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プロローグ

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 一度死んだ者が目蓋を開き、再び歩き出すことはあり得るだろうか。
 答えは否だと思っていた。
 二週間ほど前だろうか、僕は確か山を登っていた。何の目的だったかは覚えていない。そこで大規模な土砂崩れが起こり、登山客十数名が死亡する事故が起こった。僕もそれに巻き込まれたのだと、放映されたニュースの映像を見て確信が持てた。最期の瞬間は土砂に埋もれて息ができなくなって迎えた。鮮明に覚えている。だから僕は死んだはずなのだ。
 だが、どうだろう。確認できた死亡者リストの中に僕の名前はなく、死亡報道もされておらず、かといって行方不明となっているわけでもない。というかふと目を覚ますと僕は土砂に埋もれて横たわっていた。運良く生き延びたのかと思ったけど、胸に手を当てても鼓動を感じなかった。口の中に土砂が詰まっていたのでまだ土の味がするが、それ以外は何の異常もない。カフェでも普通に注文できて、コーヒーの苦い味も感じ取れる。
 改めて確認しよう。
 一度死んだ者が目蓋を開き、再び歩き出すことはあり得るだろうか。
「答えはイエスね」
 半透明の少女、結良は窓枠に腰掛ける。窓を開けようとする店員の手は彼女を貫通する。結良は普通の人では見ることも触ることもできない存在らしい。常識的な範囲で考えればまやかしとか幽霊的な存在だと思うが、彼女曰く「天上の遣い」とのこと。
「現に今、君は死んでいるけど歩いているし飲食もできる。そういう存在を狭間の住人だとか動死体だとか呼んでいるの。君の場合、死んでから今日に至るまでほとんど原型をとどめているから、ゾンビというよりマミーに近い存在かもしれないね」
「マミー」
「そう。生前に近い状態で保存された人間のような」
 結良が手櫛で髪をすくと、金木犀に似た香りが広がる。
 まだ結良を完全に信用したわけではないが、確かに僕は五体満足だ。問題なく生活できる気はするので、言われなければ死んでいると気づかないだろう。まあ元々そんな感じの人間だった。生きているか死んでいるか分からない程度に僕は影の薄い人種だった。
「だけど死んでいるのは確かだから、冥界に連れて行かれる日は必ずやってくる」
 他の人に結良の声は聞こえていないから、怪しまれないよう聞くだけにとどめたいけど、彼女の言葉遣いはどうも僕の返事を誘っているようにしか思えない。
「死んでから四十九日以内、君の場合はあと三十日くらい? その間に特定の条件を満たすことができれば、不完全な死人である君は生き返ることが許される」
「条件」鸚鵡返しの癖は死んでも治らない。「条件というのは、やはり弱きを助け強きをくじくみたいに、人徳を積む的な?」
「いいえ、君が助けるのは人間じゃない」
 結良は口のそばに、両の人差し指でバッテンマークを作る。
「君が助けないといけないのは、浮かばれない九十九の魂。天に昇ることなく現し世に留まっている魂を、九十九人分、冥界へ送り届けなければならないの」
「割りと簡単そうに思えるけど」
「そう、ここまではね。ここまではクリアしてもらわないと生き返る価値がないわ」
 生き返ったところで自分自身に価値があるとは思えないのだけど、という言葉を吐き出しかけてあやうく飲み込んだ。こういうことは、もう、止めにしよう。
「九十九という数字は不完全だと思わない?」
「うん。白寿はとてもめでたいとは思うけど」
「そうね。あと一つ必要なもの、それは“愛”」
 愛、と結良は口の上で飴玉を転がすように甘く言った。
「たった一人の愛を九十九人の魂の中に溶かし込めば、君は人間として生き返ることができる。簡単なことだと思わない? 一人に愛してさえもらえれば、君は問題なく生き返る」
「難しそうなことを、ずいぶんと簡単に言うもんだね」
 カップの中のコーヒーがどろどろと揺れる。
「愛なんて、そうやすやすと得られるものじゃないんだよ。健全な精神と不断の努力が必要だ。そういうことを、僕は人よりも心得たつもりでいる」
「君は愛に裏切られたことが?」
「時間が、もう残っていないんだろう」
 話を切り上げて席を立つ。
「行こう。僕はこれからどんな風に振る舞えばいい?」
「簡単よ。普通の人間と肉体なき魂には見分け方があるの。その二人の魂の方に君は、こう名乗るのよ。“|僕は死人、君は幽霊《アイマイマミー・ユーユアユーレイ》。あなたの|願望《のぞみ》をひとつだけ”」
「僕は死人、君は幽霊」
「そうして、さまよえる魂の願望を引き出すのよ」
 透き通る天上の遣いは、チェシャのように笑う。
 多分、それから戦いは始まった。
 三十日の戦い。真木乃伊月が、八十年あまり生き永らえるための。
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