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蜘蛛

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 なりたい職業ランキングで殺し屋が一位を取る事は一生ないだろう。
 理由はどうあれ、人を殺したい人なんてそういない。
 更に代えのきく職業である。人殺しなんて今流行りのAIとかの方が、よっぽど向いている。
 それでも私はその仕事、殺し屋を生業にしている。理由は簡単、この仕事が好きで誇りを持っているからだ。
 単純に人の命を奪う事も好きだし、高い報酬をいただくのも好きだ。
 ただ一番好きなのは。
 命のやり取りという極限状態で依頼者やターゲットなどが見せる人間の本質。表も裏もない本当の姿。それに触れるのが何より好きだった。
 それと同じ位好きな事がもう一つある。

 私はビルの屋上に立ち、発展した街並みの夜景を眺める。
 良い夜景だ。一仕事終えた後、屋上に上り鼻歌を歌ってぼんやりと光の散らばる景色を眺める事が最高に好きなのだ。
 この街の滞在期間もだいぶ長くなってしまった。
 魅力ある、夜景が私の足を引き留めているのだろうか。

 どのみち、今回の仕事もあと少しで終わりだ。
 ビルの隙間を住処とする蜘蛛女として、恥の無い仕事をやり遂げようと改めて覚悟を決める。
 


 普通の人と出会いたい。そう考えるようになったのはいつからだっただろうか。
 大家、湖南、犬飼、胴田貫。
 大学に入学してから、俺の周りには曲者が揃っているじゃないか。
 別にそれが悪い事だとは思わないけれども、曲者だけでは身がもたない。やはり普通の人と出会いたい。
 だが類は友を呼ぶと言うから、そもそも俺はその類なのかもしれない。
 もしそうなら、普通の人と出会い、仲間になるのは絶望的じゃあないか。
 いや。以前の俺は。もっと普通の人に囲まれていた。なら、俺は何かのきっかけを境に普通の人間ではなくなったのではないだろうか。そう思えてくる。
 ではそのきっかけは何か。分からない。分からないのならそれは、俺が忘れている、入学当時の出来事なのではないだろうか。これまで大家を主にして何度となく仄めかされてきた、出来事なのではないだろうか。
 しかし。普通とは何なのだろうか。何を持って普通と言うのだろうか。
 一度考えを巡らし始めると、とことん広げてしまう。
 ランニングの最中はいつもこうだ。みんなそうではないのか?
 俺は夜のビル街を走っていた。
 ランニングは俺にとって一番の趣味で、月300kmランナーだ。要するにジョギングや公式レースなどを含み、必ず毎月300km以上走るのである。この間見たテレビでiPS細胞を発見した山中教授も月300kmを走るランナーである言っていた。あんな偉大な人物に親近感が湧いて、大層気分が良いものだ。
 このため、最近はますます気合が入っている。
 更にイヤホンでHOWEVERを聞いていると、夜空を見上げ、両腕を仰いでしまう。そう、TERUの真似をしたくてたまらなくなるのだ。
 そんなことをしていると、近くで誰かが呻くような声が聞こえた。気がした。
 辺りを見やるが、特に変わった様子はない。曲中にある何らかの音が、人の呻き声に錯覚したのだろう。安心して、俺は再び空を仰ぐ。その途端、俺は何かに衝突した。
 俺は大きく姿勢を崩し、視界が一気にぶれる。慌てて、標識の柱を掴み事なきを得た。
 一体何が起きた?俺はイヤホンを外し息を落ち着かせながら、衝突した場所を振り返る。
 そこには、一人の女性が横向きに倒れていた。
「イタタ」
 彼女は上体を起こし、腰を擦った。乱れた長い髪が目立つ。
「大丈夫ですか」俺は咄嗟に手を差し出す。
 それに応じて彼女も俺の手を握る。
 酷い目に合わせて申し訳ない、その気持ちは彼女と目が合った瞬間消し飛び俺の中にときめきが溢れ出した。


 
 俺は突如現れた少女を連れ丁度、近場だった湖南の部屋に押し入る。
 この部屋について解説しておくと、ここは湖南の祖父が所有するビルに隣接していて、以前は事務所の一室である。驚くことに、ビルを所有しているだけあり当の祖父は某総合企業の会長で、一族で会社を経営している。
 総合企業の名の通り業務の内容は幅広く。常に時代の流れを読み、現在は第4次産業まで手を伸ばすほどに流動的な経営をしている大企業だ。
 そんな御曹司の湖南と、同じ学び舎に通っている事は驚きである。とはいっても、彼女とは学部の偏差値がまるで違うので、比較にならないのだが。ついでにいうと、大家も俺と同じ大学である事にコンプレックスを抱えているような発言をしているが、彼の在籍する学科とも天地の差がある。
 少し話が逸れたが、その大層な出自を持つ湖南は今、大層怖い顔を俺に向けている。
「どこを怪我したっていうんだ?」湖南は不機嫌な様子を浮かべる。
「怪我をしたのは俺じゃないよ」
 湖南が俺を睨み付けて言うものだから、そう答えてしまう。
「こちらのお嬢さんですよ。ここの近くでランニングをしていた古畑君と衝突してしまいましてね。右の足首を軽く捻ったようですよ」嫌な気配でも感じたのか、狸こと、胴田貫が代わりに答える。
「そうか、そのお嬢さんがなんでここにいるのかな?」
「狸さんが言っただろ?近かったからさ」俺は正直に答える。
 ひどくバッシングを受けるだろうと覚悟していたが、湖南は眉間に寄せた皺を緩めて「そうか」といい、椅子に腰を下ろした。
 俺と狸はつい目を合わせる。
 拍子抜けだ。
「あの、何だか。お邪魔してしまって申し訳ありません。湖南さんと古畑さん。でしたよね?」
「ああ、そんな事無いですよ。ええと」
「中瀬です」
「中瀬さん。改めてすみませんでした。つい夢中でランニングしていて、前方不注意で」
「いや、本当に大丈夫ですから。気にしないでください。こんな治療もしてもらって」
「応急処置ですから、ぜひ病院でみてもらってください」狸が答える。
「ありがとうございます」
「しかし、街角で年頃の男女が身をぶつけ合うだなんて。運命的ですねえ」狸はしみじみ言う。
「なんてこというんだ」俺は思わず否定の声を挙げる。が、逆効果であることに気づき妙に恥ずかしい気分になる。ふと中瀬さんを見ると、俯いていて、俺と同じく恥ずかしがっているようにも見える。
「はっ」
 湖南の声が割って入る。
「聞くに堪えない。なんて刺激の足りない掛け合いだろうか!普通だ、普通。普通の会話だ」
「何だよ急に」
「普通者同士、気が合うみたいだな」
「ふつうものってなんだよ」
「普通は普通だと言っている。特に娘。ビルの隙間で何をしているのか知らないし、興味もないが、そんな事をしたところで、普通は普通だ」
「もはや何を言ってるのか分からないぞ」
 分からないが、あまり気分は良くないのだろう。しかし隙間とは、何だろうか。
 湖南に何が見えているのか。
「カカシも見惚れてるんじゃあない、助平め。そんなに隙間女の髪が綺麗かね」
「な、なんてことを言うんだ」
 お得意の透視能力で完全に見透かされている。分かりやすく動揺してしまう。
 しかし隙間女とは一体何なのか、あまりいい響きではない。
 なにか、おかしいですね。と狸さんが呟いた。一瞬その言葉の意味は分からなかったが。
「確かに、何で透視できているんだ?心拍数が上がっているのか」
「うるさいぞ。何様なんだ?カカシが汗臭いから息を止めているんだ。酸素欠乏症で心臓が暴れているんだよ」
「なんだよそれは、本当は違うんじゃないか?」
「それ以上言うな」湖南は例に無いほど声を荒げた。
 場が静まる。
 駄目ですよ。と狸さんが呟く。確かにデリカシーが足りない。
「すまなかった」
 俺が謝ると、ふんと鼻を鳴らし、「まあ。ゆっくりするがいい」と吐き捨てる。
「とにかく、年頃の女性を気安く連れ込むのは感心出来ないからな。ちゃんと送ってやるんだぞ」
 なんなんだ。情緒不安定すぎないか。
 しかし、言われてみれば湖南の言う通りで、状況がどうあれ初対面の異性を見知らぬ場所に連れ込むのは穏やかな事ではない。
 俺も中瀬さんも、少し日常離れした出来事に、冷静な判断をとれなくなっていたのかもしれない。
「すみませんでした」もう一度中瀬さんへ謝る。
「いえ」中瀬さんは控えめに返事をする。
「そうだ。犬飼もついでに見送りに行けばいいじゃないか。カカシの見張りだ」
 犬飼も居たのか。しかし、俺の見張りとは。
「やあ。なにやら不穏な空気だったんで潜んでいたんだが」
 奥の部屋の扉が開き、犬飼が姿を見せる。
「割と穏やかだったよ。というより、こっちに非があるから何も言えないね」
「古畑君も慣れたもんだね」そう言って犬飼は笑った。
「ああ。そうだ、こちらは犬飼だ」
 俺が中瀬さんに紹介すると、彼女は明らかに驚いた様子を見せる。
 一瞬、彼女の様子が理解できなかったが、犬飼が目隠しとして巻いている心眼鉢巻を見ての反応なのだと分かった。
「この目隠しは何というか、いろいろ事情があってさ」
 俺が気を遣っているのを察して、犬飼が俺の言葉を制する。
「僕は目が見えなくてさ、目隠しとしてこの鉢巻を巻いてるんだ」
「そうだったんですね。無礼な事を、すみません」
 彼女は心底申し訳なさそうな顔をする。
「いい子じゃないか」犬飼は俺に卑しい声で耳打ちする。
 みんな揃って、なんだというのか。



「夜遅くなってしまって申し訳ない。俺達のことが不安だったら、タクシー代払うけど」
「大丈夫ですよ」中瀬さんはぽつりと言う。
「古畑さんも、犬飼さんも良い人そうですし」
 あまり感情の籠ってない様子だったが、変に照れくさい。
「あはは。簡単に人を信用してはいけないよ。表があれば裏があるって言うだろう」
 何故、犬飼は不安にさせるようなことを言うのだろうか。
「それ分かります。私の場合は裏の方が大きいから」
「何ですかそれ」俺は訊ねる。
「人の表裏って、硬貨みたいに表裏一体じゃなくて。表と裏で距離があったり大きさが違ったりすることがあると思うんですよ。裏表のない人もいれば、良くも悪くも別人のように変わる人もいる」
「じゃあ、中瀬さんは後者ですか?」
「はい。私は、豹変するとかそんなことは無いです。いや、もしかしたらあるかもしれませんが」たどたどしく話を進める。「ただ、隠しているつもりはないですけど。友達とか、親しい人にも、秘密にしている。私の裏の部分がありますよ」
 そう言って中瀬さんは鞄の紐を握る。
「なるほど」何と応えたものか。
 結局、中瀬さんは裏の部分が何なのか語らなかった。
 ここまで、慌ただしくしてきた為に忘れていたが。
 あのとき中瀬さんはどこから現れたのか。その大きな謎を忘れていたのだ。
 中瀬さんに衝突した時、俺は一瞬空を見上げた。だがその直前には確実に誰も居なかったのだ。あの通りの、俺の正面には、人も物も無かった。だからこそ俺は安心し、気ままに空を仰ぐことができた。
 彼女と衝突したのは、曲がり角でもないし、建物の出入り口でも、車から降りてこれる場所でもない。
 やはり突然現れたのだ。
 この謎の正体は、中瀬さんの秘密とやらに関係しているのかもしれない。

「そういえば、私とぶつかった時、何聴いてたんですか?」
「ああ。GLAYですよ」
「そうなんですね、私も好きですよGLAY。どっちかといえばラルク派ですけど」
「俺もラルク聴くよ。やっぱりkenのギターは最高だよ。まあでも、俺はGLAY派だけどね」
「へえ。でも古畑さん。HYDEに似てますよね?」
 そんな馬鹿な。
「光栄だけど。似てないと思う」
「そうですか?目とか似てるけど」
「音楽とかよく聴くんですか?」
「はい。だから古畑さんが良いイヤホンつけてるのを見て気になったんです」
 共通の趣味を知って、妙に盛り上がってしまった。
 更に話を続けようとしたとき、「おかしいな」と突然犬飼が呟く。「二人とも後ろを振り向いてくれ、誰か居ないか?」
 どうしたのだろうか。俺と中瀬さんは揃って振り返る。
「誰も居ないな」
「居ないですね」
 通行人と自動車。
 特に変わった様子はない。
「どうしたんだよ」
「…誰かが、僕たちの後をついてきている。そんな気がするんだ。一定のリズム。一定の距離感で足音が続いているんだ。これはただの通りすがりではありえない。筈だ」
「でもどうして」
「分からない。もう少し歩こう」
 二歩、三歩。
 犬飼の様に俺が勘付くことなどできないが、自然と神経を集中させてしまう。
「振り返ってくれ」犬飼が突然言う。
 だが、振り返った先には誰も居ない。
 通行人すら、いない。
「あの、大丈夫ですか」中瀬さんが不安気に言う。
「静かに」
 犬飼は冷や汗をかき、いつになく剣呑な様子をみせる。その雰囲気に飲まれ、俺も肩に力が入る。
「2m先。電柱があるか?」
「ある」
 俺が答えた瞬間。
「電柱の裏、誰か居るのか!」
 犬飼が声を荒げる。
 しばらく沈黙が続き、やがて電柱の裏から一人の人物が現れる。
 中肉中背の、スーツを着た男。
 全く知らない男だった。
「誰だ?」
「俺は、知らない。中瀬さんは?」俺が訊くと、中瀬さんは俯き首を横に振る。

「男二人。お前たちは、その女の仲間か?」
 俺達が訊くより先に、謎の男が声をかけてくる。
「仲間。では、あるかな?さっき出会ったばかりではあるけど」
 謎の男に対して、つい真っ当に答えてしまう。しかし、仲間とは何とも妙な表現である。
 中瀬さんも困惑しているのか、控えめに頷く。
「さっき。出会ったばかり?」男は俺の言葉を咀嚼し、反復する。「じゃあ、その女の正体も知らないのか?」
 正体?何を言っているのか。
 俺は犬飼と中瀬さんの顔を交互に見る。二人とも、表情をじっと固めたままだった。
 そして、正体という言葉は先程の中瀬さんの言葉に結びつく。
――私の場合は裏側の方が大きいから。

「その女は、蜘蛛女なんだよ。つまり」
 蜘蛛女?なんだそれは。
「殺し屋なんだよ」男は言った。



「殺し屋ねえ」
 大家は言った。
 大学構内のベンチに座り、大変興味深そうな様子を見せた。
「それも蜘蛛女とはね」
「知ってるのか?」
 俺の問いかけには答えず、大家はスマホを弄る。
 昨夜、謎の男は中瀬さんの事を蜘蛛女というあだ名のついた殺し屋だと告げると、「隙間から現れている場面を何度も押さえている」と言い去っていった。
 彼の言葉は意味不明なものばかりで、これに関して、中瀬さんは肯定も否定もなかった。ただ正体不明の人物に付きまとわれたのはかなりの恐怖だったと思われる。
 その後は、何事もなく彼女をアパートまで送り届けた。セキュリティの強固なアパートだったのでその日のうちは大丈夫だった。だが、今後も同じ男が現れる可能性は大いにあるので警察には被害届を出し、俺達で今後も必要な場合は彼女を送り届けることになった。
「これだ」大家はスマホを差し出す。の画面には蜘蛛女についての記述がある。
「なんだこれ」
「都市伝説だ。何年か前に流行ってたんだよ。知らないか?」
「知らないな」
「普段はビルの隙間に潜んで、ターゲットを現れるのを待つ。そしてターゲットを前にしたとき、手を伸ばして捉え隙間に引き込むんだ。巣をつくり獲物を捕らえる蜘蛛の様に。さらにそいつが現れた場所には蜘蛛の糸が落ちてるんだ」
「蜘蛛の糸?」なんだそれは、妖怪なのか?
「まるで蜘蛛の糸のような、女の長い髪の毛だ。だから蜘蛛女」
「なるほど、よくできた話だ」
「だろ?もちろん作り話じゃなくてさ、俺は実話だと信じてるんだが」
 大家は楽しそう。意外と好きなんだな。
「で、その中瀬さんが、不審者に蜘蛛女だと言われたわけか」
「そうなんだけど」
 現場に残される女の長い髪の毛。俺は中瀬さんの艶やかな長髪を思い出す。
 そして思い当たる事はもう一つ。中瀬さんは、俺と衝突する直前、ビルの隙間から現れたのではないだろうか。そう考えれば、謎は解ける。
 だが、そうなると増々彼女が蜘蛛女である証明になるのではないだろうか。
 中瀬さんの大きな秘密とは、蜘蛛女ではないだろうか。
 
「なんだ、いつになくぼんやりしてるじゃないか」
「…ああ」
 不吉な予感はどんどん膨らんでいく。
「まさか、気になっているのか。中瀬さんとやらが」
「は?」
 大家の言葉で不吉な予感が一旦萎む。
 アタリだ。
 そして再び彼女の笑顔が浮かぶ。
「彼女の魅力と不信感が拮抗して混乱している。と言った所か」
 またアタリだ。
「恥ずかしながら、概ね正解だ。流石、俺の事をよく分かってるな」
「まあな。恋に恋焦がれていた入学当時の姿のままだったからさ」
「…俺の事か?」
「そりゃあ、そうだが」
 また入学当時の話か。
「いや、まあ入学当時の事はもういいか」
 気を遣ったのか大家は話を切り上げる。

「とにかく昨日の不審者は蜘蛛女と関わりのある人物なんだろう。そして中瀬さんは本物の蜘蛛女もしくは、蜘蛛女と共通項が多く、蜘蛛女と勘違いされている人物ではないだろうか」
「ああ、そうだと思う」
「それなら、俺達のやる事はあまり変わらない。予定通り、中瀬さんを毎日送り届けて、彼女を保護すると共に、正体を探るんだ」
 探る、という言葉は何とも後ろめたい。
「それと、不審者をだ」
「なるほど」
「だけどな、ここまで蜘蛛女の都市伝説が実話である前提で話をしてきたし、火のない所に煙は立たないともいうだろう。それでもただの出鱈目である可能性の方が圧倒的に大きい。俺はそういう話が好きだから、贔屓目で信じたい。それでも都市伝説は都市伝説だ。その不審者が、ただおかしな事を吹いている可能性が高いだろう」
「確かに」その通りだ。
「蜘蛛女の都市伝説を信じる不審者が、蜘蛛女と共通項の多い中瀬さんを偶然見つけ、付きまとっている。それが一番可能性が高いと俺は思う。それを証明するために中瀬さん、いや不審者を探るべきなんだよ」
「その通りだ、大家」やるべきことは固まった。
「そういえば、湖南の所に行ったんだろ?何か言ってなかったのか?」
 普通者同士気が合うじゃないか。その言葉が思い浮かぶ。
「取り立てて変わったことは言われなかった」
 変な事はいつも通りだが。
「そうか」
「いや、一つ変わったことがあったな。湖南は酒を飲んでるわけでも、特別湖南の気を惹く物があったわけでも無い筈なのに、透視能力を使っていたんだ」
「…それは、困ったな」大家は何かに気づいた様子を見せる。



 なんという失態だろうか。
 無関係の人間を巻き込んでしまうとは、蜘蛛女と呼ばれるようになってから初めての事だ。
 この街に長く居すぎて、気が緩んでいたのだろうか。
 覚悟を決めたはずなのに。情けない。
 ただ、気になる事が一つある。私を狙う追跡者とは別にもう一人別の人間が後をつけていた。そんな気がしたのだ。
 …とにかく、今回の件が片付いた時は、すぐに街を出よう。



 また夜になった。
 大学を出て、自転車を漕ぐ。後ろの荷台には大家が座る。
 なんとも青春らしい一幕だ。
 できれば、中瀬さんと二人きりになれたらいいと、やましい妄想をした。だけど状況が状況なので、大家も居た方がやはり安心であるから、中瀬さんと二人きりになるのは諦めることにした。
 中瀬さんは夜遅くなるのはしばらく避ける様にしているが、彼女のバイトが夜まで入っている場合はどうしようもないので俺達が送る事にした。
 
 俺達は中瀬さんのバイト先であるコンビニに到着する。
 中瀬さんが姿を見せた時、彼女は小さく手を振る。その姿はなんとも愛おしい。
「アホ面だ」俺の顔を見て大家は言った。
「うるさい」
 ちょこちょこと歩いてきた中瀬さんは大家を見て頭を下げる。
「初めまして、中瀬です。古畑君の友達ですよね?」
「ああ、大家だ。よろしく」
 すると、中瀬さんは首を傾げる。
「おおやさん。大きな家で、大家さんですか?」
「そうだ。古畑から聞いてなかったんだな」
「ええ。何だか、アパートの管理人みたいですね。部屋を貸してくれそう」
「あ」思わず俺は声を漏らす。
 それは禁句だった。
「ふ、ふん」大家は鼻を鳴らし顔を引き攣らせる。
 中瀬さんの言う通り、彼はその苗字のせいで幼い頃は良くからかわれたらしい。
 そして大学生活になってから、一人暮らしを始めてアパートの大家さんという存在に関わる学生が多くなったためか、最近は、その弄りを受けることが多いらしい。大家は大層ナイーブになっているようだ。
「面白い事を言うじゃないか」顔を引き攣らせながらも、冷静に対応して見せる。大人になったものだ。
「良い部屋紹介してくれよ」
 便乗した俺の言葉は完全に無視された。
 中瀬さんのアパートは繁華街の中心部から少し離れているため、人通りはまばらだった。

 流石は大家と言うべきか、話術も巧みで、この場は中々盛り上がっていた。
「ところで」大家は話を切り出す、「中瀬さんは蜘蛛女なんですか」
 唐突だった。空気が変わる。
 直前の話が何だったのか、一瞬で忘れてしまう。

「その通りだよ」

 俺の問いかけに肯定したのは、中瀬さんではなかった。
 俺達は、声のする方へ振り返る。
 そこに居たのは、昨日の不審者だった。
「その女が蜘蛛女という証拠がある」
 急な展開で、思考が追い付かない。
 中瀬さんも表情が一変、険しくなる。
「証拠?」大家が食い下がる。

「そう、証拠だ。ビルの隙間から、出てくるところを何度も目撃されている」
 また違う方向から声がした。
 最初の不審者と正反対の方向から、来たのは全く知らない男だ。
 まるで俺達を挟み撃ちするようにやってくる。
「まずいな」
 いきなり大家はらしくもない事を言う。
「行こう」大家が動く。
 俺は自転車を置いてから、大家に続いて車道を横断し、突き当りの角を曲がる。
 そこには、また別の男が立っていて、俺達を認識した様子を見せ近づいてくる。
 俺達はまた正反対の方向へ急ぐ。
 まわりの通行人すべてが敵に見える。
 
「俺としたことが、迂闊だった。蜘蛛女が居ない前提ではなく最悪の場合を想定しておくべきだった」
 彼らしくない弱気な発言が続く。更に玉の様な汗をかく大家を見て、ますます状況が深刻に感じられる。
 そして大家は足を止める。正面の人物を指し、「あいつもだ」と言う。すると大家はビルとビルの隙間に入る。
 大家がどのようにして怪しい人物を判別しているのか分からないが、ビルの隙間を往くのは悪手ではないかと思う。
 悪い予感が的中し、隙間の先には別の追手が待ち伏せしていた。すぐに引き返し、左折して別の隙間を往く。
 その先にはビルに囲まれた狭い空間が出来ていた。「今のうちに、警察へ連絡を。山田ビルの裏と言ってくれ」大家が言う。
「分かった」
 連絡を終え、何本かある内、どの隙間道を行くか迷っていた時。
「きゃあ」中瀬さんが叫ぶ。
 彼女は突然現れた男に腕を掴まれている。
「手間をかけさせやがって」そう言った男は昨日の夜に現れた不審者だった。
 俺はすぐに男へ飛びかかり、腕にしがみつく。しかし、難なく弾き飛ばされる。
 そこで男の気が逸れたすきに、中瀬さんは手を振りほどき、男から逃れる。
 男は迷っているのか俺と中瀬さんを交互に見る。そして中瀬さんに視点を固定し、そちらへ重心を移し、足を踏み出す。
「中瀬さん」俺が声をあげる。その時。
 男の背後に大家が立ち、握った角材を男の後頭部めがけて思い切り振るう。
 鈍い音が響き、男はそのままの勢いで前方へ倒れた。
「すまなかった。危険な目に合わせて。だが、教えてくれないか?貴方は、あいつらと関係があるのか?」
「私は、関係ありません」
「じゃああの男たちが言っている、隙間から出てくるところを目撃されているというのは?」
 大家の問いに、中瀬さんは口をつぐむ。
 その様子を見て大家は溜息をつく。
「どう思う?」俺を見る。
「どう思うったって。放ってはおけないよ」
 俺の中にある彼女に対する好意がどうとかでなく。この状況で見捨てることなんてできるはずがない。
「じゃあ、中瀬さんが仮に蜘蛛女だとすれば?」
「それは」
 本当に中瀬さんが蜘蛛女だったとして。本当に多くの人の命を奪ってきた人間だったとすれば。どうするべきなのか。
 彼女を助けることは、正しいのだろうか。
 そんな迷いが生じる。

「仮にじゃないよ。本当に蜘蛛女なんだ」
 大家でも、中瀬さんが居る場所でもない所から声がして、血の気が引く。
 声の方へ目を向けると再び、別の男が現れていた。
「ああ、ひどいことしてくれたね。仕返ししないと」そう言って男は、地に伏している男を見る。「まあ、最初から全員殺す予定だったけど」そして、大きなナイフを取り出す。
 ナイフまで用意してくるとは、いよいよ深刻な事態になってきた。
 中瀬さんは本当に蜘蛛女なんじゃないか。
 彼女が殺し屋なら。人殺しなら。助ける意味があるのか?
 それは勧善懲悪なのか?
「古畑!」
 我に還る。ナイフを持った男が俺に駆け寄る。
 突き出されたナイフを必死に避ける。
 すると、男は体制を立て直し中瀬さんの方へ向かう。

――普通者同士、気が合うみたいだな。

 湖南の言葉が脳内で再生された。何より信頼するべき言葉だ。
 それが答えじゃないか。
 俺は走り出す。
 ナイフを持つ男が中瀬さんの目前に到達したところで、男に追いつき、体当たりを食らわせる。だが、男は寸前に反応し、身を逸らしたため、軽くぶつかりわずかに姿勢を崩した程度だった。
「古畑!」大家が叫ぶ。
 男はナイフを構えなおした。

 まずい。

 男に対抗する手段が全く思いつかない。
 俺は必死に中瀬さんの前に立ち、かばう姿勢を作る。
 ナイフの刃先が直前に迫る。俺は観念して目を瞑る。
 直後に鈍い音がしたが、衝撃も痛みも無い。
 俺は目を開ける。
 視界の先にあったのは、大家の後ろ姿だ。
 すぐに理解する。俺達をかばって大家が刺されたのだ。
 なんでそんなことを。
「古畑、今の内だ。早くしろ」大家は男の腕を掴んでいた。
 俺は、大家の傍に落ちている角材を拾い、男の頭めがけて思い切り振るう。男はぐっ、と唸り倒れる。
 中瀬さんは、そんな、と呟き、口を押える。
「大家、大丈夫か」
「大丈夫では、ない」
 大家はその場にうずくまる。彼のシャツが血に染まっていく。
「手でナイフと奴の腕を止めたから、そんなに深くはないが。やはり大丈夫ではないな」
 彼は冷静に言うが、息が切れている。このままではまずい。
「中瀬さん、抑えててもらえないか」
「はい」
 中瀬さんが大家の腹部を抑えるのを見て、俺はスマホを手に取る。

「やれやれ」
 119番へ電話をつなぐ前に、また、知らない声がして目を向ける。
「全く、2人ものしてしまうとはね」
「嘘だろ」思わず声が出る。
 これ以上、抵抗のしようがない。
 現れたのはいままでと雰囲気の違う男だった。雰囲気の違いを瞬時に感じさせたのは、着こなしているスーツの質感か、妙に整った髪型のせいか、品を感じさせる姿勢か。彼の外見全てなのだろうか。
 続いて、2人の男がそれぞれ別の隙間道から現れ、逃げ道をふさぐ様に立つ。
 まさに万事休すだ。
「そこの蜘蛛女さんがやったのかな?」
「違う。中瀬さんは蜘蛛女ではない」
「じゃあ、この証拠はどう説明するのかな?」
 写真が数枚。全て、ビルの隙間から出てくる中瀬さんの姿を映した物だ。
 だが、今更そんな物を見せられたところで、動揺することはない。

「僕が最後のターゲットなんだろう?何が恨みを買ってウチの会社が狙われたのか、自覚はあるけど。よくもまあ、散々ウチの社員を始末してくれたね」
 彼の話から察するに、この男は会社の経営者で、蜘蛛女に狙われているらしい。そして実際に蜘蛛女の手によって、何人か殺められているようだ。

「知らない。私は貴方のことも、蜘蛛女だって知らない」初めて中瀬さんが声を上げる。
「大丈夫ですよ、中瀬さん。誰が何と言おうと、どんな物を見せて、惑わせてこようと、中瀬さんを信じます」
「呑気な事を言ってる場合かな?君の本性を見せないと、みんな死んじゃうでしょ」経営者の男はにらみを利かせる。「まあどのみち負けないけどね」
 取り巻きの男は俺に近づき、手に持ったスマホを奪い取る。
 そして、そのままビルの壁に叩きつけた。更に追い打ちをかけるように落ちている角材で砕き始める。
 俺達もスマホみたいにされるのか、それとも、ナイフで刺殺されるのだろうか。
 この場を切り抜ける手段が思い浮かばず、死が迫るのを感じる。しかし、あまりにも状況が現実離れしていてはっきりとした恐怖はなく。妙な胸騒ぎが残る。

 経営者の男が手を叩く。
「もういいだろう、仕事を済ませよう。まずは、く」
 そこまで言った所で、言葉が止まる。それとほぼ同時に経営者の男がビルの隙間へ吸い込まれていくのを見た。
 取り巻きの2人は経営者の居た場所へ咄嗟に駆けよる。そして、1人が隙間の先を見て、うわっ、と声を漏らす。そして、その男が隙間の中へ駆け込んだ後、無残な叫び声が響いた。
 残りの男は狼狽し、俺達を一瞥するがすぐに向き直り2人の消えた道とは別の隙間道へ駆け込んでいく。
 しかし間もなくして、その男の叫び声も響いた。
 何が起きたのか、俺と中瀬さんは目を見合わせる。
「そうだ」呆気にとられている場合ではない。「中瀬さん、救急車を呼んでくれないか?」
 はい、と言って中瀬さんはスマホを取り出した。
「立てるか?」大家に尋ねると、「ああ」と小さな声で返事を受ける。
 俺は、大家と肩を組み、彼の身体を支える様にして立ち上がる。そして、誰も入らなかった隙間道を選んで進む。
 未だに状況が判断できないが、取り敢えず助かったようだ。
 道の途中に封筒が落ちていて、中瀬さんがそれを拾う。
「…これ、本物かな?」
―――巻き込んで済まない。種々のお詫びだ。本物の蜘蛛女より
 封筒の表にはこう書かれていた。中瀬さんが、封筒内を覗く。中には十数枚の一万円札が入っていた。
 俺と中瀬さんは憑き物が落ちたように、小さく笑った。大家も「まさか、本当にいるとはな」と呟いた。


 
 大家のお見舞いのため、同市街地にある国立病院を訪れると、面会やテレビ鑑賞など多目的に使用されるデイルームへ案内された。広い部屋で俺達以外にもたくさんの見舞客や患者が居た。
「突然来る事もないじゃないか」大家は太々しく言った。
「スマホを粉々にされたからな、データも粉々だ。連絡できなかったんだよ」
 仮に連絡をしておけばどうなったのだろう。見慣れぬ寝癖を整えたり、変に伸びた髭を剃ったりしたのだろうか?何にしても気の抜けた大家の姿は貴重なので、連絡せずに訪れたのは正解だったかもしれない。
「バックアップを取っていなかったのか」
「俺、そういうの苦手なんだよ。それに金欠だから、スマホも新調できていない」
「じゃあ、どうやって中瀬さんと集合したんだ?」
「中瀬さんとは、まあなんだろう。最近は欠かさず会ってるんだよ」
 俺が言うと、中瀬さんは小さく頷く。
「はっ。俺が腹を痛めている間に、君たちは呑気に仲睦まじくしているわけか。で、巧くいってるみたいだな」
「…おかげさまで」俺が答える。
 中瀬さんは恥ずかしそうに顔を伏せる。
「ところで、中瀬さん。貴方は、ビルの隙間で何をしていたんだい?」
 大家が問うと、中瀬さんは鞄から、一枚の写真を取り出した。
「あまり人に話さないんですが、これが原因でみなさんを巻き込んでしまったので、ちゃんとお話しします」中瀬さんは、顔を引き締めて話し始める。
「実は私、写真撮影を趣味にしているんです。最近、ビルの隙間から空を映すのにハマっていて。こういう構図の写真、見た事ありません?」
 大家は差し出された写真を手に取り、目を細める。
「あるね。よくある」
「いろいろなコンクールにも参加していて、今回はこんな感じの写真で応募してみようと思っているんです」
「なるほど。この街に丁度、蜘蛛女がいて。蜘蛛女と似た行動を取っていた中瀬さんが、あいつらに目をつけられたわけね」
「恐らく、そういう事だと思います。申し訳ありません」
 俺も、そうだと思う。
「ところで、賞を取ったことはあるのかな」
「まだ、です。でも必ず賞を戴いて、いつかは写真家の肩書を持つのが夢なんです」
「そうか。素敵じゃないか」
 大家は、夢を追いかける人が好きだった。
 
「古畑君も、夢があるんですよ。救急救命士」
「知ってるよ」
「そうだったんですね。昨日も近くの喫茶店で夢を語りあったりしたんですよ」
「一昨日はバスに乗って街の高台に上ってさ、写真を撮ったんだよ」
「明日は、隣町まで遠征に行きたいんだけど、どうかな」
「ああ、いいと思う」俺が答えた後、話が逸れている事に気づき、大家を見る。
 すると大家は「はっ」と言い。「聞くに堪えない、普通の会話だ。まあ普通者同士、お似合いじゃないか」と続けた。
「湖南と同じこと言うなよ」俺が言うと、大家は笑った。
「ところで」大家が切り出す。
「俺が腹を刺されて、何か感じたことはないのか?」
 大家の平気な様子を見て、忘れていた。
「すまない。俺をかばってくれて本当にありがとう」それに続いて中瀬さんも、お礼を言った。
「いや、それはいいんだが。何か思い出すことはなかったか?ほら、古畑がずっと忘れている事」
「またその話か」
「またその話だ。いつまでも忘れていては駄目だ。そろそろ向き合わないといけない。だからハッキリ言うぞ、俺は古畑に命を救われている」
 なんだそれは。それが、ずっと言い続けている、借りだというのか。
「入学当初、古畑は身を挺して守ったんだ。ナイフを刺し向けてくる人間から俺をかばう様に。そして腹を刺された。そうだろう」
 ああ。そうだ。
 そうかもしれない。
 途端に、腹部に痛みを感じた気がする。
 頭の芯が痛い。全身がこわばるような感覚も生まれる。
 これ以上は無理だとそう思い、「すまない。ここまでにしてくれ」俺は話を切り上げた。
「今日は帰るよ」そう続けると、大家は溜息で返事をする。
 中瀬さんも不安げな顔で俺を見る。
 病院を出ると、中瀬さんが俺の手を握った。
 何も言わずに握りしめるので、俺も優しく握り返す。すると中瀬さんの表情が緩み、俺も自然と全身の緊張が落ちる。
「冬茜だ」中瀬さんが呟く。
「ふゆあかね?」
「冬の夕焼け空だよ。短時間で、強く紅く燃えきるんだよ。バーッとね。綺麗でしょ?」
「綺麗だ」本当に綺麗だった。
 茜色の空を見て、そう思った。
 中瀬さんの顔を見ると白い肌が夕焼け色に染まっていた。
 今はこれで良い。いや、今のままが良い。
 そう思った。
10, 9

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