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表情

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 グラウンドに出ると、他の部員達はとっくにアップとキャッチボールを済ませていて、ステップ・アンド・スロー十週を始めていた。二塁側と三塁側の二組に部員を分けて縦列に並ばせ、送球のやりとりをする。ボールを投げたら反対の塁の列の最後尾に走る。そんな調子で部員全員がノーミスで十球投げたら終わり。ただでさえすごく面倒くさいのに、この寒い中で声を絶やすなと言われても……。無理な相談だ。
 監督の藤波は左打席に立ってノックバットでスイングを確かめていた。無駄を好まない性格が見て取れるような、コンパクトな振りだ。
「監督、今日は体調が悪いので、休ませてもらってもいいですか」
 嘘がばれないよう、慎重に尋ねる。藤波は小さく舌打ちをして、素振りを続けながら言った。
「そんなことだからお前は進歩しないんだよ」
「すいません」
「さっさと帰れ。お前なんかに構ってる暇はない」
 言われなくてもそのつもりだ、と心の中で毒づいて、僕はグラウンドを後にする。
 ステップ・アンド・スローは五週目にさしかかった所で高二の先輩が球を弾いてやり直しになったようだった。ミスをした先輩は自分を棚に上げて、僕のせいだと言わんばかりになぜかこちらを見ている。野球部の空気は苦手だと、改めて認識した。

 その点で言えば、鶴は凄い奴だ。
 部活をサボる時、僕は大抵『rave down』に行く。二年前に家の近くに出来た喫茶店兼図書館のような店で、名前とは違って、静かで薄暗い店だ。うるさいのは名前と、流れている音楽くらいなものである。
 放課後に『rave down』に行った時、たいがい店内にいる面子は決まっている。店をやっているハルさんとコージさん、沢田、そして鶴直人。あとになって、常連客がちらほら現われる。一見の客は滅多にいない。
 鶴は僕と同じでサボリ癖のひどい一年生だが、練習試合ダブルヘッダーの二試合目でも出番がないような僕とは違い、五番を打つレフトのレギュラーだ。これは、選手の実力以外は完全に度外視する藤波の政権だから為せる技で、藤波の元では、毎年のように遅刻常習犯のキャプテンや赤点で部活停止を食らうエースが生まれるらしい。
 その鶴は、やはり今日も既に店の奥のカウンター席にいて、沢田とだべっていた。BGMはtoeの『tremolo + delay』で、いつもよりは静か目ではあるが、いずれにせよ喫茶店で流すような曲ではない。
「おぉ、今日もボクちゃんが来た。ちゃんと『部活』に出て偉いねぇ」
 僕の姿を見るなり、鶴はニヤニヤしながら抜かして、ハイタッチを求める。
「いい加減ボクちゃんってのやめてくれよ。俺もう自分のこと僕って呼んでないし」
 気のないハイタッチをしてから僕は席に着いて、コージさんにカプチーノを注文した。
「いいや、お前はボクちゃんだよ。雰囲気が」
「おいおい、よせよ。今日は大事な相談があるんだろ」
「相談?」
「あぁ、詳しいことはこいつに聞いてよ」
 沢田が鶴に話すよう促すと、鶴はヘヘッと軽く笑って、話し始めた。
「あのさ、ボクちゃん、七瀬ちゃんと仲がいいらしいじゃん? 紹介して欲しいんだけど」



「七瀬って、永峰?」
「当然だろ」
 やっぱり、そう来たか。鶴はとにかく女好きだから、そんなことだろうと予想してはいたが、あまりにも直球過ぎて、少し呆れてしまった。
「止めとけって言ってるんだけど、あまりにもしつこいからさ」
 沢田もやれやれ、といった感じで肩をすくめる。
「おいおい」
 カプチーノが僕の前に置かれる。砂糖を足して表面の泡に描かれた四葉のクローバーを崩しながら、僕は沢田の意見に付け足した。
「ほんとに止めといた方がいいよ。あいつ、俺のことが好きだから」
「えっ、マジで?」
「あぁ。今までに三回告られた」
「チェッ、なんでまたお前なんかに……」
 カウンターに伏せて、鶴は残念そうに呟いた。
「な、だから言っただろ」
 鶴の落胆ぶりを見て、沢田が得意げに笑みを浮かべる。
「あれ? でも、お前ら付き合ってないだろ」
「あぁ」
「よし、これは勝算ありだっ!」
 突然、鶴が起き上がってガッツポーズをした。喜怒哀楽が激しいというか、ドタバタと慌ただしいというか、そういう奴なのだ。
「でもさ、不思議だよね。なんで忠司は永峰を三回も振ってるの?」

 そう言えば。
 沢田に訊かれて、僕は初めて、自分が永峰を振ったのに具体的な理由がないということに気が付いた。永峰といる時に感じる、漠然とした心象はあるのだが、それを口に出すことは禁忌に思えるのだ。永峰は男子に人気があるし、彼女のファンの恨みを買うのは賢いとは言えない。
 しかし、そう思って鶴や沢田に目をやると、彼らが本当に答えを知りたがっているのが伝わってくる。はぐらかす訳にはいかなそうだ。
「そうだなー……」
 永峰から受ける心象を、どうにか言葉にまとめようとする。多分それはこんな感じになる。
「俺、多分どこかで永峰が苦手なんだ」
 決してベストな表現ではないにせよ、これ以上的確な表現が僕には思いつかない。
「あいつといると、自分が完璧じゃないってことに気付かされるのかな。なんか不安になるんだよ」
 そうなのかな、ともう一度考え直してから、そうだと再認識する。自分は何もかもが永峰と違い過ぎて、ある程度尊大に振る舞わなければ潰されるような思いに囚われてしまうのだ。
「それに、仲良く見えるかもしれないけど、あいつが勝手に寄ってくるだけで、俺としては腐れ縁みたいな感じ。ただの幼馴染みだよ」
「なんだよ、それ」
「贅沢言わないで、どうせならくっつけよな。今の中途半端な関係見てると、イライラする」
 案の定、二人とも不満そうだ。でも、言いたいことを言えたから、楽になった気はする。
「で、鶴はどうせ、顔も成績も運動神経もいい、なんて分かりやすい理由であいつが好きなんだろ」
「まぁな。少なくとも、表向きの理由はそうなるな」
「表向きってなんだよ、表向きって」
「いや、くだらねぇ話だけどさ」
 鶴が頭を掻きながら苦笑する。
「昔から暗い顔がきれいな女が好きなんだよ」

 鶴のその言葉はかなり意外だった。人間が互いにないものを持つ人間に惹かれ合うというのはよく聞くが、鶴にはやっぱり明るい子の方が絶対似合う。だから、永峰みたいな明るい奴を好きになるのは端から見るとすごく自然な感じがするのだが、彼は永峰の明るさではなく、「暗い顔」に魅せられたと言うのだ。しかも、そんな表情を浮かべた永峰は、少なくとも僕の記憶の中には、いない。永峰は笑って、たまに怒って、そのすぐ後にまた笑うようなイメージしかない。
「俺、そんな永峰見たことないけど」
「マジ? っしゃ、俺の勝ち!」
 誇らしげにピースをする鶴の口から白い歯が覗く。なんだか憎たらしい。
「ま、それだけ長い付き合いなのにまだ知らねぇことがあるってことは、やっぱり勝算ありだな。永峰は俺が貰っていくぜ」
「勝手にどうぞ」
「なんだよ、張り合いのない奴だな。顔つき通りに女々しい奴だな、ボクちゃんは」 
 そんな会話をしながらも、頭の中で疑問が膨らむ。
 永峰の暗い顔。
 探り甲斐のありそうな話だと思いながら、僕はコーヒーカップを口に運んだ。


5, 4

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