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UP, UP, and AWAY!

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 寒い……。

 伯爵はふとそう思いながらもスケッチをとる手をゆるめなかった。

 写真機でも幾枚か露光させたものの、開戦当初のこの機械はいまだ信用ならなかった。露光時間、銀板の扱い、ピントの調節……どれ一つ間違えても、現像してみると画像が全く判別不能になっていることも珍しくなかった。ことにこのような環境において、ゼット伯爵のような新し物好きなだけの素人の操作ではなおさらである。無線機、機械人形、自動車……伯爵が手を出しては放置した目新しいおもちゃは枚挙にいとまがなかった。

 そんな伯爵が一つ完璧に扱えると自負する機械が気球であった。気球は船ほどではないにしろ古くからある乗り物だったが、今伯爵が眼下の光景をスケッチしている高度まで、地図上の直線距離で言ってもこれほど遠くまで飛行できるようになったのはごく最近のことである。

 空には太陽が輝いていた。しかし日暮れまでほど遠い時間にもかかわらず天球の大半はすでに真っ暗だった。この高度ではもはや青空を映す大気も希薄になっているのだ。伯爵が立つ吹き曝しの気球のゴンドラの向こう、丸みを帯びた水平線の辺りでは、遠くまで所々を白い雲に覆われた青い海が広がっていた。しかし彼のすぐ足元に存在するのは茶色と緑がまだらになった、どこまでも広がる大陸だった。
 アルフヘイム大陸。亜人たちの住む土地。甲皇国軍人である伯爵は偵察のため敵地の上空に来ていた。達成すれば皇国軍初の快挙である。

 ふと目を移すと下方から赤や緑の小さな翼が苛立たしげに火を吹きながら、大きく円を描いてゆっくりと舞い上がってくるのが見えた。

 アルフヘイム空軍の竜人どもか。のろまなトカゲども。ここまで登ってくるころには吾が輩はとうに飛び去っておるわ。どうだ、もう羽ばたいても叩く空気さえろくにあるまい……。伯爵はこう強がろうとしたが、かすかな大気の層にかろうじてぶら下がっているのは伯爵の気球も同じだった。そもそも生身の人間が平気でいられる高度ではなかった。伯爵は自動車事故とそれに続く肺の病を期に、体を高高度に耐えられるまでに機械化していた。それに加えて特製の防寒着を着こんだ伯爵は、この高度でも問題なく気球を操縦し、写真機を操作し、スケッチをとることができた。

 それにしても寒い……。

 空気の薄い高空でも推進できるよう特別に改良を加えたプロペラを操作して、その場を後にしながら伯爵は思った。偵察を終えた後は気流の関係でスーパーハローワーク商業連合の影響下の土地に着陸することになるだろう。彼ら中立国は交戦国の兵の侵入に抗議するだろうが、大事な商売相手に本気でケンカを売る根性は商人どもにはあるまい。着陸を妨害する本格的な空軍もなく、船で伯爵を甲皇国に送り返すほかないだろう。しかし、それにしても寒い……。




 
 多少の外交上の大騒ぎの後、ゼット伯爵は商業連合の船で甲皇国に帰還した。
 伯爵が、侵入者を抑留しようとする商業連合警備部門と亡命者に対するオープン・ハンドを旨とする貿易商人達との対立、そして威信と信用のどちらを重視すべきかで右往左往する両国の外交官たちを巧みに利用し、ついには母国への船をあつらえさせたこともまた一大冒険と言うべきことだったが、ここでは詳細は省くこととする。
 たとえアルフヘイム偵察という成果がなくとも、沖合の甲皇国艦隊からも観測された伯爵を捕えようとするアルフヘイム空軍の努力と、甲皇国軍気球がスーパーハローワークに着陸したことが判明した直後に巻き起こった外交官たちの騒ぎによって、驚くべき距離と高度の飛行を達成したことは確実であった。
 封建的な武徳を称える表現にのっとって、彼は「空中の騎士」と呼ばれた。実際に戦士達が空中で一騎打ちを繰り広げるようになるのは少し先の話になるのだが。ともあれこの貴族による冒険は甲皇国の宮廷・民衆の両方から評判をとり、年若いクノッヘン皇帝おんみずから、やはり若き英雄に手短なお褒めの言葉をかけて、じきじきに勲章を手渡してくださったものだった。
 そして、伯爵は公衆の前に立ち、こう宣言した。

「私たち人類が亜人を超える飛行能力を持つことが証明された!」

 翼を持つ亜人たちのように自由に空を飛ぶことは彼の夢だったのだ。










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