それは必ずこの世界のどこかにあるようです。
誰が言ったのかなど、もう分かりはしない、随分と昔の言い伝えではあるのですが、誰もそれを疑うものなど居やしない世界なのです。
そして、これまでそれを目指して多くの老若男女が旅立ちましたが、一人として帰ってきたものは居ません。まるで、違和感だけを残す完璧な密室殺人事件のよう。完全な密室なのに、そこで誰かが死んでいる事だけは分かるようなもの。
でも、それは必ずこの世界のどこかにあるようです。
彼は、自分の事を「マイク」と呼ぶようになりました。
本名など、もうとうに忘れてしまったのです。でも、この世界で生きていくには、どうしたって名前と言うものが必要なもので、仕方なしに彼は自分の事を「マイク」と呼ぶようになりました。
「あなたはマイクと言う名ではあるけれども、何だかまるで、日本人のような顔つきね。中肉中背。どうお世辞に見ても短足だし、頭だって、吹きすさぶ風の前ではとっても寒そうね。」
場末のバーカウンターに居た時には、横に居た赤いチュニックを着た少々ケバイ女に蔑みを含めて、よく言われたものです。
「そうなんだ。それなのにマイクなんて名前なものだから、随分と不便な人生を送ってきたのだよ。いつだったか、黒くなれば、ごまかせるかと、体を真っ黒く焼いた事があったんだけれども、残念ながら生まれた時から皮膚が弱くってねぇ。それ以来、日光アレルギーになってしまったのさ。だから、今じゃあ、ご覧の通りの白豚だよ。」
そう言って、涼しげな頭をかくのでした。
ただそれは、嘘です。
マイクは、なぜ、自分の名前さえも忘れてしまったのかさえ、忘れていました。
それを重度の記憶障害とくくってしまうのは、実に簡単な事ではあるのですが、記憶障害ではないとマイクは考えていました。なぜなら、マイクには、(それはもはや無意識と言ってしまえるかもしれませんが)どうしても行かなければいけない場所がありました。
中央悲劇閲覧センター。
「悲しみ。」
「夕暮れ。」
誰かが呟きました。
「星空。」
「波の音。」
うつむき加減に呟きました。
「暗がり。」
「静寂」
誰かが呟きました。
よく似た子どもはナイフで、互いで互いを突き刺したまま。
それは、マイクが瞳を閉じると不思議と頭の中に浮かんでくる、決して美しいとは言えない情景。
泡沫のよどみのように、浮かんでは消えるその情景の意味でさえ、マイクには、理解できやしません。ただ、それが、外部からもたらされた(例えば、本や映画など)モノではなく、自分自身の何らかの経験によるものだと言う事だけはなぜか分かっていました。
だから、記憶障害ではない。と言うのは、客観的に見れば、さぞかし根拠の無い話なのでしょう。
そんな情景を常に頭の中にめぐらせながら、いくつもの海を越え、いくつもの山を越え、少しずつ少しずつマイクは、目的の場所へと近づいていくのでした。
その場所に何があるのか?何も無いのか?それさえも分かりはしないままに、ただ近づいていきました。
それは、まるで人生における死のようなものだと、マイクはいつからか思うようになっていました。
その場所は、実に平凡な建物でした。
少し古びたコンクリートの2階建ての建物で、所々が、風雨にさらされていた影響でしょうか、少しだけ黒ずんでいました。入り口だって、すす汚れたガラスの自動ドア。でも、少し昔のタイプなので、ネコが背伸びをして、トテチトテンとドアの前を歩くだけでも、反応してしまうのです。
場所だって平凡。
目の前には、添加物たっぷりのハンバーガーを沢山売っているお店や、キッとどこか遠い外国から仕入れて来たのでしょう、キレイなガラス細工ばかり取り扱っている雑貨屋さん、どう見ても怪しいフルスモークの喫茶店などが軒を連ねています。
道行く人も、特にそこに何か凄まじいものがあるなどと言う意識を持ち合わせてはいません。それは、当たり前の事実だと言う感覚。恐らくは、何か新しい食べ物屋さんでもできた方が、はるかに、目を引くのでしょう。
マイク自身、ココが自分の長年捜し求めてきた場所なのか?と少々不安を覚えました。
それは、勝手な想像ではあるのですが、何だか、荘厳な建物で、人々は、尊敬と畏怖のまなざしを常に向けているような場所だと思っていたからです。
中に入ろうとしました。
異常に感度の良い入り口の自動ドアは、マイクが躊躇する度に、何度も開いたり閉まったりします。
おりしも、目眩がするほどの蒸し暑い季節。なき始めのセミの声があちら、此方、そちらから聞こえてきます。
中では、また少し古いタイプの空調施設が整備されているのでしょう。異常に冷え切った空気が、ドアが開くたびにマイクの体を包みました。
室外機に繋がる管には、水滴がまとわり付き、ポタリポタリと滴り落ちていました。
意を決したマイクは、あたかも当たり前のように、何だか憮然とした表情で、その施設へと足を踏み入れました。
そこは伽藍堂の様相でした。
まるで何も無い。何も無いがゆえに、何かがあるような圧迫感を感じさせるとても不思議な空間でした。すす汚れ赤茶けたタイルには、白い矢印が描かれており、「受付はこちら」と、優しく教えてくれていました。
受付に居たのは、どこにでもあるような、とても事務的な制服に身を包んだ、髪の毛がタイルと同じように赤茶けた見た目30代の少々美しい女性でした。
「初めてですか?」
「そうですね。はい。初めて・・・かな?」
「ふふふ。初めてかどうかなんて、どうにかすれば、ご自分では分かるんじゃありませんか?」
そう言って彼女は、奥から1枚のカードを取り出しました。
「ティアーズカード・・・簡単に言えば、会員証のようなものです。涙のカードって、変な名前でしょう?でも、何でか、ココでは、会員証のことをティアーズカードと呼ぶのですよ。それで、ココが一体何の施設なのかについては、ご存知なんでしょうか?もし知らないままでは、色々とショックを受ける方もいらっしゃいます。過去、中で閲覧された方には、そのまま失神してしまった方も居ましたので・・・それ以来は、そこについて、説明の義務がつけられてしまいましたのです。」
「ある程度は・・・知っているつもりです。ココは、中央悲劇閲覧センター。つまり・・・人々の悲しみ・・・」
「そう、ここにいればそれが見える。雲の流れが見えるように。ご存知のようですね。そして今現在では、閲覧方法をご自由にお選びいただけます。つまり、音として聴くのか、文字として視るのか、感覚として捉えるのか。」
「3つのパターン?」
彼女は、事務的に続けました。
「ひとつは音声として聴くことが出来ます。もうひとつは書物として読むことが出来ます。最後は、映像として目で視て耳で聴いていただくことが出来ます。ただし、映像ではかなりショッキングなものも含まれますので、その部分だけは、どうしてもご了承ください。」
「はぁ。」
「どの方法をお選びになりますか?」
マイクは、少しだけ考え、閲覧している状況を頭の中でめぐらせた後
「書物として、閲覧したい。」
と彼女に告げました。
「失礼ですが、老眼など患っていらっしゃいますか?」
「老眼ですか・・・。生憎とまだ、小さい文字も読み取ることが出来ておりますので、悪しからず。」
「かしこまりました。それでは、この廊下を過ぎ、右の部屋が書物の部屋になります。そして、こちらが、その部屋の鍵になりますので、どうか、なくさないようにお気をつけくださいね。」
そう言って、まるで中世ヨーロッパの町並みを髣髴とさせる錆かけた銅鋳造の鍵を差し出しました。
「鍵?」
「当センターは基本的に、一室を貸し切り状態でご利用いただきます。おおよそ見られたくないような状況になってしまった時の配慮ですね。あと、気兼ねなくじっくりお過ごしいただくためでもあります。」
「なるほど。・・・じゃあ、鍵を。」
そう言って、鍵を受け取り、そうして、マイクはすす汚れ赤茶けたタイルの廊下を歩みだしました。
「どうぞごゆっくり。」
後ろから、彼女の声が聞こえてきます。「ごゆっくりお楽しみください。」とは言わないのだな。とマイクは少しだけ心の中で思いました。
廊下を右に。
その部屋は、赤茶けたタイルから、少々毛の高さがある絨毯へと変わっていました。ただ、スリッパなどはありませんでしたので、勝手な想像で、土足のままに部屋の奥底へと入っていきました。
外観からは想像も付かないほどに恐ろしく広いその部屋には、部屋の壁が見えない程に、圧倒的な物量の本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本。本・・・・・
ただそれは、この世にある全ての悲しみが集まるに似つかわしい程の量ではないように思われました。
さて、ココに来てマイクは少しだけ我に返りました。
つまり、なぜ、自分がココにやって来たのかと。
「悲しみ。」
「夕暮れ。」
誰かが呟きました。
「星空。」
「波の音。」
うつむき加減に呟きました。
「暗がり。」
「静寂」
誰かが呟きました。
よく似た子どもはナイフで、互いで互いを突き刺したまま。
それだけを手がかりに、一体マイクは、何をどうすれば良いのか。途方にくれる。と言う感覚を始めて感じることが出来ました。
取り合えず、一冊の本を手にとってみます。
本の素材は恐らく紙ではなく、とても柔らかいのに、凄く力強いものでした。例えるならば、生まれたばかりの、まだ首も据わっていない赤ん坊のよう。どう、扱って良いのかもよく分からないまま、マイクは静かに、その表紙をめくってみました。
それは、世界最後の魔法使いの話でした。
世界最後の魔法使いは、どれだけ魔法を使って、何でも自由自在にしたとしても、結局は、人の心が手に入らないことをひどく悲しみ、魔法など使わずに、ただ愛した少女に思いを告げます。しかし、その少女に、余りにも手痛く裏切られ、その少女を魔法で殺してしまい、そして、自分自身も魔法で自らの命を絶つ・・・と言うお話。
もちろん、ここにあるお話は全て本当にあったお話なので、この、実に荒唐無稽なお話もキッと、この世界のどこかで起こった事なのでしょう。
もう一冊。手にしてみます。
それは、悲しい蛇女のお話でした。
仕事にもありつけず、親も兄弟も親族も誰も居ない男と少女は、もう生きていくことが出来なくなります。そうして、最後に考え付いたのが蛇女興行でした。少女の手足を、ボロボロに錆びてしまった肉切り包丁で切り落とし、蛇女として、全国の見世物小屋を回る珍道中。薄暗いテントの中は、運良く涙も見えないものだから、手足の無くなった少女の涙は見えないまま、カエルの丸呑みし、ネズミの生肉をかじっては、幾ばくかの見物料を頂き、2人はその日を生き永らえていく・・・と言うお話。
このお話だって、キッと、この世界のどこかで起こった事なのでしょう。
それからの時間、マイクは気が狂ってしまったかのように、ここにある悲劇を読みふけりました。一生涯誰からも愛されずに朽ちていった老人の話も、障害を持ちながらも戦争で死んでいった少年の話も、自分の顔の醜さを呪い自らの子宮にナイフを突き立てた女の話も、深い山奥で家族に先立たれどうする事も出来ずに餓死した子供の話だって読みふけりました。
確かに、マイクの心を揺さぶる何かがそこにはありましたが、果たして、それがマイクが望んでいた事なのかと言うと、キッとそんな事は無かったでしょう。
時間が経ちました。
それは、数日と言う単位の話ではありません。数ヶ月。もしかしたら、数年だったのかもしれません。
それでも、マイクはひたすらに読みふけりました。累々と築きあげられた人類全ての不幸は、いつまで読んでもなくなる事は無く、また、マイクの読み進めるペース以上のスピードで増え続けていました。
そして、未だになぜ、マイクがこの場所を目指していたのかなど分かるはずは無いのです。
ただ、そんなある日、ふと思い立ちました。
「もう随分と沢山の悲劇を読みふけってしまったが、その中に自分の不幸など、どこにも見当たらないじゃあないか。」
そう考えたマイクは、部屋を飛び出し、久方ぶりのあの受付嬢を問い詰めました。彼女の容姿は、以前見たときと寸分も変わっては居ませんでした。
「老眼鏡の貸し出しですか?」
彼女は、実に的の外れた質問を投げかけてきます。
「違う。ここには、確かに多種多様、雑多に悲劇、悲しみが集まってはいる。そこは認めるが、どうして、その悲劇の中に、このオレの悲劇が含まれては居ないんだ?もう随分と、読みふけったが、それでも、一向に自分の悲劇が出てこないじゃあないか。」
彼女は、狐につままれたような表情をした後
「失礼ですが、ここに集まるのは、あくまでも悲劇であって、悲しみなのです。思い出ではありません。人類60億以上全ての人間に思い出はあっても、全ての人間に悲劇、悲しみがあるとは限りません。あなたも同様です。あなたが登場しない可能性など、十二分に考えられるのではないでしょうか。」
と淡々と語った。
そうして、もうなんの返答も出来ないまま、それでも、マイクは部屋に戻り、再び悲劇を読み進めることしか出来なくなっていました。
この施設を出ることなど、もう出来やしません。
マイクは、コレまでの人生全てを静かに思い出し(と言っても思い出せない部分の方が遥かに多いのですが)、コレまでに起こった人の悲劇を読み進め、触れることで、自分の悲しみを癒すと言う快感から逃れることが出来なくなってしまったのです。
自分の頭の中にあり、いつになっても逃れることの出来なかった情景も、不思議と頭の中から消えかかっていました。
「悲しみ。」
「夕暮れ。」
誰かが呟きました。
「星空。」
「波の音。」
うつむき加減に呟きました。
「暗がり。」
「静寂」
誰かが呟きました。
よく似た子どもはナイフで、互いで互いを突き刺したまま。
さらに時間が経ちました。
もうどれだけの悲劇をマイクは読み進めたことでしょうか。
まだ、自分の物語にたどり着くことは出来ません。
そうして、静かに、マイクは息を引き取りました。
中央悲劇閲覧センターのあの部屋で、最後の最後まで他人の悲劇を読みふけりながら、息を引き取りました。
最後に読んでいたお話は、どれだけ幸せになってもそれを幸せだと感じることの出来ないまま死んでいった男の話でした。
今日もまた、一人。今度は、黒いゴスロリの服に身を包んだ手首に傷のある少女がこの中央悲劇閲覧センターへとやってきました。
受付で、ティアーズカードを受け取り、赤茶けた廊下と右に曲がり、書物の部屋へと進んだ少女は、不意に一冊の本を手に取りました。
それは、中央悲劇閲覧センターで何十年も自分の悲劇を探し続け、遂には、自分の人生が実は悲劇でなど無かったことに、死ぬ直前に気が付いてしまった男の悲劇のお話でした。