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追憶への下り階段

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 気がついたら腕をねじ上げられていた。手首を指の骨で返す玄人のやり口だ。
 いつだったか札を抜いたのがバレたとき、お茶汲みの爺に後ろからいきなりやられた。
 爺は何も言わず、見たくもないものを見たような、期待を裏切られたような顔をしていた。嫌な目だった。なぜあんなにも嫌だと思ったのか、覚えていない。
 思い返せば大したことのない、泣いて喚いた記憶もないが深く残った古傷のようなもので、ただ事実だけしか思い出せない。
 なのに、慶はそのとき、我を忘れたように卓を蹴り飛ばして、賭場から抜け出した。三階建ての窓ガラスをぶち破って、たまたま停まっていた廃棄物回収のトラックの荷台に飛び込み、虱臭い中古のベッドに幌ごと落ちて、ふと吐息を零せば夜空を見上げて。
 寒い日だった。
 そのとき、まだ真嶋慶は生きていた。自分が何を欲しがっているのか、わからないままに突っ走っていた。
 思い通りに生きていたはずなのだ。なのに、あの爺の切れ込みばかりの眼尻の奥で鈍く燃えていた瞳は、慶を責めていた。それが慶にはわかった。
 足払いの何が悪い、俺は奇跡を見せたんだ。札を抜かれてそれを見たか、それとも怯えたか、自分を信じられないやつが躊躇した一瞬間に、俺は札を抜ける。
 この左手で欲しいものはすべて奪ってきた。
 人は右利きの世界はよく見ている。だが左利きが何を感じているかは察さない。俺はその傲慢を衝いただけ――違うか? もし俺が間違っているなら、どうして誰も俺を殺さない。生きている限り、俺は負けたりしないんだ――
 そう思っていた。

 あの瞳。
 思い出した瞬間に、自分が何を見ているのか明察させられる、あの色が、ヴェムコットの青紫色の瞳の奥で燃えていた。
 慶の腕をねじり上げ、しかし慶が掴んでいるのはカードではなく、一吸いの煙草の燃えさしだった。
 まだ火種が残っている。
 その先端からこそげ落ちていく熱を孕んだ灰が、慶の手札の一枚に落ちていく。
 すでにそのカードは裏面の中央を焼かれていた。
 ヴェムコットは今にも掴んだ慶の右手に噛みつきそうな顔で、深く呼吸している。吐く息の熱さも強さも感じられるような気がした。
 ゆっくりと、跳ねた心臓の鼓動を飲み干そうとしているかのように、彼は怒りを嚥下する。それから、慶の右手を放すと、汚されたかつて無垢だったカードを、まったく新しい一枚と交換した。
 何か言いかけた慶を、ヴェムコットはわずかに首を振るだけで制した。どこか悲しげな――裏切られた者の表情。
 破損されたカードは交換してもらえるかもしれない。
 だが、この勝負に懸かっている『誇り』はそうじゃない――
 そう言いたいのか、それともただ感情だけが渦を巻くだけ巻いて結局は言葉にならなかったのか、ヴェムコットは最後まで何も言わなかった。ただ、そばで見ているエンプティや、リザイングルナでさえ声をかけられないほどの鬼気だけが、熱波のように室内に拡散している。
 慶は煙草を灰皿に捨てた。ほかに謝罪のしようがなかった――やってしまったことは元通りにはならない。
 カードは戻ってきた。だが、過去は消せない。たとえ原状復帰できたとしても、それはなんの免罪符にもならない。
 もし、詫びる術があるとすれば、戦うだけ。
 それしか慶は知らない。




 ――ボディポーカー。




 戦況は、現在、真嶋慶が押している。
 この五回戦、慶は全身全霊を尽くしていた。首狩り戦術により稼ぎに稼いだドローカウントを連打して、リザナの電貨を削りに削る。この勝負を終わらせるには、金剛石の岩盤を掘り抜いて、もっとも深い場所にあるエンディングまで届かなければならない。途中で放り出せば、当たり障りのない結末になるだろう。それだけは赦さない。敗者にはふさわしい末路がある。狭山新二のように。山崎介地のように。
 そして真嶋慶のように。
 そのためには、リザイングルナの切札を突き止めなければならない。この電流刑戯で撃ち損じはありえない。必ず当てる。それしかない。
 そのためなら――どんな手段も肯定される。
 すべてを思い通りにするために、慶はカードを引き続ける。
 幽霊船に眠る金銀財宝のごとく、慶のこの戦術でドローカウントは尽きることなく補充される。初手五枚を捨て、あらためて引いてきたヘッド以外のすべてを破棄する。それだけで追加ドローで一枚引くための6カウントは達成できる。
 つまり、1ゲームに一枚、確定で引ける。
 なんの情報も与えずに。
 当然のような顔をして。
 斜向いに腰掛けている彼女は、亡霊と戦っているような心地だろう。
 どれほど吠えても、どれほど決意を固めても、真嶋慶の切札が読めない。
 それを読むための唯一の道筋を慶は消し去ってしまった。カウントを稼ぐために自分の切札を手札に貯める、その残光を追跡するのがこのゲームの命髄だ。それを放棄した真嶋慶の切札を読むことはもはや常道では不可能に近い。
 鏡に映る相手を探しているのに、相手を見つけて追いかければ、それは必ず鏡でしかないのだ。実体はどこにもない――ただ走り続け、誤答を繰り返す。
 それがツキにも見放される要因なのか、リザナの手は振るわない。むしろどんどん悪くなる。
 正しくカードチェンジをしているはずなのに、間違った捨て札選択はしていないはずなのに、片手落ちの一発勝負でヘッドばかり引いてくる真嶋慶の天地万雷の荒業に、リザナは為す術もなく負け続けている。それが焦慮の証となって、彼女の首筋を汗で濡らしている。顔から闘争心は脱けてはいないが、それでも手元のチップは誤魔化せない。
 慶はまた追加ドローするためにヴェムコットに指で合図した。耳でも貸せと呼ぶかのようなその仕草で、ヴェムコットはカードを流す。慶はそれを見もしない。わかっているかのように――カードが開かれる。
 リザナが負けた。
 もう何度目か、彼女もわからなくなりつつあるだろう。
 追加で引いたヘッド・カードを慶がリザナの前まで放ると、彼女はそれを手に取って、矯めつ眇めつしていた。
 噛みたいのを我慢するかのように唇が震え、やがてそれも飲み干して、エンプティを見る。どんな末路になろうとも、彼女にカードを配るのはエンプティだ。
 次のゲームを。
 敗者が要求できるのはそれだけだ。
 そう――負けたやつには何もない。
 慶が産まれてすぐに学んだのは、負けるようなやつは生きていてはいけないということだ。
 弱いやつは存在してはいけない。
 弱肉強食など生温い、勝てない脆さとは、信頼されないこと。存在するだけで害悪や不正を引き寄せる。幸運の女神こそ、誰よりも奇跡を待ち望んでおり、不運や劣等を嫌悪する。それは自分自身を映す鏡だから。
 この世とあの世でもっとも美しい鏡があるとすれば、それは自分が映らない鏡だろう。理想郷はそこにある。
 父親がよく言っていた。
 弱いやつには、呼吸する権利すらないのだと。
 慶もそれに同意する。賭博師として見てきた世界では、たったひとつ、それだけが法律だったから。
 弱ければ、誰の瞳にも映らない。相手にもされない。誰もが強さを求め、技能が言葉をつくり、過程や方法など考慮するにも当たらないほどの価値さえあればそれでいい。金と奴隷と力と勝者。賭博師の両手はそのどれをも乗せようとする天秤で、そしてそれを掴もうとして、自分が誰かの天秤の上に乗せられる質草に成り果て落ちぶれる。
 その繰り返しだ。
 出口などない。
 だから、勝つしかない。
 そして勝つしかなくなれば、負ける。
 ――この矛盾を、リザナは越せない。
 自分を救おうとする何者かの救助船がなければ、彼女は永遠に真嶋慶に勝てないだろう。
 彼女は必死に今、勝機を探っている。
 数えなくてもいい電貨の残高を数え、しなくてもいい後悔と反省の袋小路に陥った。
 もっとうまく勝負できたんじゃないか、もっと自分に機転が利けばヘッドしか引かない真嶋慶の謎が解けるのではないか、もっとうまく、もっと上手に、もっと器用に、もっと、もっと真剣になれば――

 そうはいかない。
 神様は、そんな奇跡を壊すのが大好きなのだ。

 だから、それほど一生懸命になればなるほど、全身全霊を尽くせば尽くすほど、鋼のように硬く鋭い決意を固めれば固めるほど――見抜かれる。ドローカウントが貯まってしまえば、逃げられない。
 それは、もう一枚、引けるという誘惑。
 このボディポーカーの根幹に巣喰う鬼。
 ――考えてもみればいい。
 勝負の最中、あと一枚引けば勝つ。勝利を拾える。そんな時にカウントが貯まっていれば、いくら冷静になろうとしてみても、引くかどうかを考慮しないプレイヤーはいない。
 たとえこのポーカーゲームが電気椅子で相手の切札を当てるための前哨戦だったとしても、5000の参加費を毎回抜かれて負け続ければ相手に撃ち込む電流がない。
 ならば、たとえ切札を看破されるリスクが多少は増えたとしても、目先の勝利を拾っておくのも悪くない。
 それにもう、相手がここまでレートを上げてくれるチャンスはないかもしれない。適当に誤魔化されて、途中の回からポーカーそのものを消化試合にされてしまうかもしれない。
 そう思えば、勝負どころはずっと先などではなく、この今、この瞬間にしかない――



 間違ってはいない。

 正しいかもしれない。

 だが、それは賭博師には通らない。



 そんな逡巡を見せ、引く気を匂わせたが最後、もう取り返せない。一度看破されたら、その確信を相手に捨てさせるのは不可能だ。そこで終わる。引き返せない。
 そして、それは同時に、引ける時に引こうと迷うやつが、引けない時には躊躇うわけがないということでもある。引いてもおかしくない場面で「引く」と感じさせない――引ければ引きたがり、引けなければ諦める、それでは見抜くなという方が難しい。
 だから慶は首狩り戦術を繰り返すのだ。
 わざとこちらの手札を圧迫すれば、相手はオリない。
 攻めてくる。
 レートは上がり、引くに引けない。いたずらにカード・オープンを繰り返し、リザイングルナは手札を曝け出す。
 配られた五枚と、チェンジで得た数枚から甘やかされた確率の元に組み立てられた裸の手札を、四人が見ているテーブルの上に。
 リザナは破棄せず、純粋にカードチェンジで慶より強い手札を造ろうとしている。
 同じ破棄戦術では、スペックの高い方が勝つ。それを自分だと思えるほどに、リザイングルナは自身に自惚れられないはずだ。真嶋慶の知っている彼女は、そういう彼女だったから。
 ゆえに。
 慶は脅し続ける。
 リザナが使いたくても使えないドローカウントを紙くずのように使い倒し、暗闇の手札を積み上げ続ける。
 本当にすべてヘッドなのか。今度こそブラフではないのか。
 ルーレットは慶に黒しか出さない。だが、それでも盤には赤がある。
 賭けるかどうかは自分次第だ。
 もう一枚引けば――慶の手が本物のヘッド・セットであろうとも、それを上回る手をリザナはいつでも造れる。このボディポーカーは手役のランクが接近しやすい。剃刀一枚の差で勝敗が割れる。だからこそ、追加で引ける一枚には値打ちがある。すべてをひっくり返せる、手製の魔法。それをかけたいと思うかどうか。
 慶は知っている。
 何かを諦めた時、言いたいことを飲み込んで、相手の出した条件や、偽りの約束を信じるふりをする時、彼女はいつも少し俯き、柔く微笑む。すべてを悟ったような唇の表情。そして視線を逸らし、現実から、自分自身から顔を背ける。だからわかった。今度も同じだ。













 彼女の切札は、右腕だ。



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