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暗闇

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 今回、俺はあらゆる悪意を身に受け、先の見えぬ恐怖を味わう事になる。
 暗闇。闇夜。漆黒。
 先の見えぬ闇にどうやってポジティブな印象を持つことが出来ようか。
 この文字を含む熟語や慣用句を探してみても、一寸先は闇だとか、やはり印象は変わらない。
 だが闇の中へ常に身を置く男は、どうだろうか。
 そう、彼にとって一寸先は闇なんて明るいものだ。


 
「僕は灯油ストーブ派なんだ」
 お馴染み、湖南一族が所有するビルの一室。犬飼は腕時計の歯車を磨きながら語る。
「灯油の燃える匂いが堪らない。だからこの部屋のエアコンは気に入らない」
 なるほど。匂いとは、彼にとって残された楽しみの一つであった。
「古畑くんはどうだ?」
 犬飼に尋ねられた時、奥の部屋から湖南がくしゃみをする音がした。
「湖南のエアコンが批判された事を察したのかもしれないな」俺が言うと、「あの女傑ならそれも可能かもしれない」と犬飼が答える。
 無駄話に花を咲かせている間に犬飼は腕時計の整備を終えた。
「凄いな、本当は見えているんじゃないか?」
 俺は犬飼の心眼と書かれた目隠しを見る。
「古畑くんは冗談がうまいな」
 そう言って彼は笑った。
 犬飼は、じゃあそろそろと言って立ち上がる。そして、おっ、と言って足元へ手を伸ばす。
「今日は杖を忘れないようにしないとな。魔法の杖だ」
 杖を握りしめた犬飼はそれだけ言ってから再び笑った。
 犬飼と初めての出会い。彼が交差点で杖を忘れた時の事と、それからの事を思い出して俺も笑った。


 12月。
「だからお前はカカシなんだ。そんな顔を向けられると私までカカシになってしまうだろう」
「意味が分からないぞ。そもそも何でカカシなんだ?」
「察しが悪いな。そんなウスーイ顔をしてるからカカシなんだ。カカシはカカシらしく突っ立って獣除けにでもなっとけばいいのだ。余計な事をするからこんな問題を起こすのだ」
 こうなってはもう手がつけられない。あの日、甘い言葉をくれた優しい湖南は何処へ行ってしまったのか。
「まあまあ」見物していた大家が手を叩く。
「古畑は余計な事はしていない。カカシらしく、突っ立っていただけだ。だからこんな問題になったんだろう」
 フォローと言えるのか微妙な発言だった。少なくとも俺は精神的に傷つく。
 湖南は大家を睨み付ける。
「必ず俺達が解決するから、それでいいだろう」
 大家は堂々と言い放った。
 すると湖南は強く強く踵を踏み鳴らし部屋の奥へ向かう。
「狸、狸はどこだ!?」
 そして狸こと、胴田貫の名前を呼ぶ。しかし返事は無く湖南の声だけが部屋の中に響き渡る。
「獣除けの役割はしっかり果たしているようだな」彼女は振り返り俺を睨み付ける。
 そしてさらに部屋の奥へ去る。
 これは何とか挽回しないといけない。
「大家、本当に手伝ってくれるのか?」珍しい事なので再確認してしまう。
「勧善懲悪だからな」
「そうか」
 焦るあまり忘れていた。
 勧善懲悪。それが大家の、いや俺達の行動理念だった。



 俺は何をやらかしたのか。
 湖南は意外であるがアイドルオタクだった。暇があればアイドルのライブ映像を眺めているのだ。
 今週末、市内で某アイドルのライブが開催されるのだが、湖南はこれに参加する予定で、事あるごとにライブの話をしていて、ずっと待ち焦がれているのだ。
 そして俺は昨日、某アイドルのライブチケットの発券を頼まれ、すぐにコンビニで用件を済ませた。
 俺は参加しないのだが、自分の事の様に嬉しくなり、チケットをスマホで写真を撮っていた時の出来事だった。
「お兄さん、うれしそうな顔して、写真まで撮ってどうしたの」
 糊で固めたような硬い笑顔を作る痩身の中年男が声をかけてきた。
「チケットを手に入れたんですよ。ずっと楽しみにしてたから」
 胡散臭い様子の男に声をかけられ普段なら警戒に警戒を重ねてしまいそうな状況だったが、浮かれていた俺は不審になど、思わず気安く答えてしまった。
「もしかして、あのアイドルの?」
「よくわかりましたね」
「僕も欲しかったんだ。ちょっと販売元の会社の名前見せてよ」
 意図がよく分からなかったが、躊躇なく渡した。
「これ、ちょっと借りていいかな。会社の情報を記録させてもらいたいんだ。すぐに戻ってくるからさ。もしもの為に、これ私の連絡先。携帯電話に登録してさ、念のために一度かけてみてもらえるかな」
「いいですよ」
 男の指示通り、手早く登録し発信する。
 そして、男のスマートフォンが鳴り、受信したのを確認した。
「じゃあごゆっくり」
「すぐ戻ってくるからさ」
 俺は滑稽に手を振る。

 大方予想できていると思うが、その後男は帰ってこなかった。
 そして今日になって、湖南に報告し、叱責された時、初めてことの深刻さを認識した。

「ほんとに鈍感だな」
「浮かれてて、冷静じゃなかったんだよ」
「純粋な奴だな。そんなだから去年みたいなことになるんだよ」
「去年?なんのことだ」本当に分からない。
「まあ、そんなことよりライブは週末だろう。考えはあるのか?」
「そうだな、とりあえず警察に連絡して、コンビニの監視カメラを確認するとか?」
「時間が足りないな、とにかく問題は本番が二日後と言う事だ」
 その通りである。大家に指摘される度に、危機感が募っていく。
 同公演のチケットは既に完売である。正規のルート以外で手に入れることもできるが、やはり時間がかかるし、リスクが大きい。
「とにかく気がかりなのは古畑の話を聞く限り、電話番号は男の携帯電話で間違いないようだが、気にかかるな」
「どういうことだ?」
「投げやりな番号を古畑に伝えて、それが正しいものか確認する間もなく立ち去ればいいじゃないか」
 確かに、騙す側にとっては無駄なリスクを抱える行動に思える。
「そうしないと俺に引き留められると思ったんじゃないか。それか、本当に何かのトラブルで戻ってこれなくなったとか」
 俺が言うと、大家は、ううんと口を結ぶ。
 振動。
 テーブルの上で震えるスマホ。
「昨日の男だ」俺は安心する。彼が電話をかけてくる用件は謝罪の他ないからだ。
「…ハンズフリーにするんだ。一応録音しておこう」
 大家は未だ疑っているようだ。
 ただ黙って従い電話に出る。
「もしもし」
「昨日の子だよね。その時はほんとうにすまなかった。ウチの嫁が急に倒れてしまってね」
「大丈夫なんですか」
「うん、もう大丈夫だ。それより、チケットを返すから。よければ明日、昨日と同じコンビニに来てくれないかな」
「良いですけど。奥さん、本当に大丈夫なんですか」
「本当に大丈夫さ。優しいね、悪いのはこっちなのに」
「仕方ない事ですよ。それより、明日は何時に向かえばよろしいですか?」
「そうだね。明日の13時でいいかな」
「分かりました。ではまた明日」
 そこで電話を切った。
 なんだ。全て杞憂じゃないか。
「これが真相だよ。そうそう悪人なんていないんだ、電話番号だってもしもの為に教えてくれていたんだよ」
「本当でしょうか」話を聞いていた狸は首を傾げる。
「一応俺もついていくよ」大家が言う。
 二人とも、やけに慎重じゃないか。だが、俺達は悪意ある人間に被害を受けることが続いていて、敏感になっているのかもしれない。
 もしくは、単純に俺の事が信用できないのだろうか。そう思うと不服だった。
 だが、周りに世話をかけている事実がある以上何も言い返せない。
 それにしても、何か。何かが違和感を引き起こした。確か、着信に応答して、相手の声を聴いて、直ぐの事だった。筈だ。
 分からない。
 俺も考えすぎだろうか。


 目的のコンビニには予定より数分早く着いた。道中、大家から小言を貰ったが、軽く聞き流した。
 改めて周囲の環境を見ると、大家の言う通り、監視カメラもあるし、自動車の入れ替わりは多く、人の目もまた多い。
 これなら、騙されていたとしても、不安に思うことは無かったのかもしれない。
「ごめん、来てたんだね」
 男は相変わらずカチコチの笑顔を見せる。
「いえ、今着いたばかりですよ」
「はいこれ」
「あ、ありがとうございます」
 男は俺より先に到着していたらしい。コンビニ袋から、ホットの缶コーヒーを取り出し、俺に譲ってくれた。
 コーヒーを握るその腕には金色に光る腕時計が巻かれていた。そういえば昨日も同じ腕時計を巻いていた。
「それより奥さんは大丈夫なんですか」
「ああ。その件は申し訳なかった。胃腸が弱い妻でね、ちょっとした事で体内の環境が崩れて日常生活が覚束なくなるんだ。今回も大事には至ってないんだけどね。今回のライブに参加するのは難しそうだ。まあどのみちチケットは売り切れてたみたいだけども」
「奥さんの為だったんですね」聞いていて、胸が苦しくなった。
「ああ、いい年してアイドルに夢中なんだ。あまり人には言いづらくてね、先日も君にははっきり言えなかったな」
「いえ、気になさらないでください」
「君は本当に良い人だ。またどこかで会いたいね」
「ありがとうございます。また連絡ください」
 俺が微笑むと、男は再び笑う。
「佐々木だ。じゃあこれ」
 彼は佐々木と名乗り、封筒を差し出す。俺はそれを受け取り「古畑です」と名乗る。
 佐々木さんは、古畑君だね、と小声で反復しながら踵を返し颯爽と立ち去っていく。その後ろ姿を交差点の向こうで見えなくなるまで見送った。
 君は本当に良い人だ。佐々木さんの言葉を思い返した。
 やはり大家と狸は悪い方向へ考えすぎなのだ、改めてそう思う。
 そして俺は、封筒の口を開き中身を掴む。指先で少し硬い紙質を感じる。丁寧に引き出すと、見慣れた男の顔が書かれた紙が現れた。
「千円札?」俺は思わず声に出す。
 どういうことだろうか。佐々木さんは何か勘違いしているのだろうか。それとも、俺が勘違いしているのか?
 状況が判然としないまま俺はコンビニを離れ、佐々木さんの行く先へ足を運ぶ。
 公道へ出て、周囲を見渡すが佐々木さんの姿はもうない。
 ここで初めて、否な予感が生まれた。
「どうなった?」
 背後から突然声をかけられる。
 大家だ。
「チケットではなくて、これが入ってたんだよ」
 俺が千円札を見せると、大家は小さくため息をついた。
「なるほどね。まんまと騙されたという訳だな」
「そんな」やっぱり、そうなのか。
「まさか、何かの間違いだと思ってるんじゃないよな?完全に騙されてるんだよ」
「…信じたくない」
 青天の霹靂という訳ではなかった。
 それでも、驚きは隠せない。
「分かっているとは思うが、この千円札は武士の情けではないからな」
「なに?一体、あの男は何がしたいんだ?」
 驚きはいつしか怒りに変わっていた。佐々木さんが、佐々木が、あの男が憎い。
「いわば、証拠隠滅だよ。古畑が昨日このコンビニでチケットを発券したことは、店員も覚えているだろうし、あちこちに設置してある監視カメラがはっきり捉えている。もし君が訴訟でもすれば、佐々木に勝ち目はない」
 それはそうだし、現在は違うというのか。
「だが、佐々木は、今日、古畑にその対価として千円札を渡したんだ。当然、古畑がそう認識していなくても、監視カメラには古畑が対価を受け取った瞬間がはっきりと記録されている。もしかすると、レジの前に立っている店員や、利用客だって目撃しているかもしれない。つまりこれが窃盗ではない証拠を後付けされたわけだ」
「対価なんて、俺が認めるわけないだろう」
「だから、古畑が認識しているかどうかなんて関係ないんだ。君は封筒の中身を確認して、ゆっくりとここまで歩いてきただろう。つまり、カメラが捉えた映像では、君がチケットの対価を佐々木から受け取り、満足して立ち去る様子になるんだよ。だから君が佐々木を糾弾したところで認めてもらう事などできない訳だよ」
 なんてことだ。
「何故佐々木が立ち去る前に封筒の中身を確認しなかった?」
「騙されたんだ」
 あの笑顔に。
 今では憎悪しか生まれない笑顔だ。
「あの場で確認するのは失礼だと思ったんだよ。ほら貰ったお年玉袋の中身を親戚の前で確認しないのと同じだ」
「まあ君らしい理由だ。佐々木の一連の行動はリスクのある手段だ。だがそれに勝るリターンが、それだけの価値があのチケットにはある。君の性格や人柄を瞬時にみぬき、成功すると確信したのなら、佐々木は中々の手練れだと思うよ」
「もう無理だ」
 怒りよりも、失望が大きくなっていた。
 なんだか、足が覚束ないような。地が揺れているような感覚だ。
「諦めるのはまだ早い。とりあえずそこのファミレスに行こうじゃないか」




 和気藹々と食事する気分ではないが、大家と別れて一人になってしまえば自己嫌悪で居た堪れなくなくなることも想像できたので、俺はファミレスで過ごすことにした。
 そして俺達がファミレスの席に着いて間もなく、彼は現れた。
 大きく心眼と文字が染められている鉢巻を目の周りに巻いた男。犬飼だ。
 初対面時に彼が忘れていた魔法の杖もしっかり携えていた。突然の登場だったので、初対面時と同じほど、面食らった。 
 犬飼がファミレスに登場し、大家に続いて俺も続けて挨拶をすると、犬飼は「ああ、古畑君も来ていたのか」と言った。彼は鉢巻を巻いているが、実は透けて見えているんじゃないかと疑っていた。しかし今の反応を見ると、どうやら本当に見えていないらしい。
 という事は、本当に湖南と同じ超能力者なんだろうか。
「じゃあ早速本題なんだが」そう言って俺のカバンを手に取り、小さなポケットに手を突っ込む。
「何やってんだ」
 大家は返事をせず、ポケットから昨日録音の時に使った機械を取り出した。
「何でそれがあるんだ」
「古畑に直接渡しても受け取らないだろうから、コンビニに到着する前に忍ばせてもらったよ。古畑の事だから、佐々木さんを裏切るようなことは出来ない、とか言って受け取らないだろ」
 確かにその通りだが、不服である。
 今の状況も相まって非常に不愉快だった。また、怒りが込み上げてきた。
「そこでだ。音声の取り扱いに長けた、犬飼にも協力してもらう為、わざわざ来てもらった。感謝するんだな」
 一方的である。俺の為である事は理解できなくもない。ただ今は理性的に考えられない。
「好きなようにすればいいだろ」俺は突き放すように言った。その態度が、大家の怒りに触れた。
「勝手に録音されたことを気にしているのか」
「してない」そう言うつつも語気は荒くなる。
「してるじゃないか。気持ちは分からないでもないが、落ち着いて合理的に考えてくれないか。録音が有用だってことくらいわかるだろ」
「わかってるよ」
 分かってはいるが。
「すまない。古畑君。君と師匠の為なんだ。気を納めてくれないか」犬飼がいさめてくる
「ああ、大丈夫だ」
 これでは拗ねた子供だ。怒りは落ち着いてはいないが、黙っておくことにした。

 大家はボイスレコーダーを弄り始める。早送りで何でもない雑音を飛ばしていき、「このあたりだな」と言ってレコーダーを机に置いた。
―――待たせたかな
 佐々木の声が再生され、つい先ほどの忌々しい記憶がよみがえる。こんな精神状態で聞いていられるんだろうか。
―――いえ、今着いたばかりですよ
―――良かった。何かごち
 そこで、大家は再生を止める。
 そして大きくため息をついて、「嘘だろう」と呟いた。
「どうしたんだ」
「本当に気づいていないのか」大家が嫌味たっぷりに言う。
 そして、再びレコーダーを弄り始める。
「佐々木からかかってきた電話の音源だ」そう言って、レコーダーを置く。
―――昨日の子だよね。その時はほんとうにすまなかった。
 まだ記憶に新しい佐々木の言葉。
 そしてすぐに、分かった。
「声が、違う」
「やっと分かったか。」
 別人の声だ。
 何でこんな単純な事に気づかないんだ。ますます自分が愚かに思える。
 いや、違和感なら何度か感じていた。
 電話を受けた時、コンビニで再会した時。機会は何度もあったというのに。俺はみすみす逃し続けた。
 その事実を知り、怒りと失望が相まって胃の中に重く温い物が溜まっていくような、気持ちの悪い感じがする。
 それはあっという間に消化され、全身の緊張に繋がっていく。
「俺はお前達と違って、普通の人間なんだ」
 そして八つ当たりという最悪の形に変わってしまう。
「それ以前の問題だ。お前はあいつを信じすぎなんだ。安心することが想像力を、視る力を鈍らせているんだ。疑えとは言わない。想定しろ、想定して対策して行動するんだ。おそらくあいつはお前の人間性を瞬時に判断し、ここまで行動している」
「なんでだ。なんでそこまで言われなければいけない」
「何度も同じことを言わせるな。犬飼だって古畑と同じお人好しだが、騙されることはない。お前と違って、視る力があるからだ」
 いい加減にしろ。そう叫ぶ前に、身体が動いた。俺は思い切りテーブルを叩き鈍い音が店内に響く。思いの外大きな音がして、店中の視線が集まるが、気にせず自然と言葉が出る。
「俺が大家みたいに何でも分かる人間だと思うなよ。犬飼だって、そんな目隠しをして、何の能力もない俺を見下してるんだろう。特別な眼を持った人間はいいよな。そうやって目隠しをしても不自由なく生活できるんだから。俺はもう、何も見たくないのにな」
 俺が声を荒げると、大家が眉間にしわを寄せ、極めて不愉快だと顔で表現する。それに気づいた時。俺はすでに服の襟を掴まれていた。
「もう一遍馬鹿にしてみろ」
「馬鹿にしてるのはどっちだ」
「犬飼の障害を馬鹿にするなんて俺は絶対に許さないからな」
 …なんだって?
 滅茶苦茶に転がり回っていた負の思考が、急ブレーキをかけるように止まった。
「障害?なんだそれは」
 心底、理解が出来なかった。
「失明のことだ」
「しつめい?」どういうことだ。
 俺が当惑する様子を察して、大家は手を放した。
 そして「なんだ?」と目を細める。
「本当に、知らないんじゃないか」犬飼が呟く。
「そうだったっけか」大家は頭を掻く。
 俺はいま一つ、話についていけない。
「犬飼は、湖南と同じ目を持っているって聞いていて」
「それは、話が昏迷しているんだろう。犬飼の能力と、目の障害の事がだ。湖南も元は目に障害を持っていたから、尚更話がややこしくなって、湖南にはそういう形で話が届いたんだろう」
「じゃあ、この間の、なんというか人並み外れた行動は何だったんだ。引ったくり犯を予知したり、俺が陸上経験者だって分かったり」
「ああ。あれはね、音を聞いていたんだよ。目が見えない分、耳が良くてね、雑踏の中でまぎれた音も細かく察知できるんだ」犬飼が代わりに答える。
「女の人の小さく漏れた声。信号は赤の筈なのに、車道を渡ってくる駆け足の音。完全に異常事態だと判断できた。そして、君の足音も聞いた。あと、君が陸上経験者とまでは分からなかったけど、走るのが得意なのは何となく分かったよ。古畑君は足音が小さいからね、下腿の筋力が発達している証拠で、走るのが得意なんだろうと思ったんだ」
「そんな。じゃあ、魔法の杖は?この間忘れて言ったっていう」
「魔法の杖?もしかして白杖のことかな」犬飼はそう言って、携えていた杖を差し出す。
「古畑、お前、これを見た事ないのか?」
 そういわれると、見覚えがある。気がする。
「ほら、僕と同じ、視力障害の人が地面に触れながら歩いているところ。見た事ないかな」
「…ある」
 なんということだろうか。
 言われてみれば、どうと言う事は無い。
「申し訳ない」俺は頭を下げた。
「知らなかったとはいえ、失礼な事を言ってしまった。大家も、取り乱してしまってすまない」そう言って再び頭を下げる。
「気にしないでいいよ」犬飼は言う。
「まあ。俺も言い過ぎたよ。しかし、古畑は変な想像力はあるみたいで、感心したよ」そう言って、大家は笑い始めた。
「古畑君は、最近師匠の超能力を目の当たりにしたらしいじゃないか。その影響もあるんだろう」
「犬飼の言う通り、湖南という存在が犬飼をも、超能力者に見せていたのかもしれないな。」
 何かに慣れるというのも、安心の一つ、大家の言う通り視力を鈍らせていたのだろう。
 大家の何気ない言葉だったが、俺への思い遣りの様にも感じた。
 いつしか全身の緊張は収まっていた。
「じゃあ。ここらへんで話を本題に戻そうか」
「さっきの録音だね。それぞれ全部聞かせてもらえるかな」
 大家は再生を始める。
 犬飼が顎に手を当てる。
「これは声を変えてるだけだね。話しているのは同一人物。佐々木という男だ。言葉の流暢さや、抑揚から考えて間違いないだろう」
「そうか」大家が頷く。
「だけど、問題の本質は明日の本番までにチケットを取り戻す事だったね」
「ああ、あの男にもう一度会うには、会場で奴がチケットを捌いている所を抑えるしかない。今はネット上でのチケット売買は特に厳しいからな。会場で手売りするだろう」
「なるほど」そういう考えだったのか。
 以前、あるミュージシャンのライブに参加した際、チケットを売りさばいている胡散臭い中年男達を見かけた事を思い出した。今回、佐々木もそこに現れるというわけか。
「つまり、佐々木のチケットを返すと約束した発言が録音されていることを会場で佐々木に突きつければいいわけだな?」俺は自信をもって言う。
「駄目だ。声を変えてある本質を理解してないな」
「どういうことだよ」
「古畑が佐々木に録音を突きつけたとする。おそらく奴は、古畑のでっち上げた証拠だと主張するだろう。実際はコンビニに集合してお金を渡すとだけ電話で約束した、その録音は俺達がねつ造したと、主張するはずだ」
 なるほど。だが、録音はもう一つ証拠になる物があるじゃないか。
「録音の記録時間はどうだ?それをみて実際の時間が分かるだろう」
「それこそ幾らでも捏造できる。分かっただろう、録音は証拠能力が弱いんだよ。だからこそ、古畑には慎重に動いてほしかったんだが。まあそんなこと言っても仕方ない」
「すまない」全くその通りである。
 俺達がああでもないこうでもないといってる間、犬飼は録音を繰り返し聞いていた。
 聞き終えた犬飼は機械を置く。
「一つ案がある」



 ライブ当日。
 会場に駐車している湖南の外国車の運転席には狸が座っていて、湖南は後部座席でふんぞり返っている。
「では、期待してお待ちしますよ」
「ありがとう」
 俺達はライブ会場の外へ向かう。
 会場敷地外の直ぐ傍にある歩道。
 そこは転売屋達のホットスポットだ。
 そこでチケットを求める人も多く、それらしき様子の人が見受けられる。
「まだ先取りされてないだろうか」
「案ずるより、探した方が良いよ。悪いけど僕にはできない事だ」
 犬飼は言った。
「そうだな。しかし、なんでサングラスなんだ」
 俺は犬飼が鉢巻の代わりにサングラスをかけていることを指摘する。
「これは勝負の時の衣装だ。普段の鉢巻は修行中の格好だ」
 理解に苦しむ話である。だが今は深く追求しないでおいた。
 そのとき電話が鳴った。
「大家か」
「佐々木を見つけた。門の西側だ、分かるか?門を出て左だ。すぐに向かってくれ」
「分かったすぐにいく」
「俺はいったん退くからな」
 流石、仕事が早い。しかし、どういう訳か昨日から大家は俺達と行動をしない。
 何か考えがあるようだが。
「いた」
 間違いない、あの佐々木だ。
 まっすぐ彼のもとへ足を向ける。
「やはり、ここに来ましたか」大家の手柄をわが物のようにして、俺はハッタリをしかける。
 佐々木は目を細める。昨日までの穏やかな表情とは正反対である。
「チケット、お買い求めかな?」
 シラを切るつもりだろうか
「佐々木さん、チケットを取り戻しに来ました」
 俺が言うと、佐々木は笑顔を見せる。
「冷やかしなら帰ってもらえるかな」
「実は、昨日までの会話は全て録音しているんですよ。つまり、証拠は揃っているんです」
 俺がレコーダーを取り出すと、佐々木の表情が再び険しくなる、しかしすぐにほぐれる。表情の激しい変化が著しく不気味だった。
「録音?よく分からないけど、それがどうしたのかな?」
「まあ聞いてみてくださいよ」
 俺はレコーダーを渡す。
 佐々木は素直に手に取る。
 しかし、すぐに異変に気づく。
 レコーダーは録音を開始していることに。
「なにこれ、録音が始まってるけど」
 そして佐々木はすぐにボタンを押して録音を止めた。
「もしかして今日のやり取りを証拠にしようと思った?確かに昨日までの会話を録音しても、何の証拠にもならないからね。でも残念、今日も証拠にならない会話だけだったね」
 そう言って俺にレコーダーを渡す。
「いえ、これで大丈夫ですよ。会話を証拠にするつもりなら、わざわざ貴方にレコーダーを渡したりしません。貴方に、これを手に取ってもらう事が目的だったんです」
「どういうことかな」
「貴方の言う通り、昨日までの会話は声が変えられていて役に立ちません。しかし、加工されても影響のない別の音が録音されていたんですよ」代わって犬飼が話始める。
 佐々木は何も言わなかったが、明らかに不穏な様子を見せる。
「腕時計の音です。貴方の電話を録音した時に、腕時計の針や歯車だったりが動く音が入り込んでいるんですよ」
「変わった冗談を言うね」
「冗談ではありませんよ」
「先日、貴方が古畑君に電話をかけた際、腕時計を巻いた腕で、携帯電話を握っていた。だから腕時計の音が電話を通して録音されてしまった。そしていま、貴方は腕時計を巻いた腕で録音機を握った。それにより、腕時計の音は確かに録音されたんです」
「腕時計の音が証拠になるとでも?」
「なります。同じ型番の時計でも、音には個性があるんです。針の回る音。針を支える柱と文字盤の擦れる音。歯車の噛み合う音。細かなパーツから生まれる音にはそれぞれ長短、高低、リズムの違いがあります。一定なのは、針の動く速さだけなんですよ。そしてこれらは音声の高低をいじるだけでは、誤魔化しようがないのです」
「…そんな馬鹿な」
「もう一度言いますが冗談ではありません。実際に時計の音が証拠になり犯罪が立証された例もあるんですよ。だから、録音された携帯電話での貴方の言葉が本物であると証明できる。つまり、我々は昨日までの貴方の言動が全て、古畑君を騙す為だった事が、証明できるんです」犬飼は明快に言い切った。
 佐々木は表情を変えず、結んだ口をゆっくり解いた。
 レコーダーに記録された時計の音は、俺の耳では聞き取れず、本当にあるのか半信半疑だった。しかし、大家のPCで記録された腕時計の音を拡大して聞き、更にPCの画面で音声を波形として可視化してもらった事で、俺はその存在を初めて認識できた。
 そしてついに、佐々木の肉声と腕時計を結びつけた。俺は、やっと安心する事が出来た。
 佐々木は、ふうと溜息をついた。
「…すごいね。君が思いついたのかい?」
「まあ、一応」今なお、余裕な様子をみせる佐々木に対して、犬飼は警戒するように小さな声で返す。
「やっぱり、僕の見る目に間違いはなかったようだ。サングラスの子は中々鋭いようだが、古畑君だったかな。君は思った通り、かなり鈍い人間みたいだね」そう言って、彼は腕時計を見せつける様に、腕を差し出す。
「昨日まで僕が着けていた腕時計を覚えてる?」
 腕時計。そういえば。
 彼が頭を掻いていたときに強い印象を覚えた時計は、金色だった。
 今、彼が巻いているのは銀色だった。
「腕時計の音とは、思いつかなかったなあ。これから用心するよ。いい経験になった、ありがとう」
 佐々木は嫌味たっぷりに言った。
「本当に、腕時計が違うのかい?」
「ああ、こんなことに気がつかないなんて」
 こんな時まで鈍っているなんて。いや、最初から俺には何も見えていないのかもしれない。
 あまりのショックで、平衡感覚を奪われたような、姿勢の保持がおぼつかないような感覚に襲われる。
 
「すみません。チケット余ってますか?」
 俺が絶望していると、他の客が声をかけてきた。
「ほら、もう帰ってもらえるかな」
 佐々木が手で払う様子を見せる。いや、それよりも。
 新しく現れた客は。大家だった。
「行こう。古畑君」
 俺が、何かを話す前に。
 遮る様に犬飼は言った。
 
「すまない古畑君。あの距離と騒音では、腕時計の音は聞き取れないから別物だとは分からなかった」
「いや、謝るのは俺の方だ」
 そうだ、犬飼が気に病む事など何もない。
 満を持して現れた大家。何をするつもりなのだろうか。



 
「ほら、チケットだ。まったく世話が焼けるなあ」
 大家は現れるなり、手にした物を俺に差し出した。
 先程のショックでまだ気持ちの整理がついていないため、状況がよく分からず受け取る。
 そして、実際にそれを確認した時。一瞬で現実に戻された感じがした。
「え、なんでだ?」
 声の抑制ができず、そぐわない大きなボリュームで声が出る。
「これ、湖南のチケットじゃないか。まさか、買ったのか?」
「そんな訳ないだろ。さて」
 そう言って大家はスマホを取り出す。
「先程の者ですが」
「さっきのチケット確認してもらっていいですか」
「はい。実はそれ偽物なんですよ。入れ替えさせてもらいました」
 時々、佐々木の声が漏れてくる。
「まあ、貴方に盗人呼ばわりされる筋合いはありませんよ。では」
 何の会話だろうか。俺は全く分からない。あまり愉快な内容とは思えないが。
「もしかして、さっきの男に電話してたのかい?」犬飼が問う。
「さすが、鋭いな」
 どういうことだろうか。「よく分からないから、説明してくれないか」
「そうだなあ。今、佐々木からチケットを盗んできた。それを佐々木に伝えたのさ」
「盗んだ?それを伝えた?」なんだそれは
「まあ、厳密には取り返しただな。ざっと説明しておくよ」
 彼の話はこうだ。
 大家は佐々木にチケットを買いたいといい、なるべく良い席のチケットを見せてもらう様に言った。
 彼からチケットを数枚渡され、湖南のチケットを確認した時、大家はチケットを誤って落とした。振りをした。
 そして落ちたチケットを佐々木に渡し、お金を用意しますので待っててください。そう言って、電話番号まで伝えたらしい。
 だが佐々木の手に戻ったそれは、大家のチケットではなかったのだ。
 佐々木が手にしたのは、俺が湖南のチケットを発券した時に撮った写真を元に、大家が作りあげた偽物だったのだ。ちなみに不正利用ができないよう、良く見れば全くの別物に仕上げているらしい。
 そして今、電話をかけ、真実を告げたのだ。
「湖南からチケットの写真を貰って複製に使ったんだ」
 俺が撮ったチケットの写真を湖南に送っていたので、それを使ったらしい。
 とにかく見事である。最後まで俺はヘマを続けてしまった。
「俺は何の役にも立たなかったな」
「そうでもないさ。さっきも言ったが、偽物のチケットは細部にはこだわっていないから、よく見ればすぐわかる様になっている。だが、奴がそれに気づかなかったのは、古畑の行動が平常心を奪ったんだろう」
「そうなのかな」
「きっとそうだよ。あの男もまた、視る力を失ってしまったんだな」犬飼が笑いながら言って、優しく背中を押してくれた。
「じゃあ、さっさと湖南に渡してくるんだな」
「ああ、ありがとう」
 最後に大家は手を振った。



 湖南一族のビルで俺は犬飼と会った。
 ライブ会場以来だったので、俺はすぐにお礼を言った。
「そういえば、何であの日はサングラスだったんだ?」
「ああ。少し話したけど、あれは師匠からの助言でね。以前は普通にサングラスで目を隠していたんだけどさ。それでは周囲に舐められるからと、この鉢巻を渡されたんだ」
「この鉢巻がどんなデザインかは想像しかできないけど、これを巻いた途端、周りの反応が一変したよ。みんな足を止めてるのがよく分かる。杖とサングラスの時は、周りが煙たがったり、見て見ぬふりをする反応だった。それは悪く言えば孤独で、良く言えば不要な関わりを避ける口実になって、そこに甘んじてる所もあった。でもこの鉢巻をしたら、みんなの視線が集まるのが分かるようになってさ。良くも悪くも人との関わりができるようになって、大きく世界が変わったんだ。そこまで、計算ずくだったのかは知らないけど。これは良い修行だと思った。だから普段は鉢巻を巻く。勝負の時は、普通の人間の振りをして勝負に挑むんだ」
「なるほど」
「修行といえば、大家君もチケットを取り返す練習をしてたんだ」
「練習?」
「ほら、チケットを落として、偽物のチケットを渡す練習さ」
「実際は死角になる位置で上着の袖からチケットを入れ替えるんだけど、手品みたいなものだからさ。ある程度練習が必要なんだ。僕が相手になってさ、とはいえ練習が巧くいっているのかどうか、見えないからよく分からないけどね。勧善懲悪だからとか、誤魔化してたけど、古畑君に黙っていたのは照れ隠しだろうね」
「あいつらしいな」そう言いながら、目の奥が熱くなる感じがした。
「あと、古畑君に借りがあるから、とか言ってたけど」
 そう言えば、以前、街で空き巣犯に出くわした時も、あいつはそんなことを言っていた。
「その話、何というかあまり思い出せないんだよ。何というか、記憶喪失というのかな」
 俺が言うと、犬飼は口をへの字に曲げた。
「人間、そうそう記憶喪失はしない筈だよ。恐らく、記憶を抑圧してるんじゃないかな。僕たちの年代で偶にあるみたいだけど。もしかしたら、君にとって嫌な思い出が混じっているのかもしれないね」
「そういうものなのか」
 それ以降、犬飼は話を止めた。気を遣っているのかもしれない。なんだか申し訳ない気がして、適当な言葉を探す。
「この部屋、やけに暑いな。暖房を利かせすぎじゃないか」本当に適当な言葉が出た。
 すると、犬飼は、確かにと言い、片手間で分解していた腕時計の歯車を手に取る。
「僕は灯油ストーブ派なんだ」
 犬飼は歯車を磨きながら語る。
8, 7

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