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第一話

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「ねえ、いつまでこんなことしてりゃいいんですかあ。
 俺もうレストラン予約しちゃったんですよお」
ほっぺたを膨らませてブーブー文句を垂れる部下。
うっすら開けた窓から向かいの様子を伺っていた杉は、無精髭の伸びた顎を撫でて答える。
「刑事に非番はねえ。覚えとけ」
「そんなこと言ったって……杉さんみたいな女日照りには分かんないでしょうけどねえ……いでッ!」
憎まれ口を叩く頭にゲンコツを落とし、杉は再び双眼鏡を覗きこんだ。
丸いレンズの向こう側に見えるのは、赤茶色に錆びた鉄柵がついた小さな窓。

彼らがこのボロアパートの一室に張り込んで、かれこれ半日が経とうとしている。
向かいの古い下宿に住む前科者の様子を監視するだけの簡単な仕事だったはずだが、
今朝になって「やはり二人一組で行ってくれ。もしものことがあったら困るからな」と言い出した上司に相棒をあてがわれた。
警視庁に来たばかりのヒヨッコ刑事、岡本。
どうやら非番だったところを呼びだされたせいでデートの約束が反故になったらしく、ケータイを眺めてはため息をついたり、
さっきのように八つ当たりしてきたりと、鬱陶しいことこの上ない。

「……ちょっと、お前見とけ。何かあったら俺を呼べ」
立ち上がって双眼鏡を押しつけると、岡本はまた不機嫌になった。
「どこ行くんですか」
「ションベン」
聞くまでもねえだろ、と睨みつけてやると、わざとらしく口笛を吹いてそっぽを向く。
杉は古い和式便器にまたがって用を足すと、さっきまでのイライラが尿と一緒に体から抜けていくような感覚を覚えた。
「んっ……今日はいつにも増してキレが悪いな」
ピッピッと先っちょを抑えて最後の一滴まで落とすと、和式便器のレバーを下げた。
古いアパートのせいか水の出が悪い。2、3回押してようやく全部流れた。
手洗いがないので、流しで丹念に手を洗う。同僚には神経質だと笑われるが、
息子を触った後はいちいち石鹸で手を洗わないと、どうにも落ち着かないのが彼の癖だ。
これも職業病かと苦笑してハンカチを取り出した瞬間、岡本がいる居間の方からドスン、バタンと騒がしい音がした。
続いて「ぐぇっ……」とえづくような声。岡本がきゃっと女のような悲鳴をあげる。
「どうした、何があった!?」
慌てて戻ると、岡本が腰を抜かしたまま「あ……あれ……」と震える手で窓の向こうを指さしていた。
杉は岡本を乗り越えて、レースカーテンを思いきり開け放った。そこには、

「……嫌なてるてる坊主だぜ」

洗濯物干しの紐に首を締めあげられ、ベランダの柵からぶら下がった元.監視対象があった。


【第一話.君の声に恋してる】


私立湘南学院に通う女子のトレンド。茶髪、ルーズソックス、ギャルメイク。
巻き髪がオシャレ女子のスタンダードないま、いまだにこの高校だけは15年も昔に流行った紀香ヘアが幅を利かせている。
彼女たちいわく「男にモテるためにしてるわけじゃない」らしい。いつの世も、媚びない女は男ウケが悪い。
この高校の女子は男子と馴れ合わないのが鉄則だ。

さて、そんな彼女たちをバカにする男子のトレンドはというと、スマホ、進撃の巨人、AKB48。
この高校の男子は、駅のホームで電車を待ってるわずかな間も、授業の間の10分休みも、重症になると退屈な物理の授業の時間に、机の下でずっとスマホをいじってる。
芸能人のアンチスレを見たり、ネット小説を読んだり、ひどいのは海外のエロサイトで金髪美女の“アソコ”を薄目で見て鼻の下を伸ばしているありさまだ。
その様を、生徒指導の守山が「ウサギの交尾」と例えたのは言い得て妙だと、おませな女子たちはささやきあった。

「なあなあ、昨日の総選挙見た?」
「見た見た、まゆゆがあっという間にセンター落ちとか、マジ凹むわ……」
「やっぱ指原サマサマだべ。俺が見たところ指原と板野は残るな。あとみなみ」

昼休みの教室は、そんな会話であふれている。
その中で一人、会話の輪に入らないで分厚い本を読む男子生徒がいた。
ゆるくパーマのかかった黒い髪、式典もないのに第一ボタンまで留まった学ラン、きちんと揃えられた両足。
真面目が服を着て座っているような彼の周りには、こういう生徒にありがちな近よりがたい空気が流れていた。
「なあ、柴田っていつも本読んでるけど、それ何?」
突然体の向きを変えて話しかけてきたのは、前の席に座っている茶髪の男子生徒だった。
頭の中で音読しながら楽しんでいたのを邪魔されて、柴田と呼ばれた男子は不機嫌を隠そうともせずイヤホンを外した。
「……別に、関係ないだろ」
そっけない口調で目をそらすと、彼はまたイヤホンをつけて読書の世界に戻っていった。
茶髪の生徒はすこし残念そうな顔をしたが、「そっか。ごめんな、邪魔して」と前に向き直ると、何事もなかったかのようにスマホをいじりはじめた。
読者の皆様には心当たりのある方もいるだろう。いわゆる「ひとりぼっち」の子はたいてい、人の会話をふくらませることができないものである。
彼__柴田コウヘイが同級生と言葉をかわしたのは、2年生にあがってこれがはじめてだった。
コウヘイは、せっかく会話の糸口をつかもうとしてくれた茶髪の優しさを叩き返したわけだが、特に悪いとも思っていないのか、
あいかわらずジャズで耳を塞いで、読書の世界に没頭していた。それを遠くからじっと睨みつけている目線には気づかずに。

「いでッ、いででっ!ちぎれる、ちぎれる!!」
「知らないよ、あんたこそ何様のつもり!?」
帰りの会が終わり、部活の準備に追われる生徒たちの行き交う廊下で、コウヘイの耳をひっぱる一人の女子。
いかにも勝ち気そうなポニーテールを揺らして、赤くなった耳をさらにねじりあげた。
痛みに悲鳴をあげるコウヘイを、他の生徒達は遠巻きにしながら、見て見ぬふりをして通り過ぎる。
「昼休みの時のアレよ!何あの言い方!“別に、関係ないだろ”って……あんたは読書邪魔されて腹たってたのかもしれないけど、
 だからって松丘くんに意地悪言う理屈はないでしょ!?」
「お、俺は別に意地悪言ったわけじゃ……」
「あんたにそのつもりがなくても、周りにはそう聞こえるの!!」
彼女、阿部マリエは幼稚園からの幼なじみだ。
言いたいことはハッキリ言うし、まったく遠慮というものがない。マリエのお説教はいつものことだが、
的はずれなことを怒ったことは一度もないのだ。それだけに、コウヘイも大人しくしていることにした。
マリエの攻撃は痛いが、言い訳するとますますヒートアップする。黙っていればいずれ彼女の機嫌もおさまるからだ。
ひとしきり怒鳴った後、彼女はようやくコウヘイの耳を離した。
腫れて熱をもった耳たぶを水で冷やして、恨みがましい目を向けるコウヘイの尻を、おまけとばかりにぺちっと軽く叩く。
「……なんで、マリエがそんな本気で怒るんだよ」
マリエはセーラー服のスカーフを結び直しながら、短いため息をついた。
「あんたさ、甘えすぎなのよ。そんなに他人と関わるのが嫌なら、学校やめて山にでもこもったら?
 気づいてないかもしれないけど、あんた今までいっぱい人を傷つけてるんだよ。みんなが話しかけてこないのなんて当たり前じゃん。
 あんたと喋ると必ずバカにされて、嫌な思いするからだよ」
「……何だよ、俺が悪いって言いたいのかよ」
そこで、廊下の向こうから「マリエちゃーん」と呼ぶ声がした。
「言いたいことはそれだけ。じゃあね」
ひらひらと手を振って、友達と連れ立って帰るマリエの後ろ姿は、ひねくれたコウヘイの目にも眩しく映った。





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