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穢れに捧げ、癒し歌:15

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 ――――

 アルフヘイムの船上ではニフィルが生焔礼賛の詠唱を続けていた。
 彼女の足元に描かれる魔法陣は二重、三十と重なり複雑な文様を刻み続けている。
 迸るニフィルの生命力と甚大な魔力を前にダート達は立っているのが精いっぱいだ。
 「――舞う鎖、踊る焔」
 それに構う余裕は今のニフィルにない。

 ――そうだ。こうして5年前も詠唱を行った。

 ニフィルの脳裏にあの時の光景が蘇る。甲皇国がミシュガルドのアルフヘイム領海に侵入するという報せを受けた時からどれだけこの罪を思い起こしてきたのだろう。
 頬につつ、と涙が流れた気がした。
 今禁術の詠唱をしているのは5年前の自分なのだろうか、と不思議な錯覚を起こす。
 「――希え、礼賛せよ」
 一言一言。その全てが自らを戒める楔の様だ。
 その楔は決して目に見えない。しかし、いつだって彼女の心を苛み続ける永遠の責苦。
 ふいにニフィルの眼前に夫婦神が現れた気がした。
 翡翠色の光の中、何かを必死に訴えようとしている。
 ニフィルは心中で頭を振った。違う。これは5年前の幻影だ。
 今はただ、あの怪物を、皆のために――

 「――ニフィル・ルル・ニフィー」
 「――愛しきアルフヘイムの仔よ」

 ウコンとゴフンが口を開く。
 同じだ。5年前と。
 その絶望を、後悔を、無視してニフィルは詠唱を続けた。
 夫婦神はなおも口を開く。

 「――今や我らの力虚しく――」
 「――しかし、我らが憂慮は転換をなした――」
 「――見極めよ。汝らの在り方を――」
 「――見極めよ。方舟が向かう新たな世界を――」
 
 
 衝撃で詠唱が一瞬途切れる。
 今、夫婦神は何を仰った。今の言葉は何を意味するというのだ。
 違う。こんなこと5年前は聞いていない。
 これは幻影ではないのか。
 ニフィルが問いかけをしようとした瞬間には既に夫婦神の姿は消えていた。
 「…っ」
 混乱が彼女を襲った。
 周囲を照らす翡翠色の光がかろうじて彼女に詠唱の事実を思い出させる。そうだ、今は。
 「……怨嗟よ怨嗟、この怨嗟…っ」
 生焔礼賛の詠唱を今すぐにでもやめてしまいたい衝動にかられながらも理性でそれを推しとどめる。
 詠唱とも罪の意識とも別の焦燥がニフィルを支配していた。
 5年前の禁術によって確かに夫婦神は消え去ったはずだ。
 ならば今目の前に現れた夫婦神はただの幻覚か。否、確信を持ってそれは違うということができる。
 「貫け、増えよ、滅されよ…!」
 思考のさなかにも詠唱は紡がれ続ける。
 ダート達の気配を探るに別段変わった様子は見られない。
 つまり、今の夫婦神は自分にだけ、あの警鐘を鳴らしに来たのだ。
 その真意はわからない。今はそれをじっくり検証する時ではない。
 今や彼女の足元には5重に魔法陣が展開され、同様に怪物を包囲する巨大な魔法陣が海面に現れていた。
 皇国とSHWの砲撃に気をとられていたその怪物はようやく自身を取り囲むその陣に気づき、それを破壊せんと腕を振るった。
 しかし強固な魔法陣はその攻撃を弾き、逆に怪物が体型を崩した。
 それによって荒波が起きる。
 ペリソンやヤーがそれに目を瞠るが、波はその魔法陣によって艦隊への到達を阻まれる。
 魔法陣の輝きが変化し始め、次第に白へと近づいていく。
 それは、詠唱の終わりを意味していた。
 「――輝く命、生ける焔、賛美せよ、羨望せよ、礼賛せよ!」
 全身の力を、魔力を、生命力を、振り絞ってニフィルは叫んだ。
 「禁忌解放、生焔礼賛!!」
 天から白く輝く柱が現れ、海上の魔法陣へと至った。
 その輝きは夜の帳を斬り裂く。
 穢れた黒を全て消し去るかのような白。
 それは間違いなく怪物を、そしてその周囲の黒い海を貫いた。




 はずだった。

――――


 「これが…生焔礼賛…!」
 驚嘆したのはペリソンだけではない。
 さきほどから船内ではどよめきが絶えない。
 SHWの艦隊と協力して怪物に砲撃を繰り返していた。
 途中で幾度となく怪物はアルフヘイムでニフィル・ルル・ニフィーが詠唱しているであろう魔法に反応し、その巨体を回転させようとしていたがその時はぎりぎりまで近づいてなんとしてでもこちら側に注意を向けさせた。我ながら無茶な行動ではあったと思う。
 しかし、それが今結実したのだ。
 どれだけ攻撃しても全く致命傷を与えることが出来なかった怪物は今、禁断魔法であろうあの光の柱に飲み込まれた。後は消滅を待つだけだろう。
 「これが…アルフヘイムの力か…」
 誰ともなく呟く。それを隣にいた兵に聞かれたようだ。
 「正直、我々だけではこんなことは無理でした」
 「そうだろうな」
 いくら皇国の最新鋭の兵器を用いたとしてもあの化け物を倒すことは叶わなかった。
 それはきっとSHWとて同じことだろう。
 アルフヘイムと協力をすることができたからこそ、この結果を得ることができた。
 「乙家には感謝せねばな…」
 まばゆい光の柱にペリソンは目を細める。
 あの時、彼らに諭されなかったらこの作戦は成立していなかったかもしれない。
 戦いの中でしかペリソンはアルフヘイムを知らなかった。魔法とは凶悪な代物で、エルフに心が通っているなど考えたこともない。
 しかし彼らはそんな自分とは違い、本気でアルフヘイムを、世界の変革を信じている。
 それはきっと自分にはできないことだ。
 「なぁ君」
 些か弱弱しい声がでた。それに気づきつつもペリソンは隣に立つ兵に尋ねた。
 「この共同作戦の後…我々はどう変わるのだろうな」
 兵士は慎重に言葉を選んだ。
 「突然我らとアルフヘイムの関係が大きく変わるとは…私には考えられません…。しかし、この出来事は1つの転換点となり得るのではないかと」
 「そうか…」
 本気で乙家の者たちに同調するのなら、本気で戦争のない世界を目指すというのなら。
 変えられるままに任せるのではない。
 自分たちで変えなければならないのだ。
 「これから、忙しくなるかもしれんな」
 ペリソンたちの眼前では未だ光の柱が輝いている。


――――


 「…っ!どうして…!!」
 闇夜を斬り裂いた光の柱。ニフィルの生命力によって必要な条件も満たされ、もはや怪物は封印の一途をたどるはずであった。
 しかし、一向にその気配がない。
 怪物は生焔礼賛の結界の中で抵抗こそできずにいるが、その魔法が予定通りの働きを見せる様子が見受けられないのだ。
 禁術発動によって作戦がうまくいったと喜んでいたダート達はニフィルの表情から状況を察し、顔色を変える。
 「ニフィル…どうしたのじゃ?」
 ダートが問いかけるが彼女は虚ろに首を横に振るだけだ。
 何故だ。どうして化け物は封印されない。
 5年前とは違い、確実な発動ができたはずだ。
 一歩後ずさってしまう。
 それだけは考えないようにしていた。それだけはあってはならないと思っていた。
 しかし、この状況では。
 「まさか…失敗したのですか…?」
 オツベルグがその言葉を口にした。
 「違…っ!!…っ!!」
 反射的に否定しようとするが、言い切る気力は既に潰えていた。認めてしまったのだ。
 「あ…あ…」
 白い光の中では未だ何も起きない。
 再び後ずさった。
 船が揺れ、よろめく。
 体勢をなおした彼女の目の前にはダート達が立っている。
 彼らは悄然とニフィルを見つめていた。
 その眼には動揺と失望が見え隠れする。
 それは、5年前と同じ絶望。
 ニフィルの心も真っ白に染まっていくようだった。
 「どうして…」
 脚も声も震えていた。音を立てて今立っている場所が崩れていく感覚を覚える。
 夫婦神の言葉も忘れ、ニフィルはすがるようにダート達を見た。
 助けてほしかった。泣いてしまいたかった。どうすればいいかわからなかった。
 「私は…私は…っ!!」
 「失敗したのよ」
 冷たい声がニフィルを刺した。
 その言葉にニフィルは硬直してしまう。この声は。
 ダートが声のする方を見るとソフィアが傘に腰をかけ、宙に浮いていた。
 その眼に宿しているのは凍てついた炎。怒りと侮蔑が入り混じっている。
 「あなたは…!」
 オツベルグが驚いて口を開く。瞬間、ソフィアの手から衝撃波が放たれ、オツベルグの身体を吹き飛ばした。
 彼の身体は船上を面白いほどに跳ねた。
 「オツベルグ!!」
 ジュリアが悲鳴をあげ、船体に叩きつけられたオツベルグの傍による。
 意識を失っているらしい彼の手からタンバリンが落ちシャン、と小さな音を立てた。
 「人間が私に気安く声をかけるとはね。穏健派と行動して調子に乗ったのかしら?」
 ソフィアは言葉と共に左手を軽くジュリアに向けた。
 察したダートがジュリアを押し倒す。彼らの頭上を禍々しい気を帯びた魔法弾が掠めていく。
 「|亜神《あじん》は決して人を許さない。それは神の御世よりの決め事。兄たる人の決してぬぐえぬ罪」
 次は外さないとばかりにソフィアは倒れ伏すオツベルグ、そしてジュリア、ダートに狙いを定めた。
 「何を…」
 ジュリアがソフィアを睨み付けるがその程度で怯む彼女ではない。再び魔法弾を発動しようとしたその時だ。
 「ソフィア…!」
 うめき声に近い、その声でニフィルがソフィアを呼んだ。
 ソフィアは緩慢に首を動かし、再びニフィルを見下ろす。ニフィルは歯ぎしりと共に問うた。
 「あなた…何をしに…!」
 「何をですって?」
 吐き捨てるかのようにソフィアは応えた。
 「あなたの失敗の後始末に決まっているでしょ?それともあなた一人であれをどうにかするつもりなの?」
 失敗。その言葉がニフィルの心を容赦なく裂く。
 言葉に出すだけでも勇気が必要だ。しかし認めるかのようにニフィルは再び問うた。
 「私は…また…禁術に失敗したのですか…?」
 「その通りよ」
 ソフィアはにべもなく言った。
 眼下で愕然とニフィルが膝をつく様を眺めながら、ソフィアは滔々と続ける。
 「ニフィル、魔法は生きてるのよ。この世に生み出された魔法は全て、私たちと喜怒哀楽を共にし、そして戦う。いわば私たちと魔法は一蓮托生の間柄。互いに信じ、愛し合うことが必要。それをあなたは…」
 次第にソフィアの言葉に怒気がこもり始める。
 ニフィルは作戦前の自分の言葉を思い出した。
 「友たる魔法を恨み、蔑み、そして憎んだ。あまつさえ生焔礼賛が欲する命の焔を自らの生命力などという中途なもので代えようとした。それが魔法への裏切りであると何故気づかなかったのかしら?」
 ニフィルの足元の甲板が姿を変え木の腕となる。反応が遅れたニフィルを捕まえ、彼女の胴を握りつぶそうとする。
 「…っぁああ!」
 苦痛の声をあげるニフィルを眺め、ソフィアは言った。
 「戦後、あなたは善人を気取って魔法を使わないようにしてたようだけど、私に言わせればあなたははなから魔法を使う資格なんてなかったのよ」
 「そんなこと…っ」
 反論しかけたニフィルを木の腕が甲板に叩きつける。
 息がつまり、言葉が途絶える。
 今度はダートとジュリアがニフィルのもとに駆け寄る。
 亜神と人が手を取り合う光景を見下ろしながらソフィアは右手を高く掲げた。
 「…よく見ておきなさい。これが本当の生焔礼賛よ」
 言葉と共にソフィアの右手の上に魔法陣が出現した。
 ニフィルが皇国やSHWの援護を受け、長い詠唱の末につくりあげた生焔礼賛の魔法陣だ。
 ただしニフィルのものとは違い七色に輝いている。
 「一瞬で…その陣を…」
 力なくダートが呟く。見上げる先のエンジェルエルフはやはり全てが規格外だ。
 「詠唱とは魔法発動のための補助。私と生焔礼賛の間にそんなものはいらない」
 ふつ、とソフィアが掲げる魔法陣が消える。同時に怪物を包み込んでいた光の柱も消滅し、七色の魔法陣が代わりに怪物を取り囲んだ。
 ソフィアは無感動な目でその方向を眺めている。
 圧倒的なその光景に呆然としていたニフィルはとある事実を思いだし、悲鳴をあげた。
 「ソフィア!待って!!」
 生焔礼賛には、贄が必要なのだ。
 「何を待つ必要があるのかしら」
 ニフィルははじめ、ソフィアは怪物を見ているのだと思っていた。しかし違う。彼女の視線の先にあるものは。
 待って。やめて。そんなことをしないで。
 オツベルグとジュリアを顧みる。そこでジュリアとダートもニフィルの思惑に気づく。
 「まさか…!」
 「…やめるんじゃソフィア!儂らはようやく新たな一歩を…っ!」
 「そんな一歩は必要ない」
 ソフィアが右手を突きだす。その先にあるのは皇国国の艦隊。
 「やめなさい!!」
 金切声にも似た叫びでニフィルが最後の抵抗をみせた。
 攻撃の魔法陣を展開し、ソフィアに狙いを定めた。
 生焔礼賛発動に再び失敗し、ソフィアに自身を否定された彼女にいつもの矜持は残されていない。
 それに、ニフィル自身も信じたかった。壊したくなかった。アルフヘイムと甲皇国が手を取り合えるそんな未来を。
 だのに。
 「黙ってなさい」
 ソフィアは左手をニフィルの展開した魔法陣に向けた。途端に魔法陣に刻まれた文字が変化し、その性質と効果が変わる。
 「なっ…」
 ソフィアに向けて放たれるはずであった衝撃波は逆噴射を起こし、ニフィルの側に向けて放たれた。
 弾け飛んだニフィルは辛うじて海への転落を免れる。
 その間にソフィアは皇国の艦隊に向けて魔法を発動していた。


――――


 突如怪物を覆っていた光の柱が消え去ったと思うと別の魔法陣が出現した。
 事態の変化に乗組員たちのどよめきが大きくなる。
 「…どういうことだ…?」
 アルフヘイムの艦で起きていることなど露知らず、ペリソンは首をかしげた。
 魔法の第二段階目かなにかだろうか、そう予想を立ててみる。
 いずれにせよ魔法陣は怪物を包囲しているのだ。問題はないだろう。仮に何か間違いが起きれば連絡が来る。
 「いずれにせよ今はアルフヘイムを信じる他ないだろう」
 そう周囲の者に言う。
 それもそうだ、と彼らも頷いたその時だ。
 艦が揺れた。
 「何だ!?」
 アルフヘイムの魔法によって荒波は軽減されているはずだった。否、それ以前に魔法陣の完成によって化け物が起こした津波は全て魔法陣によって阻まれていた。
 再びぐらりと艦が揺れ、ペリソン達は均衡を崩した。
 外にいた兵士たちが船内に転がり込んでくる。
 「てっ、提督…!艦が空中に…!!」
 「何だと!?」
 見れば水平線が次第に下へと移動している。否、この艦が上昇しているのだ。
 「アルフヘイム!アルフヘイム!一体何が起きている!?」
 焦燥を隠すことなく通信用の魔法陣に向かって叫ぶ。しかし何の返答も得られない。
 ソフィアによってその魔法は全て阻まれていたのだ。
 「アルフヘイム!」
 ペリソンが怒鳴る間にも戦艦は上昇を続ける。そして怪物の方へと移動を開始した。
 「このままでは…!」
 このままでは怪物を囲う魔法陣に侵入することになる。
 乗組員たちもそれに気づいたらしく、恐慌の中海に飛び込む者まで現れた。
 しかし、海は荒れている。加えて既に相当の高さにまで浮遊しているのだ。助かるとは到底思えない。
 「アルフヘイム!SHW!応答しろ!!」
 次第に怪物が近づく。否、こちらが近づいているのだ。
 何故だ。どうしてだ。何が起きている。
 焦燥の中ペリソンは愕然とある結論に達した。
 「……我々は…騙されていたのか…?」
 全ては皇国の艦隊を葬るための罠だった。
 怪物も、SHWも、乙家も、そしてアルフヘイムも。
 全ては仕組まれていたのだ。
 「馬鹿な……っ」
 ペリソンの全身が震えだした。
 「何が…何が手を取り合うだ…!何が新たな一歩だ…!」
 姑息で狡猾で、全ての信頼を壊すお前たちは。
 やはり人類の敵なのだ。
 「アルフヘイムゥウウウウウウウウウ!!」
 ペリソンの怒号が響く中、戦艦は魔法陣の中に突入した。
 瞬間、艦隊は蒸発したかのように消え去り、後には怨念のごとく軍服を纏う人骨が漂っていた。


――――


 皇国艦隊の船員たちが贄として確かに命の焔を消したことを確かめるとソフィアは涼やかに言った。
 「――禁忌よ花開け。生焔礼賛」
 魔法陣から極彩色の光がほとばしる。
 ニフィルが発動した白色の光の柱と異なり様々な色の光を発しながらソフィアの魔法は怪物を覆う。
 魔法陣は命をもてあそぶ殺戮の庭を成し、贄となった皇国の軍人たちの骨が新たな命の焔を目指して動き始める。
 何人もこの結界からは逃れられない。そして全ての焔が尽きた時、結界内の全ての亡者は封印されてしまうのだ。
 怪物はそもそも5年前の生焔礼賛によって命を落とした亡者たちの成れの果て。命の焔は宿していない。
 故に亡者たちの目指す先は怪物ではない。


126, 125

  


――――


 貫かれた右腕をむりやりに動かし、切られた左腕もあたかもその先があるかのように彼の背にまわす。
 全身傷だらけになりながらヒュドールは少年を抱きしめていた。
 尾びれがちぎれている。ブルーがほめてくれた淡い紫の髪も黒く染まりつつあった。
 意識が朦朧としている。もう体は動きそうにない。
 それでもこの腕の中にこの子はいる。

 ――お姉ぇちゃん…

 幻聴だろうか。
 それとも今、呼んでくれたのだろうか。
 ヒュドールは柔らかく微笑んで、たった一人の弟に呼びかけた。
 「なぁに?」
 もう、離さない。ずっと、ずっと一緒にいてあげる。
 あぁ、まばゆい。海の中、黒の中だったはずなのにこの極彩色の光は何だろう。
 「――…」
 なんだか、とても眠い。せっかくあなたを捕まえたのに。うとうとしちゃって、本当に駄目なお姉ちゃんね。
 お酒を飲みすぎちゃったかしら。
 「…ぉ……」
 少年が小さく声をあげた。
 彼の身体は既に黒に染まっている。死の穢れを抱きしめたヒュドールの身体も次第にそれに染まりつつあった。
 しかし、彼の目に映るヒュドールの姿はまだ人魚の里が平和だったころの優しく、淡い青と紫を纏っていた。
 「……ねぇ」
 つつ、と少年の目からも涙が流れた。やはりそれは海の黒と混ざることなく、清浄を保ち揺蕩う。
 のろのろと彼もヒュドールに手を回した。
 「ちゃ……」
 ヒュドールの消えかけそうな命の焔をめがけ、皇国の贄たちが迫っていた。
 それでも二人は動かずに互いを抱き合う。
 もう二度と離れないと互いに示しあうために。それを証明するように。
 少年がゆっくりと目を閉じた。
 そう、あなたも眠いのね、とヒュドールは微笑んだ。
 「――、お姉ぇちゃんが…子守唄を歌ってあげる」
 よく眠れるように。
 私が隣にいるって安心できるように。
 
 黒い海に優しい歌声が響く。
 それは穢れに捧ぐ癒し歌。
 死の黒色に染まった愛する者を救う慈愛に満ちた子守唄。

 その癒し歌は、歌い手の命の焔が消えるまで海中に響いていた。


――――

 
 「――大神の高き御恵み深き導きを頂き奉りて…」
 イナオが唱えているのは鎮魂の祝詞。救われぬ魂を慰める癒しの言霊だ。
 彼が詠唱を続ける間にもケーゴとアンネリエは宝剣のコントロールをしている。
 そんな彼らを守るようにゲオルク達は剣を振るう。
 「はぁああああああああああっ!」
 フロストが亡者たちを凍てつかせ。ビャクグンがそれを怪力でもって打ち砕く。
 ゲオルクはゼトセのサポートを行いつつも着実に戦いをこなす。
 しかし、彼らを目指して亡者は集まり続ける。
 イナオの詠唱がどれほど続くものかわからず、とはいえそれを彼に問うことができるわけでもなく、彼らはひたすらに戦い続けた。
 亡者を薙刀で貫いたゼトセの背後に別の亡者が爪を立てて襲い掛かった。
 それを躱すが薙刀が亡者の身体から抜けない。
 ゲオルクがゼトセに向かう亡者を切り伏せる。
 「ゲオルク殿!」
 ゼトセが叫ぶ。ゲオルクの背後にも亡者がいるのだ。
 「むっ…!」
 ゲオルクが振り返りざまに剣を振るおうとする。その刹那。
 「メルタ☆バーナー!!」
 突如火炎が放たれ、ゲオルクの目と鼻の先で亡者が焼き尽くされた。
 「横やり失礼!ですわ!」
 自信に満ち溢れた声。機械に乗り込んだ少女がこちらにその機械の腕を向けている。
 戦闘への闖入者にさすがのゲオルクも目を瞠る。
 フロストやビャクグンも唖然と手を止めてしまった。
 そんな2人を囲むように蠢いていた亡者たちを赤い剣が刺し貫く。
 「呆けている場合か!」
 剣の持ち主は2人を一喝し、手にした剣を横に振るう。
 赤い刀身は鞭のようにしなり、そして元の剣の内へと収まった。
 先端から赤色の刀身を繰り出す蛇の剣。ラナタの得物だ。
 「一体ここで何をしていますの?見たところ魔法を使っているようですけど」
 「説明は後だ!今はこの戦いに加勢してくれると助かる!」
 「もとよりそのつもりだ!!」
 ゲオルクの呼びかけに勢いよく答え、ラナタが剣を振るった。
 メルタも臆することなく火炎放射を開始する。
 ゲオルクはこの戦いが終わったらこの機械少女に戦場で無暗に炎を使わないように言って聞かせようと思った。
 先ほども危うく亡者と共に丸焼きにされるところだったではないか。
 と、そこで炎から連想してケーゴ達の様子を視界の隅に捉える。
 その時だ。
 「――舞ひ立ち舞ひ出で舞ひ退き舞伏しつつも拝みも奉らくと白す!!」
 イナオの声がより大きく響き渡った。
 彼とケーゴ、そしてアンネリエを取り巻く霊力は宝剣の魔力と混ざり合い清浄の力を発し始める。
 「鎮まり給え!安らぎ給え!眠り給え!纏いし穢れ拭いて清廉たれ!!」
 イナオの言霊はアマリの霊力とケーゴがもつ宝剣の力によって交易所全土に響き渡った。アンネリエの持つ土の魔素は水棲亜人たちの力を削ぎ、相対的に鎮魂の力を強めていた。
 ケーゴ達を中心として癒しの波動が発せられる。ゲオルクたちもその衝撃に身を奪われる。
 「|鎮魂祝詞《みたましずめののりと》!!」
 光に照らされた亡者たちは次第に形を崩し、そして消滅する。

 鎮魂の祈りはその力を増し続け、やがて交易所を覆い尽くした。
 

――――


 「たくさん死んだかな?」
 「戯れ程度には死んだでしょ」
 「これからどうするのかな」
 「神の願ったままに」
 「カミサマは私の願いを叶えてくれるかな?」
 「あんたの努力次第よ」


――――


 巨大津波の到来から始まった一連の事件が収束を迎えた。そうハナバの言葉が人々の心に響いた時には黒い海もすっかり消え去っていた。
 長い夜が明け、朝日が海を白く照らしている。空の青は明るく、海の青は深い。
 何もかもを吸い込んでしまいそうな青色。そこは確かに生焔礼賛によって生まれた亡者たちの封印の地であるのだが、それが意識されることはないのだろう。
 それほどに波は穏やかで、あの黒色はもはやどこにも見当たらないのだから。
 「――という訳で、アマリさん、イナオ君、ケーゴ君、アンネリエちゃんのお蔭で上陸した亡者たちを全て消し去ることに成功しました。五色の束ね盾による結界も張られこれ以上亡者が交易所に上陸することはないでしょう」
 魔法陣を通じてフロストの報告を受ける。
 ニフィルは安堵の声を漏らした。
 「ご苦労様でした、フロスト。ゆっくり休んでください」
 「…あの、ニフィルさん…?」
 「どうしましたか?」
 「そちらでは何かあったのですか…?」
 「……怪物は無事封印したと言ったはずですが」
 「そうなのですが…」
 逡巡の後にフロストはおずおずと問う。
 「ニフィルさんの声があまり嬉しそうではなかったので…」
 「……詳細については大陸に戻り次第伝えます」
 「…そうですか。それでは、アルフヘイム領でお待ちしています」
 「ええ」
 通信を切るとニフィルはダートたちの方へ振り返った。
 オツベルグとジュリアが悼むような顔つきで立っている。
 ダートも複雑な表情を浮かべている。
 何を言うべきか、正解がわからないままニフィルは頭を下げた。
 ダートもニフィルの側に立ち、2人に頭を下げる。
 それは感謝か、それとも懺悔か。
 さしものオツベルグとジュリアも何も言うことが出来ずただ立ち尽くしていた。
 皇国の艦隊は全てアルフヘイムの手の者によって消え去った。
 しかし、彼女がいなければ生焔礼賛は失敗に終わり、希望は潰えていたのだ。
 協調と亀裂を同席させ、アルフヘイムの艦隊は帰港の途に就いた。


――――


 「…む?」
 伝書を待ち構えていたロウは空に奇妙なものを発見した。
 ミシュガルド大陸から増援の要請がくるだろうというトクサの言葉通り、その要請を待ち構えていたのである。
 が、ロウの予想に反しそれは伝書を持った鳥ではなかった。
 否、鳥ではある。しかしそれは水が鳥の形を成し、空を飛ぶという代物だったのである。
 一体何だと眺めているとその鳥が急降下を始めた。
 着陸地点に目をやってロウはそういうことか、と納得する。
 水の鳥が向かう先にいる少年。彼は水の魔法が使えたはずだ。
 あの水の鳥もきっと彼の手遊びなのだろう。
 そう結論付けてロウは再び大陸から来るであろう伝書を待ち続けることにした。

 「…この鳥……兄様の…?」
 灰がかった青色の髪を後ろで一つに結び、服はその髪の色に強調させられるかのように白い。
 腰には装飾のついたレイピアとマンゴーシュを下げている。
 大人びた装飾や佇まいに反して声はまだ少年のそれだ。
 兄からもたらされたその水の鳥は彼の指先にとまると姿を変え、文字列を成した。
 久々の信息に心躍っていた彼の眼差しが文を追うごとに剣呑なものへと変わる。
 「……皇国に…アルフヘイムの間者が紛れ込んでいる……?」


――――


 森深く、亡者すら辿り着かなかったその場所に彼女らはいた。
 「それは本当なのですか、我らが麗貌の同胞ニツェシーア」
 いつもの涼やかな声に若干の熱がこもっている。
 「えぇダピカ、私自身も驚いていますが…しかし、事実です。我らが神は確かに彼らの内に」
 「…彼らの名は?」
 「一人はケーゴという少年です。そしてもう一人は――」
 「アンネリエ・スコグルンド」
 ニツェシーアとダピカがその声に振り向くと痩身の女性が神妙な面持ちで立っている。
 口にしようとしたその名を先に言われてしまいニツェシーアは唇を尖らせた。
 「あら、エミリー。あなた知っていたの?」
 エミリーと呼ばれた女性は首を横に振った。
 「いえ、ただそんな気がしただけ」
 不審げなニツェシーアとダピカに背を向けエミリーは空を仰いだ。
 
――スコグルンド先生、そういうことだったのね……
 

――――

 爽やかな朝だ。
 窓から差し込む朝日に目を細める。
 隣で眠るケーゴはまだ起きそうにない。
 疲れ果てているのだろう。無理もない。そっとしておこう、と部屋を出る。
 酒場の一階に降りた。アンネリエはそこでロビン・クルーの握手会なるビラを目にした。
 そういえばあの二人は無事なのだろうか。ケーゴの恩人ということだからそうであってほしい。
 彼らの顔を思い出しつつ酒場を見渡す。
 昨日までの恐慌はやはり尾を引いているらしく、普段は騒がしい酒場の面々も今は沈痛な面持ちで席についている。
 いつもならブルーが窓を拭いているの時間なのだが、今彼の姿はない。
 きっともう彼がこの酒場を訪れることはないのではないだろうか。
 アンネリエは悼むようにヒュドールがよくいたカウンターの近くに目を向けた。
 「アンネリエ…」
 背後から声がした。大切な声だ。起こしてしまったのか。
 アンネリエは応える代わりにのろのろと頷いた。
 彼の手が肩に添えられる。
 温もりが伝わる。その手にアンネリエが触れた。
 一瞬緊張したかのように動いた彼の手はしかし、そのまま肩の上に留まった。
 静かな店内に皿を重ねる音が響いた。
 ヒュドールを探すかのように泳がせた視線が彼女を捉えることがあるはずもなく、彼らは目を伏した。
 彼女だけではない。この一件でどれだけの人が犠牲になったのだろうか。
 命の灯とはかくも脆く、儚い。

 それでも肩に伝わるこの命の焔の温もりさえあればそれでいいと、アンネリエは握り返した手に想いを寄せた。
128, 127

  

――謝辞

第七章を執筆するに当たり以下の作品を参考にさせていただきました。

「ガイシ胎動」火口様
http://nanos.jp/gaishi/

「海に馳せる想い」ふた様
http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=18295&story=41
129

愛葉 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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