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その5

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 Ⅴ

 重い瞼を開けると、目の前はまどろんだ白い光に包まれていた。それがあまりに優しく、柔らかい光だったものだったから、もう自分は死んでしまったのかと思ったけれど、頬をつねってみてもちゃんと痛覚も働いている。だから多分きっと僕は死んではいない。だけど、この白い光は一体何だろう。そう思いながらあたりを見回すとカーテンが全開になっていたことに気付く。そうか、朝日が柔らかく、優しい光を発していたのだ。
 朝日を目にするのは久々だった。朝日とは、こんなにも優しく、柔らかい光だったろうか。いや……もう思い出せない。朝日の感触どころか、この頃はたまに自分の名前すら忘れそうになることがある。なぜなら、ひきこもり生活は誰からも名前を呼ばれることがない生活であるからだ。……いや、チャットサイトに通いつめれば、ペンネームは呼ばれることはあるけれど。でも、本名を呼ばれたことは久しくない気がする。
 どんな夢かはもう忘れてしまったけれど、随分と長い間、怖い夢を見ていた気がする。内容は断片すら思い出せないけれど、ひどく怖い夢だったことは覚えている。首元は冷や汗でびっしょりだ。あまりに怖いせいで居ても立ってもいられなくなった僕は、部屋の中をぐるぐると回った。だけど色々回ったところで恐怖が払拭されることはなかった。開いたカーテンの向こうにある施錠された窓を開けてみる。開けて一歩外に踏み出してみる。庭があった。……いや、当たり前といえば当たり前か。家の窓を開けた先にあるのは、大体が庭か道路だ。山や川、海が広がっている家もあるのかもしれないけれど、あいにく僕の実家はそこまで田舎ではない。
 母の趣味のガーデニングは、僕がひきこもっている間にどうやら随分と深化したらしい。植木鉢や花壇には、僕が見聞きしたこともないような花々がたくさん植えられている。その花の一つ一つが朝日に照らされ、風に揺られながら咲き乱れている。
 その懸命に咲き乱れる様が、今を精一杯楽しもうと生きている人間の様を彷彿させた。
 僕は、今を生きているだろうか。今を精一杯楽しもうとしているだろうか。
 そう自問していた頃、リビングの方から母親の声が聞こえた。どうやら朝ご飯が出来たらしい。ガーデニングをあとにして、窓を閉めたあと、僕はリビングに向かった。いつも朝ご飯といえば菓子パンを食べるくらいだったから、久々のちゃんとした朝ご飯だった。卵焼きのにおいがリビングに行くにつれて立ち込める。ああ、母は卵焼きを朝ご飯に作ってくれたのだ、と思いながらテーブルに座ると、目の前にあるのはスクランブルエッグだった。
「ごめんね武雄。今日はお母さん、卵焼き作るの失敗しちゃったのよ」
「いいよいいよ。たまにはスクランブルエッグも食べたかったことだし」
「あらそう。ならよかったわ」
 そう言い放ってガーデニングの手入れに向かった母を尻目に、僕は朝ご飯をかっ食らう。おいしい、おいしい、おいしい。何を食べてもおいしい。夕ご飯やお昼ご飯は、母の作る手料理はあんなにもまずく、時折口に入れるのも憚られるレベルであったのに、この朝ご飯は、驚くことに何を食べてもおいしいのである。僕は午前7時から起きていたため、午前9時に食べる朝食に対しては空腹というスパイスが
よく効いているせいなのかもしれない。だけど、それにしたところで何を食べてもおいしい。こんな朝食は生まれて始めてだった。
 朝食を食べ終えた僕は、台所の流しに食器を水に浸けた。
 その後僕は、リビングの左手にある、施錠されたドアの向こうの自室へと戻る。pちゃんとのskype中だった。
「saitoさん、何してたんすか。30分も……」
「悪い、朝ご飯食べにリビング行ってた」
「saitoさん、ひきこもり脱出っすね。外出たじゃないすか」
「馬鹿を言うな。ひきこもりは家の外に出ないから引きこもりだ。庭は家の範囲内だから庭に出ることはひきこもりじゃない」
「はは、でもよかったじゃないですか。ちゃんとお外に出られて。日の光も久しぶりに浴びれて」
「確かにそう言われてみればそうなんだけどな」
「じゃあ俺、そろそろ勉強しなきゃいけないんで、skype落ちますね。妹の件、今週の木曜ですからね。明日ですからね。覚えておいてくださいよ? 」
「わかってるって。じゃあね」
「乙っす」
 そう言ってpちゃんのskypeはオフラインになった。
 童貞ひきもりニートに予定が出来た。たったそれだけのことなのに、こもりきりの毎日も少し活気づいた気がした。
 久しぶりに女の子に会えるぞ、ということがモチベーションにつながっていたことは言うまでもあるまい。あわよくば付き合えたらいいなと僕の心の内の下心が囁く。
 ネットでもコミュ障を発揮していた僕には、skypeのフレンドはpちゃんしかいない。だからpちゃんがオフラインになってしまうと、skypeではすることがなくなってしまう。途端にやることがなくなった僕は、お気に入りにの絵師のHPやpixivを巡回した。だけど全く更新されていない。退屈だ。暇だ。暇になった僕は日課の2chのvip板に行った。日課だったというのに、ここ数日行っていないだけなのに、もう随分と行っていない気がする。
 書き込みを見る。久しぶりに見るvip板は、「以下、無断転載禁止でVIPがお送りします」という名前ばかりの奇妙な掲示板だと思った。誰も名前を持たない。名前を持つ者は「コテ」といわれ、軽蔑の対象にもなっているという、奇妙な掲示板。
 僕はルーチンワークのように「学歴」スレをクリックした。スクリプトのように毎日立てられる通称「学歴」スレ。大学の偏差値別にアルファベットでランク分けされた表が貼られ、○○大学□□学部は△△大学▽▽学部よりランクが低いだとか、あの大学はFランだとか、あんな大学に入る奴は馬鹿だとか罵り合うスレだ。少し前までなら、僕が通っていた大学がどのランクに入っていたのか過剰に気になっていたところで、もし自分より上のランクの大学に在学している人間が居ようものなら、親でも殺されたかのようにそいつを叩いてしまいたい気分になっていたところだ。
 だけど今は学歴スレを見ても何とも思わない。午前の十時だというのに、みんな仕事も勉強もせずによくこんなに頑張って書き込んでいるなという関心するくらいだ。それ以外は特に何も思わない。というより2ch自体がとてもつまらなく感じる。なぜ彼らは全て「名無し」なのだろうか。なぜ名前がないのか。名前がなければ、いくらスレで気があったとて、次の日、いや別のスレになれば交流できなくなるではないか。せっかく珍しく気が合う人が見つかったのに、次の日には会えなくなるというのはとても寂しいことだと心の奥底では思っている自分が居たことに気付く。
 pちゃんと初めて知り合った時のことを思い出していた。出会いはチャットサイトだったけど、そのチャットサイトは2chでURLが貼られていたサイトだった気がする。記憶が確かなら、こんな痛い奴が居ると監視目的(いわゆるヲチ目的)で、例のチャットサイトのURLが貼られていたはずだ。
 そのチャットサイトに面白半分で入室してしまった。それが全てのきっかけだったように思う。チャットサイトの住人は2chとは違って、否定や罵倒から入るような人は少なく、物腰が柔らかで、喧嘩をすることを厭うような、なんというか温厚な人が多かった。pちゃん以外ともたくさんチャットをしたし、親しくなった。今のところskypeをするほど仲良くなったのはpちゃんのみだけど、チャットサイトに行けば親しく接してくれる人もたくさん居るし、skypeのidを聞けば教えてくれる人だってたくさんいるだろう。
 そのチャットサイトに出会ったとき、僕はこんなにも善良な人間が、まだネットには残っていたのだと感嘆した。そして同時に、日頃2chでレスをしあっている名前もわからない匿名のあいつらは、人を否定して罵倒するばかりの、ろくでなしであったことを悟った。……ろくでなしというのは言い過ぎかもしれないけれど。
 そんな善良な人間を見た後となると、2chの書き込みを尚更見る気にはなれなかった。2chのタブを閉じた僕は、ソシャゲ「ガールズフレンド(本)」の攻略wikiのページに目を落とす。相変わらずガールズフレンド(本)の運営はユーザーの課金アイテムを何とか絞りとろうとあの手この手でシステムを改悪していくろくでなしだったが、いつもは怒るのに今日は不思議と怒る気になれなかった。
 一通り攻略wikiの新着ページに目を通した後、僕は今日が水曜日であったことに気付いた。pちゃんの妹の楓さんと会うのは、もう明日に差し迫っているのだ。僕は外に出られるのだろうか。というよりこの何か月も髪を切っていない風貌で行って、嫌がられないだろうか。……いや、流石に嫌がられるだろう。でも、どうしよう。散髪屋に行くのも怖いし、美容院に行くのも怖い。どうしよう、どうしよう。
 部屋の中をぐるぐると回りながら僕は何か良い策がないかと考えた。だけど思い浮かばなかった。それに、髪があまりに伸びすぎたせいで、最近ドライヤーで髪を乾かすのがかなり面倒になってきている。僕の生活に実害をきたすレベルで伸びている髪となれば、切るしかあるまい。しかし切るために外に出るのは怖いし、それを乗り切ったとて散髪屋に行くこと自体がたまらなく怖くて仕方ない。しかし髪はいい加減切らねばらない。
 読まないエロ漫画に小学校の時に使っていたはさみがまぎれていた。それを目にした僕は、はっと閃いた。そうだ、髪は自分で切ってもいいのだ。思い立った僕は、自室のドアを開けてリビングに向かう。リビングには確か髪を切る用のはさみがあったはずだ。小さい頃、散髪に行くのをあまりに嫌がった僕を見かねて母親が購入したはさみがあるはずだ。
 リビングのペンスタンドを漁る。だけどいくら探しても髪を切る用のはさみは見つからない。その様子を見ていた母親が僕に話しかける。
「あんた、何しとるん? 」
「はさみ……」
「はさみ? 」
「髪を切る用のはさみ。お母さん、どこにあるか知らない? 」
「知らないわね。というか武雄、髪を切りに行きたいの? 」
「そうだけど。いい加減この髪も長くてうざったいし」
「ふうん。そうなの」
そう言って母親は、僕の前に五千円札を申し訳なさそうに置く。
「せっかく良い天気なんだし、髪、切ってきなさい。いつまでもそんな長い髪してると、ドライヤーも面倒だろうし」
「いやそうなんだけど、……いやそうなんだけど、ひきこもりというのは外に怖くてたまらないから自宅にひきこもるのであって、お金だけ与えられてもひきこもりは解決しないよお母さん」
「あらそう。でもあんた、ひきこもりじゃないじゃない。だって先ベランダに出てたじゃない。日の光をちゃんと浴びてたじゃない。外に出れたらひきこもりじゃないんだったら、あんたもう外に出てるんだし、ひきこもりじゃないじゃない」
「いや……そういうことじゃ……」
「じゃあなんなの。……もう、あんたもいい歳なんだし、いつまでもひきこもるなんて金輪際やめなさい。みっともないったらありゃしない。隣の家の和馬くんは東京の良い大学を卒業して、今年の春には海外にも支社を持つ……何だったっけ、とりあえずすんごい大企業で働くってのに、あんたときたらこの体たらくは何なの」
 沈黙。何なの、と言われても言い返す言葉がなかった。本当はこんなんじゃ駄目なことくらいはわかってる。でも、どうにもならないからひきこもっているんだ。何をどうすれば良くなるのかさっぱりわからないし、それに何をするのも怖くて仕方ないからひきこもっているのだ。それを言おうとしたけれど、喉仏のあたりで言葉が詰まった。だから僕はだんまりを決め込むことにした。
「……まただんまり。武雄は小さい頃からいつもそうね。……もういいわ、早く髪でも切ってきなさい。はい、行った行った。いつもの散髪屋には、今からひきこもりの息子が行きますから、って電話しておいてあげるから、心配しなさんな。はい出て行った出て行った」
母親に無理矢理体ごと押し切られて、僕は家から追い出された。家のドアは固く施錠されている。家のインターホンをいくら押しても、母親は反応すらしてくれない。これからどうしよう。スマホだって持っていないし、手に握らされた五千円札だけが頼りだ。このお札をなくしてしまえば、僕は文字通りの一文無しだ。野垂れ死ぬしかない。あるいはホームレスのように生きるか。でも、そのどちらも嫌だ。だとすると、僕が今すべきことは、ちゃんと髪を切って、自宅のインターホンを押して、母親の許しを得て自室に戻ることしかない。だけど、どうしよう。周りの視線も、久しぶりにまともに浴びる太陽の光も、後方のウォーキングに励む中年女性の視線も、とにかく周りの全てが怖くて仕方ない。
 夏でもないのに冷や汗が僕の首筋を伝って地面に落ちる。その落ちた冷や汗が、誰かに見られてないかどうかすら不安だ。見られていたらどうしよう。馬鹿にされて、あいつは汗を床に垂らす不潔な奴だと町中で変な噂をされたりしたらどうしよう。お願いだ、誰も見ないでくれ、見たとしても何の感情も持たないようにしてくれ。そう願いながら、ゆっくりと後ろを振り向く。
 後ろには誰もいなかった。後方にいたはずのウォーキング中の中年女性は、とっくに僕を追い越して僕の遥か遠くにいた。
「よかった……」
思わず安堵の声を漏らしてしまう。その声が誰かに聞かれてないかと、またたまらなく不安になる。周りを見渡す。だけど、誰もいない。だから僕の安堵の声は誰にも聞こえていなかったのだ。

 ゆっくりと足を一歩ずつ踏み出してみる。右足と左足を一歩ずつ進めると、前に進む。前に進めば僕を囲む景色も変わっていく。当たり前のことだった。だけどそんな当たり前のことでさえ、随分と長く忘れていたのだ。
 一歩一歩、前に進んで行く自分が何だかたまらなくおかしくてたまらなかった。進もうとしているわけではないのに、右足と左足を一歩ずつ進めると、なぜだか前に進めてしまう。不思議な感覚だった。
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