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本編

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「……っあ。ひぁう……!」
この馬鹿女! 変な声を上げるのはやめろ! 俺が体の支配権を持っていればこんなことにはならなかったのに! 
朝。快速急行は二十分間ノンストップだ。まだ出発したばかりで停車まではしばらくかかる。途中で腹痛など起こした時には世界を呪うこともしばしば。だから大概の事には耐えることができる。
 ……だがなぁ、変態じじい! 俺の尻の穴をほじくるのはいい加減にやめろ! 
 さっきから後ろに陣取っている禿げた親父が俺の尻を、太ももを弄っている。すぐにでも、その汚い手を振り払ってやりたいが、それができない。なぜなら、現在この身体は馬鹿女――和泉ありすが支配しているからだ。出来るのは、この馬鹿女に怒鳴りつけることだけだ。
(この馬鹿! さっさと振りほどけ! お前これ以上変なことをされてみろ! ぜってえ殺す)
「……む……りだよ。怖くて声が出ない」
(ああ! くそったれが! いいよ! こんなところでそんな女らしさ出さなくても! 大体今のお前の身体は男だろうが! 俺の! 男の身体を持ってなんで男に痴漢されてんだよ!) 
(……そ、それは中野君が、可愛いからですよ……)
「――ゃん……!」
 ありすが不快な喘ぎ声を出す。
 何でこんなことになったんだ……。俺は死にたくなるくらいの辱めを受けながら、こんな変てこな身体になってしまった経緯を思い返していた。





「桐緒! 次は来週の月曜日だからな。遅刻するなよ。スタジオ代もったいないんだから」
九月中旬。その日は至って、いつもと変わらぬ日常だった。大学の授業が終わった後、いつものようにバンドメンバーと待ち合わせて、スタジオで練習した。俺――中野桐緒はその日も約束の時間より十分ほど遅れて待ち合わせ場所に到着し、バンドメンバーからの顰蹙をかった。
「はいはい。解ってるって」
ギターを担いでこちらを睨む、木下正人にひらひらと手を振って言った。正人はがっしりとした筋肉質の身体でルックスが良い。よく女に間違えられる俺とは正反対のイケメンだ。
「嘘よ! 桐緒は何度言っても遅刻やめないでしょうが。今度おごってもらうわよ」
 横からベースを担いだ、紅杏子が俺に向かって吼える。杏子は紅を基調とした、少し派手目のパンクファッションをしている。
「ちっ。お前食べることばっかり考えてんじゃねえよ。太るぞ」
「……くっ。桐緒、あんたいつか殺すわよ」
 杏子は本当に憎しみの篭った目で俺を睨むとローキックを飛ばしてきた。こいつは、食べるとすぐ太るらしい。
 俺たちは『スカーミッシャー』という名前で、ついこの間結成したばかりのロックバンドだ。バンド名の由来は、俺と正人がはまっている、とあるオンラインゲームから。日本訳では『散兵』。要は射手や、銃兵などの遠隔歩兵を指す。俺と正人はこの兵種を使うのが好きだったからこの名前にした。杏子は名前が決まってから入ったのだが、スカーミッシャーという響きは爽やかで嫌いじゃないと言って納得していた。因みに通称はスカミ。
 バンドメンバーはギターの正人とベースの杏子。それからドラムの俺の三人だった。
「おい、杏子。歌の練習ちゃんとしてんのか」
 帰り道、杏子の家まで三人で歩きながら帰っていた。杏子の家はスタジオの近くで、俺と正人は原チャリだったから、いつも正人と二人、押しながら徒歩で送っていたのだ。
「私やらないって言ってるでしょ」
杏子はげんなりとした顔で俺を見た。
「あんたがやりなさいよ。桐緒」
「やらねえよ。バーカ。正人に決定だな」
「俺は桐緒が歌えばいいと思うがな。その顔なら男にもてるぞ」
「……てめえ。殺されたいようだな」
「はいはい。もういいよ。そのコント。正人は桐緒ちゃんが好きなんでしょ。はいはい」
「は、殺すぞ。杏子」
「ヒャッハー! 桐緒なら抱ける!」
 そんなふざけたやり取りをしながらも、杏子の家に到着して、俺たちは散会した。
ここまでは至って、いつも通りの日常だったのだ。何がどう間違ったのか――その帰り道に事故は起きた。
 五十キロ程のスピードで原付きを走らせている時だった。道路の真ん中へ突然猫が飛び出してきたのだ。俺は声にならない悲鳴を上げながら、ハンドルを切って避けようとした。そして、身体だけが慣性によって放り出され――強かにコンクリートの地面に頭を打ち付けた。視界が真っ暗になったかと思うと猛烈に気分が悪くなって、痛みが体中に広がって。ああ、ヘルメット付けていれば良かったと一瞬だけ後悔して、俺は気を失った。




 ヘルメットくらいは本当に被っておくべきだった。そうしたら、まだ骨折ぐらいで済んだかもしれなかった。
 この時おれは瀕死の怪我を負っていたらしい。しかし、俺は死ななかった。
「う……ん」
俺はしばらくして目を覚ました。嘘のように身体の痛みが引いていた。というか怪我が全て消えている――?
そして、俺は恐ろしい事実に気付いた。あれがない。俺の股間にぶら下がっていた、大切なあれが! 
「うお!」
 ない。ない。ない。ない! パンツの中に手を突っ込んでもそこには何もなかった。更に自分の声が少し高くなっていることに気付き、胸の膨らみに気付いた。でも大した大きさではないな……
 その時、声が聞こえた。
(あの、大丈夫ですか?)
「誰だ!?」
 俺は辺りを見回したが、暗い道路があるだけでそこには誰もいない。
(名前ですか? 私、和泉ありすって言います)
 これは、どこから聞こえてくるのか。頭の中から聞こえてくるような感覚。やはりあれが無くなるほどの事故を起こしたのだ。頭がどうかしてしまったのかもしれない。クールになれ。俺。そして夢なら醒めろ。
(あの、本当に大丈夫ですか)
「あ? 大丈夫なわけがないだろ! あそこは取れるし、胸もこんなに腫れてるんだぞ」
 まだ童貞だったのに。俺のあそこは一度も使われることなく取れてしまったようだ。事故のショックと併せて俺は混乱していた。
(女性の身体? もしかしたら、私がとりついたせいかも……)
「は? とりついた?」
(うん。あなたが今にも死にそうだったから、助けるためにとりついたんです。で、私が女だからとりつかれたあなたも女の子になったのかなって。あはは)
とりついた? 俺は何が何だか解らなくなって眩暈がした。ではやはりこの声は頭の中で聞こえているのか。
「・・・・・・お前、一体なんなんだよ」
(幽霊ですよ! 何を今更)
 こんなふざけた事があるものか! 俺はあそこを失った絶望的な気分と今起きている訳の解らない現象に目の前が真っ暗になった。
なんとか動いた原付に乗って家に帰ると、俺はベッドに倒れ込んだ。
「女になってしまった。一瞬で」
 もう何も認めたくない。世界は滅びろ、人類は死ね。
(もともと可愛らしい外見してたんですから大丈夫ですよ。それに見た目、胸以外はあんまり変わってないですよ)
「黙れ」
 何も考えたくはなかった。ちなみに微乳すぎて、胸も大して見た目変わらない。くそが。
(そんなに大切だったんですか。あそこ)
当たり前だ。女にわかるか。俺も今では女だがな!
パンツの中に手を入れて確かめてみる。やはり股間に穴が一つ増えている。これはもうあそこが取れたどころの話ではない。俺は完全に女になったのだ。
頭の中で響く声の主、和泉ありすは今の状況に全く動じていないようだ。命を助けたのだから後はどうでもいいといったところだろうか。
(私、幽霊になってから誰かと話すの初めてなんです。ちょっと感動しちゃいました)
 しばらく、本気で泣いていた俺はとりあえず、自分の体が汚れていることに気付いた。考えてみれば当たり前だ。事故ったのだから。俺は風呂に入って寝ることにした。ありすとか言う幽霊の相手をするのも嫌だし、寝たら案外治るかもしれない。
(いやあ、猫にとりついて遊んでいたら、バイクにひかれそうになって、また死んだのかと思いましたよ。あはは)
 もはや、憎しみが沸くレベルである。全てこいつのせいだ。俺は自分の過失を棚に上げることにする。
湯を沸かすのは勿体無いので、シャワーだけで済まそう。そして服を脱ごうとして。
そういえば、俺女だ。鏡に映る自分の姿はありすとかいう奴の言う通り、大して変わりはないような気はした。しかし、明らかに俺は女になっていて、そして一応だが胸があった。
少し、胸を見ることにためらいがあったが、俺のものだ。気にすることもないだろう。俺がするりと男もののシャツを脱ぐと、頭の中で絶叫が聞こえた。
(ああ! この胸私のです! ほくろの位置と形が一緒です! 可愛いハート型です! 見ないでください! 見ないでください!)
「うるさい! 今は俺のだろう」
(いやあああああ!)
こいつ、頭がおかしいんじゃないだろうか。あんまりうるさいので、さすがに鏡でほくろの形が本当にハート型なのかは、観察するのは止めにして、さっさと服を脱いで浴室に入った。
(見られてしまった……もうお嫁に行けない)
「幽霊になっても結婚する気があるのか」
(そういう無神経なことよく言えますね)
「お前に言われたくねえよ」
身体を洗っていてはっきりとしたが、この身体は元の俺の肉体とこの女の肉体を混ぜ合わせたような構造になっているようだ。つまり、女性特有のものはありすとかいう女の生前の肉体をトレースしている。逆に言うとそれ以外は、俺のものがベースだ。顔とかな。
しかし、顔が前のままでもしっかり女に見えるあたり、残念というか幸いというか。
(いやああああああ! そんなところ洗わないでください、この変態!)
「うるさい! 今は俺の身体なんだ! 黙って見てろ!」
(ううううう……)
 しくしくと泣くありすを尻目にしっかりと身体を洗うと、浴室を出てバスタオルで身体を拭いた。ついでに裸で歯も磨く。これは前からの俺の癖だ。
(この変態。変態。変態。変態!)
「うるさい! 殺すぞ!」
(もう死んでます!)
俺はボクサーパンツを履くと、ジャージを着てベッドに潜り込んだ。本気で意味の解らない一日だった。寝て醒めたら、もしかしたら俺の身体は元に戻っているかもしれない。
「俺は今から寝る。話しかけるなよ」
(えええ。もっと話しましょうよ。あなたの名前はなんていうんですか)
そういえばこいつに名前を教えてなかった。
「……中野桐緒だ」
(中野君かあ。中野君は学生です?)
「大学生」
 こんなことを聞いてくるということは、もしかしなくても、俺の思考を読めるわけではないようだ。つまり、俺の発した言葉でしかコミュニケーションが取れない。
(わたし、高校生だった・・・・・・はずです。あんまり生きてた時の記憶ないんですけどね)
「何も覚えていないのか」
(名前と年齢くらいです。十七歳でした。ところで何で一人暮らしなんです? ご両親は?)
「海外旅行中。この一年は一人暮らしだ」
(へえ。偉いですね)
「別に、偉くはないよ」
(中野君には好きな人はいないんですか?)
「いないよ」
(そっか。じゃあ、女の子になってもまだセーフですね)
「黙れ」




朝、俺は窓から差し込む朝日に目を覚ました。外から鳥の鳴き声がちゅんちゅんと聞こえて、爽やかな朝を演出してくれている。
「う……ううん」
無意識に出た声は、いつも通り低かった。あれ、治っている? 男に戻ったのか? 俺は手を股間にあてて、確かめようとして――俺には実体がなく、横に俺の肉体が寝ている事に気付いた。どうなっているんだ・・・・・・?
「うーん」
俺の意思とは別に俺の身体が伸びをした。
(おい! ありす! おい! お前なのか!)
 俺は不安に駆られて、昨日頭の中で騒いでいた女を呼んだ。
「ん、何? ここにいますよ」
やはり今俺の身体を動かしているのは、ありすだった。
(お前! 俺の身体を乗っ取ったのか!)
「ええ!? そんなことしてないですよ!」
 ええい。黙れこの悪霊め! 
「ってあれ? 私に身体がある?」
ありすは手を股間に当てた。
「でも、あれがついてる……ってことは、私。男になったの? あ、変なもの触っちゃった。ばっちい」
(お前……そんな事言ってる場合か……)
「確かに。うーん、どうしようかな。まあ、また元に戻れますよ! そんな気がします」
 物凄いむかつくが、そういうことにしておくことにする。というか、思わないと不安過ぎて身体が持たない。
「私がこの体使っていると、幽体の中野君は見えないんですね」
 ちなみに俺はありすから半径二mほどまでしか移動できなかった。首輪を付けられている気分だ。
(とりあえず、着替えて俺の代わりに学校に行ってくれ……)
「はーい」
ありすはもぞもぞとジャージを脱ぐとパンツ一枚になって、トイレに入って、叫んだ。
「ぎゃあああああああああああああああああああああ」
(いいよ! もう! その反応解ってたから! 俺のもの見て一々反応するんじゃねえ!)
「まだ、寝ぼけていました……まあ、慣れれば可愛いもんだって、誰かが言ってたし。大丈夫」
(いいからさっさとしろ! 観察するな!)
この痴女が!
しかし、どうやったら再び俺に身体の所有権が戻ってくるのかが解らない。こいつが眠れば再び俺に移るのか。しかし、とりあえずの問題は時間が迫っている学校だった。単位がやばいのだ。今日はバンドの練習もあるし。
「……触ってたら気持ち良くなってきました」
(さっさと手を離して学校に行け。……この変態)
「変態!? 違うもん! 少し触っただけです!」
(いいからさっさと、学校に行け!)
「わかりましたよ!」
 家の中のどこに何があるか解らないありすに逐一指示を飛ばしながら、俺は、これから先の不安に胸が押しつぶされそうになるのだった。




 以上がこれまでの経緯である。要はあの事故の所為でこんなことになったわけだ。俺は今自分が置かれている状況を思い出して、むかつきのあまり発狂しそうになった。――電車で痴漢にあっているのだ。この俺の体が……!




「――ゃん……!」
(いい加減にしろよ……! この痴女! 反抗しろ!)
 俺はこの事態に対してどうすればいいのか解らず手のうちようがなかった。どうして。どうして、男の身体の状態で痴漢にあうのだ。
 ジーパン越しに、尻を触られて、ありすは身体をよじらせた。そして、指が少しずつ前に伸びていき、本来女ならあるはずの穴を探し始め――。
 その瞬間痴漢親父の手が何者かによって弾かれた。
「……え?」
(誰だ!?)
ありすが少し視線を後ろに回すと、親父はいかにも何も無かったと言わんばかりに、身体の向きを逆にした。親父とありすとの間には一人の女性が割り込んでいた。どうやらこの女性が助けてくれたようだ。
女性はゴシックロリータと呼ばれる衣装を着ていた。コスプレか何かだろうか。
「大丈夫だった? 中野が可愛いから男なのに痴漢されるんだよっ」
女は俺の名前を呼んだ。しかし、俺にはこの女の記憶がない。高校生というか、中学生と言っても通用するような顔をしているが、世間一般で言うと美少女だ。こんな知り合いがいたらそうそう忘れるもんでもないと思うが。その時案の定ありすが小声で尋ねてきた。
「……ねえねえ。知り合い?」
(いいや、会ったことない)
「忘れているとかじゃなくて?」
(しつこい! こんな女、俺は知らん!)
その時、女は怪訝な顔でこちらを覗いていた。
「どうしたの、ぶつぶつ言って」
「え、あの僕、あなたと会ったことありましたっけ。申し訳ないんだけど、君の事覚えてないみたいで」
「うん、私、別にあなたと会ったことないよ! でも、中野君は少し有名人だし。スカーミッシャーのナカノってね」
「え。あはは。そうだったんですか。いや、まあ、それほどでも、あはは」
 そして、小声で続けてきた。
「そうだったの!? 中野君!」
(ああ、まあ、最近俺らのバンド人気出てきたとこだな。今のところインストしかやってないけど)
「淫スト? 何ですか。そのいやらしそうな名前」
(黙れ! この変態女! インストってのはインストルメンタルの略! 器楽曲つって、ボーカルなしの曲をやってるんだよ!)
「ああ、なるほど、納得しました」
 つくづく馬鹿な奴。
「私の名前は二階堂理美っていうの。スカルナイトっていうビジュアルバンドでボーカルをやってる。まだ、できたばっかりのバンドだけどね。今度、中野君の大学の学園祭ライブに出るつもり。スカーミッシャーも出るんでしょう? あのライブの後には人気投票もあるし負けないよ!」
 ありすが小声で尋ねてくる。
「どうなの!? 中野君!」
(出る予定だったよ! こんな身体になる前はな!)
 これからスカミはどうなるのだろう。俺はいつ身体の支配権を得られるか解らないし。正人と杏子に迷惑をかけてしまう。俺はこの時、出演を辞退しようかとも考えた。
 その時ありすが勢い良く言った。
「出ます! 当然!」
 おい! 勝手に何を言っている!
「理美ちゃんには負けないよ」
 ありすは理美の目をじっとみつめていた。
「いきなり下の名前でちゃん付けかぁ。うん、まあ悪くないね!」
 理美は顔を赤くしながらぷいと顔を逸らした。
「あたし、ここで降りるね」
いつの間にか、長い二十分が終わったようだ。電車は徐々にスピードを落としていくと、停止し、客を吐き出した。
「じゃね。中野君。会場で! 今日はなかなかいいものとらせてもらったよ!」
 とらせてもらった? 何をだ? といぶかしんでいる内に、二階堂は電車から出て行った。
「ねえねえ、中野君! 私をそのライブに出させてください! 今思い出せたんだけど、ライブで歌を歌うのが夢だったんです。。それが叶ったら、成仏できる気がします」
 面倒くさいが良くある条件だなと、俺は顔をしかめた。まあそれくらいで元に戻れるなら安いものか。とりあえず、状況打開のための目標ができたのは救いだった。
(それができたら、俺の中から出て行くんだな?)
「多分! そんな気がします」
そして、因みに俺の身体を弄っていた親父も、そそくさと人ごみの中に消えていた。
(それにしても、男だったって、後ろから聞こえてただろうな! 女じゃなくて、残念だったな! くそじじい!)
「多分残念だとは思ってないような……」
(なんか言ったか変態女!)
「いえいえ! 何も!」
 そして地下鉄に乗って俺たちは大学へと向かうのだった。
2, 1

  

うちの大学は結構歴史のある私立大学で、開放的な校風が特徴的な良いところだ。俺は経済学部に所属しているが、経済学部の建物は比較的新しく、綺麗で、過ごしやすい。
ありすは初めて受ける大学の授業に大興奮で意味は解らずとも、しっかりノートを取っていた。
(わかんねえくせに)
「な! 失礼な! 確かに解らないことも多いですけど、案外解る内容も多いですよ! というか、想像以上の易しさにちょっと驚いてます」
(まあな、特にうちは経済学部だからな。高校の公民と大差はない)
「言われてみればそうですね」
今日は二時間目からのスタートで五時間目までの流れだった。
そして、とうとうここにきて、俺の身体の支配権を取り戻す方法が判明する事件が起きた。
ありすは昼休みに学食を堪能した後、三時間目を受け始めていた。暖かな五月の日差しが教室に差し込み、少し室温が高い。これは俺なら寝てしまうな、とか考えていると、ありすがうつらうつらと体を揺らし始めた。
(おい! 寝るなよ!)
「ごめんなさい……私もう眠くて」
(な! 馬鹿! 起きろ!)
 ゴツンという音と共に、ありすは机にデコをつけて眠り始めた。
 俺はなんとなくだが、こいつが眠れば再び俺に支配権が回ってくるんじゃないかと思っていた。しかし、いつまで待っても、何も変わりは無かった。しかも、俺は眠れない。覚醒した意識の中、俺はつまらない授業をBGMにこれからの事を考えた。
 ああ。こんな身体になってしまって、どうしたものか。元に戻れる方法は今のところはっきりしている。バンドでありすを出して歌うことが出来れば成仏できるとありすは言っていた。しかし、歌うのはいいとしても、ドラムも同時に演奏してもらう必要がある。
 さしあたっての問題は、スカミのメンバーにこの事をどう打ち明けるか、という事と、この馬鹿にどうやって、いまからドラムを教え込むかということだった。歌を歌うにしたって、うちのバンドではドラムが俺なので、両方する必要があった。
 さすがに家にはドラムは無いので、スタジオに行かせて教えるか――そんな事を考えていると、突然ありすの様子がおかしくなった。
「……だ、だめだよ……」
 息が荒くなって、何かおかしな事を呟いている。
(ま、まさかお前! こんなところで……!)
「……だめです……もう……」
そしていきなり、ありすはぱちりと目を開いた。
「――――あっ」
その瞬間俺の意識はぐるりと回転するようにありすの肉体へと引き込まれていったのだった。




「……くそったれ! なんてことをしてくれたんだ」
 股間が濡れている。俺は少し悩んでから女子トイレに駆け込むと個室に入ってパンツを脱いで股間を拭いた。
 無事に、支配権を取り戻す事には成功したようだ。しかし、いきなり身体が女になったせいで、胸周りとか色々問題が出てきてしまった。男ものの薄いシャツを着ていたのだ。いくら小さくても何かと目立つ。ジーンズの方はまあ、いいとしてもこれでは外を歩けたもんではない。まるで痴女だ。
(・・・・・・うう……うあああう……ごめんなさい)
ありすは本気で号泣していた。
「まあ、いい! 眠っていたんだから仕方が無いと言えば仕方が無い」
 まさか、射精がチェンジの鍵とは……。それで、どうせ俺が再び眠ればこいつに支配権が移るのだろう。
(うあああああ! あんなに汚らわしい事してしまうなんて! あたしもう自分が汚れてしまった気がして生きるのが辛いです)
「安心しろ。お前はもう死んでいる」
(いやあああ)
 まあ、あの快感は背徳感満点だからな。気持ちは解らんでもない。
 しくしくと泣いているありすを尻目に、どうするか考える事にする。
 とりあえず、パンツが欲しい。あんまりにもスースーする上にごつごつとしたジーパンが気持ち悪い。とりあえず、トイレから出るか。
「そろそろ泣き止め。うざい」
(うう……そんなこと言ったって)
 最後に股間をウォシュレットで洗ってペーパーで拭くと、ジーパンを履いて、個室を出た。
 すると横から声がした。
「な! 桐緒!?」
 声がした方を見るとそこには、ベースを背負った紅杏子がいた。
(ねえねえ、中野君この人だれ?)
 予想外の展開に俺は眩暈がしそうだった。




「はい、これ。パンツと、大きめのシャツ。ぷぷっ」
「なんだよ! 笑うな! くそが! 他人事だと思いやがって」
「声もしっかり高くなってるのが尚更おもしろいわ。まあ、元々高い方だったけどね」
「はいはい!」
 受け取りながらさっさと履く。
 ここは大学近くのカラオケの個室。
 結局変質者を見る目でこちらを睨む杏子に、俺は全て白状した。まあ、いずれバンドをやる以上、説明しなければいけなかったことだろう。結局杏子にコンビニでパンツとシャツを買ってきてもらった。
「それにしても、その。とってもファンタジーな事になってるのに、チェンジの方法が些か下品ね」
「全くだ」
夢も希望もない。
「それで? 次の授業が終ったらバンド練習だけど。来る?」
「当然行くに決まってるだろ。学園祭のライブが近いんだ。こんなことに構ってられるか」
「ふむふむ。今の話の流れだと、あんたがボーカルをやってくれるわけね。まともなバンドっぽくなってきたじゃない」
「実際にやるのは俺じゃなくてありすになるわけだがな」
(ええ! そうなんですか!?)
 ありすが素っ頓狂な声を上げる。当たり前だ! お前が歌わなきゃ意味ねえだろうが。しかし、杏子はからかうように俺の考えを打ち消した。
「バーカ、桐緒。あんたも出るのよ。あんたが出ないと面白くないわ」
「はあ? ありすが歌わないと成仏できねえだろうが」
「馬鹿ねえ。なんであたしたちがそんな慈善活動しなくちゃいけないのよ。あんた達が両方出れば、一人で女性の曲と、男性の曲両方カバーできるのよ。そこを見込んでるんだから、期待を裏切らないでよ」
 この狐め・・・・・・!
「どうやって、途中でチェンジする気だ! 明らかに無理だろう!」
すると杏子はイタズラな笑みを浮かべて、俺に顔を近づけて来て囁くように言った。
「私が――あげようか?」
しかし、うわああああああああああああああああ! それはだめですうううう! というありすの絶叫に阻めれて、その答えは聞こえなかった。
「いま、なんて――」
 その時、ギターの正人がやって来た。杏子が呼んだのだ。
 正人は俺の顔をみて、開口一番言った。
「桐緒! 女になったんだって? 俺の嫁になるか」
「黙れ! 便所に頭突っ込んで死ね!」
「ヒャッハー! 本当に女の声だ! おい、胸あるなら触らせてくれよ!」
(いやああああ! 誰ですかこの変態男! だめです触らせたら!)
ありすが恐ろしく怯えた声で叫んでいる。もともと触らせるつもりはないから安心しろ、馬鹿。杏子が電話で事情を説明したようだが、それにしてもこの飲み込みの速さはなんだ・・・・・・!? 馬鹿なのだろうか。この木下正人は、ちゃらちゃらした格好と言動が無ければ、良いギタリストなのだが。俺と同じ学部で知り合った、友達で、オンラインゲームの仲間である。
「正人いいから少し黙って。はい、桐緒! マイク。せっかくカラオケにいるんだし、歌ってよ」
 俺は渋々マイクを受け取った。苦手なのだ。歌は。
(わあ。中野君、何歌うんですか? 楽しみです!)
「本当に歌うのか。俺が下手糞なのは知っているだろう。聴いてもいいことは何もないぞ」
「いいから歌いなさいよ」
「おっぱい!」
「うるせえ、だまれ正人、お前のあそこも消してやろうか!」
「ごめんなさい」
 正人はあそこを抑えて謝った。
 一息つくと、最近流行の曲を入れて歌った。
 音がはずれまくりで、高いところでは声が擦れた。
 ボックス全体に残念なオーラが漂って、俺は泣きたくなってきた。
(中野君・・・・・・下手糞すぎです)
 うるさい! ほっとけ!
だから俺は歌いたくなかったんだ!

「ありす、歌上手いじゃない」
「ああ、上手い上手い! 桐緒とは思えねえ」
「ありがとうございます!」
次の日、昼間に一度俺が支配権を取り戻したものの、授業中に居眠りしてしまうという失態を犯し、結果としてありすは初めてスカミのメンバーと顔合わせを行うこととなった。
敬語を使う桐緒ってのは、なんか慣れない、と始めは違和感のあった二人も、カラオケで少し話したり、歌ったりしていると、自然に打ち解けてきたようだった。
そして、ありすは歌の腕前を披露したわけだが、なかなかどうして上手かった。しかも、これなら、結構良いところまでいけそうだ。
(問題はドラムか)
「問題はドラムね」
「それと桐緒自身の歌だな」
 その通りである。学園祭までの二ヶ月間、俺たちは必死に練習せねばならないはめになった。体の問題もあるし、前途多難な日々が始まった。




俺たち二人の特訓は熾烈を極めた。あまり時間も多くはなかったという事情もある。この状態での最大の関門は、どうやって俺が表に出るか、だった。俺が練習しようとすれば、俺が表に出るしかないからだ。その問題は以外にあっさりとクリアされた。
ありすがマスターベーションを覚えたのである。背徳感に苦しむありすを、俺はさすがに慰めた。
「う……う……! こんな事したくないのに! これしないと、頭が沸騰しそうになることがあるんです……」
(男の苦しみってやつだな。人によっては、性欲はもうちょっと少なくてもいいのにって言うやつもいた。男なら誰でもやってる、気にするな)
 お前ほどの頻度では、俺はやってなかったがな。
「わたしは元々女なんですけどね……」
まあ、お前がそれをやってくれなきゃ、俺はいつまで経っても出てこれないんだから、困るわけだが。
(ところで、正人にAV借りてやろうか?)
「結構です!」




そして、猛練習の末、俺たち新生スカーミッシャーは何とか形にはなってきたのだった。




俺たちは練習していく中で、様々な出来事があったが、それを全てここで語ることはできない。量が多すぎたからだ。しかし、ここで、最も恐ろしかった出来事について語ろうと思う。それはこんな出来事だった。




俺たち二人は体を共有している。これはどうやら間違いないようだ。練習を重ねていくと、不思議な事が起きたのだ。効果が段違いに高い。というのも、俺が歌の練習をするにしても、ありすがドラムの練習をするにしても、成長スピードが桁違いに早かった。
そして、ありすはドラムを練習しているうちに、この楽器の面白さに、はまってきたようで、楽器店に行きたいと言い出した。いい傾向だった。
その日は学校も休みで、バンドの練習も無かったので、ありすに楽器店に行く許可を与えた。なお、普段は俺の許可無く、うろうろすることを禁じている。この女は今でもたまに男であることを忘れて行動することがあるからだ。下着を買うといって、女性用下着の専門店に向かった時は心臓が止まるかと思った。
楽器店は大手の会社が経営している大きなところで、所狭しと、ピアノやエレクトーン、サックス、ハーモニカ、ギター、ベースと置かれている。
「ドラムのコーナーはどこですかね」
(地下にあったはずだ。そこの階段を降りてみろ)
「はいはーい」
 ドラムのコーナーはあまり商品の数は多くはなかったが、試しに叩かせてもらえる、モニター品のドラムや、電子ドラム、練習用パッドなどが並んでいた。今回はありす専用のスティックを買うのが目的だったので、興奮するありすを宥めながら、スティック売り場へと向かわせる。
 その時横から声を掛けられた。
「中野君?」
そこにはいつぞや会った、ゴスロリファッションの女がいた。この間よりは比較的大人しい服だ。頑張れば私服に見えないこともない。この間はライブだったかのかもしれない。
「以前電車でお会いした方ですね。二階堂理美さん、でしたっけ」
 こいつの丁寧な話し方は、フェミニストみたいで何だか嫌だ。
「やった! 覚えていてくれてたんだ! 嬉しいな!」
(おまえみたいに派手な格好してる奴を忘れる程馬鹿じゃねーよって言ってやれ)
「・・・・・・そんなこと言いません」
(ちっ)
理美はありすの袖を軽く摘むと、
「今日、友達と遊ぶ約束してたんだけど、すっぽかされちゃったんだよね。中野君、映画のチケットあるんだけど、一緒に行かない?」
「いいですよ? 行きましょうか」
(な!? てめえ、勝手に承諾するな!)
 俺が抗議すると、小声でありすが反論した。
「いいじゃないですか、映画くらい」
理美はじゃあ、といってありすの手を取って歩きだした。
「行こ! お昼の部がもうすぐ始まるよ!」
「う、うん!」



俺からすると非常に微妙なポジションだった。自分の肉体がデートしているのを俯瞰するのだ。実に微妙である。
 この女、ありすに気があるのだろうか。繋いだ手を離さずに、ありすを映画館に引っ張っていく。映画館は駅のすぐ近くにあった。地味で小汚い、小さなビル。エレベーターを使って、一気に最上階に上がると小汚い受付があった。
 理美はチケットをこれまた派手な財布から取り出すと、店員に渡した。そして、指定席の書いたチケットをもらうと、それを使って小さな部屋に入場する。
 ありすは、それに引きずられるようにして、一緒に入場していった。俺も必然的に引きずられる。
 館内には、客は一人もいなかった。指定席に座ると、理美はやっと手を離した。スクリーンは映画館にしては小さい。というか、ここは映画館なのか……?
「今日はどんな映画を観るんですか?」
ありすが尋ねると、理美は嬉しそうに答えた。
「ポルノ映画」
「――は?」
 俺たちは固まった。時が止まったような気さえした。
(は? こいつ何を言っているんだ……?)
「――理美ちゃん? 何を言っているのか僕にはわかんないなあ。あはは」
 理美はとても可愛らしい笑みを浮かべて、
「わたし、中野君と、ポルノ映画みたいなって思ってたの! うん! 痴漢されている様子を撮ったビデオを毎日見てて、思ったんだ!」
 なんて女だ! ここまで身の毛がよだつような経験は初めてだ!
 俺は必死にありすに警告を飛ばす。
(逃げろ! ありす! この女やばいぞ!)
「……うん。これはまずいです」
ありすはこほんと一つ咳払いをすると、
「あの、僕突然用事を思い出しちゃった。・・・・・・帰ります」
「だめだよ!」
理美は恍惚とした顔で、笑いかける。
「一緒に観てくれないと、この間の痴漢にあってたときの映像を色んなところにばら撒くよ?」
 こ、こいつ! 常人じゃねええ!
「そ、そんな……」
「きっと中野君も面白いと思うよ! だから、ね? 一緒に見よ?」
 俺の気にするな逃げろという、絶叫を無視して、ありすは答えた。
「はい……」
 そして、狂気の拷問が始まった。プレイとでも言うべきか。否、俺にとってそれは拷問に近い。
理美は想像を絶するほど変態的だった。理美は必死に目を泳がせるありすの方をずっと見ていて、スクリーンから視界をあからさまにずらそうとすると、撫でてくるのだ。異様な光景だった。
(おい! お前さっさと逃げろ!)
 しかし、ありすは逆らう気力を完全に失ったようだった。そして、荒い息を繰り返している。
「・・・・・・も・・・・・・もうだ・・・・・・め――」
ありすが最後にそう言ったあと、ありすは果てた。
俺は殺意に揺らめきながら、ありすにぐるりと吸い込まれた。




「――おい」
 俺は理美の手を払いのけて、顔面をぶん殴ると座席ごと押し倒した。
「・・・・・・な、何!? 私に逆らうの?」
 理美の口を右手で塞いで耳元に口を近づけた。
「このあばずれが。調子に乗るなよ。今から目の玉刳り抜いて、輪姦して、山に捨ててやろうか」
俺は本気で指を目の下に入れた。これぐらいじゃ、失明はしない。
理美は涙目になって、首を横に振った。
「お前がどんな映像を流そうが俺は気にしない。但しお前もただで済むと思うなよ」
 そして、目から指を抜くと、腹を本気で一発ぶん殴って、俺は映画館を後にした。俺も今は女だし、気兼ねなく女を殴れる。
(女の子怖い、女の子怖い、女の子怖い、女の子怖い!)
「お前も女だろうが」
(そういう問題じゃないです!)
あー、股間がスースーする。




 あれは全く恐ろしい出来事だった。ありすはあの事件以来ゴスロリの衣装を写真で見るだけで怯えるようになった。
(でも気持ちよかったんだろ?)
「そんな自分が嫌なんですよ! 男の体ってなんでこんなに汚れているんですか……!」
(でも気持ちよかったんだろ?)
「うるさいですよ!」




 今年の学園祭の出場バンドは2つしかない。スカーミッシャーとスカルナイトだ。あの女に会うのは嫌だが、とりあえず、ライブをしなければ元に戻れない。俺の歌もかなり上手くなってきたし、ありすのドラムも上手くなった、そんなある日、ありすに関する重要な情報がもたらされることとなった。




(私、自分の家の場所を思い出しました!)
「なんだと?」
 それは、十月の半ば、後、二週間で学園祭という頃の日曜日。
 俺が家でネトゲをしながらくつろいでいると、ありすが大きな声で叫びだした。
「どこだ?」
俺は、パソコンを動かす手を止めて、ありすに尋ねた。その瞬間、正人の軍隊がおれの街を蹂躙し始めるが大したことではない。ただし、正人。後で殺す。
(中野君が事故を起こした場所の近くです)
ありすは、少し間をおいて続けた。
(私は死んでいません。自宅側の大学病院に入院しているはずです)






俺は早速、その病院へと向かった。途中で見舞い品でも買っていこうかと思ったが、ありすがいらないというので、やっぱり手ぶらで行くことにした。金も余裕があるわけじゃないしな。
(私は学校の帰り道、自転車に乗っていました。それで車にはねられたんです)
道中ありすは思い出した内容をぽつりぽつりと話し始めた。
(この病院にすぐに運び込まれて手術が始まりました。幸いにして、命は助かりましたが、脳を強く打っていて、意識はもどったり、失ったりを繰り返していて、結局こんな風になっちゃいました。毎日お母さんが来てくれていました)
病院は休みということもあって、混雑していた。こういうところに来ると生気を吸い取られる気がして、俺は好きじゃない。受付で、和泉ありすの名前を出すと、どの部屋にいるのかを看護婦さんが調べてくれた。
エレベーターを使って、上階にあがると、静かで長い廊下があった。白と、優しい黄色をイメージした、内装で、とても好感のもてる建物だった。
「お前、良いとこに入院してるな」
(はい。先生達もいい人ばかりでした)
ありすの声は緊張していた。当然俺も緊張している。
「お、ここだな。和泉ありすって表札がある」
ついにその部屋は見つかった。大きなスライド式のドアをノックする。
「・・・・・・どうぞ」
すると、女性の声が聞こえた。
「いくぞ」
(はい・・・・・・!)
 俺は扉を開けた。
 清潔感のある白色の部屋に、大きなベッドが置いてあり、その側に一人の上品な中年女性が立っていて、こちらをびっくりした顔を見つめていた。
「あら、てっきり看護婦さんかと」
俺は挨拶をすることにした。
「はじめまして、ありすちゃんの友達の中野桐緒って言います」
「あら、ありすのお友達が来てくれるのは久しぶりだわ。この子も喜びます。ありがとうございます」
(お母さん・・・・・・)
泣きそうな声でありすは囁いた。
俺はこういう雰囲気が苦手だった。場を和ませることにする。
 さてさて、感動の対面はもういいだろう。せっかくここまで来たのだ。俺にはどうしてもやらねばならぬことがある。
「さて、ありすの顔を覗くとするか!」
(え・・・・・・? ちょっと!)
「なんだよ、だって、お前の姿見るのこれが初めてだろうが。どんな顔してるのか見てやるよ」
もちろん小声での会話なので、ありすの母は気づいていない。
(いやああああ! 変態! 変態! 見ないで下さい! 絶対ブスだから! 化粧も何にもしてない上に寝たきりなんですよ! やああああめえええええてえええええ!)
俺はそんなありすを完全に無視して、ありす母に会釈をして、ベッドの顔を覗きこんだ。
そこには、少し痩せ気味だが、普通に美少女が寝ていた。
「なんだ、可愛いじゃねえか」
(本当ですか……? ありがとうございます!)
こういうお約束はマジいらん。不細工だったらからかいまくってやろうと思っていたのに。
「……鼻の穴にポッキー入れていいかな」
(だめに決まってるでしょう!)
「私は少し病室を離れますので、良ければ、これ食べていってくださいね」
そう言ってありす母は、お菓子を棚から取り出すと、病室を出て行った。
これはチャンスだ。
「さて、本当に俺の胸にあるハート型のほくろがお前にもあるかどうか確認するとするか」
(はあ!? 何言ってるんですか! やめてください! やめてください! ここに寝ているのは事故以来意識の戻らない、可哀想な、無抵抗の可愛い女の子ですよ! 中野君には良心ってのはないんですか!)
「ない!」
 俺は布団を引っ剥がした。
(ぎゃあああああああああああああああああああああ)
結局俺はありすの体で心行くまで、ありすの反応を楽しんだのだった。
とても楽しい出来事だった。




ありすが生きていた事は、ある一つの可能性を指し示していた。俺の体が元に戻る時に、ありすは成仏するのではなく、蘇生する可能性がある。もちろん死ぬ可能性もあるが。しかし、残念ながら俺にはこれ以上、女として生きる気はない。その事を伝えると、ありすは笑って言ったのだった。
「大丈夫です、私は死にませんから。そんなことよりもライブ成功させましょうね!」




そして、毎日のように最後の練習を行い、俺たちの出来が最高潮に達した時――学園祭は始まった。




二日間に渡って行われる学園祭で、ライブを行うのは後夜祭。つまり最終日だけだった。
初日は純粋にスカミのメンバーで学祭の出し物を楽しむことにした。しかし、俺はその日は朝から体の調子がおかしかった。だが、大したことはないと放っていた。
「今回出る、スカルナイトって知ってるか?」
 正人が、から揚げをかじりながら、話題を振った。正直あまり思い出したくない名前だ。
「最近人気のあるV系バンドね。私はあんまり好きじゃないけど」
杏子はフランクフルトを食べながらそれに答える。
「どういうバンドなんだ?」
 俺はスカルナイトについて知っているらしい、正人に尋ねる。
「楽器隊の腕もなかなかだが、ボーカルのコヨーテって女が最高にイイ!」
「コヨーテ?」
杏子が尋ねる。
「本名は二階堂理美。バンドメンバーはコヨーテ、イーグル、ジャガー、ピューマって名前になってるんだ。まあ、芸名だな」
「コヨーテねえ・・・・・・」
確かに肉食類の匂いのする女だった。
「とにかく、ボーカルが最高にエロいんだ! 歌聴いているだけで、反応しちまうレベルだ」
杏子に思いっきり足を踏まれて、正人は飛び上がった。
「とにかく、女はとにかく男の票はスカルナイトにいくだろうな」
「大丈夫よ。こっちにもいるじゃない、桐緒ちゃんが」
「ふん! 黙ってろ」
その時眩暈がして、ふらついた。
「大丈夫?」
杏子が覗きこんで尋ねる。
この頭痛は初めての感覚だ。普段の風邪ではない。
「二、三日前から少し、頭痛と腹痛があるんだ。まあ、すぐに治るから気にするな」
(本当に大丈夫ですか?)
「大丈夫だ」
俺は明日の本番に向けて気持ちを奮い立たせるのだった。



――そして、本番当日を迎えた。そしてその日は俺たちの最後にふさわしい、トラブルだらけの一日となったのだった。





 俺は自宅でありすと舞台での流れを確認していた。
 スカーミッシャーが今日演奏する曲は二曲。一曲目がありす。二曲目を俺が演奏することになっていた。
「自分の曲が終ったら一度舞台から降りて、トイレに駆け込めばいいわけですよね」
(そうだ。そこで、俺と入れ替わって俺が舞台で演奏して、終わりだ)
「そんな緊張してるときにいけますでしょうか」
(お前ならいけるよ。自分を信じろ)
 我ながらなんて下品な会話だ。しかし、それは死活問題なのだ。しっかりやってもらわねば。俺はこの時点からこの先の不安を感じていた。何も余計なことが起きなければいいが……。




しかし、俺の希望的観測はすぐに裏切られることとなった。




 とりあえず、ライブは後夜祭なので、ぎりぎりまで練習をすることになっていた。練習場所は大学近くのスタジオだ。ありすは、遅刻しないように、少し早めに家を出た。
 十一月の空気は清清しいほどに綺麗で澄んでいて、冷たい風がありすのコートを揺らしていた。
 しばらくスタジオで杏子と正人と練習をして、休憩にありすは男子トイレに入った。ありすは始めは男子トイレに入るのを嫌がっていたが、今ではもう慣れっこになっていた。さすがに個室に入ってしていたが。
(いい加減に立ちションに慣れろよ)
「嫌ですよ。考えても見て下さい。あんな高さから小便を垂らして、ズボンに付くじゃないですか。大体、小便で濡れたあそこを拭かずに、パンツを履いて染み込ますなんて絶対無理です!」
(おいおい……)
 ありすが、用を足して、ズボンを履き終った時だった。個室の扉が開いた。
「……な!」
そしてありすは、いきなり背後から頭を強烈に殴られた。
「――あう!」
(な!? ありす!)
俺は視界に見知らぬ女三人を捉えた。全員がゴスロリファッションをしている。
というか何故男子便所に女がいるんだ? 
三人は失神して倒れたありすをどこからか取り出した縄で手際良く縛ると、口をガムテープで塞いで担いで走り出した。
 俺は幽体の特性上、ありすの身体に引きずられて、その三人組みの後を追った。
三人はありすをスタジオの一室へと運び込んだ。女たち三人は荒い息を吐きながら、ありすを床に転がすと、その場にへたり込んだ。
「理美! 連れてきたわよ! スカミのドラムの中野君」
――理美? その時俺は、この三人の正体が解った。スカルナイトのメンバーだ。理美と似たようなゴスロリファッションだ。始めから気が付かないほうがおかしかった。
「本当ね。三人ともありがとう」
 仲間の声に呼ばれて、あの女が機材の裏から現れた。
「うふふ。中野君。今日のライブまでにへろへろにしてあげるからね。それでライブも棄権して、あたしのペットになったらいいよ」
 そして、ありすの口に貼ったガムテープを剥がした。
「あっはは! 鬼畜! 理美」
「案外喜ぶんじゃないのー?」
「見てみて! 女みたいな顔してる! あれ、ついてんのかな」
 俺は、焦りを覚えた。もし、ここで、あいつらにありすが抜かれて、俺に代わったら、俺は自分の意思でありすに戻ることができない。何故なら、昨夜十二時間ほど寝ているのだ。俺は自分の最高のパフォーマンスをするために、本番前はそうしている。それが裏目にでた。
「う……うん」
その時ありすが目覚める。
「あれ……これどうなってるんですか?」
ありすは、辺りを見回して、自分が知らない場所にいること。そして、手足を縛られていることに気付いた。そして、あの女の存在にも。
「理美……ちゃん?」
「いーっぱい気持ち良くしてあげるからね」
「――え?」
 理美はいきなり、ありすのズボンのジッパーを下ろして、始めた。
「――あぅ……!」
ありすの声に取り巻きが騒いだ。
「きゃはっ! こいつすっごい顔してる!」
「知ってる? 十三回くらいやったら、水しか出ないんだって? きゃはは!」
 そして、しばらくして、ありすは我慢の限界を迎えた。
「中野君、もうだめ……!」
(安心しろ。ありす。俺が表に出たらこいつら全員ぼこぼこにしてやる……!)
演奏ができなくなるくらいにな!
 その時、スタジオの防音扉が勢い良く開いた。
「桐緒! あんたたち、うちの桐緒に何してんのよ!」
「やっべー。鍵しめんの忘れてた」
「つか、あいつ誰よ? しめようぜ」
 それは杏子だった。杏子はずかずかと靴を履いたまま、家の中に入り込む。
もしかしたら、助かるかもしれないという、期待の中、
「……あっ!」
 という声と共に、ありすは果てた。





ぐるりとした感覚と共に、俺は再び、肉体を手にしていた。杏子は咄嗟に理美を蹴り飛ばしていた。
「……ぐっ」
「杏子、俺の縄をそこのテーブルにあるはさみで切ってくれ」
そして、自由になった身体をこきこきと動かした。
「おいおい、やんのかよ」
「あそこ、おたったててたくせによ!」
俺は全力で理美を含めた四人に回し蹴りを放った。
「……う!」
「お前らどうなるかわかってんだろうな?」
 俺は杏子に本気で止められるまで、乱闘を繰り広げたのだった。




「桐緒あんた、ありすに戻れないの?」
「無理だ。これだけアドレナリンが出ていて、しかも寝すぎている」
 これは非常に厄介なことになった。最早、ライブの時間はすぐそこまで迫っていた。俺たちスカーミッシャーは舞台袖で待機していた。少し離れたところで、スカルナイトのメンツが待機している。
 理美は
「中野君は二重人格なのよ……! 最高だわ! 絶対両方手に入れてやる!」
 とか不気味なことをぶつぶつと言っているが、他のメンバーは先ほどの乱闘で疲れ切った様子で、準備をしていた。次にやったら殺してやる!
(桐緒君! 私の分まで演奏してください! このライブを成功させることが、今の私にとって一番大切なことです)
「だけど、お前の曲は練習していないぞ。俺は」
(大丈夫です! 私たちは身体を共有しているんですから!)
「くそ! 元の身体に戻るのはお預けか! スカルナイトの糞痴女どもめ!」
その時学園祭の実行委員が声を上げた。
「時間です。スカーミッシャーさん。スタンバイお願いします」




とうとう、本番が始まった。空はすっかり暗くなっていて、巨大なスポットライトが屋外に設置された、俺たちと舞台を照らしている。気温はめちゃくちゃ寒いはずなのに、ライトの熱で舞台の上は温度が高い。そして、緊張でスティックを握る手には汗が滲んでいた。
俺はギターの正人とベースの杏子の用意が終るのを待つ間に、客席を見回した。男ども全員が俺の方を見ていた。女の方も俺を見て笑っている。むかつくが仕方が無い。履いていたズボンは汚れたので、杏子が何故か持っていた予備のミニスカートを履いて、ドラムの椅子に座っていたのだ。しっかり、パンツは新しいのを履いているから問題はない。
(なんか、めちゃくちゃ緊張しますね。中野君はもうこんなの慣れっこですか?)
「いや、いつになっても本番の前は緊張するよ。特に今回は練習してない曲なんだからな」
(あはは! 大丈夫ですって! 私が練習したものは中野君も使えるはずです)
 その時、杏子と正人がオーケーサインを出した。
「初めまして。俺たちはスカーミッシャーです。今日はこんな素敵な舞台に呼んでもらえてとても感謝しています。実行委員の皆さんありがとうございました。それでは! 一曲目を演奏したいと思います。皆さん聴いてください。オリジナルで。『バンクブーム』」
 スティック同士を叩いてカウントを始めて――一曲目が始まった。





それは、驚くべき体験だった。今まで俺は本当にこの曲は練習したことがなかったのに、
(すごい! すごーい! ちゃんと、歌って叩けてますよ!)
 まるで、ありすが演奏しているかのような正確さで、俺は歌って、叩いていた。
 杏子と正人は少し驚いた顔をした後、にこりと笑ってこちらを見た。
 客の中には前からのスカミファンもいたようで、今までインストでやっていた曲にボーカルが付いたことに大興奮しているものもいるようだった。
 だが、ここで、再び問題が起きた。強烈な頭痛と腹痛が俺の身体を襲い始めたのだ。しかし、そんなことは演奏中にはおくびも見せてはならない。
 なんだ? このだるさと痛みは! 風邪なんかじゃない! これは一体!
 その時、何か液体が俺の股から垂れているのが感覚で解った。
 これは……!
(こんな時に……生理!)
女は月に一度ほど、強烈に体調が弱る時期があるという。まさかそれを体験するはめになるとは! しかもこんな時に!
その時杏子と正人が俺の脚をふと見て、大きく目を見開いた。それでもパフォーマンスには一切のぶれがないのが素晴らしい。俺は眩暈のする頭の中でそんなことを考えた。
歌い続けるのが辛い。声を張り上げるために、お腹に力を入れると、強烈な腹痛が襲う。
ドラムを叩き続けるのが辛い。自分の出した重低音が俺の頭をがんがんと揺さぶる。
それでも、なんとか。なんとか一曲を叩き終わると、俺はその場で意識を失った。





ありすはマイクに口を寄せると素早くMCを開始した。
「次からは男性の声で歌わせてもらいます」
 客の中からどよめきがあがる。今まで女性だと思っていたドラムが。女性の声で歌っていたボーカルが、男の声で話し始めたのだ。
 俺は、ありすを少し上から俯瞰していた。ここで、入れ替わったのも運命か。俺たちは結局両方がここで演奏することになった。
「それでは次の曲、聴いてください。『ロイテル&ファルコネット』」
 カウントの後、曲が始まった。
 ありすは、やはりさっきの俺と同じように、俺が練習していた曲を綺麗に歌って叩き始めた。
 客は、ありすの歌声に歓声を上げている。ありすの歌には、俺には無い、深みがあるのだ。
 俺は今までの日々を思い出しながら、最後の曲を聴いていた。なんとなく解る。この変てこな体ともこれでおさらばだと。そして、俺にとりついたありすとも。
 そして、最後のフレーズを歌い終わると、客席からは大きな拍手があがった。
「ありがとうございました! ありがとうございました!」
ありすによる、最後の感謝の言葉の後、スカミは退場したのだった。






「杏子さん。正人君。今までありがとうございました。私生きてた時の夢が叶ってとっても今、嬉しいです……」
 ありすが二人に最後の挨拶を始める。
 俺たちは、解っていた。もうすぐに身体が元に戻ることに。俺は自分の身体に引き寄せられ始めていたし、ありすは、どんどん弱ってきていた。ありすは、もう立っていることが出来ずに、その場にへたり込んだ。
「こちらこそありがとう。あなたはとても良いボーカルだったわ。退院したら是非うちに来てね」
「そうだ。絶対に来いよ! 他のバンドで歌うなんて許さねえ」
 二人はありすを支えながら言った。
「あはは。あと……中野君今までありがとうございました。中野君との共同生活は色々あったけど、楽しかったです」
(おれは散々だったがな。お前が生き返ってたら、あいつらが言うようにスカミに入れてやってもいい。お前のためにドラムを叩いてやる)
「ありがとう……本当にありがとう」
ありすは最後にそう言うと意識を失った。そして、ぐるりと俺が身体に吸い込まれた――





 俺は股間に手を当てて確認した。ある。ある! ある! 元に、男に戻っている! 俺は喜びを噛み締めながら、一つの大きな不安を解消するために走り出した。
「俺! あいつんところに行って来る!」
「行ってきな! わたし達はここで、後処理してるから!」
「投票の結果発表が出たら教えてやるぜ!」
 




俺は走った。丁度来た電車に走り込んで、病院へと向かう。もしかして死んでいたらどうしよう。俺の頭はそれだけでいっぱいだった。
夜の病院に辿り着くと受付に面会時間の終了が書かれてあった。
しかし、無視して以前行った病室へと走り続ける。
「院内で走ってはいけません!」
あちらこちらですれ違う看護師さんに怒鳴られながら、病室へ向かう。
エレベーターは来るのが遅そうだったので、階段を使って駆け上がる。
そして――やっと辿りついた表札には和泉ありすと書いてあった。
俺はそっと扉を開ける。部屋の中は暗かった。まさか、起き上がっていない? 
俺は最悪事態を予想して、慌てて電気を点けると、ベッドに走り寄った。
そこには以前ここで寝ていた女の子の姿があった。ありすだ。
「おい! 目を覚ませよ! こんなところで死ぬな! 頼むから……!」
 その時、
「う……あ」
ありすの喉から声が出た。
「おい! ありす! 起きろ! おい!」
必死に声をかける。するとありすはうっすらと目を覚ました。
「あなたは、誰ですか?」
ありすは、不思議そうな様子でこちらを見上げてきた。俺はありすが生き返った喜びと、俺のことを覚えていないという事実に衝撃を受けながら、震える声で尋ねた。
「俺の事忘れたのか? 中野桐緒だ」
「あなたのこと知らないです」
 俺はしばし、ショックで固まってしまった。
「あっ」
その時ありすは声を上げた。
「一つ思い出しました」
「なんだ?」
俺が尋ねると、ありすはいたずらな顔で笑って言った。
「これ言うのとっても恥ずかしいですけどね。夢の中で言おう言おうって決めてたような気がするんです」
 俺はごくりと唾を飲んで、尋ねた。
「……なんだ?」
「えへへ。中野君。私が抜いてあげようか?」
 俺はまたもや少し固まってから、ありすの頭をぱしりと叩いて言った。
「うるせえ。黙ってろ。バーカ」
                     完

4, 3

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