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天使の喇叭

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 美しい音がしている。
 どんな楽器とも比べ物にならない、優しくなめらかで洗練された音。
 道行く人達は、その美しい音に足を止めしばしの間聴き入る。休日の昼間の、とても人が多い道にいるとは思えない、やすらいだ顔。
 音は他全ての音を騒音として掻き消してしまう。先ほどまでの雑踏、車、風、鳩の鳴く声、全てをかきまわす。
「天使の祝福か、珍しいな」
 聞き慣れた声に振り返る(知らない人間の声だったらおそらく気付かないだろう)
 今だ刺すような寒さが続いているというのに、青いシャツとジーンズに、薄手のジャケットを羽織っただけの薄着の男。彼は大学入学当初から今まで、三年と十一カ月の付き合いになる知り合いだ。
「なんだ、お前のが寒そうだな……にしてもどこからだこの音は、そうとう近くじゃないか」
 キョロキョロと辺りを見渡す。
「見つからないな、赤ん坊はちいせーもんな」
 美しい音。それは人の声、その中の、赤ん坊の泣き声だ。二十年ほど前からやけに泣き声が美しい赤ん坊が一定数――消して少なくない数が生まれるようになったのだ。
 その美しい泣き声は普通の泣き声、うるさくて不快なものとは違い、おそらく世界で一番美しいと言ってもいいほどで、耳に入れてしまったなら虜になってしまう。
「いつまで泣いてるのやら、埒があかねえ、とっとと行こうぜ」
 彼に言われ、歩き出す。
 生まれたばかりの赤ん坊の顔が笑っているように見えるのは、愛されるためだ。赤ん坊の泣き声がとにかく不快なのは、それを止めてもらうためだ。
 美しい音を誰も止めようとはしない。
 赤ん坊は泣き続け、力尽きて死ぬ。死ななくても、楽器として高く売れる。無事に成長できた例を知らされたことはない。
 美しき生誕の産声は、同時に終わりを知らせる黙示録の緒言だ。
 音は、頭の中にずっと絡みついて、離れない。

 目的地である映画館に至るまで彼と自分は一言も言葉を交わさなかった。
「大学生二人、席は……」
 彼が二人分のチケットを受け取り、売店に並ぶ。
「いつも通りでいいよな」
 彼が手早く二人分のポップコーンと飲み物を買い、上映部屋に入る。
 映画は可もなく不可もなくの出来だった。
 ただ音楽は、世界で一番美しい音を出すと言われている楽器を使っているためとても綺麗だった。普通はこんなことは出来ない。だからこそ、この毒にも薬にもならない映画が世界中で騒がれて、彼と私がわざわざ観に来ているのだろう。
「お前……ずっと起きてたんだな」
 抑揚のない低い声。彼は件の音楽が流れだしてからずっと目を瞑っていた。映画の中盤からは明らかに寝息が聞こえていた。
「腹減ったな、食ってくか」
 ファミリーレストランで簡単な食事を済ませ、すこし休んで店を出る。
 外はほのかに薄暗い。
 二人で並んで道を歩く。
 同じ道に進むと、彼は家に帰るのにとても遠回りをすることになるが、彼はいつも遠回りをする。
 彼をおしゃべりな人間だと思っているが、私と彼は会話をしない。彼にとって私は会話の聞き手だ。
 彼は確認はしても質問はしない。

「お前、本当は喋れるんだろ」

 しなかった。
 初めて、いや、これは彼が私にする二回目の質問だった。初めての質問は三年と十一ヶ月前だった。
 心臓が止まってしまうような衝撃。全身を冷えた血液が駆け巡り、身震い。
 彼はいつもの退屈そうな顔でぼんやりと正面を向き、何を考えているのかわからなかった。
「卒業した後は、もうどこへ行くにも俺は連いてやれねえぞ」
 足がすくんで動かなくなった。彼は構わず歩き続ける。
 前を向く彼の目には特別なものは何も映っていないはずだ。
「就職先が遠いから、来月には引っ越してここを離れる」
「あんまり人と話さなくていい仕事だってあるんだ、少しずつでも慣れるに越したことはない」
「一生そのままでいるつもりはないだろ?」三回目の質問。
 行かないで、と言うことはできなかった。
 彼を引きとめる資格はない。
 三年と十一ヶ月前、彼が孤立していた私に"喋れないのか?"と話しかけてくれたのはほんの気まぐれだったことを気付いている。
 そこから今まで彼は恋人を作らなかったし、多くの人と親密に見えてその実一線を引いていた。
 彼は一言も、どんなに小さな拒絶の言葉だって吐かず、いつも隣りに居た。
 それを甘さと決めつけるのか。彼は彼自信を侮辱しているのか。
 口元を両手で押さえつけた。鳴らしてはいけない。
 私は不快に求めることしかできない。
 それは赤ん坊と同じだ。
 
 辺りに滅びの音がこだまする。
 それを不快と思う者はなかった。
 男は立ち止まるが、振り返ることはなかった。

 小さな世界が崩れて落ちる。
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