トップに戻る

<< 前 次 >>

「It's My Life」BON JOVI

単ページ   最大化   

動画はこちら
https://youtu.be/vx2u5uUu3DE
和訳付き
https://youtu.be/SLD-da-C3d4

関連話
「WALK!」The Mad Capusule Markets
http://neetsha.jp/inside/comic.php?id=21721&story=26


 娘の通う市立マッドカプセルマーケッツ小学校の運動会に行ってきた。コロナ禍の中、午前中で終わりの短縮プログラム、保護者観覧は二名のみ(就学前の子供を連れて行くのは可能)というものだった。運動好きではない(というより、競争だとか、皆と同じ動きをしなければならない、というのが理解出来ないのだろう。私に似て)娘のココは「九月に戻ればいいのに」とぼやいていた。そうすれば運動会本番を永遠に迎えなくていい、という事だろう。そうなると今度は運動会に向けての練習をいつまでもしなければならなくなるが。

 プログラムの切り替えや、お茶を飲むタイミングを促す際に、BON JOVI「It's My Life」が度々流れていた。

 一年生の50メートル走の後、早くもココ達二年生の演技が始まる。昨年は時間があったのでFoolin「パプリカ」、マッドカプセルマーケッツ「WALK!」と二曲演れたが、今年はドラえもんのオープニングテーマだけである。猫の手の形をした手袋と、猫の尻尾をつけて、ココが踊っている。やる気は全く無さそうに。昨年はインフルエンザで一家全滅からの回復直後という、かなりの悪コンディションであったが、もっとやる気はみなぎっていた。ココにすれば「今さらドラえもんですか」という感じなのだろう。家ではアメリカのオルタナティブ・ハードロックバンドSystem Of A Downの曲やら、アニメ「銀魂」の歴代オープニングソングに合わせて踊ったりしているのだから。

 サクサクと演技は進み、また「It's My Life」が流れる。二年生達が座っている席の後ろからココにねぎらいの言葉をかけ、開放されている体育館へ妻と息子の健三郎とで向かう。ミニカーを使った長いレースが始まる。

 先日、私の勤め先で働く従業員とこんな話を交わした。
「地に足着けたら、死んでしまう」
 彼とは十年以上の付き合いとなる。今の勤め先への日雇い派遣常連から脱出して自社バイトとなった先達である。彼の数カ月後、私も同じ道を辿った。その後の会社拡大路線の中で、私は運良く社員登用されたが、年齢が一回り上の彼は、どれほど責任のある仕事を与えられ続けても一従業員であり、残業時間が一人突出していた存在であった。私もいろいろ部署を変遷してきたが、彼も諸事情あって、私と同じ所に来た。働き方改革で残業時間も減り、現在の彼の手取りは十二、三万にまで落ちたとか。若い頃は某社の海外部署で働くやり手だったとか。かつて私も彼の手助けで機械を直してもらった事が度々あった。
「残業代減ったと言っても、社員なら○百万は年収保証されてんのやろ」彼と金の話なんてした事無かったのになあ、と思う。お互い日雇い派遣時代、梅田にあるビルに直接給料を貰いに行っていた。そこは顔馴染みの常連達と情報交換の場でもあった。どこそこは楽だ、どこそこはもう仕事を貰えないらしい、今度の大口募集どうする? みたいに。夢の途中の若者やら、とにかく日銭が必要な者達や、自ら足を踏み外したもの達や。
 彼はビルから出た後パチスロ専門店に入っていった。
 年齢は一回り違うが、偶然誕生日も血液型も同じ。ハードロック系の洋楽の話も出来た。最も、ブリティッシュ・ハードロックを基盤に置く私と、モトリー・クルーやガンズ&ローゼスなどがメインの彼とは少し毛色が違った。

 BON JOVIのベスト・アルバム「CROSS ROAD」がリリースされた1994年、中学二年生だった私は洋楽のかじり始めの時期であり、友人に借りてカセットテープに録音して聴いていた。翌年に発表されたアルバム「These Days」から、タイトルチューン曲を初めて組んだバンド仲間(ライブに至らず解散)で練習した。その後初めてライブをした、面子も選曲も寄せ集めのバンドで「You Give Love A Bad Name」をコピーしたりするのだが、だからこそ、というべきか、その後BON JOVIを積極的に聴く事はほとんどなかった。好きな曲はあるし、ジョンの声質は大いに好みであるのだが、王道の曲調だとか、寄せ集めバンドの決して良いだけではない思い出なども邪魔をした。
 Spotifyを始めて久しぶりに聴いたBON JOVIの曲は2018年発表の「This House Is Not For Sale」で、いたく気に入り、音楽小説もこの曲で書こうと思いつつ、決定的なアイデアは出ないままでいた。

 そんな中、娘の運動会で流れた「It's My Life」で様々な事を思い起こした、という話。何より、昨年の運動会の様子を書いた「WALK!」からもう一年も経っている事に驚いた。

 プログラムは進む。三年生と四年生の合同演技はAnthrax「Indians」に乗せて行われ、今年は組体操は無くなった五、六年生達は人間椅子「無情のスキャット」に合わせて暗黒舞踏を舞い踊る。手足の先にクロアゲハが鱗粉を落とす。息子の健三郎は運動場の砂場いじりに夢中で演技を見ていない。

 今年は赤組白組の勝ち負けはない。Limp Bizkit好きの教頭先生がテンション高く生徒達の頑張りを褒め称える。ココのあくび姿が遠くに見えた。

 実家のマンションに暮らしていた頃、私は長く生きるつもりはなかった。払い切れるあてのない実家のローンを引き受けるつもりはなく、自分の書く小説が、多くの金を生み出す類の物ではないと自覚していた。三十歳頃に自殺する未来を何となく描いていた。
 長年勤めたバイト先が潰れて、時折日雇い派遣で働いていた頃、真夏にマンションの外壁塗り替え工事が始まり、クーラーのない部屋から脱出する為に、日雇い派遣のアルバイトを連日続けた。その後常連になった派遣先に勤め始め〜という流れは以前何処かで書いた。
 私は自分の人生を仮の物だと感じていた。妻子が居て、働き場所もありながら、こんなはずはない、と。自分は今でも実家の古本だらけの部屋で四十近くなってもダラダラ生き延びているのではないか、と。三十歳になり何もかもがどうでも良くなり、自分から行動して来た結果、今がある。それなのに、能動的に動き始めた時期以降はずっと夢の中であるような。
 
 それはここで虚実交えた私小説風の小説を書いている事も影響しているのかもしれない。
 本当の事を書こうか。
 娘の通う小学校の名前は、マッドカプセルマーケッツ小学校では、ない。

 全て含めて、自分の人生だ、とふと気付く。娘の運動会で流れる「It's My Life」を聴きながら。幸か不幸か良くも悪くも全てひっくるめていつの間にやら、自分の人生を生きていたんだ、と。

 運動会で頑張ったご褒美として(出たくもないけど休まずやりきった感の頑張り)、目星を付けておいたおもちゃのピアノをリサイクルショップに買いに行く。途中で、ヒッチハイクを求める老婆を見た。交差点を行き交う車の群れが止まるはずはないのに、親指を立てて彼女は何処かへ向かおうとしていた。数十年前にそうして拾われた記憶がそうさせるのだろうか。
 お婆さん、何処へ行くんだ。
 あなたの人生は、そこにあるのに。

(了)

79

泥辺五郎 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

<< 前 次 >>

トップに戻る