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第二話 二人と一匹

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「|蘇芳《すおう》|葎花《りっか》。…おじさんは?」

 人名らしきそれを口にし、数秒待って返答の無かった翔へと少女はこてんと小首を傾げて見せた。
 さらに数秒を置いて、少女の発したそれが自らの名であり、さらに自己紹介の体で翔が名前を明かすのを待っているのだと気付いた。
 がり、と思わず頭を引っ掻く。
「…伍堂翔だ」
 自己紹介を返してくれた初対面の男に対し無表情の中で僅か輝かせた瞳を向ける少女葎花へ、翔は忠告混じりに会話の先手を打つ。
「知らないおじさんに、いきなり名乗るのはあまり良くないぞ。場所も場所だ」
 ここは大通りから外れた細道の最奥。女児の甲高い悲鳴であっても活気溢れる大通りへ届かない可能性は高い。そういった危険性を加味して、葎花がこんな所に単身で出歩いているのは愚の骨頂ともいえた。
「これ」
 葎花は背中に背負っていたものを前に抱え直す。女子にしてはやけに渋い抹茶色のランドセルの側面を指差し、そこにぶら下がっている防犯ブザーを見せびらかしてふふんと息を吐く。
 それがあるから大丈夫、ということなのだろうが翔は尚のこと不安を掻き立てられる形となった。
「…言っておくが、この距離ならその防犯グッズを作動させるより先に君を押さえ付けられるんだぞ…」
「えっ」
 互いの距離は五、六メートルといったところか。細道に捨てられた大小様々な塵屑すら距離を阻む障害となり得ない。
 逆立てた青バケツに腰掛ける翔が全力で動けば、葎花がブザーの取っ手に指を引っ掛けるより速くその手を掴み上げ、なんなら口を塞いで悲鳴すら封じられる。
 どことなしか表情による感情表現の薄い葎花のドヤ顔が曇り、控え目な自信が粉微塵に打ち砕かれる。
 再び生まれた両者の間の空白を、毛づくろいする大将の身じろぎする音だけが繋ぐ。いっそ追加の飯を催促して鳴き喚いてくれた方が翔としても気が楽ではあったが、そういった時に望むアクションに応じてくれないのが猫というものである。
 結局、沈黙に耐えかねたのは翔の側だった。
「…分かったのならもう行け。そもそも小学生がこんなところに来るな」
 あまりやり過ぎても痛い目が返ってくるのはこちらの方だ。女児恫喝などという不名誉極まりない濡れ衣を着せられるのも面白くない。
 適度に脅して来た道を戻らせようと片手を振ってジェスチャーすると、葎花はしばし視線を中空に彷徨わせてから、とてとてと翔に近付いて、
「…ん」
 ずっと両手で胸元に抱えていた猫缶をずいと差し出した。
「悪いが俺は人間で、それは人間の食べれるものじゃない。さらに言えば俺はそこまで食に困っている状況でもない」
 至って真面目に眼前の猫缶を眺めながら応じると、首を左右に振るって今度はわかりやすく缶を押し付けられた。
 なすがままに受け取りはするが、それの意味するところを汲み取れずひたすら疑問符を浮かべることしか出来ないでいる翔へ、焦れたように葎花が言う。
「もう、買っちゃったから…それ、その子にあげて?」
 数歩下がって、感情の読みづらい無表情のままで翔を指差し、次いでその指を足元の猫へ向けた。
 受け取ったそれを翔は片手の中で弄る。さして値の張るわけでもない安物の猫缶とはいえ、小学生の持つお小遣いの範疇となればそこそこの一品なはずだ。
 今この場で開けてもよかったが、流石に一尾を平らげたばかりで追加の馳走をくれてやるのは如何なものか。野良で贅沢を知るとロクなことにはならない。おそらくこの葎花という少女も、その辺りを考えた上で猫缶を与えるタイミングを翔に委ねたのだろう。
 これはまた日を改めて開けてやることに決め、受け取った猫缶をポケットにしまい込んで眼下の猫に話し掛ける。
「良かったな大将。既に明日の飯は確保されたようだぞ」
「……たいしょー?」
 勝手ながらも名付けられたなりに反応を示した大将が眠そうに耳と鼻をピクピク動かすのを覗き込みながら、いつの間にやら下がった距離を自ら詰め直して少女が翔を見上げる。
 真っ直ぐな瞳に無視を決めるわけにもいかず、猫の右目に刻まれた縦の裂傷を指差してとりとめもない説明を始める。
「あー、そこにほら、傷があるだろ。カッコいいだろ、貫禄あるだろ。だから大将。俺はそう呼んでる、勝手にな」
「へえー、たいしょー」
 見知らぬ大人への警戒心もどこへやら、あるいは初めからそんなもの持っていなかったのかもしれない。
 しゃがんで大将の丸っこい耳をいじったり顎を指でこしょこしょと撫で上げたり。その手つきは慣れたもので、大将もそれを嫌がる素振りを見せない。この少女と猫との邂逅が初めてではないことを改めて翔は理解した。
「…」
 青バケツから腰を上げて、子供と猫のじゃれあいを見守る。

「たいしょー」
 葎花が顎から頬から頭から肉球から至るところを撫でまくる。
「たいしょー?」
 ランドセルの中から取り出した猫じゃらしを振ると、大将はかなり面倒臭そうに前足を伸ばして先端をてりしと弾いた。一体どちらが構われているのかわかったものではない。
「たーいしょーっ」
 大将の露骨な態度にも葎花はめげず挫けず、両前足を持って万歳をしたりお腹に触れて暖を取ったり好き放題している。

(帰んないの?)
 だいぶ長いこと見守っていたように感じて、翔は内心で本音を溢す。
 先程自分でも言った通り、こんな場所に女子小学生が長居するのはあまり好ましいことではない。故に用事の済んだ翔もこの女の子の気が済んで帰路に戻るまでの間だけでも付き添っていようかと思っていた。いたのだが、あまりにも少女の遊びが長く二十代後半の肉体は初冬とはいえ待ち惚けの中完全に冷えてしまっていた。
 身震いに肩を竦ませる。これ以上は限界だった。
「…んじゃ、俺はこれで」
 そもそもが深く面倒を見てやるほどの間柄でもないのだ。消え入りそうな呟きを置いて去ろうと歩き出した翔を見上げ、葎花がハッと高い体温の息を吐き出す。
「ばいばい、たいしょー」
 小さく片手を振って、大欠伸で返事した大将に薄い微笑みを向けると急いで遠ざかる背中を追った。
(……え、なにこれ)
 寒さに身を縮ませる翔が背後をぴったりくっついてくる気配に正面を向いたまま戸惑いに頭を悩ませる。
「俺に何か?あんまり後ろくっつかれると困るんだけど…」
 女児恫喝の濡れ衣が避けられてもこれではまた違う疑いが持ち上がってしまう。出来れば大通りに出る前に離れてほしいところなのだが少女の方はそうはいかぬとばかりに薄い表情の中でじっと前を歩く翔を見つめる。
「おじさん、猫、すき?」
「はあ、そりゃまあ。嫌いなら魚あげないわな」
「うん。わたしも猫、すき」
「つまり?」
 答えを急く翔の言葉に深く頷いて、葎花は瞳を輝かせる。
「仲間…!!」
「マジかよこの子ちょろ過ぎない?」
 さっきまで防犯ブザー片手に距離を取っていた態度はどこへやら。本当に子供心とやらは大人には図り知れない。
 結局親のあとを追っかける小鴨のように縦列で大通りに舞い戻り、翔はまったく同じルートを遡って出発点たるあの公園へひた戻る。
 ともあれまずは冷えたこの身を芯から温めたい。公園に設置されている自動販売機のラインナップを思い出しながら、翔は財布の中に二人分の小銭が残っていることを確認していた。
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