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第一章 A

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焦げた小便とブルーベリーが混ざったような悪臭が、僕の目を覚まさせた。
茶色のラグカーペットで寝ていた体を、上半身だけ起こす。
薄暗い部屋の中、間接照明が合板性のローテーブルだけをスポットライトを当てるように照らしている。
テーブルの上では、空き缶がタバコとAが混ざった煙を吐き出す。
空き缶の横に置かれているデジタル時計が、Aを吸い込んでからまだ19分しか経っていないことを教えてくれた。
後頭部が重力に引っ張られるように鉛直下向きに重く、手で撫でてみても感覚がない。
Aの成分が後頭部に残っていて、脳の後ろ側を麻痺させているように思える。

観ていた夢をぼんやりと憶えている。
僕は高校一年生で、入学式に参加するために通学路を歩いていた。
あまりリアルすぎる体験は、短いタイムスリップのようだった。
高校生の僕を取り囲んでいた無責任さや可能性が、名残惜しそうに僕の周りを漂っている。
そして、毎秒ごとに薄れていくその大気が、体験が夢であったことを悲しく証明してくれた。
「どうだった」
細いスチールの柱で出来た骸骨のようなベッドに横たわった先輩が、低い声で僕に話しかけた。
「あ…凄かったです。だけど頭が凄く重たいです」
「頭の重たさは二時間も経てば治るよ。それよりどう凄かった」
先輩は百八十センチを超える長身をゆっくりと起こすと、蛍光灯から伸びる紐を引っ張った。
明かりで照らされた見覚えの無い先輩の部屋は、非日常の世界に迷い込んでいるように思わせた。

先輩は僕の横で胡坐をかいて、タバコに火を点ける。
「すごくリアルな夢を見ました。高校までの通学路を歩いている夢でした」
「夢ね」
先輩はふーっと煙を吐くと、吸いかけのタバコを空き缶の飲み口に置いて、部屋の隅に置いてある冷蔵庫を開くと、コーラの缶を二つ取り出した。
「甘いものを飲むと頭の重さが和らぐ」
そう言って、僕の前に缶をひとつ置いた。
「ありがとうございます」
蓋を開けてコーラを飲むと、口の中いっぱいにべたべたとした甘みが広がった。
「俺の《《体験》》とはちょっと違うな」
先輩もぐびぐびと喉を鳴らしてもうひとつのコーラを飲む。
「Aを吸うと、俺は俺じゃない誰かになる」
「どういうことですか」
僕より遥かに大量のAを吸引した先輩に、どのような変化があったのか気になった。
「低い樹木がまばらに生えたサバンナを裸足で走っていた。肌が黒かったし、視界も低かった。俺はアフリカの少年だった」
先輩はひとりごとのようにつぶやいた。
先輩の瞳孔は爬虫類みたく真っ黒に開いていて、少し気味が悪かった。
自分の瞳孔も同じ黒をしているのだろうか。
「アフリカの少年ですか。すごい夢ですね」
アフリカの草原を裸足で歩く自分を想像すると、僕が住んでいる世界よりずっと大きいまん丸な夕焼けが見えた。
先輩はコーラを飲みほして、軽い金属音を立てながらテーブルに缶を置くと
「夢…夢かな」
と呟いた。

先輩の家を出て、花火が焦げた匂いのする夏の夜の住宅地を歩く。
換気扇の回る音や網戸をすり抜けたテレビ番組の音が、見知らぬ家族の幸せな姿を思い起こさせた。
五分ほど歩いて住宅地を抜けると、線路沿いの大きな通りに出た。
帰り道が分かるか不安だったけれど、線路が見えたことで安心した。
迷わずにB駅までたどり着けそうだ。
先輩が駅まで案内すると言ってくれたけれど、大量のAを吸引した先輩は足元がふらついていて、外を歩かせるには不安だった。
結局、ボールペンで紙に駅までの簡易的な地図を書いてもらい、先輩の家を一人で出た。
線路沿いを西に向かって歩くと、長い上り坂の頂点にB駅の灯りが小さく見えた。
この辺りは十年ほど前に開発されたニュータウンで、丘の上のB駅を中心に新興住宅地が密集している。
駅周辺には映画館、公立大学、大型スーパー、財閥資本のアウトレットが立ち並び、休日には多くの人で賑わっていた。
二駅離れた街に住んでいる僕も、頻繁に駅周辺の施設を利用していて、今歩いている通りの風景にも見覚えがあった。
重い頭と微熱を帯びた気だるい身体で、ぜいぜいと息を吐きながら坂道を上る。
駅に到着する頃には、Tシャツはじんわりと汗で濡れていた。
会社帰りのサラリーマンや大学生で賑わうB駅の改札を抜け、電車に乗りながら今日の出来事を思い出す。

先輩と会うのは八年振りだった。
昨日の夜、部屋でビールを飲みながら携帯電話をいじっていると、アルバイト派遣会社から
『人手が足りないから明日どうしても手伝いに行ってくれないか』と電話でお願いをされた。
特に用事も無かったから快く承諾し、翌朝に派遣先の冷凍食品工場に行くと、そこには先輩がいた。
「久しぶりだな」
古びた工場の玄関で僕に無表情で挨拶をした先輩は、高校生の頃とは別人のように思えた。
一学年上の高校の先輩で、テニス部の部長だった。
試合では部員の誰よりも大声を出して応援するような人で、退部しようとした僕を泣きながら説得したのも先輩だった。
夏の県大会の団体戦、主将として出場した先輩はあと一歩の所で負けた。
「みんなの夢を終わらせてごめん」
と泣いて部員に謝る先輩を見て、この人のようになりたいと思った。
憧れだった。
卒業後は有名私立のK大学に進学、大学卒業後は大手製薬会社の営業として働いていると風の噂で聞いた。
大企業に勤めているはずの先輩が、なぜ田舎町の冷凍食品工場で働いているか疑問だった。
もしかしたら、製薬会社で働いている噂が間違いだったかもしれないし、噂を聞き間違えたのかもしれない。
ただ、真相を聞く勇気はなかった。

先輩はバイト担当の指導員で、僕を含めた派遣アルバイト五名の出席を取った。
注意事項を軽く説明された後、厚手の防寒着を配られ、仕事場まで後をついてくるよう言われた。
仕事場までの狭い廊下を歩いていると、蛍光灯の青白い光に照らされた白い壁にこびりついた無数の汚れが気になった。
汚れがいつ、誰に、どのようにつけられたのか気になったけれど、それはきっと遠い昔の話で誰も覚えていないし、誰も知らないのではないかと思う。
自分にとって大事でないものが汚れていくことに、誰も興味を持たない。

狭い更衣室は作業員でごった返していた。
一人一台ずつ割り振られたダイヤル式のロッカーに、脱いだTシャツとリーバイスのジーンズをしまい、防寒着に着替える。
更衣室に隣接した作業場の入口で、扉の横に置いてある透明のヘアーキャップと白いマスクを装着して、ペット容器に入った殺菌用アルコールで入念に手を擦る。
作業場のドアを開けると、気圧差で押し出されたひやっとした空気が流れ込んできた。
作業場は防寒着を着ていても肌寒く、まるで冷蔵庫の中にいるようだった。
部屋の窓からは、作業員が大型の機械を使って鶏肉を切り刻んでいる様子が見える。
アルバイトを含めた作業員十数名は、中央に置かれた大型のテーブルを囲むように立ち、運ばれてくる鶏のもも肉をひたすら白いトレーの上に乗せるよう言われた。
スーパーに並んでいる精肉商品が、このように人力でトレーに置かれていたことを考えると、世界は見えない人の歯車で回っているように思える。
退屈な作業は、十分間が一時間にも二時間にも引き延ばされているようだった。
先輩は何度か鶏肉が入った大型のトレーを作業場に運んできたが、話しかけるタイミングは無かった。

八時間の作業後、私服に着替えて工場の外に出て、駐輪場横の喫煙所の白いベンチに座り、タバコに火を点けた。
煙に含まれたニコチンが、単調な作業で疲れた脳にひと時に安息を与える。
マルボロの青白い煙がゆらりと空に吸い込まれていく様子をぼんやりと眺めていると、作業場の入口から先輩が出てきた。
軽く挨拶をした後、吸っているタバコの銘柄や、仕事の感想など当たり障りのない話をした。
バイト後の予定を聞かれ、用事がないことを伝えると、先輩は太い眉を少し上げて

「面白いものがあるんだけど」

と小さな声で言った。
3, 2

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