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第三十三話 黒き衣、再来

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 見ていられなかった。幾度もの戦闘を繰り返して来た旭にとっても、ここまで一方的に人外が叩きのめされる様は見たことが無い。
 そもそもの話、旭達はここへ何をしに来たのだったか。かつて凶悪強大な力を誇っていた都市伝説の目撃情報を元に馳せ参じ、その脅威を取り除く為に他ならない。
 だが蓋を開けてみればどうだ。そこにいたのは力の大半を削ぎ落とされた脆弱な犬が一匹。既に人面犬たる所以すら現出させられず外見は柴犬以上にも以下すらにも至らない。
 無害。全くの無害である。
 となればこの任務はもう、既に。
「死者は出てない、たいして大きな騒ぎにもなっていない。これじゃ退治する条件には合わない。彼は人間に対して無害だ。殺す意味がない」
 晶納の向ける刃の切っ先から庇うように、旭は傷だらけでもう立つことすらままならない人面犬の前に割り込んでいた。
 不用心に晒した背中にも、突き立てる牙を持ち合わせていないとでも言わんばかりにやはり人面犬は攻撃を行わなかった。
 分かっている、これだけ殺意どころか敵意の欠片も感じ取れぬ相手が自分を害するわけがない。
 だが陽向晶納には同意を得られなかった。もとより不快げだった表情にさらなる皺を刻み、主の感情に呼応してか両隣で轟と天秤刀が回転を繰り返す。
「今は、だろ。前は殺してた、騒ぎにもなってた。だからオレが出張ったんだろが。殺しそびれてたから、今こうして殺し直してんだ。意味はあんだろ」
 人外を人間の敵と見定めている晶納に旭の意見は通じない。まるで異国の言葉を交わし合っているかのように、互いに互いの想いも信念も交差せず、延々続くは平行線。
 いい加減、温厚を自負する旭とて限界が近かった。
「…相変わらず、お前とは話が噛み合わないな」
 なれば土俵を合わせよう。我儘な同輩に、同様に我儘をぶつけよう。どうせこのまま話し合いで片をつけられるはずはないと知っていた。いずれ晶納は力尽くでも旭を押し退けて人面犬を殺そうとする。
 そうはさせない。人に向ける牙を失った人外を、どうして害悪と断じられようか。どうして殺さねばならぬのか。
「……」
 自身の周囲に熱が集う。景色を撓ませ歪ませる九つの圧縮。彼の名を示す退魔の本領。
 僅かに振り向け、地面に這いつくばる人面犬に視線を合わせる。見上げたその瞳に怯えはなく、恐怖も無い。殺されることを覚悟していたのだろうか。
 そうと分かっていてどうして自分達の前に現れたのだろう。疑問は残る。
 けれど今はどうでもいい。視線にも熱を込め、意思を伝える。人面犬に人と同等かそれを超える知能があることは晶納との激闘から逃げ延びた実績から察せる。
「…ッ…」
 予想を違えず、言葉にせずとも旭が逃走を促していることを彼は悟ったらしい。すぐさま血塗れの体に余力を滾らせ一目散にその場を走り去る。
(これで良し。あとは…)
「どけ旭。犬コロの前にぶった斬られてぇか」
 それは警告か。今更どう答えようが同胞に向ける刃を下ろす気は毛頭無さそうだが、青筋を立てて憤怒を露わにする晶納の四刀はかろうじてまだ勢いを乗せてはいなかった。
 退魔を、人外を皆殺しにする術だと晶納は信じて疑わない。それが間違いだと旭も確信を揺らがせはしない。
 だからこの対立は決して避けられるものではなかった。

「|退魔師《ひなた》は人ならざるを殺す為にある家系じゃない。悪しきを祓い、悪しからずを生かす。人外だからってだけで殺すお前の力は大間違いだ、晶納。時と場所と状況には盛大に目を瞑って、ここでお前に灸を据えてやる」
「ふざけた講釈垂れ流してんじゃねぇぞお花畑野郎。寝かしつけてやっから戯けた寝言はそのあと好きなだけ吐き散らせ」

 生かすべきと、殺すべき。
 相容れぬ信条を強引に交差させ、いつか来たると懸念し続けていた二人の衝突は始まってしまう。
 よりにもよって、『滅魔』が跋扈するこの街の宵闇で。



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 瓦屋根の上で、闇色の戦装束の男が一人。ゴキリと鳴らした右手をゆらりと持ち上げた。
 彼の真下にある部屋では、命の危機が迫っているこの状況をまるで理解せず眠りに落ちる人外が。
 実に容易いことだが油断などはしない。どんな相手であれ人外は人外、如何な手段を用いようとも必ず仕留めねばならない。
 それが男の内に流れる一族の宿願なのだから。
 爆薬を投げ入れて部屋ごと粉々に吹き飛ばしてやろうか。それともやはり、もっとも信を置ける我が身の力を以て滅殺を達するか。あまりにも警戒心を持たず熟睡している人外に隙しか見当たらず、つい殺害方法に効率以外の嗜虐が混じってしまう。
 出来るだけ長く苦しんで殺せるならばそれが一番に決まっている。人外など害獣や害虫と何も変わらない忌むべきモノ。最短最速の死を与えるのは慈悲が深すぎるように思えてならない。この三つの命、どう摘み取るが最適か。
(……なに?)
 三つ。殺すべき対象は三つに間違いない。だとしたらおかしい。さっきまで、つい先刻までいたはずが。
 暮れるに至らぬ思案の束の間に。
(気配が二つになっ)
「何覗いてやがるこの変態」
 ゴッ!!と鈍い音が頭蓋を震わせ、男が背後からの強襲に真横へ吹き飛んだ。
「…貴様!」
「ただの人間じゃねえなテメェ」
 受け身を取り、瓦を砕きながら衝撃を流し跳ねた男の眼前に迫る黒い棒状の飛来物。籠手を嵌めた右腕で弾くと、それが黒塗りの鞘だったことが判る。
 その内に納められていた白刃は今、男の懐で斬り上げの軌跡を描く。
「目的も動機もどうでもいい。向けて来るその殺意の濃度で充分伝わるぜ、テメェが敵だってのがなァ…!」
 首を刎ねんと振るわれた一閃だが、刀は男の頸動脈はおろか皮一枚すら裂けずに止められた。
 男の体から噴出した、謎の邪気によって。
「く、くクかカカ。―――〝来たれよ来たれ。この魂魄は贄、噛み砕き飲み下せ。生めや惨禍、産めや変災、骸を貪り埋め立て潰せ〟」
「人にして人ならざりし、ってヤツか。旭の旦那と同じような…ああ、特異家系ってのだな。んでその人外皆殺しにしますよオーラ、今度こそ間違いなくテメェが『滅魔』の一派」
 何かが降り、そして男に憑き纏う。それは人間という脆い器には大きすぎる力。実体を持たず肉体の存在しないモノ。
 概念種を取り込む『憑百』の〝憑依〟、その降魔。
(偶然じゃねぇ、まさか旦那の仕事に巻き込まれちまったか?何にしても面倒臭いことになりやがった。よりにもよって白とリリヤ様のいるこの時に)
 旅館の骨組みから拝借した鉄骨から生み出した即席の日本刀を手に、月光の遮られた闇夜の先に立つ不気味な影を睨め付ける。
 実力の高さは相当なものだ、それは一目で判別がついた。状況は深刻であり、まず気に掛けるべきは下で眠る二人の安全。
 …だというのに。
「へっ、…やめてくれよな。せめて俺一人の時にでも出直して来てほしいぜ」
 ぞくりと肌の表面を撫ぜていく感覚。無論恐怖に震えたわけでもなく。
 瞳が一層見開かれ、煤けた赤茶色の毛髪が先端から静電気を帯びたように幾房か逆立つ。高揚していく気分を鎮められない。
「……いざ、いざや。寄らば叩き殺し。寄らねば撃ち殺し。逃げば背を穿ち、立ち向かわば腹腔を抉らん」
「ハハハ!かハハはッ!!これだから参るぜ俺ってやつは本当どうしようもねえ!!」
 この状況が、予感される死闘が、展開される殺し合いが。
 |楽《・》|し《・》|み《・》|で《・》|愉《・》|し《・》|み《・》|で《・》|し《・》|ょ《・》|う《・》|が《・》|な《・》|い《・》。
「来いよクソ野郎、おっと場所は移してな。ここじゃ二人を起こしちまう。なぁにテメェは気にせず勝手に殺しに来いや、俺が勝手にテメェを引き摺って移動してやっからよ!」
「殺す、コロス。堕ちた妖精、愚かしくも生にしがみつく蒙昧なる悪魔」
 噴き荒れる邪気が屋根の瓦を次々粉微塵に破壊していく。戦闘前にふと白の起床を心配して素面に戻ってしまいそうになるほどの音に、早々にこの場を離れる必要性に迫られる。
「よく分かってんじゃねえか。妖精に成り切れず、負念に染まった魔性の成り損ない。妖魔アルムエルドだ、俺がくたばる頃にゃ地獄に響き渡ってるだろうよ。先んじて覚えて黄泉路を逝け」
 刀を正眼に構え、狂喜に満ちた反転者の名乗り文句が夜空に飲み込まれた。
「地獄とは我らが最後に往くべき殲滅の地。人界に蔓延るモノ共を殺し尽くすまではこの憑百|琥庵《こあん》の赴くべき場には非ず」
 漆黒に満ちた瞳孔からすらも漏れ出る邪悪な気は留まることを知らず、かの男、琥庵の足元から冷気のように瓦屋根を伝い広がっていく。
 特異家系によくよく縁のある妖魔は、しかしこの行為が結果として恩人陽向旭への多大な支援となっていることをまだ知らない。



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 そして旭、アル両名が同様に知らなかったこと。

「…滅す」
 点々と残して行く柴犬の人外を遠目に見据えて、呪詛のように延々と呟き続ける殺戮の権化。
 当初の目的はなんだったか。人名犬の滅殺だったか、それとも目障りな『陽向』の抹殺だったか。今やどうでもいいことだ、全て順繰りに済ませればいいことなのだから。
 どの道、全て全て全て殺す。人外も。邪魔する者も。特異家系者も。進路の先にいるならば只の人間とて千切り捨てても構わない。
 それが滅魔、それが我ら、それこそが宿願。百の神霊亡霊を憑かせ万にも億もの人外を滅ぼす『憑百』。
 それを行える超人こそが今代の長。
 すなわちは憑百|珀理《びゃくり》その人。
 因果は巡り、陽向次期当主と憑百今代当主は再び同じ地を踏み締めていた。
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