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遅延

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 段々と全てが戻っていった。こいつは本当にすごく辛いことだった。新聞屋の勧誘に罵声を浴びせた。エホバの証人相手に進化論を十五分間喋り倒した。食欲がなくなっていった。僕はあの子の事を忘れていった。あの子の声や、あの子の名前や、あの子の姿を忘れていった。テレビの中では胃腸の弱い総理大臣が叫び、議長の席が囲まれ、中国の奥地では子供が別の子供を茹でて食って、その子供と両親が殺され、ついでにその村の全員がしょっぴかれ、EUの調査によって、子供釜茹でなんて嘘も嘘だということがそれとなく伝えられた。
 あいつは真面目になんて名前だっけ。アメリカは忙しすぎた。フリーメイソンは、なんだかやる気なく、散発的にユーフォーを飛ばしては、頭のおかしいカソリックをもっとおかしくさせていた。その子供がついにブチ切れて、両親をぶっ殺した後に、納屋で人の死体の干物を作ったという罪状でとっ捕まっていた。僕は何かに名前をつけたことがあるんだっけ。アホな右翼のガキがネットで北朝鮮と韓国を混同して、はからずも統一コリアへの理解を示すことになっていた。当然そいつの住所はばらまかれ、伊藤海志くんは中卒で世間に放り出された。僕の隣りに住むトルコ人達は時折、日頃の運動不足を解消するために、自分の子供をぶん殴っていた。上の階にはロリコンが住んでいて、毎日三時頃に外に出ると、締め切られたカーテンの隙間に望遠鏡らしくものがちらっと見えた。
 僕は変わりなく過ごしている。前と変わりなく。
 身の回りのものをほとんど捨てた。ぶっ壊しちまうからだ。
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 チュー子からアホみてえな連絡がかかってきやがったマジでその時、俺はNHKの馬鹿な集金役人を半泣き(見ようによっては全泣き)にまで追い込んでいて、これからが楽しいところだった。マジアホかよ。
「何? チュー子? やっとお詫びにヤラせてくれる気になった? ナマで?」
『え? 笛吹くん、だよね?』
「すいません、笛吹さんのぉ、うっ、ところには、ひっ、いっ、後で、お菓子を差し上げ、うっ、ますから」
「うるせえよ! 何勝手にイッたみてえな喘ぎ声あげて終わらせてんだよ、馬鹿かよ、死ね、今すぐ死ね、つーか電話してんの分かんないの? 死ねよ――あ、チュー子? マジでごめん、今すぐ準備するから待ってよ、あれっしょ、超エロいやつね? だからカネも出さずに帰んじゃ無えよ! アリアケさんさあ!」
 んでもって、その集金約人(彼の眼鏡は、『視点の混在』とでも名付けられそうなちょっとした一級美術品に仕立てあげてある)のケツを全力で蹴りあげてからクソドアをスラップしてバタン! 誰かのくせえ足が挟まれたみてえで、性欲絶倫の豚みてえな声がドアの向こうから聞こえたもんで、僕はドアの向こうにあいつのナニの長さを叫んでみた。二マイクロとかそんなん。はっ。
『笛吹君! 大丈夫?』
「中国人の名前を俺の前で言ってんじゃ無えよ。イライラすんだよな。ああ、前じゃなかったな。なおさらだ。死ぬか要件だ。ハロウィンのお菓子」
 彼女は暫く言いにくそうに黙っていた。俺はそろそろ切りたくなってきた。まず電話を切って、その後で彼女宅にちょっとおじゃまして、彼女本体を切りたくなってきたってわけだ。鶏肉じゃ我慢できねえよ。西友のスタッフを斬り殺しそうになっちまったもんな。
 にしてもクソ暑いぞ。マジで。カレンダー、無えんだった。携帯を見つめる。八月って書いてある。タコさんの月だ。ジュリアスシーザーとアウグスティヌスのせいだ。俺のせいじゃないよ。水曜日。超示唆的。こいつも人命由来みたいなもんだしな。
「何黙ってんの? まさか、もうシちゃってんの? 手早くない? 着てる服とか教えてよ。いや、何か俺も結構いい感じになってきたからいいや、ねえ――」
『笛吹君』
「何だよ。クズ野郎。ご職業はなんですか?」
 彼女のいらいらが伝わってきて僕としてはこっちのほうが股間にぐいぐい来るんだが、残念ながら僕は今でも不能のクソ野郎で、男として価値がないばかりか、文化的に最低限度の品性も持ち合わせていないという感じ的なアレやねんな(どうだろう?)。
『あのさ、言い難いんだけど――』
「じゃあ言いやすいところからやれよ。年収とかさ、今の彼氏のおちんちんの長さとかさ、あ、もちろん展開時の長さと合わせて教えてね」
 その間にも僕の手は冷蔵庫を開け、牛乳パックを取り出し、コップに注ぎ入れた。
『ちょっと、ご飯でも食べない? 実は――』
「どっかのクソ野郎の妊娠してるとか? お腹殴って欲しい?」
『――咲ちゃん、川に飛び込んだの、多摩川』
「は?」
『笹崎咲、覚えてるでしょ。川に――』
「おい」
 僕は牛乳パックをきちんとしまって(異常に全てのことに気が回った)、ゆっくりと、断固として言った。
「今晩だ。夜の六時に京王線の方の渋谷の改札を出たところのコインロッカーで待ってろ。店は俺が勝手に選ぶ。必ず来い、分かったな」
 電話を切った。カラスの鳴き声がした。
 鉄砲を三発。小早川、僕たち、似てんだ。次はさ、もっとうまくやろうぜ……。
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 そっからはすげえぜ。ビビるぜ。マジでやばいぜ。何つってもその時はすでに夕方でさ、俺って服マジで持ってなかったんだよな。ボタンダウンのシャツを着てさ(マジで蒸し自殺するんじゃないかってくらい暑い)、チノパン、適当にスニーカー、いいじゃん? いい感じ。時計を見たらすでに五時回ってやんの。わお、イスラム教徒って礼拝忘れたらどうしてんだろ? 自爆テロかな、やっぱり。財布をひっつかむ。歯磨きしなきゃ。携帯を確認。あのクソ女からの着信は二時二十三分。
 はあ? じゃあ何時間か俺ちゃん何し腐ってたってわけ? 超イミフ。でも俺知ってんだよね。マジショックでさ。超ショック。泣いちゃうわ。だって近似的に同じ釜の飯食ってさ、ベッドが恋人だとしたらスワッピングまでした仲だぜ? しかも多摩川ときた。マジ泣けちゃう。そうじゃね? 何か『恋空』っぽくね? 俺、超、マジクソぶっ飛んで不幸ってノリじゃん。自爆テロかな。テンドンでござい。田舎モンにして関西の笑いを理解しちまったな。
 部屋を出る。テーブルの上には五十五万円が――無いですよ! へへへ、いや、ひっつかんで持ってきちまっててさ。何でかってマジでカネが無くって。俺はコンビニに入ってフリスクとミンティアをそれぞれ二個買うと、店の外でまずそれぞれ一箱ずつ開けた。頭がガンガンガンガンして、頭痛がして、吐き気と寒気と震えが来た。胃腸がぐるぐると悲鳴をあげて、なんだかどんどん僕は気分が良くなってきた。
 僕はそこにいた無辜の中学生に向かって猥雑な言葉を囁やこうとしてやめて、京王線に乗って、スマートフォンで今日も憎しみの連鎖がマジでバカバカしくつながって、最後には『蛙でオナニーしてます』というわざとらしくイカれたバイオグラフィーの持ち主である@flogloveくんと、フォロワー数だけが取り柄のアホみてえな奴との一騎打ち、フォロワーの数が全てという摂理を、またインターネットというもはや一個の意識が、伝えていた。俺はここにいた。マジでぶっ飛んでありえねえくらいここにいた。
 多摩川の底ではなく。

 分かんだろ? あいうえおが足りねえんだ。もっとたくさんくれよ。もっと……。笹崎……。
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 あの時と同じ場所でチュー子は同じメシを頼みやがった。チキンのトマトソースジェノベーゼ定食。俺はクラブサンドを頼んだ。店員は浮かない顔をして持ってきた。彼女は露出狂みたいな服。俳句を考えた。八月のクラブサンドのへへ、へへへ。盗作ですよ。マジで超ごめん。五十五万円で手を打ってよ。
「あのさ、大丈夫?」
「洋画だと、『自分の心配をしろ』っていうシーンだ。テーブルの下に銃、スーツケースにはコカイン」
 間。気詰まりな沈黙だ。彼女は紙ナプキンでコップを包んだ。
「あれ、嘘だったよ」
「どれ?」
「サカシタさんがさ、上手く口聞いてくれるってやつ」
 正直言って俺は興味がマジでねえから、ナイフに映った自分を見くさってた。歪んでんのはどっちだ?
「全部嘘だったの、全部ね。あの人がさ、自分の奥さんを、離婚してんだけど、その……経済的にね……奥さんの、あんたの、いや、笛吹くんの」
「剣をこの胸にまっすぐ差しやがれアマ」
「は?」
「『単刀直入』」
 隣で苛ついたサラリーマンが塩の瓶を弄くり倒しながら奥さんに弁解していた。今忙しくってさ。塩を回すのに。人事部なんだろ。
「サカシタさんに会いに行ってよ。どうしてもいいから。お金は払うよ。咲ちゃんがどこいるかもさ……」
「会いに行くんだな」
「会いに」
 彼女はそう言って、名刺サイズの紙と封筒を差し出した。またカネだ。どうしようもなくこの世はカネだった。俺はそれを拝受して、そのまま店を出た。彼女は気がついたらどっかに消え失せていた。多分俺が「消え失せろ」と言ったからだ。どっかから浮浪者の尿の臭いがすげえなあ、と思ったら近くにいやがった。俺はそいつを砂漠のワシよろしく叩きのめしてやろうかと思ったが、何かやる気がぶっ飛んで消え失せちまった。ひどく厚い財布から五万円だして、そいつにやった。大五郎でも買えよ。ちゃんと生きてくれよ。
 サカシタさんなるクソちんぽ野郎は勝どき駅にすぐ近え馬鹿みたいな埋立地でカネを稼いでいるらしかった。俺はそれの近くの中学校を調べた。理由はねえよ。ロリコンに用はありません。へへ。
 三日が経った。四時になった。クソみてえに暑い夕方だった。Tシャツが汗で張り付いた。蚊が耳元を飛んだ。どっかの蝉が泣き疲れて死んだ。
 俺は家を出た。髪をモヒカンにも剃れねえ。昔、腕利きの殺し屋だったこともねえ。嘘はつけねえし、大統領候補を殺したいわけでもねえ。でも俺は行くんだぜ。カッコいいら?
 真面目な話。
 ホームセンターで圧力鍋を買った。
 別のホームセンターで釘とガムテープを買った。
 途中のスーパーでアイスをしこたま買い、ドライアイスをしこたまつけてもらった。
 勝どき駅徒歩五分のコンビニでカップラーメンを買って、中身を捨ててからお湯を汲んだ。
 準備が整ったってわけだ。
 分かんだろ。
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 魂は二十一グラム。シロップは十六グラム。女の子はお菓子でできている。残り五グラム。あの子の脳みそに埋まっていた小さな塊だ。あんたから見りゃただの水なんだろ。水死体になって引き上げられる。体重は生前よりずっと増えてますね。あの子の体が人気だったんだ。川に潜む魂達が我先にと駆け込んだのさ。カンダタみたいに。ぶどう棚じゃ我慢できなかったんだ。
 僕は水死体を指差す。あれが僕の|恋人《ラヴァー》です。家事はできません。他のことは全部|覆って《カヴァー》くれる。|賢い《クレヴァー》女の子。きっとまだ|亀裂《クリーヴ》は未発達。
 ふざけんじゃ無いよ。遠くに行っちまってさ。でも俺がそれを見るこた無えんだろうな。会社員が出てくる。僕の服を汗が伝って、俺の姿をみんなが胡散臭そうに見やがってよ、ちょっとずつ俺はどっかに押し込められてよ。俺の姿がさ。夏の夜が迫っている。紺色の空は何のモチーフなんだっけ? 視線の圧力が俺を押しやがってさ。
 気がつきゃ、すすきが生えた空き地。橋の袂に抱かれて。倉庫が何個も並んでいる。海に面した倉庫だ。誰も使っていない。荒れ放題の捨て放題。
 僕は釘の入った圧力鍋を持って、倉庫の裏に隠れた。
 じめじめした風が吹いた。
 あと少し時間があんだろ。僕は思う。なあ、こんな話を聞きたくねえかな。ちょっとアホみてえな話なんだけど、俺としてはマジでガチ真面目にぶっ飛んで話してえんだよ。
 誰も笹崎のことなんて覚えてねえんだろうな。死んだらわざとらしく悲しむのさ。ちょっと話し始めよう。長いかもしんねえ。でも必ずここに戻ってくるんだ。時間は閉じて、無限にループする。まき上げられた時間の中に彼女は住んでいる。「あ?」という、あの疑問符をぎこちなく、浮かべて。記憶はどんどん抽象的になる。いつもここに帰ってくる。だから苦しみはない。だから安心できる。
 だからずっと話したくなる。
 だからいらつくんだ。
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 昔の人は、正月に夏用の服を貰ったら、自殺をすることをやめていた。馬鹿げた話だ。僕はそう思う。彼女もそう言っていた。馬鹿げてる。彼女は笑った。そんなんだから川に落ちて死ぬのよ。
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