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馬を駆けさせていた

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 馬を駆けさせていた。


 グレイは、本隊の陣に向かっていた。
 自分のところに、信じられない報告が届いたのだ。だが、詳細があまりよく分からなかった。何かの間違いのはずだ。
 陣の手前で、馬を飛び降り、そのまま駆けた。
 シエラの幕舎の前で、三つの人影が向かい合って立っているのが見えた。グラシアにコバルト、ルモグラフだと分かる。
 グラシアが、こちらに気づいたようで、こちらに視線を移す。
 それから、目線を下にした。
 愕然とした気持ちが、一気に心に広がった。
 足を止めて、立ち尽くす。
 しばらく、そのままでいた。

 さらに、しばらくしてから、グレイはゆっくりと歩む。
「間違い……ないのね?」
 三人の前まで来てから言うと、沈痛な面持ちで、グラシアが頷く。
「今、こっちに遺体を運んでいる。明日には、ここに着くだろうって」
 グレイは、再び俯くしかなかった。
「一体、何があったっていうの?」
「……どうやら、ボルドーさんは、敵軍にいた昔の知り合いのオーカーって男に会いに行っていたみたい。だけど、それがそいつの罠だったようなの。数人の男の死体とともに、そのオーカーって奴の死体もあったそうだよ。たぶん、ボルドーさんが、相打ちにしたんだろうって」
 グレイは、少しその場面を想像する。
「一人で行ったのか」
 呟いた。
「そうだね。ボルドーさんにしては、軽率な行動だったとしか言いようがないよね……」
「殺しても死ななそうな人だと思っていたのにな」
 沈黙。
「シエ……殿下には?」
 グラシアに聞く。
「私から、もう話してある。気の重い仕事だったけど……」
「どんな様子だった?」
 少しの間。
「なんというか……まだ現実を受け止めきれていないって感じだった。理解しているのか、していないのか、表情を見ただけじゃあ、私には分からなかったわ」
「まあ、当然だよね」
 また沈黙になった。

「よろしいですか?」
 ふいに、ルモグラフが言った。
「悔やむ気持ちは、私も同じです。しかし、今現状は、戦いの最中です。ボルドー殿は、言わずもがな、この軍の中枢でした。すぐに、気持ちを切り替えて、我々で軍を纏め上げることに腐心するべきでしょう」
 他の三人が見合った。
「まあ、そうだね」
「うん」
「四人が揃っているか。ちょうどいい」
 突然、別の声が割って入ってきた。
 シエラが、いきなり幕舎から出てきた。
 背筋を伸ばして、睨みつけるような表情をしている。
「グラシア、軍の体制は維持できるか?」
 シエラの言葉に、グラシアは一瞬どぎまぎしていた。
「は、はい。取り敢えずは」
「何が問題だ?」
 グレイは、完全に面食らっていた。
「ボルドーさんが担当していた仕事の引継を行うことと、彼が欠けることで起きる戦略の齟齬の修正が必要かと」
「何日で、できる?」
「そうですね……三日もあれば」
「では、四人は協力して新しい編成を主導しろ。戦略計画の新しいものを、三日以内に完成したものを私に上げてこい。私が言うことは以上だ」
 言うとシエラは、そこにいた四人を一通り見渡していた。
「何か、質問は?」
「ありません」
 ルモグラフが言った。
 もう一度場を見回してから、シエラは颯爽と幕舎の中に戻っていった。
 グレイは、しばらく呆然としていた。

「グラシア殿。実は、諜報部隊の隊長が欠けてしまったようで、ライトが判断を仰いでいます」
 ルモグラフが口を開いた。
「取り敢えず、ライトに諜報部隊の方の指揮も兼務するように伝達しておきます。よろしいですか?」
「あ、あの……軍事のことに関しては、ルモグラフさんに任せてもいいですか? 私たちじゃあ、付け焼き刃ですので」
「構いませんが……しかし今後、統括した決定権が必要になってくると思うのですが」
「そうですね……」
 グラシアは、考える仕草をしていた。
「とにかく、今後は定期的に話し合いをすることにしましょう。それでも、難しいようなら、また方策を考えるようにしましょう」
「承知しました」
 ルモグラフは、立ち去っていった。

 三人になる。
「殿下……どうしたんだ」
 グレイは疑問を口にした。
「きっと……こういう時だからこそ、ボルドーさんとの約束を守ろうとしているんじゃないのかな。ほら、覚悟ってやつ」
 唸る。
「悲しいのを必死で堪えているんだよ」
「そうなのか」
「ボルドーさんが抜けた穴は、滅茶苦茶大きいけど、私たちで何とかしなくちゃあね。私たちが、殿下を支えないと」
「そうだね」










 セピアは、馬を駆けさせていた。
 単騎だった。自分の配置されていた部隊から、勝手に抜け出してきていた。
 目指してるのは、本隊だ。
 駆けていると、別の道から、別の騎馬が見えた。同じ方向に馬を走らせている。
 乗っているのは、ペイルだった。
 目が合った。
 お互い、一つ頷いた。
 それから、ほぼ併走のかたちで、二人とも無言で馬を走らせた。
 やがて、本隊のいる砦が見えてくる。
 見張りに下馬を命じられたので、馬を下りる。
「どこの所属の者だ?」
 ここまで来て、どうやって中に入るか考えていなかったことに気がついた。思考を働かせたが、何もいい案が思い浮かびそうもない。
「特命だ」
 後ろにいたペイルが言って、セピアの前に出る。それから、懐から小さな紙を取り出していた。
「俺は、ボルドーさんの部下だ。緊急の用があって、ここに入らなければならなくなった。これが、通行証拠だ」
 見張りが、差し出された紙を見る。
「見本と照合してくるから、少し待っていてくれ」
「急いでるんだよ」
「駄目だ駄目だ」
 ペイルと見張りが、問答をしている中、セピアは砦の中を見た。
 三十歩ほど先を、グラシア、グレイ、コバルトが横切って歩くのが見えた。
「グラシア殿!」
 セピアは、手を挙げて声を出した。
 三人が、こちらに目を移す。
 あの三人の知り合いとなると、見張りも何も言えないだろう。セピアは、そのまま駆けだした。
「どうした? お前等、何でここにいるんだ?」
 グラシアが言う。
「シエラに会わせて下さい」
 セピアは、すぐに言った。
 グレイとグラシアが、少し目を見開く。
「二人とも、もう知っているんだな」
 セピアは、少し黙ってから頷いた。
「気持ちは分かる、でも駄目だ。今、殿下は、ボルドーさんと約束した、自分の覚悟と戦っているんだよ。お前たちに会ってしまったら、気持ちが揺るぐかもしれない」
 セピアは、首を振る。
「シエラにとって、ボルドー殿がいなくなってしまったことというのは、約束だからというだけで乗り越えられるようなものではない」
 思わず、声が大きくなる。しかし、そうとしか思えない。
「お願いします」
 いつの間にか後ろにいた、ペイルが言った。
 二人で、頭を下げた。
 しばらくの間。
「いいじゃねえか、行かせてやろうぜ」
 コバルトの声。
「あんたね」
「嬢ちゃんとの付き合いは、俺らより、この二人の方が、よっぽど長いんだ。俺は、この二人の意見の方が、尊重されるべきだと思うがな」
 グラシアとグレイは、ほぼ同時に唸った。

 少しして、グレイが息を吐いた。
「さっきの殿下は、いい兆候とかじゃなくて、むしろその逆かもしれないかもね」
 そう言って、グラシアを見る。
 グラシアも息を吐いた。
「分かったわ、行きなさい」
「ありがとうございます」
 二人が同時に声を上げた。





 シエラの幕舎に入った。
 シエラの幕舎は特別製で、他よりも大きい。入ってすぐに、大き目の空間になっていて、大きい机と椅子が並べられているのが見えた。生活空間ではなく、会議の間のようだった。。
 奥に、まだ空間があるのか、入り口のような所があり、そのすぐ横に、マゼンタが立っていた。
 目が合う。
「あの……」
 セピアが、どう言おうか考えていると、マゼンタは一つ頷いて、近づいて来た。
「宜しくお願いします」
 そう言うと、幕舎から出て行った。
 それから、奥に進んだ。
「殿下、セピアとペイルです。入っても宜しいでしょうか?」
 奥の入り口の前で言った。少し待ったが、返事はなかった。
 一度、ペイルと目を合わせる。
「失礼します」
 入って、すぐに驚いた。
 中は、真っ暗だった。
 手前の空間よりも小さい部屋だった。分厚い外幕を使っているのか、日の光を、ほぼ遮断しているようだ。灯りも、何もなかった。
 誰も、いないのではないか。
 寝台があって、棚がある。机があり、積み上げられた書物がある。
 その時、あるか無きかの小さな音が聞こえたような気がした。
 寝台と棚の隙間に、何かがあるのに気がついた。
 膝を抱えてうずくまっている、小さな人影だった。
「殿下?」
 セピアは、それに近づいた。
 人影が、顔をゆっくりと上げた。
 瞬間、セピアは胸が締め付けられるような感覚に陥った。
 シエラの顔が歪んでいた。頬は、すべてが濡れていて、唇は震えている。潤んだ瞳が、こちらに向いた。
「うう……」
 呻き声。
「シエラ」
 セピアが言うよりも先に、胸に衝撃があった。
 シエラが、飛び込んできていた。
「うああああああ」
 慟哭。
 それが続く。
 セピアは、何かを言おうとして、すぐに止めた。慰める言葉など、ありはしない。
 セピアは、力一杯、シエラを抱きしめた。
 自分にも、涙が出ていた。










 じっと、そのままの姿勢でいた。
 何度も、しゃくりあげていたシエラも、随分収まったようだ。まったく動かなくなっていた。
 顔をのぞき込むと、眠っていることが分かった。
 セピアは、何とも言えない気持ちになる。
 この顔だけを見ると、やはりまだまだ、シエラは子供なのだと思うしかない。いったい、この小さな体に、どれほど大きなものを抱えているというのか。
 ふと気になり、セピアは座った姿勢のまま振り返った。
 ペイルが、入り口の所で正座していた。両の握り拳を、膝に置いて、俯いている。こちらの視線に気がついたのか、顔を上げていた。
 セピアは、声に出さずにシエラが眠ったことを伝えると、寝台の上に、シエラを運んだ。
 それから、二人で幕舎を出た。
 グレイとグラシアが立っていた。
「どうなった?」
 グレイが言う。
「眠られました」
「そう……」
 二人ともに、暗い表情だった。
「戦いをやめたいとか、言ってなかった?」
「いえ、何も……ただ、やめることはないと思います」
「……どうして、そう思うの?」
「根拠は何もないのですが……殿下なら、そうするだろう、と思うのです」
 グレイが、腕を組んだ。
「実は、さっきの声、聞こえてたのよね」
「え?」
 さっきの声とは、シエラの慟哭のことだろうか。
「まあ、ここで微かに聞こえてただけだから、他には聞かれていないはずだけど」
「ああ……」
「それで、考えてみたんだけど……あなた達、殿下の近衛部隊に入ってくれない?」
 グラシアが言った。
「殿下の精神面を補助できるのは、あなた達しかいないと思うの」
「ですが、それは……」
「ボルドーさんは、殿下の精神を必要以上に追い込もうとしていた。それは多分、王としての資質を計ろうと、あるいは鍛えようとしていたんだと思う。だけど、それは本当に必要なのかなって、さっきの声を聞いて考えさせられたの」
 一つの間。
「ボルドーさんがいなくなってしまった以上、殿下の心の支えは、必要な事柄だとは思うのだけれど……」
 セピアは考えた。それは、願ってもないことではないか。あのような状態のシエラをそのままにして、戦いに集中ができるとは思えない。
 セピアは、二人を見た。
「分かりました。私でよければ」
「うん、頼んだよ」
「あの……」
 今まで黙っていたペイルが、声を出した。
「ん?」
 ペイルは、懐から紙の束のようなものを取り出した。
「実は、俺はボルドーさんの指示で、西の小城の、兵達の遺書を保存してある倉庫に行っていたんです。そこで、これを見つけて驚きました。用事をすませて本陣に戻る途中で、ボルドーさんのことを聞いて……思い立って引き返して、これを持ってきたんです」
 そう言って、紙の束をグラシアに渡した。
 グラシアの目が見開く。
「ボルドーさんの遺書?」
 グレイも、驚いたように紙の束に目を移していた。
 セピアも、横からそれを見た。
 その束は、大きく三つに分かれているようだ。表紙には、誰に宛てているのかであろう文字が書かれている。

 一つ目には「軍全体へ」と書かれている。二つ目には「元十傑の者達へ」と書かれている。

 最後の一通には「シエラへ」と書かれていた。




 日が沈んだ。


 夜に幕舎の中で、グラシア、グレイ、コバルトが集まった。
「取り敢えず、軍全体へっていうのを先に中身を確認しておこうと思ってね。発表するかどうかも、三人で精査してから決めておきましょう」
「ルモグラフさんは?」
「元十傑へっていうのも、一緒に開けようと思ってるからさ。ま、後で意見は聞くけどね」
 グラシアが言うと、二人が頷いた。
「ダークは呼んだ?」
「駄目だ、興味ないってよ」
 コバルトが首を振る。
「ほんと、協調性のない男」
 少しの苦笑が起きる。
「殿下に宛てたのは?」
「もう殿下に渡してある。中身は、見てないから分からない」
「そう」
「じゃあ、開けるよ」
 言って、グラシアは、軍全体へと書かれた封を開いた。
 一体、何が書かれているのだろうか。考えながら、紙を開く。
 そこには、大きい字が書かれていた。

 特になし。

 思わず、グラシアは前に倒れそうになった。
「どうした、どうした?」
 二人にも、紙を見せる。
 二人ともに、苦笑する顔になった。
「どういうことだよ、おい」
「待って、まだ文章があるよ」
 グレイに言われて、もう一度紙を見直すと、大きい字の下に、小さい文字での文章があることが分かった。大きい字が、あまりにも印象が強かったので、すぐには目で捉えられなかったのだろう。
 それを見る。

 戦況というものは、刻一刻と変化するものだ。これが開けられているということは、わしは既に過去の人間なのだろう。過去の人間である自分に、何か言えることはない。故に、戦略について、わしから言うことは特に無いと書いておこう。
 ただ、もしも、わしの発言の、何かしらの影響力か、或いは発信が必要だというのなら、遺書にこう書いてあったと、好きに捏造しても構わない。これを見ている者達で相談して決めるといい。わしは、お前たちを信じている。以上だ。

 グラシアは、読み終えてから、紙を二人に渡した。
「これ、大勢いる中で開けてたら、やばかったね。何考えてんだよ、あのじいさん」
 二人が読み終えるのを待った。
「じゃあ、次はこれだ」
 元十傑の者達へ、と書かれている封を出した。
 また、何か不意打ちのような文面があるのではないかと身構えたが、特に無いようだ。
 文面を見る。

 まずは、始めに謝っておこう。半分、発起人のような立場の自分が、中途にて抜けてしまうことに。本当に、申し訳がない。
 後のことは、お前たちに頼むしかない。シエラを、本当に支えてやれることができるのは、お前たちだけなのだ。
 そして、本当に勝手なのだが一つ頼みごとがある。もしお前たちの中の人数が、残り一人になってしまった場合、その時は、その残った者が、何もかもをかなぐり捨てて、シエラを連れて逃げてほしいのだ。お前たちが全員いなくなってしまえば、シエラを支えてやれる者がいなくなってしまう。
 一応、わしが、もしもの時のために計画していた逃走経路についての概要も記しておく。
 これを頼めるのは、お前たち以外にはいない。
 宜しく頼む。
 以上だ。

 先ほどと同じく、読み終えた後、紙を二人に渡し、二人が読み終えるのを待った。
 それから口を開く。
「殿下の心配ばっかだね」
「ほんと、本当の孫みたい」
 グレイが、目を細めて言った。
「で、どうする」
 しばらく経ってから言った。
「私は、いいよ。まあ、どうせ元々根無し草だ。どこへ行っても同じようなものだろうし」
 グレイが言った。
「コバルトは?」
「俺も、まあいいぜ。まあただ、あの嬢ちゃん、俺のこと嫌ってるんじゃないのかな」
「ああ、多分大丈夫だよ」
「だったら、了解だ」
「分かった。じゃあ、この三人で決めておこう。この中の二人が欠けることになったら、残った一人が、ボルドーさんの頼みを聞くってことで」
 三人が頷く。
 しばらくは、先ほど呼んだ紙を見返すなどをしていた。
「グレイ、あんた遺書とか書いた?」
「何を書けっていうのよ?」
「そうよね」
 笑い声。
「そういえば……」
 ふいに、グレイの声。
「シエラに宛てたのには、なんて書いてあるんだろうね」
 グレイが、少し目線を上げて言った。










 翌朝。セピアはシエラの幕舎に向かっていた。
 一人である。同じくシエラの護衛部隊に誘われていたペイルは、ボルドーから頼まれていた仕事を続けたいという理由で、そちらに残ることになった。出発の前に会ったペイルは、セピアに、宜しく頼むとだけ言っていた。
 おそらく、迷いに迷って選んだのだと思う。
 幕舎の前に、マゼンタが立っていた。
「あの、これから宜しくお願いします」
 セピアが言うと、マゼンタが微笑んだ。
「中へどうぞ」
「あっ、いえ。私は、マゼンタ殿の部下なので、他の護衛部隊の方と同じ扱いでいいです」
「それは、困りましたね。グラシアさんからは、いつも殿下の傍に置いておくようにと言われたのですが……」
 すると、マゼンタが、急に幕舎の入り口の方に目を向けた。
 どうしたのかと思い、セピアも向ける。
 少しして、ゆっくりと入り口に垂らされていた布が上がった。
 ゆっくりとした足取りで、少し目線を下げたシエラが出てきた。目の周りが腫れていることが、すぐに分かる。
 シエラは、こちらを見つけると、少し驚いた表情をしていた。
「殿下、御体調はよろしいのですか?」
 セピアが言うと、シエラは少し頷いた。
 やはり、まだ元気は無いか。
「お顔を洗われますか?」
 マゼンタが言うと、シエラはそちらに目線を移した。
「こちらに水を用意しますか? それとも、水場まで行かれますか?」
「水場に……」
「承知しました。少々、お待ち下さい」
 言うと、マゼンタは振り返って、片手を上げた。
 少し遠巻きにいた女達が、慌ただしく動き始めている。全員、ある程度の装備をしているので、護衛部隊の人間なのだろう。
 しばらくして、一人の女が片手を上げていた。
「準備が整いました。では、参りましょう」
 マゼンタが歩き始めると、シエラも、その後ろについて歩いていた。セピアも、一瞬どうするか迷ったが、ついて行くことにした。
 砦のすぐ近くの林の中に小さな川がある。兵達の生活用水は、ここのものを使っている。一行は、その川の上流に向かった。皆が使えるのは、少し下流の水からだ。
「ありがとう。ここからは先は、セピアだけでいい」
 途中で、シエラが言った。突然のことだったので、セピアは驚いた。
「分かりました。では我々は、この場で待機していますので」
 マゼンタが言って、護衛部隊の者達は、散らばっていった。シエラだけが、さらに上流に向かって歩いていく。セピアは、慌ててついて行った。
 そこから、五十歩ほど歩いた先に、地中から水が湧き出している場所があった。そこで、シエラは水を手で掬って、顔を濡らしていた。
 セピアは、しばらく、そのすぐ後ろに立っていた。
 シエラが、懐から布を取り出し、顔を拭く。
 それから、振り返って、こちらを見た。
 一瞬、シエラに見えなかった。落ち着いた目をしていて、佇まいも落ち着いた雰囲気になっていた。
「ありがとう、セピア。すぐに駆けつけてきてくれて。すごく嬉しかった。それから、ペイルさんも」
 小さいが、はっきりとした口調で言った。
「と、とんでもございません。私も、殿下に対して、失礼な応対だったかもしれません。どうか、御寛恕ください」
 シエラは首を振った。
「本当にいいって。あのままだったら、私は多分、心が持たなかったかもしれない。だから、今私が立っていられるのは、二人のお陰だよ」
「お役に立てたのならば、望外の喜びです」
 セピアは、頭を下げた。
 それから、しばらくの間。
「ねえ、セピア。一つお願いがあるのだけれど」
 シエラの声。
「二人だけでいる時は、昔の口調で話してほしいんだ」
「え?」
「駄目かな」
「いえ、駄目ということではなく……」
「私は心が弱い。それは、一人で乗り越えるべきものだということも分かっている。だけど、目的を成す前に、私の心が折れてしまっては、意味がなくなってしまう。だから、セピアがいてくれれば、心を保つことができると思う。対等な立場で、一緒にいてくれる人が」
 言って、こちらを見据えた。
 セピアは考える。
 当然、無礼というものだ。シエラの配下になると決意したからには、それは曲げるものではないのだろう。
 しかし何より、その主君の頼みごとなのだ。
 主君であり、そして友達でもある。
 断れる頼みごとがあるのか。
 セピアは、決意した。
「分かりました。私で良ければ……」
 言ってから、咳払い。
 少し俯いてから、シエラを見た。
「分かったよ、シエラ」
 言うと、シエラは微笑んだ。それを見て、セピアは再び不思議な気持ちになった。
 以前のシエラは、こんな微笑み方をしたことがあっただろうか。なんというか、幼さのようなものが、消えたように感じた。それに、先ほどから、口数も随分と多くなっている。
 いいことなのかどうかは、分からなかった。
「セピアは、今まで、どこにいたの?」
「ああ……私は、騎馬隊だ」
 しばらく、二人で話をした。

 セピアは、ボルドーがシエラに宛てた手紙に、何が書いてあったのか気になったが聞かなかった。聞けなかった。
 きっと、二人だけの心の内に留めておくべきものなのだろう。
 そう思った。




80, 79

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