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死んでしまいました。

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 翌日。

 俺は昨日の昇降口での出来事が気になっていた。
 結局靴は見つからなかったようで、本田は仕方なく上履きのまま帰宅していた。
 漫画やアニメの主人公であれば一緒に靴を探してあげて彼女の好感度を高騰させていくのであろうが、現実はそんなに甘くはない。
 下手にお節介を焼くと、自らを滅ぼすことになりかねない。
 だから俺は厄介事には極力首を突っ込まないようにして生きてきた。
 
 …これからもそうしたかったのだが、そうもいかない事情が出来てしまった。
 見てしまった以上、見過ごすことは出来ない。
 出来ないが、今すぐどうこう出来る自信もない。 
 まずは情報を収集し、現状をよく把握しよう。



             *


 登校し、教室に入った俺の目に真っ先に飛び込んできた光景。
 椅子が無い自分の机の前に所在なさ気に、しかし全く動揺せず無表情で突っ立っている本田の姿だった。
 
 クラスの連中は誰一人として本田のその様を直視しておらず、それぞれがそれぞれの事に集中していて、まるで本田の存在など無いかのような雰囲気であった。

 どうしてこうなった。
 
 昨日の出来事と今目の前で繰り広げられている様子を見る限り、本田がいじめにあっていると考えられるのは容易だ。
 しかし俺の見立てでは、本田は不良ではないが少々やんちゃな奴等が集まるグループに属していたはずだ。
 
 失礼ではあるが、本田の場合、むしろいじめる側のように見える。
 そんな彼女がなぜ、そしていつの間にいじめの標的になったのか。

 思考を巡らせていると始業を告げるチャイムが鳴り、ホームルームが始まる。
 そして、本田の椅子がないことに気付いた担任が別教室から椅子を持ってきて、その場は事無きを得た。

 椅子がなかった件について特に何も話がなかったあたり、どうやら担任は本田がいじめにあっているとは気付いていないようだ。
 
 いや、本当は気付いていて知らないふりをしているのかもしれない。
 
 どちらにせよ、厄介事には関わりたくないというような顔をしている。
 担任がそんな態度でいいのかと甚だ疑問ではあるが。
 そして担任だけでなく、クラスの連中も関わりたくないオーラが出ている。
 皆、平穏無事に日々を過ごしたいということだ。
 
 当たり前だ。
 
 誰だって争い事は避けたいと思うし、下手に手を出したら標的が自分に移り変わるかもしれない。
 そうならないためには、見て見ぬふりをするしかない。
 そうするしかないのだ。


             *


 翌日、昨日とは打って変わって本田の椅子は確かに存在していた。
 
 「ほっ…」

 やはり誰かがいじめられているのを見るのは非常に辛いし心も痛む。
 とりあえず、今日は何もないみたいで良かったと胸を撫で下ろす。
 
 しかし、そんな俺の甘い考えは次の瞬間すぐに打ち消された。
 
 教室内に入り、自らの机まで歩いている刹那。
 俺の目に飛び込んできたのは、罵詈雑言が綴られている本田の机だった。
 
 何も良くなんてなかった。
 形を変えて、今もなお本田は被害を受けていた。
 しかし、本田はあまり意に介していないのか、少しの感情も読み取れない程の無表情さだった。
 俺は堪らず、声をかけてしまった。

 「本田…」
 「なによ」

 本田は相変わらずの無表情で答えた。

 「大丈夫なのか?」
 「うるさい。ほっといてって言ったでしょ」
 「まぁ、そうだが」
 「いつも一人のあんたなんかに、分かるわけないし…」

 本田が恨み節のように、囁いた。
 しかし、先ほどの無表情とは打って変わってすぐさま焦りの表情になり、

 「あっ、ごめっ…!」

 自分は何をされても表情を変えないくせに、なぜか一瞬で表情を崩す。
 きっと、根は良い奴なのだろう。

 「構わんさ。事実だしな」
 
 まさに本田の言う通り。
 クラスメートとは普通に話すが、友達と呼べるような関係の人間はいない。
 何となく、煩わしさを感じてしまう瞬間があるのだ。
 一人の方が気楽で、自然と一人でやることが多かった。
 今までそれで何とかなっていた事もあり、あまり必要性を感じなかったのかもしれない。
 
 ふと我に返ると、なぜかひどく後悔してる本田が目に入る。

 「あー…ほんとごめん、なに言ってるんだろうあたし」
 「いや、マジで気にするなって」
 「あー、うん…」

 なんだか居た堪れなくなったので、そそくさとその場を後にする。


              *


 翌日も、その翌日も、本田への嫌がらせはしばらく続いた。
 
 水をぶっかけられたり、机も椅子も無くなっていたり、授業中に紙くずを投げつけられたり。
 しかし本田は相変わらず無表情で、向けられる敵意を甘んじて受け入れている。

 そして、ここ数日のクラスの様子から俺は気付いた。
 
 どうやらこのいじめの主犯格はクラスの中心的存在である、坊主頭の光岡オロチのようだ。
 そのオロチが本田に嫌がらせをするよう、クラスメートに命令している様を何度も見た。

 自分は決して手を汚さず、裏で糸を引き、関係ないものに手を下させる。
 なぜ、オロチが本田に対してそんなことをしているのかは分からんが、卑劣極まりない野郎だ。

 オロチは野球部で体格が良い事に加え、素行不良な一面もあり、キレると手に負えないことからクラスの連中も恐れ、泣く泣く言いなりになっているようだった。
 そして、とうとう俺にも火の粉が降りかかって来た。

 「おい、スバル」

 オロチが俺を呼ぶ。
 次に来る言葉が容易に予想出来ただけに、俺は気だるそうに答えた。
 
 「なんだ?」
 「お前もなんかやれ」

 俺はオロチのニヤついた表情の顔を見て、心底気持ち悪いと思った。
 だが、ここで俺だけ拒否してしまえば、途端に標的は俺に変わり、面倒なことになるだろう。
 とりあえずは、従順な姿勢だけでも見せておきたいところだ。
 
 「そうだな。じゃあ、落書きでもさせてもらおうかな」

 俺はペンを手に取り、無表情でいる本田の目の前に来た。
 
 机には、すでに新たに書くスペースが無い程に落書きがされていた。
 いじめに加担する気など毛頭なかった俺は、落書きする振りをして誤魔化しつつ、いくつかの落書きを黒く塗りつぶして消してやった。

 「え…?」

 本田は驚きの表情を隠せていなかった。
 俺はそのまま自分の席へと戻り、しばし考える。
 このまま、この状況が続くのは本人にとってもクラスにとってもよろしくないな。
 どこかでこの状況を覆すための策を打たなければならないだろう。
 



                       *



 ある日の放課後。
 
 担任の手伝いをさせられていた俺はこれまた帰宅時間が随分と遅れてしまった為、足早に昇降口まで向かっていたが、宿題のプリントを机の中に忘れてしまった事を思い出し、渋々教室へと踵を返す。
 
 小走りで廊下を進み、すぐに教室の手前まで来る。
 すると、誰もいないはずの教室から何か物音が聞こえてくる。
 何事だと少し不安に思った俺は扉を少しだけ開け、恐る恐る中を確認する。
 
 「…………」

 教室の中には、本田がただ一人。
 
 その手には雑巾が力強く握られており、無言で自らの机を拭いていた。
 恐らく、机の落書きを消しているのだろう。

 いつものように、無表情で。
 何をされても、何を言われても決して崩さなかった最強にして最高の武器と言わざるをえない、鉄壁の無表情。
 その無慈悲なまでの無表情さで、机を拭き取っているのだろう。
 そう思った。

 しかし、彼女の顔を見て俺は愕然とした。
 そこには、今まで決して見せることのなかった涙があった。
 
 とめどなく溢れる涙。
 何度も服の袖で拭うが、おかまいなしに溢れてくる。
 表情こそ、いつものような無表情であるものの、彼女は確かに泣いていた。
 
 俺は、彼女のそんな姿を目の当たりにし、ひどく打ちのめされたような感覚に陥った。

 何をされても決して表情を変えなかった彼女。
 そんな毎日が続いていた為に、それが日常になりつつあった。
 
 誰もが、彼女は鉄のように強い人間なのだと勘違いしていた。
 しかし、彼女だって人間なのだ。一人のかよわい女の子なのだ。
 悪口を言われれば傷つくし、嫌がらせを受ければ悲しくもなる。
 
 当たり前だ。そんなの、当たり前なのだ。

 そんな事は、誰だって知っていることじゃないか。

 なのに俺は、情報収集という体で見過ごしていた。
 そんなものは、少しやれば十分だったはずだ。
 すぐに手を差し伸べるべきだった。
 このままではきっと、本田は壊れてしまう。
 そうなる前に、手遅れになる前に、行動しなければ。
 俺一人が足掻いた所で大勢は何も変えられないかもしれない。
 しかし、変えるきっかけを与えることは出来るはずだ。

 「……っ!」

 俺は両手の拳にぐっと力を込める。
 神様に言われたからではない。
 俺は俺の意志で、彼女を助けたい。力になりたい。
 素直にそう思えた。
 
 そして扉を勢い良く開け、本田の姿を真っ直ぐと見据える。

 「本田」

 「……!?」

 本田はすぐさまこちらに振り返った。
 
 そして、鉄壁の無表情が少し崩れ、若干の焦りが見える。
 そんな本田の様子を見て、俺は静かに言う。

 「何をやっているんだ?」
 
 そう言いつつ、本田の前まで歩み寄っていく。
 
 何をやっているかなんて、最初から分かっていた。
 だが、何故か聞かずにはいられなかった。

 「やっ……ちがっ……これは、その……」

 いつもの本田であれば、「うるさい」だの「ほっといて」だの言って、一蹴するはずだ。
 しかし言葉に詰まる本田を見て、少なからず動揺しているのだと感じた。

 「消していたんだろ、落書きを」
 「だ、から…違うって言って…」

 口では否定しているが、いつものような覇気が全く感じられなかった。

 「何が違うんだよ。隠す必要なんてないだろ」

 そう言って俺は本田の手から雑巾を奪い取り、落書きされた机を拭く。

 「ちょ…なに、やってんのあんた…?」
 「見れば分かるだろ、お前の机の落書きを消しているんだ」

 俺は、ただひたすらに目の前のクソみたいな落書きを消した。
 
 落書きと共に、自分の中の迷いを消し去るかのように。

 「なんなのよ、あんた…」
 「まぁ、いいじゃないの」
 「こんなことしてるのがあいつにバレたら、あんた……」
 
 本田はその先を言わなかったが、どうなるのかは容易に想像出来た。

 「上等だ。かかってこいや、だな」

 俺は努めて明るく言った。
 
 「なによ、それ。あんた、いっつも一人のくせしてさ。なんでそんな強気なわけ?」
 「一人だからこそ、出来ることもあるんだぜ。何しろ、失うものが無いからな」

 俺は戯けて言ってみせた。
 実際、その通りだった。本来なら死んでいる俺には失うものなど無いだろう。
 すると、彼女もそれに呼応する。
 
 「あはは、なにそれ。ダサっ」

 制服の袖で涙を拭った彼女の表情は、少し柔らかくなっていた。
 そんな彼女を見て、俺の心も少し軽くなったような気がした。

 「お前は、そういう顔をしている方が似合っているぞ」
 「は…? どういう意味よそれ」

 本田は俺から顔を背け、髪の毛をいじり出す。
 
 「そのままの意味だよ。あの鉄のような無表情より、よっぽど可愛いと思うぞ」
 「…ふーん」
 「だから、もう我慢するなよ」
 「え……」
 「本田はよく頑張ったよ。いや、むしろ頑張りすぎなくらいだ」
 「なによ、急に…」

 本田の表情が再び曇ってゆく。

 「クラスの連中から嫌がらせされてさ、辛かったろ」
 「……別に」

 いつもの無表情になろうとする本田だが、上手くなりきれず、バツの悪そうな顔になる。

 「いいや、辛かったに決まってる」
 「あんたなんかに、何が分かるのよ……」

 確かに、本田の受けた苦痛は俺なんかが分かるわけない。
 しかし、俺は見た。
 本田が泣いている姿を。
 それが全てじゃないのか。それが嘘偽りのない本心なんじゃないのか。

 「だってお前、泣いてたじゃん」
 「ぅ……っ!」

 本田は痛いところを突かれたとばかりに一瞬たじろぐ。

 「あまり我慢するな。辛い時は辛いと言わなきゃダメだ。じゃないと、そのうち壊れるぞお前」
 「なにそれ……」

 彼女は両手をきゅっと固く握りしめ、何かを考えるように俯く。
 そして次の瞬間、顔を勢い良く上げ、声を荒らげて言った。

 「辛い時は言えばいいって、馬鹿いわないでよ、一体誰に言えばいいってのよ!」

 彼女の大きな瞳には、怒りの炎が灯っていた。
 初めて爆発させた、怒りの感情。

 「みんな、みんなさ、あいつの言いなりになってるじゃない!! 男子も、女子も、みんな!! 担任だって、絶対気付いてるはずなのに、知らん振りでしょ!? 面倒事には関わりたくないような顔してさ!! そんな中で、一体誰に何を言えってのよ!! 何であたしが…、あたしだけがこんな目に…、こんな目に合わなきゃいけないのよ!! なんでなのよ…ううぅぅぅ……」

 本田は堰を切ったようにまくし立て、矛先の分からぬ怒りを只々感情に任せてぶち撒ける。
 
 そして、溜まりに溜まったものを吐き出した為か、最後には力なく床へと座り込んでしまう。
 
 再び溢れ出る涙と共に、息切れするほどに感情を乗せたその言葉は、今の彼女そのものであるようにも思えた。
 
 彼女の気持ちは痛い程分かる。
 そうだね、と思わず賛同してしまいたくなる。
 しかし、俺はそれを否定しなければならない。
 否定しなければ、彼女の現状を変えることは出来ない。
 
 何をどうすれば彼女を救えるか、何となくイメージは湧いている。
 覚悟を決めなければならない。
 端から見てるだけなのはもうごめんだ。

 「でも、言わなきゃ伝わらない事もあるだろ」

 俺は、穏やかにそう言った。

 「なによ…ひぐっ…じゃあ、どうすれば良かったのよ…! ううぅぅ…」

 本田の顔は既に涙でぐしゃぐしゃになっている。
 
 ここが分岐点だと、俺は直感した。
 選択を間違えないよう、慎重に言葉を選び、努めて平静を装って言った。

 「本田は、どうして欲しかったんだ?」

 床にへたり込み、涙を流し、俯いたまま俺の言葉を聞いていた本田。
 やがて、そのままの姿勢で言葉を紡ぎ出す。

 「……てよ…。……すけてよ……」

 その言葉は余りにか細く、とても聞き取れるような声ではなかった。
 しかし、俺には何を言わんとしているか分かるような気がした。
 
 そして、次第にその声が大きくなっていく。
 本田自身の気持ちに呼応するかのように。

 「助けて…。助けてよ…!! 誰か助けてよ…! こんなの嫌…。一人ぼっちは嫌…。辛いよ…。どうしてこんなことになっちゃったの…もう嫌…。お願い…助けて…誰か…」

 彼女がついに口にした、本音。
 目の前にいるのは、鉄壁無表情の欠片もない、ただの、どこにでもいる少女だ。
 今の彼女はあまりに弱々しく、そんな彼女の力になってあげたいと、笑顔を取り戻してあげたいと俺は本心で思った。
 
 自分の身を犠牲にしてでも、彼女を救ってあげたいとさえ思えた。
 そして自分の中で何かが奮い立ってくるのを感じた。

 「了解した」

 俺は、一言そう言った。

 「…ぇ」

 予想外の反応だったのか、本田は涙でくしゃくしゃになっている顔をハッと上げ、こちらを見つめる。
 俺はその場でしゃがみ、座り込んでいる加藤と目線を同じにする。
 そして、無言で彼女へ手を差し伸べる。

 「……っ」

 彼女はしばらくそれを見つめ、やがて意味を理解したかのように恐る恐る手を伸ばし、この手を掴んだ。
 俺は穏やかに、そして力強く言った。

 「よし、あとは任せろ」

 本田は涙を一層溢れさせる。

 「な、んで…どうして……」
 「なんでだろうな」
 「なによ…それ…、意味、わかんない…ぅぅぅ…うぁぁぁん…!」 

 本田は今までの悲しさや悔しさを全て洗い流すかのように涙を溢れ出させ、しばらくそのまま嗚咽していた。
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