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されど愛しきその腕よ:4

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――――


 「では今日はどこかで一夜を過ごすことになるであるか?」
 「あぁ…シンチーの回復を待たないと移動もままならないし、それには時間がかかるかもしれないからね。この森のどこかでキャンプということになりそうだ」
 「…申し訳ないのである」
 背後でゼトセがうなだれたのがわかる。
 ロビンは苦笑して振り返った。
 「…何度も言うけども、あれは君のせいじゃない。俺だってうかつだった」
 「だが…っ」
 ゼトセはなおもロビンに反論した。
 だがこれまでの噛みつき方とは違う。
 責めるのは、自分自身。
 唇を噛んで彼女は悔しさを漏らす。
 「…小生があの蜘蛛を……」
 「自分を追い詰めるんじゃなくて、今はシンチーの無事を祈ろう」
 見えてきた。毒消しの効果がある木の実。
 親指の爪くらいの大きさの赤く丸い実が大樹の中で控えめな自己主張をしている。
 ゼトセは小走りでその樹に近づいた。
 「どれくらい必要であるか?」
 「一粒で十分な効能がある。だけど今回は少しばかり大目にいただくとしよう」
 「了解である」
 ロビンはリュックから空の小瓶を取り出した。
 媚薬が入っていたあの小瓶だ。
 「この瓶に詰めていこう。で、小川で水を汲んで早く帰ろう」
 「そうであるな」
 ロビンの顔をようやく正面から見たゼトセは気づいた。
 シンチーが怪我を負って一番焦っているのが誰であるのか。
 それは不手際があったゼトセ自身でも、シンチーを気に入っているらしいヒザーニャでもない。
 冷静なふりをしているが、実はこの男が一番彼女のことを案じている。思えば先ほどからずっと早歩きだ。
 木の実を採取し終えて小川への道すがらゼトセはぽつりと呟いた。
 「…ロビン殿」
 呼称が変わったことに気づいたロビンは何だい、と穏やかに聞き返す。
 「小生にも、昔侍従がいたのである。…諸々の事情故今は離れ離れになっているが…だからわかるのである。彼女が傷ついたら…小生はいても立ってもいられない」
 しかし、とゼトセは続ける。
 「そうやって焦るのはそれだけ相手が大切だからである。相手のことを思っているからである。…貴殿は、SHWの中でもいい人なのである」
 そう言って振り返る。泣き笑いのような表情だった。
 「今までの小生の所業を許していただきたい。小生もまだ鍛錬が足りないのである。為人を見誤るようでは。貴殿は信頼できる人間だとようやく気付くことができた。…意固地になって1人で戦おうとしたのがそもそもの発端である。…申し訳ない。…シンチー殿にもしものことがあったら小生は…っ」
 言葉に詰まる。
 頭を下げたまま固まるゼトセに対して、ロビンはゆっくりと言い聞かせるように答えた。
 「いいさ、SHWの人間が信用されないのは今に始まったことじゃない。君が俺への考えを改めてくれるだけでもうれしいよ。…間違いを認めることができるのはとても素晴らしいことだと思う。大丈夫だ。シンチーはあんな蜘蛛の毒なんかにやられやしないさ」
 「そうであるか…そう言ってもらえると助かるのである」
 ほっとした表情でゼトセはそう返した。

 歩いているうちに水の流れる音が聞こえてきた。
 どうやらもうすぐのようだ。
 水をくみながらゼトセは誰ともなしに口を開いた。
 「…従者というのは、どうして我らのために命をかけるのだろう」
 その瞳には愁いが揺れている。
 清涼な川の流れはしかし、彼女の心に沈殿した思いを洗い流すことはできない。
 「小生は、本当はそんなことしてほしくないのである。戦って傷つくのは小生だけで十分である」
 「…きっと彼女らも同じ思いなんだろう。俺たちのことを大切に思っていてくれるからこそその身を盾にしようとする。何が何でも主のことを第一に考えようとする」
 それはきっとそれだけ主が従者を大切に想っていて、従者はそれに報いようとしているのだけど。
 それはきっとそれだけ従者が主を大切に想っていて、主はそれを受け止めたいのだけれど。
 強く想いあう二人は時として反作用を起こすものだ。
 傷ついてほしくないという想いは互いに本物なのだから。
 「まったく、こちらの身にもなってほしいのである」
 まったく同感だ、というようにロビンは頷いた。
 あの日かわした約束、そしてシンチーの願い。全てが2人の今を紡いでいる。
 シンチーはロビンを守ると言った。それが自分の存在意義だと胸に刻み込んだ。
 本当は無理をするな、と言いたい。だが、それを言うと彼女を傷つけてしまう。優しさは時として矜持を打ち砕いてしまう。
 だから言えない。ありがとう、としか言えない。
 それが歯がゆい時もある。悔しい時もある。
 シンチーが凶弾に倒れた時、本当にこのままでいいのだろうかと何度も悩んだ。
 しかし、目を覚ましたシンチーはやはり、それでいいと言い切ってしまったのである。そうでなければ生きている意味がないと。
 それに甘えてしまうのは、主失格だろうか。
 許されたいと思うのは、罪だろうか。
 ロビンはふっと息をついた。気持ちが伝わったかのようにゼトセも憂いを吐き出した。
 水もくみ終えた。後は帰るだけだ。あの頑なな従者のいる場所へ。
 と、そこで何かを思いついた。
 「…もし俺たちが従者の立場だったら」
 何の気なしの呟きにしかし、ゼトセはすぐさま反応した。
 「命を賭して戦うであろうな。例え何を言われようとも」
 結局そういうことなのだ。
 答えのない問いに悩みながら2人は帰路を急いだ。
 

 「大丈夫かい?体に他に異変はないかい?」
 ヒザーニャに尋ねられてシンチーは不機嫌に首を横に振った。
 まさかこの男と残されるとは。最悪だ。
 そう思われているとは知らずヒザーニャは心配そうにシンチーの顔を覗き込む。
 「レディー、まさかしゃべることもできないのか?」
 「…いえ」
 むすりと返す。
 なぜこの男にこんなに心配されているのだ私は。
 主のロビンならまだしもこんな輩に。
 シンチーの憮然とした表情にヒザーニャは首をひねった。
 「君は一体何を苛立っているんだい?」
 「…」
 苛立っている、か。
 ぼんやりと頭でその言葉を繰り返す。
 そんなことはない。
 ただ、自分に失望しているのだ。きっと。
 「……また私は迷惑をかけてしまった。主を守るべきなのに」
 口にしてみてもあまり苦しさは変わらなかった。
 そんなシンチーの物言いにヒザーニャは肩をすくめた。
 「おいおいレディー、自分をそんなに責めるなよ。冒険にリスクは付き物さ。命があるだけラッキーだったと思おう」
 木陰で横になるシンチーは首だけ動かしてヒザーニャを見た。
 その目は剣呑に煌めいている。
 不真面目な男だ。言外にそう伝えている。
 出会った時からずっとそうなのだ。冗談なのかなんなのか判断しかねる勢いでアプローチをかけてくる。
 冗談だったらそんな軽薄な男と行動を共にしたくないし、本気だったとしても冗談めいて気持ちを伝えてくるような男などお断りだ。
 まだ馬鹿正直に叫ぶケーゴの方がマシだ。
 …マシなだけだ。
 そこでふとゲオルクの言葉が脳裏に蘇る。
 愛する?何を馬鹿なことを言っているのだ。
 自分は従者だ。自分は半亜人だ。
 そんな関係を求めて彼と行動を共にしているわけではない。
 ただロビンは自分に生きる場所を、価値を与えてくれた。それだけだ。
 と、そこでシンチーは苛立ちを隠さずに舌打ちに変えた。体が動かず舌打ちすらうまくできなかったが、気持ちの上では最大限の舌打ちのつもりだ。
 何をくだらないことを考えているんだ私は。こんなことを考えているから蜘蛛なんかに後れを取るんだ。
 いったい誰だこんなことを考えさせる輩は。
 半ば八つ当たりのようにヒザーニャを睨む。
 切れ長の瞳孔を正面から見据えた彼はしかし、臆することなく笑う。
 「迷惑をかけたとか誰の責任だとか、固いこと考えなさんな。時には甘えればいい。時にはわがままを言ってもいいじゃないか」
 「…そんな従者が」
 ため息と共に反論を吐き出す。
 本当にくだらないことを言ってくれる。
 まるで悪魔の誘惑をはねのけるようにシンチーは身をこわばらせた。
 身体は未だに動かないが、先ほどよりは楽になってきた。
 既に毒は全身に回っていたのだから、きっと毒抜きは意味をなさなかっただろう。というか噛まれた傷は既に塞がっている。
 なるほど、毒蛇に噛まれたときにはこの体質は悪い方向に働くのか。いや、この力があってこそ蜘蛛の毒を抑え込めているのかもしれない。
 会話を打ち切り詮無いことを考え出したシンチーに向かってヒザーニャはなおも笑いかけた。
 「生真面目だねぇ。守るべきとか、従うべき、とか義務みたいに考えなくてもいいじゃないか。レディー、君は何がしたいんだい?義務だけに忠実に生きたいかい?譲れない想いはそれだけかい?ロビン君を守りたいのは…従者だからかい?」
 「……当然」
 そう答えたシンチーはしかし、一瞬虚を突かれたかのような表情をしていた。
 ミシュガルドに来て以来、何気ない一言に揺れ動いてばかりだ。
 そのまま何かを考えるようにしていたが、やがてのろのろと首を横に振った。
 このまましゃべっていると必要ないことまで口にしてしまいそうで、シンチーは話題を変えた。
 「………いい加減、その呼び方は」
 「お、ならシンチー嬢とでも呼ぼうかな」
 きざな言いぶりだ。本当に腹が立つ。
 それでも仕方なく、シンチーはその言葉を紡いだ。
 「……それと、先ほどは助かりました。ありがとうございます」
 「気になさるな。惚れた女を守るのが男の務めだからね」
 「…」
 やっぱりこの男は駄目だ。なぜこんな輩に自分は助けられてしまったのだろうか。
 シンチーは浅くため息をついた。
 強くなりたい。
 もっと、もっと強く。

 大切な主を守るために、前に進むために、絶対的な力が欲しい。


 「シンチー殿、具合はどうであるか?」
 戻ってきたロビンとゼトセが横たわるシンチーの傍に座り込む。
 その間にロビンはピクシーに尋ねた。
 「あの2人何もなかったかい」
 「私が心穏やかに報告するに、彼らの間に不和は生じませんでした」
 そうか、とほっとした口ぶりでロビンが見やったシンチーはだいぶましになってきたとだけ言って目を少し開けた。
 ぼやけているがロビンの姿だと確認し、少しだけ表情が和らいだようだ。
 身を起こそうとしたが、難しい。ゼトセに手を貸してもらってようやく上半身を起こすことができた。
 どうやら完全な回復はしていないようだ。
 ゼトセはもどかしそうに小瓶の蓋をあけ、木の実を1つシンチーの口に押し込む。
 「毒消しの実である。食べてほしいのである」
 「ん…」
 もごもごと口を動かしたシンチーを見てゼトセは安堵したような表情を見せた。 
 汲んできた水に布を浸し、噛まれた首を拭く。
 「大丈夫であるか?痛くないであるか?」
 うってかわって心配そうな表情をみせてくるゼトセの様子がおかしくてシンチーは仄かに微笑んだ。
 「えぇ…大丈夫。…ありがとう」
 ヒザーニャとロビンも顔を見合わせて笑った。
災い転じて、という訳ではないが雪解けはなんとか果たせそうだ。
 見回せば辺りはもう薄暗い。蜘蛛との戦闘や木の実採集で思いのほか時間をとってしまったらしい。
 まだシンチーは動けそうにない。今日はここで野営をして、明日になってもまだ具合が悪いようなら探索を中断して交易所に戻る方向でいこう。なに、報告するべきことはあるのだ。何一つ得られなかった訳ではない。
 そう考えてロビンが今後の予定を口にしようとした時だ。
 
 最初に異変に気付いたのはシンチーだった。
 安静にして閉じていた目がすっと開かれ、眼球を動かす。
 目が霞んでいてうまく見えないが、今眼前に映っているものが、それまでこの場所にはなかった光景であることに間違いはなかった。
 「…っ」
 白い。
 白い煙が蠢いている、
 否、煙ではない。これは。
 「なっ!?」
 次に気づいたのはゼトセだった。
 足元にたちこめるそれを凝視している。
 同時にヒザーニャとロビンも緊迫した表情でシンチーに駆け寄った。
 「ロビ…ン」
 「移動するぞ!ヒザーニャ、足を持ってくれ!」

 霧。
 足元に霧が広がっているのだ。
 乱暴にシンチーを抱え、急いでその場から離脱しようとする。
 もしこの霧が件の霧であるならば、動けないシンチーを渓谷に連れて行くわけにはいかない。
 探すべき霧から逃げなければならないというのは皮肉なものである。
 ロビンたちは小走りで移動を始めた。
 だが、みるみるうちに濃霧は広がり、次第に視界が染まっていく。
 「だめである、こっちはもう…っ」
 先頭を走っていたゼトセが振り返り言葉を失う。
 すでにロビンたちの姿が見えないのだ。
 「ロビン殿!?シンチー殿!?」
 色を失って叫ぶ。
 「ゼトセ!今は霧を抜けることを考えろ!」
 声が聞こえる。しかし何も見えない。
 ゼトセはもどかしげに辺りを見回した。どうしてもシンチーが心配なのだ。
 音を頼りに進もうとするが、すでに方向感覚が失われ今までどこを向いて走っていたのかも、どこから来たのかもわからない。
 真っ白な世界に一人取り残された気分でさまようゼトセの眼前が突然開けた。

 白色から突然茶色に切り替わった光景にゼトセは混乱した。
 それまであったのは緑、そして白。
 今立っているのはみずみずしさを失った乾いた大地だ。
 切り立った崖、遠くには塔が見える。
 荒い呼吸4つほどでようやくここが例の渓谷なのだと察した。
 と、そこでゼトセははっと何かに気づいたかのように身を岩陰に隠す。
 そろそろと見上げると、蝙蝠と獣を足したような化け物が滑空していた。
 そのまま化け物は崖につかまり、周囲を見回したのちに再び空へと舞いあがった。
 獲物を探しているかのようだ。
 獲物、という単語に我ながらうすら寒さを覚える。
 つまりそれは、自分のようにこの渓谷に迷い込んできた者のことを指すのではないだろうか。
 今のところ化け物は自分の存在に気づいていない。
 安堵したところでようやく他のことに気が回った。
 「…シンチー殿、ロビン殿…」
 シンチーはロビンとヒザーニャが運んでいた。ならば3人は一緒だろう。きっとロビンを暫定的なマスターとして認証していたピクシーも彼の元を離れていないに違いない。
 ならば、とゼトセは辺りを見回す。
 どこかにいるはずだ。探さねば。
 しかし、太陽は西に大きく傾いていて、赤と青が交わり鮮やかなグラデーションを空に描いている。
 もう間もなくこの地にも夜の帳が下ろされる
 それまでに彼らが見つからなかった場合1人で夜を明かせるだろうか。
 見知らぬ土地、見知らぬ化け物に囲まれながら。
 それは無理だろう。そもそも火すら起こせる状態ではないのだ。
 つまり。
 「ミシュガルドの秘境から帰れないである…!」
 ゼトセは大真面目にそう呟き、そろそろと見つからないように移動を開始した。
――――

 「ったく、話は聞いていたけどとんでもない化け物だ」
 「全くだね。逃げ切れてよかった。シンチー嬢も大丈夫かい?」
 シンチーはヒザーニャに首を縦に振って見せた。
 それを確認したロビンはピクシーに尋ねた。
 「ここの座標は」
 「座標位置北緯69度34分1722秒東経11度12分1657秒です」
 あの森とは全く違う座標だ。どうやらもっと北東に今来ているらしい
 つまり、この渓谷そのものが移動しているということになる。
 「私が推測するに、もしくは別の渓谷かもしれません」
 「…なるほど。…濃霧発生時、霧が発生する条件は」
 「皆無でした。私が補足するところによると、魔法が使用されたということもありませんでした」
 「…おいビャクグン、お前の言うことも聞くものだな。こいつら役に立ちそうだ」
 「そもそもこの状況で皇国民だからとか、亜人だから、とか言ってる場合ではないですからね」
 ロビンたちのやり取りを眺めていたウルフバードとビャクグンがこそこそ話し合う。
 それに気づいたロビンが笑顔を作る。
 「情報の共有は惜しみませんよ。いくら皇国の軍人さん方といえども、ここは一緒に生き残ることが大事でしょうから」
 ロビンの口ぶりにウルフバードは苦笑する。
 肩をすくめ、大げさに首を振った。
 「おいおい、甲皇国ってのはどうにも悪の帝国ってみなされてるみてぇだな。言っとくが、いくら俺達でも無関係な一般市民にてはださねぇさ。今は戦争中でも何でもないんだからな」
 「いやぁ、甲皇国の軍人さんには酷い目に遭わされているからね」
 ウルフバードの言葉を反対解釈し、ロビンは冷え冷えと笑って見せた。

――――

 霧に包まれたと思ったらいつの間にか渓谷に立っていた。
 大量の竜にも似た化け物たちが襲い掛かってきたが、近くに入り口を発見し、それが塔の入り口であることを認めたロビンたちはすぐさまそこへ逃げ込んだ。
 突然の闖入者に驚いたウルフバード隊は、特にロビンたちが抱えるシンチーに対して不審げな目つきを見せた。
 ウルフバードも当初はロビンたちを拘束してしまおうと考えたのだが、ビャクグンがそれを止めたのだ。
 かくして彼らは現在ピクシーが床に投影した地図を中心に額を合わせている。
 「つまり、このピクシー曰く、あの霧は魔法でもなければ自然発生したものでもない、と」
 「えぇ、それともう1つ」
 ロビンはこの渓谷に関する仮説を説明した。
 ウルフバードとビャクグンは互いに顔を見合わせ感心した。
 本当に役立つ人間がやってきたものだ。
 一方ロビンとヒザーニャは目くばせでやりとりをしつつウルフバードが勧めた飲み物には口をつけていない。
 ウルフバード・フォビアという者の名はロビンも知っている。
 水の魔法を繰る丙家の人間ということで、あまり接したくはなかったのだがこんなところで一蓮托生とは。
 渋い顔のロビンたちにウルフバードは自身の状況を説明した。
 「…という訳でこの塔の最上階を目指しているってところさ」
 「なるほど…」
 ロビンは思案顔で頷いた。
 塔の全容を解明しつつ最上階からこの場所の位置を確かめる。ウルフバードの言っていることは間違っていない。
 ただし、現在位置の確認はピクシーのおかげで可能になった。
 後は、とロビンは先ほどからの懸案事項を思い出し、入り口に立っている兵士を顧みた。
 「もし、薙刀を持った灰色の髪の少女が来たら俺たちの仲間だ。迎え入れてくれないかい」
 兵士はあからさまに嫌そうな顔をした。
 ただでさえ未知の場所に飛ばされて気が立っているというのに何故こんな男に指示を受けないといけないのか、というところだろう。
 ロビンがどうしたものかと口をへの字に曲げているとウルフバードが低く唸った。
 「おい」
 兵士はびくりと背筋を伸ばした。顔が青ざめている。
 「貴重な情報を持った客人だ。丁重にな」
 そう言って歯を見せるのだが、笑顔ではないことは一目瞭然だ。
 兵士はがくがくと首を縦に振り、慌てて外に注意を向けた。
 ロビンは一応の礼をウルフバードに言う。
 「助かったよ。…ピクシーがいて助かったというべきかな」
 「クハハ、そう斜に構えるなよ。お前の所有物には変わりないんだからな。…奴らの事も許してやってくれ。お前らが人間だけだったらこんなにピリピリもしないんだろうが」
 そう言って横たわるシンチーに目をやる。
 つられてロビンもそちらを向く。
 「…あの女は何があった」
 「森で蜘蛛に噛まれた」
 「あぁ…あの毛深い蜘蛛野郎か。神経毒で相手を動けなくする。下手すりゃあの女一生寝たきりだったはずだが…なかなかどうして丈夫だな。やはり亜人だからか」
 その言葉には侮蔑も嫌味も感じられない。
 本当に亜人であることを羨んでいるようである。
 ロビンの心中を見透かしたかのようにウルフバードは笑った。
 「兄ちゃんよぉ、人間とかいう種族は一体何の価値があるのかって思うことはないか?生命は脆いし、力も弱い。空も飛べなきゃ深海まで泳いでもいけねぇ」
 「確かに…そうですね」
 だろう、と彼はビャクグンを視界の隅に捉える。
 視線を感じたビャクグンはしかし、気づいていないふりをして地図とにらめっこを続けた。
 「アルフヘイムって国はエルフがあの地を国として束ねているということだが、それはなぜかわかるか?」
 「…聞いたことがありますよ。エルフは全てにおいて平均的に秀でた種族であるからだと」
 力も知恵も魔法も、全てを持ち合わせている。
 力だけに特化した種族や頭脳労働が得意な種族と多種多様な中で、エルフ族は全てが平均以上の能力を誇るのだ。
 「そうかい。…なら、人間はどうなんだろうな」
 「人間は…」
 全てにおいて、劣っている。
 言い差したロビンを見たウルフバードは大儀そうにため息をついた。肩をすくめ滔々と語りだす。
 「エルフのように魔力があるわけでもなく、だがエルフのように高慢で。オークのように力があるわけでもなく、しかしオークのように醜悪だ。兎族のようにけた外れな身体能力があるわけでもない癖に性欲だけは兎族くらい持て余していやがる。ゴブリンのような器用さはないが奴らのように狡猾だ。…なぁ、人間ってのはもしかしたらすべての種族の出がらしなのかもな。“亜人”なんて言葉からもわかるように全ての種族は人間に準じるなんていう説を皇国内では未だに偉そうに言う馬鹿学者がいるが、違うんじゃねぇかな。すべての種族の秀でた特徴を取り払った残り物の体を動かしているのが人間なんだろうよ。…その中でも軍人ってのは高慢さと醜悪さと淫乱さと狡猾さを煮詰めたようなアホが多くてな。……少なくとも俺はこのご時世に軍の威光を盾に誰かに手を出そうなんたぁ考えねぇが…あの女、ちゃんと見ておけよ」
 その警告が意味することを正確に理解し、ロビンは頷いた。
 一通りの会話が終わった時、ビャクグンがロビンに尋ねた。
 「ロビン殿、つまり話に出てくる少年はいつの間にか元の位置に戻っていたということですが…何故我々はここに留まっているのでしょうか」
 「ケーゴ君はいつの間にかと言っていたけど…何か条件がいるんだろうね」
 「ピクシー君、当時の彼らの行動を再現できるかい?」
 「ヒザーニャ様、私が首をかしげるに、私には性別がないので、“君”という敬称はあまりふさわしくないでしょう。…当時のマスター・ケーゴの行動を記録した映像を投影します」
 ピクシーのバイザーから照らし出された光が床に映る。
 ピクシー視点の映像のようだ。飛び回っているピクシーの見ている景色を見ていると気持ち悪くなってくる。
 それをこらえて彼らは映像を凝視した。

 ケーゴとアンネリエとベルウッドの3人があたふたしながら岩陰に隠れたところだ。
 3人で何事か話している。表情には必死さと混乱が入り混じっている。
 ケーゴが岩から顔をのぞかせ、すぐに引っ込める。
 そして首を横に振る。
 そこでピクシーが回転したらしく後ろの光景が目に入る。
 ちょうど岩に囲まれた場所に逃げ込んだようで背後の化け物にも気取られていないようだ。
 下の方にベルウッドの頭が映りこんだ。
 彼女が指さす先にはこの塔がある。
 ベルウッドが何かをケーゴに言っている。
 「この時彼女は財宝はいただきよ、と言っていました」
 「正直な奴だなぁ」
 ウルフバードがカラリと笑っている間に、ケーゴとベルウッドが言い合いを始めたようだ。
 2人の言い合いを呆れ顔で眺めていたアンネリエの顔が突然青ざめた。
 持っていた杖でケーゴを何度もつつき、彼が抗議の声を上げる前に録画者であるピクシーの背後を指さす。
 ケーゴとベルウッドが振り返り、ピクシーの視点も回転した。
 化け物があぎとをくわりと開いて眼前に迫っていた。
 3人は勢いよく岩影から飛び出し走り出した。ピクシーもそれに続く。
 黒、金、灰の頭が眼下を駆けている。
 そして突然視界が白く染まった。

 「以上です」
 ピクシーの言葉を最後に静寂が訪れた。
 全員考えていることは同じだ。
 あまりに会話がないため、ウルフバードが代表で口を開く。
 「…何か特別なことしてたか?」
 問いに全員が首を横に振った。
 「むしろ…俺たちが彼らと違うことをしているね」
 ヒザーニャが顎に指を添えて言った。
 「…この塔に入ったのが間違いだったと?」
 ビャクグンの確認。
 ウルフバードとロビンは顔を見合わせる。
 つまり、この塔の外にいれば時間経過で元の場所に戻れるかもしれないのだ。
 「おい、お前。そう、そこのお前だよ」
 ウルフバードが近くの兵士を呼び寄せた。
 「喜べ、ミシュガルドの秘境で“おうちかえりたぁあああい”と叫ばずに済むかもしれねぇぞ」
 「ほ、本当ですか?」
 ウルフバードに呼ばれたというだけで戦々恐々としていた兵士はその言葉で頬を緩めた。
 「あぁ、本当だ。とりあえず、外で少し立ってろ。大丈夫だ、あの化け物どもも今は眠っている」
 「え?…あ、あの…はい」
 さらりと嘘をつかれた兵士はしかし、隊長を疑う訳にもいかず、そろそろと外に出た。
 次の瞬間その兵士の絶叫と共に入り口の近くにぼとりと脚が降ってきた。
 「どうやらもう外には出られないみたいだな」
 平然と部下を実験台にしたウルフバードはあっさりとそう3人を見回す。
 ロビンもヒザーニャもビャクグンも渋面を作った。
 要するにこの男の価値判断基準は自分にとって有用かそうでないかなのだ。使えない者は手駒として命すら軽んじる。使える者はもう少し大事に扱う。
 さすがに今のはどうなんだ、という目つきに対してウルフバードは大仰にため息をついた。
 「おいおい、考えればわかるだろ?隊を率いる俺とあの冴えない奴、どっちが大事なんだ?」
 確かに隊長自らが危険を顧みず先頭を走るというのはいただけない。危険というものは隊長を守るために常に部下が負うべきのだ。
 話を横たわったまま聞いていたシンチーは少しばかりウルフバードに同意して頷く。
 その分一番大事な判断や責任は隊長が負うべきであるということはあまり考えないようにした。
 そんなシンチーをよそに4人の話し合いは進む。
 「とにかく、ここに立てこもった以上もう俺たちに進む道は限られてくるな」
 「先ほど話していた階段の先だね」
 ヒザーニャが首を回して螺旋階段の先を見る。
 「あぁ、そうだ。あの先に何かがあると信じて進むしかねぇよな」
 それが金銀財宝では意味がないのだ。
 何か、ここから抜け出す方法がなければどちらにせよあの化け物の餌食だ。
 そう言いながらウルフバードはふと、ここにいる全員を囮にして外に出たらあるいは、とも思った。
 だが、よく考えてみれば本当に塔の外に出ることが答えかはわからないのだ。確証を得るまでは手駒は大切にしなければならない。
 あるいは、とロビンたちと話すビャクグンを見やる。
 この男が本気で戦ってなんとか一騎当千といかないだろうか。
 最低限亜人とのハーフなのではないかと思っている。皇国内では亜人への差別が根強いため素性を隠しているのだろう。
 もしくはアルフヘイムの間者か。だが、間者だったとしたらあの局面で自分を助けるだろうか。それも自らの正体を明かすような真似までして。
 いずれにせよ、もう少しこの男は傍に置いておきたいと思うウルフバードだ。
 「そういえば、この1階には何か現状打破のヒントとか、この塔の由来とか何かなかったんですか?」
 ロビンたちは死に物狂いで塔に逃げ込んできてからずっとウルフバードたちと共に座り込んでいたため、塔の内部をよく見ていないのだ。
 「暗くてよく見えないがあの壁なんて表面が削られている。何かあったんじゃないのかい?」
 ウルフバードとビャクグンはヒザーニャが指差す方向に顔を向けた。
 「あぁ、あそこはもとからああなってたんだ。もしかしたら何かこの塔について壁に刻まれていたりしたのかもしれねぇが…今となっては知る由もねぇ」
 隣でビャクグンが神妙そうに頷く。
 「そうですか…もう他には何も?」
 あぁ、と生返事をして彼は大岩の破壊作業に取り組む兵士たちを見る。
 難航しているようだ。兵士の武装は土木工事には向いていないのだと良くわかる。
 螺旋階段から続く二階につながる穴を塞ぐ大岩を破壊するためには、階段から天井に向けて剣を突き上げるという動きに頼るほかない。だが、そんな動きで破壊できるほど軟なものではないのだ。
 ちなみに螺旋階段は塔の壁に手すりも何もなくつけられているだけのため、作業には危険が伴う。というか既に3人転落死している。
 かといってウルフバードに反抗もできないものだから兵士たちは細心の注意を払って作業に徹するしかないのだ。
 だが、それにしてももう少しやる気というか、覇気というかそういった気概を見せてくれてもいいのではないだろうか、などとウルフバードは勝手なことを思う。
 いったん脅してやろうか。もうこの際兵士爆発させてやろうか。それで大岩が破壊出来たら万々歳だ。
 …それでは階段まで破壊されるし、結局温存したい魔力を失うか。
 「今夜中にどうにかなるかはわかりませんが、一晩身を休めれば小隊長殿が魔法で破壊するのでしょう」
 隣でビャクグンが勝手なことを言っている。
 大胆な奴だ、と半ばあきれながらウルフバードはロビンたちに向けて目を細めた。
 「いずれにせよ、今晩はここでお泊まり会だな」
 いつの間にか差し込む光は月光に変わっていた。
 
63, 62

  

――――

 簡単な食事を終えて、兵士たちもロビンたちも眠りについていた。
 外では未だに化け物の咆哮が響いている。
 だが塔の内部は静寂に覆われ、奇妙な緊張感もはらんでいるようだ。
 結局大岩は破壊できず、明日へと作業が延長となった。
 生命の危機にさらされたあげく慣れない土木作業兵士たちは疲れ果てて全員泥のように眠りこけている。
 はずなのだが。
 むくりと眠る兵士たちの中から一人が起き上がった。
 月光が差し込んで影だけが浮き上がっている。雑魚寝の中起き上がる様は土の中から復活する死人を彷彿とさせる。
 そろそろと足音を立てないように慎重にその影は移動する。
 そうしてゆっくりと歩いていき、目的の人物を見つけて影の表情が緩んだように見えた。
 眼下で横になって眠っているのは、少し前に見知らぬ男たちが連れ込んできた亜人の女だ。
 値踏みをするようにその体をじっくりと眺める。
 最低限の鎧はしかし、体に負担がかかるということで今は外されている。今は下着を纏うだけだ。
 その下着が身体に密着する素材で作られているため、彼女のボディーラインをくっきりと浮き上がらせている。
 豊満な胸、滑らかな脚、顔も悪くない。
 唯一彼女が人間ではないと知らしめる三本の角が月明かりを受けて赤く煌めいている。
 ここは減点だな、と兵士は残念そうにシンチーの角を見下ろす。
 だが、それに目をつぶればなりは完全に人間の上玉だ。
 最近はずっとご無沙汰だった。最後にやったのは駐屯所の近くに迷い込んだエルフの女を襲った時だから2週間ぶりか。あの時は乱入してきた丙家の女がエルフを殺したせいで途中で打ち止めになってしまった。
 その分今回は楽しませてもらおうと兵士が手を伸ばして一歩進んだ時だ。
 「さっきから何をしている」
 冷え冷えとした声が兵士の心臓を握った。
 「っ!?」
 思わず声を上げそうになった兵士を貫くのはシンチーの隣で座りこんでいたロビンだ。
 彼はウルフバードの警告通り寝ずにシンチーの傍についていたのだ。
 答えに窮する兵士にロビンはもう一度ゆっくりと問うた。
 「ここに何をしに来た」
 ウルフバードとビャクグン、そしてロビン一行は兵士たちと離れた場所で休んでいたのだ。一般兵がここに来るのは、ウルフバードに火急の用があった時くらいだろう。
 ロビンたちの方に来る必要は何もない。
 「答えられないなら、今すぐここを去ってくれ」
 「…自分だけの肉奴隷ってことかよ」
 吐き捨てて兵士は去って行った。
 それを見送り、ロビンは安堵したように息をつく。
 「…別にあなたが寝ずの番をしなくとも」
 横になって目を閉じていたシンチーはしかし、しっかりと起きていた。
 のろのろと目を開けて、ロビンを探す。
 暗がりでよく見えないが、撃たれてから目を覚ました時と同様にこの世の終わりのような心配顔をしているのだろうか。
 そんな顔させたくないのに。
 「明日に備えて眠ってください。…最低限の自衛はできますから」
 「…駄目だ。心配だよ」
 シンチーは悲しそうに首を振った。大分薄らいできたが体の痺れはまだとれない。
 「…あなたにそんな心配をさせたくない。……撃たれてから過保護になりすぎです。…立場が、逆です」
 なんて無様な従者だろうか。
 主を守れず、逆に主に心配をかけどおしだ。
 本当はもう、従者として仕える資格などないのではないだろうか。
 「早く…寝ていいです」
 必死な願いにかぶせるように別の声がした。
 「そうだよ、ロビン君。シンチー嬢は俺がちゃんとみてるからさ」
 ロビンの隣に座り込んだヒザーニャだ。
 シンチーは驚いて息を漏らした。
 「…あなたまで」
 何なんだ、本当に。
 ヒザーニャの影が頬をぽりぽりと掻いているのがわかる。
 「何って言われても…俺は君を守りたいから好きでやってるだけさ」
 「…好きで?」
 「そう。義務とかそんなんじゃなくて守りたいから守る。傍にいたいから傍にいるのさ」
 「ヒザーニャ、君半分口説いてるぞ」
 「おっと、失礼失礼。…だがロビン君、君はもう寝たまえよ。彼女が言うように明日何が起こるかわからないんだからね」
 ロビンは降参だというように手をあげた。
 「わかったわかった…なら大人しく横になるよ。何かあったら起こしてくれよ」
 そう言ってロビンはリュックを枕代わりに休息を取り始めた。
 すぐに寝息が聞こえてくる。
 ずっと気を張っていたのだろう。ピクシーに監視を指示しなくて大丈夫か、とシンチーは柄にもなく冗談を思いついた。
 しばらく静寂がシンチーとヒザーニャを包んでいた。
 特に話す必要はない。他の者を起こしてしまうかもしれないし、そもそもシンチーとて体を休めなければならないのだ。
 「…ヒザーニャ」
 「なんだい?」
 相変わらず芝居がかったような抑揚だな、と思う。
 最初はこの口ぶりが嫌で仕方なかったはずなのに。
 それでも一応彼は最初からずっと自分のために動いてくれていたのだ。動機はどうであれ。
 今更のようにそれに気づく。
 蜘蛛から助けてくれた。木陰でずっとついていてくれた。自分のもとにとんで来て霧から逃がそうとしてくれた。渓谷に迷い込んで化け物に襲われた時も身を呈してくれた。そして今もこうして自分を守ってくれている。
 それに、何よりも。
 「……ありがとう」
 「……何か礼を言われるようなことしたかな?」
 そうか、好きになってくれてありがとうということだね。
 そう茶化すヒザーニャに苦笑を返してシンチーは目を閉じた。

 「…人間と亜人の美しい愛情、か」
 「皇国では見えること叶いませんね」
 ウルフバードとビャクグンはロビンたちの会話を耳にしてそう囁き合う。
 こちらとてゆっくり寝ていたいのに、ロビンが殺気を放つものだから鋭敏にも起き上がってしまったのだ。
 「…ま、奴らのしたい様にすればいいさ。所詮無関係な民間人だ」
 「……ですが世界の在り方としては彼らの方が望ましい筈です」
 「かもしれねぇ。だが、皇国は亜人憎しで成り立っている国だ。皇族も国民もそれだけが頼りなのさ。今更非人間と仲良くしましょうなんて言い出して、結局それで何になる?エルフのせいだとされた環境汚染は?戦争特需で回復すると言われた景気の低迷は?兵士になれば出世できると言って徴用した都市に集中した労働者階級共は?全部アルフヘイムとの戦争で解決すると言われていた。だが何も変わらなかった。当然、今更奴らと仲良しこよししても皇国は救われないのさ」
 「……」
 黙り込んだビャクグンを尻目にウルフバードは思う。
 ろくでもねぇ、くだらない国だな、と。
 多くの将校を排出する丙家に生まれたウルフバードはしかし、生来の虚弱体質と気性のせいで軍人としての才を見いだされなかった。
 丙家といえども末家。武功を上げなければ軽んじられる立場だ。期待された生まれたウルフバードがこの体たらくで、フォビア家は彼を冷遇した。
 あげく毒殺されかけたこともある。
 あれは10歳のころだっただろうか。食事の席で水を口に含んだ直後、内臓を口から吐き出すような吐き気が襲い、そのまま息が出来なくなった。
 椅子から転げ落ち生にしがみつこうともがくその少年を誰もが何もせずに眺めているだけだった。
 ――あぁ、俺はここで死ぬのか。
 体液を吐き散らしながら、苦悶の表情を浮かべながら、それでもどこか冷静にそう思った。
 ――俺、頑張ったんだけどなぁ。
 剣が上達しないのは弛んでるからだ、とか、病気にばかりなってフォビア家の恥さらしが、とか、武人に相応しくない考え方だ、なんて怒られもして。
 それでもたくさん努力したのに。
 誰かに認めてほしくていっぱいいっぱい努力したのに。
 軍人らしさとか、将校としてのわきまえとか、全然意味わかんねぇや。
 それでこのザマか。

 喘息の中彼は切に願った。
 力が欲しい。
 くだらないな格式や古臭い因習、時代遅れの矜持に囚われる輩を遥かに凌駕する力が欲しい。
 わかっている。自分には剣の才能はない。自分には人を率いるような力はない。
 それでも何か。
 何か一つ、力が欲しい。

 徐々に暗転していく世界の中、最後に映ったのは毒が盛られた杯だった。

 その後運よく九死に一生を得たウルフバードは何かに取りつかれたかのように魔法の研究を開始した。
 部屋に閉じこもりついに鍛錬もしなくなったウルフバードをフォビア家の人々はもはや死んだ者として扱うことにした。
 それでもかまわなかった。
 部屋には研究資料が積み上がり、乱雑にビーカーやフラスコが散らかされた。
 そしてついに彼は水を操る魔法を会得したのである。

 爆殺した父親を見下ろしながらウルフバードは歪んだ笑みを見せた。
 そうだ。これが自分の持っていた才だ。努力など何の意味もなさないのだ。
 武人?将校?知ったことか。
 俺は俺のやり方で、俺の力で認めてもらおうじゃないか。
 
 力さえあれば認められるのだ。
 そして、その力とは天性のものでなければならない。
 凡人が100の努力をしたところで、天才の1つの試みがそれを遥かに凌駕するのだから。
 ウルフバードが魔法で甲皇国の軍を率いたように。
 竜人族が1人で一騎当千の働きをしたように。

 「あの国を変えたいならそのための力が。それも全てを覆すような力が必要だろうな。…ま、俺はあんな国がどうなっても構わねぇが…それでも力は欲しいね。あんな国の中で粋がれるだけじゃ駄目だ。くだらないにもほどがある」
 誰に言うでもなくそうウルフバードはそう口にして目を閉じる。
 「…生まれ持ったもの、か」
 ビャクグンは首のチョーカーにつけられた勾玉に触れ何かを思案するようであったが、やがてそれも諦めて眠りについた。


 様々な想いが巡る中で夜は更けていく。
 従者がいて、冒険者がいて、作家がいて、兵士がいて。
 人間がいて、亜人がいて。
 想いの数だけ軋轢がある。
 不和の数だけ絆がある。
 塔で眠る者たちはそれぞれに立場が違う。それでも、誰もが今、生きていて。
 それは最も大切な誰もが認めあえる価値であるはずなのだ。
 

 あまりに当たり前すぎて、その価値は無視されてしまうのだけれど。
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