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朱色のセーターを着ていたのだろうか

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 マスターカードとユニセフが結託して、人命に対して倫理的にかなり踏み込んだCMを作るというぶっ飛んで精神病的な夢から目を覚ました。昔はこうじゃなかった。昔はいつも同じ夢を見ていた。
 七歳まで、僕は山梨県の団地に住んでいた。団地は一号棟から五号棟まであって、固く煮しめられた豆腐のように並んでいた。
 裏地には小さな公園があった。公園の隅に、大きな木が一本植えられていた。心優しい年老いた巨人が二千年前に腰掛けたみたいに、穏やかに曲がった樹だった。その周りにはシロツメクサが群生していた。
 僕の母親は、毎年四月になると、僕をそこに連れて行った。柔らかい草の上に僕を座らせた。シロツメクサの葉は、しっとりと厚く、人差し指と親指でつまんでこすると、ちょっとツンとした青臭さのある、深緑色の塊になった。
 彼女は僕のために、シロツメクサを二十本程度摘んで、花の冠を作った。シロツメクサの茎は、どれもまだシャキッとしていて、まるで、たくさんの薄い緑の針が、そっと絹の保護剤を纏っているように見えた。彼女は僕の頭に、その冠を静かに載せて微笑んだ。そして僕の写真を、毎年、一枚だけ撮った。
 家はひどく貧乏で、僕は幼稚園にも、保育園にも入れてもらえなかった。我が家にあった価値のあるものといえば、彼女が使っていた、その――透明なプラスチックの、フラッシュさえ無い――小さなカメラだけだった。
 僕は毎年、「いつになったら写真になるの?」と尋ねた。母親は小さく笑うだけだった。
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 僕は二十歳まで、この記憶を何回も夢に見た。繰り返し見た。そこにあった空気の匂いや、遠くから聞こえてくる野球部の声まで、空間までひっくるめて作った完璧なジオラマのように思い出せた。
 結局、七歳の時に、僕は父親に引き取られて、甲府に引っ越した。母親とは会えなくなった。
 それから数年後、一枚のはがきが届いて、母親が死んだことを知った。僕は泣かなかった。葬式にも、通夜にも、なんにも行かなかった。父親が許さなかった。
 あの写真は現像されたのだろうか? 僕はよく考える。あれから、あの団地の小さい部屋で、あのくすんだ茶色の安っぽい椅子に腰掛けて、彼女は僕の写真を見たのだろうか。あの恐ろしく毛玉の付いた朱色のセーターを着ていたのだろうか。僕のことを思い出し、あのシロツメクサの冠をそっと載せた時のことを思い出したのだろうか。そして微笑んだのだろうか。やっと現像できた喜びを、僕とともに分かち合おうと思ったのだろうか。しかし、あのカメラにはフィルムが入っていなかったことを僕は知っている。
 それでも、あのカメラで、彼女はシャッターを切ってくれたのだ。何も映らないし、何も残らないし、僕があどけない残酷さで「いつ現像できるの?」と毎年尋ねたとしても。
 僕のひとりのために。
 なあ、感傷にひたるのはおよしよ、馬鹿げてるぜ。だって俺はもう二十二だぜ? はっ、きっと二十歳まで童貞だったせいだろうな。いわゆる『純真無垢』ってのを持ってさえいればグーグルかアップルかハーバードに行けると思ってたんだろ? 馬鹿が。その間に因数分解の一つでも覚えとくべきだったな。ざまあ無いぜ。通信簿の五の数を増やしときゃ(マジで)幸せになれたに違いないんだよな。よしんばそうじゃなかったとしても、今みたいな状況になっちゃいないことはまずもって間違いがない。
 僕は電気ケトルでお湯を沸かし、インスタントコーヒーを淹れて飲み干した。相変わらず死ぬほど寒い。カレンダーを見ると金曜日だった。彼女に言われたのは日曜日だった。
 僕は夕方まで寝て、夜から歩いて五分のコンビニの深夜バイトに出た。
 店長は近所の人妻と逢引きしていた。ぶっ飛んで眉毛の濃い、はっきりした顔の男だった。コンビニの店長ということを除けば申し分なかった。彼は「おい、笛吹、ぜってえ休憩室来んなよ」と言って、僕の手に五千円を握らせた。その気になりゃあんたのナニも握ってやるぜ、と言いそうになったが、貴重な資金源がなくなるのはどう考えてもまずかった。
 僕はそれから五時間、『逢引きしている店長と愛人を巨大なミキサーに掛けて合い挽き肉として販売する』という内容の小説のプロットを練っていた。偶発的に、土方のお兄ちゃんが「な、ちくわと、つくねと……」とおでんを注文し始めて、僕の中で『合い挽き肉の練り物』『逢引き』『プロットを練る』『愛人と寝る』などの文章がとめどなく溢れてきた。だいたいそういう一日を過ごした。
 土曜日も同じように過ごした。夕方まで寝て、深夜のコンビニバイトをする、という流れだ。なんとも素晴らしい。タバコを買いに来た高校生に向かって年齢確認をするという嫌がらせをして気分をすっきりさせた。まともな男はピアニッシモを買わねえ。
 ――いや、女装用具にね。ヤマトタケルノミコト。平成の伊勢。威勢よく異性に。一斉蜂起のその後は? 後は野となれ山となれ。能登半島に都を移して……しまったな、移民が……。
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 相手に友人が多ければ多いほど、その人に会うのは苦しくなる。
「お久しぶり、笛吹くん。タバコ吸うんだ?」
「いや、買ってみただけさ。いる?」
 待ち合わせ場所はクソみてえなハチ公の前だった。外国人が馬鹿の一つ覚えみたいに集まっていた。群馬の田舎もんがアホ面晒してガキみてえに騒いでてムカつくことこの上なく、一発で五人殺せる兵器を開発するためにカルテックに入学しそうになった。
 何よりも、僕も彼女も山梨というこの上なくどえらい田舎から出てきた、一部の隙もない完璧なる糞田舎の垢抜けないガキだったというのが耐えられなかった。僕はアホみたいな柄のスカートを穿いた彼女の手を引っ張って、せめてもの救いにと、ハチ公前から、その近くにあったよく分からん電車のモニュメントの前まで十二歩きっかり歩いた。
 彼女のスカートはピアノの鍵盤柄のぐっと短いやつで、僕は半分失神しながら、彼女のスカートを見ないように努力した。これはかなり気合を入れないといけなかった。あんまり馬鹿にしすぎて、その場で彼女がスカートを脱ぎ始めるというのは、彼女の社会的地位のためにも避ける必要が……ねえなあ。ねえよな。ないね!
 へ、へ、へ!
 《覚悟しな!》と僕は心のなかで叫んだ。《九時半に呼び出しやがってよ!》
「八代、君、もしかして気が狂ってんのか? それともピアノで自慰行為するんだっけ? くっそ、中学生の時に俺も同じ趣味になっときゃよかったな」
 彼女は僕の方を絶句して眺めた。
 僕はピアニッシモの箱を差し出して「ちょうどピアノだぜ。こっちはピアニッシモ。そっちはピアノフォルテ。これは細いから、君にとっては使い出が無いかな? あれ? ニコチンの摂取方法は肺だけじゃないって知ってるかな? ちょっと待ってるからトイレ行って試してきてもいいぜ。肌を綺麗にしておいでよ。手早く頼むぜ。僕も君のことを考えたいからね」と小粋なジョークを飛ばして、彼女の手にタバコを握らせてやった。それからたっぷり三十秒僕は(漫+猥)談を披露してやったが、ウケたのは隣に立っていた外国人だけだった。プラチナ・ブロンドの、『ミス・バカそうな女』に選出されていてもびっくりしないテの女だった。
「|笑ってんじゃねえよ《ドントメイクファンノブミー》。とっととオランダに行ってマリファナ吸ってろ」
 外国人はぎょっとしたように謝罪の言葉を口にした。僕は肩をすくめて、形式的に笑顔を作った。これ以上ここにいる理由はなかった。僕は彼女の手を引いてくそみてえな銀座線の改札をくぐって、彼女と一緒にくそったれなオレンジ色のメトロに乗り込んだ。
 突然、何もかも色を失った。僕は呆然とした。あれ? 僕は何を見てんだ? 僕はそれを尋ねようとして、一瞬にして質問事項が天文学的な数字に膨れ上がるのを感じた。僕は誰といるんだ? 『誰』とは何だ? 『いる』とは何だ? くそっ! 哲学者に任せろ、ノンノブマイビジネス! 僕はぎゅっと目をつぶって、彼女のハンドバッグに手をかけた。
 彼女は「大丈夫?」と本当に不安げに声をかけた。こういうのって色んな意味でたまんねえよ。僕は知ってんだ。八代って娘が、はっきり言って気が狂った母親から生まれた政治的にはほとんどイカれたガキだってことも、でもとっても馬鹿げたレベルで心優しい少女だってこともね。そういうのってマジでぶっ飛んでくそみてえに耐えられねえことなんだよ。
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 だってよ。笑っていいぜ。二秒だけな。
「八代さん、ごめんね。あんなことを言うつもりじゃなかったんだ」と僕は左手で目を覆って呟いた。言うまでは本心のつもりだったんだが、言った瞬間、とんでもねえつくり話をぶちあげちまったって気分になった。僕はちょっとナーヴァスになってんだな。
 彼女の顔を見ると、マジで心配そうな顔してやがった。僕はちょっと泣きそうになった。彼女の眉間にはぎゅっと二本の皺が走っていた。自分のために、女の子が眉間にしわを作ってくれるって、とんでもなく嬉しいもんだぜ。
「大丈夫、良いって。笛吹くん、本当に大丈夫?」
「さあ。とにかく金曜日と土曜日に五時間ずつ夜勤したのが効いたね。これからは摂生するよ」
 小声でそう伝える。彼女は自分の眉間に人差し指を当てて、意識的に皺を取り除いた。僕はもう一度目を伏せた。
「国会前だっけ?」
「……そうだよ。ホントに大丈夫だよね?」
「うん、大丈夫。ちょっとテンパっちゃっただけなんだ。本気で。人混みって、なんて言うかな、ちょっと――」
「苦手?」
「――そうだね。苦手。いい言葉を知ってる。苦手なんだ」
 彼女は僕に板ガムを一枚くれた。弱いミント味のガムだった。僕はぼんやりと微笑んでみたりまた元の無表情に戻ったりした。彼女は僕がふざけているのだと勘違いして、僕の腕を小突いた。すまんね。僕は苦手なんだよ。急行に乗るのも、自分を表現するのも。
 メトロが何駅か動いて、溜池山王に停まった。僕と彼女は歩調を揃えて電車から降りた。彼女は僕の方をみて、軽く頷いた。僕はなんだかぐらぐらとした気分になった。僕の周りにはたくさんのおばさんやおじさんが立っている。みんなが完全にシラフで、完全にまともだった。僕はひどく間違った場所にいるような気がしてきた。僕はここにいちゃいけない。僕は今日もあのくそったれな狭いマンションで、あの完全にいかれちまったばあさんと口論して、時々土下座しとかなきゃいけなかったんだ。僕は……。
 彼女は僕の背中を、ぽん、と叩いて、「あのさ」と口を開いた。彼女は僕の右斜め上を見ながら話した。
「ねえ、笛吹くん、私もね、君が私の三毛猫を大切にしてくれるんなら、別に最大の素数を見つけてやってもいいとは思ってんのよ」
 随分チャーミングなことを言う娘だ。僕は口の端を歪めて、「何時間考えたセリフ?」となんとでもないふうに尋ねた。彼女はそれだけのことでひどく傷ついたような顔をした。
「ごめんよ。テンション上げてかなきゃね。僕も本番ではちゃんとやるよ。僕はそういうところをハズさない男なんだ。知ってるでしょ」
「そんなことあったっけ?」彼女は肩にかかった髪を、指にくるくると絡めて、ぱっと離した。抵抗力は変位の……僕は首を軽く振った。会話の糸がぷっつりと途切れた。
 エスカレーターに乗っていると、知らない間に上までたどり着く。これは結構すごいことだ(と、僕は勝手に思っている)。
「へえ、意外と人がいるもんだね。もっと小規模にやってると思ってた」
「みんなそう言うけど、実は違うって。こういうのって突発的にやるんじゃなくて、きちんと定期的にやるといいんだってさ……だって活動だしさ」
 彼女はつんとした唇をもう一段階尖らせてぼやいた。三十近い女がやるような、カクッとした濃い眉が臆病そうに歪んだ。僕はまあだいたいどういうことかわかってきた。
 例えば、今日のデモは本当なら渋谷あたりから合流するコースだってあったこととか、そっちのコースは大学生がたくさんいることとか、まともな女子大学生は、小中学校が同じだっただけの男を誘ったりしないこととか、そういうことだ。
 彼女の古臭い眉とどうしようもないスカートのことを僕は覚えていよう。きっとLINEの『友達』がひどく少ないだろう彼女のために。そんくらいはしてやらなきゃ。
 通りに出ると、彼女はスマートフォンを開いて、画面を覗き込んだ。僕は彼女のそばに立って影を作ってやった。彼女はありがとうもなんにも言わずに、「こっち」と呟いて歩き出した。通りはひどくひっそりとしている。小さな商店の店番をしていた老婆が僕たちのことをじっと見ている。
 遠くから何事か声が聞こえてきたが、はっきりとは聞き取れなかった。きっと、すべての人にとって都合のいい言葉なのだろう。
「あのさ」
 僕は口を開いた。
「こういうのって初めてなんだよ。それで、聞きたいんだけどさ」
「何?」
「君たちは『何とかを殺せ』なんて言わないよね、それだけ約束して欲しい。僕は……苦手なんだ」
 これは本心だ。誓うよ。僕は心のなかで呟いた。でもって誰に誓えばいいんだろうな? 僕はとりあえずその場しのぎのご本尊として何日か前に見た『エレナ』の瞳を思い出すことにした。これは随分『それらしく』思えた。きっと僕は何でもそれっぽく見るだろう。アディダスのロゴ、日輪、月輪、臨済宗には入れないな……。
 彼女は立ち止まって、僕の顔をじっくりと眺めた。それから、曖昧に笑った。東京の人は、みんなこんな笑い方をする。目を細めて、口角を上げて、前歯を二ミリだけ見せて、唇を軽く巻き上げて。やんなるよ。ほんとにさ。まるで嘘くさくって、その嘘くささもひっくるめて僕は喜んじまうんだ。|ありがとう《スパシーバ》、僕なんかに微笑んでくれちゃってさ、って。
 彼女は優しく、誰かの真似をするみたいに口を開いた。
「約束するよ。私達、そういう人たちのことを正しくするために行くんだもん」
 『正しくする』。僕はひどく滅入ってきた。何もかもどうでも良くなってきた。帰って子犬の動画でも漁って、そのあとでとびっきり可愛いプッシーで致して寝ようとさえ思った。
 ねえ、君、僕が誰かを『正しく』出来たとしてさ、それは僕が誰かの右の頬をぶっ叩いて、「ちょっとそこをどけ」って言って、左の頬をぶっ叩くのと何か違うのかな。それだったら、僕はそんなことしたくないよ。ホントに。ね、どうせなら、何万円かもらって、ホモって思われるかもしれないけど、そいつの頬にキスしてやりたいもんだ。でも彼女のことを僕は信じることにした。
 誰かに『ブチ殺す』って言うのは、それ以上に気が滅入ってくることなんだ。
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 騙されるたびに、二度と騙されたくないと思う。
 国会議事堂前にはすでに何十人と人が集まっていた。聞けば、『毎日』来ているらしい。新聞のことか? 僕はつまらない質問をしようとして、やめた。街路樹はすっきりと刈り込みがなされている。足元のマンホールは、焦げ付いたコーヒーみたいな色をしている。僕たちのことを、近くの老人がぎろりと睨んで、また手元の新聞に目を落とした。
「すごいね」と僕は呟いた。
「すごいね」と彼女は返した。
「女流歌人が涙を流して喜びそうな返事をありがとう」
「は?」
「何でもないよ。ただ何となく言いたくなったんだ。ちょっと寒かったんだ。それだけさ」
 カミュかよ、僕は。僕はどことなく不機嫌になって、ガムを包みに吐き出すとポケットに仕舞った。リュックからペンを取り出して、ポケットに差し込んだ。
「こうすると、ガムを入れたまま洗濯しないで済む」
「ホント?」
「ああ。とにかく『ガムを入れて洗濯しちゃった、ブチ殺す、手始めに俺からだな』とはならない。ボールペンから漏れたインクのほうがおおごとになるからね」
 彼女は曖昧に笑った。
「ちょっとここで待っててね。大丈夫、心配いらないからね」
 彼女は僕を置き去りにしていった。朝の空気はぱりっとしていて、白っぽくなったアスファルトに『朝日』があたって、砂の粒の一つ一つが薄茶色の光を乱反射させた。
 しばらく「なんとか首相がなんとか!」とか「なんとか法案がなんとか!」とか「なんとかなんとか!」みたいな声に僕は耳を傾けていた(遠くの方に大学生らしき集団が見えた。僕は何も言わなかった)。初老の男が声を掛けてきた。
「どうも、あなたが笛吹くんですか、八代さんの知り合いです、サカシタと申します」
 八代さんは帰ってきていない。僕はなんだか騙されたような気分で、彼を握手とした。差し出された男の手は、綺麗に爪が切られている。僕はニッコリと微笑んで、「よろしくお願いします。サカシタさん」と答えた。鷲鼻の紳士だ。腹は少し出ていたが、ここにいる人の中ではずば抜けて綺麗な格好をしていた。
 グレーのスーツに、黒っぽい落ち着いたコートを着ている。こういう輩の多くがチョッキとか何とかを着やがって死ぬほどうぜえんだが、このおっさんはそんな頓痴気な真似をしてねえ。すげえ僕はいい気分になるぜ。最高。マジでな。坊主憎けりゃ袈裟まで。待てよ、そうすっとさ、もし仮にだぜ、僕が人間一般というものを憎んだとしたら……僕は何を着りゃあいいんだ? へっ、おいおいおいおい、やめろよ。お前、自分が憎むことをし続けているじゃねえか。それが一つ増えたところで何だよ? 今日はネクタイを締めました、憎い! 今日はマスクをつけました、憎い! 今日はこのむずむずするペールオレンジのぶよぶよしたぼろくそのひでえタンパク質を纏っています、憎い! 憎い! 憎い! 今日は……そういうこった! へ、へ、へ!
「戻ってきた」
「何がですか?」
「いえ、何でも。さっきまで不安だったんですけど、自信が」
 僕はくそみてえな答え方をした。これってかなり強制力があってな、相手が「初めは怖いでしょう」とかなんとか、馬鹿げたセリフを言い出す以外に方法がねえんだわ。そこをちょこっと録音しときゃ、何かやばい年齢のオンナノコたちが下の方を見せてくれる系のお店っぽくなっちまうもんだからたまんねえよ。へ! ああたまんねえよ。隣のおばさんがジトッとした目で僕を凝視している。あら、横断幕が隠れちゃってるのね。失礼、失礼。塗籠ん中で待っときゃ僕のプッシーが来てくれる、なんて時代は一日もなかったってのに、ずりいよな、首相様。
 考えてくれよ、『あんたがそのどえらい股ァ開いてくれたら、俺ァこのマザーファッカー法案をぶっ飛ばしてやんぜ』って首相様がお告げなさったらよ、ここにいる女の子は路上ででも全裸になるだろうさ。滅入ってくんねぇ。
「ええ、初めはみなさんそう言いますよ。本当に。でも、私達一人ひとりがちゃんと力を持っているんですから、心配いりませんよ。粘り強さが結果をもたらすのです。『忍耐は一種の正義である』ですからね」
 へへ、そうかな。僕は意地の悪い喜びを覚え始めた。《へ! さて、どう出るかねえ……?》僕はポケットからペンを取り出して、カチカチと二回クリックした。
「あの、すいません、サカシタさん、こういうことを初対面の人に聞くのはアレかなと思うのですが……」
「ええ、何でしょう? 私もできるだけ答えますよ」
「サカシタさん、奥さんはいますか? 子供は?」
 彼はちょっと怪訝そうに眉をひそめた。視界の隅を通り過ぎたタントに太陽の光がぱっと反射した。
「ええ、いますよ、それがどうしました」
「ねえ、奥さんにも一種の正義がありますよね。『結婚とは忍耐である』ですからね」
「それが、どうか、しましたか?」
「へへ、|なんでも《ワットエヴァー》。ただ、ちょっと気になったんですよ。こっちに正義の一種があって、こっちに正義の一種がある。それから先のことはあんまり考えたくないんですけど、そういう状況を想像するのって、僕、結構好きなんですよ。だからここに来たんですけどね」
 初老の紳士は眉根にシワを寄せた。僕は一瞬にしてやる気を失った。僕は取り返しの付かないことをしてしまった。彼は言葉を探している。僕にはそれが分かったし、彼くらいの歳の男に、そんなことをさせるべきではないのだ。人間には言葉を探す時期と、探した言葉を、次の娘達にちょっとずつ伝承していく時期がある。彼は後半に入っているのだ。
 遠くで雲が音もなく動き、太陽を覆い隠した。影がぼやけた。すべてのものの境界が少しほころんだような気がした。
 僕は慌てて訂正した。
「いや、すいません、最近、ちょっと、その、生活がうまく行っていなくて。本当に。八代さんに誘われた時も、ちょっと困っていて」
「はあ、そうなんですか」
 彼はちょっと警戒をゆるめた。僕はもっと自分のことを傷つけたくなった。彼がそうしていると思い込んだ。彼の言葉は僕の言葉になった。彼の思想は僕の思想になった。彼の考えていることは僕の考えていることになった。僕は喋り出した。
 ああ、偉大なものは全ての口を支配せり。あまねくものの口から偉大な言葉は紡がれり。すべてのものが、あの巨大な柱の周りを周遊しながら生み出されたものであるがゆえに。拝受すべし。神聖な御言葉を……。
「すいません、ごめんなさい。実は、実は、僕、大学から、その……追い出されてしまったんです。当然の罰なんです。僕が全部悪くって、それで、いま、全然、その、本気で全然、自分に自信が持てないんです。そういう時って――わかりますよね――誰かれ構わず、突っかかったり、傷つけたくなっちゃうんです。本当にすいません。こんなことを言うつもりじゃないんです……」
 彼のシワが完璧に薄れた。僕は信じられないくらい、いい気分になった。オランダ人に経験させてやりたいくらいの気持ちよさだった。全てがごく僅かな間だけ自明だった。すべてのものに調和が満たされていた。僕が曖昧に笑った瞬間、そんなアホみてえな幻想は全部ぶっ飛んじまったんだけどな。
 遠くをちらっと見た。八代さんがどっかにいたような気がしたが、彼女の姿を見分けることは出来なかった。まるで、小説のページをパラパラとめくっている時に目に飛び込んでくる気の利いた一節みたいに。
 そのまま彼とくだらない世間話をした。僕は当たり障りなく現政権を批判しておいた。
 これは別に卑劣なことじゃない、と僕は信じている。愛想笑い。処世術。ほら、口角をくいっと上げて――いいよ。自分の中にもう一人飼っとけ。ぬいぐるみ人形。血を流すぬいぐるみ人形。彼のへその緒――それは前頭葉をつなぐケーブル。ちょっとばかし悲しいだけさ。すぐ慣れるよ。
「でも、いいですね。こういう会に参加すると、世界のために行動しているという気分になれます。やっぱり僕も平和好きな人間ですから。ひとつの声は小さいですがね」
「笛吹さん、結構、結構なことですよ。あなたはよく物事を見ているようですね。本当に。あなたを……した大学は、実にひどい。本当に」
「それも良かったかもしれません」
「良かった?」
「ええ。その、こういう集会の存在を知らないまま終わってしまう、ということは……今考えるとですね、ちょっと、怖いとまで思えるんですよ」
 彼は満足したようにうなずいた。やんなっちゃうな。こういうのってさ。僕のぬいぐるみがひどく傷つけられる。右手の紐が切れちゃったあ。左手があるじゃない。左が動かなくなっちゃったら、みんなどっかに行く。ひとりぼっち。僕の三毛猫と一緒に。『落ち葉に埋もれた空き箱』もなくってさ。ぼろくその、悲しい歌ばっかり残ってさ。
「いや、あなたのような孤独な元学生が立ち上がるというのは、本当に、実に結構なことですからね!」
 僕の理解者。僕の僭称者。僕の庇護者。僕の精神の|万能薬《パナシア》。
 ――くそくらえ。
 僕を薬漬けにするつもりだろう? ええっと、患者名は笛吹。病状は不明。いや、しかし、様子だけは見ておこう。意識と性器を切っておけ。先生、ロボトミーは? やってみようか。チューブで僕と、僕の大切な――大切な――『それ』をヤク中にする気だろう? 僕は未だに僕にしがみついてやがる。このおっさんの思想より僕が高級だって、んなこたあまるっきり馬鹿げてんぜ。そんでこのおっさんにとっては、僕の思想より、彼の思想が優れてるとかなんとか逃げようとしてやがるぜ。相対主義の始まり。くそったれ! こんちは、ここが相対主義者の最終列すか? ちょいと失礼……どうせ誰にも大義が無いんだから……。
20, 19

  

 この世の全てのぬいぐるみ。この世の全ての数秘術。遊ばれて、捨てられて、最後には僕のふところで眠っておくれ。
 彼との『有意義な会話』が終了し、僕はひどい頭痛を感じながら、壁の前の、横断幕を持った貴婦人の横に座り込んだ。腫れた患部をぎゅっと押し付けたような頭痛だ。地面には牛丼屋の半券が落ちていた。どこの場所にも牛丼の半券はある。人類が滅んでも、きっとゴキブリと牛丼の半券は残っているだろう。
 八代さんが疲れた顔をして帰ってきた。朝の十時には向かない顔だ。早速、近くのご婦人方にとっつかまっている。僕は重い腰と頭を上げて、彼女の方に近づいていった。彼女たちは甲高い声で喋り合っている。家族がどうの、日曜がどうの、気温がどうの。「あれ、あんたの彼氏?」「違いますよ」「あらあら」「彼、初めてなんです」――これって、僕のことなのか。
「ねぇえ、今日はおひさまも出てていい天気ねえ」
「そうですね、最近、寒い日が続いていましたし……」
「あぁあ、八代さん、これからぁ、一緒に行きましょうかねえぇ?」
 天気を気にするとはね。僕は内心、感心しながら貴婦人の話を聞いていた。天気を気にするなんて、なかなか出来ることじゃない。服装こそあやしき身分に見をやつしたように見ゆれど、というやつだ。係り結び。覚えてないね。
 貴婦人はサングラスを掛けて、淡い色のダウンコートを着ていた。高くもなければ安くもない、ありきたりの、まあ叩かれない服だ。
「いえ、でも、笹崎さんも、お子さんが心配でしょうし……」
 彼女ははにかみながら答えた。そういうのってやめたほうがいいぜ。一定以上の年齢の女性ってのは、時折とんでもなく厚かましくなるものだから。ダウンコートの女性は、「いいわよお」と彼女の腕を叩く真似をした。
「咲なんてどうでもなるんだからさあ」
「いえ、でも……」
「そうだ、八代さん、あなたのボーイフレンドに任せてしまいましょ、さ、行きましょ」
「ちょっと、そんな、急に……」
 彼女は慌てて手を顔の前で振ったが、一度心を決めた婦人は折れない。八代さんは僕の方をちらっと見て、眉をぎゅっと寄せた。僕は肩をすくめた。サングラスの婦人が、甲高い声をもっと高くして僕に話しかけてきた。はっきり言えば、驚くほどヤギに似ていた。
「あなたが笛吹くん? 好青年ねえぇえ。私、八代ちゃんの知り合いなのよぉお。これからお昼ごろまで、ちょっとあっちの方に行ってくるからねえええ、子供任せてもいいかしらぁああ?」
 僕は語尾を二十秒伸ばして返事をしてやろうとさえ思ったが、やめた。初対面の人には行儀よく、だ。ただ、僕にはひとつ気がかりなことがあった。笹崎婦人の手を握っている子供なんてどこにもいない。《もしかしたら、ぶっ飛んだ精神病患者かも。一抱えもある石を渡されるのか?》と僕は考えた。
「――ええ、結構ですよ。僕の連絡先は八代さんからもらってください。まあ、その子供がここにいればの話ですけど」
「あら、どうも、どうも。やっぱり、ここに来るのはぁ気のいい青年ばっかりねええ。うちの子供はあすこにいるのよおぉ。ほら、あっち……」
 彼女は壁を指差した。
 灰色のピーコートを着た、髪の短い子供が、廃人のような目つきで立ちすくんでいる。医者を持ってきて瞳孔反射の検査をさせたら、まずもって間違いなく「この子は死んでいる」と判断するだろう。小学生か中学生。どちらかは分からないが、背はひどく低い。
「あの子ですよぉ、ちょっと無愛想だけど、いい子なのよおお。お昼までには戻りますからああねええ。待っててくださぁい」
 僕たちは壁際に近づいていった。子供は動かない。八代さんは僕の方を見て、「ごめんなさい」と呟いた。どうってこと無いさ。なんだか僕は随分疲れてしまっている。
「ほらぁ、こっち来なさい。今日はこのお兄さんとねえ、ちょっとぉ待っててねぇ」
「……誰?」
「これはねえ、笛吹さんって言っててねえ、凄くいい人なのよぉお。八代さんのお友達でねえ……」
 笹崎夫人の声は一オクターブ高くなった。娘に対してこういう言葉遣いをすることに慣れすぎている。
「……下の名前は?」
 子供の声はしゃがれていて、低かった。薄い唇が不機嫌そうに口の中に巻き込まれた。
「え?」
「笛吹、何?」
 婦人は一瞬戸惑ったような顔をしてから、「それはお兄ちゃんに聞いてみなさい」と早口で切り上げた。言い終わるのに一秒もかからなかっただろう。
「……ホントに知ってんの?」
 子供は目を細くして母親を睨んだ。喋り終わると、唇はまたさっきのように、ぴんと張り詰めた状態に戻った。婦人は、わずかに僕の方を見て、また子供に向き直る。彼女はひとつ息を吸って、すぼめた口から吐き出した。そして、嘲るような笑みを浮かべた。
「知っているに決まっているでしょお? あんたと違って、私はそういうことはきっちりしているのよぉお。馬鹿言ってないでおとなしくしてなさい、挨拶でもしたらどうなのぉおお?」
 間。子供は母親から僕に視線を動かした。
「よろしくお願いします。笹崎です」
「よろしく。笛吹って言う」
「じゃ、後はよろしくねえ笛吹くん、愛想の悪い子供だけどねえ、ごめんなさいねええ?」
 別に、と僕は答えた。通りの向こう側から聞こえてくる声が少し大きくなった。笹崎夫人は、八代さんの肩を掴むと、無理やり僕たちに背を向かせた。自分の子供に聞こえるように、彼女は話し始めた。
「ね、うちの子、ちょっと頭おかしいでしょぉ、ホント嫌なのよお、いつも理屈ばっかりこねてねええ」
「笹崎さん、子供って、みんなそんな――」
「やめてやめてやめてちょうだい、あんな馬鹿みたいな質問をする子、普通じゃないにきまっているでしょぉお、ホント、困るのよぉ、ホント頭悪くって……」
 僕は突然苛ついた。
22, 21

  

 子供を馬鹿にするのは許せない。それだけはだめだ。
 僕は路上に落ちていた牛丼の半券を拾い上げて、笹崎婦人を呼び止めた。僕の隣に立っていた子供が、短く「えっ」と言った。見とけよ。
「何ですかあ? 笛吹くん?」
「いえ、あの、バッグから、これ、落ちましたよ」
「ええ? この……牛丼の……半券があ? ちょっと、ええ、本当に落ちましたかああ?」
「はい、さっき歩き出す時に落ちました。その、バッグの口がちょっと開いているところから、はい、そうだと思います」
 彼女は不審げな顔をした。もう一歩だな。
「もし違ったらすいません。僕が捨てときますけど……」
「いいえ、そんなことぉ、大丈夫ぅですよおお、本当に、ありがとうございますねえ、私、こんなの落としちゃって、行った覚えもないのにねええ」
「ずっと昔に使った券が、たまたま出てきたんでしょうね、そういうのって、よくありますから……」
「ええ、ええ、ええ、ありがとうございます、ええ、ありがとう、ええ、じゃあねえ、笛吹くん、じゃあねえ――八代さん、行きましょ……」
 僕は彼女の背中を見送った。ざまあみろ。路上のゴミ掃除にご協力ありがとうってやつだ。この調子で会う度に拾わせてやってもいい。そのうち強迫観念症でも患ってくれれば良いのだけれど。路上の声が大きくなってきた。そろそろ本番なのだ。僕は壁際に戻った。
 笹崎夫人の子供は、僕のことを不審げな目つきで眺め回した。僕も、この子のことを不審げな目つきで眺め回してみた。ぺったりとした短い髪の毛。灰色のピーコート。色あせたブルージーンズ。ピンク色のスニーカー。ん? 女の子みたいだ。
 僕は内心ため息を吐いた。ちょっと偏食気味の諸兄には申し訳ないが、僕の好みじゃない。何より、こういう子供は、大概、日本語を理解しないで馬鹿みたいにきゃあきゃあぶちかましてうぜえことこの上ねえんだわな。僕は口の端をちょっと歪めて、愛想笑いに見えるような顔をした。
 女の子は、左足で自分のすねをかいて、それから、あのさ、と口を開いた。相変わらず、悲惨なしゃがれ声だ。老婆の声の吹き替えが出来るだろう。まるで、眩しい物を見すぎたみたいに、眉間にはシワが寄っている。
「何だい?」
「あんさ」
「だから、何だ?」
「あんた、変質者?」
「何つった?」
「あんたが変質者じゃないかって、あたし、思ってんの」
「どう見える?」
 彼女は僕のことをもう一度じっと見た。そして、僕から目線を一切そらさず、慎重に口を開いた。
「――マジもんの変質者」
「君の街には眼科がないことが分かった。貴重な情報をありがとう。死んでも住みたくない場所ができた」
 マジでな。
24, 23

一階堂 洋 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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