そっと、そっと歩を進めた。注意深く、君に気付かれないように。
時節は霜月も終わり掛けで、夜露は月名になぞらえた様に草葉の白の衣に変わっている。
僕はそれを知っているから、草間の土の飛び地を踏み踏み君の背に近づいていく。
「……良い晩ですね」
やっぱりまた気付かれていた。すぐに僕は観念する。
「ああ、空気が冷えているから月がよく見える」
君は振り向いて、いつもどこか寂し気に見える微笑みを僕にくれた。鼻筋が月の弧に沿う
ようになって、影の君はとても儚げだ。
「どうなさったのですか?」
「いやはや、酔い覚ましの散歩がてらフラフラとしていたら見かけたものだから」
「そう、ではまたお話相手をして下さる?」
「構わないけど、今日はめっきり冷えてるね」
些細な嘘をついた僕は隣に腰を下ろした。小振りな岩に腰掛けた君を見上げながら誘い文
句を口にする。努めてさり気なく自然に。
「たまにはウチでホットワインでもどうだい、芯から温まるよ、このとこ毎晩寝る前には
欠かせ……」
カァァァァーーーーー、ぺッッ
目に入ってしまった。君の唾だ、というよりも痰だ。コートの袖で拭う、塩気がきついの
かやたらと染みる。どうやら僕はまた振られてしまったらしい。
「すまない、今腰掛けた瞬間に持病の切れ痔がぱっくりいってしまったしまったみたいだ、
今日のところは失礼するよ」
「あら、残念、飲みたかったわホットワイン」
「……明日も仲間と飲む用事があってね、また見かけたら声を掛けるよ」
「まあ嬉しい!雨や雪じゃなければきっといるわ、きっと声を掛けて下さいましね」
僕は答えずにその場を立って道に向かった。今度は気にせずに背短の草葉を踏む、シャリ
シャリと刻む音が立てながら、君の視線を背に受けながら。
轍のでこぼこだらけの道に戻ると僕は振り向いた。君も背筋を反らせながらこちらを見返
ってる。腰は折れてしまいそうに細く見えた。かじかむ指先が震えないように、はっきり
分かるように注意しながら僕は君に向けて中指を立てて、思いっ切り息を吸い込んだ。冷
たさで肺が軋んで痛むのも構わずに。
「死ね!クソあばずれ!売女!タンポンばばあ!!お高く止まってんじゃねえぞ!!……」
タンッ
小気味いい音がして、額に軽い衝撃が走る。またこれだ、投げナイフ攻撃、どんだけいい
腕してんだっつーの。
俺はそれ以上なにも言わずに、とぼとぼと家路を辿ることにした。夜は濃くなって、星は
チリチリと霞を燃やしている。夜気は冷たいのに少し焦げ臭くて切ない。
家に入って足踏みストーブに火を入れた。安楽電気椅子に腰掛け、囀りパイプで一息入れ
る。
中の水音と相まって小鳥囀りに聞こえる代物だ。その音色を一頻り愉しんでから額のナイ
フを抜く。
「イテテッ、おー痛い」
そのとき突如俺は気付いたのだ。滴る血のリズム、間隔、ツー・ツー・ト・ツー・ト……。
(これは、モールス信号だッ!!なんで今まで気が付かなかった!!ナイフも今日で23本
目、俺は馬鹿だ!!大馬鹿野郎だ!!)
大慌てで背負い式ビールサーバーを担ぎ上げて君の元に向かう。家にワインがあると言っ
たのも些細な嘘だ。
(くそ、クソクソクソッ!!嬉しくて頭がどうにかなりそうだ、もうどうにかなっている
かも知れない!!あーなんて日だ、最高の夜だぜ!!!)
信号は1・1・9・2、いい国創ろう鎌倉幕府の符牒、つまり「い幕鎌ろ府い倉創う国」
「針ノったく、撃どがあるてぜを振ら!今あジャようが夜照れにもほはの絨を振らせの爆
アマ隠しやる!クめ!鼠にされ毯キス!」
(終・寿・し)