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弟の背中

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まるでやらしい夢でも見ていたかのような、そんな感覚。
私はモヤモヤした気分を抱えながら、ベッドの上に寝そべり天井を眺めていた。

最初は、からかうつもりだったのだ。
ここのところ姉弟の会話もめっきり減っていたし、なにより不恰好に反抗する弟の俊介が可愛らしく思えた。
だから鼻先をチョイとつつくような感じで、煽ってみただけの事だった。
それが…あんな事態に進展してしまった。

(…好きだよ…ゆかり)

思い出すだけで恥ずかしくなり、クッションを抱えたままベッドの上でのた打ち回る。
俊介のあの言葉は、彼の本心だったのだろうか。それとも言わされた言葉なのだろうか?

そのうちに、自分が前者を期待している事に気づきハッとする。
何をバカな…落ち着けゆかり…そうだ素数を数えて…
わざと茶化した言葉を頭に浮かべてみるが、顔の火照りは治まらない。

ふう、と溜め息を一つ。
これからどんな顔をして弟に会えばいいのだろう。考えれば考えるほど、頭が痛くなる気がした。

「ゆかりー?ごはーん」
階段下から母の声が聞こえた。時計に目を向けると、いつの間にか夕飯時。
「よっと」
私は身を起こし、覚悟を決める。
うろたえている姿を弟に見せるわけにはいかない。姉として、余裕ある振る舞いをしなくてはならないのだ。



階段を降りリビングに入ると、テレビをつまらなそうに眺めている俊介の顔が目に留まった。
覚悟を決めたはずなのに、いきなりドキッとする。その横顔に、どうしても意識してしまう。
「やあ」
我ながらわざとらしい態度。
対する弟はテレビに顔を向けたまま、うんとだけ返事をした。それだけだ。

何だよ何だよ。意識してるのは私だけなのかよ。
頭の中でブツブツ言いながらテーブルに着いては、飲み物を用意していないことに気づき席を立つ。
その時に気づかれないように、私は再び彼の横顔を覗き見た。
たるみの無い引き締まった顎とかすかに生えている髭。
男っぽいと感じてしまった。不覚にも。

ま、待て待て、落ち着けゆかり。
なんだか平静を装おうと思えば思うほどらしくない自分を曝け出してしまいそうで怖い。
意識しまいと思えば思うほど意識してしまう。
それは嘘をついた人がそれを隠そうと、余計に饒舌になるのと同じ事だ。

…嘘つきの私。
本当は余裕がないのに、余裕のあるふりをしている。

ダメだダメだ、考え方が悲観的でダメだ。
私は振り払うように冷蔵庫を開けると、すぐに目に入った缶チューハイを掴み取った。
たまにはこういうアクセントも必要かもしれない。今日は飲んでやるのだ。
食卓に付いても、俊介は黙々と食べるだけだった。
いや、普段から食事中に饒舌になるようなヤツではないのだが、それでもこちらが気にしているだけに彼の沈黙が余計なほど気になる。
俊介は今何を考えているのだろうか?

私は思い切って、というよりは押し出されたように口を開いた。
「ごはん食べたらさ、お姉ちゃんと久しぶりにゲームしようよ。あたしレポート終わって暇なんだ」
さっきから、ウンザリするほどわざとらしい言い方。
対する俊介は、こちらを見る事すらしない。
「宿題があるんだよ俺は」
そう言いながら箸を動かすだけだった。
そんな返事の仕方をされたら、私はどう返していいのか分からない。

「じゃ、じゃあさ、あたしが宿題ちょっと見てあげるよ?」
「いらねーよ」
うざったそうに、今度は間髪入れずに突き放された。
そしてかすかにうろたえる私を尻目に、彼は茶碗の中のご飯を少し余らせたまま席を立った。どう考えても私を煙たがっているとしか思えない行動である。
「ごちそーさん」
弟の抜けた食卓には、父と母と私が残された。

「なんだ、お前たちケンカしてるのか?」
父がキョトンとした顔をしている。母も同様に。
「そういうのじゃないと思うけど…」
思うけど、彼の態度はあまりにも私を拒絶したものだ。
辛うじて落ち込まないように努めながら、私は父に引きつった笑顔を見せる事しかできなかった。



再び部屋に戻った私は、ベッドに仰向けで寝転んでいた。心底気分が悪い。

部屋はしんと静まり返っている。外からは車の音がかすかに聞こえる程度の静かな夜だ。
そんな静寂の中、隣の俊介の部屋からは彼がよく聴いているヘヴィメタルの骨太音が響いていた。それもかなり大き目の音で。
あの野郎。宿題なんかしてないじゃないか。

あんまり気に障るものだから、私はケータイを取り上げると彼にメールを送りつけてやった。
「音うるさいよ。それと夕飯の態度何なの?言いたい事があるならはっきり言ってよ」
本当はもっと長い文章で送りつけてやりたかったが、それでは収まるものも収まらない。
何も叱り飛ばしたくて送ったのではなく、これは俊介に何とか歩み寄る為のものなのだ。
最初はジャブから。割と返事のしやすいメールを送ったつもりだ。

メール来い。返事しろ。
ケータイに向かって出もしない念力をかけてみる。
指をわしわし動かしてそれっぽいオーラを出しながら、俊介が返事をするのを願う。

しかし結論から言うとメールは返って来なかった。無意味だった一連の動作。
音楽のボリュームを落としたりしてメールを読んだリアクションはうかがえるのだが、肝心のレスポンスがないのだ。
アイツ、徹底的に私を無視するつもりなのだろうか。
ふつふつと湧き上がるちょっとした怒り。それならこちらにも考えがあるってものだ。



それから数時間後。
私は一階に降りると、バスルームのドアの前に立った。
玄関前にある我が家のバスルームは階段を降りたすぐそこにあり、リビングを通らなくても入れるようになっている。
だから間違えて入って親とバッティングしないように、入浴時間は家族で決めてある。
まあそれはどうでもいいとして、この時間帯はアイツが入浴している頃なのだ。

浴室と廊下を仲介する脱衣所。
音を立てずにドアを開けそこに足を踏み入れると、風呂場からはパシャパシャと湯船の音が聞こえてきた。
洗濯カゴには不恰好に脱ぎ散らかされた俊介の衣類がある。
私は緊張しながら、しかしそれを隠すためにちょっと怒りを含んだ口調で話しかけてみた。
「俊介、湯加減どう?」

湯船を打つ音が止まり、しばらく時間が続いた後「何だよ」という声が返ってきた。
何でお前がそこにいるんだ、とでも言いたそうな少し強張ったニュアンスだ。
「お姉ちゃんも一緒に入っちゃおっかな~なんてね」
対して私は、ちょっと茶化した風に言った。
静寂は続いたまま、返事もない。
あんまり反応がないものだから、私も脱衣所で固まったままじっと俊介の反応を待つ。

「ま、待てよ。入ってくんなよ?」
「入るって言ったら入るわよ。あんたは浸かってなさいね」
「ちょ、ま、ありえねーよ!」
「近所迷惑だから静かにしなさい」
言いながら私はキャミソールに手を掛け、スルスルと脱ぎ始めた。
そのシルエットが向こうから見えたのか、私の言葉がブラフでない事に気づいた俊介は浴槽から慌てたように声を荒げた。
「ちょっと待て!分かった俺出るから!待って!」
湯船を飛び出す音。
そうはいくかと、ヤツを制する為とはいえとっさに大声を出してしまった私。
「浸かってなさいって言ってんのよ!」
あまりの声の大きさに、叫んだ自分がびびる。どっちが近所迷惑だ。

とりあえず落ち着いて、そして頃合を見つけてから私は再び彼に話しかけた。
「あのさ、今日のコト…ね?お姉ちゃん調子乗っちゃって、悪かったと思ってる」
「……」
「それでね、俊介とね、その…ちゃんと顔合わせて話し合いたいの」
どう説明したら良いのか頭の中でまとまらず途切れ途切れになってしまったが、それでもちゃんと話し合いたいという意思は伝わったはずである。
「じゃあ出てからでいいじゃん。何で風呂でなんだよ」
「だってご飯の時に話しかけても、部屋でメールしても、ちっとも聞く耳持たなかったじゃない」
「それは……」
言いかけて、そのまま彼は黙ってしまった。

「分かったよ、姉ちゃんの言いたいことは分かったからさ…もういいだろ」
観念したというよりはちょっと哀願にも似た、すがるような声。
しかし。
そんな彼の言葉を無視し、私はゆっくりと浴室のドアに手をかけた。
5, 4

  

浴室に足を踏み入れると、そこは当然ながら温かい蒸気に包まれていた。
「おじゃましまーす」
様子見でふざけた言い方をしてみる。
入浴剤による白濁の湯船に浸かる俊介。一瞬こちらに目を向けた後、もの凄い勢いで伏せるように目を逸らした。
そんなに反応する事ないじゃない。タオルで体を隠しながら、私は苦笑いを浮かべた。

「一緒に入るのって久しぶりだね。小学生以来?何年生まで入ってたっけ?」
言いながら私はシャワーのノズルを開いた。
叩きつけられる湯水。私の体にぶつかり、滑り落ち、滴る。
まとっていた薄いタオルが水を吸って私の体に張り付いてくる。
その間も私は俊介の方を見やるが、彼は依然として下を向き黙ったままでいた。

「ね、ちょっと詰めて」
ノズルを閉めながら片足を浴槽に突っ込む。彼は怯えたように、湯船の中で小さくなろうとした。
すると過剰に反応した彼の腕が湯船の蓋に当たり、それが音を立てて外れ落ちた。
慌てふためく俊介。そのサマが面白くって仕方ない。
そして彼の反対側に、同じように三角座りで入浴する私。音を立てて湯水が浴槽からこぼれた。
「…せまいね」
「……」
彼は相変わらずだった。
それにしてもせっかく向き合って話す機会が出来たというのに、このまま黙ったままでいるつもりだろうか?
「ほらほら。なんとか言いなよ」
私は面白がって足の指で彼のおなかのあたりをつっついてみる。
「や、やめろよ」
俊介が暴れるように体を動かすと、湯船の弾けるような音が浴室に響いた。
もっといじめてやりたい。そんな禍々しい気持ちが私の中で芽生え、いじる足に力が入る。

と、その時だ。
脱衣所のドアをノックをする音と共に、父の声が飛び込んできた。
「俊介、さっきからうるさいぞ」
そして脱衣所のドアが開かれる音。
私達は二人して金縛りに遭ったように固まっていた。
「ごめん。ちょ、ちょっと遊んでただけ…」
俊介のとっさの苦し紛れの言い訳。
その間、私はシルエットだけでも気づかれないように、湯船の中に身をかがめていた。
「お前なぁ。お姉ちゃんとケンカしてるんだか知らないけど、あんまり荒れるなよ?」
「そ、そんなんじゃねーよ」
「それからお姉ちゃん、お前のこと心配してたぞ。夕飯の時の態度、謝っておけよ?」
「わ、分かってるようるさいな…。もう出て行ってくれよ」
「…やれやれ…反抗期か…」
どこかで聞いたようなセリフを呟く父。
彼がようやく脱衣所から出て行くと、騒がしかった浴室は静寂に包まれた。


しばらくの沈黙の後、二人して向き合う。俊介は若干青ざめた顔色をしていた。
「危なかったね」
茶目っぽく私が言っても、反応が返ってこない。屍のようだ。
「なんかさ、こういうのドキドキしない…?」
精一杯、艶っぽく言ってみる。彼はムスッとしながら視線を外した。
「お姉ちゃん、お前のこと心配してたんだぞぉ?」
今度は先ほどの父の言葉を繰り返してみる。
「…っさいな…」
そう言い、浴槽に頬杖をつきながら横を向き、ふてくされて見せた俊介。このコミカルな反応がいじらしい。

でも、こんな事をする為にここに来たのではない。
私は改まって彼に話しかけた。
「今日のコト、さ」
「……」
俊介は横を向いたままだ。
「あたしの事好きって言ってくれたじゃない」
「……うん」
「それがどうしてこんなに冷たいのよ」
「……」
「ねえ。なんとか言いなさいよ」
言いながら足探りで彼の足を捉え、かかとですり潰す。
彼はびっくりしたような顔をこちらへ向けると、足を引っ込めてまた小さくなった。

「…そりゃ、さ…」
一呼吸置き、彼はおもむろに口を開いた。
「好きな事は好きだけど…だからあんな事しちゃったのが恥ずかしくてさ。まともに顔なんか見れないよ…」
そう言って視線を落とす。
「……な、なによ…。かわいいこと言うじゃない…」
本心が口をついた。私はつい抱きしめそうになるのを、ぐっとこらえた。
「だったら恥ずかしいと思わなきゃいいのよ。そりゃ、あたしが調子乗りすぎたのが悪いんだけどさ…姉弟の軽いスキンシップって言うの?そういう風に捉えればいいじゃない」
理解できていないような表情で、彼は顔を上げた。
「1万円持ってる人が10円落としても何とも思わないように、普段からこうやってお風呂とか一緒に入ってればあの時みたいなスキンシップをしても、別に恥ずかしくないでしょ?そういうことよ」
「…い、意味が分からない」
言いながらザバーっと音を立て、勢いよく浴槽を出る俊介。前隠して尻隠さず。
そんな彼の後姿に「また一緒に入ろ?」とイタズラっぽく声をかける。
「入らねえよ」
彼は少し照れたように言った。

「……ねえ」
「なんだよ!」
浴室から出かかった彼がうんざりしたように顔だけ振り向く。
「あたしの事、好き?」
ドアノブに手をかけたまま、一瞬動きを止める。
そして「分かってるだろ…」と言い残すと、彼はまるで浴室から逃げ出すかのように出て行った。


一人残された浴槽の中で、私は小さく三角座りをしたまま白く濁った湯船を見つめていた。
そして今しがた目の前にあった弟の骨っぽいカラダが、いやでも思い返される。
首元に浮き出た鎖骨。濡れた髪。出て行くときに見えた、広く男らしい肉付きの背中。
それらを思い出すと顔がカーッと熱くなり、汗が滴り落ちる。
この火照りは湯船の蒸気のせいなのか。

それとも…。
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