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 1
 あの電車の乗り心地というか居心地は、まったくよくなかった。と後に振り返った時、そう思うほどの不快感を二階堂は味わっていた。
 揺れる車両。絶え間無い振動のリフレインにうんざりする。そんな車両に彼は根が生えたように動くことが出来ずにいた。汚れた座椅子に沈み込むように座る。立ち上がることができるのかどうかすら疑わしい。

 気分は最悪だった。いつから最悪だったか。と二階堂は思いを巡らせる。答えは出なかった。考えることすら億劫で、そして意識がはっきりとせず。文字と文字がばらばらになり、それは二階堂に緩やかで、それでいて深い、不快感すらも麻痺するほどの絶望を与えた。
 彼は絶望を与えられたのか、果たして自らその十字架を背負っているのか。

 さて、これは彼の故郷へと向かう電車。二階堂は窓の外の景色を見るともなく見ていた。
 頭の中は自身とその周辺で起きた決定的な転換期のことを考えたくなかったので、彼の幼少期から12歳まで過ごした故郷に帰るのは何年ぶりだったかと計算する。

 が、こんな簡単な計算すら彼の頭はバラバラで、うまく解を求めることが出来なかった。

 二階堂琥珀の以前のメンタリティを考えると、そんな自分に何かを語りかけても良かったものだったが、そんな気配は微塵も感じられない。ここにいる生まれてから16年間立つ1人の人間は気配が死にかけていた。

 2

 日が沈みかけていた。
 新幹線に乗っていたはずの二階堂はいつの間にか電車に乗っていた。8人掛けの座椅子に座って琥珀は前を見ていた。いつからかゴォォォという低振動の音の小さな新幹線の音から、ガタンゴトンという一定のリズムで振動を二階堂に与える乗り物に変わっていた。

「そんな馬鹿な・・・・」

 ようやく琥珀が声を漏らす。

「(長い間乗っていたが、確かにぼうっとしていたが、いつの間にこんなことになっていたんだ・・・?)」

「(何故だ・・・?)」

 揺れる車両、外の音がよく聞こえる。ここと外は余程間近であることが琥珀には感じられた。
 夕焼けが世界を黄昏に刻んでいる。背後の窓から差し込む沈む日に照らされながら琥珀は呟く。

「はは・・・・とうとう頭おかしくなったのか・・・」

「・・・・なんてな。新幹線に乗ったと思ったら電車にでも乗っていたのか・・・乗り換えたことを俺が覚えていないだけか・・・それか他にいくらでも理由はあるだろう・・・」

 自律神経の狂った二階堂琥珀が取り戻そうと機能する正常性バイアスは果たして効果があるのか。今の彼は世界を疑うくらいなら自分のことを疑った。

「(眠いな・・・・)」

 二階堂琥珀は歌い疲れた、雑踏の中のボーカリストのように眠った。

 3

 ふと琥珀が目を覚ました。二階堂琥珀は地平線の所にある、差し込む日に目を当てられて、目が覚めた。

「(とても長い間寝ていたような気がする。)」

 二階堂が目覚めた時には先ほどより意識がはっきりとしてきたが、二階堂はその事にまだ気づいていない。このような感覚はやはり、長い時間が経たなければ、また明確な思考の透明さを比較出来る出来事が起きなければ気が付かないものである。例えば人に言われて、はて、そうだったかと言うようにこの手の、思考の明確さと煩雑さの揺らぎは主観ではその存在、状態を確認しづらいものである。

「(けっこうな時間を寝ていた気がするが乗客は誰も増えていないな。)」

 斜め前左に見える夕陽。が、しかし。それは夕陽ではなかった。太陽ではあったがそれは夕陽ではなく。

「もしかして、あれ朝日か?」

 そう。この美しい空は夕焼けではなく朝焼けであった。いつの間にか沈んだ日はまた昇り初めていたのだった。二階堂琥珀は12時間前後寝ていたことになる。

 そもそも二階堂琥珀が電車であまり寝る方ではない。

「12時間以上も寝ていたのか。ぐっすりと座ったまま?」

 二階堂はそのことに不自然さを感じた。周囲を見渡す琥珀。

「(電車が碧い地面を走っている。)」

 そう琥珀が誤認したのも当然のことだった。本来そんなものは世界に存在していなかったからだ。二階堂琥珀が載る電車は海の上を運行していた。訂正すると、この場合運航、という漢字表記になる。
 背面は海。どころではない。正面も、左右も、全てが海だった。

「ーーーーーーーっ。」

 息を飲んで勢いよく立ち上がる琥珀。一刻も早くここから抜け出さんとばかりの立ち上がり様だ。ぐるりともう一度見渡す。

 やはり海の上を電車は走っていた。

「車両室に行けばっ・・・!」

 スーツケースを引きずり、車両と車両を繋ぐドアとドアを開け車両を行く。琥珀の他にはどの車両にも人はいなかった。

 車両の中を歩いているうちに海の上を走っているという実感が現実感を帯びて琥珀の体の情報となっていった。何故なら潮風が二階堂の鼻腔を刺激する上、西日がキラキラと喝采するように二階堂の目の水晶体を収縮させたからだ。

 私鉄線特有の広告はほぼ無くなっていた。僅かに車両内に残った広告はどこかの学園の広告、白衣のアルカイックスマイルの男の広告などが掲載されていだ。他には若い学生と見られる集団の画像が載ってあるだけの、文字も何も無い、広告としての効果を成すのか不確かなものがあった。

 ガラガラとまるで大切なものを全て積み込んだかのようなスーツケースが異次元と現実の間で二階堂の意識を繋がらせる。

 五回車両を繋ぐ通路を抜けて、ようやく先頭車両の車掌室にたどり着く。だが、そこにこの電車を運航しているはずの駅員はいなかった。

「何故だ?」

 車両室のドアに手を掛けたが、ドアノブはガチャガチャと音を立てるだけでまったく開かない。ピクリともドアと錠の引っかかりすら感じられない。まるで密着されているかのようだった。
 超自然的なことの連続に苛立ちと気味の悪さを覚え、二階堂は車両室のドアを蹴りあげたくなったが、辞めた。

「(先頭車両にはいなかったが、1番後ろの車掌室に駅員がいるかもしれない)。」

 先頭車両に駅員がいる可能性よりさらに望みは下回るが、来た車両を戻り、今度は七回車両と車両の通路を通り、最後尾の車両に着いた。
 車掌室にはやはり人の影は無かった。近づいてドアノブを回したがやはり開かなかった。

「訳が分からん。」

 思わず、といった様子で彼は呟いた。

 しばし呆然としながら近くの8人掛けの椅子に座った。呆然とする、といった自体に遭遇することは二階堂琥珀にとって珍しいことではなかったが、それでもここまで超自然的な出来事に出くわすのは初めての体験だった。

 それから彼は腕を組んだ。

「訳が分からん。」

 また、ともすれば少し間の抜けた、見る者によっては余裕すらあるような様子で彼は言った。

「(訳が分からん。・・・・か。そういえばあの六年間で何回そう思ったけか。)」

「無人走行の電車が許可される法改正でもあったのか?いや、それは無い。少なくともこの国ではないはずだ。そもそも電車や飛行機などの生命を一時的にでも預かる乗り物の自動操縦は、責任のありかが曖昧になるためにオートパイロット化は絶対にないはずだ・・・・・」

「(絶対に・・・・?そう言いきれるだろうか。)」

 そこまで考えた時二階堂は外にもう一車両同じ電車が並走してきた。
 三十mほど離れたその電車は二階堂の乗る電車を追い越し進んでいった。すると次の瞬間耳をつんざく大きな音が鳴った。日常生活ではまず体験しない音量の轟音と共に前を走る電車が有り得ない挙動をした。車両はバキバキに分解され、先頭の方の車両が横倒しになったかと思えば後方の車両はそれに引きずられる形で海に沈み込んで行った。海が大きく渦巻きながらその電車を飲み込んでいった。波の余波が二階堂の乗る電車にも叩きつけられ、車両が大きく揺れる。

 沈み込む電車から強制的に離れて行く。二階堂の乗る電車が不吉な軋みを上げた。
 そんな中で二階堂は冷静になろうとした。この圧倒的不自由。圧倒的に巨大な一人間の力なんてまったく及びもしない世界で彼は生きてきたのだから。

「さて、最悪の場合この電車ごと海に沈み、俺は溺れ死ぬわけか。」

 腕を頭に支えながら琥珀はそう思った。
  彼は少し笑みを浮かべた。それは見る者を恐れさせる狂気の笑みだったかもしれない。

「沈むまであとどれぐらい時間があるか・・・・」

 携帯で助けを呼ぼうかとジーンズの尻ポケットからスマートフォンを取り出したが、電波はまったく入っていなかった。最悪の想定を発展させる。

「そのあいだに俺が出来ることと言えば・・・自分の人生を思い返し、死を受け入れるための準備をする。」

 海の青さが二階堂琥珀にはやけに美しく現実的に見えた。

「もしくは、窓を割り、脱出して生き延びる僅かな可能性を頼りに生きて見るか。」

 しかし生き延びる可能性は限りなく低いことは彼にも分かっていた。まず、窓は割れるのか。電車に使われるガラスはその性質上頑強なものが使われている。割れる可能性は低いだろう。ほぼ割れはしない。そして、海に出られたとして、助かる見込みはそこまでいけば相当薄くなる。
  座して死ぬか、抗って死ぬか。

「死に向かうか、生に向かうか。諦めるか、諦めないか。俺の心の有り様だけの問題だ。それを選ぶことが出来る。」

「俺は人間だ。そして人間は自由意志を持っている。」

 全身を動かす力。それを根幹を成す精神。これこそが二階堂琥珀が地獄をさまよい得たかけがえのない輝きを放つ宝石あった。

 二階堂琥珀はスーツケースを開いた。
 果たしてスーツケースの中には彼が期待するものは入っていなかった。そのため、スーツケースの中身を全部ぶちまけた。彼がかつての生活の中で故郷に持って帰りたいと望んだもの全てを捨てた。
 スーツケースを救命用具のスチール代わりの浮き具にする。

 ガンガンガンガンガンと彼は肘で窓を割ろうと試みる。何十回と試みたが、窓には引っかき傷のような小擦り傷のような跡が残っただけであった。

「割れろ・・・・!!」

 二階堂琥珀は全身の激しい入酸素運動で相当息が苦しくなっていた。そして迫るタイムリミット。割れる前兆すら見えない窓。

「まだだ・・・・・・・っ!」

 二階堂琥珀の孤軍奮闘は今に始まったことではない。しかし、孤独な彼の孤独な戦いがこれが最後となってしまうのか。
 だが、彼はまだ諦めていない。

 しかし、窓に打撃を続けていると景色が変わった。

 桟橋。波打ち際。砂浜。陸地。

 目の前にはいつの間にか陸地が広がっていた。彼は窓を割ろうとするのに集中していてだいぶ近づくまで気が付かなかった。
 島が見え始め、二階堂琥珀はその体を止めた。彼がよく目をこらすと、朝焼けに照らされる山と建物が見えた。
 一際大きな建物とそれに付随するたくさんの建造物があった。

 二階堂琥珀は電車の緩やかな減速を感じていた。

「・・・なんだ。」

 息を漏らし思わず彼は笑った。
 電車は減速を続け、止まった。シューッとすました機械的な様子でドアが開く。

 散らばったスーツケースの中身を集め、電車を後にする。彼は駅の停止した場所へと降り立った。
 そこは白いザラザラとした石で形成されたプラットフォームだった。波が静かなここに唯一の色彩をもたらすように控えめに打っていた。

 近代的な建物には、誰1人として姿を見せることなく、大規模な駅施設が寂しさの中に佇んでいた。
 電車は彼を吐き出すと、動き出して行った。

 彼はプラットフォームに寝転がると大笑いした。汗をかいた上半身の服を脱ぎ、大地に寝そべって空を見た。高く澄んだ空だった。それに伴って開放的な空気がした。

 それから駅施設の中を見たが誰1人いなかった。

「(ここはどこなんだ?一体どうなってるんだ?。)」

 駅内の地理などの情報を探したが、手がかりは何一つ無かった。

「(誰もいない。)」

 仕方が無いのでスーツケースを引いて、奥へと進む。階段があり、それを登ると、洋風の門があった。それを開け、舗装された道を琥珀は進んだ。

 舗装された道とそれから外れると林の空間になっていた。かさかさと葉が揺れ合っていた。やはりこうも整備されていて近代的な香りが漂っていて、舗装道路も幅が広く、その広さに比べて人のいなさが奇妙であった。
 二階堂は大きな建物に向かって歩いていた。それはドーム状の近代的な建物だった。
 やがてそこにたどり着く。庭園や、芝生など、本格的に整えられた施設なのだが人の姿は無い。
 だだっ広い庭園を通っていて、時計台があったので琥珀が目をやると時刻は9:08。自前のスマートフォンと比べると時刻は精確に一致していた。

「(全体的にここらの施設は生きている。が、ここがなんなのか分からない。)」

「(研究機関か何かなのか?)」

 大きな建物まで行き着くと入口の自動ドアが開いた。

「ここは・・・・」

 二階堂琥珀はここが初めて何らかの学校施設であることを把握した。何故なら掲示板があり、そこに部活勧誘ポスターのようなものや、時間割などが掲載されていたりと、学校関連の掲示物が多くあったからだった。

 しかし、それがわかったところで人を探すという二階堂の基本方針は変わらず人を探し歩いた。彼は受付らしきところにある電話をとる。
 受話器を耳に当て、知っている番号を入力する。だがいずれもツーツー。という音を耳に届けるだけで誰かに繋がることは無く、受話器を戻した。

 ドアを開けると、そこは教室だった。大学風の教室で、中心からやや円になった形のものだった。十数人くらいの人間がそこで座っていた。そこの人々の視線が一気に彼に集中した。奇妙なことにみな一様にみすぼらしく、汚れた服、肌から髪、靴、持ち物にいたるまで全て、人としてぎりぎりの状態の持ち物ばかりを持っていた。
 そして全員落ち着きがなく、余裕が感じられないようだった。彼らはお互いに喋っているわけでもなく、ただ座っていた。部屋に入った途端二階堂は息苦しさを味わった。

 二階堂は前から2番目の席の人間に話しかける。

「ここは何処なんだ?君たちは?」

 ぼさぼさの髪の長い人間がいた。濃紺のセーターに油と汚れ塗れのズボンを履いたその人間はガラガラというドアの音につられてこちらを向いていた。とてつもなく怯えた様子を見せた。

「はい。私は駄目な人間です。生きている価値も、意味もありません。この社会で駄目な私は生きていく資格がありません。私の様な命の価値はまったくありません。この社会にご迷惑をかけて生きているのが心苦しいです。」

 その汚い人間は強ばった面持ちでこちらを見ないまま震えるソプラノの声で二階堂に答えた。

「え?」

「(何を言ってるんだ?)」

 二階堂は驚愕し、何を言ってるのか理解できなかった。
 その二階堂の様子と「は?」という反応に、さらに怯えた様子を見せた。

「私の心の中は申し訳なさでいっぱいでございます。深い心からの反省と自助努力が私には足りませんでした。本当に申し訳ありませんでした。ほんとうに申し訳ありませんでした。本当に申し訳ありませんでした。本当に申し訳ありませんでした。本当に申し訳・・・・ありませんでした。本当にもうし訳ありませんでした。ほんとうに・・・申し訳ありませんでした。本当に申し訳っありませんでした。本当に申し訳ありませんでした。ほんとうにもうしわけありませんでしたほんとうにもうしわけありませんでしたほんとうにもうしわけあり・・・・・・・・」

「(なんだ?なんなんだ?)」

 ボソボソと消えそうな声で何かに操られたかのように音を吐き出し続ける。

「少し、落ち着けって。」

「俺は何もしないから。」

 二階堂にしては精一杯、穏やかに言ったつもりだった。

 だが、彼女様子から怯えや何かの感情は解かれないようだった。全員似たような様子だった。二階堂はそんな彼らを少し哀れに思った。全員表情という表情がなかった。

「俺は何もしないし危害も加えるつもりなんてない。ただ訪ねたいだけだ。ここは一体どこなんだ・・?」

「・・・ここはヒューマンスクールです・・・・」

「ここの地理が知りたいんだ。このヒューマンスクールは何県のどこなんだ?」

「・・ここは・・」

「何言ってるんですか?誰でも知ってることですよね・・・・?あなたも・・・・あれをしたからここに来たんじゃないですか・・・?」

「それはどういうことだ?あれって?」

「・・・・・・・」

 目の前の人は黙りこくった。二階堂のことを無視しているわけではないが、何か言うべき言葉が見つからないように見えた。 その人は何か言おうとしては黙り、言おうとしては言葉が続かなかった。何かを言おうとしているが、一向に喋らない。

「あれっていう代名詞ではなく・・・・・・・・いや、他の人はいないのか?大人は?」

  その人は受け答えに疲弊をしてきたように見えたので二階堂は途中で質問を変えた。

「・・・・・これから先生方が来ます。」

「ありがとう。」

 琥珀は歯がゆさにも似た苛立ちを感じていた。

「(なんでこんなに怯えているんだ・・・・?そしてこの格好は?何故が?この人達の家庭状況が悲惨だとでも言うのか・・・?)」

 その貧困さと、どうしようもない家庭状況を想像して、二階堂は歯がゆさにも似たいらだちを感じた。しかし、彼らをこれ以上困らせない為に顔や仕草に微塵も出さなかった。琥珀は立ってその人物の到来を待っていた。その大人に諸々の質問をするつもりだった。彼らのこと。ここの場所のこと。

「(この人達の様子が変だ。異常と言ってもいい。)」

 彼らは琥珀の方をちらちらと見ていて、依然として落ち着かない様子だった。

 小汚い様子の彼らの全体感は最先端的な施設の中に浮き上がる異物のように悪い意味で目を引く。胸のところにあるスカーフはボロボロの小布のようだった。そして彼らは終始うつむき加減だった。
 その時、ドアが開き、幾人かの背広を着た人間が入ってきた。何やら談笑しながらその人間達は一斉に作業をし始めた。二階堂や他の人をちらっとも一瞥すらしずに、慣れた様子で箱を地面に置いたり、教卓の上で何か資料を手に開いた。

「?」

「お尋ねしたいんだが。」

 二階堂琥珀はその背広を着た集団に話しかけた。

「何かな?」

 ニコニコと笑顔の男が答えた。

「まず1つ、ここはどこなんだ?ヒューマンスクールって言ったか。」

「その質問には私たちは答えられないな。ここはねぇ。君たちのような問題のある人間が更生することが出来る唯一の場所なんだ。それから君もこの学校の生徒になるんだからね。私に敬語くらい使わないとね。」

「答えられない?それにここの生徒になるってどういうことだ?」

 そこで目の前の太った男が笑顔のまま言った。

「敬語を使わんかぁ!!!」

 バンとその男は力いっぱい教卓に腕を振り下ろした。
 その行為に後ろの生徒たちはいっせいに震える。かなり恐怖しているようだった。息が乱れ、目をつぶって怖がった。この大人達はどうやらこういうことにすっかり慣れた連中のようだった。
 二階堂は怒鳴り声と威圧には動じなかった。
 それより二階堂はこの生徒達の様子を見て怒りを燃やしていた。この教師達が入ってきた時から生徒達の目に恐怖の色が強くなったように見えたが、その元凶がこいつらにあるとその時確信した。元凶。何をどうされたのか、何をしたのかしらないけど人をこんなふうに追い込んだこの大人達の方が悪いに決まっている。

「嫌だね。人にものを頼むならまず自分から実践したらどうだ?」

「なっ・・・・!」

「ここの生徒達の自尊心を奪うだけ奪っておいて自分たちだけ尊敬されたいのか?」

 この言いようには場の誰もが硬直した。
 笑顔の教師たちは今度こそ全員表情を豹変させた。

「教育的懲罰!教育的懲罰だ!」

 そんな大義名分の元ホルスターに収められた警棒を引き抜き、二階堂に殴りかかった。

「お前達みたいなのがいるから・・・・!」

 二階堂は呟き、数歩下がった。机と机の間に下がり、道を狭くし、同時に彼にかかれなくする。
 男が警棒を振り下ろそうとするが外す。二階堂はそのままカウンターの形で拳を叩き込もうとした。二階堂の目論見は実現するはずだった。だが机に座っていた生徒たちがいつの間にか立ち上がり、後ろから彼を捕んだ。事態を一瞬のうちに把握する彼だったが、次のコンマ数秒後に電気の流れる警棒を何本も連続して打ちいられ、彼の景色は暗転した。

「つ・・・・捕まえました!やったのは僕高田です。危ないと思いましたが、先生たちのために身をなげうってやりました!」

 それから琥珀をつかんでいたもう1人の男が言った。

「偉大な先生たちの教育をこの問題児に速やかに行えるようお手伝いしました!確かに危ないと思いましたが先生たちが抱える危険を比べたら大したことありませんよね。」

 背広のやつらは頷いた。

「それにこいつはまったく社会の常識を理解していないみたいでいらいらしたからです。」

「みんなようやくわかってきたみたいだなぁ。」

「こいつに早く教育プログラムを受けさせなければなりませんね。」

「高田に1ビロー与える。特に鵲は少しは教育プログラムを理解してきたみたいだから一気に2ビロー与えるぞ。」

 にこやかにその男は言った。

「「ありがとうございます!」」

 鵲と呼ばれた男は内心ほくそ笑んだ。逆に高田は内心鵲に対して腸を沸え繰り返していた。

「(こいつは1ビローももらいやがって・・・)」

 逆に鵲の方は優越感に浸っていた.

「お前らは。」

 顎と首が分からなくなるほど顔周りに脂肪の着いたその男は他の動かなかった生徒たちに向かって言った。

「まったくもってたるんでる意識の足りない奴らだな。」

 白い目を向けながら、心底呆れていた。

「お前らは駄目な人間の中の駄目な人間だ。何やっても長続きしない。口を開けば言い訳ばかり、少しも努力をしようとしない。そんなお前らを俺達は見捨てないでやっているというのに、お前らはまったくもって結果を出さない。世の中の人間は俺達ほど甘くないぞ?世の中の人間はお前らなんかすぐ捨てられるからな?」

 その男の言葉に誰もが真面目な面持ちで話を聞いていた。メモをとっている生徒までいる。

「おい、お前、自分のどこが駄目だったか言ってみろ?」

「はい、わたしは・・・・・」

 それから1時間過ぎてもそのやり取りは続いた。今回教師たちに媚に媚びた形となった高田と鵲以外は延々と自己批判と否定を繰り返させられた。そしてそれを見て鵲と高田は優越感に浸っていた。


 二階堂が飛び起きた時、薄暗い明るさが目に付いた。頭がズキズキした。黄色の明かりが1つしかない部屋に二階堂琥珀はいた。
 この部屋にはベッドがなく、冷たい金網の上に琥珀は寝かされていた。

「(ふざけやがって。)」

 当然ドアは開かなかった。
 衝動的に蹴飛ばした。が、しかし開くことは無かった。

「(体力を温存しよう。冷静にならなければ・・・・)」

「(ここは頭のおかしなやつらの巣窟だったってわけか・・・何とか隙をついて脱出したいが、問題はここが半島なのか、島なのかという所だな。)」

 陸地続きなら、徒歩で逃走できるが、ここが島になっているのなら当然海を渡る手段がいる。

「(ふ・・・・・馬鹿な。ここのやっていることは憲法にも法律にもモラルにも反している。警察や世論に公開するだけで機能停止に追い込んで俺は助かる。)」
 
「(とはいえ。)」

「(情報を集めるのが先決だ。)」

 彼は服をダボダボのボロい制服に着替えさせられていた。これは先程の生徒達が着ていたようなボロだった。勝手に脱がされるというその過程を想像すると気持ちが悪い。一刻も早く脱ぎ捨てたかった。

 不意にブチッというテレビ特有の耳に聞こえるような肌に聞こえるような音がした。それはやはり映像が映し出される音だった。
 ガラス張りの向こうに巨大なテレビが設置されていた。不健康そうな光を二階堂琥珀に浴びせる。

「やぁ・・・気分はどうだね?少しは反省したかな?」

「・・・・・・」

「(監視カメラでこっちの様子を見てたな。)」

「勘違いしないでもらいたいんだが、俺達は君の為を思ってやっているんだ。」

「俺のため?」

「そう。お前を立派な社会人に、真人間にするために我々が心を鬼にしてやってるんだよ。」

「馬鹿いえ。いきなり電気警棒で襲いかかってきて真人間になるってか?。ふざけるな。」

 彼がそう言うと田淵は心底こっちを哀れんだ呆れた顔をした。画面の中の巨大な顔はさらに無視して続けた。

「とんでもない問題児だなぁ。それから敬語。目上の人には敬語を使うという守るべき社会の、人としての最低限のルールを教えてもらわなかったのか?それとも、そんなルールなの自分には適用外だと思ってるのか?ああ・・・・・なんて傲岸不遜。身の程知らず。敬語を使わないなんて今までは許されたようだが、社会は許さんぞ。」

 巨大なボリュームで、二階堂に語る田淵。だが、二階堂は普通の少年ではなかった。

「あんたらが敬語を俺に使うと言うのなら敬意とやらを表して俺も敬語を使おう。だが俺達にだけそれをすることを強要するのならそれは、敬意や尊敬を強要するということだ。そういった支配体制は人を奴隷にする。あの教室の彼らみたいにな。強要されて使う敬語はゴミにも劣る価値だ。その時敬語はへりくだり語になる。」

「尊敬するかどうかはこっちが決めるんだ!!」

 一瞬何かを考えるかのような素振りを田淵はした。

「あぁ~~~そうかそうか。お前は歪んでいる。人の道から外れている。こんな子供を世の中に放つわけにはいかないなぁ。世の中の迷惑になる。」

 無表情で琥珀の言葉を聞いていたかと思うと間髪入れず話し始めた。画面の中の馬鹿でかい顔と音量調節の狂った声が部屋全体を振動させ琥珀に襲いかかる。

「うぅぅぅぅんん。これは俺が許してもこの社会が許さないなぁ。お前はそこでしばらく反省しろ。」

「しばらく」という所に力を入れて糞デブイカレ野郎が喋ってから画面が消えた。琥珀はゴミカス害虫達が支配する学園構造について考えた。

「(まだまだこんなものではないだろうな。あの怯えきって心を失ったみたいな生徒達。あいつらはここで変なことをさせられてああなったんだ。)」

 電気警棒でうち吸えられた頭がズキズキと痛んだ。その痛みは消えることなく続いた。

「(クソ・・・・・・あいつら絶対許さん。)」

 琥珀は胸の中で復讐を誓った。
 2
 先生達の喋る授業を適当に聞く。聞く振りをしていた。彼の名前は大澤。

「(だるいな・・・・・)」

 彼は特に今日は集中出来ず、授業を聞く振りをしていた。空は晴れていた。一見この教室で行われているのは普通の授業風景のようだったが実際は違った。授業を聞く振りをする。それ自体がここにとっては命知らずな行為だった。

 その教室では坊主頭の背の高い男が教鞭をとっていた。机に座った生徒達のほとんどが熱心に授業を聞いているように見えた。生徒達の制服は統一されていなかった。教室全体を見渡して見ると綺麗なシワ一つない制服を着ている者がいれば、ボロボロでよたよたの汚い制服を着ている者までいた。彼らは貧乏だからそんな服を着ているのではない。やんちゃにしすぎて服がそうなったわけでもない。答えはヒューマンスクール側がそれらの着用を義務づけていたからであった。

 ビロウ制度。生徒間にはビロウと呼ばれる点数が存在する。このヒューマンスクールではそのビロウが特に重要な意味を持っていた。教師は生徒にビロウを足したり、引いたりすることが出来る。この教室内のビロウの多い生徒は綺麗な制服を纏うことが許されており、少ない生徒は逆に劣悪な服を自分の衣としなければならなくなるのだ。

 故に、ほぼ全ての生徒達は熱心に教師の話を聞いていた。何度もうんうんと首振り人形のように頷く生徒達を見ていた大澤の目は今日にかぎってどこか冷ややかだった。

「(今日でここに来てから僕は1年目だな・・・・)」

 日に日に増してきた疑念が大澤の中で大きくなっていった。それは、

「(こんなことをして本当に意味があるのか?)」

 ということだった。大澤の周りの生徒達は相変わらず首振り人形だった。なぜそうなっているかと言うと、そうしなければビロウが引かれてしまう可能性があるからだ。普段は首振り人形にならなかったらそれだけでビロウが引かれてしまうことは無い。だが首振り人形にならなければ、問題を当てられる回数も増えるし、何より難癖をつけられるのだ。問題を答えられなければその答えられなかった回数が積み重なるごとに、ビロウが引かれてゆく。さらに周りの人間が皆首振り人形になっているのだ。自分だけ首振り人形にならないなんてことは生徒達には出来なかった。なぜならそんな風に教育されたからである。ざっと上げただけでこれだけの理由があったが、それ以外にも理由は絡み合い、彼らを縛り付けていた。

「(もしかしたら先生達のいうことは間違っているかもしれない。)」

 大澤は違和感を感じ、最初の疑念が芽生えた。教師たちの言うことに矛盾を感じることがあった。だがここではそんなことを思うだけで反省室行きだった。反省室には誰も入りたくはなかった。
 大澤はここ半年ほど息苦しさを感じるようになっていた。だがその息苦しさの正体が判別出来なかった。

 授業が終わりに差し掛かった時のことだった。不意に坊主頭の教師が授業とは違う話をし始めた。

「また自殺した生徒が現れたみたいだけど、なんでそんなすぐに自殺するかなぁ。お前ら分かる?」

 大澤の頭も教師から聞かれたことがすぐに答えられるように回り始めた。当然教師に気に入られるように媚をうった回答でなくてはならない。教師をいい気分にさせる回答を。そんな自分に大澤は何故か今日は嫌な気分になった。

「(なんでだろ・・・いつものことなのに。)」

「鵲分かるか?」

 鵲は答えた。

「たぶん心が弱い人間だからなんじゃないですかね。弱くて駄目な人間だから何事からも逃げて、挙句に自分の人生からも逃げちゃったんじゃないかとたぶん思います。」

 それを聞いた猿顔の坊主頭は満足げににっこりした。教室の中で拍手が沸き起こった。生徒のほとんどが鵲に尊敬の眼差しで見ていた。
 死んだやつの悪口が教室の中で反復された。それは授業が終わってから、休み時間になっても続いた。大澤も自殺したやつは駄目なやつだと思っていたが、沸き起こる悪口に加わる気持ちが何故か今日は起きなかった。

 次は教室を移動して体育館へと行った。
[ヒューマンスクール規則35条。移動の際は自分の所属する班で移動すること。]
 ビロウは0から10までの組みわけがあり、数字が多ければ多いほど何もかもが相対的に良くなる。

 9人ごとに班が分けられ、その9人でほとんどを行動しなければならなかった。大澤のビロウの数は1。通常1年ほどここにいる生徒はもっと多くてもいいくらいだが、この数字は最下位を表していた。疑問や息苦しさが出始めた半年前から何に関しても、教師達が教えて下さる素晴らしい人間になるための話も頭にあまり入らなくなった。そしてビロウが下がって行き、今に至る。大澤のビロウの階数はその班内でも一番下の位置だった。

 ビロウの低い大澤と田中と横井は汚い制服を汚いまま着ていた。ペタンペタンと破れかけたスリッパを履いて歩いた。みんなはどこか白々しい会話をしながら廊下を歩く。大澤はその中で何か1人でいるような気分だった。

「(息っぐるしいなぁ・・・)」

 体育館は生徒達でひしめいていた。二階のスペースから見下ろすような形で大澤の同学年の生徒達が集まっていた。一階には新入生達が集まっていた。これからいつもの授業が始まる。

 これから始まることも、この学校の自殺者が82人もいたことも、全部普通のことだと思っていた。全部、他の学校もそんなものだと、思っていた。大澤の日常はこれから大きく変わることとなる。



 暗く、腐った視線が二階堂に注がれる。ジメジメとした暗い部屋に二階堂はいた。
 
「仕方ないな・・・・俺としてもやりたくはないが、ああ仕方ないな・・・」

 田淵が自分に言うようにぶつぶつと言う。田淵が手元にある何かをいじっているのが二階堂から見えた。照明がいきなり赤く切り替わった。金切り声のような耳に不快な音が部屋に響く。低い何かの駆動音と振動が冷たい金網の上の裸足に伝わる。

 その時、激しい痛みが二階堂を襲った。

「ぐっ・・・・・・」

 足元の金網に電流が流されたのだった。殺人的な痛みが二階堂に襲いかかる。その痛みは痛覚を持っていることを心底後悔させるような痛みだった。永遠に続く焼けるような痛みに立っていられなくなり二階堂は膝を着いた。だがその苦痛も終わりが訪れた。

「お前は悪い子だ・・・・・今のはそう。し、つ、け。だ。」

 呻き声を上げる二階堂に愉悦感たっぷりといった様子だった。

「さっきの講義室でのお前のやった事、いずれも目に余ることばかり・・・・そうはさせんぞ。」

 その時不吉な音とともにドアが開いた。そして幾人かの男が入ってきた。二階堂の目からはどいつもこいつもまともには見えなかった.

「・・・・・」

 大の大人が固まって何も喋らずこちらを凝視する姿は不気味だった。男達はホルスターから警棒を一斉に抜き、二階堂に襲いかかってきた。
 二階堂は頭の中で危険信号が鳴り、迎え撃とうとするが焼けるような痛みと全身の痺れで体が動いていなかった。

 二階堂の背中に強い衝撃が走った。二階堂はそれからはもう滅多うちにされた。重い鉄製の警棒で大勢の人間に囲まれて一斉に打ち据えられた。

「痛いかっ!反省しろっ!」

「痛いかっ!反省しろっ!」

 警棒で殴りながら男達は口々に言った。

「反省しろっ反省しろっ反省しろっ反省しろっ!!!」

 口々に言うのと反省しろっという言葉が二階堂の頭の中でこだました。来た時と同じように唐突にやめるとドアから一斉に男達は出ていった。二階堂はしばらく動けずにいた。うち据えられてる最中は彼の頭の中は実は殺意でいっぱいだった。

 指一本も動かせなかった。その中で復讐を誓った。頭の中で反省しろっという言葉が何度も繰り返された.その度に殺意が塗りかさなれていった。

 それからその部屋で二階堂はずっと過ごすこととなった。薄暗い黄色ランプ1つしかない8畳ほど部屋にもう、何日もいた。時計も何もこの部屋にはなく、日付が分からない。食事は無言の教師が、白米を小さな穴から入れるのみ。
 二階堂は復讐するために食べた。粗末な食事とそれを食べることに感情が揺れたのは最初の一回目のみだった。後は二階堂の心の底の方で結晶となってわだかまった。

 だが来ない、誰も来ない。食事の時以外は一向になんのコンタクトもない。それがずっと続いた。ひたすら待ちの時間を強いられた。あらゆる情報が排除された空間。外との執拗なまでの断絶が二階堂を攻撃した。暗闇の中時々、唐突に電気が流れた。いつ訪れるともわからない電気ショック。そしてそれは死ぬ寸前まで流されたことがあった。

「(異常者が・・・・・・・ふざけるな・・・)」

 Day12

 とにかく苦しい。新鮮な空気をずっと吸っていないような気分に彼はなっていた。彼は彼自身の自由と尊厳が侵されれいることに激しいストレスを感じていた。これが普通の動物と人間が違う点なのである。

 Day32

 二階堂は閉じ込められている間に、太陽が西から登って東に沈むのを想像した。自分がこうしている間にも地球は太陽の周りを公転している。その様子や地球が自転する様子を想像した。

 Day40

「(日に三度食事が出ているとして・・・・今日で四十日・・・)」

 さすがの二階堂琥珀も相当意識が朦朧としていた。壁によりかかかって地面に寝ていた。

「(うまく・・・何かを考えられない・・・)」

 かさりと腕を動かす。

「(なんだこの・・・意識が混濁するような感じは。うまく何かを考えられない。ぼーっとする。)」

「(日光不足・・・・閉じ込められるストレス・・・か。)」

「(日光不足だったら・・・体内の何が分泌されないんだったか・・・)」

「(くそっ。)」

 思い出せない。

 今日。(おそらくだが)、ようやくモニターに田淵の顔が映し出された。

「(くそっ・・・なんだこれは。あれほどのことをされたのに心に強い拒否が示されない・・そりゃあそうだ。この苦痛から逃れるのはこいつ次第なんだから。汚ぇ・・やり方が汚ぇ。」

「こんにちわ。そういえばまだ自己紹介をしていなかったな。俺の名前は田淵しげる。君は?」

 酷く優しげな口調で田淵は二階堂に言った。それはとても穏やかで、こちらに非があるのは当然な気に人の気持ちを変える有無の言わなさだった。否定を繰り返して、肯定する。常習的にヒューマンスクールで行われている洗脳の手口だった。これらを繰り返すことで、まだ発達段階にある子供達は洗脳されていった。それに例外はなかった。二階堂も田淵のその人間的な穏やかで友好的な口調に二階堂の心にスッと入ってきた。加えて長時間の監禁で人恋しさを募らさせる。この何重にも張り巡らされた屈服の糸で絡み付けばどんな子供でも逃れられることはできない。それはヒューマンスクールが長い時間をかけて研鑽し、工夫を凝らした洗脳方法だった。その歴史の分だけこの施設での犠牲者がいたと言うことなのである。人が顔も体も想像できるのはだいたい十数人くらいだろうか。顔だけなら数十人?数百人分の顔や名前を想像できる人はそうそういないだろう。しかし名前を持ち、一人一人違う顔を持ち、心を持った人がいたのである。自由と尊厳を持った者の権利が侵され続けた。確固とした自由と尊厳を奪われた人の悲しみと怨嗟と苦しみが存在したのだ。

「俺は・・・」

 次の瞬間、二階堂の口から血が吹き出した。鮮血がたらりと口から垂れる。

「どうしたんだっ?」

 やや意表を突かれたように田淵が言う。
 二階堂の瞳に赤い血が映った。その血のあかさが二階堂に全てを物語った気がした。

「(俺は・・・・・生きている!!!!)」

「いえ・・・・なんでもありません。長いこと喋っていなかったものですから、舌を噛んでしまいました。」

「(ここから出るためだ・・・・・っ!!)」

 静かに二階堂琥珀は答えた。実はこの時二階堂は舌を噛み切ろうとしていた。二階堂は思わず敬語を使ってしまいそうになった自分の舌を噛み切ろうとしたのだった。二階堂にとっては、そんな舌はいらなかった。だが、だが、ここから脱出するために目の前のこいつに復讐するために。そのために今は面従腹背を実行する。二階堂の舌から血が滴り落ちた。確かな痛みで二階堂我は我に返った。そしてそこに自分というものを認識した。そうすることが彼の人間賛歌だったのだ。

「(徹底的にやってやる・・・・!!)」

「僕の名前は二階堂琥珀です。」

 モニターの田淵は満足そうに、実に満足そうにうんうんと頷いた。自分の教育の正しさを実感しているらしく、幸せそうだ。それは悪魔の愉悦だった。

「そうか。ようやくお前でも理解できたか・・・・・」

 少し立つとドアが空いて、田淵達がやってきた。二階堂は久々の外の景色を見た。それからまともなベッドと家具のある、部屋に入れられた。

「今日はここで寝ろ。」

 教師の1人がドアを閉め、鍵を締めた。

「抵抗してやる・・・・・!徹底的に・・・・・・っ!!絶対に・・・・・・っ!!絶対に許さん・・・!!」

 窓からの月明かりに二階堂が照らし出された。この時彼に火をつけたとしても彼は気にしなかっただろう。彼の中の炎の方がもっと熱かったからである。この先、誰も彼もが諦める中二階堂だけは諦めなかった。 二階堂はなんのために闘うのかはっきりとはまだ分かっていない。だが想いだけなら存在する。その想いはやがて確かな言葉となって彼の武器になることだろう。

【絶叫入学式】

 二階堂琥珀は今日の朝に起こされて連れていかれた。相変わらず、こちらを人間扱いすらしないような一方的な態度に二階堂は心底イラついていた。
 その途中で太陽を見た。

「(お日さんを拝むのは40日・・・960時間ぶりになる。)」

 強烈な日差しに手をかざす。それでも太陽の生命のシャワーを二階堂はしっかりと取り込んでいた。

「(・・・・太陽は全てを白日の元に晒す。)」

 二階堂は四階の窓からヒューマンスクールの全景を見下ろした。
 初日のことで教師陣は二階堂にかなりのマークをしていた。今日はほとんど従順な態度を二階堂は演じて見せた。二階堂の模範的な態度には多くの教師たちが気を緩めたようだった。
 
「(昨日の騒動を知るのは田淵、そして仲山、菅野、か。)」

 二階堂は昨日の講義室で最初に反論した時にいた教師の名前が教師たちから聞き出せた。

「(こいつらにはマークされてるだろうな。俺はここから脱出する。脱出するが、その前にやらなきゃならないことがある。)」

 教室に連れていかれた。生徒達はばらばらに席に座っていた。男子同士。女子同士で固まっていた傾向があった。生徒達はみんな不安そうだった。

「なあ。二人ともここに連れてこられたのか?」

 二階堂琥珀は男子に聞いた。

「・・・君は?昨日いなかったけど・・・・」

「うわっ。・・・なんだよお前その怪我・・どうしたんだよ。どんな事故に?」

「いや、事故じゃない。これはあいつらにやられたんだ。」

 それを聞き2人はサッと青ざめた。

「そんな・・・・冗談っしょ?」

 笑いながら琥珀にそう言う。だが二階堂は真剣な顔を破顔して笑い出したりはしなかった。依然として真剣な顔をしていただけだった。

「なんだよ・・・・なんなんだよそれ・・・!俺をどうする気なんだよ!」

「さァな。教育するとか言っていたが。やり口が洗脳施設の方法ばかりだ。みんなはここに来てから日が浅いんだろ?」

「なんでそれが分かったんだ?」

「洗脳されてないからだ。洗脳されていればあいつらに対してすっかり信じ込むようになっている。」

 そこにいる人々はさらに絶望した顔になった。

「嫌だ・・・・・帰りたい。もう嫌だ・・・ここから出して・・・・うちに帰りたい・・・」

 肌の白い男が言った。いきなりこんなわけのわからないままに連れてこられて、二階堂程じゃないにしろ、ここにいる生徒達は何かしらの圧力を受け恐怖を刻み込まれたようだった。

 ざわざわとささやきあったりしている人々。誰の顔にも恐怖が浮かび上がっていた。この人々は全員が汚い服に着替えさせられたようだった。誰も彼も自分の身に起きていることが信じられないようで、何が起きているのかもよくわかっていないようだった。さっきから俯いている白い顔の男は小松と言うらしい。

「俺達はどうやらとんでもないところに来てしまったらしい。」

 二階堂が言った。
 目の前の二人はとても疲れきっていた。疲れきっているだけではなく、もうなんらかの精神攻撃を受けているようだった。
 二階堂も二階堂で監禁の疲労がまだほとんど取れていなかった。

「お前らは?あいつらに何をされたんだ?」

「ぁあ・・・・俺達は持ってきたもの全部とられた。全部。俺の大切なものとかあったんだ。でもどんだけお願いしても没収された。一時預かりとか言われて・・・一時預かり?ってことはすぐに返されると思って先生達に質問したんだ。そしたら・・・俺達が真人間になるまでは返せないとか何とか言われて・・・」

「たぶんもう二度と返って来ない。」

 二階堂のその言葉に志間と小松だけでなく、その部屋にいる人間全員がざわついた。

「な・・・・なんでだよ!先生方は言ったぞ!俺達はいけない人間だから更生すれば返してくれるって。」

「洗脳施設の薄汚いやり口さ・・・・。俺達の全てをまっさらにするために、自分たちの全てに関わってきた、物は全て捨てるつもりだ。そうすることで自分達に都合の良い人間を作り上げるつもりだ。だから・・・あいつらは間違っても返したりはしない・・・!」

 二階堂琥珀は嫌悪感を隠すことなく吐き捨てるように言った。たちまちみんなが口々に喚き出した。

「嘘でしょ!こんな時にそんな冗談言わないでよ!不謹慎ね!」

 二階堂は詰めかける人々に自分がされたことを言った。

「冗談じゃない。本当のことだ。この傷も本当にあいつらにやられた。しかもあいつらの一方的すぎる意見に反論しただけで40日も暗い独房に閉じ込められた。あいつらはどうやら狂ってるみたいだ。」

 更なる驚くべき事実に今度は全員黙った。誰もがその事実を受け入れられずにいた。
 
「もういやだ・・・・こんなところだと分かってたら・・・あの人達なんなんだ・・」

「ここは一体どこなんだ?分かるんなら教えてくれ。」

 二階堂はそう、聞いた。

「そう。何も難しいことじゃないここがやっていることは監禁罪をはじめ、法律に違反することばかりなんだ。それをどうにかして外に知らせるだけでいい。」

「そ、それはできないよ・・・・」

「何故?今の世論でもちゃんと動くぞ。あいつらが社会が許さないとか、他のところも全部そうだって言うがそれは嘘だ。そうやって助けは来ないと思いこまされたり、疑う気持ちを無くさせ、無理やり納得させ人を支配しているんだ。」

「だってここにはこの島以外何もないんだから・・・・・警察なんてないんだ。」

「え?」

 二階堂は絶句した。

「ここはあの世なんだ。俺達みんな死んでからここに来たんだ。あの人達は自分達のことを神や天使の教えを広める宣教師なんだって。」

「君、死んだこと覚えてないの?」

「・・・・・記憶にない。いや、そんな事あるわけがない。俺はただ電車に乗ってここまで来たんだ。」

「そんなことはそう思い込まされたんじゃないのか。それも洗脳だろう。」

「でもスゲーリアルに痛かったよ。俺自動車に撥ねられたんだけど・・・・」

「(馬鹿な・・・・・こんなのは記憶の刷り込み・・・だが・・・)」

 二階堂の脳裏あるのはもう四十一日前の電車が海の上を走るというあの荒唐無稽の出来事だった。どこまでも人というものの基盤を揺らすのが洗脳施設の常套手段である。

 ガラガラッ!!

 という大音量と共に扉が開いた。大柄な男教師が立っていた。鷲鼻で目の下に隈があった。その異相の男は口を結んだまま二階堂達を上から下まで見た。ゴミでも見るよう目を向けている。二階堂以外はトラウマを植え付けられたらしくすっかり萎縮していた。

 そのままぞろぞろと引率されるがままに生徒達は連れていかれた。薄暗く圧迫感のある廊下を自由もなく連れていかれたその先は壇上であった。よくある学校の壇上だが、そこは力を見せつけるが如く、光量が多い。そのように意図的に演出されていた。

 一階部分に二階堂達が集められ、二階のバルコニーにはたくさんのヒューマンスクールの生徒達がひしめき見下ろしていた。誰も彼も冷たい目で今回の新入生たちを見下ろしていた。
 何か言われることもなく、態度でかしこまるように強要された。一列に並んで立たされ、その真ん中に田淵が立っていた。新入生の周りを囲むように教師たちが立っていた。教師たちは誰もが偉そうにしており、生徒側が自信を持った態度を持つことを妨害しようとしていた。

「えー、実はぁ!この入学式の前のみなさんの行動を今まで見させていただきましたぁ!」

 すーっとそこで田淵は息を吸い込んだ。

「常日頃より!染み付いている垢が!垢の匂いが!ぷんぷんしましたぁ!!」

「あいさつも、覇気がない!!」

 新入生は間抜けな面で田淵に釘付けだった。その響く声と明瞭な話し方で、教師達、新入生は聞き入っていた。
 二階堂琥珀はこの時点で嫌悪感が激しく湧き上がっていた。閉じ込められていた場所から出てきたが、ここも二階堂琥珀にとってはあの反省室と同じように息苦しい部屋だった。

「(あんな目に合わせられて元気よくあいさつなどする人間がいたらそいつはきちがいだ。)」

 二階堂は今回の新入生の中で1番の反抗をし、その際立った的確な理論と軸のぶれない意思に目をつけられた。それらが脅威であることはヒューマンスクールの権力者である教師たちにも分かった。それゆえに二階堂には一番高濃度の洗脳を受けさせたが、二階堂は全くヒューマンスクールにはなびいていなかった。
 だが、他の生徒は違った。

 髪の横を剃ったトサカのような髪型の新入生はもう完全にこの場に飲まれていた。彼はもうこの時点でなにも思考していない。ただ圧倒的に整えられたいやらしい支配の空気に飲み込まれていた。

「お前らは!前世で怠惰に生き!そして親に貰った命を投げ捨てた屑だ!今のお前らに!ヒューマンスクールに入る資格は無ぁい!」

 二階堂は笑いだしたくなった。

「(無理やり拘束しておいて、ここに入る資格は無いだと・・・)」

「(なら、今すぐこんな所出ていったやる。)」

 琥珀は大衆の中でそう大声で響くように宣言したい衝動に襲われた。だが彼は冷静さと復讐心をコントロールし、それを抑えた。
 二階堂にとっては笑えない冗談だったが、周りの人間にとってはそうではなかったらしい。他の生徒は真剣な表情で田淵の話を聞いている。二階堂にはそれが、それこそが最悪の気分になる大きな要員になっていた。部屋の中に漂う緊張感。
 それから、日常的な常識にヒューマンスクール流を絡めたことを大声で実践の練習や、反復をさせられ、その都度周囲にいる教師達は子供達に否定の言葉を大声で投げかけた。子供達は大人の言われるがままに言われたことをやることに必死になっていた。

 二階堂の部屋にいた子供達は最初の部屋で教師の行為の異常性を感じてることが出来ていたが、どんどんそれも怪しくなってきた。すなわち

「(うん・・・・いわれてみれば?あれって普通のことなのかな?)」

「(常識だって言ってたし・・・)」

「(言われたことできないし・・・・私間違ってたかも。)」

 二階堂は驚異的な演技力と精神力でそぶりに微塵も出さずにいたが、内心はさまざまな思いが渦巻いていた。だがそれらは・・・・・やがて怒りへと収束される。
 二階堂以外の四十人あまりの生徒はだんだんと洗脳されていった。

「(ぜんぜんできてないし、俺は駄目な人間だなぁ。)」

 純粋な子供達は大人という存在や、教師というカテゴリ、学校という社会を信じていた。だがここではそれを悪用した悪魔達がいた。いつだってシステムを作りそれを最大限利用するのは権力者である。そしてその社会の歪みや矛盾が一番顕著に現れるのはその社会で一番力の弱い存在である。この場合は、このシステムについて何も知らない子供達がそうであった。

 飛び交う絶叫。場は沸騰仕掛けていた。生徒達はこれからの自分の意気込みを語るアピールタイムへと入った。

「僕は!これまで!適当な勉強をして!適当な成績を残して!適当に学校通って!そこそこ!ずっとそこそこ!適当にやってました!」

「そうだそうだ!」

 新入生の中から声が飛ぶ。教師たちの話し方に似ているがどこか違う。そう、彼らは必死に叫んでいた。心の中は洗われるような気持ちでいっぱいだった。目からウロコのような気持ち。狂乱。

「本当に!真剣に!なんでも根詰めて真剣にやってこなかったです!!」

「うう・・・・・」

 その顔を歪ませ紅潮させて叫んでいた男は泣き出した。

「(何故泣く・・・!)」

 二階堂は思った。

「逃げません!最後まで諦めません!やります!よろしくお願いします!」

 泣き叫び深々とお礼をする男。

「やっと分かったかーっ!」

 そう言って田淵がその泣いている男に抱きついた。ばんばんとなんども叩く包容だった。

「やれよ!」

 男は感極まって泣いていた。その声をかけられたことが嬉しくてたまらなかった。

「(頑張ろう・・・・俺・・・やろう!)」

 次の順番の先ほどのトサカの髪型の男もアピールしたくてうずうずしているようだった。せわしなく動いてそわそわとしている。広角が上がっていた。
 その時二階堂にあるひらめきがあった。

「(そうか____これは懺悔と受容なんだ。罪人側である生徒達が懺悔し、神側である教師たちがそれを受け入れる。これは改宗の儀式をやっている・・・・・!!)」

「(やはり洗脳じゃないか。)」

 敵を知り、己を知る。琥珀は時に冷静な観察者にもなれた。

 そう思考していると次の生徒がよろよろっと田淵の前の歩み出た。それはトサカの髪型の男だった。両手をにぎりしめ話し始める。

「私は!目標というものがあやふやになっていました!今までこれでいいのかずっと迷ってました!」

 語尾はかすれかけ、叫び声を上げていた。

「しかぁぁぁぁし!」

「私は!諦めません!人間としての独立に向かって!一直線に!みんなにも全力でぶつかって!」

 教師や生徒達の煽る声が絶え間なく上がる。トサカ頭が抱腹絶倒アピールをしているのと対象に落ち着いた様子で田淵はうんうんと頷いていた。

「(この状況に動じず俺の想いを受け止めてくれてる・・・・!ううっ・・・・!)」

 トサカの髪型にとっては目の前の人間は何か絶対的なものになっていた。

 一方二階堂はこう思っていた。

「(気に入らないな・・・)」

「(田淵のあの顔・・・)」

「(俺の敵は横に並んでいる彼らじゃない・・・・上座でふんぞり返ってる連中だ。)」

 これから始まるライバル達を牽制し合うかのような他の生徒の挙動。作られた競争心に疑うことなくその身を委ねる新入生達。
 しかし、二階堂琥珀は他の者を見ていた。敵は同級生ではない。
 もはや向こう側へと行ってしまった生徒達をまだ、それでも敵にしない。

「(こんな洗脳されれば・・・・誰でもああなる・・・・)」

 この新入生達がやがて二階堂の妨害をすることになっても。

「やります!アアアアアアア!!!」

 トサカの最後の鳴き声が振り絞られた。

「よっしゃありがと~~~!!!!」

 そういって教師はトサカに抱きついた。教師は手を振るわさせ、熱烈に抱擁した。

「やれよ・・・・!」

「はい!・・・・・・はい・・・!」

 トサカの髪型の男はむせび泣いている。二階堂はそんな様子を冷めた目で見ていた。誰も気が付かない。ここに善悪の彼岸の反対側に立ち反撃を狙おうとしている男がいることを。

 大澤は上級生グループとして、新入生の周りで声を上げたりする役をやっていたが、内心はやはり、どうも乗り切れない部分があった。

「(またか・・・・・・)」

「(こういうことをするから上の事を神格化したりするんだよな・・・・そう仕向けてんのか、まったく頭いいよなぁ)」

「(どいつもこいつも・・・・・気持ち悪いな・・・・これがおかしいって思ってるのは僕だけなのか・・・・?)」

 大澤も三年前の入学式の時にこれと全く同じことをしている。三野の周りの人間もだ。しかし、彼らは良き後輩を見るかのような眼差しを送っていた。三野はそういうところにより一層の気持ち悪さを感じたが、どうすることも出来なく、またどうしたらいいのか、どうしたいのかもよくわからなかった。

 その中で1人の生徒が落ち着き払った様子で立ち上がった。その生徒はボロをきてはいたもののその所作は力と威厳に満ちていた。

「おい・・・・あれ・・・」

「なに・・?」

「あいつじゃねーか?新入生で反省室に入らなきゃいけなかったやつ。」

 ざわざわと囁き合う生徒達。大多数の間で噂になっているようで、好奇の視線を二階堂に向けている。

「そうなの?どれくらいの間入れられたんだ?」

「お前多分信じないが四十日も入ってたらしい・・・」

「えっ。・・・・ええ・・・ありえねーぜ・・・四日の間違いだろ。」

「マジ。マジもんで四十日らしい。」

「俺なら反省室は例え半日でも入りたくないな。」

 ざわざわと今までとは違う視線が二階堂に送られる。

「俺はこれまでも自分に恥じるようなことをしてきた覚えはないし、これからもしない。自分の信念に従って行動していくつもりだ。以上。」

 二階堂はそう言って椅子に戻った。

「・・・・それにしちゃあ元気アリアリじゃねーか。」

「何だあいつは・・・・」

 新入生達は二階堂にどういう感情を向けたらいいのか分からないような顔をしていた。だが半数の生徒は怒り狂い、教師たちも外面は取り繕っていたが内心は敵意一色だった。当然そういった行動をとった以上教師達からの印象は最悪で、大多数の生徒達からの印象も同じだった。
2, 1

  

 3

 入学式が終わり昼食の時間となった。広い食堂の二階堂達は移動した。

「食事は食券を購入し、行うように。」

「それから、新入生のビロウは0だ。みんな頑張って人間としてのスタートを切れることを俺達も祈ってる。」

 そう言って田淵はどこかへ行った。その説明の少なさに非難の声を上げるものは誰もいなかった。その慇懃さは巨大な権力を持って押し通されたのだった。それだけならまだましだったが、新入生達はそのことにどこか感じいってるようだった。我先にと食券販売機へと駆けつけた。

「弱く、愚かなやつらめ・・・」

 その声に二階堂は振り向いた。その男は椅子に腰掛けてこちらを見ていた。野生の獣が獲物を狙ったギラつかせた目のまま噸死したらこんな目になるだろうと想像させるような目をしていた。鋭い端正。その男もまたボロの服を着ていた。そのことから低ビロウ保持者であることがわかった。

「いや・・・こんな異常な状況で何の説明もなければ状況を理解しようと必死になるのが人情だろ?」

 そう二階堂が言うと男は意外そうな顔をした。だが語気は嬉しそうな色を帯びていた。

「現状を正しく認識していないようだな。」

 そう男が言うと二階堂は黙った。新入生達はもはやヒューマンスクール教の信者になってしまったことは紛れもない事実だった。
 美濃はやや緊張しているようだった。

「さて、二階堂琥珀・・・・この場所について、ヒューマンスクールについてどう思う?」

 1番核心的な質問をした。二階堂はこういう措置をして、こういう質問をすることから目の前のこの男がこのヒューマンスクールに対し敵対する存在であることにあたりをつけていた。

「全部ぶち壊した方がいい場所だ。」

 思い切って真っ直ぐに目の前の男の目を見て言った。

「そうか・・・・」

 彼の内心は昂っていた。これまで欲しくて欲しくてたまらない協力者が現れたかもしれない。

「頭がおかしくなりそうなんだよ。」

「全部ぶち壊したい。おかしいことだらけだ。教師たちもここのシステムも矛盾だらけの教義も。どいつもこいつもまともじゃない。だが圧倒的な力の差がある。その差だけさ。問題なのは。」

「俺は美濃だ。」

「待ってくれ。ここのやっていることは法にも世間のモラルにも反することだろ?警察やマスコミに通報するだけで、人権団体、NPO,PTA各位で反応があるだろ。」

「ここは島だ。そして外部との連絡手段も移動手段も全くない。」

「何?そんなことがありうるのか?」

「ない。電話は島の内部に通じるものだったし、島の外に出るための船も何も無い。」

「じゃあどうするつもりだったんだ?」

「それがわかったらとっくにそうしてる!」

 美濃は興奮気味だった。

「ただ・・・頭がおかしくなりそうだったんだここにいて。もう本当にどうにかなりそうだった。あいつらみたいに信者のままでいた方が楽だったって思う時すらある。」

「二階堂は反省室に四十日も閉じ込められたんだってな。よく正気を保てたな。それに信者にならずにすんだ。正直入学式でのあの演説を見なければ、勧誘リストから1番に外してた。あの洗脳フルコースでよく自分を保てたな。」

「ああ。確かに辛かった。」

「なんで洗脳されずにすんだんだ?その秘訣は?」

「ああ・・・前に一度同じような目にあっていたことかな。初見じゃあれは弾ききれないよ誰しも。」

「そうか・・・・・」

 それから少し美濃は沈黙した。

「・・・生きてた時のことか。」

「そのことだが。俺達は本当に死んでいるのか?ありえないだろうそんな。例によってそう思い込まされているんじゃないのか?」

「・・・・死んだ時のことを覚えてないのか?」

「いや・・」

「記憶が無いやつはたまにいる。大体のやつは覚えてるが。どうかな。そのことに関しても自信が無い。ハッ。低ビロウ保持者のやつにセットなのか自身のなさと自尊心の無さと、やる気の無さだ。」

「でもそれはそう仕向けられているんだろう?システムを作って人から自尊心も自信も奪う。あいつらの言う綺麗な言葉で飾って人を縛り付けるようなとことでやる気など出るわけがない。」

「そう。このシステムを信じ従うやつのみが・・・・・・・・」

「信じるものは救われる。信じないものは地獄に行く。キリスト教もこんな風だったと思う。キリスト教の歴史はよく知らないけど。宗教史って言うんだっけ。ダーウィンは言った。強い者が生き残るんのではない。賢い者が生き残るのではない。環境に適応する者が生き残るのだと。この通りなのか。」

 美濃はこの三年間の暴風雨のような虐待と洗脳の嵐の日々でダメージを受けている。

「俺は人の科学の力を信じてる。科学は日々進歩してる。ダーウィンは四百年前の科学の人間だ。盲目の時計職人の存在に人がなれる時代が来るだろう。その時はその呼称も変更になるな。」

 二階堂は科学に興味があった。その探求の機会はヒューマンスクールにとって奪われていた。

「システムは絶対じゃない。俺達は必ずこの状況を変える。」

「出来ると思うか・・・・?」

「出来る。」

 きっぱりと二階堂は美濃に言った。

「根拠は・・?」

「俺達がここにうんざりしているように誰しも心のどこかでは嫌だと思ってる。その心に訴えて反乱を起こす。ここを変えるんだ。俺達の手で。」

 美濃の顔に笑みが浮かんだ。

「それは反乱じゃなくて革命だ。」
 
 その時トラブルが起きた。
 食券も一ビロウの生徒はうどんしか買うことは出来なかった。食券を買った生徒がお盆に冷めて伸びきった質の悪いうどんを運んで、席に座ろうとする時だった。

「おいおい一ビロウの非人間は席に座るなっつーの。」

 そう言われた生徒は一気に固まった。周りの人間もそれが当たり前のように非難の目をその生徒達に向けている。

「おいお前。自分がどんな駄目な人間か自覚がないみたいだな。よぉし。お前に社会の厳しさを教えてやる。来い。」

 哀れな生徒はそのビロウ9の人間三人に連れて行かれた。その生徒はビロウ9の男に呼び止められた時から固まったままで泣きそうな顔になっていた。周囲を必死に見渡すが、高ビロウの生徒達からはどうでもいいという顔や当然のこととといった様子で雑談に戻っていた。低ビロウの生徒達は同情の目線を向ける者もいたがなにしろ自分のことで精一杯だった。なかにはこんなへまをしたことに対する嘲笑の目を向けるやつもいた。

 二階堂はそのどれでもなく助けようとその後を追おうとする。

「やめとけって・・・・・・」

 二階堂の手を美濃がつかんだ。小さな声で二階堂に注意した。

「何故?」

「そんなことしても無駄だから・・・・多かれ少なかれこういうことが頻繁に起きる。実権を握ってるのは高ビロウの生徒と教師たちだから。」

「そうか。そこで揉め事が起きればまた反省室行きってことかよ。」

 イライラと吐き捨てた。

「そうだ。だから、落ち着いてくれ。」

「あいつら・・・・あいつらの名前は何ていうんだ。」

「目の細いやつが横井。五輪刈りのやつが亀谷。もう1人が福井。」

 絶対にその顔と名前は忘れないと頭に刻みつけた。その落とし前をいずれ彼らにもつけてもらう。絶対に。

「なにか顔を隠すものはないか?」

 その時二階堂にある思いつきがあった。

「え?」

「顔を隠せるやつ・・・マスクとかなにか・・・・誰かわからなきゃいいんだろ?ないか?」

「えーっと・・・演劇部になにかマスクみたいな物があった気がするが・・・」

「あいつらがどこに行ったか分かるか?」

「中庭だ。」

「じゃあ、先に顔を隠す物を取りに行こう。」

「マジか・・・・・マジでやんのか・・・」

 美濃は、無駄だと思いつつもどこかわくわくしていた。確かにマスクなら身分を隠せるのでうまくいくかもしれない。だが声は?身長や仕草。話し方からバレるのではないか?そういった思い美濃の頭をよぎった。失敗だらけでうまく行くイメージなど思い描けないのがこういう状況におかれた人間の特徴だったが、美濃は不思議とやってもいいような気がしてきた。

「一歩でも間違えたらまた、反省室行きだぞ・・・・・次はいつ出てこれるか分からないのにだぞ?」

「救けに行こう。」

 二階堂がきっぱりと言った。

「分かった。こっちだ。」

 演劇部の部室を開け散乱している小道具を見た。確かにその中に目当ての物があった。

「趣味の悪いマスクだな・・・・ヒーローマスクならよかったんだが。」

 冗談を言う美濃。美濃はやはり前代未聞の反抗に緊張していた。こんなことは実行しようとさえ思ったことは無い。

 大澤は自分の身に起きたことがまだ分かっていなかった。屈強な先輩が怖くて怖くて仕方なかった。ビロウ9の横井らに連れていかれ、まったく何をされるのかわからない恐怖を味わっていた。

「(誰も助けてくれない・・・・)」

「そんなことも出来ねーのか!」

「辞めちまえ屑!」

 周囲から煽りの声が飛び交う。何故こんなことを平気で出来るのだろうか。それは彼らにも日常でとてつもないストレスを抱えているからだった。日常でストレスを抱えてそれを吐き出すことができる行為が正当化されていれば誰でも飛びついてしまうのである・・・・

「(地獄だ・・・・ここは地獄なんだ・・・)」

「ふひ・・・・」

 大澤は笑みを浮かべた。壊れかけた笑みだ。ギャラリーは大澤が右往左往する様を見て笑っていた。次々に回ってくる作業にあたふたしているのは大澤だけであとの人々は笑うのみだった。
 倒れくる柱を支えきれずもう倒れる。しかし誰も助けてくれない。手助けさえしない。

「誰か・・・・・助けてっ・・・誰かっ・・・」

 その声もギャラリーの煽りにかき消されて届かない。仮にギャラリーの耳に届いても彼らの心にまでは届かない。大澤の心に一生癒えることのない傷が刻まれそうになった時、鋼の盾が現れた。

 二人の男がその柱を支えてくれた。二人の男が柱を支えた途端ギャラリーはシーンとなった。

「え・・・・?」

 大澤はそう言うのが精一杯だった。

「こんなことする必要ないよ。」

 二階堂が言った。その声はマスクの下からくぐもった声で聞こえた。

「こんなことする必要ない。」

 果たして信者達に何をすれば目を覚ますのだろう。二階堂は必死に考えた。

「大勢でよってたかって・・・・こんなのおかしくないか?なんでこんなことをするんだ?」

「なんだお前・・・・誰だよ?」

「それは名乗れない。」

「もう一度聞くが何故こんなことをするんだ?こんなに苦しみを彼に与えることに何の意味が?さあ、答えてくれ。」

「それはヒューマンスクールに所属している以上当然のことだ。それがルールだからな。ミスに応じてもう一度繰り返さないように罰を与える。」

「ミス?彼がどんなミスをしたんだ?」

「一ビロウのやつがテーブルにつこうとしたからだ。」

「それの何がおかしいんだ?席に座ることすらできないなんておかしいことじゃないか。」

「アホがっ。ヒューマンスクールに多大な迷惑をかけてることが分からんのか!秩序維持のために必要なことなんだよ。つまり我々のためなんだ!」

「その我々に低ビロウ保持者は含まれていないだろう。」

「俺達や先生達はお前らのためにやっているのに、なんて恩師らずなやつなんだ。」

「みんな聞いてくれ。こういった言葉と行動が一致せず、両方が矛盾し、片方を聞けば、片方と矛盾し、結果的に動けなくなる。そういった手法をダブルバインドと言うんだ。俺達の事を正しく導く人間がそんなえげつない支配方法をなぜ使うんだ?」

「・・・・・・・」

 高ビロウの人間達は敵意むき出しで二階堂の事を見ている。低ビロウの人間は二階堂に複雑な感情を向けられれいる。いずれにせよ多くの意識が二階堂達に集中していた。

「お前顔を隠して身分を偽る卑怯なやつめ!顔を見せたらどうなんだ。」

 その言葉に美濃が笑い出した。

「顔を出したら反省室っていう独房に無理やり閉じ込めるんだろうが!何もかも有利な権力を持ってるクセに!自分たちに都合のいい綺麗な言葉ばかり並べやがって!」

「そういうことだ。」

「自由になるんだ。こんな意味不明の場所から解放されたいだろ?訳の分からない搾取はもううんざりしているはずだ。それからここが素晴らしい場所で素晴らしい宣教師が俺達に教えてくれてると思ってるやつ。高ビロウの人間のほとんどがそうだろうが・・・・それが間違いであることを証明する。今まで奪われ続けてヒューマンスクールの言うことを信じるしか道が残ってないと思ってるみんなには残酷な事かもしれない。知りたくもないかもしれない。でも知らなきゃ一生そのままだ。一生この惨めで不自由な・・・まさに奴隷みたいな人生が続くんだ!自由になるんだ!」

 どれくらいの人に自分の言葉が届いたか分からない。

 誰かが教師を呼んだらしく、教師たちが駆けつけて来た。

「じゃあな。」

 二階堂と美濃は煙幕を下に叩きつけた。たちまちその球体から黒い煙が噴出しあたりを粉雲が埋め尽くした。二階堂たちマスクを脱ぎ一目散に走った。
 安全な場所まで走ると二人して笑い出した。

「最高だぜ。今まで生きてきたなかで1番痛快かも。」

「俺もだ。スゲースッキリした。もう長いこといたんだもんな。こんなところにずっと。誰かにバレはしないか?特徴でわかるやつとか」

 二階堂は美濃の身を危惧した。

「いや、普段あんなに堂々としてないし、普段の俺とは全然違ったよ。ああ・・・低ビロウのやつはみんなそうだ。だからみんなも対等に話す俺達の姿を見てスッキリしてるかもよ。」

「そうか・・・ならよかった。」

 昼休憩が終わった。ヒューマンスクール内はあのマスクの二人が起こしたあの出来事の話題で溢れていた。

 夕食の時間に残飯みたいなうどんを携えて、地面に座った。

「俺も話したいことがたくさんあるんだ。」

 二階堂が美濃に話しかけた。

「あ、いや、また後で他の場所で話そう。俺はあっちで食ってるから・・・・」

「?ここじゃまずいのか?」

「いや・・・この位置が嫌じゃないかと思ったんだけど。気にならないのか?」

 見渡すと二階堂含め0ビロウの生徒は他の生徒たちが椅子に座って談笑する席と席の間の地面で食事をしていた。誰もがこの時間を早く終わらせたいようでまずいうどんを一気に
 食べていた。また、まずいうどんを味わって食べたい者など誰もおらず一気に食べることが得策でもあった。その両方に耐えきれないのか女の子が数人泣き出していた。そんな様子を一向に高ビロウの生徒達は気にする様子もなくごく普通に食事をしている。改めて見てとてつもなく異常な様子だった。

「長いことここにいると人はああなっちまうのか・・・・?」

 二階堂は美濃に言った。

「ああ・・・・でも時間が経つにつれてもっと酷くなる。今はまだましな方だ。」

「まし?」

「ましさ・・まだ自尊心を持ってるんだもの・・・大切なものを持ってるんだから。」

 ここから自尊心がどんどん無くなって、そして逆らう気力も無くなるのだ。その大切なものをこれからどんどん奪われていく光景を見るのは美濃には辛かった。
 二階堂は美濃に老練な男のような面影を見た。重い重い病気を患う子供はどこか子供らしくない。過酷な闘病生活が子供から子供らしさを奪うのだ。戦場の子供たちもそうだ。

 その後美濃と二階堂は空き部屋に入った。ここに来るまで人にほとんど会わなかった。密談するにはもってこいの場所だった。
 通常同じ班同士でなければ話すことも出来ない。なのでできるだけ隠れて話を行わなければならなかった。何もかも不自由。
 何かの作業をしている美濃。美濃は顎をしゃくった。

「おおっぴらには誰も言ってないが、ヒューマンスクールじゃ今日のあのことが噂でみんな言ってるぜ。」

 美濃は気分を浮かれさせすぎてへまをしないようにしようとしたが、押さえつけようとしても湧き上がる気分が吹き出している。

「俺達の情報を求める張り紙まであったな。」

 二人でまた笑った。

「愉快だ。実に痛快だ。こんな気分でヒューマンスクールを過ごしたのは初めてだ。」

 美濃が最高の笑顔で笑っている。全身が喜びと解放感で包まれていた。

「自由になれればこんなもんじゃない。」

 二階堂もまたそんな美濃の様子を見ていて嬉しくなった。そして自分達のやった行為の正しさのようなものを感じた。
 それから二人はこれからの計画について話し合った。

  一週間後。この場所の気候は穏やかな場所だった。豊かな自然と綺麗な空が浮かんでいた。ヒューマンスクールの校則とやらで自由に動けないが、外はとても綺麗で、豊かな土地だった。戯れる鳥達。青々とした木々。

「(校則だと・・・・・)」

 自由で肥沃なこの大地を蝕んでいるのはあいつらだと思った。この土地は素晴らしいのに、巣食っている奴らが最悪だった。

「(なぜこの自然に囲まれてこんな洗脳施設ができるんだ・・・)」

 二階堂は思った。だが呑気にそんなことを考えている場合ではないともう一つの理性が語りかけてきた。今は奴らを討ち滅ぼす方法を考えなくては。ここを陥落させる術を。

「どうやってあいつらを倒すか・・・・」

 その言った言葉に同じ部屋にい美濃と大澤は聞いていた。通常二階堂と美濃と大澤はビロウ差がある上に、班がそもそも違うのだ。校則では同じ班同士でしか話すことは許されていない。

「生徒達は教師のことを信じるしかないから従ってると思うんだ。他に誰もいないから。それに自分達のことが駄目だと思ってるし、先生たちの言うことが正しいように聞こえるっていうか・・・・・」

 そう言うのは大澤。先日二階堂と美濃が助けた時にアプローチをとって説得した。大澤を説得するのはそう難しいことではなかった。説得できたことによる美濃の喜びは顕著に現れていた。

「だから・・・・・信じられる人が必要なんだ。僕たちには。信じられることが。」

 大澤は自分の想いを口にした。そういったことを話すのは初めてだった。改宗の儀式(二階堂くんと美野くんがそう呼んでいる)で話したこととはまた違う自分のことだった。

 それを二人は聞いていた。それから二階堂がやおら口を開いた。

「・・・・自分達を信じればいいんじゃないか?」

「そんな・・・・・とても無理だよ・・・・自分を信じるなんて。」

「俺は信じてるよ。俺達は自尊心を持って生きていっていいんだってことを。人を支配し、自由を奪うここのやり方が間違ってるってことも。」

 そう二階堂は言った。その時外からコツコツと歩く音がした。三人の間に瞬く間に緊張が走る。ここは生徒の立ち入りが少ない棟なので、人が来る可能性は低いのだがここがヒューマンスクールである以上誰が来てもおかしくない。ここでの会合が発覚した場合ヒューマンスクール規則7条違反にとなるので、どんな罰の口実を与えられるか分からない。大澤は怯えた。この普通極まる少年の大澤は今までヒューマンスクールから与えられた傷がしっかり刻まれていた。自然の体が震えてくる。

「(ひぃ・・・・・)」

 あたりが真っ暗になって震えが止まらなかった。だけど大澤の肩をしっかりとした手が掴んだ。

「大丈夫・・・・行ったよ。」

 まっすぐ大澤の方を見て二階堂は言った。二階堂がいることで安心感が違った。二階堂に向かって頷く。

「俺達の新しい考えを広めることと同時に、教師たちの本音を探ることにしよう。」

「教師たちの本音・・・・?そんなものいつも言ってることとか教科書に書いてあることじゃないの・・・?」

 大澤がきょとんとした顔で言った。

「それを探ってみる。十中八九とんでもないことを言ってるはずだがな。」

 二階堂はそのあたりには確信があった。

「これを使う。」

 そう言って二階堂が取り出したのは盗聴器と隠しカメラだった。

「おいおい。よくもまぁ・・・・」

 美濃はニヤリとした。

「これらを職員室に設置する。決行は三日後の深夜二時。この部屋で待ち合わせにしよう。」

「分かった。」

 美濃と大澤は頷いた。

「慎重にやろう。今は捕まるわけにはいかない。俺達が今捕まったらようやくくすぶりかけた火種が踏みつぶされるようなものだ。だが、この火種はあっという間に燃え上がる。火が燃えがったらあちこちに飛び火をし、もはや誰にも消すことはできなくなる。」

 三人は燃え上がる炎の揺らめきを見ていた。

「俺達は捕まらない。」

「この炎は必ず燃え上がらせて見せる。」

「よし。」

「見えるぜ。あいつらがあわてふためく姿が。」

「そんな事になったら・・・・・・とんでもない。とんでもないことだよそれ・・・!」

  三人は拳を打ち合った。どうあれやるのだ。この閉塞感を打ち破るために。
 空き部屋から1人ずつ出る。怪しまれないように細心の注意を払った行動をとることにしている。レジスタンスのようにユダヤの迫害民のように周囲を警戒していた。最初に大澤が部屋を出た。特徴がない事が特徴のこの男。人畜無害そうな、人に警戒心など起こさせないタイプだった。
 まず音を数分感覚を集中させ、外の音を聞く。その後大澤が出て行き、次に美濃が出て行った。そして二階堂が出て行った。

「(みんなの目を覚ますことから始めないとな。ともあれ。まずは洗脳を解かなけれ文字通り話にならない。)」

「(あいつらを倒せば俺達がコソコソと合わなければならない理由もなくなるんだ。)」

 人の多い校舎の方に行くと歩いている坊主頭の教師の中山が歩いているのが見えた。中山は最悪の教師陣の中でも一際の異常者だった。やつの好きなことは人をけなすことで生きがいは小さな女の子をいじめることのゲス野郎だった。そのサル顔の中山が偉そうに肩を揺らして歩いている。ボスざるでも気取っているのだろう。その異常性愛者がヒューマンスクールというカルト教団と組めば、日常に生きる者にとっては信じられないほどの悪逆が尽くされる。
 霞のように消えたマスクマン二人を探し出そうとしているのか誰も彼も睨んでいる。
 第二次世界大戦当時ユダヤ人強制収容所の存在を誰も信じなかった。そして現代。北朝鮮政治犯収容所完全統制区域の存在も収容所内で起こっていることを知っている人すらいない。
 二階堂は理由の分からない作業をもう延々とやっている。

「与えられた仕事に誇りと責任感を持て。」

 などと一方的に言われ意味の無い作業をしていた。△や□など図形のパズルを流れてきた穴に入れて行くだけのことを8時間、毎日やらされた。幼児のおもちゃにこういうものがあった。

「ふざけるな・・・・・」

 二階堂は怒り心頭だった。こんなわけのわからない無意味なことに自分の大切な時間が奪われていっていることがたまらなく嫌だった。美濃と大澤が近くにいなければ今日キレて何をしていたか自分でも分からない。美濃を見ると普通に仕事をしているように見えた。

 作業が終わっていつもの空き部屋で美野は話した。

「あんな馬鹿馬鹿しいこと嫌に決まってる。」

「キレずに済んだのはそのおかしさがはっきりと分かってるからだ。」

 美濃は今までのおかしいと思っていることが自分だけでそのおかしさがどうおかしいのか、何が嫌なのかはっきりと分からないことが嫌だった。

「あの作業は何の意味も生産性もない。俺達を飼い慣らすための一貫でしかない。」

 その事実は特に、美濃や大澤にとっては残酷なことだった。三年間。今まで信じてやってきたことの本質を理解していって特に苦しかった。
 校舎裏を歩いている美濃。不意にカッとなって大声を上げて校舎を殴った。何発も何発も。硬いコンクリートのデカブツに向かって何発も何発も拳を打ち込んだ。拳はたちまち血塗れになった。骨が剥き出しになったころ三野は殴ることを辞めた。当然デカブツはそこに聳え立ったままで、灰色の腐った色の壁に血の痕がついただけだった。
 その後二階堂と大澤は美濃の異変に気が付き、保険室から医療器具一式をくすねてきて美濃の拳を治療した。美野はその様子をボーッと見ていた。
 包帯を巻く二階堂の目に何かがにじんでいたように見えた。
 自分の班の部屋に戻った。信頼など全くない班員たちには適当に言って、そうそうにベッドに潜り込んだ。その夜いつもの通り、新入生たちの泣き声が聞こえた。他の部屋からも聞こえる。異常なこの場所と今までの生活との違いに新入生が夜中家に帰りたいとベッドの中で泣くのは毎回のことだった。美濃も気づけば涙が流れてきていた。流石に新入生たちのように声を上げることはなく無音で流れる涙をそのままにしていた。傷の痛みと手に巻かれた包帯を抱いて眠りについた。

  4
 職員室に忍びこんだ3人は盗聴器を仕掛けるのにもっとも適した分かりづらい場所に隠した。カメラは空調機の内部に。盗聴器はコンセントの内部などにだ。

「まるっきり無警戒か・・・・」

 明かりをつけずに警戒し二階堂は周囲を探る。校舎内に潜入して口をついだ感想がそれだった。

「ま、おかげで仕事が捗るがね・・・」

 取り付けはほぼ完了した。校長室にも入り込み、その二セットを取り付けていった。
 校舎を出て、外の庭の中まで闇の中を二つの影が行く。花壇。ここなら周囲を見渡せ、万が一人が来たら生垣に紛れて逃走することも出来る。三十メートルほど離れたところにあるランプの明かりが敷き詰められたレンガに降り注いでいる。

「設置し終わったな。」

 美濃が二階堂に話しかける。

「ああ。だが聞いていたとおり何の警戒もないな。」

「反乱なんかあいつらの完全に想像力の外さ。」

 二階堂と美濃はお互い拳を付き合わせて別れた。俺達はこの一週間精力的に行動してきた。ヒューマンスクールのために働くことの何十倍もの能力を発揮できた。その気になればこの2人は何日も不眠不休で活動できた。二人の少年はたっぷりと辛酸を舐め、それ故に研ぎ澄まされていた。
 その日二階堂はベッドの上で手を頭の後ろで組んで寝転がり、推し量ることの難しい顔つきをしていた。

「(網をしかけたようなものだ。)」

「(狡猾な獲物を捉える罠だ・・・・。)」

 獲物がその罠にかかればよし。かからなければもう一度その罠を設置し、他の手段を講じるのみ。
 二階堂は敵のことを決して侮ってはいなかった。

「(書類も手に入れたかったな・・・・)」

 書類でこのヒューマンスクールの仕組みをより知ることが出来るだろう。それに危険を犯してまでやる価値はあるのか?と自問する。

「(何かの書類にやつらの「本音」が書かれたものがあるかもしれない。それでなくても敵の情報は欲しい。)」

 月明りが外から差し込んできた。

 美濃もまた部屋のテーブルに座り考え事に耽っていた。三野は喜ばしかった。ワクワクした。止まっていた何かが動き出した。そんな気がしていた。天からの贈り物。二階堂琥珀。琥珀石の透き通った橙。太古の中国で虎が化石になったという言い伝えがあり、それで琥珀には虎の文字が使われている。二階堂琥珀は天からの贈り物だと三野は思った。

「(あんなやつはそうそういない・・・・・一種の傑物だな。)」

 美濃は笑顔を抑えられなかった。彼の班員は彼の変化を感じていたが、なぜ、どうかわったのかのかよく分からなかった。ただ班員と美濃の間にはより一層の溝ができていた。
 だが三野にとってはもうそんなに気にならなかった。新しい友達に美濃は夢中だった。彼らは最後まで走る。最後の最後まで。

「(ああ・・・・も早く、あいつらを倒したい・・・)」

 大澤は夜寝る前に必ず一日の日記をベッドの中で書く習慣があった。ヒューマンスクールに来る前からあった習慣だったがここに来てからそれは意味合いを変え、彼にとってのその行為に対する想いも強くなっていた。何せここではおちおち本音も言えないし、書けないのである。あらゆる文という文。表現物という表現物に検閲が入る。布団をすっぽりかぶってかすかな明かりで大澤はガリガリと大学ノートに今日の出来事を綴っていた。今までの怨嗟や苦しみの想いを吐き出していただけのノートではない。二階堂と三野と共に様々なことをしている日々は楽しく、そのことが書かれるようになった。そしていろいろな疑問が解消されていくことが楽しかった。未来がはっきりと開かれている気がした。シャーペンを片づけ、ノートを自分しか分からない場所に隠す。見られるのが恥ずかしいとかそういう普通の理由ではなかった。ここに書いてあることを見られたら間違いなく怖い目に合う。何をされるか検討もつかないという怖さ。そういう種類の怖さがこの場所にはあった。
 大澤は自身の分身のような日記のページを、記憶をめくり始めた。

「(早く・・・・ここから出たいな。)」

 それからは特に特筆するような出来事は起きなかった。しかしゆるやかに二階堂の周りの人間が変化していくのを歯がゆい想いで見ていた。誰も彼も膨大なものに飲み込まれていった。また各場所で既に最下位のビロウに落ちるものも出てきた。

  二階堂とてその流れの渦中にいた。皆がその渦潮の中で必死に泳ぎ、潮流を見極め、溺れないようにしている真っ只中である。

 その中で彼らは潜水艦となった。軍艦にのり個人ボートを転覆させまわる無慈悲で人間として異常なやつらを華麗に避け続け、正体を晒させなかった。彼らは転覆したボートから救えるだけ救っていった。
 簡単に言うと困っている人を助けて回ったのである。ヒューマンスクールの非人道的な圧政に苦しむ人々を陰ながら助けた。

「とはいえホンモノの潜水艦が欲しいな・・・」

 美濃がぽつりと漏らした。

「この部屋は潜水艦っぽいがこんなん違うよな。」

 そう二階堂が返すと美濃は頷いた。薄暗い光の入らない小汚い小屋に彼らはいた。その三野の手には軍手がはめられていた。これが1番いちゃもんをつけられない形態だった。

「早く撃沈してぇなあ・・・」

「デカブツの体内は居心地が悪い・・・」

 何気なく呟いた一言に、

「事実息苦しいもんな。」

 二階堂がドライバーと器具を手に何か作業をしながら応えた。

「(解るんだ。二階堂には。)」

 美濃はにやついた。この感覚はこの数年間で得ることは叶わなかったものだった。

「なぁ。何作ってるんだ?」

「火薬。」

 二階堂は答えた。

「・・・・・何・・・・?」

「本当に吹き飛ばそうぜ。この学校を。」

 黒の遮光ゴーグルをぐいっと上げた二階堂は誰もが惹き付けられてしまう笑顔をしていた。
 まったくこいつは俺の想像を1歩以上飛び越えるやつだ・・・・美濃はそう思った。
 それからというもの、美濃はヒューマンスクール内で教師の顔を見る度にこのゴミのようなこいつらのくそ教義の拠り所である建物が崩れて落ちたらどんな顔をするだろうかと思った。

 Day56
 今日の強制労働と強化基礎教義にはうんざりしていた二階堂の仲間たち。爆発物の存在を知っていたのは、その重要性と切り札的な意味合いで存在を知っていたのはごく少数となったわけだが、その事実を知った美濃は、まさに心が浮き足だって、いくつかの横暴なら許せてしまうかもしれないなどと考えたものだったが、二、三時間もすれば一方的なおかしな教示にいらいらし始めた。
 一方的で意味不明な教示。
 全ての元凶である、学園長の田淵。そいつが映る映像がこのゴミの中で画面から何度も洗脳教義を垂れ流す。校舎内にはいくつも映像装置があり、1日の教義とやらがたれ流される。教義の内容とは、そのような本があって、やつはその内容を喋っているらしい。

「(教義と田淵が元凶なんだ。本当に嫌いだ。どっちも。クソくらえだ。)」

 それをありがたがって拝聴しているやつらがいて、ろくに聞いていない(ように見える)美濃に正義感たっぷりという、まるで自分は心底正しいことをしているかのように三野に教示する連中がいることもうんざりすることだった。今も山田という同級生が目の前で教義をのたまっている。美濃と山田は同級生だが、そのビロウ差は7。階級がてんで違った。

「(すっかり染まりやがって・・・・気持ちわりぃな。)」

 目の前でのたまう田淵たちから流れた教義にうんざりする。垂直に気を付けの姿勢で聞く。いや「拝聴」する。

「こいつは、あいつらは本当に自分たちが正しいことをしているつもりなんだろう。俺達がどうしようもないと思ってて、自分たちがこの愚かな羊たちを導いてやらねばならないと思っているらしい。そうすることが宣教者としての自己犠牲だとすら思っている。」

 美濃は二階堂の言ったことを思い出していた。

「なんでそんな・・・そんなことってあるのか?」

 美濃には田淵たちのその行動原理が理解出来なかった。

「ならあいつらは俺達のためになると心の底から思っててこんなことをしてるっていうのか・・・??」

「教師それぞれに度合いはあると思うが、半分くらいは本気でそう考えてるやつもいる。そう考えて、悪逆を尽くすんだ。良いことをしてると思って悪逆を尽くしてるのか。」

「・・・・物事には裏と表がある。包丁は人を殺すことができるが、おいしい料理をつくる事もできる。権力や、システムも使う人の良心によって結果が決まるんだ。」

 美濃にとってヒューマンスクールの人間たちは理解出来ないイカレの集まりだった。

 その物思いをしている最中に教義が割り込む。

「おまえ~っ。ちゃんと聞いてんのか!」

「はぁ・・・」

 適当に返事をすると、向こうはこちらを心底愚かそうに見、肩をすくめ、ため息をついた。

「そんなことじゃいつまでたっても光の教国にいけないぞ。おまえをヒューマンスクールの偉大な宣教者たちが許してもこの俺が許さないぞ!」

「(死ね・・・!!)」

 こんなやつ死んでもいいと美濃は思った。いや、死ぬべきだ。心の奥のそこの底
 で声がした。

 強化基礎教義で配られた紙キレはどうやら俺達の命よりも大事だと思っているらしい。うっかりその紙を踏んずけた奴がいて、そいつは運の悪いことに教師にそのことを知られ、(美濃は生徒の誰かが密告したと思っていた。ちなみに密告もここでは耳障りのいい言葉に入れ替わっており、素晴らしいことかのように偽装されている。)またしても運の悪いことに紙には教師の顔が印刷されていた。それを知った教師たちは激怒し、そいつを反省室に放り込んだ。30日間。
 二階堂は40日入れられて正気を保っていたがそれは二階堂がああいう人間だったからである。哀れな高市はその中で気が触れてしまった。出て来た時は涎を垂らす頭が駄目になった人間になってしまっていた。

「(お前の方がよっぽどまともだよ。高市・・・・・イカレてんのは、おかしいのはあいつらの方だ。)」

 くそったれ。何もかもクソくらえだ。
 結局高市は厚生衛生上よくないとの理由で「保健室」のベットに縛り付けられた。一週間後保健室には血まみれの手錠が残されているのみという惨状が見つかった。何度も何度も引き抜こうとしたのか、二つあった手錠は血まみれ、あたりにものたうちまわって付着した傷や擦過跡が残っていた。

「これは・・・我々に対する裏切りだな!恩を仇でかえされたぞ!」

 たまたま居合わせた美濃はその田淵の言葉を聞いて戦慄したことを覚えている。
 それから大規模な山狩りが組織され、高市を狩らなければならなかった。二日強行軍を強いられ、生徒たちの怒りは高市に向かっていた。教師たちからは理不尽な暴言。頑張っているのにも関わらず見つからないことを理不尽に責められる。高市が脱走したことを責められる。めちゃくちゃな暴言と暴虐の嵐。

「脱走なんかバカなことしやがって・・・俺あいつにあったら殺しちゃうかも。」

 冗談めかして誰かが言っていたが、実際あの時は誰もがそんな風にストレスを抱え、イライラしていた。おかしなことに生徒達のすべての苛立ちは高市に向いていた。
 だが高市を殺す必要はなかった。道路脇の小道という普通の場所に高市は冷たくなって倒れていたからだった。もうすでに高市はヒューマンスクールの教義によって殺されていた。これで少なくとも二度殺されることは無かった。
 その事件の全体像は今もなおよく分からない。それ美濃にとって嫌なことだった。まったくもって何が起きているのか分からない。何故こういうことになるのか分からない。自分が知らない仕組みで物事が進んでいる。自分が立ち入れない仕組みで物事が動いている。高市は何も悪くないというのに!ただの紙の顔を踏んづけたという理由だけで何十日も暗闇にたった一人で閉じ込められて!本物の顔を踏んだわけでもないのにこんなことになった!今なお高市の悪口が流れ続ける!馬鹿だったっ!?お前らの方がよっぽど馬鹿だよ!生徒も生徒だ。いつまでも教師に踊らされて。少しは自分の心で決めろよ!自分の頭で考えろよ!
  何故なんだ?何故こんなことが起きる?何故こんなことしか起きない?この世界は全てこうなのか?この世には悪しか存在しないのか?誰か俺とこいつらが違うってことを証明してくれ!!

「~~~分かったか!?」

「(ん・・・?うるさいな・・・何を言ってるんだこいつ。)」

 目の前でがなりたてる男の顔をじっと見る三野。

「トイレ掃除をやれ!分かったかこのクズ!」

 それだけ言うとふいと後ろを向いてどこかへ行きだしたので一応聞いておくことにする。

「トイレってどこのトイレですか?」

「ああ!?」

 うっとうしい。口をひん曲げて過剰に反応する厚ぼったい目のをした男。

「そんなことも分かんねぇのか?北舎の一階だ!完璧にやるまで帰るなよ!」

「分かりました。」

 男とは対照的な平坦な口調で美濃は言って後に下がる。
 男は美濃の態度に引っかかるところがあるらしく、変な顔をしている。

「(どうせどういちゃもんをつけるかとか考えてるんだろ。)」

 美濃はそこを立ち去る。

 強化基礎教義。講義室に座ってい美濃。
 今日も事件の発端となったその紙きれが配られたところだった。田淵の肖像画のような紙だけがカラーであとは白黒だった。その紙は配布された書類ケースに決して曲げないように丁重にうやうやしく入れなければならない。こんなもの破って捨ててしまいたいと美濃は思った。その紙切れを見る度にその衝動が自分の中でせめぎ合った。

 ビロウ制度には教師のさじ加減によるところが大きいが教典には一応どうしたらビロウが上がるか、下がるかが書かれている項があった。そこにはうんざりするようなことしか書かれていなかった。

「なぁなあ何のゲームが好き?俺はffかな。やっぱさ~」

 耳の奥ではかつての同級生の声が蘇る。昔の山田だ。普通の子供として話したどこにでもありそうな会話。

「(昔は・・・あんなやつなどではなかった・・・)」

 口元を結び、歩きながら美濃は考える。
 早く二階堂に会いたかった。二階堂に会い、止まっている時間を動かさせたかった。
 その鋭く、抜き身のナイフのような眼差しもまた尋常な少年のするそれとは違った。山田は恍惚なゾンビのような顔をしている。三野は目つきばかりが鋭く、きつくなっていった。この二人は別々の方向に歩いて行った。
 
 4
  明くる日二階堂は大胆にも強化教示中に外を歩いていた。全教示の生きたデータが二階堂の協力者から送られてくる。その他に二階堂は三野らと集まって教師たちのプロフィールから基本情報、行動分布図。性格情報までを頭に入れていた。そして他の協力者による出席の偽装。準備は着々と整いつつある。

「さて、ヒューマンスクール攻略の開始だ。」

 庭園の中を歩いていると生垣を抜けた先にある種の絵画のような光景に出くわした。木漏れ日の差した小さな生垣の窪みに収まって、本を読む女の子がいた。目を輝かせて、顔を笑みで綻ばせて本の文字を辿っている。意識は完全に目の前の本に向いているようで二階堂には気づいていないようだった。
 あまりにも綺麗だったから二階堂はもう少し見つめていたかった。しかし、そのブラウンというよりは明るいオレンジ色の髪の色の女の子はハッと顔を二階堂の方向に向けた。
 
「・・・・・おかえり。せっかく違う世界に行っていたのにそれを邪魔してすまない。」
 
 こわごわとその女の子は本を後ろでに隠した。その白磁の肌は蒼白していた。教示中にサボって本を読んでいたのだ。密告を恐れているのだろう。

「こ・・・・この本だけは没収しないで・・・・」

 大事そうに本を隠した女の子が目を麗せて言った。
 

 花壇の生垣の近くに存在する丸いアーチに植物が絡み付いている。赤い服を着た少女がその小さなスポットに収まりのいいお尻を落ち着かせていた。程よい気候で木漏れ日が差し、手に持っている本を照らす。

「(ああ・・・・・。)」

 心地よい気分が全身を充たしてゆく。私は今遠い、だがとても近い、国で王国の領主の一人娘だった。その出来事を見て触って、匂いを嗅いでいた。

「本当にそうだったらいいのに。」

「こんなに確かなのに。」

 彼女はその夢を信じていた時期があった。ヒューマンスクールの同級生に打ち明けたことがある。自分は領主の娘でその領主が確執と家計争いの果てに自分は命を狙われたため、お母様が私を逃げさせたのだと。

 親友だと思ったから自分の一番大事な部分を見せたのだった。だけど・・・結果は惨憺たるものだった。数人にだけ明かした秘密がヒューマンスクールの教師にまで広がってしまった。ヒューマンスクールはそれに対し、何をしたか。彼女の夢を粉々に最悪の方法で砕いたのだった。ヒューマンスクールの教師や、生徒は彼女の柔らかい部分をぐさぐさとさした。執拗にされる否定に参ってしまった彼女だった。人間は時に信じられないぐらい残酷になれる。彼女は初対面で笑顔の人間が信じられなかった。それは警戒しなければならない兆候なのだ。三野も、大澤も初対面で笑顔を浮かべる人間は信じられなかった。

「嫌なことを思い出しちゃったな・・・」

 そして彼女はその後は隠れるようにして違う世界のことが書いてある本を読んでいた。
 何度も何度も読んでいるけど何度も読み返してしまう部分がたくさんある。

「特にここのシーンが・・・!うふっ。」

 一人で笑っているシーンや、きゃっきゃと言っている姿はなかなかに浮いてしまうのかもしれない。

 ちらちらと生垣から突き出した時計台を見て時間を確認する。時間が確認出来るからこの場所は好条件の場所だった。心地よい風が彼女を遠くの場所。遠くの国へ往かせる。脳内時間旅行に出かける。お洒落だがフォーマルなスーツケースに入れた旅行用具、街の地図や化粧用具を一つ一つ点検していると呼び鈴が鳴って彼と友達が迎えに来る。それから彼の車で空港に行く。車の中にはみんながいる。欠けている子なんて誰もいない。そう、みんなが・・・私は赤とクリーム色のリボンの着いたフランスのスタイルのワンピースを着て、飛び立つ飛行機を眺める・・・

 とやっているうちに、物音が彼女の意識をこのヒューマンスクールという狂った統制区域の生徒、ゴミ一歩手前のベージュのコートを着る私、柚子葉へと戻す。なぜなら顔を上げるとそこには同じく低ビロウ保持者特有のボロを身にまとった男が立っていたからだ。

「(終わった____)」

 私はそう思った。これでこの生徒に密告されれば私は終わりだった。まず確実に吊るしあげされる。その後は?反省文を書く?どれだけ否定の言葉を浴びさせられながら?

「・・・・・・・」

 私は自分でも驚くくらい冷静に自分の最期を迎え入れていた。土台こうなることはある種折り込み済みというか覚悟の上だった。そうなる覚悟の上の抵抗だった。

「上手いところを見つけたんだな。」

 目の前の男が屈託なく口を開く。

「確かにここなら全ての授業と、教師の行動パターンから考えてこの時間に来ることはないなぁ・・・」

 目の前のどこまで本気か分からないが感心したような口調の話を耳に通らせながら私は考える。

「(でも・・・・これで終わらせるの?おしまいなの?この時間を奪われないためにもう打てる手は無いの?)」

「(このまま何もしなかったら、奪われちゃう・・・・なんとか・・・なんとかしなくちゃ・・・)」

 そう思うが柚子葉の体は想いとは裏腹に動いてはくれなかった。恐怖が刻まれた過去が。彼女の背景がそうさせたのだった。
 それでも、何かしなければこの本は取り上げられてしまう。だからなけなしの勇気を振り絞って言った。無駄だと解っていても。

「こ・・・この本だけは没収しないで・・・・」

 そう振り絞ってみたものの答えはわかっていた。目の前の男は教師に密告する。そんなことは解っているはずなのに。そう言うしか自分には残されていない。鎖でがんじがらめにされた私にはそんなことしか出来ない。出来る事がない。もう終わったんだ。何もかも。

「(この本を喪ってしまうのね・・・・)」

 だが、目の前の男は予想外のことを言い出した。

「大丈夫。取り上げたりなんかしないよ。大事なものなんだろ?」

「え・・・?」

「(何・・・・何を言って・・・)」

「ヒューマンスクールの教義なんてクソ喰らえと思ってるし、密告なんてことをしてビロウをもらうなんて考えただけで鳥肌が立つタチなんでね。」

「あなたは・・・私を狩りに来たんじゃないの?」

 アリバイ工作が発覚してしまったと思っていたのに。

「違うよ。俺はサボりだ。しかし此処は本当にいいスポットだなぁ。ヒューマンスクールの校舎とは大違いだ・・・」

 此処は壊さなくていいかもしれないな・・・などぶつぶつという目の前の生徒に柚子葉は混乱していた。

「(なんなの・・?この人は。)」

 ヒューマンスクールのことをあしざまに言うだけではなく私と同じくサボっていると言う。それもこんなに堂々と。既存の常識とは違うことばかりが起きる。
 葉がさわさわと風で揺らめく。アーチには蔦が絡みついている。

「(良かった・・・・。ならこの本は喪わずに済んだ・・・)」

 柚子葉はほっとした。

「俺は二階堂。琥珀。趣味はヒューマンスクールをぶっ潰すことかな。ここは最低なところだよなあ。まだ出てきて1ヶ月ぐらいだがもう何年もいるような気がするよ。君はもうどれくらいここにいるんだ?」

「私は二年目よ・・・。あなたは新入生なの?それにしては入ってくる時期が・・」

「ああ。」

 二階堂は納得したように言った。

「反省室に入れられてたんだ。初日に宣教師の言うことに反論してさ。出てきたのが一ヶ月前なんだ。」

 普通に。ただただ普通に二階堂は言っていることだが柚子葉にとっては、いや、ヒューマンスクールの生徒にとって、宣教師達にとっては別の意味だったが、驚くべき内容の出来事が連発していた。柚子葉の価値観を大きく揺るがすことが目の前で起きていた。いや、目の前の二階堂がここの常識を遥かに逸脱した人間だった。柚子葉は雷に撃たれたような感覚を味わっていた。ビリビリと身体にくる。

 その時闖入者の気配がした。二階堂はそれを察知した。

「ちょっとごめんよっ。」

 二階堂はそう言うと急に柚子葉を抱き抱えた。柚子葉は急に自分の脳のキャパシティを超えてあわあわとした。柚子葉の経験ではこんなことは初めてだった。

「な・・・なに?!?」

 顔を耳まで赤くしたオレンジガールが抗議の声を上げるが、二階堂は口に人差し指をあて、しーっと促す。

 私の世界の至近距離まで接近した黒髪に柚子葉はどきどきした。今茂みの中にいるのは柚子葉と二階堂だけだった。茂みの葉が柚子葉の身体や顔などに触る。その葉の匂いがする。それと二階堂の匂いと背中から腰に回った手がそこだけ確かな感触を柚子葉に与えていた。至近距離にまでいる自分じゃないもう一人。土は乾いていて匂いはしない。

 顔を横に向けると二階堂は険しい顔つきをしていた。柚子葉はさっきまで自分が居て、そこに来るまでの通路を見た。そこには誰かが来たからだった。
 何か細長い金属をぶんぶんと振り回す何者かがいた。その男は忌々しそうに蔓や蔦をかき分けながら進んでいる。茂みの中からだとかなり葉っぱに遮られて、しかもしゃがんでいるのでよく見えない。
 分かるのは鼻息荒く、ときたま呪詛のような文句を言いながらこの庭を荒らしているということだった。木々は無残に折られ、葉は引きちぎられていった。

「(中山だ・・・・!)」

 柚子葉はここで初めてこんな酷い蛮行を働く人の正体が分かった。

「(最悪・・・・中山なんて・・・・。)」

 中山は平気で人をいたぶる人の苦しむ姿を見て喜ぶ宣教師の中でも最も酷いくらいの宣教師だった。

「(どうしよう・・・・どうしたら・・・)」

 頭の中で照準する。確かに柚子葉は細心の注意を払っていた。しかし人間であるからこそ行動を読めないところもある。実はこの時中山のアルゴリズムが変わった理由はマスクマンの搜索のためだった。中山の頭は危険分子をいたぶることでいっぱいだった。中山が思いつく限りの残酷な方法が頭に浮かんでいた。
 隣のこの男子はどうするつもりなのだろう。柚子葉はちらりと見る。整った顔立ちと鋭利な顔つき。彼も何かを考えているようだった。
 二階堂はコンピュータのような頭脳で解を導き出していた。このままではあの火掻き棒のようなものでかきわけられれば茂みの中の自分たちもろともバレてしまう。その時に怪我を被ることだってある。

「(やつを・・・・・)」

 茂みの中から獲物を狙った野生の獣のようなギラギラと怪しい光を二階堂琥珀が発した。腕に力が入り腕に巻かれた柚子葉の身体を締める。

 少し息が漏れるようなそんな吐息を隣のツーサイドアップの女の子が出した。

 二階堂はそれで考えたを変えた。

「(まぁ・・・・ここは撒くだけにしとくか。)」

「(今は・・・・な。)」

 中山の圧倒的に優位に何の警戒もなくふんぞり返ってますと言わんばかりの顔を睨みつけた。

「逃げよう。俺が囮になるから。」

 そう言うがいなや二階堂は取り出したイタリアの様式の仮面を付け、茂みからガサガサと音を立てながら歩き出た。

 葉の残滓を振り落としながらそれでいて油断なく歩むその姿は力のある存在であることが分かった。
 中山は当然気づいた。当然二階堂も気づくように自分の存在を発信していたのだった。

「(ここまであからさまに音を出して気づかなきゃこいつはとんでもない馬鹿ってことになるからなー。)」

 ボスザルを気取っているこの男はこちらの体格を見て完全に油断している。
 二階堂は十四歳だった。体重は丁度五十kg。対する不摂生な生活で体重が増加した(アルフレポート)中山は八十五kg。体格差は一目瞭然だった。
 隠れていた柚子葉はその一幕を見ていた。こんなの危なすぎると思った。今すぐ逃げてと思ったが、その想いに反して二階堂は動く気配を見せない。

「おうらお前ェ!何しとんじゃ!」

 肩を怒らせ怒声を上げる中山。二階堂はその威嚇に大きくたじろいだ。ように見えた。

「(こいつを今あんまりコケにすると他の生徒に被害が行く。)」

 とても慌てているように見えるのは表面上だけのことで内心は大木の如き平静具合だった。

「(早く!早く逃げて!あんなやつに、捕まったら何をされるか!)」

 そんなことを知るよしもない柚子葉はあんなに震えて怖がっている二階堂に早く逃げて欲しかった。宣教師にターゲットにされる恐怖はヒューマンスクールの生徒である柚子葉も痛いほど知っていたからだ。その上相手は最悪の中山なのである。

「おら大人しくしろ!」

 中山は腕を大きく回し、二階堂を見下ろすようにして威嚇する。ようやく見つけたマスクマンに舌なめずりしていた。二階堂の怯える演技は中山を喜ばせた。
 二階堂は踵を返すと風のように走り出した。流れるような速さの二階堂を中山が追う。
 猿の如き動きで軽々といくつもの障害物を飛び越え、軽快に時に飛ぶように時に跳ねるようにして走った。
 自分を捕まえて拷問しようとする人間が後ろから追ってくるこの感覚。その感覚に二階堂は笑みをこぼした。この男は肉体の軽業師であった。飛んだり跳ねたりする二階堂は格好よかったが1番格好がいいのは走っている時だった。
 アルフレポートにより二階堂は美濃達とこのヒューマンスクールの地理は全て頭に入っていた。今は何の問題もなく日本地図が一般に出回っていたが日本地図を外国人に渡しただけで死刑になった人がいた。江戸時代の高橋左内という人物である。この人物は外国人と海外の書物と交換で伊能忠敬の作った日本地図を渡したのだった。知りたかったから。知の探求のために死んだ。それだけで二階堂はその人物が好きになった。
 ちなみに江戸城内の見取り図は幕府での最重要機密だった。それくらい戦いおいては地理が重要なのである。

 そこまで勝つためにやったアルフに対して中山は普段はこの庭園には全く来ない。研鑽量と対策量からしてアルフは遥かにヒューマンスクールより上を行っていた。研鑽と対策をより組んでいた方が闘いに勝利するのだ。

 楽しい時間が過ぎた。二階堂は走るのを辞め息を何度も吸ったり、吐いたりした。ふーっと息を吐き呼吸を整える。反省室の中ではただただ息苦しく思いっきり走りたいという思いが募っていたのでその気持ちをこうして吐き出せて良かった。
 ヒューマンスクールの校舎の三階の影から中山の姿を見下ろす。

「(柚子葉は逃げきれただろうか・・・)」

 二階堂は思案する。


  本を抱え、二つ結んだ髪をそよそよと揺らしながら柚子葉もまたこの灰色の腐ったどんよりとした建物に帰ってきていた。

「・・・・・おかえり。せっかく違う世界に行っていたのにそれを邪魔してすまない。」
 
 柚子葉は先ほどの二階堂を思い出していた。記憶の中の二階堂を長いまつ毛の大きな瞳が改めて見る。

「ヒューマンスクールの教義なんてクソ喰らえと思ってるし、密告なんてことをしてビロウをもらうなんて考えただけで鳥肌が立つタチなんでね。」

 これらの言葉は初めて柚子葉が聞いた類のものだった。だがずっとこんな言葉を誰かが言うのを待っていたような気さえするのだった。

 柱に持たれかかり上を向く。きゅっと口元を結び、心が乱れるような喜ばしいような不思議な気持ちの到来に困っていた。

  明るいオレンジに近い髪の色にぴょこんとついたテール〈尻尾〉が二つ。ビロウ四に許されているかわいいものはできるだけセットアップしている柚子葉。十四歳。この学園で過ごすうちに笑顔がほとんどなくなっていったが本来はよく笑う子だった。お人好しな性格で明るいスポーツが好きな子だった。しかしそのとても綺麗で生き生きとした柚子葉はある種の外に対する警戒心を衣にしたものを身に纏うようになっていた。ヒューマンスクールでは信じるものは全て奪われる。信じるもの。愛するものは全て壊され、奪われる。最悪最低邪知暴虐が尽くされる場所だった。こんなところにたった一人で柚子葉はずっといたのだった。この少女はたった一人、この明けることのない空を見つめ、晴れることのない空を仰いでいたのだった。
 本のページをめくる柚子葉にもあったものだが、ある種の儚さが今の柚子葉にはあった。まるでしなびたキャロットのような・・・。

 柚子葉がしなびているのにも当然理由があった。単純だが、根本的で、それゆえそれが揃っている人間にはその重要さを忘れがちなところがある。柚子葉にはご飯が足りていなかったのである。

 おなかへった!!!

「カップヌードルからミサイルまで。」これは四半世紀前のある企業の広告のキャッチフレーズである。その企業の社長はこのキャッチフレーズの意図であるミサイルの方が上。重要度が高い。価値が高い。などの意味合いが受け入れられなかった。「ミサイルからカップヌードルまで。」にして欲しかったと言う。その社長は食料従事者である自分達の職は聖職だと思っていた。食べるものがなくなるということがどういうことなのか・・・味わったものでなければ分からない。

「(ああ・・・・お腹空いたなァ。今日の晩御飯・・・なんだろ?)」

「(なんてね。)」

 柚子葉の綺麗な顔は顔色が悪く、そのすらっとした足はふらふらだ。酔っ払いの歩き方に見えなくもない。家に帰れる理由はないのだ。迎えは来ない。ここに来た子なら二週間で悟ることだった。すなわち泣けど喚けど状況は変わらない。と。

「(お母さんの料理が食べたい。)」

 ふと柚子葉はそう思った。そう思うのは同じ班員の新入生の子を見ているからそう思うのだろうか。テーブルにつく。この子はすっかり怯え、ぶたれた犬のようにびくびくと周囲のもの全てを怖がり、避けていた。それのせいか年相応の行動はほとんど見られない。上の言うことにはとてつもなく従順。もうこのヒューマンスクールに適応し始めた子はにこやか歪ませた口を顔に張り付かせて上の言うことには絶対服従の姿勢をとっていた。そしてこの子らは溜まったストレスをより弱い存在で解消する。この子たちは時に信じられないほど残酷で残忍で意地悪にもなった。要するにやられたことをやり返した。それだけのことだった。子供はちゃんと大人たちを見ていた。大人のやっていることを真似しただけのことだった。親から愛を与えられた者は何をどうするなど考えず子供にも愛を与えることが出来る。その逆もまたしかりなのだ・・・

 目の前の新入生の十一歳の子はまだヒューマンスクールに適応出来ていないようだった。適応することはいいことなのか悪いことなのかと言うことなんて考えている余裕は無い。適応できなければ死ぬんだ。そういう風に柚子葉は見ていた。

 目の前の怯える子を見て柚子葉はしっかりしなきゃと思った。両親のことは一旦頭の角のぱっと見えないところに押し込んだ。ぎゅうぎゅう。

 柚子葉は四ビロウあるためにメニューからイー(並)アル(中)サン(大)シー(小特)までを選ぶことが出来た。同じ班の高ビロウ者は済ました顔で食事をしている。一方怯えた顔で不味く、最低のうどんを食べる新入生の子。その箸の動きは進まない。今まで食べていたものと比べて粗末で非衛生すぎるのだ・・・

「(まっずぅぅぅっぅぅっ。)」

 同じく離れたテーブルでうどんをすする二階堂はそう考えていた。

「(どうやったらこんな風になる?うどんがだぞ。製法を知るのは覚悟がいるだろうなぁ。知らなきゃよかったってことになりそうだ。だが、製法を知ってそれを公開すれば反乱のための一要素になるかもしれないな。)」

 柚子葉の前に座る子は時折戻しそうになりながらもそもそと食べていた。

「おいちゃんと食器片付けとけよ新入生!」

 食事を終えた柚子葉の班員が全員立ち上がり新入生に言った。全員分の食器を片づけるのはその班でもっともビロウの少ない者の仕事だった。

「ったくトロイな!さっさと食えクズ!」

 そう言って高ビロウ所得者が椅子ごと新入生の子を蹴飛ばした。

 二階堂の腕を大澤が慌てて掴んだ。

 新入生の子は見ていて悲しさやらなにやらで胸が痛くなるほど狼狽した。ましてや本人の心境は・・・

「(ここに来たばっかりで恐怖と緊張で疲れきっているというのにそれはないでしょう。?)」

 柚子葉は周囲を見渡した。だが誰もこの出来事に関して無関心だった。ごく普通に歓談し、時に笑い談笑している。大人達もみんなそうだった。

 その時いつも感じていたことを柚子葉はまた感じた。

「(やっぱり・・・私が間違ってるのかな・・・・それで正しいのはみんなの方。私がおかしい・・・・)」

 だが人混みの中に知っている顔。というより今日会った顔を見つけた。その男子は男子数人につかまれて止められていた。その顔は馬鹿みたいに必死に、この行為に異議を唱えようとしていた。馬鹿みたいに必死に、この柚子葉の班員の新入生の男の子を守ろうとしていた。

 やがて高ビロウ所得者が出ていった。のろのろと新入生の男の子は席に戻る。
 二階堂は柚子葉のテーブルまでやってきてうどんを男の子の子の丼に自分のうどんをまるごと入れた。

「替え玉だ。」

 ボソッと二階堂が耳打ちした。

「ついでに七味唐辛子つき。」

 続けてどこからか調達したらしい小瓶の七味唐辛子を出した。

「いいや俺は塩胡椒派だな。」

 共にやってきた物事を断じることが好きな美濃が軽口を言う。そう言って彼は男の子に塩胡椒の入った小瓶を渡した。

「まぁそれをふりかけるうどんが最低なんだけどもね。」

 大人しそうな大澤が言った。

「そりゃそうだな。」

「七味唐辛子が100点だとすると」「塩胡椒が100点だとすると」「「このうどんはマイナス100点さ。」」

 息ぴったりな軽快な掛け合いに男の子の瞳に光が戻る。

「ね、ねえこんなことしたら・・・絶対これヒュー条違反してるでしょ・・・??」

 困ったような嬉しいような顔をしながら当たりを慌てて見渡してこう小声で言う柚子葉。
 二階堂はそれに応える。

「残飯を処理しているようにしか見えないさ。」

 そう。残飯及び食器を片付けるのは最も低いビロウ保持者の仕事だった。その視覚的盲点を二階堂は上手く突いたのだった。

 形の言い瞳をぱちくりさせた後柚子葉は今度こそ嬉しさ満開の顔をした。体を弾ませたその笑顔は百万Vの笑顔だった。わーまぶしー。

「その手があったのね!」

 発見に顔をかしげた笑顔で喜ぶ柚子葉。髪が頬下口元付近までかかっている。
 それから柚子葉は自分の食事も新入生の男の子に上げた。うどんなんかよりはよっぽど質のいい食事だった。

「支配構造強化のための食事の差だけど、これはそれが裏目に出たな。」

「ともあれたくさん食べないとな。なにがともあれ。そうしないと駄目だ。力が出ないから。そうしなきゃ何も始まらない。」

 不敵に言う二階堂。とても便りがいのある頼もしい。二階堂はそういう包容力を持った男だった。

 男の子は嬉しかった。食事を腹いっぱい食べられたというより、こんなにも自分にも味方が、助けてくれる人がいたということが、ヒューマンスクールに来てからで一番。ひょっとしたら人生で一番嬉しかったかもしれない。

「さて。俺達はもう行くよ。長くいると怪しまれる。じゃあ。また会おう。」

 二階堂が二人に言って歩き始める。その二階堂に柚子葉が声をかける。

「あ、ねぇ。この調味料は・・・??」

 柚子葉が手に持った七味唐辛子と塩胡椒のことだ。

「ああ。それ。柚子葉が持っといてよ。次に会う時に返してくれればいい。」

 横目で顎を、持ち上げて話す二階堂。それだけ言うと今度こそ、背を向けて行ってしまう。去り際にピースサインを背の後ろで手首で振って目立たぬ挨拶をする。実はこれはアルフの符号のサインだった。のだがそんなサインなど知らない柚子葉はふっと微笑みこう思った。

「(キザな人。)」
 
4, 3

  

 5

 ごおおと風の音か空間に反射して起こるのかそういった空気の倉庫。

「(何故俺はこんなところに居なくちゃ行けないんだろう?)」

 生徒の一人が重たい車輪付きの箱をあくせくと動かしながら思った。

 遥か上空に設置されたとてつもなく小さく見える窓から光が差し込んでいる。どんよりとした空模様だ。このごろはいつ空を看てもどんよりとした空だ。いつこの空は晴れるのか。など考えたりはしない。彼にとって空はいつもこういうものだった。いつも空は暗かった。彼にとって空気も最低な空気を吸うことが当たり前になっていた。

 ここは暑さ極まるでかい倉庫の中だった。もう朝からずっとよく分からない何のために使うのか分からないものをあちこちに運んだり、戻したりしている。天井が嘘みたいに高く、そのことが巨大な棚に囲まれる人間のちっぽけさと寂しさと惨めさと無力さと孤独さを浮き彫りにしているようだった。

「(なんで俺はこんなことをしなくちゃいけないんだろう。)」

 最初はあの遠くに上に立ち、働く生徒達を監視している宣教師の言うことを生徒は信じていた。だが、少しづつではあるが二階堂達が動き回った、その影響がヒューマンスクールにも現れているようで、生徒達の中にも懐疑の念が芽生える者もいた。

「お前ら手を抜くなよッ!!手を抜いたら飯抜きだぞッ!!」

 無駄に頭に突き刺さる声で監視している宣教師が大声を出す。ヒューマンスクールの宣教師達は最近に入り、生徒達に余計に締め付けが厳しくなったり、急に優しくなったりした。優しくなったと言っても今までの行動から考えて比較的に、というだけの事なのだが、生徒の気持ちは単純でやっかいなものでころっと気持ちが安らぐ者もいた。

「しかし、そんなものは焼け石に水だ。」

 二階堂は言い切った。

「そんなヒューマンスクールの優しさなど一時的なものだし、根本的なところが自由と誇りを求める人間にとっては許容不可なんだ。」

  しかも宣教師達のそのころころと態度や言っていることが変わるということが逆効果にも働くということもあった。

 二階堂らの結成したレジスタンス〈ALF〉。その集会所はメンバーの増加と共にあの空き部屋では収まりきらないため浜辺の小屋で行うことにした。総勢二十六名。今日ふくろうが夜中鳴く中、全員が来ていた。
 こんなにもこのヒューマンスクールをぶっ倒したいという人がいることに皆が嬉しかった。ここでは誰もが自由にみんなに話すことが出来る。それを邪魔する空気など存在せず、それを邪魔する宣教師や高ビロウ保持者も存在しない。 この夜は二階堂が皆に向って話していた。

「しかし・・・・・本当のところ生徒たちは信じたいんだ。」

「俺達ですら最初は信じたかった。でももう限界だ。」

「こんなにむちゃくちゃなことをされ、誇りを傷つけられつづけ、自信を失わされ続け、自尊心を奪われ続け、挙句に強制労働。時間までも奪われているというのに。生徒達は代わりに何を貰っているんだ?最高の教育とやつらはのたまう。そんなもの大嘘だ。光の教国に行く為とのたまう。そんなのも大嘘だ。そして何故光の教国に行けるのに宣教師達は行かないのかという矛盾を指摘する必要もなかった。やつらは自分達から敢えて残って後のしょうがない人間を導いてやってるんだと偉そうに言う。やつらは自分達がどれだけ自己犠牲を払っているのか、どれだけ生徒が駄目な人間かを説明するのに労を惜しまない。それどころか実に生き生きと、楽しそうに俺達のことをけなすじゃないか。」

「生徒たちは信じたいのだ。それは大人を信じる。人のことを信じたいという、疑いたくないとう、尊敬するという生徒たちが持っている美徳を利用した狡猾で最も残酷で卑劣な行為なんだ。やつらは自分達を偉く見せるのに必死なんだ。少しでも生徒達の価値を下げるためなら何でもやる。」

 皆が二階堂の話に聞き入っている。ALFにはなんと一部の高ビロウ保持者まで参加しているのだ。その生徒が接触してきた時に、その時はスパイかどうか流石に疑ったが、顔を隠して会ったときにその高ビロウ者の命をなげうつったヒューマンスクールへの抗議は本音だと十分に判断出来た。

「(しかし・・・・本当はヒューマンスクールの本質を理解していてスパイであるということも両立するんだ。ここの歪んだ場所の歪んだ権力に取り憑かれ、こんな場所に居心地の良さを感じている「知っていて」なおそれでいいと思ってる最低のイカレなら俺達を欺く演技が可能だ。それが一番可能性が高い人間が恩恵を最大に受ける高ビロウ保持者だ。)」

 二階堂はその可能性を危惧していた。

「(もう少しじっくりやった方が摘発されすべてが水泡に帰す可能性は減る。)」

「(ハンプティ・ダンプティはもう元には戻らない・・・か。)」

 しかし、ここに何年も閉じ込められ、何年も自由を奪われ、何年も若いこの大切な時間を奪われ、少年故の忠誠心を弄ばれ続けた彼らの一刻も早く解放したいと焦る気持ちは痛切に分かった。
 だからスパイ案件についても二階堂は手を打った。ある決意をはらんだ打開策だった。

 一週間に一度の集会を誰もが待ち望んでいた。ALFの存在がうんざりしている生徒達の希望だった。この世界での明日は全く考えられない。しかしアルフなら明日の事が嘘みたいにぱっと開かれる。目の前が暗くなることの正反対。目の前が明るくなるのだ。ヒューマンスクールの教示を聞いていると、考えると目の前が暗くなるが、ヒューマンスクールから解放されて自分達の本当に望む世界を想像すると目の前が明るくなった。
 見せかけだけの絆でも表面だけの関係でもない。アルフのメンバーは本当にお互いの事を思いやっていた。親もなく、信じられる大人もいない彼らにとってアルフのメンバーは何よりも重要で大切だった。

「皆。ヒューマンスクールの飯はクソまずいよな。まるでゲロを食べてるみたいだ。あのうどんなんか」

「腐った芋虫!」

 短髪の生徒が二階堂の言葉に続けて言った。

「明日食べる時思い出しちまうだろ!」

 反対側に立っていた子が叫んだ。小屋の中に笑いが包まれた。

  夜中まで集会所は続いた。毎日奴隷のように働かされることで疲れている面々だったが、活気は衰えない。あの新入生の生徒は田中という名前だった。ようやく本音で喋れるということもあって皆口々に話した。田中も喋った。

「どうせ11歳で学校に連れて来られるならホグワーツが良かったのにな。」

 場がどっと笑いに包まれた。11歳で見ず知らずの学校に入学するところまではハリーと同じなのだ。 ホグワーツに行けたら面白過ぎる。というかホグワーツの代わりにヒューマンスクールに入学するなんてとんでもない手違いだ。ホグワーツと自分達が置かれている状況の天国と地獄のまさに天と地ほどの差が頭に浮かんで皆笑いが止まらなかった。何人かは泣き笑いをしていた。

 それから頃合に手を上げて二階堂が口を開いた。皆の目が二階堂に向く。

「生きることは素晴らしいことだと誰もが教えられる。だが、食べ物をもう食べたくないと思わせられるのはどう考えてもおかしくないか?」

 ここではビロウの差はなんの意味も持たない。一ビロウの二階堂に皆が耳を傾けていた。

「食欲がなくなるってことは死に向かってるってことなんだ。もう食べたくないってことはもう生きていたくないってことなんだ。俺達は生きるために生きてきたんだ。なら何故俺達はあいつらにもう生きていたくないと思わされなきゃならない?あいつらは毎晩毎晩酒池肉林の生活なのに?あいつらはなんの痛みもなくバクバクバクバク食べていい生活を享受しているというのに?ふざけるな!」

「これを見てくれ。監視カメラの映像だ。」

 そう言ってブラウン管のテレビに手製の出力装置を繋げたものに奴らの化けの皮が剥がれた姿を見せた。
 職員室の奥の部屋で毎日酒が飲まれ豪華な食事や高価な食事やワインが並ぶ酒池肉林の様が行われていた。
 一同はその光景を困惑した様子で見ていた。無理もない。二階堂と美濃でさえそれを見た時嫌悪で顔を歪め、何日もムカムカが収まらず今日までずっと怒りを抱えてきた。

「(はっきり言ってこんなもの皆に見せたくなかった。だが真実だし、こうすることで奴らが倒される・・・・・この皆の痛みのツケを奴ら自身が払うことになるんだ・・・)」

  中間搾取所の話ではなかった。

「ふざけないでよ・・・普段と言ってることが・・違うじゃない。」

 誰かが言った。

「許せないよな。許せるわけないよな!こんなことまでされて黙ってるなんて有り得ないよなぁ!」

「許せねぇよなぁ!!俺達は奴隷だったんだぞ!!!」

「許せるわけないわよ!!!」

「ふざけんなよ!!なんなんだよ!何やってんだよこいつらぁ!」

 普段の教えにまったく矛盾する姿。言っていることとやっていることが違う。最悪の光景がアルフの若いメンバーの目の前で繰り広げられていた。

「訳わかんねぇ・・・・もう何がなんだか分かんねぇよ!」

「私たちは今まで何のために働いてきたのよ!」

 今まで溜まりにたまってきたものがもう爆発した。誰も彼も到底受け入れられない現実を目の当たりにしたのだ。到底耐えきれないことに耐えてきたのはそれが正しいことだからと信じてきたからだった。

「それなのに・・・・それなのにこの有様か!!こいつらの正体は!!」

 アルフのメンバーの女子生徒が叫び声を上げて指を画面の中の普段の言うこととまったく違う宣教師に指した。

「ぶち殺せええええええええ!!!」

「う・・・・うわぁあああああああああ!!」

 とてもじゃないがやはりアルフのメンバーたちは現実を冷静に受け入れられなかった。

「殺しに行こう!!やつらを今すぐ!」

 溜まっていたダムが決壊したのだ。それも個人のダムの決壊ではない。大勢の人間のダムが決壊したのだ。

「(くそ・・・・・すごい嬉しい・・・・凄い嬉しいけど・・・!)」

 二階堂も出来ることなら今すぐみんなと共に鬨の声を上げたかった。だが二階堂は冷静だった。その聡明な頭脳ゆえに皆と共に立てなかった。誤算があったのは・・・皆の積年の恨みの多寡だった。

「みんな・・・!聞いてくれ・・・!」

 みんなは二階堂を見ている。二階堂の指揮を待っているのだ。さあ。今すぐ行ってあの愉悦中のあのゴミカス害虫共に報いを与えようと。さあ!さあ!皆が皆頭の中は宣教師達を殺すことしかなかった。というより感情を解き放つことを止められはしなかった。殺せ!!!

「(ALFが二十六人に対し、宣教師は五十四人。この数は何の問題もない。策を練れば。・・・しかしヒューマンスクールの生徒が問題だ。高ビロウの生徒が向こう側に着いたらそれは問題だ。総生徒数八百人。そのうち高ビロウ保持者が二百人。まだ今の世論ではヒューマンスクールに味方するだろう。そして残る六百人あまりもヒューマンスクールに従わされるだろう・・・俺は皆にこの事実を説明して説得させなきゃならない。)」

 ヒューマンスクールを倒したい。確実に絶対に倒したいので確実に倒せる方法をとる。

「みんな・・・!」

「今は・・・まだ蜂起の時じゃない。」

「は・・・?」

 生徒達は誰でもこの感情をなんとか出来るならぶつけるのは二階堂でも構わなかった。

「許せねえよ!!殺す・・・殺さなきゃ!いくらあんたでも止めるっていうんなら俺達は無理やり行くぞ!!」

 二階堂の前には二十三人の生徒達が向かいあうようにして立っており、生の感情のぶつけ先を探していた。その顔は怒りと苦痛に歪められていた。何も暴力まで行かずともこんな激しい感情をぶつけられてまともな感受性を持っている人間ならひとたまりもない。宣教師はもうまともな精神構造をしていないため、何も伝わりはしないが。

「よくも・・・・よくもあんたこんなものを見せてくれたな・・・」

 それは呟きのように漏れた言葉だった。憎しみの矛先は二階堂に向かいつつあった。

 田中は自分がどうしたらいいのか、でもどうしようもできず、二階堂琥珀と他のメンバーを見ていた。

 二階堂は一人一人の顔と名前は当然覚えていた。個人をないがしろにするヒューマンスクールに対する抵抗だった。だがまだ、みんなのことを二階堂はちゃんと知れていないのだった。

「(俺は・・・・皆を巻き込んで挙句に俺は地獄に皆を率いて行っているかもしれないんだ・・・)」

 そう。入手した書類によればヒューマンスクールが建てられた理由は本気で生徒を救おうと考えていた。信じられないことに一部の宣教師は救おうとして生徒達に地獄のような苦痛を与えているのだ。

「(一部の宣教師は正しいことをしていると思っているのだ。正義の旗印の元人を死に追いやっているのがヒューマンスクールなんだ。)」

「(ならば、ヒューマンスクールと俺はどこが違うんだ・・・)」

 ふと右腕に衝撃が走った。二階堂の反射神経で前からの攻撃に対処できないはずはない。それは攻撃ではなかった。二階堂の右腕にがっちりと美濃が腕を組んだのだった。

「美濃・・・・!・・・?」

「一人でやってるつもりになんなよ~ヤバイ橋渡る時はいつも一緒・・・・だろ?」

 美濃も彼らの暴走を止めるつもりなのだ。彼らの暴発を止めなくちゃならないという同じ決意、同じ考えを美濃も二階堂も持っていた。 二階堂は美濃の意思を受け止めようとするかのように、視線を外さずにしっかりと受け止めた。 その確かに繋がった腕から、組まれた腕から美濃の意識みたいなものが流れ込み、二階堂の意識が流れて行った。滞っていた電気物質が腕を通して二人のあいだで流れているようだった。
 美濃の魂の形が二階堂に似ている。自身が許せないと思うことも、それを侵害された時歯止めが効かないほど体が動いてしまうところも。

 さらに二階堂の左腕をベージュのボタン付きの厚手のコートの腕が組んだ。肩に身体がぐいっと寄せられる。

「一人で無茶しないでよね。」

  柚子葉が二階堂の腕を組んだのだった。 反対側の左側には柚子葉がいる。
 緊張で汗をたらりと流す柚子葉。二階堂がやや左下を見下ろすとその宝石のような瞳が真っ直ぐに二階堂を見返してきた。そのヴィブラートが二階堂と美濃と柚子葉をこの身体を通して感覚や、何かそういったものを超越したところまでリンクさせていた。がっちりと連結した肘がインターフェースのようにお互いの意識を融合させる。かつてない感覚。

 美濃の右腕に組んだのは大澤だった。四人は肩まで繋がらせてドアの前で立ちはだかった。増えれば増えるほど電流が増幅していっているようだった。

 二階堂は意思を再度固め説得にを行う。改めて立ちはだかるアルフメンバーの一人一人の顔を見る。先程よりも一人一人の顔を見る余裕が出てきた。考える思考も捗る。

「(ここに奴隷はいない。皆の怒りが最たる証拠だ。)」

  悲痛な顔で感情のぶつけどころを探している皆。その目が二階堂達を見ている。二階堂。美濃。柚子葉。大澤。田中くんが成り行きを見る。

「なんで行かないんだよっ!?」

 口を開いたのは背の高く、人一倍大柄だが心は優しい男。山本だった。漏れでるような発音。理性によって放たれた言葉ではなかった。二階堂はこの心の優しい、人を信じることが出来る男の心が今いっぱいいっぱいであることが分かった。

「皆の怒りはもっともだ・・・」

 二階堂が口を開く。二階堂は何も悪くはない。それなのにこの男は近頃誰もが忘れてしまった責任というものを深く受け止めていた。リーダーという役割は時にスケープゴートという役割も負わなければならない。

「計算じゃ勝てない。そう、まだ準備が足りていないんだ。」

「数字の差を見てくれ。」

 そう言って二階堂は美濃達と説明のための、説得のための、破滅させないための、綱からあっけなく落ちないための、そのための説明を開始した。
 まず、兵力の差を説明した。

「~だから今蜂起しても成功の可能性は低い。もっと研鑽と対策を積めば成功の可能性はドンドン上がる。ならそうしない理由はないだろう?」

「・・・・・・」

 皆もALFの研鑽と対策のおかげでヒューマンスクールを生きる上で小さな勝利のようなものを手に入れていた。その効果を実感しているゆえに二階堂の説得には力があった。

「だから頼む。もう少しだけ待ってくれ。待てないよな。一刻も早く解放されたいよな。だっておかしすぎるもんな。悔しすぎるもんな。だが待ってくれ。必ずインデペンデンス・デイを実現させるために。」

 皆の身体から熱のようなものが引いていく。がくっと膝から崩れ落ちる者もいた。それを引き金にしたように数人が次々と尻餅をついたり、膝が折れたりしている。

「どうしたの?中津さん!?みんな!?」

 立てているALFのメンバーの一人、御暦が声を上げた。

「・・・・・・・」

 うつろな顔の中津川。その顔は自分を心配した御暦の方を見ず、木の床を見ていた。いや、まともに木の床を見ていたかどうかは、怪しい。

「みんな。時間がそろそろやばいぜ。解散しないと。」

 美濃がガタガタの時計を見ながら言った。
 しゃがみこんだりしていた者がその言葉にのろのろと立ち上がろうとする。本当にゆっくりと。しかし立ち上がったように見えた生徒が次の瞬間かくんと崩れ落ちた。

「な・・・なんだ・・・どういうこと?・・どうしたの?」

 大澤が皆の異変を目の当たりにして目を見開いた。

「 ・・・ちからがはいらない。 」

 一人のALFメンバーが崩れ落ちた生徒の胸中を代表する言葉を絞り出した。かすれ声だった。喋ることすら辛そうだ。歩き出すことなんて出来そうもないくらいの様子だった。

「さ、とにかく寮に戻らないと・・・」

 嫌、もう歩けない。などの声が誰かの口からぽろっと落ちた。

 立てているALFメンバーが肩を貸す。

「あー・・・・もう集会が終わっちまったなぁ。あと一週間耐えなきゃいけないのかよ・・・」

 若い男子生徒だ。

「向こうの1時間がこっちの5分に感じるっすわ。」

  が軽口を言う。

 ハハハと笑う。その後、 若いALFメンバーが呟いた。

「・・・・・もう生きていたくないんだ・・・」

「・・・何バカなこと言ってんだ。そんなこと思う必要ない。そう思わなきゃいけないとしたらそれは宣教師の奴らさ。」

 月明かりのない夜に林を抜けて寮に戻る。小屋から出たら、喋ってはいけない。誰もが名残惜しく最後まで少しでも喋っていたいのに、発見を避けるために静かに移動しなければならないのだ。
 二階堂はこの日もろくに寝ずに徹夜で計画の演算をし、シュミレーションをした。今日の出来事が二階堂のブルドーザーのような活発な活動に拍車をかけた。
 
  6

 霧の中をさまよいながらどこへ行けばいいのだろう。胸に絡む見えない鎖。それは世界の法則の重さ。飛び立ちたいと願う。あの場所へ。

 見知らぬ大地に辿り着いた。そこに根を下ろすことがその彼にはできるのか?心に空く穴を埋める術があるというのなら、そこに種を飛ばし育てゆくことは出来るだろうか。

 リフレインする痛み。全てが散ってゆく。確かだと思っていた全てのことは脆く崩れさる。

 現象を追う、目だけが自由。

 二階堂琥珀の目が覚めた。目を開ける。

「(ここはどこだ・・・・?)」

 二階堂琥珀は目を覚ます。

 その時誰かを思い出した。普通の学校の世話好きの委員長が寝ぼけている生徒に言うように。

「(目を開いているからといって、覚醒しているということにはならないわよ。)」

「・・・・・・・」

 二階堂はまだ寝ぼけているらしい。何故なら昔のことなんかを思い出すからだ。ここ、ヒューマンスクールに来る前のあの、終わりがズタズタだった、もう一つの学校生活。胸が記憶に締め付けられる。

「こういう時、1番いいのはもう1度寝ることなんだけどな。」

 自分で自分に苦笑する。そう・・・ここヒューマンスクールではもう一度寝ることなんてとんでもないこと。二度寝など。まさに論の外。発想の外。

「だからこそ俺は___」

 口元に笑みを浮かべて。

 布団の上に、背中からいく。

「・・・んなわけねーよな。」

 閉じた目を開く。もう口元は笑っていない。

 粗末な軋む、不安定なベッドから降りる。唯一ある窓。それはとても小さい。小さくて狭くて、狂おしい。窓が小さくて嫌になる。
 その窓から振り込む朝日。その日の光がさやさやと琥珀にふりそそいでいる。太陽の使者という呼称があるのなら二階堂琥珀がそれに相応しい。

 あぐらを組んだすらっとする体躯。類似するものの無い形。人格から醸し出される顔立ちが彼の内包する天性の抑制力を表していた。

 二階堂琥珀は心臓に手を当て確認してみる。自分という存在を。規則正しく動く、カウントダウンのようなこの己の音。

「ここはどこだ?」

「ヒューマンスクール。」

「俺は誰だ?」

「二階堂琥珀。」

「二階堂琥珀は何をする?」

「ヒューマンスクールの全てを壊す。そうすることが皆を救うことになる。俺がすっきりするためにも。」

「・・・俺がすっきりするため・・?」

 口から出た言葉を反芻する。

「(考えてみれば・・・・とても個人的な理由なんだな。)」

 二階堂の知る男がかつて言った。その少年のことを思い出していた。あの誰も彼も救いたがった、そしてそれを実現した。二階堂の知る超人の一人。

「(誰のためかって____?自分の為だろ。)」

「そう・・・・誰のためじゃない。自分の為にやるんだ。」

「さあ、二階堂琥珀。俺は今日死ぬとしてこれからやろうとしていることをするのか?」

「やる。やるに決まっている。」

 朝起きる。二階堂は目覚めた。最悪の場所で。最悪のヒューマンスクール。ここは一体どれだけの人間を苦しめれば気が済むのだろう。

 粗末なベッドの上に座りスプーンを舐めていた。スプーンの表面には鉄分があり、スプーンを舐めることで鉄分を摂取することができる。
 ベッドの下の職員室に忍び込んで手に入れた資料を読んでいた。二階堂はそれを注視した。朝になってそこに書いてあった意味を黙考する二階堂琥珀。そこに書いてあったことは半ば信じられないような、しかし、予感していたことだった。

「・・・・・・・」

 今日のヒューマンスクールの日程表をチェックする必要もない。二階堂琥珀の頭にはそれらが修められていた。心底嫌っているものを頭に全てを入れる。しかも己の意思で。それがどういうことなのかヒューマンスクールの異常宣教師共には分からない。
 部屋から出て集団で作業場まで行く。作業場で午前中はずっと訳の分からない作業を無意味に、しかも出来ると判断されたら、何度もあらゆる角度から、あらゆる面からいちゃもんをつけられる。それは明確な悪意を持った嫌がらせにもなって子供達に襲った。

「こんなところ・・・・!」

 二階堂琥珀が音にならない呟きでもって悪態を吐いた。

 その長い長い地獄のような時間が終わったら、今度は座って夜まで宣教師の強化授業だ。
 ヒューマンスクールが如何に最低の場所か、繰り返し書いてきたが、宣教師一人一人の人間性については分からないところが多い。ヒューマンスクールの生徒達にはもう、特にALFのメンバーには宣教師達が何を考え、生徒達を苦しめるのかがよく分からないのだ。言っていることとやっていることが違う。ということもある。何を言っているのかからっきし理解出来ない時もある。ヒューマンスクールがこの場の社会なのだから、そこに適応出来ない二階堂琥珀や美濃、柚子葉を始めとしたALFのメンバーはみな社会不適合者である。
 社会不適合者は隅っこで縮まって、怯え、びくびくしながら、かろんじられ、疎まれ、蔑まれながら生きるしかない。
 その関係をひっくり返す。

 そうした想いを持ったALFのメンバーたち。いつかはこの世界がガラッと変わるんだと信じて痛みに耐えている。

 ヒューマンスクールの一日一日が二階堂琥珀にとって許せない毎日が繰り替えれている。うんざりするような宣教師。うんざりするような生徒たち。しかし、二階堂琥珀のクラスは二階堂と同じ空間で二ヶ月も過ごしているのだ。二階堂の影響力は凄まじく、クラスメイト達はどんどん感化されていった。最初に起こった変化は生徒達はビロウのことをあまり、気にしなくなっていったことだった。

 彼らだって子供なのである。年頃の気を緩めた会話を彼らはするようになった。

 それをそのクラスを受け持つ宣教師は、堕落と見なした。堕落の原因は一目瞭然で二階堂だった。そのことに不味さを感じた二階堂は一系を案じた。クラスメイトに宣教師の気分を良くさせる為に表面上はヒューマンスクールの言う事に従ってくれと。そして、本音を話したいならもっといい場所がある・・・と。

 二階堂が反省室を出室してから二ヶ月と九日が立った。その間に風のような速度で、準備を整えた。ALFメンバー総勢47人。対する宣教師は54人。その他生徒が708人。47人対54人であるものの作戦は整った。あとは実行に移すだけである。

 決行の日は訪れた。その日はいつものような日であった。だがALFのメンバーにとっては違った。午後4時。作業の二回目の休憩時間に校舎を動く影があった。

 今日はいつものごとく、一人の生徒が周りの人間から打ち据えられていた。いつものようなこの異常な風景。

「う、うおおおおおおおおおおお!!」

 鬨の声が上がる。一部のヒューマンスクール生が次々と現場で反抗し始めているのだ。

「うはははは。いいぞ。」

 美濃だ。

「な・・・・なんだお前ら!」

 宣教師も大慌てだ。初めての出来事におののいている。

「ひゃははは。」

 美濃が大笑いをする。嬉しくてたまらないのだ。
 眼前で次々と信じられないことが現実となってゆく。

「宣教師達を捕まえろ!!」

「おー!!!」

 何十、何百もの合唱で集団は行く。ヒューマンスクール内はかつてない様相を呈していた。全ての宣教師は捕らえた。生徒達の怒りは留まるところを知らない。

  理事長室の豪奢な内装は棚が倒れ紙が散乱していた。そこには田淵の姿は無かった。

 そして隠れていた、田淵を追い詰めた。

「こんなところに隠れるとは・・・昔と逆の立場ですね。」

 美濃が言った。美濃はかつてこうして田淵に追い詰められたことがある。

「いや、もっと悪いか。」

「・・・・・・」

 田淵は表情を変えず、生徒と美濃を交互に見た。

「歩け。」

 美濃は冷徹に言った。唾をその場で吐き捨てた。その行動に田淵は目を丸くした。田淵にとっても次々にありえないことが起きている。
 田淵は生徒達の間を歩いた。それを囲む生徒達は憎しみの眼差しだ。田淵はおろおろしながら間を歩いた。

「これで、全員か。」

 美濃は二階堂に言った。半ば自分に確かめるように。

「ああ。」

「はは。本当にあっけなかったな。あいつらは。まぁわかっていたことだが。」

「止めろ!!おっお前ら!自分たちが何をやってるのかわかっているのか!反逆罪だ!」

 高ビロウの生徒達が喚く。

「そうか、仕方ない。」

 二階堂率いる小隊のALFメンバーと高ビロウの生徒が衝突した。一部の高ビロウ所得者は島を離れることとなった。彼らはこの島を離れ世界で何を見るのだろう。もしくはまたこの島で起きてしまったことを繰り返すのか。それはまだ分からない。

 またさらに一部の高ビロウ所得者が、校舎の屋上にいた。二階堂はその場にいた。

「こんなヒューマンスクールに我慢できない人間がこれだけいるんだ。人間の自由は絶対に奪っちゃいけないものなんだよ。」

 二階堂は高ビロウ所得者を説得しようとする。

「薄々分かってた・・・・・」

 どこか、解放されたように、疲れたように言った。

「先生達が負けたんだな・・・・何もかも変わるんだろ。お前が、首謀者なのか。」

 だが言葉とは裏腹に口調には憎しみは一片も乗せられていなかった。

「お前が、次の宣教師なのか?」

 一歩を踏み出す前にこちらを振り向いてからそう言った。足を外壁のでっぱりに掛けた。その後冗談のように。まるでマジックでも披露するかのように、躊躇いなくゆっくりと、外壁に足を踏み出し、姿が下に消えた。


 だが、違う反応を見せる者もいた。低ビロウの生徒達だった。

「ああ・・・・俺達が今までやってきたことは・・・・」

「・・・・間違っていたんなら・・・・じゃあ俺・・・・俺ってなんなんだ・・・今までも、これからも真っ黒だ・・・」

 その顔には疑問と絶望と苦しみが深く刻まれていた。

「この世界は、地獄だ。」

 それが彼の最後の言葉だった。
 そして二階堂の目の前でつぎつぎと屋上から飛び降りて行った。どちゃどちゃという音が耳にこびりつく。この音は生涯耳に残り、この出来事は生涯心にしこりを残すだろう。そこにいたのに、もう今この瞬間、五人の生徒は生きていないのだ。

「う・・・・・」

 あの二階堂がふらついた。動揺で足が震える。ヒューマンスクールの罪深さを、やってきたことのおぞましさを強烈な痛みとともに知覚した。それは真っ黒な矢で胸を撃ち抜かれるごとき痛みだった。

「何故・・・・なんでなんだッッ!!!」

「クソッ!!クソッ!!クソッタレがぁああああああああああああ!!!」

「何で死ななくちゃならないんだぁああああ!!!」

 二階堂は気づけば絶叫していた。

 だが、もう一つ冷ややかで、どこにも行き場のない声が心の中に浮かんでいた。

「(彼らを殺したのは俺でもあるんだ。少なくとも俺が蜂起しなければ彼らは死なずにすんだ。いや・・・・馬鹿か俺は。そうじゃなくてもっと他に方法があったはずだ!)」

 内心の動揺。立ち止まる二階堂に追随する反乱側の生徒が声をかける。

「もういいです!行きましょう!」

 グラウンドには角に集められた宣教師達。宣教師たちをしっかりとしばっているようすが見えた。

「あっ・・・・・・ああ・・・!」

「(とにもかくにも絶対許さない。)」

 最後にそう締めくくることで今までやってきたのだ。これからもそうなるのか・・・?これからは・・・・・・

「みんなの犠牲の上にのさばる宣教師など・・・・生かしておくかぁああああ!!」

 顔に憎しみを刻ませた少年が憤る。流れ込んでくるのだ。この気持ちはどこからかどこからか生まれてくる。それは彼らの無念か。彼らの悔しさか。彼らの屈辱か。彼らの憎しみか。


  ここはある作業場。ここでもまた、全身を動かしてまったく無駄なことが繰り返し行われていた。

「ふざけるな・・・・・僕らは奴隷じゃない。」

「何・・・・」

 くるりとこちらを振り向く宣教師森下。

「僕らは・・・・お前の奴隷じゃない。」

 再び集団の中から声がした。

「僕らは・・・・お前らの奴隷じゃあない!!!」

 ワーワーとヒューマンスクール内は喧騒と罵声が行き交う様子となった。どこにこんなに人がいたのかというほどの人で溢れかえっているように見える。

 生徒達は叫び、走る。顔に憎しみが迸っている。憎く、憎く、憎く、憎い。

「とにかく許せない!!」

 溢れる轟流がヒューマンスクールという怪物の中で駆け巡っていた。その生き物はさらに小さい、小さな勇者によって生まれた。二階堂琥珀が全てを始めたのだ。原初の種。

 全ての宣教師を鹵獲する。しかし彼らの怒りはどうやったら収まるのだろう。差別による怒りはどうやったら収まるのだろう。差別による傷はどうやったら癒されるのだろう。

 最初の一撃はとてつもなく重く、それゆえに強い。次々に連鎖していった。

「森下も、中山も、田淵も全員捕らえるんだ!」

 二階堂琥珀が喧騒の中で声を上げる。

「俺達が先に進むために必要なことだ!落とし前をつけよう!今までの皆の分を!」

 雪崩のような。激流。巨大な怪物に対抗するには自分達もまた強大になるしかない。だから、もっと力を!
 各場所で次々に宣教師達を拘束した。

 弱き者に自由はない。自由になるには、力が必要だ。そうしたら優しくいられなくなるのだろうか。そんなこと、自由になってから考えよう。自由になれれば、力を手に入れれば、分かるだろう。人間がどういうものなのか。自分はどういうものなのか。自分はどうありたいのか。強く・・・

 だが、今は、ただ、前に!

「勝つ!俺らが勝つ!」

 放送を乗っ取り、放送をかける。このヒューマンスクールにいる人間すべてを巻き込んだ戦争が今勃発した。

 荒れ狂う大勢の人間達。誰も彼もが必死の形相をしていた。爆発がいくつも起こっているようだった。ヒューマンスクール側の生徒とALF側の生徒の衝突。人間もまた動物なのだ。その動物が、大勢が集まって組織的な戦いをする様子の激しさといったら凄まじかった。紙が散乱し、田淵の肖像画が踏みつけられた。

「誰も死ぬな!!」

 二階堂琥珀は叫んだ。

 それを聞いて、大澤は思っていた。物が飛び交う。

「(そうだ・・・・冷酷なだけのやつではないんだ。二階堂くんは・・・)」

 その時底知れない感情が溢れてきた。

「(ありがとう。)」

 あんなに威張り散らした憮然とした態度で人に対して幅を聞かせていた奴らが、あわてふためいて逃げている。

 二階堂琥珀の目の前に宣教師の一人がいた。歳は滝川重治。53歳。自分のやり方が絶対に正しいと信じて疑わない。それを生徒に押し付ける。少しでもは叛意が見えようものなら大勢の前でその生徒を辱めた。うんざりすることにヒューマンスクールの宣教師はそういうことに長けた人間ばかりがいた。ねちねちとした人格否定を繰り返す。最低の宣教師の一人。自分より立場が上の人間にはペコペコし、自分より立場がしたのものには酷すぎる行為をしていた。しかも気の弱い生徒だけにするのである。ビロウが引く、それでいて気の弱い生徒にとって中山と同じくらい最低の人間だった。

 その初老の男の胸に二階堂琥珀は掌を押し当て、ぐいっと薙ぎ、壁に叩きつけた。先頭の二階堂はこの小物に目もくれず、一瞥すらせず、次の目標物に向かう。

「滝川重治!捕まってもらおう!」

 生徒達が叫び、滝川を押さえつけ腕の手首を縛り、体を縛る。何重にもロープで縛った。

「こ、こんなことをしてただで済むと思ってるのか!今離すならまだ酌量の余地があるぞ!」

 滝川が言う。そこで二階堂は早足で歩き去ろうとした体をぴたっと止めた。振り返る。

「お前、こんなもので終わったと思うなよ。お前を憎んでいる生徒に、お前をどうするか決めてもらうんだ。お前がどれだけ多くの人間を苦しめたのかじきにわかる。」

 二階堂琥珀は冷たく言い放った。滝川は二階堂の目に氷のような冷たさを見て震えた。

「(モンスター・・・だ。こ・・この生徒はモンスターだ。)」

 宣教師は全員グラウンドの隅に集められた。

「みんな!この戦い!俺達の勝ちだ!!」

 二階堂が宣言した。途端にうおおおおおおおおという人々の歓声が上がる。本当に自分自身のことを認められているのだ。自分自身の勝利。勝ちという言葉はヒューマンスクールの生徒達には新鮮だった。二階堂の言う言葉や、行動、彼の人間性全てがヒューマンスクールの生徒にとっては新鮮な響きや、衝撃、そして柔らかな音色の感覚などを与えた。およそ三ヶ月たらずでここまでのことをやってのけ、こんなに多くの人間に多くの影響を与える。輝かずにはいられない惑星のような、彼はまるで核融合で自熱する太陽のようだった。全てのものをその巨大な引力で引き付ける重力。強くて、そして広い。金剛石のような硬さも持っているのに、真ん丸な柔らかさも持っている。時に冷静。時に豪快。彼を見る人間は二階堂琥珀一人で、なんでも出来てしまうと思ってしまいがちなほどだ。

「皆よくやってくれた。ここにはヒューマンスクールの生徒全員が揃っているが、揃っていない、何故ならヒューマンスクールに殺された生徒はこの場のに集まれないからだ!!彼らの無念を!今日この時に晴らす!そうでなくては・・・・そうでなくては何がなんだか分からないではないか・・!そうでなくては・・・正義というものはどこにあるのだ!」

「田淵・・・・。」

 二階堂琥珀が宣教師に一歩一歩近づいてゆく。宣教師はその様子に恐怖した。死神が近づいてくるようにでも見えた。滝川がその時に裏返った車のブレーキ音のような甲高い悲鳴を出した。

「だ・・・・だから言ったんだぁ!二階堂は危険だって言ったじゃないですか!僕は言ったじゃないですか!田淵理事長!この馬鹿!ぼ、僕の言うことを無視するからこうなったんだ!あんたのせいだ!」

「お・・俺のせいじゃない!そう!これはみんなにも責任がある。だからあれほど正しい教育をしなければならんと言っていたのに、お前らはまったく無能だから、こんなことになるんだ!この無能共が!」

「私に責任はない!そう!お前らの方に問題があるんだろ。他の宣教師にお前らが腹を立てたのも分かる。しかし、私達が正しく導いてやっているというのにお前らときたら!」

 この田淵の意見に、しかし、宣教師たちは団結することはなかった。

「理事長!あんたのせいだぁ!」

「責任はあんたにあるでしょう!」

「田淵理事長!どう責任をとるんですか!」

 醜い責任の擦り付けが繰り広げられていた。

 生徒達はもう教師が何を言っているのか分からなかった。ただこれ以上もう、見たくないという想いを生徒の中の少なくない者がその心に抱いていた。狂った田淵の弁明。それらの言葉は生徒達の心のどこを探しても、受け入れる場所などありはしなかった。

「黙れ!!」

 二階堂が無様に責任をなすりつけ合う宣教師達を一刀に断ずる。

「二階堂くぅん。ぼ、僕はいったんだ。君は高ビロウのを与えられるにふさわしい生徒だって。でも他の宣教師が邪魔をしたんだ。こいつらって信じられないくらいの馬鹿だよね、・・・・・・ほら。僕だけは助けてくれないかなぁ。」

 などと言う滝川。

 その様子にみんなが返答した。怒声が地球の底から噴出するマグマのように吹き出した。まるで大地が揺れているかのようだ。

「ふざけんなぁあああ!!」

「お前らが何人の人生をむちゃくちゃにしてきたと思ってんだあああああ!!」

「お前らが死んでも、お前らが殺した生徒達は戻ってこないんだよ!」

「お前らみたいなやつに俺等は・・・・・絶対許せねぇ!!」

「責任をとれ!あんたらが何十年もやってきたことのな!」

 これがヒューマンスクールが何十年にも渡って行なってきたことの結果だ。




 

  田淵宣之は囲まれていた。田淵宣之は囲まれるという経験は何度も経験してきた。自分がこのヒューマンスクールの祭壇で生徒達を集めて説教をしたものだった。だがこの囲い込みはいつもとは違う。

 目の前に深く深く深く、そして金剛石よりも硬い意思を持った双方に睨まれる。

 ずば抜けた力を持った男が目の前に立っていた。その男は何十年も続いてきた常識を根底から覆した。それは彼にしかできないことだった。
 一言、二言言葉を交わして拳を隣に立つ少年と打ち付けあっている。



「こいつらを裁判にかける。」

 裁判が始まった。全会一致で死刑だった。ただ、そこまでの凶行に出た者じゃない者は死刑にしなくてもいい、という結論が全体的な意見として出た。

「 心臓は負担をかけすぎ、緊張を張り詰めすぎて、俺達の頭のある部分は伸びきったゴムのようになっている。」

「それから根拠のない人格否定。ねちねちねち。本当にあなた達腐ってますね。」

  「人はストレスがかかりすぎるとかえって能力が低下するものなんだよ。教師の癖にそんなこともしらないのか?」
 

 そしてその、死刑の執行は二階堂と美濃、それから有志の生徒がやった。有志の人間は思っていたよりも多かった。こんなものか。と二階堂は思った。

 ぶつぶつと呟く田淵の言っている内容は

「貴様たちは地獄に落ちる貴様たちは地獄に落ちる貴様たちは地獄に落ちる貴様たちは地獄に落ちる・・・・・」

 こんなことを言っていた。

「本当に人の話を聞きませんね。」

  田淵宣之は最後まで何故この生徒達が逆らうのかよくわからなかった。

 驚異的な精神力で二階堂はこの出来事を進行させた。事前に計画していたが、やはり様々なファクターで計画そのままの進行とは行かない。

 田淵らの命を終わらせる時に二階堂は過去の生徒達すべての怨嗟の代替わりをした。

 美濃は宣教師の命を絶つ時に膨大な歓喜と巨大な罪悪感が彼の身を包んでいた。ある種、長年ここにいる生徒にとっては親に近しい存在だったのかもしれない。人の生命を終わらせることに罪を感じない人間がいるだろうか。人の生命を終わらせることに喜びを感じない人間がいるだろうか。

 ただ、生徒たちにとっては報いを受けたという気持ちだった。

 残りの宣教師達は反省室に入れた。期限なし。あるいは死んだ人間の方を羨むようになるかもしれない。だが生徒たちにとって知ったことではなかった。やられたことをやり返しただけだ。長年の分。それに宣教師を外に出すと、またこいつらは同じことを繰り返すだろう。同じ苦しみを産むだろう。
 二階堂は風呂に入りたかった。手を洗いたかった。鶏を締める時のあの幼い時に感じた罪悪感を濃厚にして飲み干したような感覚と痺れが手に残っていた。

 いずれにせよ真っ当な少年が経験するような出来事ではなかった。

 どごおおおんという爆発音と振動の波がいくつも起こる。ひび割れる校舎、次の瞬間あちこちで粉煙が飛び出し、轟音、振動。窓ガラスは最初に粉々に吹っ飛んだ。窓の柵がひしゃげている。屋上が中心から底に落ちるように亀裂が走ったかと思えば崩落した。鉄筋はむき出し。照明も粉々。一切のものが崩れて落ちた。吹き飛ぶ壁。コンクリート片が宙を舞う。
  振動と轟音と砂塵。その音に呼応するかのように湧き上がる歓声。怪物を討伐し、倒れた、骸の側で少年達が勝利の雄叫びを上げる。さすがにこの校舎が崩れ落ちる様は見ていて感慨深いものがあった。
 ヒューマンスクールは陥落した。

 二階堂はALFの起爆した爆弾がヒューマンスクールをこなごなに崩れ落とすところを見ていた。二階堂は一つ肩の荷が降りたような気がした。

「もちろん。これからはじまるんだが・・・」

 吹き荒れる砂塵で着ているボロがなびく。
 遠くで美濃が手を叩いて喝采している。

 グラウンドは宴の様相を呈していた。長年の支配から解放されたのだ。これで喜ばない人間がいるはずはない。

 二階堂は山に向かって歩いていた。何故山に向かって歩くのだろう。答えは分からない。しかし、山に向かって歩いていた。
 あれだけの人間を率いた人間とは思えないほどの敬虔な顔をしている。彼にとってのゴルゴダの丘なのか。二階堂琥珀はまるで憑き物が落ちたかのような顔をしていた。森のさざめきが聞こえる。葉の揺れる音。幾重にも重なる植物たち。
 疲れた体と心。しかし、足は止まらない。

 
6, 5

  

 7

  二階堂は山の中を歩いていた。

 泉があった。その畔は不自然なほどに澄んでいた。綺麗な、犯し難い泉。人が踏み込んではいけない場所まで来ているような気がした。

 泉の畔に立っていると、その中から何かが現れた。

「(女神?)」

 鏡のような水面からさざ波一つ作ることなく浮かび上がる。女性がその畔の上に浮かんでいた。

「なんなんだ。あんたは?」

 二階堂がうんざりしたような口調で問いかける。

「何もかも連続してやってくるな。もうちょっと安定した時にやってきてほしいものだ。」

「お前が宣教師どもの言っていた神か?」

「いいえ。違います。彼らの考えているものとは私は違うのです。この島の人間が私と接触したのは貴方が初めてです。」

「ああ、そう。それじゃああんたは一体誰なんだ?まさか新入生だとは言わないよな。そんな格好して。この島の謎に関わる人間なんだろ?」

「ええ。その通りです。」

 目の前の神(仮)は簡単に認めた。

「ここは一体なんなんだ?」

 二階堂はいきなり核心に切り込んだ。あれだけのことをやった琥珀に今恐れるものがあるのだろうか。みんなを解放した二階堂が今自分の命を惜しいと思うだろうか。

「ここは貴方が以前住んでいた世界から切り離され独立した世界なのです。」

「あの世なのか?」

「違います。ですがある意味においてはそうです。貴方が以前暮らしていた世界で命が終わると、この世界に迷いこんでしまう人がいるのです。魂の循環というものがあるのですが、魂は一度浄化を行わなければ、転生は有り得ません。その浄化のプロセスの途中が、今、この世界において行われています。」

 言っていることはまるでヒューマンスクールの宣教師のようなことみたいだと二階堂は思った。

「で、つまり俺達の魂は汚れているから、ここで綺麗にしているとでも言うのか?」

 二階堂はそう言った。

「違います。あなた達の魂が他と比べて汚れているということではないのです。人間的な言い方をすれば個性の範疇のものでしかありません。」

 二階堂はさっきのこの泉の精の言うことでその解釈には至らないということは自分でもわかっていた。

「じゃあ、やっぱり俺を含めて、みんなは一度死んでるんだな。」

 二階堂は沈黙の後そう言った。
 泉の精はこっくりと頷いた。子供のような首の振り方だった。

「お前は俺達をどうしたいんだ?これからどうするつもりだ。」

 二階堂が敵意を含んだ眼差しを泉の精に向けて言った。

「なにも。」

 泉の精は悠然と、確かにそう言った。

「私自身の行動や行動の原動力となる願望というものはほとんどありません。私はあなた達人間よりもより無力な存在でもあるのです。」

「でも、一つ望みがあるとしたら、あなた達に幸せになって欲しいのです。」

 泉の精は微笑んで言った。儚い散る前の花弁のような微笑み。

 そう聞くと二階堂は喉をくっと鳴らした。その顔には嗜虐的な笑みが浮かぶ。

「何を言ってやがる。やはり宣教師の物言いとそっくりだ。幸せになって欲しいだのなんだの言いながらその実やっていることは、奪うことのみだ。」

 その二階堂の言葉を黙って聞いている泉の精。泉の精が口を挟むことは無かった。

「丸めこもうとしたって無駄だ。お前も宣教師側なんだろう?今このタイミングで俺に接触してきたのがいい証拠だ。はっ。のこのこ現れたのは間違いだったな。お前にできることなんて命乞いだけだ。」

 一切の容赦のない声音。この少年はこの歳にしてなんて声で喋るのだろう。なんて冷たく、恐ろしい、慈悲のない意思か。灰色の湖の淵のような色合いの瞳。 暗黒の盆地で手をこまねく恐ろしい死神の持つ瞳のような。

「私は、」

 ふっとそこで泉の精は顔を上げた。遠くの方から伝わる声達を心地よさそうに聞いているかのように見える。

「この島の人間の心がある一線を超えた時に現れる存在です。その瞬間を私は待っていました。貴方のおかげです。」

 二階堂の方を向いた。その視線には、宣教師たちのような、じめじめとしたものはなかった。澄み切った透明な水のような瞳が二階堂を見た。

「そう、私は貴方が以前住んでいた世界で、自由の女神と呼称されていた存在です。」

 二階堂は笑った。

「なんだこれ。笑える。」

 空気が少し変わった。 二階堂が纏っていた殺意とも認識できる漆黒の意思が立ち消えたのかどうかわからない。が、この場の空気は柔らかくなった。

「なあ、ビックバンは何故起こったんだ?」

 二階堂はおもむろに言った。この質問に答えられたら、目の前の不可思議な人間は正真正銘の神ということになる。さらに、科学を探求する人間である二階堂はもうこの先生きていく意味の大半を失う。それでもつい口をついで出たのは何故だろうか。彼は簡単に言えば自暴自棄になっているのかもしれない。好奇心も手伝った。

 果たして泉の精は、答えなかった。

「さあ。」

 というだけだった。

「今確認されていない元素はどうやったら精製、観測できるんだ?」

「さあ。」

 楽しそうに微笑むだけだった。
 神は全知全能のはずだ。これらの質問にも神ならば、答えられるはず。答えられないのならば・・・
 二階堂はホッとしてもいた。生きる意味を失わずにすんだ。

「(そうだ。俺はこういうことを考えているだけでワクワクしてくるんだ・・・・)」

 二階堂は目の前のこれが本当に神かどうか確かめるための質問が、自分にとってとても重要なものであることに気がついた。

「何故みんなを助けてくれなかったんだ?人が死んだんだぞ。たくさん、殺されたんだぞ。今頃出てきても・・・・何故今頃。その力がないのか?俺がやるしかなかったじゃないか。」

「ええ。あなたの言う通りです。私は、ある条件下でしか顕現できません。すなわち人々の心が自由を求めて一つになった時。あなた達人間ぐらいです。自分達の意思の力で現実を変えることができるのは。」

 自由の女神は言った。

「そうかい。神様も楽じゃないんだな。」

 二階堂はかぶりを振った。

「あいつらは、ヒューマンスクールに殺されたやつらはどうなったんだ?」

「彼らの魂は循環しました。次の生に宿っていますよ。」

  殺された者の魂はもう戻ってこない 。

「そうか・・・・・」

「悪いけど、監視をつけさせてもらうよ。お前の存在は不確定要素なんでね。」

 二階堂は頭が混乱してきた。この事実をどう受け止めたらいいのか。過酷な現実は何故か連続して突きつけられる。それが二階堂の人生だった。だからそういうことに慣れていた二階堂は時間をかけて消化することにした。あらゆる角度から検討し、検証する。

「いつか、この時を振り返って、全てを懐かしく思う時が来ます。」

 女神が言った。遠くを見るように。何かを思い出しているのだろうか。時間を統べる者の、永い時を生きる者のいう言葉だった。

「私はもうそろそろ行きます。今のこの島はとても心地がいいです。つい長居してしまったほど。」

 二階堂が何かを言う前に自称、自由の女神は姿を消した。後には泉が残るばかりだった。


 

  「どこ行ってたんだよ。二階堂!」

 グラウンドに戻ってきた二階堂は盛大に迎えられる。誰もが二階堂に尊敬の目を向けていた。グラウンドにヒューマンスクールの宣教師の額縁などを燃やして起こす火がごうごうと燃え盛っている。

 歓声はなり止むことはない。二階堂を囲んで、人垣から喜びの叫び声を上げていた。嬉しいんだ。ここから解放されたと言う事実が。

「(ほら。こんなにも人々は自由を求めているじゃないか。)」

 二階堂は口角を上げ、呆然とした笑顔でその歓声の中心にいた。
 みんなは二階堂に感謝しかない。みんなが二階堂に触りたがった。皆の手が二階堂の頭をわしゃわしゃするし、抱きつく者が続出した。抱きついてくる者は女の子が多かった。二階堂よりも年上の女の子も、年下の女の子も。もちろん同世代の女の子も。少しその最前列から離れたところで届かない人達がぴょんぴょんと跳ねたりして近づこうとしている。

「最高だぜ!!二階堂!!」

「中山をぶっ飛ばしてくれたんだってな!もう俺は涙が溢れて止まんねぇ!すごすぎてるんだ!」

「あ、握手してください!」

 十二歳くらいの女の子だろうか。顔を真っ赤にして握手を求めている。もじもじしている女の子が精一杯勇気を振り絞って言ったような様子だった。

 やや離れたところから視線を感じた。

「げ・・・怒ってる。」

 ふくれっ面で腕を組んでいる柚子葉。アイコンタクトを試みる。

「(・・・・・!)」

「(通じろっマイアイココンタクト!!)」

 その時二階堂の頬にロングヘアを活発になびかせた女の子がキスをしたので、それを見た柚子葉はさらにそっぽを向いた。

「(あちゃあ。)」

 しかし鳴り止まない歓声に柚子葉は最後に笑顔になった。喝采がとてつもなく続く。ヒューマンスクールが崩れ落ちた時と同じような喜びと解放が人々を包んでいるのだ。長年の苦しみが今日晴らされた。

「皆は今のままでいいんだ!変えられる必要も、死にたくなる気持ちになるなんて必要はなかったんだ!皆の希望は正しい。自分の中にある自分の求めるものこそが正しいんだ。自分の自由。尊厳を奪うことこそが間違っていたんだ!!」

 外へ外へと皆の心に届くようにと願って喋る。

「俺達は自由だ!!その誇りを持っていていいんだ!もう目覚めたぞ!もう騙されはしねえ!!」

 皆が、想いを一つにして叫ぶ。

「一人一人の心に自由を求める限り、俺達は死なない!」

「二階堂琥珀がいなかったら、この光景は有り得なかっただろう!」

「二階堂を見い出したのは俺なんだ!俺!」

 美濃が声を上げ手を広げる。その事実に皆はほぉと声を上げた。ちゃっかり美濃も皆に担がれていた。
 あたりは祭りのような様子だった。なんてどんちゃん騒ぎなのだろう。若い力が満ちあふれていた。

「皆が奪われに奪われてきたものが戻ったんだ。」

「いや、俺達の手で取り戻したんだ!」

 様々なものを奪われてきた。これからは決して自分の財産を奪われてなるものかと一人一人が誓っていた。集団があって、社会ができるのではない。個人が集まって社会ができるのだから、どちらが主でありどちらが従であるかは明白である。

 大の字で人々に支えられて持ち上げられる二階堂琥珀。ブルっと震える。その中で二階堂は輝きに包まれていた。ゲルマディック海溝よりも深い心の色。深い深いの蒼の心の色。いくつもの色が混じりあって、最終的にスパークとともに深い空よりも深い蒼い心に。




 二階堂は疲れてその火を見ながら眠りに落ちた。ずっと気を張って、なおかつ急ピッチで計画を続けてきたのだ。火の前のグラウンドで眠りの中へと入って行った。誰かがつぎつぎにクッション類やらを持ってきて、二階堂の下に引いた。この英雄に誰もが尊敬の念と友愛とを向けていた。二階堂琥珀はみんなに囲まれながら寝た。半年ぶりに心地のいい眠りだった。今までで一番良い眠りだった。

 目を覚ますと火はまだ轟轟と燃え盛っていて、宴は続いていた。

「あーっやっと起きたぁ!にかいどぉ。もう、ずっと眠ってるんだもの。だいじょうぶ?」

 なんだかろれつの回らない様子の柚子葉がいた。

「なんだ。柚子葉。酔っ払ってんの?」

 二階堂は笑う。

「そういや腹が減った。」

 柚子葉の持っている食べ物を見てお腹がなった。厨房と食料庫から食料が解放されたのだ。今まで貧しい食事ばっかりだったので、食べ物が今までより本当に美味かった。そして何より皆で食べるのが一番美味しかった。ヒューマンスクールの規則も。ビロウも。宣教師も。ここにはない。

「そうか。もう何の気兼ねもする必要はないんだな。」

 そうポツリと言った。それを聞いて柚子葉が吹き出す。

「?どうした?」

「何かおかしくて。」

 柚子葉はそうやって鈴の音のように笑った。その柚子葉の様子を見てたら二階堂はさして理由の方は気にならなくなった。

「まぁいいか。」

 生徒たちの大部分は突然得た自由に戸惑いながらもそれをこわごわと、少しずつ楽しみはじめている。

 つぎつぎに覚醒した二階堂のところに生徒がやってきた。知っているALFメンバーとは成功を喜び合い、抱きしめあった。そして他の生徒も二階堂の側にやってきた。皆新しいリーダーを求めていた。

 二階堂はがぶりとその小麦色の液体を飲み込んだ。苦かったがどこか染み込む不思議な味だった。皆が笑顔で笑っている。誰かが楽器を引き鳴らす。歌を歌っている連中がいる。二階堂と柚子葉は食器がなくなったのでそれを運びに行った。

「あれ?さっきまで夕方なのにまだ夕方なのか?」

 二階堂は疑問を口にした。

「そうなのよ!二階堂は1日中寝てたのよ。」

 柚子葉は食い気味に顔をこちらに向けて言った。

「そっか。」

「そっか。って驚かないのね。まったく。あなたらしいわ。」

 宴の盛り上がりは終わることもなく、続きそうだった。それから二階堂は柚子葉と抱きしめあった。二階堂は優しく、優しく包容した。壊れやすそうでとても怖かった。

「ああ。人のぬくもりってあったかいな。」

「そうね。とっても・・・・確かだわ。」

 お互いの唇が触れそうになる。 柚子葉が目を閉じる。 だがその数瞬後に集団が現れた。しかし、二階堂は構わずキスをした。柚子葉の方はその形のいい目を見開いている。

 ヒュウ♪と美濃が口笛を鳴らした。心底面白そうだった。大澤と田中君などの男子生徒数名ががーんという音が聞こえてきそうな顔をしていた。女子生徒が見ても二階堂のファンはショックを受けたかもしれない。

「うーい。行こうぜ行こうぜ。」

 美濃はゴキゲンよろしく、快活に大澤や、田中など男子生徒を引っ張って行った。

 ぷは。とキスになれていない柚子葉は息を漏らした。体から火が出るみたいに熱い。二階堂と柚子葉はそれから見つめあった。

「柚子葉とこんな風になれたらと思ってた。」

 二階堂が口を開いた。

「夢を見てるみたい。」

 柚子葉の目から一筋の涙が流れた。


「うう・・・・柚子葉さん・・・」

 大澤はさめざめと泣く。さっきまでヒューマンスクールに対しての愚痴を延々とこぼしていたが今度が泣いている。忙しいやつだった。怒り上戸の泣き上戸。

「あーもう。こんなめでたい日なんだ。楽しまなくっちゃ後で悔しくなるぜ。俺らもほら、女の子に話しかけてこようぜ。」

「うう・・・柚子葉さんじゃないと駄目なんだ・・。」

「そんなことないって。ほら。な。あそこの女の子とかかわいいなー。」

 向こうにいた女の子達がこちらを見てニコリと微笑む。

「・・・・」

 大澤と田中はぽっと顔を赤らめた。

「よっしゃ行こう行こう。」

「ええっ。ま、待ってくれ美濃君!」

「名前だけでも聞いとこう。行こう行こう。何たって明日も明後日もこれからずっと、1日の始まりから終わりまで全部自分のために使えるんだぜ。すごいことなんだぜ!!ほんとうによ!!」

 若者達は火を囲んで座って歓談した。みんなは今日の出来事を一生忘れないだろう。長い長い戦いだった。その支配が今日という日に終わったのだ。この日はこの島にとってこれから祭日となるだろう。

 
 目的を果たしたからか、二階堂や、美濃はそれから何か彼らを動かしていたエネルギーの源が消え去ったようだった。新しい、自分達にふさわしい、支配を脱した証の建物を建てるということはALFメンバーの間で語られていた夢だったので、その夢の実現のため、皆は今瓦礫の片付けから始めている。
 もちろん二階堂や、美濃も参加し、指揮をしている。

 夜、瓦礫のから引っ張りだした毛布などをしいて寝る子供たち。火にあたりながら二階堂はその揺れる火を見ていた。
 美濃は二階堂に話しかける。

「これは話し合ってないけど高市や、みんなの墓標を立ててやりたいな。」

「そうだな。」

 二階堂は賛成した。

「俺達で、埋葬してやらないと。」

 ヒューマンスクールのために多くの犠牲になった人たち。

「なぁ二階堂。これからお前はどうするんだ?」

 パチリ、と火が弾ける音がする。

「俺は・・・まだここに残ろうと思う。なんだかんだでみんなこれからどうしていいのか。洗脳から解き放たれたはいいものの、どうしたらいいか分かってない。その手伝いをしなきゃな。」

「(本当はめちゃくちゃ世界を見て回りたいくせに。)」

 美濃は思った。

「俺は外の世界に行くよ。」

 火に枝を差し入れる。その顔は決意をはらんだ確かなものだった。

「そうか。やっぱり行くのか。」

 美濃は前々から島の外に出たいと言っていた。折に触れて、ぽつりと言うだけだったが。

「すぐに追いつくさ。」

「猛スピードで駆け抜けるつもりだからなぁ。俺の速さに追いつけるかな?」

 おどけた挑発だ。

「ぬかせ。」

 二人は笑いあった。

「ただ・・・もう少し準備に時間がかかりそうだ。」

 ごろんと寝っ転がる美濃。夜空には星が散りばめられている。

「(あの空からこの地上はどんな風に見えるのだろうか。)」

 美濃は思っていた。

「つーか長かったな・・・・」

 美濃が口を開く。この火の周りには柚子葉や大澤がやってきた。もう隠れるようにして彼等が会う必要などどこにもない。

「そうね・・・・長かったわ。」

 押収されていた服を取り戻して着ている柚子葉。永劫のようにヒューマンスクールに縛られていた。その苦しみの時間。自分たちが奪われた、二度と帰ってこない時間。

「美濃君・・・外の世界に行くんだってね。」

「ああ。」

「怖くないの?」

 大澤は言った。

「いや・・・こっ・・・怖くねぇし・・!!」

 そんなおどけるように言った。皆が笑った。美濃と言う男は自信さえ取り戻せれば、自分を見失うことのない人間だった。

「たしかに何があるか分かんねぇけど・・わくわくするぜ。島の外に行くってのは。」

「(生きている証を求め続けるつもりなのか。美濃らしい。)」

 上半身には白タンクトップだけを着ている美濃を二階堂は目に焼き付けるように見ていた。
 寝転がると夜空には満点の星が輝いていた。

「いろんなものを見て、いろんなやつと会っていろんな喧嘩をして、いろんな女と恋する。」

 二階堂達は話に耳を傾ける。満点の星空にはいくつもの星が煌めいている。美濃がエネルギーを燃やしながら、世界を旅しているところが想像できた。

「ああ・・・それは楽しそうだな。」

 二階堂は言った。

 この島は今完全に自由な区域なのだ。あらゆる大人の支配から逃れてる。ピーターパンの王国のようだった。あらゆる法からも逃れている。

  「ありがとう。」

 その言葉をかけられた時、二階堂はぎくっとした顔になった。目の前には本当に感謝しているようにこちらを見る少女がいた。この少女の年齢は分からない。田中くんと同じくらいだろうか。ということを二階堂は考えた。

「私達を助けてくれて、本当にありがとう。」

 その少女は二階堂を尊敬しているかのような眼差しで診ている。

「たった一人ではじめたんですよね。圧倒的に強い支配体制にずっと戦って戦って、そしてとうとう勝っちゃった。私達皆を救うために。」

 二階堂の方が上背は高かったので、小柄な少女は二階堂を仰ぎ見ている。

「ずっと・・・・生きづらかったんです。あんな気持ちがずっと続くんだって思ってました。でもあなたが教えてくれたんです。これからは私が誇れる私になります。」

「もう、誰にも変えさせません。私は私です。」

「俺の方こそ・・・ありがとう。」

 二階堂はそう言った。

「君がそう言ってくれるなら、やってよかったよ。」

 そう言って二階堂が笑うと女の子は恐縮するように笑う。

「あ、あの、その二階堂さんの・・・・・そ、そのボタンをもらえませんか?」

 顔を真っ赤にしながらしどろもどろに話す目の前の女の子。弱々しく言ったが、言葉尻は勇気がたっぷり詰まった、心地いいきりだった。生命の輝きに満ちた宝石のような瞳が二階堂を見つめる。

 顔を真っ赤にして二階堂の言葉を待っている。
 二階堂はどこかキョトンとしていた。そしてあたりを見渡した。

「お前に言われてるんだよ。」

 二階堂がおどけながら突っ込みを入れる。

 二階堂はよく分からなかった。目の前の女の子が自分のボタンを欲しがることも、気持ちがよくわからない。

「(後で美濃に聞こう。)」

「しかし、こんなボロの服のボタンなんか欲しいのか?これは支配の象徴なのに。こんなもの燃やしてしまおうつもりだったんだけど。」

 二階堂に疑問にその女の子が答えた。

「もちろんそうです。でも私は、思い出が欲しいんです。それは私にとってたぶん二階堂さんが思っているのと絶対値で言うとマイナス1000からプラス1000くらいの差があるんです。」

「??・・・・欲しいのなら上げるよ。」

 二階堂はボタンをちぎって渡した。その女の子は大事に、宝物を扱うように大事にハンカチにしまい込んで、駆けて行った。

「良かったなぁこのモテ男。」

 うししと笑いながら美濃が二階堂の肩をバンバンと叩く。

「うっせ。」

 なんとなく美濃のそれにイラッときてお尻にタイキックをした。もちろん、手加減してだが。

 二人は笑いあった。

「なぁ、朝日を見に行こうぜ。」

 二階堂のこの意見にはみんな賛成だった。数人で浜辺に行く。騒ぎから離れ、四人は歩道を歩いて行った。騒がしい大きな音が離れ、夜の静寂が四人を迎え入れる。四人のシルエットが星空の下動いていた。四人は楽しく話しながら歩いて浜辺に向かった。

 浜辺に着くと柚子葉や二階堂、美濃、大澤は砂浜を笑いながら駆けた。
  空が白んできた。島側では鳩が鳴いている。遠くではまだ俺達の赤い炎の灯りが灯っているのが分かる。この赤い空が俺等の居場所である証拠なんだ。そういつでも心安らぐ新しい居場所となるんだ。俺達の勝利の証の音が聞こえる。気温が低くなり、涼しい風が体を通り抜けるように吹き抜ける。ザァ、と風が草を薙ぐ。
 朝日が昇る。それは、その風景は何よりも美しく、みんなの心を打った。波が海岸線に打ち付ける。この場所までたどり着けた。あの桟橋の向こうまで。振り向けばそこには流れる生命があった。同じ未来を信じている仲間達。そこにあるもの全てが美しく、力強く、愛おしく、自分たちの存在を受け入れ、称えていた。大地が、海が、どこまでも続く天井線がとてつもなく綺麗だった。吹き抜ける風はいつでも二階堂達を優しく撫でる。

 二階堂が静かに身をよじらせた。
 二、三言つぶやきながらくくくと笑う二階堂琥珀。そしてけらけらと笑い出す。

  「どこが地獄なんだ・・・・どこが・・・・」

 誰に向かって言った言葉なんだろうか。笑っているのにとても、とても哀しそうだった。その顔は悔しそうにも、可笑しそうにも、哀しそうにも見える。
 その様子を見ていた大澤。何故笑うのか分かるような分からないような気がした。無邪気な子供のような顔だと思った。そしてそれはどこか狂気を孕んでいるように見えて、どこか哀く見えた。何も彼らのことを知らない、彼らの背景を、それらすべてを知らない人が見たら普通の少年がよく笑うように、笑っているように見えただろう。彼はかつて地獄だと言って、この世界から永久に去った仲間を心の中で悼んでいるのだった。

「二階堂。」

 美濃が指を自分の顔に向けて指す。表情は美濃にしては真面目な顔だった。

 二階堂琥珀が指で顔を触ると、そこには涙がついている。彼は今気がついたような顔をした。

 ここは地獄などではなかったのだ。狂った大人がここを地獄に変えていたのだった。本当は地獄ではなかったんだ。でももう間に合わないんだ。多くの魂はこの美しさを知ることもなく逝ってしまったのだ。それが悔しくて悔しくてたまらないのだ。

 二階堂はもう笑っていなかった。顔を歪め、泣いていた。二階堂は泣き崩れた。

 柚子葉が耐えきれないように二階堂琥珀を抱きしめた。この何もかもを背負って闘った勇者を抱きしめたのだった。





 そして、時が立った。
 ある青空が晴れ渡る日のこと。
 二階堂が草原に背を下ろす。頬を心地よい風がなでる。蒼穹の天を仰いでいた。気温も風も、全てが祝福しているようだった。穏やかなその風景の中に寝転がっている。草の地面の上に寝転がるということは初めてやったが、この島なら柔らかい草が背を包み込むようにして支えてくれる。大地を背にすることがこんな落ち着くことだったとは。ぽかぽかとしたお日様が降り注いでいる。あたりでは鳥たちが餌を求めてこの平安のなか囀っている。全てが調和の中に休んでいた。
 二階堂は横を向いて草の上に同じく寝転がる柚子葉をみた。草のくすぐったさなのか、くすぐったい感情が芽吹いたままだ。柚子葉がくすくす笑うから、二階堂も息を吐くようにウ行の発音とア行の発音で笑った。彼はまだ自然に笑うことは難しい。手を口元に招いて柚子葉が笑っている。眉頭を上げたくすくす笑い。お日様に照らされた柚子葉はまるでアテネのように美しく、綺麗だった。そう、彼女がいれば。彼女と彼の仲間達さえいれば。二階堂はすぐに笑えるようになる。
 そうしていると遠くから賑やかな声が聞こえてくる。その声達に二階堂は身を起こし、笑顔で迎えた。

 The end.
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