ッ、わだし、だぢが……」
「あん? なんで敵だってわかったか、だと?」
 幸太郎は、彼女の瞳を覗き込み、「教えるわけねーだろ。テメエで考えろ、魔法使い」
 親指の位置を動かし、幸太郎は彼女の血管をより強く締める。
 酸素が巡らなくなった脳は、ガス欠の車みたいに止まって、彼女は白目を向き、ぐったりと力を抜いた。
 彼女から手を放し、残心を怠らず、気絶したかどうかを、首筋に手を当てて呼吸で確認する。
 規則正しい呼吸だ。しっかり落ちているらしい。
『お前を狙っている敵は、素人の場合、お前の姿を見た瞬間、一旦空気がリセットされるんだ。
 ――ああ? わかりにくいだぁ?
 んー……なんつうのかなぁ。例えばだ。お前の事を知らんぷりしようとするだろ? そうすっとだ、一瞬だけ準備する時間が生まれるんだよ。
 表情が一瞬険しくなったり、落ち着きが無くなったりな。
 確実じゃあないが、かなり高確率だ。覚えといて損はないと思うぜ。
 目は口ほどに物を言う、って言葉があるが、口だけじゃない。体の動き全てに意味がある。視野を広く持てよ』

 ――ああ、わかってるよ。師匠。
 魔法は落伍者でも、相手がどんな力を持っていようと、自分の持てる全てを研ぎ澄まして戦って、打ち砕く。
 沸騰する血。急く足。
 すべてを抑え、クールに歩を進める。
 まるで噴火する前のマグマみたいに、体が震える。久しぶりの大暴れ。
 幸太郎の胸、もっと奥にある何かが、そっと疼いた。
 屋上に行けば、蜂須賀と戦える。
 幸太郎は口笛を吹きながら、廊下を歩いていた。周りの生徒は奇っ怪な目で見ていた。目付きの悪い、乾きかけた血みたいな赤い髪の男が、そんな上機嫌にしていれば、嫌でも目立つというもの。
 そんな中、幸太郎の前に三人の男子生徒が立った。
 敵意を存分に混ぜた視線で幸太郎を見つめていたが、彼は軽く笑ってから、小さく足の裏に魔力バーストを放ち、それを何度も繰り返すことで彼らの間をするすると抜けていった。
 彼らは、幸太郎の背中を信じられないように見ながら、しかしただ素早いだけだと掌に魔力を練り込んで、幸太郎の背中を狙う。
 だが、幸太郎が左手を軽く挙げて、握っていた拳を開く。
 そこから、制服のボタンがいくつも落ちていた。
 はらりと、男子生徒達の制服が開いて、中のシャツが露出した。通り過ぎざま、幸太郎が引きちぎったのだ。
「……わりぃんだけど、俺ぁ今、セール品の肉なんて食う気しねえんだわ」
 目指すは、上等な脂が乗った高級霜降り。
 学園トップランカーと言われた女、蜂須賀結衣ただ一人。
 三下とやって萎えるのだけはごめんだった。

  ■

 腹が減ればなんでも美味い。
 しかし、元から美味い物なら尚の事。もっと我慢すれば、もっと美味い物が食える。幸太郎は、蜂須賀シンパを軽くいなしながら、屋上に辿り着いた。
 屋上には誰もいない。と、思いきや、給水塔から飛び降りて、結衣が幸太郎の前に立った。
「……来たわね。来ると思ってたわ」
 彼女は、槍を肩に乗せて、幸太郎を睨む。殺意もやる気も充分。漲っていた。
 槍の間合いから三歩ほど離れた位置。互いの射程距離は、まだ重なっていない。幸太郎は拳を挙げて、いつもの構えを取った。
 左半身を向け、左拳のガードは下気味。そして、右拳は顎の横に置く。当然、握りは軽くだ。ボクシングに明るい人間から見れば、『防御は完全無視の構えか』と思うだろうが、幸太郎にしてみれば、これは攻守バランスの取れた構えだった。
 左手はジャブ、そして攻撃をいなす為に前方へ押し出している。フリッカー気味の拳で前方からの攻撃を叩き潰し、叩き潰せない攻撃は掌で押して逸らす。
 そうして作った隙で一気に飛び込み、自慢の右ストレートで叩き込む。
 体格に恵まれたわけではない幸太郎が、どうやって相手を一撃必倒の元に倒すか。
 ――当たり前の誤解ではあるが、ボクサーは腕力でパンチを打っていると思われている。だが、実際には腕力など一つの要素に他ならない。
 大事なのは体の『キレ』
 膝を強く踏み込んで、腰を回転させ、肩から肘で拳を押し出す。
 まるで拳をムチの様に使って、相手の急所を撃ちぬく。
 ガチガチの|打撃系《ストライカー》である彼には、その体のキレが第一なのだ。
 そうした基礎を知らない結衣は、槍を両手で持ち、前のめりの様に構える。
 彼女の槍は、名称で言えば大身槍に近い。戦国時代の足軽が持っているような、刃の部分が長い槍、とでも言えばいいのだろうか。
 絵に無数の紋様が刻まれている所からも、彼女の魔法に無くてはならない物である事は明白。
 ――ボクサーがジャブから入るように、魔法使いの戦術は、光弾から入るのがセオリーとされる。相手の手垢と血で汚れない様、綺麗な身で勝つのが魔法使いの理想。
 だが、そんな理想はクソ食らえだと言わんばかりに、結衣は一歩踏み出し、唇を尖らせ、鋭く息を吐いて、槍を突き出した。
 幸太郎は、その光景を見て、にやりと笑った。
 まずは丁寧に躱す。
 腹を狙って――、一撃目。
 サイドステップでそれを躱し、次いで二撃目の横薙ぎをバックステップで躱す。
 大きい横薙ぎだ。これなら飛び込んで、蜂須賀の顎をフックで揺らして、足に機能障害を起こすことができる。
 幸太郎は、足裏で魔力を爆発させ、超人的な踏み込みで、自らの拳の射程範囲に結衣を納めた。
 動作はコンパクト、最小限に、最短距離で。
 |顎《チン》ジャブ。
 渾身の右ストレートが、結衣を狙う。
(この男――ッ、マジ!? あたしの|美少女顔《プリティーフェイス》に、なんの躊躇いもなく拳ぶつけようっての!?)
 そんな困惑が、結衣の心に満ちるが、表情は輝いていた。
 左手を突き出し、光弾を発射。
(早ぇ――ッ!! さすがトップランカー!)
 幸太郎の経験則で見ると、彼女は魔力の練り込み速度、そしてその密度、モーションの鋭さ全てに鍛錬の匂いが染み付いていた。
 魔法は技術。
 戦いは遊び。
 そういう考えの魔法使いが多い中、彼女はひたすらに実戦のための牙を研いでいた。
 そういうところが見えて、幸太郎は彼女を見直し始めていた。
 だが、だからといって負けてやるほど、幸太郎は甘くない。
 迎撃か、それとも回避か。迎撃すれば隙ができて、槍がニュートラルに戻る。
 回避? どちらにせよ同じ――いや、こちらの方が悪手だ。ステップで躱してもまだ槍の射程圏内だし、今度は光弾が連射で飛んでこないとも限らない。
 まだ結衣が様子見している今こそ、ぶっ倒すチャンス。
 幸太郎は、そのどちらでもなく、光弾に向かって突っ込んだ。
 その光弾を、鍛えた腹筋で受ける。
「うグッ……!?」
 腹の中で昼食が出口を求めてグルグルと回る。だが、幸太郎は踏ん張った。もっと痛いのをくれと言わんばかりに、踏み込んだ。迎撃すれば、回避すれば隙ができる。なら覚悟を決めて踏み込むだけ。
 覚悟は、痛みを避けて通ることではない。
 痛みをその体にどれだけ受けても倒れない事だ。
「このまま――ッ!!」
 渾身の、左ジャブ!
 矢どころではない。弾丸の様な左ストレート。魔法使いなら、間違いなく喰らっていた。
 だが、結衣は|防御魔法《シールド》を張っていた。寸止めのような位置で幸太郎の拳が止まる。だが、幸太郎の左拳は、魔力バーストで防御魔法を砕く。そのまま突っ込むのではなく、フェイント気味に素早く拳を引いた。
 そのまま、ワン・ツーのリズムで、右拳を素早く結衣の顎に叩き込んだ。
 結衣の顎が左に揺れる。改心の一撃に見えた。
 ――幸太郎の表情を除けば。
(手応えが浅ぇ……! この野郎、拳を知ってやがる!)
 喧嘩をしたことがあるようにも見えない彼女が、先に頭を振って、さらにサイドステップまでして、拳の衝撃を殺した。
 結衣は見事なステップで幸太郎から距離を取って、自らの肩を抱いて、俯いてブルブルと震えた。
「……ッ! いい、いいじゃない荒城幸太郎……!」
 顔を挙げて、彼女は幸太郎をうっとりとした目で見つめた。
 幸太郎も、にやりと笑って、構え直す。
「やっぱ、ぶつかってみねえとわかんねえな」
 口には出さないが、幸太郎は彼女を見直し始めていた。戦いを知っている魔法使い。九波とも、告葉とも違う。
 九波はただ、自分の魔法を相手にぶつけることを生き甲斐とする独り善がりの野郎だった。
 告葉は、魔法が上手く、確かに驚異的だったが、戦闘の『いろは』の『い』も知らない少女だった。
 だが、目の前の蜂須賀結衣は違う。
 戦闘を知り、魔法も知っている。九波とは違って、幸太郎を見据え、告葉とは違い、魔法以外の技術も制する。
「一つ聞いてもいいか?」
 構えを取り、臨戦態勢を崩さないまま、幸太郎は口を開く。
「……何かしら?」
「お前、拳を知ってるな? この魔法時代、拳を握るやつは少なくなった。まあ、マジック・ボクシングなんてモンがあるが――」
 結衣は、幸太郎を見つめたまま、一挙手一投足見逃さないよう、視線を動かさずに答える。
「――答える義務はないでしょ?」
「だな」
 ゴングもない。それどころか、ギャラリーもいない。
 合図なんて何もない。なのに、二人は一斉に動いた。

  ■

 蜂須賀流槍術、という武術がある。
 お察しの通り、蜂須賀結衣の実家であり、戦国時代に端を発する古流武術。一対多数の戦いを得意とし、そのあまりに華麗で鋭い立ち振舞から、大名直々に『蜂須賀』の苗字を頂いた。

 魔法という技術が入ってきて、科学との違いが一般に線引されるまで、科学の立場が一時的に悪くなったことがある。
 主に鉄鋼業だ。鉄の加工が魔法で容易になり、技術がしっかりと定着するまでは、鉄鋼業の株が軒並み下がった。
 ――そしてそれは、格闘技にも起こったのだ。
 何度も言うが、魔法使いとは『生まれながらにして銃を持つ者』であり、銃を持っている人間相手に戦う事は、プロの格闘家でも避けたがる事態だ。
 格闘技をやる人間は、その程度の差と味付けが違えど、共通して「誰よりも強くなりたい」という根幹がある。
 しかし、もしも街で魔法使いと喧嘩になれば、格闘技などなんの役にも立たない。
 格闘技でいうところのジャブ――光弾で一撃の元倒れているのが落ち。
「そんならやる意味ないじゃん」
 誰しもがそう言った。
 そしてそれは、蜂須賀流槍術でも同じ事。
 だいたい現代社会で槍を持ち歩けない以上、普通の格闘技以下ではないか。
 彼女の実家は、そして誇りである技術は、そうしてバカにされ続けた。

「……結衣や。もうやめなさい」
 実家の道場。
 現在から遡って、一〇年前。蜂須賀結衣、七歳。移動の際の足捌きを隠すための袴道着を来て、彼女は師匠である実の祖父と試合をし、負けて、跪いていた。
「はぁーッ……はぁーッ……!」
 息を特殊な呼吸法で整え、立ち上がって、祖父を見つめる結衣。
「何を、言ってるの、おじいちゃん……。あたしが、あたしが強くならなくちゃ――」
 彼女は、泣きそうになった目をこすり、祖父を見つめる。
「魔法なんかに、私達の槍は負けないって、私が証明するんだから!」
「……いいんだよ、結衣。お前はまだ小さい。それは私の――」
「おじいちゃんだって、もう全盛期は過ぎてるじゃない。なら、あたしの全盛期をもっと高めることが、蜂須賀流の反映に繋がるの!」
 祖父はその言葉で、結衣を抱きしめた。瞳から涙が流れるのを、結衣に見られない為に。
「……いいんだ。お前は自分の人生を楽しめ。もう死ぬ武術に、お前のこれからを懸ける事はないんだ」
 声が震えていたから、結衣は涙を見ずとも、祖父が泣いているのがわかった。
 祖父は強い男だ。槍など無くとも、大の男一〇人だって問題じゃない。そんな祖父が泣いていた。
 生まれた時から可愛がられて、厳しく武術を叩きこまれた。
 尊敬していた。誰よりも強く、一人でも生きていける男。しかし、家族を愛し、自分を愛してくれた。
 それが、時代が変わったくらいで、今までの人生がドブに捨てられる。
 祖父を敬愛する彼女にとって、それは自分自身がどれだけバカにされたとしても到達できないほどの熱を持った怒り。
「あたしが、もっと強くなって、魔法なんか跳ね除ける。そしたら、胸を張って言うんだ。あたしのおじいちゃんこそ、地上最強だって」
 もっと強く、祖父が結衣を抱きしめた。

 だから、彼女は祖父のツテを頼り、あらゆる武道と対決した。格闘技冷遇時代。互いの傷を舐め合う様に、あるいは、格闘技の力を確かめる為に、格闘技経験者がこぞって試合を多くするようになった。
 そういうドサクサに紛れて、結衣も他流試合を多くした。
 同い年、年上、大人。
 才能に恵まれ、指導者に恵まれた。しかし、ここで一つの問題が発生する。
 彼女が、剣道相手に戦った時の事だ。
 間合いは槍の方が有利。だが、小回りは効かない。剣道は握りによって、手首をちょっと捻るだけで切っ先が縦横無尽に駆け巡る。
 槍に比べて変化に富むその動きに、非常に苦労させられたのを結衣は覚えている。だが、それに勝った。
 しかし、面を外している最中。
 また一つ、蜂須賀流槍術の最強を証明した喜びを噛み締めていると、相手が身内に対して放った言葉が聞こえてきた。

「いやあ、あの子可愛いから、つい手を抜いちゃったよ」

 頭が真っ白になった。
 そんなはずない。本気の鋭さを持った剣筋だったはずだ。あれが手抜き? 冗談じゃない。
 最強を目指す私に対して、手を抜いたっていうの?
 蜂須賀は、気にしていない風を装って、シャワー室へ入って、道着を着たまま泣いた。
 まるで彼女が負けたみたいに、泣いた。
「ふざけんなッ!!」
 真っ白なタイルを殴った。決して武道家としては恵まれた体格ではない。女性としても小柄なその体躯で、大人と同じ槍を振り回すのだ。見えないが、その内に秘められた筋肉量は、同年代の男子ですら軽く凌ぐ。
 そんな彼女の右ストレートで皮が剥け、白いタイルが赤く染まった。
 可愛いという言葉に、何度もぶつかった。
『あんな可愛い顔を傷つけるのは悪くてねえ』
『可愛い子なのにすごいねえ。あんだけ槍が使えて』
 勝ったのに、手加減する理由があったと言われているようで、結衣のプライドは酷く傷つけられた。
 その度、『向こうがプライドを守るために言ってるんだ』と言い聞かせ、『私が女だから、褒めれば悪い印象は抱かないとでも思っているんだ。私は可愛いなんて言葉はいらないし、自分が可愛いとは思わない』と、鏡を見ながら思った。

 しかし、事実彼女は容姿に恵まれていた。
 小学校中学年程度になってくると、男子生徒がクラスメイトの女子がどれだけ魅力的かに気づいてくる。
 一人の男子生徒が――まず間違いなく結衣に好意を抱いていた男子生徒が、結衣を遊びに誘った。
 しかし、修行があるからと断った。男のプライドが傷つけられたと思ったであろう彼は、おおよそ結衣にとって、一番言われたくない事をピンポイントで言ってしまったのだ。

『もう格闘技なんて終わったモンじゃん。時代は魔法だよ。それに、蜂須賀は可愛いんだしさ、そんな男っぽいもんやってないで、もっと女の子らしいことしなよ』

 彼女のコンプレックスを、二つ同時に刺激した。
 激昂した彼女は、拳で男子生徒の鼻っ柱を思いっきり殴った。
 そして、思い切り泣きじゃくった。男子生徒は理由がわからず、鼻血を出して結衣を見つめていた。本人としては褒めたつもりなのに、殴られた上に泣かれたのだ。褒めるつもりが、傷つけてしまう。人生ではよくあることの、初体験。
 それから彼女は、二つの答えに辿り着く。

 魔法が人間の技術となってから、その才能を集めようと人間社会は貪欲になった。だから、まるで流行病の予防接種をするように、学校で魔法の才能があるかどうかをチェックする決まりになっている。
 そこで、結衣は自身に魔法の才能があることを知った。
 魔法を毛嫌いしていたあたしに、魔法の才能があるなんて、皮肉だなぁ。
 そう思った。
 だが、そこで閃いた。
 もし、もしも蜂須賀流槍術に、魔法を組み合わせたらどうなるんだろう……?
 純粋な興味だった。だが、槍術に無粋な物を持ち込むのでは? そうも思った。
 だが、合気道にも槍術を模した型がある。むしろ時代に合わせて消えない為の努力をするべきなのではないか?
 結衣はそう思い、祖父に相談し、蜂須賀流魔法槍術を完成させた。
 そして、そうなってくると、もう一つのコンプレックスにも、答えを出した。
 そうだ。あたしが女で、可愛いと言われる事も、組み込んでやる。
 あたしの体すべて使って、勝ちを拾うんだ。
7, 6

  


  ■

 幸太郎の制空圏に、槍の穂先が入ってくる。
 命を刈り取る穂だ。結衣は、戦いの結果どちらかの命がこぼれ落ちようとも関係ないと思うタイプ。
 それは、この短い刺し合いの中で幸太郎も察していた。
 望む所だった。まさか学生の魔法使いと――それも女と、こんなにスリルのある戦いができるとは思わなかった彼は、体の奥から響いてくる歓喜の音に乗り、その切っ先を――胸を狙ってくる切っ先をサイドステップで躱す。
 躱した方向へ、追いかける様に横薙ぎ。体から離れた位置にヒットポイントがある武器は、こうして敵を追いかける事に長ける。
 だが、幸太郎はすぐにバックステップ。中途半端な距離に居ては、まさに蜂の巣と化してしまうだろう。だからこそ、まずは横薙ぎを誘ってから、即射程圏外へと飛び出す。
 横薙ぎは大きく振る為、ニュートラルに戻すのに時間がかかる。
 戦いの攻防に置いて、一瞬でも隙を作る事は、命を投げ出す事と同意。
 幸太郎は爪先で地面を蹴り、それと同時に魔力バーストで弾丸スタート。
 ニュートラルに戻る前に、先ほどと同じく顎へ一撃叩き込む。
 ――だが、同じことが通じるほど、蜂須賀結衣は甘い女ではない。
 ニュートラルに戻すのではなく、そのまま横薙ぎの軌道に身を任せ、一回転。一度止めてから戻すのでは、その止めた時間で幸太郎がスイートスポットに踏み込んでくる。
 流れに身を任せれば、戻す時間は圧倒的に短縮されるのだ。
 まるで風に舞う蝶の様に回って、槍の位置をニュートラルに戻した。
 まさに|蝶のように舞《フロートライクアバタフライ》、|蜂のように刺す《スティングライクアビー》。
 幸太郎の腹目掛けて、穂先が飛ぶ。
 しかし、幸太郎も同じ手を二度使うほど甘い男ではない。
 地面を思い切り足で叩いて、跳んだ。
 身長、およそ一四〇センチ弱。そんな体格の結衣を、幸太郎はジャンプで飛び越え、背後に回った。
「チ――ッ!」
 結衣は、穂先を地面に突き立てる。そうすると、石突が斜め上を向き、幸太郎の腹へと突き刺さった。
「ぐぅ――ッ!!」
 槍が若干押されるような手応えと、幸太郎の声から、狙った位置に石突が入った事を悟る。
「やぁぁぁぁぁッ!!」
 槍を肩に乗せ、まるで釣り竿を投げるように、全身の筋肉を隆起させ、石突を幸太郎の鳩尾に引っ掛け、幸太郎を持ち上げ、目の前の地面に叩きつけた。
「ぐぁ――ッ!」
 痛いのは慣れている。
 追撃が来る前に、幸太郎は立ち上がろうとするが、呼吸がままならない。胸の中心と背に、激痛が走る。
(クソッ! ――鳩尾で横隔膜、背中強打で直接肺を潰しに来やがったか!)
 幸太郎は、魔力バーストで地面を叩いて、無理矢理射程圏外に出た。
 本来、魔法使いは強烈な痛みに襲われると、その痛みで集中ができず、魔力を練る事ができず、魔法が使えない。しかし幸太郎の魔力バーストは、魔法というよりも、ただ魔力を勢いよく垂れ流すだけ。練っていないから、対して集中する必要もない。だから激痛の中でも出せるのだ。
 魔力バーストの威力で飛び、地面に肩から落ちる幸太郎。
「ガー……ッ、ハァー……ッ!」
 なんとか呼吸を整えようと、幸太郎は立ち上がる。だが、横隔膜は痙攣し、背中の激痛で肺が上手く機能しない。
 これが蜂須賀流槍術、『|落葉《らくよう》』だ。
 鳩尾を突き、動きと呼吸を同時に止め、鳩尾に石突を引っ掛けて、そのまま投げる。
 本来ならこれは一撃必殺の奥義。背骨くらいなら折れていてもおかしくないが、幸太郎は激突の瞬間、四肢で魔力バーストを地面に叩き込んで、衝撃を殺したのだ。
 立ち上がった事に驚きながらも、結衣は走った。
 幸太郎はフェンスに追い詰められ、寄りかかっている状態。呼吸困難にある以上、幸太郎一番の武器である拳は震えない。
 筋肉を使うには、酸素を必要とするのだ。
 結衣は穂先を地面に突き刺し、棒高跳びの要領で跳んだ。
 そして、空中で槍を持ち上げ、頭上で回転させ、遠心力を貯める。
「|電撃《ライトニング》!」
 叫びと同時に、槍の穂先に電撃が走る。
「|放電《ディスチャージ》!」
 そして、幸太郎に向かって、槍の穂先を振り下ろした。
 蜂須賀流魔法槍術、『|稲光《レーザーランス》』
 高密度の魔力を電撃に変換。そして、遠心力を込めて袈裟気味に空中で振り下ろす。それはまさに、稲光の様な一閃を描き、幸太郎の頭へと落ちる。
(迎え撃つ――駄目だっ、拳がダメージで出せねえ……!)
 当たる部分に魔力バーストを出して、刃を逸そうと考える。だが、当たるのはおそらく頭頂部。幸太郎が魔力バーストを出せるのは四肢の先だけ。頭頂部には出せない。
 しかし、ありとあらゆる事態を、創意工夫で乗り越えるのがホープ・ボウ考案の『対魔法使い戦術』である。
 こういう危機こそ集中。思考速度を加速させて、状況を整理する。
 避けなければならないのは、刃の部分。電撃を纏っているから、掠ってもマズイ。白刃取りという手段は使えない。
 無理矢理息を吸って、一歩踏み出し、ズボンのベルトを外して、それをまるで手錠の様に手首へ巻いた。
 そのベルトで、槍の柄を受け止め、絡めとり、槍をレールの様に道標とし、走り出す。
(この呼吸量だと、走りに回す分も含めて一発分――。これで決めないとマジでやべえ!)
 幸太郎は、拳の間合いに入ると、右手をベルトから開放。左手で槍を制したまま、思い切り右の拳を弓引き、放った。
 意表を突いた。防御魔法の暇なんて無い。槍を持つことで逃げ場を封じている。
 勝った!
 勝利を確信した幸太郎だった。
 だが、結衣はなんと槍を手放し、バックステップで幸太郎の拳から逃げたのだ。
「な――ッ!」
 その光景が、幸太郎には信じられなかった。
 槍の使い手がそれを手放すなど、戦いを放棄しているも同義。幸太郎の観察眼には、戦いの最中負けを認めるほど、プライドの無い女ではないはずだった。
 ――そして、幸太郎の考えは当たっていた。
 誇り高い彼女が、戦いの最中に武器を手放すには、それ相応の理由がある。
 彼女の手に、もう一本の槍が現れた。
 これが蜂須賀流槍術と魔法が融合した、真骨頂である。実家にストックしてある槍を、時空間魔法でいつでもどこでも何本でも取り出せる。
「グッ、くそ……」
 今のチャンスをモノにできなかったのは痛い。
 しかし、距離ができたのは不幸中の幸いだった。幸太郎も魔力バーストでバックステップし、さらに距離を取って、空手の呼吸法、息吹で体の中にたっぷり酸素を取り込んで、落葉のダメージを極力回復した。
「……まさか、あの追い詰められた状態から|稲光《レーザーランス》を躱されるとは思わなかったわ」
「あの程度、楽勝なんだよ。あれじゃあ俺は殺せねえな」
 話しながらも、幸太郎は先程外したベルトをズボンに戻す。その間にも、結衣は攻めてこない。
 ここまでの戦いで、幸太郎が動ける限り、どんな状況も打開するとわかったのだ。
「――蜂須賀流魔法槍術。それがあたしの使う流派」
「あ、そ。俺に勝てねえ槍術になんて、興味ねえ。その名前、俺が地に叩き落としてやるから、来いよ」
 人差し指のみで手招きをする幸太郎。
「あんたの減らず口に免じて、蜂須賀流の本気、見せてあげる」
 結衣は槍を構え直し、その手から槍に魔力を注入していく。
「――蜂須賀流は、戦国時代に端を発した古流槍術。一対多数を得意とするが、蜂の名を関するのは、鋭い刺撃だけが由来じゃない」
 ぴちゃり。
 どこからか水音がして、発生源を探る。水音は、結衣の持っている槍の穂先から垂れる、粘り気のある透明な雫だった。
 なんだあれはと見つめる幸太郎の視線に、結衣が答える。
「蜂須賀流は、その槍の技術だけじゃない。穂先に塗った毒による、一撃必殺。そしてこれは、私が特別に作った毒魔法、『|雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》』当たれば動けなくなる、即効性の神経毒」
 あれか。昼間にラーメンに入れられたのは。
 納得した幸太郎は、毒を飲んでしまった季作の姿を思い出す。ああなったら、戦うどころの話ではない。
 おそらく、|雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》こそ、蜂須賀結衣の奥の手だろう。だが、なぜ奥の手を晒した?
 毒というのは秘密だからこそ威力を増す物だ。
 槍は殺傷力の高い武器であり、当たればタダでは済まない。そこに毒が加われば、相手へのプレッシャーも大きいが、それよりも警戒させない方が当てやすいはず。
 何か狙いがあるはずだ、と幸太郎は考える。
 しかし、当たってみなければ何もわからない。
 幸太郎が使う『|対魔法使い戦術《アンチ・マジックシステム》』に欠点があるとすれば、それは相手を知らなければ全力を出せないという事にある。
 根幹は『魔法への対処法』である為、魔法使いが全員使える、光弾や防御魔法には強いが、蜂須賀の|雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》や告葉の|銀の名を与えられし水《プラス・シルバー》のように、使用者本人が編み出した、いわゆるオリジナル魔法は、一度戦ってみないと対処ができない。
 つまりは、初見に弱いのだ。
 そしてそれが、|対魔法使い戦術《アンチ・マジックシステム》最大の弱点と言っていい。
 幸太郎はガードを下げた。つまりは、両手をだらりと下げて構えてもいないという事。
 そのまま、ステップを踏んで。リズムに乗る。
 回避に専念し、結衣の懐に潜り込む。それを重視した構えなのだ

 結衣はそのノーガード戦法を怪しんだ。
 ここに来て、防御無視だなんて、何か企んでいるのでは?
 そう思ったが、しかし彼女は、自信に溢れていた。
 なにがあろうと、叩き潰す。
 一歩踏み出し、間合いに幸太郎を入れて、槍を突き出した。
 サイドステップで躱す。
 先ほどまでは横薙ぎで追撃してきたが、今回の蜂須賀は、素早く引いて、もう一度突き出した。
 ボクシングのジャブめいたスピードで毒の槍が突き出され、幸太郎は回避で一杯になってしまう。
 突いて、逃げた方向への横薙ぎは、確かに当たりやすいが、外した時は隙が大きい。しかしこれなら、懐に入るリスクはグッと減る。
 だが、リスクは減れど、当たり難い。
 槍はその構造と大きさ上、直線的な攻撃になってしまう。
 今更ただの直線攻撃が当たるほど、幸太郎の格闘センスは鈍くない。
 ステップを踏み、結衣の手元を見て、上体を反らしたりしながら、悠々と躱す。
 体格差もある所為で、身体能力は完全に幸太郎が上回っていた。
 リズムはわかった。そして、横薙ぎを廃した突きの連続攻撃で、懐に潜り込まれるのを恐れているのもわかった。
 結局、今の上体ならやる事はボクシング相手と同じ。
 槍が引き戻されるのと同時に突っ込んで、急所に一撃入れる。
(――ここだッ!)
 幸太郎は、槍が思い切り突き出され、戻される瞬間、踏み込んだ。
 |見え見えの大振り《テレフォン・パンチ》になっても構わない。槍を捨てて逃げる時間も与えない。
 肩に、チクリとした痛みが走った。
 何度も拳を振るったから、肩の筋肉が傷んだのかと幸太郎は思ったが、違うのだとすぐにわかった。
 振り切るはずだった拳が、止まった。
 それどころか、体が動かない。足が震えて大地に掴まっていられず、幸太郎は尻もちを突いた。
「なっ、なん――だッ……?」
 幸太郎は、反射的に舌を噛んだ。激痛で気付けをし、意識だけは失わない様に。
 そんな彼を見下す様に、結衣は石突を地面に突いて、戦いは終わったとばかりにため息を吐いた。
「――本当、強かったわ。幸太郎」
「ばっ、かやろ……、まだ、終わってねえだろが……」
 そう言いながら、幸太郎は周囲を探った。
 結衣の槍は当たっていない。だが、これは間違いなく、結衣の|雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》。
 そこへ、屋上の入り口に隠れていた、一人の男子生徒が現れた。彼女は結衣の隣に立つと、小さく頭を下げる。その目には光がない。先ほど幸太郎を呼びに来た男子生徒と、同じ目だ。
 おそらくは蜂須賀に精神感応魔法をかけられ、自由意志を奪われているのだろうと、幸太郎は予想する。
「|雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》をこいつに渡しておいたのよ。私が説明を始めたら、隙を見てあんたに撃ちこめって指示してね」
「……だか、ら、毒の効力を、説明しやがったのか」
 毒の効力を知っていれば、幸太郎は槍に注目し、周囲への警戒を怠る。結衣は最初から自身の槍を囮にすることで、伏兵の存在を当てるその瞬間まで隠していたのだ。
 汚えぞ、と幸太郎は言わなかった。
 元々タイマンだと言われていない。「私が戦ってやる」と言われただけ。確かに結衣は戦った。嘘は一切吐いていない。
 それなら、悪いのは勘違いした幸太郎だ。
「……好きな戦い方じゃ、ねえが……。有効的だ、認めてやるぜ。俺を倒すなら、こんくらいしなくっちゃあな……」
「ふん、男らしいわね。敗北を認めるっての?」
「バカなこと言ってんじゃ、ねえ……。俺が、負けるわけねえだろうが……」
「現実逃避はいい加減にしなさいよね。見下しているのはあたし。勝ったのもあたし」
 結衣は、幸太郎の頭上に、自身の人差し指を置く。
「私はね、毒系魔法を得意としているけど、もう一つ得意にしている魔法がある。それは、精神感応魔法。あたしに好意を抱いた人間なら、簡単に術中にハメる事ができる。つまり、あたしの顔に騙された人間は、その時点であたしの思うがままってわけ」
 なぜそんな話をするのか、幸太郎にはすぐわかった。
「だけど、あんたみたいなタイプはそうも行かない。――もっと意識が混濁した状態でないと」
 結衣の人差し指から、一滴雫が垂れた。
 間違いなく、意識を混濁させる為の毒。そうして前後不覚になったところで、|魅了魔法《チャーム》をかける気なのだ。
 そうすれば、幸太郎はもう二度と結衣に逆らう事はできない。リベンジ・マッチなんて二度とない。
 つまり、一生越えられない存在となる。完璧な敗北。
 この雫を飲んではならない。
 そうは思うが、幸太郎は顔をそむけるどころか、口を閉じる事もできない。まるで餌を待つひな鳥の様に、口を開いて、その雫を飲み込んだ。

  ■

『情けない』
 聞き覚えの無い声が、頭に響いた。女の声だ。少女、というほど幼くはない、ハスキーボイス。
 けれど、まるで自分の声みたいに馴染み深い声だった。
 誰だ? 幸太郎は問う。
『あんな女に負けて、どうすんのよ? あーあ。こんなんじゃ、ホープも悲しむわね』
 誰だ? 幸太郎は問う。
『まあ、アンタは弱いからねー。でもだからって、ここで負けられると私も困んのよ。だから、力を貸すわ。――いや』
 女の声が、一拍遅れる。
『アンタの体を、貸しなさい』

「あぁあぁぁ――――ッ!!」
 毒を飲んだ瞬間、幸太郎が叫びだした。
 叫ぶわけがない。むしろ、ぐったりと倒れるはずだった。何か、自分の想定外の事が起こっているのだと、結衣はすぐに理解した。
「離れなさい!」
 横に立っていた男子生徒に叫ぶが、間に合わなかった。
 結衣はバックステップで躱したにも関わらず、男子生徒は、立ち上がった幸太郎の回し蹴りに巻き込まれ、フェンスまでふっ飛ばされて、そのまま気絶した。
 あの軌道は、蹴りの軌道は、間違いない。
 幸太郎は間違いなく、結衣と男子生徒、二人共一辺に蹴り飛ばすつもりだったのだ。
「なっ、なに!? 幸太郎に何があったの!?」
 特別な耐性でも持っていたのか?
 どうしてなのか考える前に、目の前の光景へ釘付けになった。

 幸太郎の赤錆めいた色の髪の毛が、鮮血の様な色に変わっていた。
 短めに、無造作に放っておかれた髪が、腰まで届くほど長くなっていた。
 そして、胸元が開いたYシャツから、膨らんだ胸の谷間が覗いている。
 顔に刻まれた黒い紋様は、どうやら全身に刻まれているらしい。
 まさに変身と言ってもいい変わりように、結衣の頬に汗が流れた。
 どうやら幸太郎は、奥の手を隠していたらしい。動けるところを見ると、どうやら|雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》の効力はすでに切れているらしい。
 結衣もそれはすぐにわかった。
 しかし、それでも認めるわけにはいかない。
 |雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》は、蜂須賀家秘伝の毒薬を魔法で再現し、さらに毒性を強め、効果の選択も自由自在という、毒としては理想的な物だ。ちょっとでも体に入れば、結衣の選んだ症状を押し付けることができる。
 彼女がプライドを守るために編み出した、奥義だった。
 時代に打ち勝つための、力だった。
 だからこそ、彼女はこう考える。
(回復したわけがない! 変身したからって、効力まで消えるわけがない!)
 現実逃避、願望にも近い考え方。
 信じたいからそれを信じた。
 だが、幸太郎だったはずの髪の長い女は、毒が体に入っている事などまったく感じさせずに、踏み込む。
 魔力の気配など一切していないのに、魔力バーストを使った幸太郎以上の踏み込みで、その動きは結衣の目には負えなかった。
「ッ!?」
 だが、咄嗟に結衣は防御魔法を張った。
 戦闘センスから警戒していたので、できたのだ。
 だが、赤い髪の女は、それを砕く事もせず、まるで何も無かったみたいに、拳をバリア内に突っ込んだ。
「バカ――なッ!」」
 槍の柄で、その拳をガード。
 地面を思い切り踏み込んで、踏ん張るが、暴風に連れ去られる木の葉みたいにふっ飛ばされ、地面を転がる。槍は拳のインパクトで折れ、使い物にならない。
 結衣はすぐに、『あいつには防御魔法を無効化する力があるんだ』と理解する。
 それならば、と槍を取り出して、結衣はそれを振りかぶって、女に向かって思い切り放り投げる。
 手から離れた槍に、魔力を通して、構造を解析。
 そして、魔力で解析した構造を、隣の空間に再現した。
 すると数十本の槍が一瞬にして出現。
 蜂須賀流魔法槍術『|地雨《フォールスピア》』
 赤い髪の女は、傍らに落ちていた、先ほど結衣が捨てた槍を足先で蹴っ飛ばし、手の中に収めると、それを構えた。
「ほっ」
 まるで、ゴミ箱に軽くゴミを放るような掛け声で、その女は槍を振るって、自身に当たる槍だけ的確に叩き落として、さらに、結衣へ向かってその槍を投げた。
 人間の力で放たれた物とは、到底思えなかった。
 赤い髪の女が振り切ったところが見えたと思ったら、次の瞬間には、結衣の右肩を貫いていたのだ。
「いっ、そんな、なんで……!?」
 魔法らしい魔法を使っている様子はない。
 しかし、それでも生物としての圧倒的差が、今の結果を生んでいた。
「なっ、何者よ……。荒城幸太郎じゃ、ないわね……!?」
 激痛。そして、上がらない右腕。ダメージは深刻だ。
 ダメージを確認しながら、結衣は赤い髪の女を睨む。彼女はまるで、腕白少年の様に歯を見せて笑う。
「私はハチェット・カットナル。何者でもないわ。しいて言えば、荒城幸太郎自身」
「……どういう意味よ。同一人物だっていうわけ?」
「厳密には違うけど、まあそんな感じかしらね。――言い残す事は、もうない?」
 ゾクリと、結衣の背中に鳥肌の波が訪れる。
 人間が持てる量を軽く越えた魔力が、彼女の背から漏れて、結衣を威圧していた。
「まさか」と結衣は呟いた。
 人間を越える魔力量を持った生物なんて、思い当たるのは一つしかない。
 悪魔――。
 人間を遥かに越えた能力を持つ、超常の存在。
 
9, 8

  

 そして、人間がその超常の存在になるには、たった一つしか方法が無い。
 悪魔憑き。
 強さの為に、悪魔へと身を売ること。
「荒城、幸太郎ぉぉぉ……ッ!!」
 結衣は落胆から、そして落胆から怒りへと変わる。
 幸太郎と戦ったからこそ、彼女は幸太郎の心根を理解していた。
 誰よりも強くなくては我慢ならない。魔法が使えないからなんだってんだ。魔法が使えないなら、拳で戦う。
 そういう、誇り高い男だと思っていた。
 それがまさか、コンプレックスに負けて、悪魔をその身に宿していたとは。
 思いつく限り、最悪の手段を取っていたなんて。
「ガッカリしたわ。アンタには、今まで散々コケにされてきた。でも、今のアンタの姿が、一番あたしをバカにしてんのよ……!!」
 悪魔に勝った魔法使いというのは、歴史上にそう何人も居ない。
 ホープ・ボウが死んだ現在となっては、おそらく存在していないだろう。
 しかし、蜂須賀結衣も、幸太郎に負けず劣らず誇り高い女だ。
 相手が悪魔だからと言って、引く事はしない。
「その目を見ればわかる。引く気はないんでしょう? いいわ。覚悟を決めなさい。次の瞬間には、死んでるから」
 表情を消し、ハチェットは一瞬で体重移動を終え、膝を伸ばして解き放つ。
 なんて軽やか。
 なんて強靭。
 理想的な筋肉から繰り出される動きは、美しく、雄々しい。
 この世で理想的な物は、すべて大なり小なり矛盾を孕んでいる。その矛盾をねじ伏せる事こそが強さだ。結衣の目の前に立つ女は、その立ち振舞全てが強かった。
 鉄火場にいながらも、動作一つ一つが日常茶飯事を歌う。
 しかし、彼女の十年はそんな相手にだって勝つためあった物。
「|倍増《ダブル》! |加速《ブースト》!」
 左手だけで構えた槍の穂先が、まるで蜃気楼の様にダブり、自身にかけた加速魔法で、結衣もハチェットへ向かって突っ込んだ。
 両者、激突地点へ。
 結衣は、突進した加速度を、槍に乗せて突き出す。
 倍増の魔法をかけたそれは、穂先を増やすことにより、一突きで複数の傷をもたらす。
 蜂須賀流魔法槍術『|吹雪《ストームランス》』
 早く、そして戻しの隙がないという、吹雪のような連打。
 だが、ハチェットはその刺突を躱し、カウンター気味の前蹴りを結衣に叩き込む。
(バカな――っ! 槍に、蹴りでカウンター!?)
 しかも、売価と加速の籠もった一撃。
 この一閃は、結衣に悪魔の力を叩きつける結果となった。
 再び地面へと叩きつけられ、結衣は吐き気を必死に抑えこみ、「まだ、まだ……!」と必死に自分を鼓舞していた。
 だが、すでに心の奥底が抗いがたい敗北感でいっぱいだった。
 当たり前だ。もう戦えるダメージではない。そもそも、結衣の体格で幸太郎とここまで打ち合っていたのが奇跡なのだ。
 弱い体だ。戦いを続けていくには、無理を重ねるしかない。
 だが、体の傷よりもプライドの傷の方が重い。たとえ体がイカれようと、一生を棒に振ろうと、ここで降参するくらいなら死を選ぶ。忘れられない戦い方をして、派手に死ぬ。
 それが戦う者の生き様であり、死に方だ。

『お前じゃあ、約不足なんだよ』

 負けたくない。立ち上がれ。
 自分を励ます言葉ばかり積み重ねていたそこに、突然、不純物とも言える後ろ向きな言葉が降ってきた。
 静かな場所で聞こえる水滴の音みたいに目立つ。明らかに自分の声ではない。
 男の声だ。割れたガラスみたいに細く、甲高い声。
「だっ、誰よ……余計な茶々入れてんのは……!」
「あれ? まだ生きてる。――ちっ。手加減が難しいなあ」
 ハチェットは、力加減を確認する為、虚空へ向かって蹴りを二、三発出した。まるでボクサーのジャブ。それを蹴りで行うという、強靭な足腰は、結衣を戦慄させる。
『俺に変われ。お前は舞台を降りる時だ。お前じゃあ、悪魔には勝てない』
「だから、なんだってのよ……。勝てないから、諦める……? 殺すわよ。|名無しヤロー《ゼロプライド》」
 誰だかわからない存在にこの場を譲る?
 冗談じゃない。この腹の傷は、肩の傷は、全身に色濃く残る疲労は、どう落とし前をつけるというのだ。
 弱い言葉に耳を傾けていたら、戦えない。そういう道を歩いてきた彼女が、この場を譲るなんてありえない。
 世界が滅びようが、どうなろうが、せめて一太刀入れる。
『やれやれ。無駄な事だ。悪魔に勝てるわけないだろう。――同じ悪魔じゃなきゃ、な』
「……はっ」
 まるで、後ろから両頬を撫でられたような不快感が襲ってきた。
 そして次の瞬間には、それが思い切り、自分の体を引っ張った。
「――えっ!?」
 自分の体が、自分の意識から遠ざかっていく。
 錯覚としか思えないその光景に、結衣は唇が切れるほど歯を食いしばった。ああ、負けたんだ。
 こんなにもあっさり、意識を手放してしまうなんて。

  ■

「まさか、荒城幸太郎が悪魔憑きだったとはなぁ」
 結衣の口調が、明らかに変わって、ハチェットは口笛を吹いた。そして、鼻から軽く息を吸い込んで、確認する。
 結衣の中に、悪魔が入ったらしい。彼女の影から、黒い触手が這い出してくる。あれは間違いなく、闇魔法だった。
 人間には出すことのできない、魔力の純度が高いからこそ現れる魔法だ。
 ハチェットは、頭を掻いて、にやりと笑う。
「やっぱり。情報は間違ってなかったってわけね。間違いなく、あの時ホープを殺した、黒い魔法使いの闇魔法。――私の魔力に釣られて、出てきたのね」
 にやりと笑い、足のスタンスを広げて、腰だめに構えるハチェット。
 結衣には見せなかった、彼女本来の|構え《スタイル》だ。
 先手必勝。
 一歩踏み出し、一撃叩き込む算段で、ハチェットは足を踏み出そうとした。しかし、その足が動く事はない。
 恐怖で足が竦んだわけではないが、何故か動かない。
「……なによこれ?」
『て、めぇ……! 誰だか知らねえが、俺の体で好き勝手してんじゃねえ……! 返しやがれぇぇぇ……ッ!!』
 足を止めていたのは、幸太郎の意思だった。
「ばっ……! なんで意識失ってないのよ!? 私は本気でを封じ込めたのよ!?」
「し、ったことかよ……!」
 ついに、足だけでなく、口まで取り返し、喋ってみせる幸太郎。
 いまだ手中にある目で、ハチェットは相手の姿を認識。ここでうだうだやっているよりも、幸太郎に譲った方が危険は少ない。悪魔の支配をボロボロの体で逃れるような男だ。体の主導権を取り合っている内に、やられてしまう。
 だからハチェットは、舌打ちをして、すぐに幸太郎の奥底へと引っ込んでいった。
 髪の色が元の乾いた血のようにくすんだ赤へと戻り、髪の長さや胸も、体中に刻まれた紋様もなくなり、結衣にもらったダメージも、戻ってきた。
 毒はハチェットが引き受けたからか、若干の体の痺れのみ。
 これならまだやれる。
「よぉ……その影から伸びる触手、見覚えがあんぜ……。俺の事は、覚えてるか?」
「……あぁ。覚えてるぜ。ホープ・ボウにくっついてた、ガキだな? あれは俺にとってベストバウトだった。お前からの罵声も含めてな」
 結衣の顔で、悪魔が笑った。
 そして、持っていた自分の武器――槍を振るって、「なるほどな」と呟いた。
「俺はこれで戦ってやるよ。ちょうどいいハンデだろ?」
「――ハンデ?」
 幸太郎は、右のストレートを突き出し、ステップを踏んで、悪魔を睨む。
「俺ぁ、全開だ。お前を殺す為の鍛錬もした。ハンデなんて言ってたら、殺されるのはお前だ」
「くくくっ……」悪魔は、「確かにそうだな」と言って、槍を捨てた。
 まさか素直に槍を捨てるなんて思わなかったので、面食らった幸太郎だったが、すぐに思い直した。
 そんなわけねえだろ。あいつは俺をナメてる。
 だから、まっすぐ自分の顔面に向かって飛んできた槍を、首を捻って躱してみせた。
「おおっ!」どうやら、悪魔も躱すとは思っていなかったらしく、手を叩いて、無弱な子供のように喜んだ。
「すげえ! ――完全に不意をついたと思ったんだけどなあ。やるじゃん」
 敵を前に、気を抜いていなかったからこそ出来た芸当である。
 悪魔は、飛ばした槍を手元に魔法で戻し、先ほどの結衣と同じように構えた。
 本気でハンデをつけるつもりだと悟った幸太郎は、「後悔すんなよ」と、両手を挙げ、腹式呼吸をしながら、ゆっくりと下ろす。
「スゥー……」
 そして、両足のスタンスを広げ、両手を腰に下ろし、低く構えた。
「……なんだぁ? その型は。攻める気がまるで感じられねえなぁ。それで勝つ気か? 攻撃しなきゃ、勝てねえぞ!」
 間合いを詰める、穂先を突き出す悪魔。
 だが、幸太郎は槍の攻略法を、先程までの攻防で、すでに編み出していた。
 腰に溜めた腕を振るって、刃先を下から叩いた。槍のヒットポイントは、側面と先端に限られる。だから、下から叩き、上に軌道を逸らすことで無力化。
 空手の技、回し受けである。腕を回転させるように、敵の攻撃を逸らす、空手の基本防御。
 そこから一歩踏み込み、幸太郎は拳の射程圏内に敵を収め、正拳突きを叩き込んだ。
 ――だが
「なるほど、いい拳だ」
 ニヤリと笑い、悪魔は拳を握って、幸太郎の横っ面を思い切り殴った。
「グッ……!?」
 まさかここに来て、拳が飛んでくると思っていなかった幸太郎は、モロに喰らってしまった。
 しかし、結衣の体を使っている所為か、あまり効いておらず、ダメージよりも困惑が頭に満ちる。
「だけど、お前じゃあ俺には勝てねえ。俺に勝ちたいんなら、さっきの赤い悪魔を出せ」
「ふざけんな。テメエは、絶対に俺の手で殺してやるァッ!!」
 幸太郎の拳よりも速く、悪魔は手を突き出して、光弾を幸太郎に向かって放ち、それが顔面にクリティカルヒットした。
 師であるホープ以外の光弾を喰らった事がない幸太郎は、思わず「こういう感触がするのか」という気持ちになってしまった。
 上に弾かれた顔を、前に向けて悪魔を見据える。
 だが、舌に何も当たらない事にすぐ気づき、顎が砕けたと自分のダメージを確認した。
「闘志もいい。……確かめたい事は、確かめられた。俺はそろそろ帰るわ」
「に、逃すと、思ってんのか……!?」
 喋る度に、顎を鋭い痛みが走る。
 これ以上の戦いをすれば、命にダメージが届いてしまうだろう。しかしそれでも、やめるわけにはいかない。
 長年追いかけた悪魔が、目の前に居る。今日を逃せば次にいつ会えるかもわからない。だから、今死のうとも、殺すしかないのだ。
「悪いけど、こっちにもこっちの目的があるんだよねえ。だから、復讐には付き合えない。ごめんねえ」
 と、まったく悪びれずに言ったかと思えば、結衣の体から黒い霧が抜け出て、空へと登っていく。
「まっ、待て……!!」
 その霧に向かって、手を伸ばす。だが、虚しくそれは消えていく。今までの年月を、復讐に費やした年月を否定されていくような気持ちになり、幸太郎は膝を突きそうになった。
 しかし、それだけはしない。
 ここにいることはわかった。なら、今までと同じように、諦めず追い続けるだけ。
 あの黒い悪魔を殺すまで、心を折るわけにはいかない。
「――やっと、出て行ったわ……!」
 結衣が、胸を押さえて、必死に酸素を取り込もうと口で呼吸をしていた。
 そして、彼女は槍を構え直し、呟く様に言った。
「……何が、なんだか、わかんないけど、あんたも正気に戻ったんでしょ……!」
「――あぁ。……幕引きだ」
 幸太郎も、拳を構えた。
 互いのダメージが尋常ではない事を、二人共わかっていた。次の一合で決まる。
「……さっきは、俺に毒を飲ませてくれたな」
 幸太郎は、脱力したような佇まいで、ゆらゆらと揺れながら、呟く。
「今度は、俺の毒を味わわせてやる」
 そうは言うが、幸太郎が魔法を使えないことは、シンパが集めた情報で、結衣は既に知っている。
 毒薬を持っているのかとも思ったが、しかし、幸太郎の性格で毒なんて使わないだろう。それをするくらいなら、悪魔を封じ込めることなんてしない。
 だから、結衣はその言葉を無視して、最後の一撃を準備し始めた。
「|加速《ブースト》、|加速《ブースト》、|加速《ブースト》!!」
 結衣が呟く度、槍が鼓動するように震えた。
 兵は神速を尊ぶ。戦いに置いて、速さとは何よりも重要な物だ。情報伝達速度、行動速度、すべてにおいて速度が求められる。
 攻撃の究極は、すなわち、防御不能なスピードにある。
 蜂須賀流魔法槍術、奥義にして原点。
 初めて結衣が、祖父に一撃入れた技。
 その名も、『|神鳴《ブリッツ》』

 この技には、一つ欠点がある。
 もう一つは、槍の速度を加速させる奥義である為、体への負担が大きい事。つまり、後には何も残さないという、決死の覚悟があってのみ出せる技という事。

 なにがあろうと、目の前の敵を貫く覚悟を持った時のみに出せるからこその、奥義なのである。
 さらに、当たりどころがどうであれ、戦闘不能になるよう、刃先には|雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》も塗られている。

 ――しかし、彼女はわかっていなかった。
 なぜ、ダメージを負っていようと、幸太郎が待ちを選択したのかを。
 彼は、ゆっくりと左手を突き出す。
 まさに雷の如きスピードで幸太郎の心臓目掛けて突き出された結衣の槍とは、正反対の動き。しかも、拳すら握っていない。
 だが、そんな雲の様に揺らめく掌が、穂先の前へと運ばれ、貫かれた。
 しかし、幸太郎はその槍を掴んでいた。
 加速魔法とは、与えられた速度を倍加させる魔法。つまり、元々の速度を殺せるだけの力があれば、止めることはできる。その止める事が、至難の技なのだが。
「ぶっ、|神鳴《ブリッツ》を、止め――なっ!?」
 幸太郎は、その槍を引っ張った。傷口がより深く、えげつない角度に抉られながらも。
 そして、右拳を振り上げていた。
 幸太郎は、|雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》を二度見ている。
 一度目は、ラーメンに混ぜられたのを季作が飲んだ時。
 二度目は、先ほど自分で喰らった時。
 毒とは初見でこそ、最も威力を発揮するモノ。|雑に混ぜられた毒《カクテル・ポイズン》は、効果が現れるまでに五秒ほどのタイムラグがある。
 奥義が止められた同様で、手を離す事が遅れた結衣は、慣性の影響で幸太郎へ向かって歩かされてしまう。
 そして、射程圏内に入った瞬間、引き金が絞られる。
 肩から幸太郎の拳が、結衣の左耳の裏を目掛けて、放たれた。
 ゴッ、という鈍い音が、結衣の頭の中を駆け巡る。
「おっ――、おぉ……!?」
 思わず、槍を手放し、幸太郎から二、三歩離れて、尻もちを突く結衣。
「槍を引っ張ってからの、カウンター……。いい、アイデアだけど、あたしは、まだ倒れてないわ……!」
「だが、もう立てない」
 幸太郎は、左手に飲み込まれた槍を、苦悶の表情で引き抜いて、倒れた。
 立って、止めを刺さなくてはならない。そう思った結衣は、地面に手をつき、立ち上がろうと踏ん張る。だが、まるで体が言うことを聞かない。まるで他人の体が、「お前なんかに好き勝手させるか」とでも言うように、立ち上がってくれない。
「……どうだ。立てねえだろ」
「それが、何よ。あたしには、まだこれが――ッ!」
 手を突き上げて、槍を取り出し、投げようとした結衣だったが、しかし、幸太郎も、同時に地面を叩き、両手で魔力バーストを放っていた。
 それは推進力となり、幸太郎をミサイルのように飛ばした。
 躱す? それはできない。
 結衣は、幸太郎の放ったパンチで、三半規管を揺らされ、体に機能障害が起こっている。
 ボクシングの技術、『アンダー・ジ・イヤー』と呼ばれるモノだ。耳の裏を殴ることで、直接三半規管を揺らし、動きを封じる、まさに神経を蝕む毒の拳。
 その拳を喰らった結衣は、当然動けず、幸太郎の頭突きを、その頭で受ける事になった。
 それだけのダメージを頭部に受け、結衣は意識を手放し、倒れた。
 幸太郎は、それを見て、仰向けになり、「よっしゃ……」とため息混じりに言った。
「俺も、まだまだだな……。もっと、修行しなくっちゃあな……」
 きっと、あの黒い悪魔は結衣よりも強いはずだと、幸太郎は拳を握る。
 体の痺れが、どんどん加速していく。
 できれば早く目覚めて、治癒魔法をかけてほしい。結衣を見ながら、幸太郎はそう思った。

  ■

「……ん? んー……」
 痛みで寝る事すらできない幸太郎の隣で寝ていた結衣が、空の色が赤に染まった頃、起きだした。
 上半身を起こし、隣に寝る幸太郎を見て、「……なにやってんのよ、あんた」と言った。
 すでに毒の痺れは取れていた彼は、手を頭の後ろに敷いて、足を組み、血まみれの顔で
「激痛で動けなくってよ。治癒魔法かけてくれると助かる」と言った。
「……しょうがないわね」
 まず、自分の体に治療魔法をかけてから、幸太郎の体に手を添えて、彼の体を治していく。
 暖かな光が彼女の手から溢れ、それが幸太郎の体を照らせば、すぐに体の傷が治った。
「うっし。やっと帰れるぜ。午後の授業まるまるサボっちまったけどなぁ」
 立ち上がって背筋を伸ばし、あくびをして、幸太郎は座ったままの結衣に手を差し伸べた。
「お前、強かったぜ。さすが森厳坂のトップランカーって言われただけはある。魔法使い相手に、こんな苦戦させられるとは思わなかったしよぉ」
 と言って、笑った。
 結衣はその手を取って、「あ、ありがとう」と困惑したように言った。
「蜂須賀流槍術、つったか。見事なもんだぜ。特に、鳩尾に石突を引っ掛けての投げ。後背筋と腕の筋肉をしっかり鍛えてなきゃあできる技じゃねえ。魔法も、基礎の光弾から腕を磨いてたのがわかるしな。俺の修行も、まだまだだって確認させてもらった」
 ありがとな、そう言って結衣の肩を叩き、幸太郎は屋上を去る。彼にとって結衣との戦いは、魔法使いを舐めてかかった自分を戒めるようなモノだった。
 黒い悪魔がこの学校に居ることが間違いでない事もわかったけれど、一つだけ気がかりな事があった。
「……なんだったんだ。あの、赤い悪魔は」
 幸太郎の中に潜んでいた、ハチェット・カットナルと名乗る悪魔。胸に手を当て、呼んでみるが、応えはなく、気配もなかった。


  ■


 その後、幸太郎は自分の寮に戻り、食堂で夕飯をたらふく平らげた後、自室でたっぷりと眠った。
 そうすると、体が万全になって、外にどれだけの敵がいようと大丈夫だと思える。
「ふぁー……あ……」
 あくびをしながら、鞄を担ぎ直し、寮と学校の間にある、森に切り開かれた石畳の道を歩く。
 相変わらず、乾いた血のような赤い髪という、わかりやすい特徴があるからか、周囲に人はいるが、幸太郎は遠巻きに見られているだけで、避けられている。
 入学してからずっとこうなので、今更どうしようという気にもならないし、どうでもいい。むしろ、周りの魔法使いはみんな敵なのだ。これくらいがちょうどいい。
「……あら。おはようございます、荒城幸太郎」
 一人の女子生徒を通り過ぎた時、その女子生徒から声をかけられ、振り返る。幸太郎を呼ぶ女子生徒など、一人しかいない。それは、総魔告葉だ。
「あぁ? ――なんだ、テメエか」
「一応顔見知りということで、朝の挨拶をしたのですから、まともな返事くらいしてもいいのでは? ……まあ、元々期待などしていませんあが」
「俺とお前は、決着がついてねえってこと忘れんなよ。今、この場でやりたいくらいなんだぜ」
「……やれやれ。もうあなたと戦う理由などないというのに。これだから野蛮人は」
「その野蛮人に負けそうだったのは、誰だろうなぁ? ええ、オイ」
 睨み合う二人。
 幸太郎はいつでも攻撃できるよう、拳を握っていたし、告葉も右手に魔力を込めていた。
 そんな時。
「ダーリィーン!!」
 と、大きな声が聞こえてきて、幸太郎と告葉は、その声がした方へと視線を向ける。
 なぜか、幸太郎に向かって笑顔で両手を広げて飛んでくる、蜂須賀結衣がそこにいた。
「なんだぁ!?」
 幸太郎は、驚きのあまり躱し損ねてしまい、思いっきり結衣に抱きつかれるハメになった。
「な、ななななんだよ蜂須賀センパイ!? 昨日あんだけやったろうが! またやる気かよ!?」
 なんとか結衣を体から外して、鞄を地面に捨て、拳を構える幸太郎。
「違うってば。もう幸太郎と戦う気はないわよ」
 はい、と鞄を拾って、幸太郎に手渡す結衣。それを訝しげに受け取り、「どういうつもりだよ」と警戒心を露わにする。
「――昨日の戦いで、私は初めて出会ったの。おじいちゃん以外に、私より強い男ってのにさ。あんたに惚れたの。だから、これからはダーリンってことで、よろしくね」
「ふざけんな」
 鞄を背負い、幸太郎は結衣に背を向ける。
 だが、結衣はまるでそれにめげず、幸太郎の腕に絡みついた。
「離せ! 俺ぁこんなバカげたことに付き合う気はさらさらねえぞ!」
「いいじゃないの、こぉーんな美少女が惚れたって言ってるんだから、もっと喜んでも」
「俺ぁ自称美少女に用はねえ」
 幸太郎は幸太郎は、腕を振り回して、結衣を引き剥がそうとするが、さすが武術で鍛えられただけはあり、まったく離れる気配がなかった。
「……よかったですね。荒城幸太郎?」
 告葉は、まるで小馬鹿にするように笑って、幸太郎の一歩先を歩き出す。
「おい! その目は納得できねえぞコラァ!!」
 追いかけようとするが、しかし結衣が邪魔で走る事もできなかった。
10

七瀬楓 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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