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鍵の隠し場所は平和という名なのだ

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 実家が近づく。靴屋に寄って、彼女の分と僕の分の靴を買った後、バイパスを引き続き下り始めた。
 道が狭くなる。地獄と現世の隙間から突き出したはいいが、誰かの創りだした網にぶち当たってしまった罪人の手みたいに、ぶどうの幹がそこら中に生えていた。出してくださいな。ひょっこりやってきたカンダタが最初に見るのは――ぶどう狩り五千円。人っ子一人いない。ああ、地獄の底はみんなで楽しくやってたな。ゴーストタウンでも、もっと人がいる。枯れ木にも山の賑わい。イノシシの警報が鳴る。退屈な街だ。どこに行っても変わらない。おもしろきことも無き世を面白く。ちょっと理想が高すぎ。新作は毎日もたらされるが、全部退屈だ。全部が。
 全ては僕の頭のなかの出来事なんだ。
「笹崎、スマホから、チュー子に連絡取れ」
「『パスコードを入力してください』」
「1532」
「あい」
 電話はつながらなかった。すぐにメールが届いた。僕は路肩に自動車を停めた。彼女の小さい手からスマートフォンをもぎ取って――しまった、少女暴行事件だ――拝受して、確認する。

 今 連絡できません ごめん 実家の場所って変わってないよね 迎えいくから 場所教えて(アホみたいな笑顔の顔文字が三つ)

 僕は深くため息を吐いて、エンジンをかけ直した。ステレオが一旦黙りこんで、もう一度復活した。これこそ奇跡だ。一度死んだ奴が生き返った。
 誰もいない道路にウィンカーを見せびらかして、制限速度が三十キロの細い道を進み始めた。笹崎はペットボトルホルダーを無意味に開けたり閉じたりしていた。エアコンの風向きが変わって、顔に吹き付けたり、足元から熱気が登ってきたりした。彼女はシガーライターを押し込んだ。僕は彼女の手をそっと払って、小さく首を振った。
「やめろって意味?」
「死ぬなって意味だ」
 僕たちは少しずつおかしくなっている。ただそれが分かった。星の微妙な動きから、土着の民族がその年の吉兆を悟るように、僕もそれが分かった。目に入るすべてのものが、少しずつその徴候をわけあっている。全体論的な暗示。還元主義的に見るならば――僕は赤信号で停まった。電柱にはどこかの歯医者の電話番号が書いてある。
 05-xxxx-1532
 信号は瞬く間に青に切り替わった。
 実家まであと五分とちょっと。車道と歩道の境界が無くなり、ガードレールが無くなった。電柱が一段階細くなり、どの家にも、トタン屋根の物置が付くようになった。猛犬注意のシール。土壁たちが僕を取り囲む。僕は一瞬だけ、何だかひどく心細い気がしてきた。僕がどこかに何かを置き忘れて――もっと言うと、その存在をそもそも忘れてしまって――突然思い出したような気分になった。
 僕は近くの家を眺めた。白い壁の家だ。記憶が補正している。今や、白く粉を吹いた家だ。笹崎は何でもなさそうにそれを見ていた。
 違うぜ。それはただの家じゃないんだ。
 あの白い家の裏手には小道が通っていた。両側には、左右の家の高い塀がそびえ立っていて、まるで、ブロック経済を敷いた二つの国の国境みたいだった。実際のところ、その小道は、家の間を流れる側溝に、コンクリートの蓋をかぶせただけのものだった。蓋の下にはいつも僅かながら水が流れていた。太陽が真上にくると、蓋の隙間から、水がなまなましくきらりと光った。
 その小道の上流には、側溝の蓋がはまっていないところがあり、小学校三年生の時、僕はそこから船を流して遊んでいた。家から少しだけ油をくすねて、反故になった漢字練習ノートを破いて、一人だけで船を作っては流していた。爪楊枝で旗をつけて。折り方を少しだけ変えて。もっとよく進むように改良して。
 しかし、いつも、僕の船は、その小道の下で――側溝に閉ざされた下層流で――消えてしまった。ただ消えてしまったのだ。何十隻と流した小舟は、草で作ったものも、紙で作ったものも、冗談半分でマヨネーズを塗って作ったものも、セロテープをめちゃに貼りまくったものも、全部そこで消え失せた。
 その時、バミューダ・トライアングルという言葉が流行していて、僕も、自分でその側溝のことを『バミューダ』と呼んでいた。その証拠はどこにもない。僕は何の日記も残さなかった。僕は学校の友達をそこに呼ばなかった。僕だけの『バミューダ』は僕だけの船を貪欲に吸い込んでいった。
 だけど、この喉は覚えている。僕は誰かに言ったことがある。この耳は覚えている。誰かが僕に問いかけたことがある。

 暑い夏の日だった。猫が日陰にじっとうずくまっていた。セミが鳴いていた。虫が道で死んでいた。照葉樹の葉っぱがきらきらと光っていた。水は夜のように冷たかった。藻はつるりと揺らめいていた。
 彼女が口を開いた。
「何しているの?」
「『バミューダ』を突っ切ろうとしてんだ」

 僕は『バミューダ』を突っ切ろうとしてんだ。僕は口には出さなかった。現実の世界に戻る時が来ている。全ての幻想が終わろうとしている。華やかな色を見せようとしている。花火が最後の最後に大きな光を発するように、幻想とは、真実に取って代わるときに、鮮やかな光を放つのだ。きっと、僕の目の前で。
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 僕たちは僕の家にたどり着いた。少し瓦が剥げ落ちた一軒家だ。庭はない。その代わりに倉庫が置いてある。町内会に貸していて、父親はそれで小遣いを稼いでいた――いる、だろうか?
 車庫には車がなかった。父親は今日も仕事に行っているんだろう。当然のことだ。バックで停めた。
「鍵、取ってくる」
「あ?」
 彼女を助手席に置いて、僕は物置の裏手に回った。そこには『ピース』の濃い紫色の缶が置いてあった。泥があちこちにへばりつていて、半ば地面に同化しているように見えた。
 僕は蓋を開けて、中から鍵を取り出した。昔からやっていたことだ。鍵っ子の宿命。ここに入れとくから、帰ったら勝手に開けて、おとなしくしているんだぞ。鍵の隠し場所はずっと変わらない。僕と父親がうまくやってこられたのは、多分、この『ピース』の缶が、僕たち二人の間での――そして、永遠に二人だけの――秘密になっていたからだろう。鍵の隠し場所は平和という名なのだ。父親の独房の鍵の名前、僕の子供時代がしまい込まれたおもちゃ箱の鍵の名前だ。
 笹崎に降りるように促して、僕はドアを開けた。彼女は、しばらく、何だかためらうように、玄関前のステップをコツコツコツと蹴っていたが、やがて家に上がった。
 しょうのうの匂いがする。薄暗い部屋だ。薄暗い家だ。
 僕達はひっそりとした部屋に入った。二階に通じる階段を通り過ぎた。洗面所でめいめいにうがいをした。冷蔵庫にあるオレンジジュースを二人で少しずつ飲んだ。僕たちはテーブルに座った。電気はつけなかった。
 しんとしている。天井の隅には蜘蛛が巣を張っている。徐々にこの部屋の境界を曖昧にして、崩していくみたいに。綿埃が食器棚の隅に溜まっている。テーブルの上にはコーヒーメーカーや汚れたスプーン、一本だけの割り箸や、バターを包んでいたのだろう銀色の紙が乱雑に散らかっている。彼女はそれの一つ一つを、どこかの博物館に飾ってある品物を見るみたいな目つきで眺めてから、僕に向かって微笑んだ。
「いい家だね」
「血縁だから、僕の父親への皮肉は、僕の皮肉にもなるってことか」
 違くて、と笹崎は呟いて、手元にある、ひどく汚れている付箋を拾い上げた。元の色さえ判別できない。文字が書いてあるように見えた。
「何年前に作られたのかな」
「君より年寄り」
 彼女は目を細めて、それならいいなあと囁いた。低い声だが、後ろには掠れた高音が潜んでいる。いい声だ。一瞬、土が太陽に焼かれた時の香ばしい匂いを思い出した。
「――あたしさ、変な話、あたしが生まれる前に起きたことのほうが、本当のことみたいに思えるんだ。ずっと昔に、アルキメデスっていうおじさんがいました、って言う方が、なんとかっていう芸能人がいます、ってのより」
「どうして?」
「分かんないけど。でもとにかくそう思えるんだ。テレビで何週間か出てきて、知らない間にどっかに行っちゃう人よりもさ、本を開く度に、『ここにいるなぁ』って思えるベッキィとかセーラとかの方が、ホンモノらしく思えんだよね」
 時間が経った。
「僕はそうは思わない。僕はやっぱり一九四五年八月六日が晴れだったことよりも、やっぱり今日の昼頃に雨が振るかが気になるし、愛すべきアルキメデスより、くだらん下世話な話を見ちゃうもんだよ」
 彼女は僕と同じ反応をした。
「どうして?」
「考えさせて」
 遠くでカラスがぎゃーと鳴いた。次の段階に入ったことを知らせる開き括弧みたいに。二つ目のインデントみたいに。冷蔵庫がぶーんと音を立てて、かちっとまた無音に戻った。壁には僕が昔作った時計が掛けてあった。文字盤には中学校の校舎が描いてある。
「何でだろう。でもそうなんだ。僕は何だか恐ろしいんだ。昔のことを考えるのは。なんでかは分からない。別に思い出すと怖くなるわけじゃないんだ。ただ恐ろしいんだよ。何かがありそうな気がして。僕が生まれる前とか、そのちょっと後には、僕の思いもよらない化け物が住んでいて、そいつが、ひょっこりやってくるかもしれないじゃないか。ああ、お前を食い殺すのを忘れていた、って」
 コツッ、コツッ、という、一秒刻みの音だけになった。笹崎はスマートフォンをちょっと触った後は、食器棚の中を覗き込んでは、少し懐かしそうな、不思議な顔をしていた。
 僕は二階に続く廊下に出た。
 暗い廊下は相変わらずしんとしていた。床板は何度もニスが掛けられて、茶色く濡れたように光っている。空気のひと粒ひと粒が重く、懐かしく、そして濡れている。何かが湿った灰のようなにおいが立ち込めている。
 脳が燃えたにおいだ。
 僕は何を言っている? 
 違うぞ。正しい質問をしろよ。あのばあさんがそうされたみたいに。笹崎がそうしたみたいに。
 僕は何を言っていた?
 ――挿入。
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 家はひどく貧乏で、僕は幼稚園にも、保育園にも入れてもらえなかった。我が家にあった価値のあるものといえば、彼女が使っていた、その――透明なプラスチックの、フラッシュさえ無い――小さなカメラだけだった。
(『朱色のセーターを着ていたのだろうか』 第二章)
 この家は『ひどく貧乏な家』に住んでいた人間のものなのか?
 僕は階段の手すりを触った。築数十年はあるだろう。僕は何を言っていた? 僕はここに住んでいた。そしてそれは――それはいつからだ?
 僕は答えを知っている。
 ゆっくりと息を吐いた。心臓が痛い。拍動が強い。視界から形が失われる。そこには色も姿も合ったが、目を凝らしても、境界は見つからない。全てが脳のなかで滑り、形をなくし、それと共に僕を突き動かした。首筋と脇の下で血液がよどみ、流れた。
 強い吐き気を感じる。
 階段の壁には、家族の写真が貼ってあった。僕はそれを一つ一つ見ていった。階段を一段一段登りながら。

 幸せそうな僕。大学に通って、家の門の前で眩しそうに微笑む――僕はひどく貧乏だったのか?
 寂しそうな僕。高校の同級生が死んだ日――じゃあ僕はどこにいたんだ?
 無表情の僕。読書感想文の表彰式、隣にはその時の彼女――僕は何を知っている?
 不機嫌そうな僕。中学校の入学式。詰め襟の制服は嫌だった。隣には父親。小さな喧嘩の後。見かねたおばさんが撮ってくれたんだ――そのおばさんの名前は?
 興味なさげな僕。隣には小学生のチュー子がいて。別に、チュー子と一緒にいるのが恥ずかしいなんて無いよ。背景はどこかの空き地。曲がりくねった巨木――ここはどこなんだ?
 僕は七歳になった。
 シロツメクサの冠を被った僕。幸せそうに笑っている。背景にはあの巨木――なんでこれがあるんだ? これがありうるんだ? 母親のカメラには……フィルムが……。

 僕の手が勝手に伸びて、シロツメクサの冠を外した。はにかんだ笑顔だ。母親が撮ったんだ。現像されて。肺が硬くなった和紙のように引きつっている。あれは現実だったんだ。でも、だったら、一体、何が? 毎年一回の冠はどうやって作られていたんだ? それは何のための日だったんだ? 僕の母親は、朱色のセーターは、白い花の中で、幻想のなかで、カクテルの作り方は。
 写真をゆっくりと裏返して――。
 やめろ! 戻れなくなるぞ!
 やめるんだ!
 真珠のような裏面に――その左下に――僕はメモを見つけた。母親が書いたメモ。

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400−xxxx
 山梨県甲府市|幸《さいわい》町 1−5−32
 笹崎 祥子
 手が震える。体が震えているのだ。肺が膨らんで、しぼむ。体が小さくなる。血液が全部冷えきった。世界の描像が崩れていく。それがつなぎ合わされる。手を握りこんだ。ポケットの中には車のキーが入っている。紺色の車は夜空の車だ。
 僕は写真を持ったまま、ゆっくりと階段を降りた。ステップを踏み外さないように注意しろ。つやつやの床の上を歩いて、湿った空気を吸い込んだ。
 そっとドアを開けた。曇り空が広がっている。真っ白い空だ。どこにも影は出来ない。
 鍵を回す。ひどく重かった。『平和』の中に鍵を入れた。道路を猫が横切った。三毛猫だった。雄だろう。僕にはそれが分かる。あれは雄の三毛猫なのだ。
 車の中には、笹崎が待っていた。彼女の顔に表情はなかった。
 彼女は僕の写真を眺めて、それから一言、口走った。
「言ったでしょ、あたしは、昔のほうが信じられるって」
 僕はエンジンを入れた。車を発進させた。誰とも、何の車とも会わずに進んだ。この世界には僕と笹崎と母親しかいないような気がする。そんなことはないのだ。何かが待っている。笹崎。僕も正しいのかもしれない。
 あの日々に潜んだ化物が出てくる時が来たのだ。僕を見つけて、僕を殺す時が来たのだ。母親と共に消え去った獣が現れる日が来たのだ。それはただ今まで眠っていた。幸福の中に体をうずめて。
「本当に行くんだね」
 もちろん。
 僕は『バミューダ』をこじ開けに行くんだ。
 閉じ込められた船たちが勢い良く飛び出して、あの薄暗い側溝の下から、息せき切って飛び出すのを待っている。解放。あるものは旗を揺らし、あるものは底に取り付けられたセロテープ製の|竜骨《キール》を見せびらかして。乾いた風が吹き抜けて――吹いて――僕は――。
 僕はそこにたどり着いた。
 母親の待つ場所に。
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 薄茶色のマンションは、何年間も煮込まれた厚揚げのような姿をしていた。それぞれの棟には三つの入り口があった。この世のものではないような形の灌木が生えている。精子みたいな形の干からびた雄しべが散らかっていた。一月の風が吹いた。
 車を停めた。笹崎は俯いていた。僕は彼女の側のウィンドウを少しだけ動かして、合図した。
 階段を上がる。部屋の番号は覚えている。紺色のペンキが塗られた手すりも、剥がれ落ちた白い塗装も、隅で死んでいる干からびたこおろぎも、全てが昔のままだった。それぞれの部屋のインターフォンは、黄色く焼けたクリーム色のカバーと、小さい黒い塊のような押ボタンだった。階段の滑り止めタイルはほとんどが朽ち果てていた。僕は階段を登った。
 灰色のドアを見据える。『笹崎』。この部屋だ。咲は僕の手を握った。咲は僕の手を握りこんだ。僕達は僕達の母親に会うんだろ? しかし――。
 自分がひどく小さくなってしまったような気がした。そっとインターフォンを押した。割れた電子音が流れた。|嘆きの妖精《バンシー》の最後の叫びみたいに。
 間。
 長い時間が経った。部屋のなかで誰かが動くのが聞こえた。スリッパが虚ろに響いた。それが近づいてくる。頭の中がどんよりとかき混ぜられている。笹崎が一言「ごめんね」とだけ囁いた。結界のための石みたいな色をした扉が開こうとしている。そして――。
 後ろから手が伸びてきて、僕を扉から引き剥がした。
 誰が?
 笹崎は目を伏せている。紺色のニットを被っている。ベージュのトレンチコートが目に入った。僕はそいつを見据えた。こいつの名前を僕は知っている。
 しかし、こいつは。
「サカシタさん?」
 そいつは、昨日出会った男だった。手の生々しい感触が残っている。中肉中背の男だ。髪をオールバックに撫で付けて――どうしてこいつがここに? 彼は薄く笑って、手を差し出した。コートはなんだかひどく漂白されたように見える。
「握手をしませんかね? あなたのような人がいてくれて、私はとても嬉しいんですよ」
「あんた、でも、あんたは――」
「言ったじゃありませんか」
 と、サカシタは引っ込めた手でこめかみの辺りを掻いた。高慢そうな笑みが唇の端から広がった。
「私には奥さんと子供がいるんですよ。ちょうどここにね」
 咲の体をサカシタは抱き込んだ。少女の腕の柔らかさを堪能するみたいに。彼はそのまま咲の肘まで手を滑らせてから、脇の下に指を這わせた。
 咲の体が硬くこわばるのが分かる。こん、と何かが床に当たる音が響いた。笹崎は振りほどこうとした。
「やめ――」
 そのまま、発達の萌芽さえない彼女の胸に、サカシタの指が食い込んだ。僕の買った服を貫いて。彼女が顔を歪めた。それから、ひどくつらそうな顔をした。サカシタの指が、切り落とされたばかりのトカゲのしっぽみたいに、彼女の肺から脇腹にくねりながら動いた。それの一つ一つが記憶に。焦げたような臭い。
「咲、楽しいだろ? お母さんに会いに行くんだよ」
 長い沈黙が訪れた。それから、サカシタは慇懃にお辞儀をした。トレンチコートの内ポケットから名刺を取り出して、僕の方に差し出した。僕はろくに読まずにポケットに突っ込んだ。名前が英語で書かれていたのだけは分かった。冷たい風が階下から上がってきて、そのまま、遠くに消え去った。
「これも。種違いでもあなたは息子だ」
 封筒が手渡された。中にはひと目ではわからない枚数のカネが入っていた。
 さっきまで僕がいたところに、サカシタが立った。彼のコートはひどく白っぽく見えた。笹崎、僕は声を掛けた。代わりに男が答えた。
「私の娘は母親に会いたがっていて、それ以外のことを知らない。君は手がかりを知っているが、それ以外のことを知らない。祥子は君達のどちらかに会えればそれでいいが、怯えすぎている。私はただ混ぜあわせただけさ。欲しい者には欲しい物を」
 彼は薄笑いを崩さない。微笑み。最大幸福の原理を厳格に適応した幻。
 笹崎、僕はもう一度話しかけた。彼女は僕の後ろを――そのずっと向こうを――見据えた。彼女の唇が口の中に巻き込まれて、それから小さく、「楽しかったよ」と呟いた。
「ここで終わんだぜ」
「あそこ以外で終わるんだったら、ここでもいい」
 景色が遠ざかって、段々とろけていった。ドアの向こうで誰かが覗いている。母親が、違うぜ、そうなんだ。僕はそこを見つめた。覗き穴が巨大になって――僕を包み込めるくらい巨大になって――僕は――そこには何も見えない。サカシタは僕に背を向けたまま呟いた。
「あと、あなたの友人は将来を求めていた、と言っておきますよ。では」
 ドアが開いた。笹崎が中に押し込められて、そしてサカシタが入っていった。僅かに開いた隙間からは、白いシーツのようなものがきらりと見えた。誰かの包帯の切れ端なのだ。僕達が愛そうとした男の。崇められた男の。僕達が傷つけてしまう男の。
 笹崎、そこに行くんじゃない。君はそいつの隣で踊りたいんだろ。それでやめてくれ。そこでやめてくれよ。そいつに近寄っちゃいけないんだ。そいつは俺達よりずっと弱いんだ。俺達の体にこびりついた細菌が、そいつを殺すんだよ。俺達はあの窓ガラスのこっち側にいなきゃいけなかったんだよ。サカシタ――母さん、僕はさ。ロックが掛かった。カチャリ。鍵の音が遠くで響く。誰かの笑い声も。これが美徳ですよ。感動の再会のセッティングをして。僕の船が飲み込まれていった。二度と戻っては来ない場所に。
 何をしようとしているの? 僕はこの扉を開け損なったんだ。もう――。
 こん、と音がした。向く。
「ごめん」
 チュー子、と僕は呟いた。
 彼女は髪を暗く染めていた。髪をぺっとりと撫で付けている。彼女は床に視線を這わせた。僕の魂がそこで死んでいるみたいに。
 ゆっくりと彼女の方に歩いて、彼女の肩を思い切り掴んだ。
「痛――」
「チュー子、分かんだろ」
 ここにいるのが僕だってことがさ。床で死んでいるわけではないんだ。それが耐えられない。何で床で死ねないんだ? 何が損なわれている? これ以上何があるってんだ? 笹崎、そっから出てこいよ。僕はここに立ってんだ。
「分かんだろ?」
 うん、と彼女は呟いた。目の端には化粧の粉が溜まって、きらきらと光っていた。僕は小指でそれを拭った。彼女がやっと僕を見つめた。
「じゃあ教えてくれよ」
 間。彼女は僕の背中に腕を回した。僕は徹底的に、完全に、断固としてそれを受け入れなかった。僕達は階段を降りた。
「チュー子、教えてくれよ。僕はさ、ただ何かあると思ってたんだよ。ここを進んだ先にさ。あのばあさんも、あんたの政治友達も、笹崎にも、全部に、まるごと全部に、なんかがあると思ってたんだよ。ただ僕はそっから切り離されているだけでさ、咲と一緒に付いて行けばさ、あいつが僕を運んでくれるような気がしたんだよ。どこかは分かんねえよ。でもどっかだ。どっか――どっか特別な場所に。君だって思うだろ。僕達はどっか特別な場所を探してるんだ。どっか特別な感情を探してんだ。昨日までの世界にうんざりしなくても済むような感情を探してたんだよ」
 僕は車を出した。
 助手席には彼女が座った。僕はダッシュボードの上に、五万円が撒き散らされているのを認めた。その上に、僕は封筒から出した一万円札を重ねた。
 マンションの裏手はすっかり更地にされていた。誰かの家が建つのだろう。基礎が打ち込まれていた。シロツメクサの姿も、残り香も無かった。木のあった場所も分からなかった。チュー子と僕はそれを長い間見ていた。
 いつの間にか東京に戻っていた。
 僕はこの旅行で何を手に入れたんだろう? ひとつはっきりしていることがある。
 昨日までの世界は毎日そっと継ぎ足され、明日からの世界はこりこりと削り取られるのだ。手元に一掴みのパンくずを残して。
 やがて、僕にも火曜日が訪れた。
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 結局、大家の老婆は僕を許してくれなかった。住む場所を仙川に変えるだろう。二月が過ぎ去って、三月がやって来るだろう。別のコンビニでバイトを始めるはずだ。時間が経つ。五月の風も、六月の雨も、七月の太陽も色んなことを持ってきて、その全てが過ぎ去っていくのだ。でもそれは別の話だ。だからその話はやめよう。
 テーブルの上にはまだ五十五万円が残っている。
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一階堂 洋 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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