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悪霊/善性

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 電気椅子がある。
 鋼鉄製の、複雑な装飾などはない簡素な椅子だった。電球の灯りを冷たく反射して月光のように照り返している。赤子の首輪のような革製のリングは、手、足、首の枷だが、どことなく品があり、残酷な処刑具というよりは厳しくも凛々しい女教師のような気配がある。枷から垂れた銀の鎖も、座った人間をどこか正しい道へと引き戻そうとしているかに見える。だが、その鎖は高圧電導の経路でしかなく、そこに座ったが最後、叩き込まれることといえば敗北だけだ。誰もが希望を求めてそこに腰掛けるが、立ち上がったときにはすべてを失っている。まるで人生のように。
 蒸気船“鹵獲された雄”号の中枢区画に、その電気椅子はあった。湿気を弾く石畳の部屋に、二つの人影がある。一つは、黒と白のコントラストでまとめられた女給服を着た金髪の少女。頬に蜘蛛の巣のような入れ墨があり、笑うとその模様が一つとして同じ形に見えない。彼女はもう一人の、赤いシャツを着た青年に身振り手振りを交えながら何かを話していた。赤シャツの方は、よくこんな陰気な場所で口にできるものだが、ハンバーガーを頬張っている。時折、梁から滴る水滴をかわしながらバンズをもぐもぐとやり、女給服の少女の話を聞いているのかいないのか、頷いたりすっとぼけたりしていた。

「――ですから、いいですか? 慶様。ここまでのことで、何かご質問はありますか?」
「ああ、エンプ。ちょうどよかった。俺って、なんでここにいるんだっけ?」
「…………」

 小首をかしげてどこから殴ろうか吟味しているような剣呑極まる表情になったエンプティに、慶は「どうどう」と両手を突き出した。まだ若く見えるが、指先を相当使い込んだ跡がある。

「わかってるって、みなまで言うな? 俺は真嶋慶、死者を生き返らせてくれる蒸気船のお荷物(バラストグール)。これでも天才賭博師で、蘇生のための肉体(パーツ)の守護官(フーファイター)を連戦連勝で打ち破り――」
「――連戦連勝で打ち破り、これから六つ目のパーツを賭けて最後の決戦に挑むのですから、もうちょっとまじめにですね、辛気臭くやってください。こっちにもムードというものがあるんです」
「おまえふざけんなよ、俺がまじめにやれると思うのか?」
「……もういいです。おやつ抜き」冷酷に断罪してから、エンプはため息をつき、
「慶様、わかっておられると思いますが、このゲームは過酷です。なにせ、勝負の最中に『魂を灼かれる』のですから」

 エンプティは、二人の間で観客と化していた電気椅子に視線を落とした。

「敗者に罰ゲームを加える遊戯というものは、古今東西多くありました。ですが、これはどちらが先に、対戦相手の魂を灼き切るかという勝負。もちろん、灼かれずに済む可能性はあります。それは当然」ちょっと視線を泳がせ、何か言いよどみ、頬を掻いたり吐息をついたり、
「……自称天才の慶様のことですから、万が一にも直撃を喰らったりするなどと、このエンプティ、考えちゃいません。ええ、そうですとも。わたしと慶様の永い付き合いですからね。それはもう全然信じてます。たぶんいけるっしょ、です。ですが、それでも……覚悟だけは、しておかなくてはいけません」
「覚悟だけしたやつが自殺した小説を誰かが書いてたよな」
「茶化さない。……慶様、本当のところ、どうですか。灼かれる覚悟、ありますか。ないなら……特訓でも、慰めでも、いくらでもしてあげます。勝負まで、あと六時間。それまでに、決心なさってください」

 エンプティは、これまでの長い戦いの間、ずっと慶に注ぎ続けてきた信頼と戸惑いの綯い交ぜになった青い瞳で、彼を見た。
 慶は、電気椅子から伸びている鎖を拾い上げた。それを手繰っていくと、慶の水月あたりまでの高さにある石柱に辿り着く。それは台座であり、鎖の先はその上に置かれた、拳銃のようなものに接続されていた。ただし、銃身がない。
 慶はその銃(?)を取り上げて、ガチャガチャといじくった。もともと、取扱説明書など見ない男だから、触らないと解らないのだろう。やがてその親指が、銃把の瘤になった部分、膝小僧のように膨らんだところにあるリールに落ち着いた。そこには四つのリールがあり、スロットゲームのように回転させることができた。ただし横に、だが。
 慶の親指がそれらを回転させていくと、どのリールも同じ絵柄が並んでいることに気がつく。順番に、頭部、胸部、右腕、左腕、右脚、左脚。六つの絵柄が続いている。それは慶がこの賭博蒸気船で掻き集めてきた肉体の部位と符号していた。慶に足りないのは、あと一つだけだ。
 引鉄を引くと、カツンと軽い手応えがあった。ひっくり返してみると、銃把の中が空洞になっており、臼歯のような機構がそこに収まるべき何かを欲していた。

「マガジンか何か、入れるのか?」
「ええ。そこにはバッテリーが入ります。準備ができたら、四つのリールを回して、相手のどこを狙うかを決めます。六部位のうち、どこかに『本命』があり、それ以外の部位は絶縁防御されていますから、電撃は流れません」
「つまり、四つまで、好きなところを狙えるってわけか」銃把を構えながら、慶は右目をつぶってみせる。
「たとえば、このリールを全部『右腕』とかに突っ込んだら、どうなる?」
「その場合、装填されている電撃の最大出力が相手へと叩き込まれます。逆に、四部位まで拡散させて狙ってしまうと、電圧が低下し出力が落ちます」
「……どれだけ電力を稼いだって、外せばパァ」
「手堅く当てるか、大きく張るか」

 エンプティは嬉しそうに背伸びをした。

「いつもみたいですね、慶様」
「そうだな、いつもと違うのは、……これで最後だ、ってことだ」

 慶は台座に銃把を置いた。後ろ手を組み、ニコニコと微笑むエンプティを見やる。その目は悪霊と同じ玉蟲色に輝く、紅かと思えば蒼によろめき、翠が奔ったかと思うと金色に染まる。だがそのときは、夕陽のような橙だった。

「エンプティ、おまえ、俺に見つけられて嫌じゃなかったか?」
「なんで?」
「なんでっておまえ、そりゃあ……」
「たしかに慶様はワガママです。時間に起こせっていうから布団ひっぺがしたら怒るし、ベッドから蹴り落としたら怒るし、朝ごはんを苦手なもので揃えると怒るし、掃除に使ったハブラシをコップに戻しといたら怒るし、靴を逆に並べておくと気づかないで行っちゃうし」
「おまえ俺に恨み貯めすぎだろ」
「でもね、慶様。わたしはそんな、ワガママな慶様が好きです」

 こつこつ、とワークブーツの爪先で、エンプティは石畳を叩く。これから踊りにいくような咲き誇る笑顔。

「だから、勝ってください。あなたは、そのためにここに来たのですから」
「なあ、エンプ」
「なんです?」
「おまえって、本当にいいやつだよな」



 慶は笑った。エンプティも笑った。
 誰の気配もしなかった。

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