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第三打席「去りゆく"レジェンド"の遺言」

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 日本は四季の国である。プロ野球のシーズンは春に始まり秋に終わる。
 九月を迎え、レギュラーシーズンが終盤戦を迎える中、俺は首位を独走するアイロンズの"左殺し"として、だいぶ打席数を重ねた現在も対左打率四割台をキープするという、我ながら上出来すぎる内容で一軍に留まり続けていた。
 本来ならば十分すぎる結果だ。だが、今の俺は現状に満足出来ていなかった。
 右投手が本当に打てない。全く打てる感じがしないのだ。はっきり言って不思議でしかない。別に右投手に対する苦手意識なんて抱いたことないのに。というか、少なくともプロに入ってからは、右も左も関係ないというか、プロの投手に食らい付いていくだけで精いっぱいという感覚だったのだが。
 これはもう、あれだ。自分で自分に「お前は"左殺し"だ」と暗示をかけ過ぎたせいとしか思えない。人間というのはおかしなもので、それが得意だと思い込んで物事に取り組むと、本当に上手くいったりするものだ。ただ、その時点で自身の持つポテンシャルを限界以上に使ってしまっているのだろう。要は、右打者に対する『お釣り』がなくなったということだ。
 それでも、対右打率一割台前半は、あまりにもむごすぎる。先発が左の時しかスタメンで使われないのも当然の結果だ。そして、右のリリーフが出てきたら代打を出して引っ込める。そりゃあそうだ、俺が監督でもそうする。でも――
『このままでいいわけない!』――そう、ぜいたくになった俺の心が叫んでいるんだ。
 本当に、人間というのは困った生き物だと思う。先月までは、一軍に上がれるだけで満ち足りていたのに、今ではレギュラーを獲れないと物足りないとまで思ってしまっているなんて。
 そんな器かよ、お前、山﨑太郎。


「――まず、今日、このセレモニーを開催してくださった安芸島アイロンズ球団。大方監督をはじめとしたスタッフ及び選手の皆さん。試合終了後も残ってくださっている水道橋ギガントスの皆さん。そして、遅い時間までこうして残ってくださっているアイロンズ及びギガントスのファンの皆様。私ごときのためにこうして貴重な時間を割いていただき、感謝の思いで一杯です」
 シーズン終盤は別れの時期だ。ただ、こんな風に引退セレモニーを開いてもらえる選手は少ない。ほとんどの選手は戦力外通告を受け、ひっそりと消えていくものなのだ。
 この日の主役は、園田慧選手。八月、手首に死球を受け俺と入れ替わりで二軍に落ちた、あの園田さんだ。手首の死球は、その後の精密検査で症状が重度のものと分かったそうで、園田さん自身はその時点で引退を決意したという。球団の方は、功労者であり今も代打の切り札としてチームでも一、二を争う人気とTシャツの売上を誇った彼の引退を全力で引き止めたが、その意思は固く、翻意させることは出来なかった。
 園田さんの通算成績が電光掲示板に表示されている。あらゆる数字に現実味がない。自分に照らして考えてしまう。園田さんの残した数字を、俺は一つも越すことは出来ないだろうと思う。特に通算安打数。一四九九という、特別印象に残るその数字。さぞ無念だろうと、園田さんの心情を慮らずにはいられない。あと一本ヒットを打てば、一五〇〇というキリのいい数字を達成して引退出来たのに。
「…最後に、残り一本に迫っていた通算一五〇〇本安打ですが、これについては、今宵ファンの皆様の夢の中で打たせて頂ければ、それに勝る喜びはございません。どうもありがとうございました!」
 試合が終わって一時間経ってなお球場に残る沢山の野球ファンから、万雷の拍手が送られた。
 素直に思う。俺も、いつか選手として終わる時には、こんな風に見送られる選手でありたい。この瞬間、園田さんがはっきりと自分の目標になった。


 連れてきてもらったのは、これまで一度も入ったことのないような、恐ろしく高級そうな料亭だった。
「まァ肩肘張るな。気楽に座れや」
「はぁ……」
 そんなこと言われましても。
 園田さんは、いかにもこういう店に慣れていそうな振る舞いだった。それにしても、なぜ。
「あの、園田さん。どうして俺だけ……」
「こんな高いとこ、そう何人も連れて来られんわ」
 それはそうだと思いつつ、いやそういうことではないと、同時に突っ込む。口にはしないが。
「来年、収入激減するからのォ」
「ですよね……いやそうではなく。どうして俺を?」
「球団主催の記念パーティはシーズン終了後にやってくれるそうじゃ。まだシーズン中じゃけぇ、あまり大々的に誘うのもな。まして、俺は一軍に帯同してる選手じゃないしのお」
 それにしても。俺はこれまで、園田さんとほとんど交流がない。縁があるとすれば、それは、俺が園田さんと入れ替わりで上に上がったということと、同じ左打ちの外野手だということくらいだ。
 料亭の仲居さんが注文を取りに来た。園田さんは、
「森伊蔵を」
 ちょ、園田さん!?
「俺はストレートにするが、お前は?」
「いや、そんな高い酒……悪いすよ」
 森伊蔵といえば、酒に疎い俺でも聞いたことがある有名なプレミアム焼酎だ。供給に対して需要が勝ち過ぎていて、定価で手に入れるのは極めて困難だという、あの。高級店ゆえメニューなどないのだが、果たして一杯で幾ら取られるのか? まるで想像がつかない。
「遠慮せんでええ。心配せんでも、今日だけじゃ。何度でも言うが、俺は来年収入激減じゃけぇのお。今日飲まんだら、勿体ないことだぞ」
「…すいません。じゃあ、ロックで」
 はい、と仲居は下がっていく。すごいな。これが、プロ野球選手だな。俺が後輩に奢れるのは、せいぜい焼き肉くらいものだ。名ばかりプロ野球選手だ。
「お前、上でヒット通算何本打っとる?」
「そうですね……昨日までで、一九本ですね。少ないんで覚えやすいんです」
 ちなみにそのうち一六本が左投手からのものである。このままシーズンが終われば、俺は『左投手専属』というイメージで固まってしまうのではないだろうか。
「そうか、お前、一軍で働き出したのは今年からか。どうりで顔見た記憶がないわけじゃの」
「今年二六でようやくです……高卒一年目から一軍で働いてた園田さんとは天地の差ですよ。この間の引退セレモニー、電光掲示板に表示されてた園田さんの通算成績見ていて、俺、色々諦めました。『ああ、俺はこんな成績残せないだろうな』と思ってしまったんです」
 そう言った直後に、森伊蔵が届いた。
「…まぁ、とりあえず」
 俺に向かってグラスを傾ける園田さん。キン、と乾杯をして、ひと口含ませる。正直、焼酎はあまり飲んだことがない。すっきりとした飲み口、というのだろうか。これは。
「諦める必要なんかないじゃろが」
 グラスをテーブルに置いてから、園田さんが口を開いた。
「俺の成績なんぞ大したことないわ。お前なら十年あれば抜けるじゃろ?」
「えええ、十年じゃあ……そもそもこれから十年も現役を続けられるかどうか」
「今年はもう残り少ないが、来年から十年間、毎年百五十本打ち続ければ俺くらい抜けるぞ」
 事もなげに言ってくれるが、それがどんなに難しいことかは園田さんが一番よく分かっているのではないだろうか。シーズン百五十という数字は、ほぼ全試合スタメンで出続けて、それでも達成できるかどうか、というものだ。しかもそれを十年、である。ぶっちゃけ不可能に近い。
「お前なら出来るよ。左をあんだけ打てるんじゃけ」
「その代わり、右が壊滅的です……右が打てれば、もしかしたらレギュラーを獲れるのでは、と思わなくもないのですが」
「確かに、右が一割台ではの。このままでは、来年は代打要員で収まっちまうかもしれん。だが、お前の若さでそりゃイカン。俺が代打に専念したのは、両足がポンコツだからじゃ。五体満足な身体なら、レギュラー目指さなの」
 それは分かっている。俺はすっかり欲が深くなっていて、もう今ではレギュラーを獲らなければ満足できないところまで肥大化してしまっているのだ。理想と現実のギャップに、押し潰されてしまいそうだ。
「園田さん、これは、園田さんがもう引退する方だからこそ話すので、他言しないで頂きたいんですが……俺は、自分が左投手を打てるなんて思えたこと、一度もないんですよ。打てると思い込んではいるんですが、それは自信などではなく、なんというか、妄想のようなものです」
 園田さんは口の軽い人ではないと見込んで、俺は本当のことを打ち明けた。取材では「俺は"左殺し"だ」とか、大言壮語を吐きまくっているので、これを口外されてしまうと、とても居た堪れないことになるのだ。信用できない人には打ち明けられない内容だ。
「…生来、思い込みの激しい性格で、それで失敗してきたことも数多いのですが、今回はそれを生かしてみたというか。というか、結果的に生かせたというか、そんな感じなんですが……打撃センスでいえば、ウチで言えば洗川とか、俺なんかより上の選手は掃いて捨てるほどいるんですよ。それが痛いほど分かるから、園田さんの数字なんて目指せないですよ、俺には。思い込みで辿り着ける位置なんて、知れてるじゃないですか」
 酒に弱いせいもあるかもしれない。森伊蔵をひと口飲んだだけで随分回った気がする。それとも、自分の言葉に酔ったのか。
 園田さんは、黙って森伊蔵を飲み干した。目を瞑ったまま、グラスを置いて、そしてゆっくりと瞼を持ち上げた。
「…お前の言うとおりならな、大した才能じゃと思うがの」
「どのへんがですか?」
「思い込む力の強さよ。それで本当に左を打てるようになったならの。それなら、あと一個思い込んでみたらええじゃない。"一五〇〇本安打打つ"とかさ」
 園田さんは破顔してそう言った。園田さんのこんな表情は、テレビで見ていた頃から含めて、初めて目にしたものだった。
 こんな風に笑う人なんだ。
「…いや、それじゃ小さいの。どうせなら、"二〇〇〇本安打打つ"にせえ。名球界目指したらええじゃない。目指すだけならタダじゃ!」
 どうも、園田さんもそんなに酒に強くないんじゃ、という気がしてきた。目がとろんとしているし、顔も赤くなってきている。シラフとはノリも違うし。
「思いの力が強いなら、諦めることもないじゃろ。それにお前はアホじゃない。二〇〇〇本打つ選手になるなら、どうすればいいか、自然と目指す方向に身体と心が向いてくれるはずじゃ。俺のように、小さくまとまったらイカンのよ」
「そんな……園田さんは小さくなんて」
「いや、小さいよ」
 園田さんは、ここだけ真顔になった。背筋が強張る感覚を覚えた。それだけ、強い感情の籠った表情だった。
「『俺はもっとやれた。怪我がなければ、今頃二〇〇〇本打てた』――そんな風に考えてしまうのよ。毎日じゃ。違うのよな、怪我のせいではなかったんじゃ。俺には……思い込む力がなかったんじゃ。お前は俺にはないもんを持っとる。だからこそ、小さくまとまって欲しくない。俺のようになって欲しくないんよ……」
 俺にあって、園田さんにないもの。そんなこと、想像も出来なかった。園田さんは怪我して以降、二〇〇〇本を目指すメンタルを形成出来なかった。想像することが困難になっていたのか。
 俺は、まだ大きな怪我をしていない。妄想することは出来る。思い込むことなら出来る。
 そうか、それでいいのか。
「…気付かされました。自分の武器に」
 この人を目標にして良かった、と俺はまだ料理も来ていないのにウトウトし出している園田さんを見ながら思ったのだった。
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