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極彩

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 蛇足だよな。知ってるよ。ホントは終わるつもりだったんだぜ。でも、どうしてかな。離れてくんねえんだ。俺は俺から離れられねえんだ。つまんねえことを書いてきたつもりだぜ。誰にも見て欲しくなんて無えんだよ。でも、俺は結局俺をずっと見続けるんだ。最初から分かってたことだ。『バミューダ』を越えようとしてんだ。僕は僕に聞いてたんだ。嘘だろ。知ってるよ。整合性くらい、簡単にくれたっていいじゃないか。分かってくれんだろ。俺もさ、所詮は、あの白い芋虫を好きになりきれなかったんだよ。あっちに行きたかったんだよ。真面目に。
 倉庫の裏には、紫の掃除用具入れがあって、そこには馬鹿みたいなイニシャルがたくさん刻んであった。『バッド・グループ』とシールが貼ってあった。
 俺はそこに『S.S』と刻んだ。
 圧力鍋に釘を入れた。ドライアイスを入れた。お湯を注いだ。すぐに蓋をして、圧力鍋をガムテープでぐるぐる巻きにした。マヨネーズ会社ならここで二十分待った後の物が出てくる。ここにサカシタはいねえんだ。俺は知ってんだ。
 でもさ、俺はここにいんだ。分かんだろ。なあ、もうやめにしてえんだ。俺はやめるよ。
 時間が経った。僕は圧力鍋の近くに立った。目を瞑った。遠くで波の音が聞こえる。暖かい空気を巧妙に避けて僕のところまでやって来た。彼女の吐息がここに混ざっているのだろうか。そうだったらいいのだが。最後に俺は何を考えるんだろう。俺は考え続けている。俺はどうしてこうなったんだろう。何が悪かったんだろう。知っているんだ。結局のところ、僕を決めるのは俺の内部じゃない。俺が俺に言う言葉じゃない。俺があいつらに、あんたらに言う言葉でもない。あんたらと俺の接点。
 題名。
 最後までこいつなんだな。結局のところ。題名が悪かったんだよ。笹崎。

 ……おかしいぞ。なげえぞ、なあ、長えよ、なんだこれ、長い、内圧ってそんなかかんのか? おい、どうなってやがる。俺ァ目ェ開けた。夜が広がっている。すすきがなびいている。足元には圧力鍋があって――。

 そいつが、すぴー、という間抜けな音を立てて白い煙を吐き出した。たっぷり二分間吐き続けた。
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 ふざけんじゃねえよ、ねえ、参っちゃうよ。こんなん参っちまってどうしようもねえよ。クズが生きててもしょうがねえだろ? なあ、参っちまうよな。こういうのって、ちゃんとピリオドがつくもんだろ? なあ、オスカー取れねえよ。ハリウッドが仰天するクソみてえなノンフィクションが五本でも三百十四本でも出来る予定だったんだよ。こんなんしらねえよ。死なせてくれよ。俺は笑った。その後で僕は発作的に泣き、再び発作的に笑った。やんあるよなあ。
 波の音が聞こえる。遠くから、段々大きくなって。汽笛が聞こえる。白い蒸気が夜の闇に浮かび上がった。運動会の開幕を告げるみたいに。
 白い船だ。ゆっくり海の上を滑っていく。なだらかに移り変わる、ぬらりと黒く光る海の上を切り開いていく。街灯の光が、海にとろとろと輝いている。
 ゆっくり船が近づいてくる。海の匂いを運んでくる。石油の匂いを運んでくる。たくさんのものを運んでくる。どんな匂いでも孤独にならないために。波が岸壁にあたる、かすかな音が続く。船の胴体が――紺色に見える胴体が――きらっと光る。小さな漁船だ。
 甲板には、足の踏み場もないほどに植木鉢が置いてある。そこにはシロツメクサが咲き乱れ、紫色のパンジーが間を埋め、黄色い月見草が申し訳無さそうに首を揺らし、その隣には真っ青なアネモネが母親のように咲き誇っていた。
 三毛猫が、フジツボの付いた手すりの上でみゃあと泣き、体をくねらせて、船体の後ろに置いてるピアノの上に降り立った。不思議な和音が鳴らされた。ピアノの蓋に街灯が乗り移って、暫く休みながら、穏やかな音色をいくつか鳴らし、そしてまた元の世界に戻っていった。ピアノの椅子には身なりのいい男が座っていた。白と黒の落ち着いたスーツを着ている。彼は優しくにこりと微笑んだ。額には三つの弾痕が残っている。彼が手元のスイッチを入れる。
 ピアノの一番上からは電線が張られていて、そこから、船の先頭まで、火の消えた白熱電球が並んでいた。それらが一斉に、オレンジ色の光を放ち始める。船体の白がゆっくりと黄色っぽく浮かび上がる。影が物悲しそうに、壁の隅に動き始めるが、やがて安心できる場所を見つけた猫のようにうずくまった。夏の風が穏やかに電球を揺らし、その度に、全ての色彩は少しづつ要素を交換し合った。金銭から切り離された古代のフリーマーケットみたいに。
 遠くから、何かの花びらが風に乗ってやって来た。白いひらひらが船を包み込んだ。それは花びらではなくて、どこかの店の食券なのだ。走馬灯のように、幻燈のように、光がまたたき、影を作り出し、この世の全ての形を順繰りにうつしていった。
 その一つは壁に投影されて、二人の人を作り出す。黒髪の、ふっくらした少女と、寂しそうな顔をした筋肉質の男を。初め、船の両端にいた彼らは、段々中心に歩を進めていく。なだらかな坂を転がり始めるみたいに。彼らはお互いを認め合って、オレンジ色の光のなかで微笑んだ。
 男が泣きそうな顔をして、乙女は短く首を振った。彼女は朱色のセーターを着て、そこから、黒いカラスや白いお腹のつぐみが次々と飛び立っていった。空間に浮かぶ線をなぞっていく。つぐみが別れを告げる度に朱色は濃くなり、カラスが産み落とされる度に朱色は薄くなった。
 彼女たちは笑い合っていた。額に三発の弾丸を埋め込まれた男が楽しげなピアノを奏でた。テンポが隣同士の音符で持ち寄られ、差し引きはちょうどゼロになるのだ。三連符と六連符は譲り合い分け与え、シンプルな階段状の音が、夜空をほうきで掃くように流れていった。花が咲き乱れている。男女は幸せそうに手を取って、電灯を見つめていた。
 船に付いている、まん丸い窓から、顔が覗いていた。白い男の顔だった。彼の瞳が潤んで、夜の光を反射して、橙色の世界を移して、まためまぐるしく変わって、そして、最後に、彼の口元に笑みが浮かんだ。
 船が進んでいく。黒い波間を突き進んでいく。うごめく同じパターンの波の間を揺られていく。段々と光は弱まっていく。遠くでサイレンの音が鳴り響く。冷えた陸の風が船体に吹きつけた。空中に儚げに浮かんだ凧みたいに、吊るされた電球が揺れた。
 丸い窓が寂しそうに閉じられた。誰かが――あの小部屋にいる誰かが――窓を閉じたのだ。その音はぎょっとするほど大きく、手をつないでいた男女はなんだか申し訳無さそうに手を離した。電灯の光が段々弱まっていく。
 船は遠ざかっていく。カラスとつぐみが出会い、その度に、二つの鳥は一つに混ざり合い、夜の闇に溶け込んでいく。猫が諦めたように、にいぉ、と一つ鳴いて、誰の手も届かない場所にすうっと消えていった。ピアニストは額を触って、血が流れ出ていることを確認してから、やれやれと肩をすくめて、そして海に飛び込んだ。水音も波紋も立たなかった。ただ音が止んだ。電灯の光が消えて、明るさの残滓だけが残った。動きのある残像のように、しつこく残り続けていた橙色も、やがて紺色に溶けていった。
 船が段々沈んでいく。気がつけば男と女はまた別々の方向に向かって歩き始めて、月の光が、船の胴体に痩せた男のような影を落とし、それを太らせながら進ませている間に、彼らはどこかに溶け込んでしまった。白い花びらは全部が水の底に沈んでいった。
 水は船の手すりまで迫っている。ピアノの蓋が何かの拍子にばたんと閉じられた。船の上から音が無くなった。船の上を風が通りすぎた。今や全てが暗くなった。最後の時のために光を取っておくみたいに。電球を吊っていた電線は甲板に叩きつけられ、全てのランプが無音のまま粉々になった。それを拾ってやる人間はもう船にはいなかった。
 海水が船に流れ込んでいく。船は止めようがなく沈んでいく。ぬるぬるとした海が飲み込もうとしている。全ては抗えない宿命みたいに進んでいく。月見草が潮に飲まれ、それを見届けてから青いアネモネも、ぐっと青を濃くして消えていった。パンジーの花が、何かの印みたいに花びらを散らしたが、それも海の底に行く。
 水位が上がっていく。船の先頭が消えていく。やがて船の先が――ゆっくりと――波を立てずに――消えていった。
 一輪のシロツメクサが浮いている。子供の小指の爪ほどしか無い花びらをぎっしり抱え込んで、海に飲み込まれず、シロツメクサが漂っている。海面に、巨大なゾウリムシみたいな波が立った。花が遠ざかっていく。黒いキャンバスに、ぽつんと白い花が残された。
 いつか僕はこの光景を思い出すのだ。どこかの薄暗い、蜘蛛の巣が張った部屋で、タンスの物陰に隠れた、ナイフを持つ男の狂気じみた視線を感じながら。
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 つぐみが三度鳴いた。きっきっきっ、と聞こえた。ずっと昔に始まったインデントの終わりを告げるみたいに響いた。
 全てが終わったのだ。全てが夢のように消え去り、誰もが誰もを忘れたように現実に戻って行く時が来たのだ。おもちゃ箱がそっと閉じられて、執行猶予がついに無くなり、皆がまともに戻る時が来た。雄の三毛猫は適正な確率で生まれ、宇宙の外には何もない世界に戻ってきた。
 僕のバイト先がある世界に。全ての人がありとあらゆる考えを持ち、それがあの糊によって統合されていく世界に。笹崎のことをみんなが忘れる世界に。
 もし、僕が神様だったら、こう言うつもりだ。
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 彼女の靴を履かせてくれ。
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