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ダメな大人の少年時代

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前書き

32歳無職。借金は数百万。親の保護下にはない。
健康上の理由で外に働きに出ることができず、現在は友人と2人でとあるアパートの一室に住んでいる。
在宅ワークで細々と稼いでいるが、先月遭遇したトラブルの為に、来月の収入予定がない。
友人には家賃をもう1年以上も停滞している状態である。

まさにクズ・オブ・クズ。
改めて書き出すとひどいな、この経歴。

そんな訳で私は今、人生で最大級の窮地に陥っている。
金策のために手を尽くしているし、働き口も探しているが、
このまま見つからなければ来月にはホームレスになるか、はたまた自殺しか道はない。
だからこの連載の更新が止まったら、私は死んだかホームレスになったと思ってもらいたい。
どのみち、私が再び一般社会に戻る事はないだろう。
働かないだろうし税金も納めない。住所不定、おおよそ人の社会からは逸脱する。
私は、人でなしになるのだ。
この寒さだ。自殺などしなくても凍死するかもしれない。

そんな死に際の中年のおっさんだが、やはり人間への執着は捨てがたいようだ。
こうして日記のような自伝を綴っているのも、やはり人間だった頃の思い出を残したいのだろう。

私は写真撮影や日記を付ける習慣がない。
おまけに友人も皆無である。
私が人でなくなれば、私の事を覚えている人間は誰もいなくなる。

だから、こんなところにこういう形で残すしかない事を、どうか許して欲しい。
誰かの目にとまったときに不快な思いをしないよう、できるだけ明るく書くつもりである。
だからどうか、こんな戯言ぐらいは見逃して欲しい。
私の知り合いが見たら特定されるかもしれないが、呆れ果てるのは間違いない。
だが特定を畏れてぼかすつもりはないことは明記しておこう。そうでなければこれを書く意味が無い。
ただ、記憶を掘り起こして書くのだから多少細部が違うのは、どうか許していただきたい。


この更新が止まったとき、私は死んだものとして扱ってもらいたい。
繰り返しになるが、これはただ私の半生を綴った自伝であり、おっさんの戯言でしかない。
01 まるでダメな子供時代

私の家はよくある中流家庭である。
父母弟と私の4人家族。父は有名な飲食・医療メーカーに勤めている。
子供の頃、父は自動販売機の缶の補充などを行う事があって、
私は父についていって1,2本父に担ぎ上げられて補充をした事を覚えている。
誰も知らない自販機の中は金属仕掛けで、子供ながらに感動し、
他の同年代の友人が知らない自販機の内側を知っていることに優越感を覚えたものだ。
そんな父も、もうすぐ定年退社を迎える。

母も普通の母親だった。
内職をしていたが、途中で働きにでるようになった。
ガスや電気のメーターの検針を行っており、私や弟もついて行った。
一般家庭のメーターではなく、特別な施設のメーターである。
アミューズメントパークや、どこかの会社など。
私が覚えているのは、ウェスタン村と日光江戸村である。
こんな場所でもガスのメーターがあるのかと感心したものだ。
他はよく覚えていないのだが、この2つだけは今でも行った事を覚えている。

別に悪く書くつもりはないのだが、ウェスタン村ではアイスクリームが200円もして、
コンビニで100円で買える物をどうして倍の値段で売っているんだろう?
割に合わない、と子供の頃に思ったせいで、その印象が強いのだ。
そういったアミューズメントパークの中で買う物がその辺のコンビニで買うよりも高い事が
常識であると知ったのは、もう少し大人になってからなので、この点は許してもらいたい。

弟もまぁ普通だ。
普通の高校を出て、普通に大学に行って、観光地にホテルマンとして就職した。
今は彼女ができて2人で同棲しているらしい。
一緒に住んでいた頃は馬が合わず、毎日のように喧嘩していた。
それでも対戦ゲームで遊んだし、2人でいる時間は嫌いではなかった。
無言の空間が居心地の悪くない、数少ない私の大切な存在だ。


そんなどこにでもある普通の家庭に私は生まれ育った。
父も母も私や弟に愛情を注いでいたし、2人が喧嘩しているところは見たことがなかった。
このまま2人で仲良く年を取り、どちらかから先に死に、子供に看取られて……
そんな普通の夫婦で終わるものだと思っていた。


だが現実はそうはならかった。
きっかけは中学3年生の時である。
夕食を家族で食べていたとき、インターフォンが鳴った。
父が出ると、そこには中年のおっさんがいた。
おっさんは父に頭を下げてこう言ったのである。



「あなたの奥さんを愛しています。
 どうか、私と結婚させてください」
2, 1

  

02まるでダメなおっさん(初代)

「あなたの奥さんを愛しています。
 どうか、私と結婚させてください」



……????
…………??????????

???????????????????


以上が、当時の私の心境である。
同じ状況に晒されたら大半の人間が同じ心境に陥るだろう。

中流家庭、円満な夫婦。夕食時。
そこにおっさんが上がり込んできて、いきなり「お前の奥さんは俺の奥さん」宣言である。
異世界転生でよくあるパーフェフェクト主人公だって、この状況に遭遇して事態を一瞬で把握するのは無理だろう。
父も私も無理だった。弟も無理だった。
父は固まっていた。なんと言ってよいかわからない状態である。

だが、母親だけはそうではなかった。
青ざめていた。
そして、私はその男に見覚えがあった。



母親がメーターの検針をしていたのは前項で記述したと思う。
この男は、母親に仕事を教えた人物らしく、たまに家に来てお茶を飲んでいた。
2人でお茶を飲んで話をするだけだったし、何かいかがわしいことをしていた覚えもない。
少なくとも子供の前では。
だが、子供の前でなければやることをやっていたらしい。





母はこの男と不倫していたのだ。
もう1年以上付き合い、お互い真剣に愛し合っている。
結婚の話までした。
そのために家庭も捨てて駆け落ちする覚悟だったらしい。
まるでだめな男(初代)である。


乗り込んできたおっさんの話を総合するとそういう事らしい。
父は男をぶん殴った。


大の大人が吹っ飛ばされるのを、初めて見た。
父は空手をやっていたらしい。だが感情に任された一撃はとてもそうは見えない。
型も何もない。単純な力任せ。
それがその時の父の心境を語っていた。



幸か不幸か、父も母も地元の職場で知り合って結婚したらしい。
どちらの親も来るまで1時間程度のところに住んでいる。

もっとも、父方は祖父がすでに他界しており、祖母は70を越える高齢であった。
電車も1時間に1本しかないような無人駅の田舎町だ。
今でもコンビニすらない。
来ることは不可能だ。

そうじゃなくても、祖母はこんな話は不向きだろう。
祖母は普段、畑でトウモロコシを育てたり、じゃがいもを作ったり、
バスが迎えに来て、そのバスでスキー場に行ってゴミ拾いをすることを仕事にしていた。

ある時、そんな祖母のに布団の業者が来たらしい。
布団の業者は「この布団で眠れば健康に良い。どんな病気も治る」と言ったらしい。
価格は10万円だったそうだ。

祖母は買った。
父は怒った。
「そんな布団あったら病院なんていらないだろ!」
父がそういうと、祖母は「治った人がいるって言ってたぞ!」と言った。


父「誰にその話聞いたんだ?」
祖母「布団の業者にだ!」


こういう祖母である。
人を疑うということをまったく知らない。
この辺りはとても平和で、近所同士鍵をかけるという習慣すらない。
信じられない人もいるだろうが、私の祖母の家はそんなド田舎なのだ。








……話を戻そう。
そんな祖母が、自分の息子の嫁が不倫していたというこの事態に何ら役に立つとも思えない。
それどころか年を考えれば余計な心労をかけるだけだ。
子供ながらに、私も父方の祖母を巻き込むのは気が引けた。

母方の祖母はといえば、そこそこの町に住んでいて俗世に疎いわけではない。
祖母は近所のスーパーのレジ係として働いていたし、祖父も工場に勤務していた。

当時の年齢は、2人とも50代である。
この2人は祖父は18,祖母は16。早い話が法律が合法だと認めた瞬間が結婚の合図だった。
高齢かもしれないが元気に働ける。
父は母方の2人を家に呼んだ。


「……申し訳ない」
話を聞き、祖父が父に向かって土下座をするのを見た。
祖母は泣きながら母親を平手打ちした。
私は自分の幸せだった家庭が、音を立てて崩れるのを感じていた。


弟と私は、ここから大人の話だからと部屋を追い出された。
2人で無言でストリートファイターゼロで対戦した。
音量はいつもより大きめだったと思う。




この時の話し合いは、とりあえず落ち着くところで落ち着いたらしい。
今後どうするかは改めて場を取り持って決めるとの事である。
平日で、父も母も、祖父母も仕事があった。
私も弟も学校があった。

翌日、家の中はすっかり落ち着いていた。
だがこの日以来、父は母と夕食を共にすることはなくなったし、
母も笑わなくなった。
家の中が居心地の悪くなった。
落ち着いたというよりも、あれだけたくさん詰め込まれていたものが全てなくなってしまったように感じていた。
空っぽになったのだ。
リビングにいることに耐えられず、私はすぐに自分の部屋に戻る。

勉強したり、漫画を読んだりしながら私は、
“今はこんなだけど時間が経てば元に戻るかもしれない”と思っていた。
お花畑である。


……だが。
話しはここで終わりではなかった。
まるでダメな男(初代)が家に乗り込んで来た事件から数日。
また家のインターフォンが鳴った。


「あなたの奥さんを私にください」


2人目である。
母の浮気相手は、1人ではなかったのだ。

03まるでダメな母親



「あなたの奥さんを私にください」


デジャブである。
なんとも奇妙な体験であった。

数日前とまったく違うおっさんが現れて、母をくれと父に頭を下げている。
時間が巻き戻ったとかそういうわけではない。
母は2人の男と浮気をしていたのだ。

ところがこれ、後で聞いた話だが単純な3股ではなかった。
ちょっとややこしい。

仮にこの2人目の男を2代目まだおとしよう。
2代目まだおは、弟がやっている少年野球を通して知り合ったらしい。
2人でお茶を飲んだりしているうちに、やがていけない関係に……とのこと。
だがこの男、周囲の評判があまりよくなかった。

どうやら息子の少年野球を出会い系サイトか何かと勘違いしていたらしい。
そこで出会った気に入ったママを見つけては口説いて食べ……というのを繰り返していたようで、
周囲ではタチの悪い男として有名だったそうだ。
母親は初代まだおと付き合っていたとき、この男に口説かれ惹かれたらしい。
初代まだおをあっさり捨てて、2代目まだおに乗り換えたのだそうだ。


結婚の約束までした初代まだおとしては、突然横から出てきた軽い男に自分の女をかっ攫われたのだ。
それで、思い切った行動に出たというわけだ。
よくも悪くも一途で不器用な男だったのだろう。
初代まだおは母と結婚するために自分の家庭も捨てたそうなので、彼にしてみれば立つ瀬が無い。



だがもっと立つ瀬のない人物がここにいた。
私の父である。

2人の男が自分の母を取り合い浮気していた事を、父は何も知らなかった。
完全に門外漢だった。

2代目まだおが尋ねてきたとき、父はどういうことだと母に問い詰めた。
母は何も言わず、2代目まだおと姿をくらまし、数日間音信不通になっていた。


弟はどうか知らないが、私はようやくここにきて思い当たった。
合点がいった、と言っていい。
推理モノで言うなら、バラバラな謎が1つにつながっていくあの感覚である。
つじつまがあった、というべきか。
兆候はあったのだ。
ただ、私がそこから目を背けていただけで。




母は日中は仕事に出かけていて、午後5時頃帰宅する。
ところが、私が中学に入った辺りから、母は帰宅してから夜10時過ぎまでずっと、
誰かと電話しているようになったのだ。

毎日毎日、1日も欠かさずにである。
不真面目に誠実である。
ご飯も冷凍食品が多くなった。
味噌汁だけは作るのだが、素材がだんだん少なくなっていった。

出された味噌汁の具が生だった事が1度あって、私が盛大にキレた。
以降、母は味噌汁だけは真面目に作るようになった。



私の母はメシマズである。
カレーライスを作るのに、昨日残った味噌汁や煮付けにカレーのルーを煮込んだだけの
ものなどを作った。
逆に煮付けに味噌を足して水で沸騰させ、味噌汁だと出した事もあった。
もはや料理に対する冒涜である。
料理などと言うのもおこがましいし、主婦などと名乗るものなら(笑)をつけてほしい。
だが、これに関しては一概に母だけを責めるのも筋違いなのだ。


当時、どうしてそうなったのかわからないが私と弟がものすごい偏食家だったのだ。
緑黄色野菜は一切食べない。果物も食べない。
弟に至っては、インスタントラーメンのネギすら残す始末である。
肉、魚、穀類、お米、パン。
私達兄弟はそれしか食べない。他のものが出てきても残す。

どうしてそうなったのかはわからない。
今ではわりと直っている。
だが、料理を作る人間からすればこれほど作りがいのない相手もいないだろう。
あるいは母の作った料理がもっと美味しければそうはならなかったのかもしれないが、
これは卵が先かヒヨコが先かというやつだ。今さら言っても始まらない。
たぶん母は、途中で料理を作るのがばからしくなってしまったのだろう。
この点において、私は実に申し訳ないことをしたと思っている。
他にもう1つ、重大なやらかしがあるのだが、それはおいおい語る事とする。


私は母の作る料理で1番好きなものは餃子だった。
餃子は母は野菜を買ってきて、手で作る。
私も弟も何度も手伝った。
餃子だけは私も弟も美味しそうに食べるので、母も作りがいがあったのだろう。
頻繁に食卓に登場した。


その後に私が1人暮らしをするようになり、生活が落ち着いてきた頃、
ネットや本で調べて自分で手作り餃子を作った。
はじめて自分で作った餃子を食べて一口、私はショックを受けた。

明らかに母の作ったものより美味しかったのである。
やはり母はメシマズだったのだなと思うと同時に、この時から私には、
お袋の味というのは祖母の料理となった。








4, 3

  

04 まるでダメな母親2

母が行方をくらまして1週間が経とうとしていた。
父の負担はかなり大きなものになっていた。
弟と私の料理を作り、掃除洗濯全てを父がやっていた。
もちろん仕事は休んでいない。
休日は祖母が来てやってくれていた。

とにかく、母親が音信不通というこの一大事を残された家族は力を合わせて乗り切ろうとしていたのである。
私も弟も協力した。せざるを得なかった。
家族が結束した瞬間であった。
そして1週間もした頃、学校から帰ると、家に母がいた。
私はシカトして部屋に籠もった。

母親の顔も見たくなかった。話す気にもなれなかった。
母親が何を言おうと、母が1度は家族を捨てようとしたのは事実である。
母親としての責任を放棄しようとしたのは覆しようがないのだ。

あの女は、私と弟より男を選んだ。
あの女、と私はたしかに母の事を心の中でそう呼んだ。


部屋の中に籠もっていると、ふつふつと怒りが沸いてきた。
私は中学3年、受験生である。
受験勉強の最中だ。
その只中にこんな問題を起こして何を考えている。
ショックで高校入試に落ちたらどうしてくれるんだ。
人の都合を考えない母の馬鹿さ加減に心底呆れていた。

弟は、私より少しだけ母に対して優しかった。
小学生の弟は母が何をしたのか、まだ実感がなかったのかもしれない。
何か話をするのが聞こえた。
だが私は、父が帰宅するまで、リビングに降りていくことはなかった。





父に呼ばれ、1階に降りた。
そこには母方の祖母と祖父もいた。
母もいた。

私は、母親を見た瞬間に抑えきれなくなった。

「この裏切り者!」

私は叫んだ。
今まで、母と喧嘩をしたことなんてなかったし、
こんな口汚い言葉を親に向けるのもはじめてだった。
だがとまらなかった。

部屋の中に籠もっていた私は、母に帯する怒りがふつふつと沸き、
いかに復讐してやろうかという考えに染まっていた。
勉強どころか他のものに一切手がつかなかった。
だがこの一点だけは、考えれば考えるほどにどんんどん深みにはまっていく。

どうすれば母の心により深く傷を残す事ができるか。
私はずっと考えていたのである。そして答え合わせの時間というわけだ。

「家を捨てたクセに、どのツラ下げて戻ってきたんだよ!ああ!?」
「今さら母親面をするなよ! 男を選んだんだろ! なんでここにいるんだよ!」

1週間、音信不通で子供を捨てて男と出て行った母だ。
私は母を傷つけたかった。
復讐したいと思った。泣けばいいと思った。
だが、母は表情を変えず、何も言い返さなかった。

弟も父も、祖母も祖父も、誰も私の言葉を遮ろうとはしなかった。
反応しない母。私は、これ以上の言葉を失った。


「なあ2人とも、ちょっと部屋に戻っていてくれるか?」

弟と私は部屋に戻ることになった。
大人の話し合いの時間、というやつらしい。
私が聞いても何もできないだろうし、弟も私も部屋に戻った。
私は受験勉強をしようと机に座ったが、まったく手につかず、
趣味だった絵を描こうとしたがやはりそれも手につかなかった。

ただ、心のうちにあるのはショックだった。
自分の母親に対して向けていい言葉だったのかと、私は悩んだ。
だが裏切ったのは母親、当然だという気持ちもある。
私はどうしたいのかわからなくなった。


やがて、日付が変わる時刻になる頃、私はお腹が減ったので食べ物を取りに下に降りた。
そこには母と父がいた。母は無言で私にホットミルクを入れてくれた。
私はそれを飲んだ。

やがて、父が言った。

「離婚することになった。どっちにつくか考えておきなさい」


深夜のリビング。祖父母はとっくに帰ったらしい。父と母と私。
私は子供の頃の事を思い出して居た。

「笑ゥせぇるすまん」をご存じだろうか?
藤子不二雄Aの描いたあの漫画である。
伊東四朗主演で実写化したり、リメイクしたりした。

私が5歳ぐらいの時だろうか。
私が夜にふとトイレに起きると、父と母がリビングで談笑していた。
母が私にホットミルクを入れてくれた。
その間にテレビを付けてチャンネルを回すと「笑ゥせぇるすまん」が放映されていた。
おそらく5歳の子供では、アニメの内容についてまったく理解できていなかったと思う。
ただ、夜中にこうしてアニメを見るというのが、とても新鮮で、
あの時の父と母の優しい様子は今でもよく覚えている。



私は、この冷え切ったリビングであの時の事を思い出していた。
ホットミルクを飲みながら、気づいたら泣いてしまっていた。

「2人が離婚するなんていやだ……」
「どっちとも、別れたくない……いやだ」

この時、私は泣きすぎて過呼吸になった。
手足が痺れるというのを生まれて初めて体験した。
父と母は私の背中や手足を、2人でさすっていた。

「ごめんね、ダメなお母さんでごめんね……」

そう言って母は泣いた。
私の口汚い罵りでも表情1つ変えなかった母親がである。
母はこの時になってようやく、自分のしたことの重大さを、実感したのだろう。

「ごめんね……」

気づいたら私が母を慰める立場になっていた。
なんてことはない。
子供の浅知恵で思いついた悪口より、
子供の涙と優しい言葉の方が、母にとっては痛かったのだ。

しばらくして顔をあげて、母親は私に言った。

「お母さん、がんばるから」




それから数日。
父と母が離婚を思いとどまったことを知った。
母が父に頭を下げ、父も許したらしい。
ひとまずは一件落着かに思われた。



だが、本当に私の家族が崩壊していくのはここからなのだと、
この時の私はまだ知らなかった。
05 まるでダメな父親


再び家に戻ってきた母は、見違えるようだった。
あれほど長時間行っていた長電話をしない。
子供にもよく構うようになった。
前よりも笑顔を見せる事も多くなった。
もっとも料理の腕は相変わらずだった。


母が失った時間を取り戻そうとしているのは、子供ながらに伝わってきた。
受験勉強をしていれば、夜10時頃にコーヒーとトーストを差し入れてくれた。
そして私が勉強しているのを見て自分はリビングに戻っていく。
あの時母に向けた憎悪の感情は薄れつつあった。
吐き出した事で霧散したのかもしれない。

私が志望校に合格すると、母は涙を流して喜んでくれた。
そして私を抱きしめた。
母が戻ってきたからおよそ数ヶ月、私自身も気づかされる事があった。

今だから思うに、母は子供の愛情に飢えていたのではないだろうか。
一人暮らしをし始めたからこそわかる。
家事炊事、子供の送り迎え、保護者の付き合い、家計のやりくり。
それらは決して楽な事ではない。
生まれた時から母がそうしていたので、私もそれが当然だと思い込んでいたのではないか。

少なくとも、1度でいいから感謝の言葉を贈ることがあったのなら、
母はあのような事をせずにすんだのではないか。
そう思う事がある。


そんなこんなで、過ちはあったものの、
家庭に温かさが戻りつつあった。
私は家族が再び元に戻る可能性を見いだしていた。
だがそうはならなかった。

原因は父である。
父は、母を家に戻ることを許可したものの、
決して母を許そうとしなかった。

何かにつけて母にその時の事を蒸し返し、
お前は最低な女だと罵った。

「お前は母親だから許せるんだろう。
 けど、父さんは許せないよ。裏切った女が家にいるのが腹が立って仕方ない」


2人きりでドライブに出かけたとき、父は私にそう言った事がある。
早い話、父は私があの時泣いて離婚を止めるのを見て、
子供にはまだ母親が必要だと思ったのだ。
だがその時点で、父にとって母はもう、自分の人生に要らない人間になってしまっていたのだ。

そんな父から数ヶ月ねちねちと嫌がらせを受けて、母はよく耐えていた。
だが、ある日限界が来た。
キッチンから皿の割れる音と、父母の怒鳴り声が聞こえて来た。
その前にも色々と予兆はあったので、私は来るべき時が来たのだと思った。



2人は離婚を決意した。
私も、もう反対はしなかった。



私と弟は父の扶養に入る事となった。
おそらく慰謝料を取らない代わりに父が母に出した条件なのだろう。
それに、育ち盛りの子供2人は、とても母のパート代だけではやっていけなかった。
父は有名企業の社員だ。少なくとも進学や生活で困る事はない。
そういう意図もあってのことだったと思う。




母はしょっちゅう家に来た。
そのたびに父の機嫌が悪くなるが、それでも会いに来た。
特に、私より弟の方に会いたかったのだろう。

弟は母に私より懐いていたし、その時は私も父が正しいと思っていた。
何か事情があったにせよ、裏切ったのは母の方なのだ。
1度子供を捨てようとしたのは母だ。
父は正しい。
だが私は、この時母側からの言い分という物をまったく聞いていなかった。
母は間違っている……が、間違いを犯したのには原因がある。
それを知るのは、私が高校に入ってからだった。






高校時代、私は母方の祖母の家で世話になった。
理由は高校が近いからである。
高校までは祖母の家から自転車で30分の距離にある。
父の家から通うとなると、倍以上の時間がかかる。
高校に合格したら祖母の家から通う事になるのは、
母の浮気が発覚する前から決めていたことだった。

私は小さい頃から母方のおばあちゃん子だったこともあり、
祖母も祖父もとても良くしてくれた。
だがある日、そんな祖母の口からこんな言葉を聞いた。

「お前の母さんが浮気した原因は、父親にもあるんだからね」

祖母が言うには、父親は私と弟が小さかった頃、
まったく家事を手伝わず、休日もパチンコや競馬三昧だったらしい。
さらに性格が子供っぽく、モラルに欠けた発言をする事も多かったのだそうだ。

子供っぽい、わかる。思い当たる。
小学校低学年の頃、父と雪合戦をしたとき、
雪玉を本気で顔にぶつけられて泣かされたのは今でも覚えている。
父はすぐムキになるのだ。


加えて休日といえば、ギャンブルに行くか競馬をするか、寝ているかしかない。
子供心によく寝る人だと思っていた。
仕事で疲れているんだろうとも。
もっとも、毎日育児と家事をこなしていた母親も疲れているのだ。
母親が当たり前のようにこなしているし、一切愚痴を言わない人だから
それに気づかなかった。

母は365日休むことなく、家族から感謝の言葉すらもらうことはない。
父はギャンブルをし、子供と遊びたいときに遊び、疲れたら寝る。
その間に母親は家事をしている。
思えば、私や弟が風邪を引いて寝込んでいたときに看病するのは母ばかりで、
父が部屋に入ってきた事は記憶には無い。

おまけに父は家族を連れて出かけると言えば自分の実家に帰るぐらいだ。
正月もお盆も、私の家族は父の実家で過ごした。
動物園や遊園地程度には行った事があるが、家族でどこかに泊まりに行った事など、
1度あったかないかだ。
ストレスが確実に母を蝕んでいたのだろう。


早い話、私にとって父はいい父親ではあったが。
母にとってはいい夫でも、いい男でもなかった。
それが、母の浮気の原因につながっているのだろう。


なぜ私が高校に入るまでに父のそのような実態を知らなかったか。
母は子供に父親の悪口を言うものではないと思ってあえて聞かせないようにしていたらしい。

高校に入り祖母の家に父が来ると、祖母と父はよく喧嘩するようになった。
祖母は人一倍思い込みが激しいし、身内には優しい人だった。
母からそういう話を聞いて、きっと父が許せなくなったのだろう。
私は、もう家族が喧嘩をするのを見たくはなかったので、高校を卒業する前に祖母の家を出て、
自分の実家に帰った。

家族というものが3年でずいぶん変化してしまったものの、
私の高校時代の家庭事情はそんな感じである。
だがこの頃から、私はまるでだめになるクズ要素の一片を
垣間見せつつあったのだと、今にして思う。

6, 5

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