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二話

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俺が7歳でピカピカの小学一年生で純粋無垢な可愛いクソガキだったときまだお袋はまともすぎるぐらいのお袋でちょうど蒸発する一年前になる親父はというとまともとは言い難い少し近所でも変わった人だと評判の親父だった。普段は大抵のそこらへんの親父のようにスーツを着て朝から通勤電車に乗って会社に行き夜になると残業やらなんやらでくたびれて帰ってくるような普通の親父で、子供の俺が把握する世間一般的な父親像よりかはまぁ少し口数が少ない方かなぐらいの違和感しか俺は持たなかったがその時の俺はやはりアホガキといえて純粋無垢とも言えるようなお子様だった。俺は洗脳されていた。その事実に気付いたのが小学一年生の時で生まれてはじめてできた友達である武内のバカの家に遊びに行った時だった。武内のバカは後に体育の授業中の女子更衣室に忍び込んで学年一の美少女からブサイクまで余すことなく全員の下着を盗み出すような変態でありその全ての隠し場所に学校の机の引き出しを選んでバレて停学をくらうようなアホだったが少なくともまだこの頃はアホの片鱗をたまに見せて俺や柿谷にど突かれるくらいで普通ではあったし親父さんは武内の親としては落第レベルの極普通の人間だった。まず俺の植え付けられていた世間一般の父親像とは違って武内の親父はトイレに入る時ドアの前で衣服を全て脱いで全裸で小便ないし大便をすることはなかった。数時間おきに発作的に庭に出てエアギターやエアドラムやエアベースをして1人コンサートを始めて「イ ェイセンキュー」なんて黄昏ながら呟くことはなかった。コンサートが終わった後思い立ったように荷物をまとめてどこかへ行き翌朝帰ってきたかと思えばボロボロで「どこ行ってたん」と俺が聞くと「山籠り」とか言うようなこともなかった。全部なかった。俺は武内の家を出る時にようやく世間との齟齬に気付き涙を流す俺にしつこく「なぁなんでケーちゃん泣いてるんなぁなぁなぁ」と聞きまくる武内を叩きのめして家についてリビングのソファーで三点倒立をしながらNHKを見ていた親父に目があった瞬間自分でも思いがけない言葉を漏らした「俺とーちゃんみたいな父親いやや。もっとまともなとーちゃんやったら良かったのに」
別に本音から言ったわけではなかったしなんだかんだ好きな親父ではあったけどそのときの深く傷付いた親父の顔を俺は一生死ぬまで忘れることはないだろう。俺は言葉のもつ側面である凶器のような特性を知った。たった一言で包丁よりも深く治ることのない傷を作る。俺の言葉はそのときの親父の心を殺したのだ。俺はやはり小学一年生で純粋無垢であり誰よりも親父を愛していたからこそ誰よりも救い難いアホで、愚かと言えた。
それ以降親父は全裸もコンサートも山籠りもすることはなくなった。俺も何事もなかったように親父に接して変わらなかった。
そして一年後いつものようにお袋と俺に「行ってきます」と言って会社に向かったきり親父はその後の俺の人生から忽然と姿を消した。行方不明者届けをだしても効果はなくて警察や病院なんかから連絡がかかってくることもなかった。お袋は泣きに泣いて泣きまくって、俺は過去の自分の不用意な発言を悔いた。もしかしたらあの言葉が親父をどこかへ旅立たせるのを決定付けたのかもしれない。会社に向かったのかもわからない。親父は俺もお袋も知らないようなどこか遠くの場所へ行ったのかもしれない。意外と近くの山でまた山籠りでもしていて誰にも見つかっていないのかもしれない。今でも俺はふとした拍子に親父はどこへ行ってしまったのかと考えるけど、ちっとも答えなんてでなくて毎回途中で思考を切り上げる。ただあの変わった親父がどこかで死んでしまっているかもしれないという考えは不思議とイメージできなかった。根拠はないけど本当に変わった親父だったのだ。もしかしたら親父は「行ってきます」と言った瞬間言葉や表情の中に何か他の意味を込めていたのかもしれないけど、それは本当にわからない。
1日が経ち一週間が過ぎて1ヶ月が終わろうとしても親父は家の玄関をくぐることはなかった。俺とお袋は泣きに泣いて親父の帰りを待ったが泣くという行為は単純に悲しさからくるものであって泣いて待つことはいわば祈りだ。祈りは自分の何かが思い通りになってくれという願望だ。祈ったって親父が帰ってくるわけではないし帰ってきたとしてもそれは祈りからくるものじゃない、偶然の一致だ。そんな事は頭でわかっちゃいるけど人間は祈る。お参りにしろミサにしろコーランにしろ人は祈る。無神論者でもいざという時は祈るのだ。そして俺とお袋は祈り祈り祈り祈りつづけ祈り祈り祈り祈り祈り祈り、祈りの無意味さをようやく本当の意味で理解した。
まず変わったのはお袋だった。ある日を境にお袋は唐突に泣くことを止め、かと思うとその代わりに頻繁に俺を叱るようになった。叱る理由は様々だったが共通していたのは子供ならやりがちな大したことじゃないヘマっこと。一般的な母親なら優しく諭すぐらいで済ませるだろうしそれはお袋も例外ではなかったが、それは最初のうちだけでお袋の剣幕の立てようは段階を踏まずエスカレートしていった。言葉も最初は優しいものだったのが徐々に鋭いナイフのような切っ先を持つものに変わっていく。「どうして母さんの言うことが聞けないの」「あんたは私をどうしたいの」「産むんじゃなかったこんなクソガキ」「あんたのせいで何もかもめちゃくちゃよ」「あんたのせいで」「あんたのせいで」「あんたのせいで」
「あんたのせいで...」
俺はなにも言い返さなかった。というよりも言い返す言葉を持たなかったのだ。お袋が日々憔悴していく原因は親父が失踪したからなのは火を見るよりも明らかでそんな事は小学一年生の俺にだってわかった。どうしてあんたのせいでとお袋が繰り返すのはわからなかったけど実際その通りかもしれなかったのだ。俺は親父に言ってしまったことを覚えていたから。言いたくもなかった思ってもいない言葉。
「俺とーちゃんみたいな父親いやや。もっとまともなとーちゃんやったら良かったのに」
俺は心底救い用のない阿呆だ! 俺があの時あんなことを言わなければきっと親父がどこかへ行ってしまうことはなかったのだ。 お袋も優しい俺の大好きなお袋のままだったはずなのだ。俺はあの時の親父の顔がまぶたに焼け付いて消えない。深く傷付いて何かとても大切なものが手からこぼれ落ちて壊れてしまったような表情。まだ幼い息子に胸を長く細い針で貫かれてしまったようなあの悲哀に満ちた瞳。俺は親父を知らない。親父があの時、あの瞬間なにを思ったのか想像できない。でも確かに俺は親父の心を殺した。俺が親父を殺したのだ!
もしも時が遡れるのならきっと間違いなく俺は俺が親父に言ったことをなかったことにして修正しようとするだろう。親父の代わりに幼いクソガキの俺を殺すだろう。いや俺は消えてしまった親父も変わってしまったお袋も殺してやりたい。なぜこうなって、こうなってしまったのだ。
そして一度だけ俺はお袋を殴った。いつものように叱られていた最中の事だった。お袋の驚愕の眼差しはすぐに憎しみと怒りのそれに変わり、その日を契機としてお袋は俺に暴力を振るい始める。俺は罰を求めていた。明確な形の罰が欲しかったのだ。一番手っ取り早かったのがたまたまお袋の暴力であって俺を傷つけられるものがあるのならなんでもよかった。俺のせいで俺を取り巻く家のすべてが音をたてて壊れていく鐘のように高い悲鳴をあげながら最後にはただの金属のとりどりの破片になってしまった。悲しみと衝撃でできたそれを、一体誰が片付けると言うのだろう。
12, 11

  

「ほら起きーや啓介、着いたで」
新幹線が米原に着いて俺は光太郎に揺り起こされる。そうして目を開いた途端、激しい頭痛が寄せる波のように連続して俺を襲った。あれからずいぶん飲んだらしくて、潰れて凹んだ空き缶が足元に転がっている。どうみても飲み過ぎ。
「俺の分も空けやがって」
「頭ガンガンする」頭上の荷物を取ろうと立ち上がるも思うように足が動かせず、ふらついて壁にもたれかかってしまう。見兼ねたようにして光太郎が荷物を全て手に取り出口へさっさと歩き出した。「ゆっくり来いや、俺先出てるで」
スタスタ先に行くもんだから、慌てて背中を追いかけようとするけど千鳥足じゃ進めるものも進めない。急ぐと足がもつれて床に滑ってころんでしまう。周囲の乗客がじろじろと白い目を俺に向ける。いかにも迷惑そうな感じ。
光太郎は車両から降りて姿が見えなくなる。壁を手すりにへばり付きながら芋虫のようにして俺も車両を出ると、時刻夜の9時、駅のホームからは一面真っ白な銀世界が外の暗闇に目一杯に広がっていた。雨風除けの屋根を躱して大粒のわた雪が前髪に舞い落ちて、すぐに溶けて水となって染み込む。呼吸は冬の煙突の煙みたいに白い息になって空の向こうへ消えていく。誰かが嘆息するのがどこかから聞こえて、しばしの間俺は動けずにじっとその光景を見つめて、ただ一人立ち尽くしてしまう。そこは確かに米原で、俺のふるさとで、全ては八年前で時が止まっているかのようだ。
2度と来るまいとしていた場所の、地面を俺は踏んでいる。
ふらつく足取りで階段をのぼって改札へ出たものの夜の駅の構内はあっけらかんとしており先に出ていた光太郎の姿は見えない。あれれと思って近くのトイレの中を覗いてもどこかのおっさんが個室の中で気張っていただけ。こんな田舎の駅の場合は無駄なく空間は作られていて狭く他に行くようなところはない。先に出たのだろうかと改札を通って西口の入り口へ向かおうとしばらく進むと出口の傍、階段の下から光太郎の声が響いた。誰かと喋っているようだが相手の声はしないからたぶん電話かなにかだろう。
「だから...いやちゃんと持ってる...そんなん言ってもやな...」
光太郎の声はくぐもっていてところどころがよく聞こえない。盗み聞きって良くないことだとはわかってても俺は酔いもあってさっきからうきうきしっぱなし。階段を半分くらい降りてこっそり忍び寄るが、光太郎はまるで気付く様子を見せない。
「おう...俺がいんくても気いつけや...早いうちに」
ああそういや光太郎は結婚してたんだっけ。夜のこんな時間に電話するのは嫁以外にはいないだろう。いや以外なら? 浮気? いやいやいや光太郎はそんなやつじゃない。
光太郎は一言「愛してるよ」なんて言って通話を切る。ナンパな奴。俺があえて足音をたてながら降りるとさっと光太郎は振り向いてケータイをポケットに入れた。
「コーちゃん改札で待っててくれな俺どこ行ったか思て探したで」
「おお悪いな」光太郎は足元に置いていた荷物に手を伸ばしながら言う。なんか焦ってる? 「ちょっとな」
光太郎から俺の分の荷物を受け取って外まで出ると見覚えのない円形の大きい広場が俺たちのいるタクシー乗り場の向こう岸にある。田舎町の夜は恐ろしい程に静かで、しんしんと降り積もっていく雪の様子は夜の静寂に拍車をかけているみたいだ。
「こんな広場できたんやなぁ」と光太郎が呟く。ただ変わったのは広場ぐらいで昔からある雑居ビルやその隣の平和堂なんかはまったく同じ。杉の木立に挟まれた通りの横には会社に併設されたビジネスホテルがある。
「そういやコーちゃん俺らこれからどうすんの」
「病院の面会時間はとっくに過ぎてるしなぁ」米原市民病院は琵琶湖の湖岸沿いにあってここからは直線距離で2キロくらいある。歩いても30分と少しといったところ。「どっかで一晩明かすしかないわな」
「宿はとってないんか」
「忘れとったわ。まぁ、そこでええやろ」
光太郎がビジネスホテルを指差す。こんな田舎だから予約もいらないのは旅行者からすれば便利だろう。浅く積もった雪をざくざく踏み締めながら俺たちはホテルまで歩いていく。「なぁコーちゃん」前を歩く光太郎は振り返らずに返す「なんや」
「さっきの電話誰やったんや?」
雪で冷え切った風は酔いで火照った頬に触れて通り過ぎていく。頭も冷やされているよう。
「あぁ、聞こえてたか」
「嫁さんか?」
「そうや」光太郎はそれ以上語ろうとしない。俺は光太郎が俺に対してなにかを隠している事に気付いたけど、あまり詮索は良くないことだとも思い何も訊かない。
そうこうしているうちにホテルに着いてフロントで空き部屋を聞くと、案の定ホテルは空いていた。鍵を渡されて部屋に入り適当に荷物を置いてベッドに座る。しばしぼんやりと1人くつろいでいると、隣の部屋にいたはずの光太郎がノックもせずに上がり込んでくる。「啓介、飯、行こう」
「ここら辺にあったかな店」
「ここからもう少し歩いたら小料理屋あったやろ、確か」
「あああったなぁ」そういえばそこなら何度か行ったことを思い出した。「番野やっけか」
俺の米原の時間は八年前で止まっている。光太郎が閉店の可能性を心配したので、ケータイで検索したが幸いにもまだ営業しているらしい。「行くか」
そうして俺たちは2人で青年時代の朧げな記憶を辿りながら番野へ向かう。八年の歳月は人を変えるがどうやら米原は変えれなかったらしく、見慣れた冬の光景が道を続いて広がっていた。懐かしさを感じる傍ら、俺は素直にそれらに喜びを見出せない。帰ってきてしまった。音をたてず一心に降り続く雪の情景はあまりにも少年時代の思い出がありすぎる。変わらないことは時には良いことでありまたある時には悪いことでもあるのだろう。
小料理屋番野は八年の間に改装を入れたのか、昔は民家の余ったスペースでやっていたような立派とは言えないながらも親しみのある雰囲気の店舗だったが今は真新しく、慎ましい日本家屋のようなものに建て替わっていた。のれんをくぐり店内にはいると壮年の女将が出迎え、同時に厨房からいくつも歓迎の声が飛んでくる。カウンターに通されて俺と光太郎は腰をおろしたが、ふと女将が去り際にやけにこちらへ視線を送っていたことに気付いた。どうやら光太郎も同様らしく、帽子を取りつつ小さなトーンで言う。
「啓介、あの人知り合いやっけ?」
「うーんわからん、あんなおばちゃんの知り合いなんていたかな」
「俺もや」
「いやでもどっかで見たような顔やと...」
そう話しているうち、カウンターの向かいには同年代だろうか、若い板前がやってくる。光太郎が適当な注文をして、俺は板前の顔をじっと注意深く観察していた。うーんどこかで見たような。板前は奥のいけすから網で暴れる魚を引っ張り出す。まな板の上にその魚を押し付け、よく手入れされた鈍い銀色の包丁を首元に刺し込んだ。慣れた手つきだった。
「お客さん、どちらの方ですか」あくまで目は眼下の魚に落としながら板前が俺たちに訊く。運ばれてきた熱燗を傾けながら光太郎が言う。
「俺は埼玉で、隣のこいつは東京からや」
「へえ、また遠いですね」板前はてきぱきと調理をしていく。俺はまだこの男の事を考えていた。番野、番野か。うーん。「でもお客さん関西弁ですけど」
「ああ、俺ら元々ここ住んでてな、従兄弟やねん。んで米原のこいつのお袋さんが倒れてなぁ」
「ええ、知ってますよ」不意に板前が口元を歪めて笑う。調理の手を止めて。「まだ気付かへんか」
隣の光太郎はぽかんと口を丸くして、口調の変わった目の前の板前を見た。「え?」
板前は俺たちに笑い声をあげて、頭に被っている和帽子を脱いで頭髪を晒した。「俺や、久しぶりやなコーちゃん、啓介」

光太郎が混乱する横で、その時ようやく俺は思い出した。そうだ、昔俺が番野へ来たことがあったのもこいつがいたからなのだ。この懐かしくて古い馬鹿は今だ愉快そうに笑っている。「ああ、お前、徹か!」
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小料理屋の一人息子番野徹は中学までらずっと一緒だった幼馴染で、腐れ縁ともいえた。しかしその腐れ縁が切れたのが高校に進学してからで進路も違ったからいつしか疎遠になっていった。そういう意味でいえば関係性は光太郎と似ているかもしれない。徹は俺たちが気付いたことに嬉しそうに笑っている。「ほんま久しぶりやな、啓介、光太郎さん」
混乱と困惑が入り混じった表情の光太郎は完全に忘れ切っているようでその視線を俺と徹の間で今も右往左往させている。「コーちゃんマジで忘れたんか、徹やんけ徹。ガキんときよう遊んだやんけ」
「ん、んんほうね、徹、徹なぁ」わかったようなわかっていないようなそんな曖昧なふう、一人無理やりに納得するように光太郎は頷き、徹は呆れたように光太郎を見た。「まぁ光太郎さんとは年も違いましたしね」
「徹、お前、いつから板前なんかなったんや」
「お前が東京行ってからや」徹は和帽子を被り直し包丁を持って魚をさばいて造りにする。天井にある丸い暖色の蛍光灯がかんぱちの切り身に反射してまばらに輝き水々しさを感じさせる。「高校出たら修業始めるって親父と約束してたんや」
「ならさっきのはお前のお袋さんやな」箸の先を小皿の醤油につけて片手間に光太郎が入口の方を指差した。先程俺たちがそうしたように入口のガラスの格子の奥ではまた誰かがのれんをくぐり、重たげにガラガラと扉を開けて店の中に入ってくる。小柄な体に不釣り合いに思える厚手のコートを羽織って2人、どこかそのへんの中小企業の会社員だろう。店の奥からはバタバタと足音が近づいて、またあの女将が客たちを出迎えた。
「ええ、本当なら母さんにはもうゆっくりしていて欲しいんですけどね」徹は客を通路の奥へ連れて行く母の背中に目をやって言う。大きいとは言えない小柄な背中。「親父がもう悪くてね、自由きかないし、人手もないから」
そうして俺たちはしばらくの間8年分のとりとめもないことを談笑して、たまには昔のガキの時分の馬鹿話に花を咲かせながら、次々出される料理を舌鼓を打つわけでなく感動を起こすわけでなくぼんやりとしながら片付けていった。ゆっくりと夜が更けていって、そろそろ俺たちが店を出ようと席を立ったとき徹が俺に声をかける。「そや、啓介。今からおばさんの見舞いいこ」
「いやもうとっくに病院閉まってるで」そう言ったのは光太郎で俺は酒でほどよくかき混ぜられたみたいな頭で半分寝ながら何も言わない。
「大丈夫大丈夫やから」「やから無理やって」「大丈夫向こうに内通者いるから」徹は手を洗い黒い長靴を脱いで店の奥に歩き出そうとする。内通者?「んじゃ俺車出してくるで外出とれや」「待てやなんやねん内通者って」
俺が言うことにはまるで耳を貸さず徹は裏口から出て行く。やつが何を言ってるのかわからないがとりあえず上機嫌なのは確からしく、やつのお袋でもある女将がこちらを申し訳なさそうに覗いていた。よくあるのだろう。俺たちが会計を済まそうと声を掛けると、笑って首を横に振る。
「お金はええんよ、あの子の相手してくれてありがとうなぁ」
「はぁ」俺がそのまま店を出ようとすると、後ろで光太郎が女将に聞いているのが聞こえる。「あの、内通者ってなんなんでしょう」
「あぁ、なっちゃんのことやろねぇ、ナースしとるから大丈夫や考えてるんちゃうかな。まぁ付き合ったって、あの子もあんたらに会えて嬉しいんよ」
「なっちゃん?」「うん? あぁ光太郎くんはわからんかぁ、啓介くんならわかるよな」
そのとき俺は立ち止まって、後ろから向けられる2人の視線を背中に感じるともなく、頭の中でその名前の人物に思いを馳せていた。なっちゃん? 俺はその人物を知っている。遠い昔の俺の鼻を塩素のにおいがくすぐって風と共に去って行く。緑のタイルの上、プールのサイド際に立って揺れるレースのカーテンのようになびいた髪をその手で押さえつける彼女を覚えている。俺と彼女は友達で恋人じゃないけどお互いのことを親しく話すようなそんな関係だったはずだ。あれはいつの事だった?
徹の車に乗ってお袋の入院する米原市民病院に向かう途中、徹から徹となっちゃんこと綿垣奈津美が付き合っていてもうじき結婚することを告げられる。今年の6月、ジューンブライド。運転を続けつつ徹は照れながら自分たちが恋仲にまで発展した馴れ初めを語る。地元の成人式で中学以来の奈津美と会った。その後の飲み会で話が合って意気投合した。連絡先を交換してしょっちゅう遊ぶようになって気が付いたときには付き合っていた。別に特別珍しい話なんかじゃなくて探せば腐る程ありそうなありふれた内容。
「学生のときは変わったやつやと思っとったけど、久しぶりに会うとなんか色々見違えててなぁ」
ニヤけながら徹は俺たちに喋るけれど俺は「ほうか」とだけ言って後はずっと窓からの景色を見ていた。他人の惚気話なんて聞く価値がないからだ。徹と奈津美か意外だねフーン。光太郎は熱心に相槌を打ったりなんやかんやしていたが俺はまるで無関心を貫いていた。マジでなにが面白いんだ。
街の端から端を一直線に両断する細長い国道をまっすぐひた走るとそのうちに杉の木立に入って琵琶湖の湖岸に出る。夜の浜辺はひっそりと沈黙しながら波が寄せて耳をすませば近くでチャポポンと水面から魚がとびはねているのが聞こえる。月明かりで輝く水面の下では真っ暗な闇が胎動しているように思えてきて俺はその中に飛び込みたくなる衝動に駆られる。魚になるのだ。ブルーギルやブラックバスなんて魚でもいいができるならもう少し立派なやつがいい。そうそんなふうにして一人静かに泳げたらどんなに幸せだろう。沈黙と暗闇を手元に湛えながら水の中をそっと這い泳ぐのだ。
病院の駐車場は車一つなくて正面から入ると夜で隠れていた病棟の輪郭と寝静まり返って死んだ気配がよく伝わった。入口近くに車を止めて降りるともちろん誰もいなくて玄関も閉まっている。どうするのか徹に訊くと「ちょお待て」と言われて徹が誰かに電話をかけるのを眺める。
「俺や...お疲れ、んでさっき言ってたけど皆来ててなぁ、今から入れんか?...うん、了解、裏な」電話の相手は奈津美だろう。徹が病院の裏手に回ると言うので俺たちもそれについて行き2分くらいすると関係者以外立ち入り禁止の看板を越えて病院の裏口につく。徹は関係者みたいに平然と勝手口のドアノブを回し俺たちに見せつけるようにして開いた。「さ、どうぞ」「アホかおめえは」
モップやダンボールなんかが積まれて狭まった薄暗い通路を進んで更衣室の横を抜けると非常ベルの上にある、レモンを半分に切ったみたいな楕円形の真っ赤なライトだけがそこかしらに備え付けられていて古いホールの中は仄暗くでも少し赤かった。光太郎は我が家みたいに待合のソファに腰を下ろして、徹は三つ四つある周囲の通路をキョロキョロ目で見回している。「あれ、あいつ遅いなぁ」
しばらく待つことになり俺はトイレに行くと言って傍の男子用トイレに入り用を足す。無心で便器の下にある緑の球をなんとなく見つめてるとまったくなんの脈絡もなく真後ろでギィーと木が軋んだみたいな音が響いてドアが開く。俺はびっくりして閉めかけのチャックを思わず挟みそうになるがなんとか持ち直す。あぁこんなこと前にもあった。俺は俺が小学生のときに起こった同じような出来事を覚えている。それは俺の思い出でありやつの思い出でもあるのだろう。だからあの時のリプレイを面白がって今こうしてしているのだ。それは俺の奈津美との最初の出会いだ。
ゆっくり振り返るとそこには8年後の奈津美がいる。満面の笑顔をいっぱいに携えて浮かべて。「よっ」と言って奈津美がすぐ前で手をあげる、俺は何も言わない。俺がこの街に帰ってから全ては再現されているかのようだ。8年という月日は何を変えたのだろう。俺は無い頭で考えるけど、何一つまともな答えは出やしない。
少なくとも俺はこのときとあのときにこの女には出会うべきではなかった。出会うことがなければ俺の今後もかなり変わってくるはずだったのだ。
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俺は診察室の横に立って巨大なガラス窓に写る自分の姿を見つめながらさっき奈津美に聞いたことを一つ一つ頭の中でなぞっている。お袋の病状とその原因。空調も効いていない冬の廊下は恐ろしいほどに静かで冷たい。光太郎たちはみんなもうどこかそのへんに散ってしまっていて俺が連絡したときに集まって帰ろうと言っていた。やつらなりに気を遣っているつもりなんだろうと思うし俺もそれに甘えている。数分前奈津美は待合席で座って黙る俺たちにコンクリートみたいに真剣な顔で、急ぐわけでもなく一言一言言葉を選ぶように、要所をかいつまんで説明を始める。
「啓介のお母さん、早瀬静さんね、発見されたのが昨日の夜10時過ぎで、隣の家の人...中村やっけ? そのうちの旦那さんが仕事帰りに玄関あいてるし、真っ暗なんを変に思って訪ねてみたら靴置きのとこで倒れてる静さん見つけたらしいわ。
そんで静さんの病気なんやけど、けっこう前に検査で脳腫瘍の可能性が見つかっててね、まぁ遺伝的というか、実は静さんのお父さん、啓介のお爺さんね、お爺さんもそうやったらしいんやけど、静さんそれ以上検査は行かんようになってね、なんでかなぁ。
病気には段階があるのは知ってるやろ、ステージ1とか2とかさ、はっきり言うと遅すぎたんやな、もうほぼ末期に近いわ。脳腫瘍ってな、頭の中でどんどんでかくなってくんやけど、でかくなると脳も圧迫されて頭痛とか嘔吐とかが激しくなるんよな。脳ってさ、人間の感覚器官の大元やんか。やから圧迫されていくと体がおかしくなってくんよな。視力がなくなっていったり、手足が麻痺したり、食べ物が上手く飲み込めへんくなったり。あと、記憶もな。幸い当面の峠は越したけど、まだどうなるかはわからんし、今は眠ってても起きたときに今までの記憶があるかはわからん。覚悟はしといたほうがいいよ」
俺はお袋に持病や疾患の類のものがあるなんて話は聞いたことがない。少なくとも米原にいた8年前まではそうでまだ見つかってはなかっただろう。お袋が話さなかっただけかも知れないが。俺はお袋の頭の中で今も少しずつ成長していく腫瘍のことを想像する。その脳腫瘍なんかのことはよくわからないが、それはきっとたぶん風船に限りなく近いものなのだろう。世界の誰にも気づかれない速さで執念深く膨らみ続け、やがてそれはパン!と目に見えず音も立てず破裂する。空気の代わりにドロドロした血液を飛ばして。赤より赤い風船は死そのものだ。俺は俯いて自分の靴以外なにもない灰色の床に目を落とす。そこにある暗い影と俺自身の影とが混ざって微かに反射する俺の顔には何もなく真っ黒。そうかお袋が。お袋が...


お袋が死ぬ?


そこまで考えてようやく俺は死の存在を、お袋が死ぬという事実を自覚する。ああ死ぬのか。恐らくは奈津美のあの口ぶりだと余命も長くはないのだろう。あれだけ殺してやりたいと思っていたお袋が死ぬ。呪いに呪ったなんど夢の中で殺し殺されたかわからないお袋が死ぬ。俺や誰かに殺されるわけじゃない、いつ来たかもわからないような存在すら認知していなかったものにお袋はもうすぐ殺されるのだ。
そんなこと許されていいのか?
俺はお袋を憎んでいる。もし仮に殺したとして何の罪や社会的制裁を受けることがないのならば俺はお袋を殺すだろう。当たり前だ。結果的にこれまでにお袋は俺に今までにした仕打ちで罪に問われたり罰を受けることはなかったけれど、実際受けていたとして俺の憎しみはそんなものでは取れない。ある日突然事故に巻き込まれたりして、もしくは今みたいな病で死んでしまうことはお袋の俺の望む結末には程遠すぎる。軽すぎる。そこらへんで死んでいくやつらと変わらないじゃないか。
罪を犯したものには罰があるべきだ。その罪が法に触れるとか触れないとかそういう問題ではなく、何らかの裁きがあるべきだ。ただの不慮の死はそれに該当はしないだろう。もし万が一その不慮の死が神様から下された罰だとしても俺はそれは適当だといえない。例えば殺人という過ちを犯した人物がいたとして、彼もしくは彼女が懲役30年という罰を負ったとする。そして30年立派に刑務を務め上げて出所するとする。
いや果たしてそれだけで罪の重さとしては充分でその人物は罪を償ったと言えてもう許されるべきなのだろうか?
違う。俺は胸を張って叫ぶだろう。そんなことはない。そもそも人の犯した罪とは贖罪を通したとして消えるものなのかもわからないが、仮に消えるか許さるかがあるとしたらそれは最低その罪によって被害を被った人々の許しがいるはずだ。そうでなければ世の中は理不尽すぎる。さっき言ったように人を殺したとして30年や死刑じゃ足りないのだ。被害者の心の綻びが放置されたまま許されるなんてそんなことがあってたまるか。たまるものか。
薄暗い闇をかき分けて俺は歩き出す。足音は狭い通路に反響してどこか遠いところへ徐々に消えていく。診察室へ入ると様々な医療機器の光が暗闇に色を映し出している。赤、青、黄色。その空間の中、中央には静寂に据えられた一台のベッドがある。
お袋がいる。
俺は黙ってお袋を見つめる。お袋の顔は若さを無くし肌からは張りやツヤが取れて抜け落ちていて、その代わりに深いシワと黒っぽいシミがたくさんできている。手術後のせいで頭には厳重に包帯が巻かれて額の横から白髪が数本垂れて出ている。ずっと見ているとなんだか俺の知っているお袋じゃないみたいで赤の他人の老婆だと誰かに言われてもたぶん俺は信じれる。お袋の瞼は重そうに閉じられていてそのまま2度と開かないんじゃないかって思える。まるで動かないから本当に死んでるんじゃないかと思って隣にある生命維持装置を見るけど、脈はある。視界の隅に生命維持装置を繋ぐ白いコードがあってそれを目で追っていくと壁のコンセントに突き当たる。
俺はそっと屈んでコード上を撫でるように手を動かし、コンセントの付け根に指を置く。
これを抜けば全て終わるのだ。
背後で扉の開く音がして俺はコンセントから指を離した。やっぱり来たか。振り返ると細い人影が俺の足元まで鋭く伸びて、真っ黒な誰かが声を放つ。俺はそれが誰だかもうわかっている。
「殺そうとしたんやね」
奈津美の顔は薄暗い闇の中に隠れてその表情を読むことはできない。
「うん」
「なんで?」
「憎いから」
「違う。なんで殺さへんの?」
「殺さんのがおかしいみたいな言い方やな、別に理由なんていらんやろ」
「殺そうとしたのを寸前で止めるのは理由いると思わん?」
「...色々めんどくさいやろ、後々」
「まぁ犯罪やしね」
奈津美はベッドの隣に近寄って波打った白いシーツの上に腰を降ろし、眠っているお袋の顔に手をかざし優しく撫でる。俺はただ突っ立ってその光景を見つめている。
「綺麗な顔......」
そうしている奈津美はまるで寝る子をそばで見守る母親のようにも見えるし、死んだ人間の顔を冷静に確認する警察のようにも見える。俺よりも家族らしいといえるし他人らしいといえる。どっちとも言えないような俺はどっちなんだろう。
「奈津美、お前変わらへんな」
「そう?」
「うん、変わらへんよ全然」そこらに積まれた機器同士の間にパイプ椅子があって俺はそれを取り出して座った。「お前なら来るやろな思っとったわ」
「少しは変わってたら良かった?」
「さぁ」目の端に床と床に根を下ろすベッドの脚が入る。「どうやろ」
しばらく俺たちは何も喋らずただ時間を一秒一秒を確かめながら過ごす。奈津美はずっとお袋を見ていて、ある時堰を切ったように口を開いた。
「私徹と付き合ってるん聞いた?」
「6月に式あげるんやろ?」
「うん」
「おめでとう」
「それだけ?」
「それ以外に何があるっていうんや」
「徹は私のことはあんま知らんで」
俺は少しだけ驚いて奈津美のほうを見た。やつはお袋に目を落としていて目を合わさない。
「話してないんか」
「そんなエラいことようせんわ」
「そう、そうか......」
徹は昔からいい奴だというのは俺たち同世代の共通の認識であるし俺だってその例外じゃない。ただ少し馬鹿なところがあるのは否めないし馬鹿だからいい奴であれるとも思うがそんな馬鹿だからこそ純粋なのだ。傷つきやすくある。徹は奈津美を知らないのか、そうか。
「なぁ啓介」
「なに」
「私がお母さん殺してあげよか?」
うつむき加減の目線を上げると知らないうちに奈津美は俺を見ていて俺はただその瞳を見つめ返している。なにも変わっちゃいない。奈津美は淡々と言う。
「事故に見せかけることもできるし、大丈夫やで」
「いや、待てや」
「だって殺したいんちゃうん」
「そうやけどもやな」
俺はそれ以上言葉を発することができずにいる。そしてさっきまで殺そうと息巻いていた自分とは裏腹に心のどこかでお袋を殺しきれずに葛藤している自分がいるのがわかる。なんでだ? 事故として殺せるならなんの心配もいらないじゃないか。でも俺は悩んでいる。ここにきてお袋への愛に目覚めた? いやもっとありえない。ありえないことだとわかっていても否定しきれない俺もいるし殺してもいいじゃないかという俺もいる。
「そんじゃ今はやめとこ」
奈津美はベッドから降りて部屋をでて行こうとする。
「奈津美」俺が呼ぶと奈津美は振り返らずにいう。「なに?」
「お前墓参り行ってるか」
「行ってるで」
そう言い残して奈津美は出て行った。そうか。俺と死んだようなお袋だけになって再び世界が2人になって取り残される。奈津美に触れられていたお袋の顔は俺が見ていた時と変化はない。ケータイを使って皆に入って来たときの裏口で待ってるように伝えて、俺も薄暗い部屋を出た。せめてお袋が今までみたいに目を開かないようにひっそりと静かに注意を払って。誰か俺の代わりに俺には言わずに殺しておいてくれないか。
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豊穣 誠 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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