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karte9(♀)『あなたがここにいてほしくない』

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 セイフクノショジョ
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 十七歳と云うものは、清く、儚く、不条理だ。
 穢れをしらない少女の奥の、奥には、膨張しきっ
 た宇宙規模の自己愛が、醜く渦巻いている。
 それは私が、十代の夏の日に、煙草の匂いがす
 る、安っぽい花柄の壁紙の部屋に、置き忘れてき
 たものだ。

 借りていた本や衣類なんかを返却してあの人にさ
 ようならをした翌日、そんな女の子と会った。
 訊けば、何やら彼女は、手首を切るという行為
 に、大層ご立派な理由をお持ちのようであった。

 悲劇のヒロインぶったって、誰も同情なんてして
 くれないのにねー。
 やだやだ。
 虫酸が走るわ。昔の自分を見ているようで。
 救われない。

 黒いワンピースを蒐集し、六階の窓から、優しげ
 な地面を見下ろし、赤い実が弾けるところを夢想
 していた頃が、フラッシュバック。

 マイスリーおくれよ。

 06/18(Mon)01:45
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 気持ち悪い。
 私と会った日の深夜に玲奈のブログに書かれたエントリーを読んで、最初に出てきた感想がそれだった。次に出てきた感想は、あなたに私のなにがわかるの、だ。ショックを受けて、腹が立って、抗議のメールを送りつけてやろうかと真剣に悩んで、むなしいのでやめた。
 あれから二ヶ月が経ってなお、私はスクリーンショットを撮ってスマホに保存したこのエントリーを日常的に読み返している。たとえば、中原くんがいなくなったあとの第一理科室で最終下校時刻を待っているときや、いまみたいに、受験生用の自習室として開放された大学の講堂で勉強の手を止めているときなんかに。
 どうして気持ち悪いと感じる文章を読み返してしまうのか、自分でもよくわからない。自己愛たっぷりなのはそっちのほうでしょとか、男に抱かれたくらいで人生の先輩ぶらないでよとか、そりゃ言いたいことは山ほどある。だけど、本人に伝えるつもりもない感想をふくらませて、私はなにがしたいのだろう。
 バックライトが消えたスマホの画面が点灯する。メールの着信だ。中原くんかな、と思って受信トレイを開いてみると、案の定中原くんだった。私はメールの本文には目を通さず、そっとスマホの電源を落とす。
 夏休みに入ってから、中原くんは頻繁にメールを寄越してくるようになった。内容はどれも似たり寄ったりで、僕たちの今後について話しあいたい、というようなことが書かれている。返信には毎回時間がかかってしまう。自分の考えを整理できていない証拠だ。そのせいで私が送るメールも内容が似たり寄ったりになる。返信遅くなってごめんね、時間ができたらこっちから連絡するね、中原くんも勉強がんばってね、と、そんな具合に。最近は返信するのがだんだんプレッシャーになってきて、メールをしばらく放置することが増えてきた。電話にも出ていない。はっきりとした返事を要求されるとつらいから、出られない。
 ひどいことしてるな、と思う。こんなひどいことしちゃいけないな、とも思う。でもしょうがないじゃない、考えを整理しようとすると、中原くんに近づきたがっている私と遠ざかりたがっている私が引っ張りあいをして、こころのバランスが保てなくなるんだもの。
 中原くんに押し倒されたとき、呼吸を忘れた。脳は酸欠に近い症状になり、胸はどきどきした。だけど彼が私のことを好きだと言ったとたん、短いスリルは唐突に打ち切られた。彼が彼じゃないように見えた。もしかしたら私はとんでもない勘違いをしていたんじゃないかとこわくなって、防衛本能のおもむくまま彼を拒絶し、無遠慮な言葉で傷つけてしまった。それ以来、私は彼と距離を置いている。
 なんでこんなことになっちゃったのかな。同じこころの病気に罹った、たったひとりの理解者。そう信じていた中原くんを、いまは無条件で受け入れられない。彼がおばあさんに化けた狼や変装のマスクを被った怪盗のように見えて、安心して身をゆだねられない。
 スマホをバッグにしまい、カバーを表にして長机に広げた参考書を裏返す。夏休みのあいだ、私はほとんど毎日この講堂を利用している。無心で参考書の問題を解いていれば、考えるべきことを考えずにすむからだ。
 ただ、最近はそうも言っていられなくなってきた。
 講堂内は映画館みたいに高低差のあるつくりになっていて、左右の壁にひとつずつ扉がついている。そこから入ってきた邪魔者が、坂になった通路を悠然と渡って、私のところに近づいてくる。
「参考書、何ページまでいった?」
「三十五ページ」
「めちゃくちゃ最初のほうじゃん」
「二冊めだから、これ」
 邪魔者はマンハッタンポーテージのショルダーバッグを長机に置き、当然のように私のとなりの座席に腰を落とした。こうやってずけずけとパーソナルスペースに踏みこんでくるのが彼の苦手なところだ。
「二学期までにあと何ページ進められるかな」
 そうひとりごちて、邪魔者は長机の上にノートと英単語帳を広げた。勉強中は極力話しかけないという私との約束を、彼は忠実に守る。だけど彼が話しかけてこようとくるまいと、私は勉強に集中できない。彼がそばにいると、玲奈のブログを読んでいるときのような気分になる。
 繁原勇樹。
 私はあなたが、ここにいてほしくない。

 家に帰りたくないという理由で、私は放課後の第一理科室に入り浸るようになった。それと同じ理由で、この夏休みは友だちづきあいをしているクラスの女子生徒たちの家を泊まり歩いた。泊まり歩く家がなくなってからは、受験生用の自習室として開放された大学の講堂に入り浸っている。
 オープンキャンパスのパンフレットを読み漁っていて見つけたこの講堂は、まさに穴場だった。通学に使っている電車の定期乗車券で通える範囲にあり、乗り継ぎもなし。座席はいつ来ても収容人数の五分の一ほどしか埋まっておらず、同級生とばったり出くわすような不運に見舞われることもなかった。移動と人口密度の高い場所と人づきあいを苦手とする私にとっては、おおよそ快適な空間と言えた。
 繁原くんという邪魔者があらわれるまでは。
「いったいなにが目的なの?」
 講堂が閉まった午後四時半すぎ、駅へと向かう帰り道で繁原くんにそう尋ねてみた。こうして彼と歩くのは、これで四回めだ。
「目的って?」
「なにをしにここに来てるの、って聞いてるの」
「受験生が大学の自習室借りる理由なんてひとつしかないと思うけど」
「またそれ? いいかげんにしてよ」
 繁原くんが最初に講堂にあらわれたのは十日ほど前のことだ。そのとき、彼はたまたま志望校の大学を訪れたらたまたま私が講堂にいた、と説明していた。けれどそれを鵜呑みにするほど私の脳は単純にできていない。近場にいい自習室を見つけた、と家に泊めてくれた女子に漏らした私が馬鹿だった。
「私が第一理科室の鍵を持っていることを突き止めて、繁原くんはなにがしたかったの? 言いふらすでも脅迫するでもなく、わざわざこんなところまでつけまわしてきて」
 放課後の第一理科室に出るという女子生徒の幽霊。その正体が私だということを、繁原くんは知っている。私が学校内でリストカットをしていたことも。
「人をストーカーみたいに言うなよ。俺はただ、おまえに興味があって仲よくなりたいだけだよ」
 それは異性として? と聞こうとして、やめた。自意識過剰みたいに思われたら嫌だし、認められたらそれはそれで困ってしまう。
 舗装された道を、日焼けしないよう木陰を選んで歩く。この時期はまだ日の翳りが遅い。見上げた繁原くんの横顔に、木漏れ日が光と影のコントラストをつくり出していた。
 中原くんも背が高いけど、繁原くんはもっと背が高い。歩きながら会話していると、だんだん首が疲れてくる。この感覚は、なんだか新鮮だ。
「このあと予定あんの?」
「あるよ。一刻も早く繁原くんのいないところに逃げて、残りわずかな夏休みをひとりきりで満喫する」
「きっつ。五十嵐ってそんなキャラだったっけ。それともこっちが素?」
 面倒くさいので無視して足を速める。繁原くんは私をいらだたせる天才だ。相性が悪いって、きっとこういうことなのだろう。
 駅の改札を抜け、ふた股に分かれた通路で立ち止まる。
「また来てもいいかな」
「好きにすれば。どうせ来るなって言っても来るんでしょ」
「じゃあそうさせてもらうわ」
 お疲れ、と片手を挙げて繁原くんは背をひるがえした。私の苦手な、無警戒で大げさでない自然な笑顔とともに。
 断るという選択肢もあった。繁原くんだって私をからかって遊んでいるわけではないだろう。本気で突きはなせばおとなしく身を引いてくれたに違いない。それは私が望んでいたことのはずだ。なのに私はそうしなかった。
 玲奈のブログと同じだ。気持ち悪いのに読み返してしまう。苦手なのに本気で突きはなすことができない。
 プラットホームで電車を待っていると、反対側のホームに立っている繁原くんと目があった。私は見て見ぬふりをし、バッグから取り出したスマホの画面に視線を落とした。

 家中から時計が消えていた。
 私室に侵入された形跡こそなかったものの、靴箱の上にあった古い置き時計も、リビングの壁に釘で固定していた電波式の掛け時計も、洗面台に飾っていたかわいい人形つきのおもちゃの時計も、キッチンタイマーまでもがきれいさっぱり消えてなくなっていた。私がそのことに気づいたのは、喫茶店で目いっぱい時間をつぶして帰宅した午後八時すぎだった。
 時計を隠した犯人は探すまでもない。
「またいつもの発作?」
「買いものに出かけてるあいだにだれかが時計の針を動かしてたんだってさ。それで気味悪くなって捨てたって。笑えるよね。そんなことあるわけないのに」
 愉快そうに目を細め、さくらはスプーンですくったオニオンスープを口に運んだ。その肩越しに犯人のうしろ姿が確認できる。すでに晩ごはんを食べおえた彼女は、現在、ソファに座ってローテーブルで家計簿をつけている。
 二ヶ月に一回、ひどいときは週に一回の頻度で、母は持病の被害妄想を発症する。最初に症状が出たのは二年前だ。自転車のサドルとスタンドが何者かによって細工されていると言い出し、調べてもとくに変わったところがないので、私も父もさくらも首をひねるしかなかった。そんなことが何度かあり、私たちは彼女が偏執病にかかっていることを確信した。しかし当の本人は自分は正常だと思いこんでいて、父がいくら通院を勧めようといっこうに取りあわない。主張が受け入れてもらえないストレスから、彼女はたびたび癇癪を起こすようになった。
 世間が私に嫌がらせをしているの、どうしてあんたたちにはそれがわからないの。
 そう主張しながら、母はきょうもひとりきりで世間と戦っている。
「お姉ちゃん、時計取ってきてよ。たぶんまとめてごみ袋に入れて捨ててあるから」
「夕方から家にいたんでしょ。なんで取ってきてくれなかったの」
「だって面倒だし」
「ごちそうさま」
「半分も食べてないじゃん。もったいなーい」
 食器類をキッチンの流し台に運び、その足で勝手口を出る。エアコンの室外機の脇にごみを一時的に保管するスペースがある。紐で縛った雑誌や新聞紙の束に、可燃物用の半透明のビニール袋が載せられていた。消えた時計たちだ。
 リビングに戻り、重量感のあるビニール袋を食卓の上に置く。
「これでいいでしょ」
「ちょっと、こんなとこ置かないでよ。食事中なんだけど」
「二階上がってるから。あとは自分でやってよね」
 おそらく、時計をもとの場所に戻す作業は一時間もすれば帰宅するであろう父に押しつけられる。いがみあい、なすりつけあい。コントローラーにボタンがふたつしかなかった時代のテレビゲームみたいに、私たち姉妹はそれ以外にコミュニケーションの方法を知らない。
「まだあのこと根に持ってんの?」
 聞き捨てならない言葉に肩をつかまれ、階段へと向けた足を止める。振り向くと、さくらは椅子に座ったまま、うすら笑いを浮かべて私を見つめていた。
「お姉ちゃんが悪いんだよ。ひとりで勝手に盛り上がって自滅してさ。勘違い女に振りまわされたほうの身にもなってよね」
 マスカラで強調したまつ毛に囲まれた、蜜柑の房のような瞳が私の反応をうかがっている。
 むしゃくしゃする。
 さくらの自分が優位に立っているかのような勝ち誇った態度にも、なにも言い返せない自分にも。
 ささくれ立った気分を引きずって自室に戻り、ベッドにダイブする。抱きついたクッションの弾力が気持ちいい。この家で私にやさしくしてくれるのはあなただけだわ、なんてことを思いながら、充電プラグを挿しっぱなしにしていたスマホに手を伸ばす。
 バレー部のみんなとミスドなーう、やばい電車にすっぴんのキリショーに激似の人いてコーヒー噴く。きょうもタイムラインは私抜きで流れている。
 先月、SNSのアカウントを取得してクライアントをインストールした。ユーザー名は「情報収集」、プロフィールは空欄。鍵をかけたそのアカウントで、私はクラスの女子生徒を数名フォローしている。もっとも、彼女たちの生活を盗み見るのはもののついででしかない。主目的はべつにある。
 非公開リストから中原くんのアカウントのホーム画面を開き、つぶやきの一覧を読みこむ。女の子の影がないのを確認して安堵したところで、彼からのメールに返信していなかったことを思い出した。
 早く返信しなきゃ。そう思うのに、こわくてメールを開けない。開いたら中原くんの変装が解けてしまう気がして、開けない。
「相手が自分の一部になったり、自分が相手の一部になったり、恋人になるってそういうことだよ。血液も細胞も日々入れ替わっていくけど、自分のなかに組みこまれた恋人を締め出すことはできない。あまい記憶もにがい記憶も、死ぬまで残るんだ」
 バレリーナの跳躍のようなピアノの音とともに、遠い夏の日に聞いた言葉が頭によみがえる。その言葉は呪詛となって恐怖を増幅させた。
 相手が自分の一部になることも、自分が相手の一部になることも、私は望んでいない。私が渇望していたのは、恋人よりも遠くにいて、もっと身近に感じられる大きな存在。見えなくても、常に見守っていてくれる存在。喩えるなら、そう、真昼の月だ。私は中原くんに、真昼の月のままでいてほしい。
 絶妙なタイミングで中原くんから電話がかかってきた。画面に表示された彼の名前と心臓に悪い着信音が私を脅迫する。
 スマホをサイレントモードにしてクッションに顔をうずめる。
 母、さくら、玲奈、繁原くん。ちっぽけな私の世界は敵だらけだ。
 お願いだから、中原くんまで敵にならないで。
 私をひとりぼっちにしないでよ。
 冷たい手首に誘われて、きょうも私は剃刀をしまった勉強机の抽斗に手を伸ばす。
 近ごろ、死はどんどん身近なものになってきている。

                    *

 ジョイ・ディヴィジョン、と英語で書かれたアッシュグレーのTシャツが、雨に濡れて変色している。
「こんな天気の日くらい家でじっとしてればいいのに」
「それはおたがいさまでしょ」
「言えてる」
 夏休みが残り数日となったこの日、繁原くんは私のとなりの席には座らず、しっかりと露払いしたビニール傘をそこに置いた。濡れ鼠なりに気をつかってくれているのかもしれない。
 接近中の台風の影響で、今朝から雨が降りつづいている。私が大学に到着した時点ではまだ小雨だったけれど、繁原くんの様子からするといよいよ本降りになってきたみたいだ。なんでスエードのブーツなんて履いてきちゃったんだろう、といまさら後悔する。おまけに低気圧のせいで今朝から頭が痛い。なんて冴えない日なのだろう。
 いつもと違い、講堂内には両手で数えるほどしか利用者がいない。そのぶん遠くの席にいる集団の話し声が際立っていた。あるいは、彼ら彼女らはほかの利用者はいないものと見なしているのかもしれない。室内がペンを走らせる音と紙をめくる音で埋め尽くされているならまだしも、中途半端に静かだと、ついつい話し声に耳を立ててしまって、かえって勉強に集中できない。
「ねえ、なに読んでるの?」
「勉強中は極力話しかけてこないでね、じゃなかったっけ」
「私が話しかけるのはいいの」
「で、出たー、自己中奴ー」
 うざい。でもちょっと面白い。
 私が勉強しているあいだ、繁原くんは実にさまざまな本を読んで時間をつぶす。まじめに参考書を読んでいる日もあれば、コマ割りと絵柄がやたらと古い漫画を読んでいる日もあった。メモを取りながら家庭料理のレシピ本を熟読していた日などは、家で読めばいいのに、と思わずにはいられなかった。要するに、知識を吸収できればなんでもいいのだろう。この日は大判のムックを長机に広げていた。
「見せてよ」
「嫌だよ」
「なんでよ」
「おまえだって、第一理科室に入り浸ってる理由教えてくんないだろ。それといっしょ」
 深入りしないから深入りしてくんな、と言って繁原くんはムックをショルダーバッグに戻した。だったらこんなところでこれ見よがしに読むなよ、とこころのなかで反論する。
 さっきちらっと覗いたムックの誌面には、陸上選手のスポーツ写真と人体の解剖図らしきイラストが掲載されていた。こうもかたくなに教えたがらないということは、繁原くんが不登校になったのとなにか関係があるのかもしれない。
 一学期の終盤から、繁原くんは学校を事実上休学している。その原因について、クラス内ではさまざまな憶測が飛び交った。憶測が飛び交うのは彼が必要とされている証拠だ。信じられないことに、彼は女子生徒たちのあいだでひそかに人気がある。私が友だちづきあいをしている女子のグループにも隠れファンが三人いて、一日に一回は彼の話題が出ていた。
 聞くところによれば、繁原くんと親しいはずの中原くんや水野くんでさえ事情は把握できていないらしい。それどころか音信不通になっているようだ。そのくせ彼はこうして連日私の勉強を邪魔しにくる。なにを考えているのかさっぱりわからない。
「ちょっとトイレ。勝手にバッグ開けんなよ」
「約束はできない」
「開けたら罰金五万円だから」
 狭い通路を抜け、繁原くんが講堂を出てゆく。
 勉強を再開する気にもなれず、遠くの席にいる男女四人組を眺める。彼ら彼女らは熟練のジャム・バンドのように絶え間なく、軽妙に、笑顔で言葉を紡いでいた。会話の断片から察するに、四人とも私と同じ受験生で、つきあいは三年に満たない。それなのに、四人が四人とも自分の手札をすべて開示し、嘘いつわりのない表情と言葉でつきあっているように見える。
 うらやましくて、さびしくなる。私には友だちづきあいをしている女子生徒はいても本当の友だちはいない。こころを開く方法がわからないから、こころを開かれることもない。
 いつだったか、繁原くんは私に「五十嵐ってそんなキャラだったっけ。それともこっちが素?」と聞いてきた。答えは「両方」だ。猫を被っているつもりも壁をつくっているつもりもない。ただ自然とそうなってしまう。友だちづきあいをしている女子生徒たちの前でお愛想を振りまいている私も、苦手な男子生徒にきつくあたっている私も、両方とも、嘘いつわりのある私自身だ。
 頭痛が悪化してきた。長机に右肘を立てて頭を手のひらに乗せ、空いた手でスマホのパスコードを解除する。SNSのクライアントを起動してタイムラインを取得すれば、そこにあるのはどこまでも私に無関心な世界だ。親指の腹で画面をスクロールし、さほど親しくもない女子生徒たちのつぶやきを流し読みする。

 あずさ三号 @azu_cat_pretty 二時間前
 バイト先に化学の曽我部出現!なんか彼女と一緒だったし。ウチが注文取りに行ったらめっちゃキョドってたワラ

 真鍋綾香 @aya_m0302 一時間前
 @azu_cat_pretty 私この前シーでクラスの男子のデート現場目撃したよw

 幹谷ひろみ @hiromiki_bumplove 三十五分前
 @aya_m0302 だれー?(・∀・)

 真鍋綾香 @aya_m0302 十五分前
 @azu_cat_pretty @hiromiki_bumplove 中原くんw女子大生風のお姉様とベンチで仲良くアイス食べてた(*´∀`*)

 あずさ三号 @azu_cat_pretty 二分前
 @aya_m0302 @hiromiki_bumplove 人選意外過ぎ。てゆーかまさかのJD笑

 画面をスクロールする親指が止まる。
 目にした文章が勢いよく私のなかに飛びこんできて、いっさいの思考を追い出した。どんな感想も出てこない。ただ強い衝撃だけがある。脳に銃弾が突き刺さったみたいだった。
 ひび割れた脳からこぼれ落ちた破片が内蔵を荒らす。
 やだ、なにこれ。
 どうしよう。
 どうしようどうしようどうしよう。
 吐きそう。
「五十嵐?」
 化粧室から帰ってきた繁原くんが怪訝そうな顔をしていた。私は口もとを押さえて席を立ち、彼と入れ替わりに退室しようとした。そのはずみにとなりの座席に置いていたバッグを倒してしまい、中身が床に散乱した。
「おい、五十嵐」
「ごめん、拾っといて」
 講堂を飛び出し化粧室に逃げこむ。幸いにしてなかは無人だった。一番手前の個室に入りドアに鍵をかけたとたん、吐き気が治まり両脚から力が抜けていった。支えをうしなった私は、膝頭に手を置いてその場にしゃがみこんだ。
 まだ中原くんがデートをしていたと決まったわけじゃない。グループで遊んでいてそのときたまたまふたりきりで行動していただけかもしれないし、見間違いの可能性だってある。いくら自分にそう言い聞かせても、ぐらついた気持ちを立て直すことができない。
 たいした用事もないのに電話してみたり、手をつないで街を歩いたり、なにかの記念日にはプレゼントを贈ったりする。そんなただの恋人同士になりたいのだと中原くんは言っていた。きっと彼は見つけたのだ、求めていたものを与えてくれる人を。そして求めているものが違う私は用ずみになった。
 中原くんの変装が解け、真昼の月が霞んでゆく。
 信じていたのに。
 私が嘘もいつわりもないありのままの自分でいられる相手は、中原くんだけだったのに。
 自動的に流れてくる涙が止まらない。
 これでまたひとりぼっちだ。

 霧状の雨がキャンパス内の広場を覆っていた。
 校舎から突き出た高い屋根の下、平らな石畳の上で踊る雨粒を見ながら傘を広げる。となりでは繁原くんが珍しくポーカーフェイスをくずしていた。
「しまった。教室に傘忘れた」
「取ってきたら? 待っててあげるから」
 ざっす、と言って繁原くんは講堂へと引き返していった。先に帰ってもよかったのだけれど、どうやら私が目あてでこの大学に足しげく通っているらしい彼を置き去りにするのは気が引けた。体調が悪いからと私がいつもより早く自習を切り上げたときも、彼は頼んでもいないのにつき添いを申し出てきた。もしかしたら、彼は本当に異性として私に興味があるのかもしれない。
 はたせるかな、疑惑の男は一分ほどして手ぶらで戻ってきた。
「パクられてた。悪いけど駅まで傘入れてくんない」
「好きでもない男子と相合傘する趣味はないの」
「風邪ひいたら言い触らそうかな、五十嵐さんは学校でリスカしてて、休日もバッグに入れて剃刀を持ち歩いてるメンヘラです、って」
「メンヘラじゃないから」
 しぶしぶ了承してやると、繁原くんは柄の部分を握って傘を引き取った。ブーツが濡れないよう、慎重に水溜まりを避けて大学の敷地を横切る。
 ただでさえ活気のない真夏の学生街は、台風が近づいてくるにつれてさらに人通りが少なくなっていた。霧雨のせいで、景色がすりガラス越しに見ているようにぼんやりしている。私と同じだ。バッグに常備しているロキソニンを飲んだら痛みは少しましになったけど、化粧室を出てからずっと頭の働きが鈍くなっている。
 もうすぐ二学期がはじまってしまう。それまでに考えを整理し、中原くんとの関係に終止符を打つ準備をしておかなくてはならない。もはや彼が私の求めていた人でないのははっきりしているし、彼もまた私を求めてはいないのだから。そこに目をつむって密会をつづけても先はない。決断すべきときが来たのだ。
 だけど私には、決断できる自信がない。
「あのさ、一個質問してもいいかな」
 当たり前のように右側を歩く繁原くんは、右半身が傘に収まりきらずに濡れている。私は濡れていない。また、自動車が通ると、彼は私の肩甲骨のあたりに手を添えて歩道の端に寄せようとする。こういうことをしてもわざとらしさを感じさせないのが彼のずるいところだ。そのずるさに免じて、私はどうぞと答える。
「前々から気になってたんだけど、五十嵐はなんでこんな一生懸命勉強してんの?」
「なんでって、受験生が大学の自習室借りる理由なんてひとつしかないでしょ?」
「じゃなくて、ほら、いい会社に就職したいとか、知識を増やしたいとか、親を喜ばせたいとか、あるじゃんそういうの」
「なんでだったかな。忘れちゃった」
 そう答えたのは、繁原くんにいじわるをしているのではなく、まぎれもない本心だった。むかしはちゃんとした目的があったはずだけど、いまはもう覚えていない。だれかに認めてもらいたかったような気もするし、だれかにあやつられていただけのような気もする。
 駅が近づくほどにこころ細くなってくる。片側二車線の道路をまたぐ短い陸橋を渡りながら、私は中学生のころに父から借りて読んだ科学の本の内容を思い出していた。
 地球の自転軸は、月がもたらす潮の満ち干きによってバランスを維持している。もしも月が消えこのバランスがくずれれば、気候が変動し、現在接近している台風とは比べものにならない暴風が地上を襲うかもしれない。大地は荒れはて、月の影響を受ける多くの生命が死に絶えるだろう。月のない世界。それはとてもさびしい世界だ。
 そうなる前に、手を打っておかなくては。
「どうした? 忘れものでもした?」
 繁原くんがこちらを振り向く。陸橋の途中で、私は自分でも気づかぬうちに足を止め、彼が持つ傘の庇護下を抜け出していた。細かく冷たい雨が髪の分け目に浸透する。
「私も一個質問してもいいかな」
「は?」
 これから私は真昼の月が消えた世界で生きていかなくてはならない。
 勇気がほしい。
 それが無理なら、せめて勇気に代わるものがほしい。
「繁原くん、私に興味があるって言ってたよね。あれってどういう意味?」
 突然核心にふれられ、繁原くんが女性向けの傘を差したまま目をしばたたかせている。
「まさか私のことが好きだなんて言わないよね」
 これは賭けだ。勝っても負けても、どのみち私は同じこころの病気に罹ったたったひとりの理解者だと信じていた男の子をうしなう。だけど繁原くんの返答次第では、被害を最小限におさえられるかもしれない。孤独にならずにすむかもしれない。
「……そうだよ」
 赤い傘布で顔の上半分を隠して、繁原くんは答えた。
「一学期に同じクラスになってから、ずっと気になってた。ていうか察しろよ」
 雨音にかき消されそうなこの夏二回めの告白を、表情の異なるふたりの私が受け止めていた。
 ひとりは十七歳の少女としての私だ。彼女は純粋に喜んでいる。たとえ相手が好きでもない邪魔者でも、好意を寄せられるのは悪い気がしない。自分の価値が認められたような充足感がある。一方で彼女は冷静に考える。繁原くんが連日私につきまとっていた理由は本当にそれだけだろうか、まわりくどいアプローチにはなにか裏があるのではないか、と。
 もうひとりは賭けに勝ったクランケとしての私だ。彼女はほくそ笑んでいる。
 利用できる。
 繁原くんの好意は、利用できる。
 ふらふらとした足取りで、私は赤い傘の下に退避した。濡れそぼった肩に、繁原くんの大きな手が添えられる。その手は背中にまわりこみ、私は彼に抱きとめられたような格好になる。
「返事、聞かしてくんないの?」
「その前に、繁原くんに知っておいてもらいたいことがあるの」
 おそらくここからはじまるのだろう。我執と自己欺瞞に満ちた、私の青春が。
「知っておいてもらいたいこと?」
 私は不完全な人間だ。欠陥だらけで、自分ひとりの力では、歩くことはおろか、立っていることすらままならない。真昼の月が消えた世界で生きてゆくには、道連れがいる。
 だから繁原くん、
「……私が放課後の第一理科室でなにをしているか」
 私はあなたが、ここにいてほしい。
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