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「Do you remember」宮本浩次

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https://youtu.be/Lx8wi-FaMvY
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作曲、ギターはHi-STANDARDの人。

 ガスは引かない。引く必要がない。理由がない。真冬に体を水で洗う。三日に分けて部位を変えて洗えば凍え死ぬ事もない。意識を「寒さ」から離せば寒く感じる事もなくなる。長く続けると意識が遠のく事もある。眠気だ、と断じて一郎は風呂場を出る。スーパーマーケット「ライフ」で買ってきた安くなっていた鶏肉で水炊きを作る。卓上電気コンロの電源を入れる。部屋の寒さ対策は一つだけ。「我慢する」。

 昨年オープンした「ライフ」のある敷地には、以前ローソンが建っていた。潰れる前に一郎はそこで雇われ店長をしていた。末期にオーナーから支払われなくなった給料、店の裏にあるゲイ専門の風俗店からやって来る、覚醒剤中毒で、精液と大便の臭いのこびりついたボーイ。周辺に乱立する、ゲイ専門以外の風俗店。ホテルで客の精液を受けた風俗嬢達が仕事の帰りに一郎の店に寄り、体内に残る臭いを隠し切れていない。不幸にも嗅覚の鋭い一郎は全てを嗅ぎ分けられてしまう。客から顔を背けるなんて店長失格だ。レジに来た女性が申し訳なさそうにしてしまっている。違うんです、一郎は心の中で謝る。違うんです、悪いのはあなたじゃなくて、この世界なんです。俺はもう、現実では興奮出来ないんです。

 ローソン閉店後、一郎はゲイ専門店の警備員に誘われたりもしたが当然断り、FX取引を始めた。それだけでは食えず、午前は取り引き、午後からは別の仕事を始めた。昨年の正月、福岡の実家に帰省した際に、自分で衣食住を考えないで済む生活に甘え、慣れてしまい、母親の「戻っておいで」の言葉に素直に頷いた。夏まで今の職場で働き、秋には戻ろう。一郎のその思いはコロナで潰れた。あてにしていた実家近くの職場は軒並み仕事が無くなり、帰っても働き口はない。かつて一郎に酷いいじめを繰り返した同級生の大勢暮らす故郷に、働くあてもなく帰るより、今の職場に居れば収入は保証される。母親もあまり帰って来いとは言わなくなってしまった。

「泥辺さん、あけましておめでとうございます」
「今年もよろしくお願いします、一郎さん」
「元旦は大変でしたか」
「一度も家族の起きている顔を見ることなく終わりました」
「今日もまさかそんな遅くなるとか」
「大丈夫、今日は一郎さんがいるから」
「いやいや俺なんて」
「また濃い話を聞かせて下さい」

 一郎のアルバイト先で働く泥辺という社員は一郎の昔話を聞きたがる。うっかり臭気の話をしたせいかもしれない。「本や映像からでは臭いは体験出来ないですから」人の貧乏話を嬉しそうに聞いていやがる。同じ歳だという。人のいない正月三が日、各部署のトラブルの最終的な尻拭いを押し付けられながら、どこか楽しそうにしていやがる。ドMを通り越して人間ではない、と周囲に言われて笑っていやがる。

「アパートの大家さんの話なんですけど」
 下水が詰まって溢れ出した時の話を聞かせる。大家は業者を呼ぶのは金がかかるからと、汚水に手を突っ込んで詰まりを解消しようとした。運悪く、その直前に軽い切り傷を腕につけてしまっていた。傷口からばい菌が入り、腕を切断しなければいけない大惨事となった。
「そういう話を聞きたかった」
 無情に転がる現実の不運、不幸、惨状を集めてこの男は小説でも書くのだろう、と一郎は思う。一郎が帰りの電車の中でわけもなく泣き出してしまった事やら、酒を飲んだわけでもないのに、ガードレールにもたれかかって動けくなった事は話さない。
「小さい頃の話とかないですか」
 思い出せ。もっと不幸な話を。クラスメイトから受けた陰湿な嫌がらせ、あるいは直接的な暴力を。
「ところで泥辺さん、俺の名前は一郎じゃなくて太郎ですよ」
「本名はまずいかなと思って」
「絶対いい死に方しませんよね」
「分かってますよ」

 また別の日。
「泥辺さん、○○の数字まだですか」
「もうすぐ出るからちょっと待ってて。一度下に戻るほどではない」
「はい」
「そういえば水炊きの話ですけど、ガスを引いてないから、カセットコンロですか?」
「電気コンロですね。やっぱり火力が物足りないから、肉を焼くには向かないです」
「あと、実家は九州のどこでしたっけ」
「福岡です。でも育ったのは三重なので、故郷感はないです」
「あ、○○の数字出たので印刷します」
「なんで聞くんですか、コンロの話とか」
「細部を詰めておこうと思って」
 俺が明日野垂れ死にしても、俺という人間の記録だけを残しておくためだろうか、と一郎は思う。ならば何もかもを記憶しておけ。いつでもどこでも俺の事を思い出せ。お前がへらへら笑って引き受けている重荷に、一秒も耐えられない人間だっている事を理解しろ。まともな神経でいる限り狂わざるを得なくなった人間達の事を思い出し続けろ。

 激しい言葉は表には出さず、一郎は愛想笑いで日々を切り抜けている、と自分では思っているが、周囲の人達はとっくに彼の隠し切れていない狂気に馴染んでしまっている。
「泥辺さん、僕に与えられた仕事は全部片付いて、五分ほど時間余ったんですけど」
 パソコンに何かのデータを打ち込みながら泥辺は応える。
「何か一郎さんの濃い話を、お願いします」
「またですかあ」
 治安の悪い街を歩いていた時に、たちの悪い集団に囲まれ、理不尽に五円硬貨を飲まされた話を、一郎は始める。

(了)
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