箱のうちの未知
一階堂 洋
数年前の夏、母方の祖母の家に行った。母は、姉と仲が悪く(金沢に住んでいたのも「あいつと同じ所に住みたくない」というわけだった)、私が産まれてから三回目の訪問だった。
九州は暑く、外に出る気にはなれなかった。昼は蒸し暑い風が吹き、夕方は、全てが死んだみたいな凪がやってきた。
だから、両親が挨拶回りに行っている間、薄暗い家で、私は、寺田寅彦の古い本を読んだり、祖母が飼っているハムスターを見ていた。
「普通は猫とかじゃん、ハイカラだね」
「猫はね、あたしゃ好かん」
とだけ祖母は答えた。「確かに。こいつら、見てて飽きない」と私は言った。
祖母は少し笑った。
彼女は、髪の毛を短く刈り揃えた、清潔そうな老女だった。私は彼女とうまくいった。
祖母が「そこの」と言うとき、私は次の言葉が分かった。まるで、彼女の脳と私の脳とが、見えない線でつながっているみたいに。
彼女がご飯が炊けたと言えば、私は仏壇に供える小さい茶碗にご飯を注いだ。彼女が冷蔵庫を見たら、何を取り出して欲しいかが分かった。
ある夜、皺の寄った寝巻きをまくりあげて、彼女が背中を見せた。私は優しく掻いてやった。彼女は、
「あんたはえらいねえ、椎子はそんなこといっちょんせんけね」
と呟いた。椎子は母の名だ。祖母のたるんだ皮膚を、私は見ていた。母はすでに睡眠導入剤を飲んで、布団に入っていた。
「椎子さんはそうかもね」
と答えた。
数日して、金沢に帰る時が来た。
朝の五時に目が覚めてしまった。リビングでは、すでに祖母が、じゃくじゃくと朝食の米を研いでいた。鳩がくぐもった声をあげている。朝のくすぶった匂いがした。私はハムスターを見て時間を潰していた。
気が付くと、祖母は私を見つめていた。
私は突然、彼女が何を考えているのか分からなくなった。
「あんた、こっち来んしゃい」
そう言って、彼女は私の腕を掴んだ。強い力で。冷蔵庫まで連れて行った。そして、一番下に付いている冷蔵庫を引き出した。
そこには、無数のハムスターが冷凍されていた。
白色、茶色、青と灰、栗色、斑。丸く塊になった、様々な色のかびのように。
私は、目をつぶって、こういうのは好かない、とだけ告げた。祖母は「あらそう」と受け応えた。
私はそれから一度も九州に行かなかった。
昨年、祖母が死んだ。景色が歪むような暑い夏だった。
母親が葬儀に行った。彼女はすでに退職して、パキシルほか数種類の精神薬を飲んでいた。帰ってきた彼女は、何も言わずに寝た。
私はその夜、冷凍庫のハムスターのことを考えた。天井を見ながら。頭のなかで、氷漬けのハムスターはどんどん溶けていった。ぐにゃりと氷漬けから解放されて、だんだん腐り始めて、あのぎゅうぎゅう詰めの冷凍庫の中で。
リビングの方から、冷凍庫のドアが開けられる音が聞こえた。
母の顔も、祖母の顔も、私は思い出せなくなっていた。